煽る

8月の「月記」を書く。←居直った。(-。-)y-゜゜゜

・最近目にして興味をひかれたニュースが二つある。一つはコレ。
https://j-town.net/tokyo/news/localnews/293561.html

日本国民なら今月一度は目にしたであろう常磐自動車道で起きた「煽り運転殴打事件」のシーンを描いてあり、私はしばらく笑いが止まらなかった。この中学生のセンスは素晴らしいね♪ もちろんこの事件自体は笑いごとなどではなく、怖いやら腹が立つやらで、わが家もドライブレコーダーの導入を真剣に考えているところである。

気味が悪いのは、この事件の容疑者が警察に連行される際のわけのわからぬ往生際の悪さと(何だよ、手をつなぎたいって……)、その後の妙に弱々しい表情とであった。もっとふてぶてしい輩かと思っていたら、なんだかガッカリしてしまうくらいに弱い人間だったという印象があった。専門家によると、この煽り運転の加害者は非常に被害者意識の強い人間だったようだ。昨年には12時間もタクシーを無理やり走らせ、周りの車に煽られたと110番通報を繰り返したこともあったとか。これはもう被害妄想というものだろうけれども、そんなに煽り運転を怖がっているのなら車を運転しなきゃいいのにと思う。

ワイドショーなどでは、知らぬうちに自分も煽り運転ととられるような運転をしている危険性もありますね、と全てのドライバーに注意を喚起していたが、それはまた別問題と思う。煽られたと感じたら煽り返すほどに怒りを瞬時に爆発させる人間はそんなに多くはないはずだと信じたい。

・もう一つのニュースはコレ。
https://www.buzzfeed.com/jp/sumirekotomita/mainichi-senryu

「台風も日本のせいと言いそな韓」という川柳を仲畑清志氏が優秀作品に選んだことに関して批判が殺到し、掲載した毎日新聞がウェブ版記事を削除したというもの。嫌韓を煽っているのか?!ということで批判されたようだが、「台風も日本のせいと言いそな“文”」だったらOKだったかもしれないなと思う(笑)。

そう思うくらい、なんだか最近、前にも増して無茶苦茶なことを言っている気がする韓国の大統領。「一度の合意で、過去の問題を終わらせることはできない」って何?ケンカ売ってるとしか思えないんだけど。過去の両国がやっとの思いで到達した日韓請求権協定を反故にすることは、当時の韓国の政治家をも虚仮にすることになると思うのだが。

嫌韓はいけないと主張する日本人がいるのと同じく、なんでもかんでも反日に結びつけるのはいけないと言う韓国人も多いと聞く。朝鮮半島統一を悲願とする文大統領の心意気には感じるものもあるが、反日感情で韓国をまとめようとすることは愚かなこととわかってほしい。

そして、腹が立つのももっともだが、日本のマスコミが嫌韓の方向へ煽ろうとしているのなら、それもほどほどにしてもらいたい。どこかから圧力でもかかっているのかと思うほどに、韓国の動きをあざ笑うような論調に終始するのは見苦しい。

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『小説ブラック・ジャック』

お気に入りの小豆キャンディを舐めながら『小説ブラック・ジャック』(瀬名秀明著)読了。まさに至福のひとときであった!

手塚の公式ページにて「週刊少年チャンピオン創刊50周年プロジェクト」として当該図書が発売されると知り、発売日に書店に行くも入荷が遅れるとのことで、予約して待つこと数日でゲット! 大事に大事に読み進めて本日読了。原作どおりのBJ先生に会えたのが嬉しくてたまらない!

帯の惹句には「現代科学・ホラー作家の代表格 瀬名秀明の書下ろし小説で『ブラック・ジャック』が蘇る」とある。瀬名氏の作品は『パラサイト・イヴ』しか読んだことがないが、あれはめちゃくちゃ面白かった♪ だから、その瀬名氏がBJを手掛けてくださったということだけで期待値MAXなのである♪

収録されているのは5編。同じく帯から各編の紹介を。

---医学界に一石を投じるヒューマンドラマ!

第一話「B・J vs. AI」
 医療ロボット技術は日進月歩。遂に自律型AIを搭載した医療ロボットが完成。その開発チームの医師の言葉は、あたかもB・Jへの挑戦状だった!

第二話「命の贈りもの」
 フライト前のB・Jに、青年は「弟は、いまも一四歳のままです」と言った。iPS細胞の新たな可能性を信じ、時が止まった命と対峙するB・J。

第三話「ピノコ手術する」
 ある夏届いた手紙に誘われ、中東の街を訪れたB・J。同時期、遠く離れた診療所の中、留守番するピノコの目前で小さな命の灯が消えかけていた!

第四話「女将と少年」
 B・Jの友人で医師の手塚は、中学生の息子を持つ行きつけの呑み屋の女将が心配だ。わが身を顧みず働く母を思い、息子から手塚に驚愕の提案が。

第五話「三人目の幸福」
 母の仇かつ身体と心に消えない傷を残した男の居所を掴んだB・J。たどり着いたその場所で、「死神の化身」と呼ばれる男、ドクター・キリコと遭遇。---

以下、できるだけネタバレしないように簡単に感想を書いてみる。

第一話「B・J vs. AI」
昭和以来のBJファンにとってどうしても心配になること、それは……進歩した医療ロボットがあればBJのような天才外科医は要らなくなってしまうのか?ということだ。海堂尊の「ブラックペアン」のドラマ版にはスナイプという医療機械が出てきたが、機械のアーム同士が邪魔で作動域が狭くなり、結局ヒトの力のほうが勝っていた。この話も同じようなオチになってしまうのかなぁと思いながら読み進めると……。「そうか。そうだよね!」と思わせてくれる納得の結末となった。後から思い出したが、原作の「U-18は知っていた」でも、BJと機械の相性はそんなに悪いものではなかったなぁと。第一話でBJ不要論はきれいに払拭された\(^o^)/

第二話「命の贈りもの」
兄弟愛の強さは原作「#19 木の芽」を、病名からは「#70 からだが石に……」を思い起こさせるが、ベースとなっているのは「#117 未来への贈りもの」である。タイトルも似ているね。私は「#106 浦島太郎」のようにはならないでくれよと、祈るような思いで読んだ(笑)。冷凍されていた弟が現代に目覚めるのが前半の山場とすれば、後半の山場はアノ人! びっくりした! ここは秘密にしておくが、今後この本が文庫化されたときの解説を書いてくれるのはきっとこの人だ(笑)。楽しみだな♪
それにしてもこの第二話におけるBJ先生の年齢はどれくらいだろう。計算すると50代~60代になるのではないかと思うが、私の脳内ではBJ先生はやっぱり原作どおりの姿で再生されている。ここはひとつ永遠に年をとらないサザエさん方式ということで……(笑)。

第三話「ピノコ手術する」
中東の町を行くBJはOVA版「カルテVII 白い正義」を彷彿とさせる。地雷原だろうとテロ頻発の国だろうと患者がいればBJはどこへでも出かけていく。この話でキーパーソン(?)となる患者は犬なのだが、同じころ留守宅のピノコの元へも怪我をした犬が運び込まれる。さあピノコどーする? ピノコの大奮闘が愛おしい一作で「#228 台風一過」のような読後感。そしてトロ子はどこへ行ってもトロ子。┐(´ー`)┌

第四話「女将と少年」 
手塚医師が主役の一編。「#127 執念」がベースかと思うが、女将と少年すなわち母と息子の愛情という点では「#41 植物人間」をも思い起こさせる。幕切れはほろ苦いけれども、懸命に生きることの素晴らしさを知って、このさき誰も後悔なんかしないだろうなと思えた。

第五話「三人目の幸福」
私事だが、以前にBJの二次創作をしていらっしゃるMさんのサイトのキリ番を踏んだときに「母の仇を見つけたBJ。その前にドクター・キリコが現れて……というお題で書いてください」とお願いして書いていただいたことがあった。第五話がまさにそれ!びっくりしたぁ~!Σ(・ω・ノ)ノ! もちろんMさんのお話と瀬名さんのお話の結末はまったく違うということは書き添えておこう。 
この話はネタバレしないと感想が書けそうにないので、……感想は書かないでおく(笑)。こういう行動に出たキリコの心理、あるいはBJとキリコの関係性を考えると、本当に興味深い、とだけ。

簡単に感想を走り書きしてみたが、医学に明るい作家さんが描くBJはなんだか安心して読めた。令和の世になってもBJの存在感は抜群だったのが嬉しい。原作を知らない読者にも面白く読める内容だと思うが、「チャンピオンで読んだ」なんていうお遊びのセリフもあったりして、それはそれで楽しい。そして、そうそう、ラストシーンは岬の家から夜空をながめるBJとピノコだったことを書き留めておこう。うん、やっぱり最後は「#185 六等星」だよね♪ このへんも私の趣味にドンピシャで嬉しかった。\(^o^)/

瀬名先生、素晴らしい作品をありがとうございます。続編、待ってますm(__)m

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いま気づきましたが、当ブログのカウンターが50万を超えていました。更新も滞りがちなこのような辺境ブログに足を運んでくださる方がいらっしゃることに、心からのお礼を申し上げます。
ありがとうございます!m(__)m

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B級ドラマ万歳\(^o^)/

昨晩『ルパンの娘』初回を観た。ツッコミどころ満載で面白かった~♪

唐突にミュージカルふうになったときにはどーしていいかわからなかったが(笑)、うんざりする前にぶった切られて終わった。全体的に視聴者の興味のツボを押さえて作られている印象。展開が早くて飽きさせない。ロミオとジュリエットの映画音楽を彷彿とさせる音楽も凝っている。

またキャストが濃いのなんの! みんないい味を出している。特に三雲家の両親のあざといまでの過剰な演技が、逆になんだかカッコいい(笑)。おばあちゃんがちょっと何を言っているのか聞き取れないのが難だが……。

変身シーンは笑えるが音楽とも相まってワクワク感がハンパない。キワモノ出たー!という感じ。加山雄三のブラック・ジャックのオープニングを思い出してしまったことは内緒だ。

原作では両家のおじいちゃんが秘密を握っているのだが、ドラマでもそういう展開になるのかな? そうするとあの人が悪人か、ふむふむ(笑)。いや、でも、最近は原作と違う展開になるドラマも多いからな~、などと比べて観るのも楽しい。ひきこもりのハッカーお兄ちゃんが、実はカッコよくていい奴だというところは是非描いてもらいたいと思う。

今クールのドラマはこれしか観ていないが、当たりだったかも♪ 

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フツーの社会の異常性

5月28日に発生した痛ましい川崎殺傷事件から半月ばかり経った。犯人が自殺してしまったので凶行の動機ははっきりしないはずなのだが、事件後メディアはさかんにひきこもりとの関連を指摘していた。そして、6月1日に起こった元農水事務次官が息子を殺害した事件もその文脈で云々された。ひきこもりは犯罪予備軍であるといった考えは飛躍しすぎだし、危険だ。個別に考えるべき事件を一般化して考えてはいけない。なんともやり切れぬモヤモヤした思いを抱いていたのだが、いまはもう世間の関心はその後に頻発した高齢ドライバーの事故や、老後は年金のほかに2千万円必要!などという話題に移り変わっている。毎日毎日、話のネタには事欠かない……。

世間の関心は目まぐるしく変わるが、ひきこもりの問題について当事者の皆さんの状況はそう簡単に変わるものではなかろう。いまは50-80問題と言われているが、次は60-90問題となってしまうかもしれない。ひきこもりのそもそもの原因は人それぞれでごく個人的な問題だったろうと思う。だから十把一絡げにして一様の方法で解決できることではないとも思う。公的な支援も有効な場合とそうでない場合があろうと思うし、それが理想的な形で永続できるとは限らない。

現象として見たとき、ひきこもりというのはいわゆるフツーの社会に馴染めずそこに出ていくことができない現象を云うのだろう。フツーの社会にはまず家族という小さな社会、そして家族より大きな学校や職場や地域という社会がある(もう一つ加えるとすれば、いまはネットというヴァーチャルな社会もある)。

問題点として見たときには、上記のいずれの場合においても生きていくには金がかかるということがある。フツーの社会においては、人は何らかの経済活動をしなくては食べていくことができない。ひきこもっている子を持つ親がいちばんに心配するのはそこのところだと思う。自分たちは先に死ぬ。残されたこの子はどうなるのだろう……。ひきこもっている本人とその家族の将来に対する不安はいかばかりかと思う。

ひきこもりの人の多くは、たぶん他の大多数の人間より繊細で内省的なのではないかと思う。人と交わらないから(いや、ネット社会では交わっているのかもしれないが)、彼らの思いや思想は世の中に伝わらない。でも、彼らの頭の中にはフツーの社会の人には及びもつかない深遠で高邁な思想があるのかもしれない。偉人伝など読むと、たいていの偉人は子供の頃は劣等生だったり、周りの人から理解を得られない性格だったりする。いまひきこもっている人たちの中に、すごい偉人がいないとも限らない。

現代社会は不寛容だと言われる。自分たちと違うものを受け入れようとしない。自分も人に対して不寛容だが、他人も自分に対して不寛容だ。無理して周りに合わせようとしてストレスがたまる。すぐに炎上するSNS。自分はオンリーワンだ、認めろと願うくせに、自分は他人を認めない。自分の立ち位置を確保するために自分より弱い者を決めていじめる。働けど働けど生活は楽にならず、貧富の差はますます拡大していくばかり。将来に夢も希望も持てない。

ひきこもりの人の多くは、そんな現代社会に疲れ果てた人たちなのではないか。ひきこもらせてしまったのは私たちなのではないか。ひきこもりは私たちの問題でもある。こんな異常なフツーの社会では私自身がいつひきこもりになるかもしれないという可能性も含めて、これは他人事ではない。

ここでふと小栗判官の話の一場面を思い出した。浄瑠璃や歌舞伎の題材なのだが……。豪傑だった小栗は策略によって殺されるが、閻魔大王の計らいで生き返る。生き返ったはいいが腹ばかり膨れた餓鬼の姿で、歩くこともできなければ目も見えず耳も聞こえず口もきけない。熊野の湯に入れば元の姿に戻ることができるということで、餓鬼阿弥と名付けられて台車に乗せられる。「この者を一引きすれば千僧供養、二引きすれば万僧供養」と胸に札をぶらさげられて。東海道を行く人々が少しずつ小栗を引き(途中で彼の妻も夫と知らずに車を引く)、とうとう熊野の湯まで行き着いて元の姿に戻るという場面だ。

道々出会う見知らぬ人々のほんの少しの善意と信心の積み重ねが、小栗を藤沢から熊野まで送り届けるのだ。自力では何もできない餓鬼をひきこもりの人たちになぞらえるのは失礼なことと思うが、ここで私が言いたいのは、こんな八方ふさがりの状況を救えるのは人の善意だけだということだ。家族だけではない、公的援助の人たち、ネットで知り合った人たち、ほんの少しの縁のゆきずりの人でも、小さな力の結集がひとつの方向へ向かえば大きな力になるのではないか。ひきこもりの人たちをいまの社会に出そうと思えば、そういう方法しかないのではないかと思う。

しかし、彼らにとっての幸せはいまのフツーの社会に出ることなのかどうなのかがわからない。上に書いたように、いまの社会は不寛容だ。人は自分以外のものに対してそんなに寛大ではない。

なぜいまの日本にはこんなフツーの社会しかないのだろうかと思う。突き詰めればこの社会には「自分本位」と「経済本位」という尺度しかないように思われる。こんな社会は、ひきこもりの人だけでなくすべての人にとっても住みよいものではないし、はっきり言って異常だ。もっと他の尺度があってもいいじゃないかと思う。

他の尺度の社会……それはたぶん、もっと精神的なことで幸せを得られる社会だ。金がなくても身体が動かなくても、ゆきずりの人の善意で暮らしていける社会。中世日本の小栗判官がそうであったように。人に善意で接することで満足を得られる社会。小栗の車を引いた人々がそうであったように。

おそらくそこには宗教的思想も必要なのだろうと思う。善行を積めば幸せになれるという思想がいまの日本にはない。そんな目に見えないものは信用できないというのが当たり前になってしまっている。ボランティア活動さえ売名や経済活動に結びついてしまうところに、いまの日本のフツーの社会の程度の低さが現れているように思う。

自分と違う人たちを突き放すのではなく、許容できる人間になりたい。どう考えても間違った危険な考えを持つ人たちに「それはここが間違っている」と勇気をもって言える人間になりたい。どうしようもなくて泣いている人に寄り添える人間になりたい。あと少しで立ち上がれる人を応援できる人間でありたい。……そんなふうに思う人が増えれば、きっと社会の尺度はいまとは違ってくるし、ひきこもった人たちも外に出られるようになるのではないかな。

一切の生きとし生けるものは、 幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。---『スッタニパータ』お釈迦さまの言葉より

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ホーランエンヤ

10年に一度の松江城山稲荷神社式年神幸祭、通称ホーランエンヤがきょうから始まった。初日のきょうは渡御祭。私は10時前には大橋川の畔に着いたが、宍道湖に近いほうは既に大勢の見物客がぎっしりだ。結局、新大橋とくにびき大橋の間、北側の護岸に座ってのんびり見物した。


---慶安元年(1648年)出雲国で大規模な凶作となったことを受けて、当時の松江藩主の松平直政が城山稲荷神社の御神体を船に載せて阿太加夜神社まで運び、五穀豊穣を祈願する祭礼を行ったのが起源とされる。---Wikipedia


---最初の神幸祭から160年後の文化5年(1808)の御神幸の折、風雨が激しくなり神輿船が危険な状態になったのを、馬潟村の漁師が救い阿太加夜神社まで無事送り届けた。以来、馬潟村の櫂伝馬船が神輿船のお供を務めるようになり、順次矢田、大井、福富、大海崎の櫂伝馬船も参加するようになった(五大地と呼ばれる)。---ホーランエンヤ公式ページ


本来は五穀豊穣を祈る神事だが、われわれ市民の楽しみは櫂伝馬踊りだ。歌舞伎装束の勇壮な剣櫂、艶めいた女踊りの采振り。ただし船には女性は乗らないので采振りも男性だ。音頭取りの歌声、櫂かきの一糸乱れぬ櫂さばき、綺麗に飾り付けられた船も見ものだ。


伝馬船がやってくると自然に歓声と拍手が沸き起こる。カメラマンがシャッターを切りまくる。私は写真を撮るのも忘れて手が痛くなるほど拍手した。神輿船を伝馬船が護衛し、その伝馬船に市民が喝采を送る。なんだかイイね♪ ただワーワーはしゃぐだけのイベントじゃなくて、それぞれがそれぞれの役割をきっちり果たしながら盛り上がる。楽しかった♪


今回、大海崎の音頭取りさんの声には驚嘆。よく通る声で惚れ惚れした。大井の剣櫂のキレッキレの踊りにも目を奪われた。でも、どの船もみな涙が出るくらい素晴らしかったのだよ♪ 中日祭と還御祭も行っちゃおうかな(笑)。

動画をひとつ紹介。
 ↓
https://www.asahi.com/articles/ASM5L52H2M5LPTIB00F.html

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お代替わりのときに思う

これが令和最初の記事。遅い(笑)。平成~令和の10連休もわが家にはまったく関係なく通常運転の日々であった。しかしそれでもやはりその間の皇室をめぐる行事の模様をテレビで観たり、平成大晦日のカウントダウンなどを聞いたりすると、一つのEraが終わって新しいEraが始まったのだという、何がなしの感傷と気分の刷新を感じたりした。

この間に録画した番組の中では4月30日のNHKスペシャルが面白かった。大嘗祭の有様や故三笠宮の皇室典範改正に対する意見書の存在を知ることができて興味深かったのだが、何より驚いたのは125代の天皇のうち半数以上が側室の子とみられるという事実だった。ことに、過去400年間で側室の子でない天皇は、第109代の明正天皇、第124代の昭和天皇、第125代の上皇陛下のお三方だけだという。

Wikipedia によると「大正天皇が側室を廃止して以来、皇室は現在まで一夫一妻制を採っている(1947年(昭和22年)5月3日に施行された現在の皇室典範においては、天皇および皇族男子の子であっても、施行日以降に出生した非嫡出子は皇族の身分を与えられない。皇室典範第5、6条、附則2項)」。

また、「終戦後のSCAPの政策による伏見宮系皇族の大量の皇籍離脱により、皇族の数が減少」し、現在の皇位継承資格者は秋篠宮文仁親王、悠仁親王、常陸宮正仁親王の3人しかおられない。

となると「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。(皇室典範第1条)」ことは上に書いたような過去の例から言っても、存続することは非常に難しいと言わざるをえない。

番組では男系男子に固執する平沼赳夫氏が「待つしかない。信じながら」と発言していたのだが、何を待つのだろう。将来、悠仁親王に「自然に」男子が生まれることを待つのだろうか……。

つらつら考えてみるに、男系男子でなくてはならないというのは、これは初代神武天皇のY遺伝子がいちばん大事という考え方だ。何としても神武のY遺伝子を残さなくてはならないという思想だ。逆に考えれば、神武のものではないどこかの馬の骨のY遺伝子など、尊敬もできないし国民の象徴としては考えられないということだ。

たぶんこういう考え方をするのは自分がY遺伝子を有している男性に多いのではないかな。神武のY遺伝子を受け継ぎ万世一系とされるからこそそれなりに一目置くけれども、そこらを歩いている男の家系などをなんで尊敬せねばならぬのか!となりそうだ。女性はX遺伝子しか持ってないからそこまでは思わない。

私が考える神武のY遺伝子保存策としては、旧皇族を復活させるのがいちばん手っ取り早いような気がするが、国民の意に沿うようなお方がおられるかどうかは知らない。

あるいは、いまおられる女性皇族が旧皇族の男性と結婚し、皇族の籍をはずれないことだ。たとえば愛子内親王が旧皇族の男系の子孫である男性と結婚し、その際に皇族の籍を保つように皇室典範を変える。女性宮家ということになるのだが、もしそこで男子が生まれたなら、(愛子さまが女性天皇になるかならないかは関係なく)その男子には神武のY遺伝子が存在し、皇位継承資格者となるだろう。

あるいは、平沼氏のように「待つ」。ただしそれは医学の力で悠仁親王に確実に男子が生まれるように、医学の発展を「待つ」。

……だんだん自分が人非人に思われてきた(泣)。世が世なら不敬罪まちがいない。そんなにしてまで神武のY遺伝子は残すべきものなのか……。女性天皇を立てて女系になってもいいような気もするが、その女性天皇ははたして幸せだろうかと考えると、それもわからない。私のような下々の者があれこれ考えても仕方がないし、私が死ぬまではおそらく男系男子の天皇が続くと思うのだが、その後はどうなるのかなぁ。皇室の方々もさぞご心配なさっているだろうと思うと、お気の毒に思う。

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「戦後最大の偽書事件『東日流外三郡誌』」

これが当ブログにおける平成最後の読書感想文である(笑・ただ「平成最後」と言ってみたかっただけ)。「戦後最大の偽書事件『東日流外三郡誌』」(斉藤光政著)読了。

私が最初に『東日流外三郡誌』という文字列を見たのはたぶん30年も昔の新聞紙上、いや、高木彬光の作品でだったかもしれない(タイトルは……何だったかなぁ?)。そもそもこれを何と読むのかわからなかったが「つがるそとさんぐんし」と読むのだと知った。高木氏の作品でははっきり偽書であると書いてあったように思う。当時の私の興味はそこまでだったが、このたびたまたま書店で「戦後最大の偽書事件『東日流外三郡誌』」という何やら面白そうな文庫を見つけたので読んでみた。

---青森県五所川原市にある一軒の農家の屋根裏から、膨大な数の古文書が発見された。当初は新たな古代文明の存在に熱狂する地元。ところが1992年の訴訟をきっかけに、その真偽を問う一大論争が巻き起こった。この「東日流外三郡誌」を巡る戦後最大の偽書事件を、東奥日報の一人の青年記者が綿密な取材を重ね、偽書である証拠を突き付けていく──。事件後見えてきた新たな考察を加えた迫真のルポ。---(文庫版カバー裏表紙より)

読んでいる最中は、なんでこんなのに騙されるかね~┐(´ー`)┌ という思いと、そのあまりの人騒がせっぷりに、被害を受けた当事者同様怒りさえ覚えていたのだが、読み終える頃にはズシリと重いものが胸中に居座っていた。延々と「古文書」を書き続けた和田氏の執念の深さ、そして何より、偽作かもしれないけれどもそれを真書と信じたい人々の様々な想いや思惑の重さにたじろぐ思いがした。私には真偽論争よりもそういう人々の思いのほうが印象に残る一冊だった。

『東日流外三郡誌』自体の内容は Wikipedia に詳しいが、考えてみればわれわれ日本人の最古の記憶は『古事記』『日本書紀』なのであり、それはしかし大和朝廷が自分たちの正当性のために都合よくまとめ上げたものと言えなくもなく、それ以前の「超古代」については遺跡として掘り起こされたもの以外には何もわからない。しかしそんな超古代にも人々はちゃんと生活していた。現代ほど便利な世の中ではなかっただろうが、現代人と同じように生産活動もし、家庭も持ち、ときには戦争もしていたはずだ。記紀には記されていない地方の集落にもきっと人々の栄枯盛衰があったのだ。

そういうことを知りたいという人々の願いにスルリと入り込んだのが『東日流外三郡誌』だった。大和朝廷と同じくらい古くて強力な権力が東北青森に存在したと言われれば、それは「信じたい」「真実であってほしい」と思うのが人情だ。

一体に、歴史は古いほど価値があるとされるようだ。記紀が二千六百数十年も前に日本の初代天皇を設定したのもそういうことだろう。何故か私たちは起源の古いものをありがたがる性向がある。そしてそれが自分に身近な地域のことならばなおさらだ。何だか誇らしい思いがするのは……どうしてなんだろうな?(笑) 純粋な郷土愛のなせるわざだろうか……。たとえばそれは、零細企業の社員より大企業の社員のほうが自信たっぷりに自己紹介ができるというようなことと似ているのではないかと思う。自分が帰属している集団が大きかったり長い歴史を持っていたりすると、自分自身までもその価値が上がったと思ってしまう。きっとそれはプライドの問題で、根本は承認欲求なのだと思う。

だから『東日流外三郡誌』事件は日本全国どこにでも起こり得る。地元民は喜ぶしマスコミも興味本位で取り上げることだろう。だが、そういう個人的な思いや希望や立場を捨象して、純粋に事実だけを積み上げることこそが学問であり、それをできる人が研究者なのだと思う。「戦後最大の偽書事件『東日流外三郡誌』」には、そういう点でちょっと首を傾げざるを得ないような研究者が出てきて問題を大きくしている。けっこう有名な学者なのだが、素人目にも反論が反論になっていないのがわかる。この事件における研究者の責任を思うとともに、学問には真実を見る冷徹な目と真摯な姿勢が必要だということを教えてくれた一冊でもあった。

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