この夏思ったこと

やっと先週あたりから涼しくなってきた。まあなんとも今年の夏は暑かった! かてて加えて猛烈な台風やら大地震やらで日本中が大変な事態になった。被害に遭われた皆様方に心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。m(__)m

そんな地球が壊れ始めている中でも、人間はちまちまと悪いことをしでかし、特に多くのスポーツ界のおエライさんが権力を振りかざしていたことが暴露された。ボクシングの「歴史の男の〇〇さん」とか、体操の「女帝」とか言われる人たちを見ていると、この人たちは何か勘違いをしているんだろうなぁと……。本当に偉い人物というのはきっと絶対的に謙虚な人なのだろうと思ったりしたものだ。

と、まあいろいろと腹の立つことは多かったのだが、私がこの夏もっとも関心があったのは、多くの医科大学の入試において女子が減点されていたこと! そんな不正が当たり前にまかり通っていたとは、あきれ果てて物も言えない……┐(´ー`)┌

この場合、不正を正すのは簡単だ。入試要項に「当大学では女子の得点を一律20点ばかり減点します」と書くだけでよい。出来の悪い男子を(裏口)合格させて、将来いろんな医療過誤を起こして問題になればよいのだ。「患者のことなんか考えてません」と追記すればなお良い。ふん。誰がそんな病院に掛かるかい! (-。-)y-゜゜゜

しかし、ね~。入試における不正採点は別にして、これはまったく難しい問題ではある。独身でバリバリ働いていた女医さんも、結婚して子供ができれば一定期間の離職は当然の権利だし、復帰したとしてもなかなか医師として元のようには働けなくなるのも当たり前だと思う。他の職種だって多かれ少なかれそれはあるが、人の命を預かっている医師の仕事の重みは段違いだ。シフトを変えるくらいで解決できる問題ではなかろう。私は医者でもないし子供を持った経験もないのだが、たとえば自分の子供の具合が悪いときなどは、仕事なんか放りだして母親として子供の傍についていたいと思うに違いない。それは誰にも責められないと思う。

社会における性差の問題を考えるとき、公正にしてもらいたいとは思うものの(某医科大学はこの点で×)、本質的に男女が公平に(平等に)生きられるかどうかというのは永遠の問題だと思う。社会制度で改められることなどは、所詮は労働時間や賃金に不平等が起こらないことを目指すだけであって、それ以上ではない。目指すべきは両性が平等に幸せを感じられるかどうかということだと思うので、それは一概には言えず、ごく個人的な問題になってしまうと考える。

女性の場合、仕事か家庭かという問題は、いつまでたっても大問題だろうと思う。出産は女性にしかできないし、育児だってどちらかといえば女性に負担がかかる。子供に手がかからなくなれば、今度は親の老いに直面する。そしていずれは自分も老いていく。そういう一生をある程度は視野に入れて、自分が幸せだと思う道をじっくり考えて選んでほしいなと思う。「女性が輝く社会」とか「一億総活躍社会」とか、あんまりそういうのに幻想を持つのはアブナイ。実際、女医の夢を砕かれた人だっていたに違いないのだから。そんな国のそんな世の中で、女の一生、賢く生きたいものだね。自分にしか生きられない、自分の一生なのだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

道徳とは?

『新しい道徳』(北野武著)読了。今回は文庫本で読んだが、もしかしたら以前に単行本で読んだことのある本だったかもしれない(汗)。まあいいや。痛快で簡単に読めるけれども考えさせられることの多い本だから、何度読んだって損はない。

本の内容を簡単にまとめると、道徳を簡単に口にする人間を信用するなという本である(まとめすぎかな?)。あるいは、学校で教わる道徳(および道徳の教科書)の滑稽さを笑い飛ばす本であると言ってもよい。だから、自分の生き方に何の疑問も抱かず、道徳の教科書どおりに生きていくのが一番正しく幸せだと思っている人間には読む必要のない本である。しかし、ここでたけしが書いているのは、道徳を考える上での出発点となる疑問やツッコミの数々であるから、あとは読者がそれぞれに考えなくてはならないのであって、結論が書いてあるわけではない。

ところで、私は小さい頃から「親が笑われるようなことだけはするな」と言われて育った。言ったのは、他ならぬ親である(笑)。ああしちゃいけないこうしちゃいけないと、細かく言われた覚えはないが、この言葉だけは何度も言われた。別に、自分が悪いことをしたときに言われたわけではない。新聞沙汰になるような事件をどこかの子どもが起こしたときなどに、折に触れて言われた。

そんなわけで、「親が笑われるようなことだけはするな」が私の行動の基準になった。つまりはこれが私の道徳である。ごく個人的な問題で、親と意見が合わずに親を泣かせるようなことはしたかもしれないが(したかもしれないじゃなくて、したよ。ごめん)、親を人様からの笑いものにはしないで生きてきたつもりである。いや、そう信じたい……。父は既に他界し、母はたとえ自分が笑いものになっていてもわからない状態になってしまったが、それでもこの私なりの道徳は私が死ぬまで貫きたいものだと思う。でないと、あの世に行ったときに恥ずかしくて親の顔が見られない。

アジア大会の男子バスケの選手が買春行為をして日本に送り返されるという事件があった。国費で大会に参加しておいて何事だ!とか、そもそも女性を金で買うとは許せん!とか、いろいろ批判はできるだろうが、「親に顔向けできる?」と聞くのがいちばんこたえる批判だ思う。つまり、そういうものが、道徳なんだろうと私は思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

(備忘録180727)

てんで「日記」の体を成しておらず、もはや「月記」ではないかと思う今日この頃……(滝汗)。

いろいろ思うところを書こう書こうと思っているうちに、また新たなショッキングなニュースが飛び込んでくるといった様相の7月だったと思う。

いま思えばあれが梅雨末期だった月始めの大雨災害では、今なお広島や岡山で復旧作業が続く。その大雨のニュースと前後してオウム真理教の麻原彰晃教祖ほか6名の死刑執行のニュースが飛び込んだ。執行は近いと言われていたが、それでも一度に7名もの執行には驚いた。平成の事件を平成のうちに片付けてしまおうという何者かの意志が働いたのだと思う。天皇の譲位や2年後の東京オリンピックをにらんだ配慮だろうが、麻原が何も語らずに逝ってしまったことで、奴はいったい何者だったのだろうというモヤモヤした気持ちは残る。(そして先日残りの6名も死刑が執行されてオウム事件は終わりを告げた。)

そうこうしているうちに、梅雨明けと同時に日本列島を熱波が襲った。太平洋高気圧の上にチベット高気圧がのしかかり、びくとも動かない。熊谷では41.1℃を記録し、ここ松江でも梅雨明け以来全然雨が降らず先日は37℃台を記録した。全国で熱中症患者が多発し、死者も多い。世界的に見ても、中国やカナダなども熱波に襲われているという。これはもう地球が壊れかけているとしか思えない。もう後戻りできないところまで来てしまったのかもしれない。

テレビで熱中症への注意を喚起してばかりいる間に、こっそりといろんな法案が可決された。順番はもはや覚えていないが、働き方改革法案、通称カジノ法案、それと参議院議員の定数を増やす法案だ。熱波と災害で国民が苦しんでいるこのタイミングに大して議論もせずに可決したのは、まさに「寄らしむべし、知らしむべからず」といったところか。言いたいことは山ほどあるが、一言でまとめれば「私はアベが大嫌いだ」ということになる。テレビに顔が映るだけで、ほんと嫌だ!

そして今度は台風が来る。妙なコースを通って、東から西へ抜ける見込みのようだ。これまでの常識が通用しないと言われており、これがどんな災害をもたらすのか見当もつかない。何事もなく通り過ぎてくれることを祈るばかりだ。

ところで、私がいまいちばん不思議に思っていることは、テレビであれだけエアコンを使えと言い、実際多くの人が一日中つけっぱなしにしているであろうのに、電力不足だというニュースがないことだ。どういうことだろう? 総裁選前ということが関係してる? まあいずれにしても、これだけ使っても大丈夫らしいということは覚えておこうと思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

簡単に事の善し悪しを語るな

6月の『100分 de 名著』はアルベール・カミュの『ペスト』を取り上げていた。講師は中条省平氏で、第4回にはゲストとして内田樹氏も登場。内田氏の読者としては見逃せない回であった(だってテレビで拝見したことないんだもん)。

うん。内田氏は想像したとおりのお人だった(笑)。言葉の使い方がやっぱり秀逸で、熱を込めて語られる内容はカミュをよく知らない私も思わず納得してしまう説得力があった。

さて『ペスト』であるが、あらすじをNHKのホームページから引用してみる。
---------------
舞台は、突如ペストの猛威にさらされた北アフリカの港湾都市オラン市。猖獗を極めるペストの蔓延で、次々と罪なき人々が命を失っていく。その一方でオラン市は感染拡大阻止のため外界から完全に遮断。医師リウーは、友人のタルーらとともにこの極限状況に立ち向かっていくが、あらゆる試みは挫折しペストの災禍は拡大の一途をたどる。後手に回り続ける行政の対応、厳しい状況から目をそらし現実逃避を続ける人々、増え続ける死者……。圧倒的な絶望状況の中、それでも人間の尊厳をかけて連帯し、それぞれの決意をもって闘い続ける人々。いったい彼らを支えたものとは何だったのか?
---------------

ペストとは私たちの人生にたびたび訪れる「不条理」の隠喩である。内田氏はこの場合は特に第二次世界大戦時のナチスドイツのフランス占領のことであると説明された。望んだわけでもない状態に置かれたとき、人は何をよりどころとしてどう向き合うのか。カミュは様々な人々を登場させてそれを描いている。

結局のところ、「反抗」と「連帯」というのがカミュの描いたことがらの主眼だが、『ペスト』という作品は決して正義感だとかヒロイズムを賛美するものではない。神なき世界において、淡々と誠実に事に当たる人間の姿が何より美しい。

私は原作を読んでいないのだが、番組に取り上げられた登場人物の中ではタルーに共感を覚えた。タルーは聖者になりたいと思っている人間だ。そして彼は死刑についてこう語っている。「こうした死(死刑)は、誰も殺されることのない世界を作るために必要なのだと聞かされていた。そうした考えはある意味では真実だ。しかし、結局のところ、僕はその種の真実を信じ続けることができない人間なのかもしれない。確かなことは僕がためらっていたということだ」。

ペストは人間に不条理な死をもたらす。死刑も人間に死をもたらすことでは同じである。たとえそれが多くの人の安全にとって望ましいことであっても、だ。タルーは被害者の立場に立つ人間ではあるが、加害者を断罪しようとはしない人間だ。それは「赦し」云々の話ではなくて、彼が人を殺すことに「ためらい」を覚える人間であるからだ。

自分はどこまでを受け入れられてどこからが受け入れられなくなるのか、そのボーダーラインの決定に「ためらう」ことの大切さ、そしてその基準となるのが言葉では言い表せない身体感覚であることを内田氏が説いておられたのがおもしろかった。

物事の理非や善悪はそう簡単には決められない……。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Lupin

最近「ルパン」に縁がある。

Photo ・まずは先日書店で偶然見つけて購入した『みんなの怪盗ルパン』。
---世界一華麗な怪盗「ルパン」。鮮やかに美術品を盗み出しながら、弱きものを守り、女性を愛する紳士―。その優雅かつ誇り高き姿に憧れ、胸を躍らせた過去を持つ人気作家陣が集結し、当時のときめきを筆に込めて書き上げた、オマージュ小説アンソロジー!---(カバー裏表紙より)

小林泰三、近藤史恵、藤野恵美、真山仁、湊かなえの5人がそれぞれのルパンを描き上げている。どれも軽く読めて楽しかったが、小林氏の「最初の角逐」はルパン物というよりはホームズ物という感じが強い。出てくる人物がホームズなのかワトソンなのかモリアーティなのかルパンなのか混沌としているのが面白い。

Photo_2 ・別の日に書店で偶然見つけて衝動買いした『ルパン・エチュード 1,2』(岩崎陽子著)。マンガである。岩崎氏といえば私にとっては『王都妖奇譚』! これで安倍晴明にドはまりした過去がある(汗)。

『ルパン・エチュード』では、まだ二十歳そこそこのルパンを描いていて、ベースとなっている原作は『アンベール夫人の金庫』から『カリオストロ伯爵夫人』あたりである。興味深いのは、ルパンが二重人格者に描かれていること。「基本的に善良だけど傍若無人で規格ハズレのラウール」と「倫理観にははなはだ不安を感じるが、そのくせ妙に情が厚く義理堅いルパン」とである。周囲が善意に満ちて楽しい雰囲気のときにはラウールが現れ、陰謀や悪意が存在するときにはルパンが現れる。別人格になっているときの記憶はないが、お互いの存在は感じているという設定で、岩崎氏の描き分けが見事である。

で、ラウールはクラリスに惹かれ、ルパンはジョゼフィーヌ(カリオストロ伯爵夫人)に惹かれるわけで、なるほど原作にもあるあの二股はそういうことだったのかと納得がいった(笑)。

因みに、「ルパン」というのは父方の姓で、ラウールが名乗る「ダンドレジー」という姓は母の旧姓。早くに父と死別してからはこの姓を名乗っていた。「ラウール」は本名。しかし『カリオストロ伯爵夫人』では「アルセーヌ」が本名と言われている。結局、ラウール・ダンドレジーもアルセーヌ・ルパンも、どっちも本名かもしれない。が、悪事を働くときにダンドレジーを名乗ることはなかったような気がする(うろ覚えだが)。やっぱり怪盗は「ルパン」でなくっちゃね♪

・続いては、M氏に定期的にDVDを送っていただいているアニメ『ルパン三世 PART5』。
面白い! 私的には前シリーズがイマイチだったので、今シリーズは大満足である。ネット社会でのルパンの立ち位置がなかなか良い。どんなに世の中が変わってしまっても、ルパンはちゃんとルパンでいてくれるのが嬉しい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

「世論」と「空気」

4月22日に再放送されたNHK『100分 de メディア論』がベラボーに面白くて、感想を書こう書こうと思ってはいるものの、なかなか書けないでいる。まあいつかそのうちに。

ところで、番組ではリップマンの「世論」、山本七平の「『空気』の研究」などが取り上げられていたのだが、このたびのTOKIO山口氏の強制わいせつ事件をめぐる動きとメディア(主にテレビのワイドショー)での取り上げられ方を観ていると、これらの本に書かれていることをそのまま辿っていたように思われた。

私がこの事件を最初に耳にしたとき、刑事的な処分がどうなるかはまだ不明だったが、被害者との和解は成立しているとのことだったので、大したことにはならないと思っていた。悪い方向へ転がりだしたのは、ここで事務所から出された木で鼻を括ったような声明からだったように思う。リップマンの「世論」で触れられているのは「どんな人でも、自分の経験したことのない出来事については、自分の思い描いているそのイメージが喚起する感情しか持つことはできない」ということなのだが、J事務所に対する印象はグループSの一件以来、非常に悪い(らしい)。山口氏がやったことは確かに悪いが、彼を監督指導すべき(と世間が思っている)事務所の対応があまりにひどかったため、彼に対する風当たりもここで強くなった感があった。

そして山口氏の謝罪会見。事務所サイドの弁護士の弁は、とにかく早く事を穏便に収束させたいという姿勢が見え見えだった。ただ、本人の謝罪の弁は、彼の素直な気持ちが伝わるものだったと思う。戻れるものならTOKIOに戻りたいという言も、思わず本音が漏れてしまったということで、私にはそれほど不謹慎なものとは思われなかったのだが……。

その言葉に反応したのがメディアだった。いまそれを言う?言っちゃダメでしょ、とこぞってワイドショーで叩かれた。そんな言葉は聞きたくなかったと国分氏も翌日に発言。山口氏がいま言っていいのはただ謝罪の言葉だけだ、という空気が広まった。そして5人で持たれた話し合いの席で山口氏は辞表を提出する。

いま思うと、その後に開かれた4人の会見は山口氏の「戻れるものならTOKIOに戻りたい」という言葉を否定するために設けられたと受け取れる。長い付き合いの山口氏を、心情的には見捨てることはできない。彼を失うことはTOKIOにとっても大きな損失である。しかし、既に4人は山口氏を受け入れてはいけないという、メディアが作り上げた世論の空気に支配されていた。そのとき山口氏の言を否定することは、山口氏に対する愛情でありTOKIOの絆の裏返しでもあったと私は思うのだが、それとは別に、彼らには既に最初から、山口氏を擁護する自由、被害者のことを慮る言葉以外の言葉を発する自由などなかったのだと思う。

この4人の会見後、とあるワイドショーで街頭100人アンケートを取っていた。「今後TOKIOはどうなるのがいいか?」という問いに対し、「5人で活動するのがよい」という答えが70%近くに上っていた。「4人で活動」が20数%、「解散」は3%だった。4人の辛そうな姿を観て、同情を感じた人々が多かったのだろうと思う。しかし一方で、これはグループSのときと同様の公開処刑ではないかという世論が生まれた。以前にも増して、J事務所に対しての批判が噴出した。斯くして、J事務所は山口氏の辞表を受け取り、氏との契約を解除した。

この事件によって生じた経済的損失は数億とも数十億ともいわれている。TOKIOはベースギターを失い、音楽活動の予定は白紙となった。長瀬氏が会見で言っていた「被害者探しはしないでください」という意向とは逆に、ネット上ではそういう動きも盛んなようだ。被害者の方にも非がないとは言えないとか、親が悪いとかの意見も多い。

おそらく世の中のたいていの人が望んでいなかった結果になってしまったのではないかと思う。この結末でいったい誰が得をした……、いや、誰か一人でも幸せになれたのだろうかと思う。被害者だけでも「これでよかった」と思っているのならそれは救いだが、果たしてそうなのかどうなのか……。そこのところは誰も知りようがない。

最初に挙げた山本七平の「『空気』の研究」では、戦艦大和の悲劇が取り上げられているそうだ。驚くことに、軍の上層部の誰一人として大和の出撃には賛成ではなかったという。けれども、そこでは不沈戦艦大和が出撃しなければならないという「空気」が支配しており、皆がそういう「臨在感的把握」なるものをした結果、大和は海の藻屑と消えた。

「世論」と「空気」、そして道徳的に決して言ってはならない言葉、そういうものの存在が、事をこれだけ大きなものにしてしまったように思われてならない。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

何も言えないネ……

TOKIOの山口氏以外の4人の会見を、結局全部観てしまった。こういう場を設けたからには何か大きな発表があるのかと思っていたが、山口氏から辞表を受け取ったという事実が明らかにされた以外は、被害者およびご家族への謝罪と、自分たちも現時点では混乱していて大きな決断をなすには至っていないこと、音楽活動の計画は白紙に戻し、いま頂いている仕事に全力を尽くすという内容に終始した。1 for 5, 5 for 1。何があっても連帯責任というTOKIOの姿勢は明らかになったと思う。

発言に重みがあったのは松岡氏だった。「TOKIOに戻りたい、俺にはTOKIOがある。TOKIOに帰れる場所がある。もしそういう彼の気持ち、甘えの根源がTOKIOだったとしたら、自分の意見ですけど、そんなTOKIOは1日も早くなくした方がいいと思います」と言ったのはまさに断腸の思いの発露だったろうと思う。またその一方で、「本当に申し訳なく情けないんですが、ありがたいことに、番組継続、いろんなお仕事継続といういろんなお声をいただいた時に、今僕ら4人ができることって何だろうと。それをしっかり果たすことがプロなんではないかと。その狭間で戦っています。辞めるのは簡単だと思います。与えられたことをきちっとやることがプロだと思っています」という発言が彼の葛藤を物語っていた。

被害者の気持ちを思えばこんな会見もしないほうがいいのかもしれない、という城島氏の発言も重かった。ネット上では被害者を特定したり、NHKの当該番組の出演者に対しての嫌がらせもあると聞く。TOKIOの活動に大きな支障をもたらす事態に発展した“事件”の被害者にしてみれば、もうそっとしておいてほしいというのが正直な思いであろう。一方で、被害者のそんな思いも慮った上で、自分たちからも謝罪しなくてはならないと考えた4人の気持ちもわからないではない。山口氏を切ってしまうことで、被害者への(あってはならない)風当たりが一層強くならないとも限らないのだから、決断できない自分たちをも許してほしいという謝罪の気持ちもあったのだろうと思う。

これがTOKIOの山口氏ではなくて一般人の起こした事件であったなら、(被害者には失礼な言い方だが)こんな「大ごと」にはなっていなかったろうと思う。国民的アイドルTOKIOのメンバーが引き起こした事件であるからこそ、こんな事態になって、私のような全然無関係なおばちゃんまで興味を持ってしまった……。

うん。この件に関しては、第三者はなにも言及しないのがいちばん良いネ。

だから、以下は私が常日頃思っている個人的な意見である。

先ごろ夢中になって観ていたドラマ『アンナチュラル』第6話に、ミコトのこんなセリフがあった。
「女性がどんな服を着ていようがお酒を飲んで酔っ払っていようが、好きにしていい理由にはなりません。合意のない性行為は犯罪です」
正論である。非の打ちどころのない至極まっとうな見解である。同じ女性として快哉を叫びたい。しかし、である。これは相手が「まとも」な男性であった場合のことである。自分が女性であるがゆえに、例えば露出度の高い服を着た女性を見たときの男性がはたしてどういう思いを抱くのかは想像の域を出ない。しかし「誘っているんじゃないか」と思う輩もいるだろうと思う。同じように、誘いをかけたらやってきた女性に対して、男性がどういう心理状態になるのかもまたわからないが、「OKだろう?」と思う輩がいるかもしれないという用心は必要だろうと思う。

男女が平等ではないと私が思ういちばんの理由は、その身体的な力の差である。筋力である。力づくで来られたら女のほうが弱い。だから! だからこそである。何か起こってからでは遅いのだから、女は事前に充分な用心をしなければならない。何か事が起こった時に、将来にわたって長く傷つくのは間違いなく女のほうなのである。先のミコトのセリフで言えば「合意のない性行為は犯罪です」は正しいし、男は処罰されるべきである。しかし、法律的に女性の立場が保証される時代にはなったが、襲われる危険が減っているわけではないことは肝に銘じておくべきだと考える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«この騒ぎは何なの?