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2006年11月

週刊○○

今は何も取っていないのだが、以前は週刊の全集物をよく購読していた。一番最初は『Do Art』だったかな? 絵の鑑賞法や描き方を毎週読んでいれば、自分も絵が上手くなるかなと思って読んでいた。ならなかった。次は『動物たちの地球』。動物好きなこともあって、これは結構よく読んだ。面白かった。でも片っ端から忘れた。その次が『古寺を行く』。仏像フェチのお寺大好き人間としては、むさぼるように読んだ。お寺の名前と仏像を取り違えるようになった(何故だ!)。その次が『源氏物語』。瀬戸内寂聴と円地文子の『源氏物語』も平行して読み比べたりなんかして、最初はやる気満々だった。ご他聞に漏れず、須磨明石のあたりで頓挫して、一応最後まで目は通したものの、それはマンガの部分だけだったりする。

続けることの難しさをつくづく感じたものだ。もはや成果など期待してはいなかったが、ただ続けるということがこれほど難しいとは。一週間に一冊が読めないとは。

更に、一番大きな問題は、ファイリングである。それぞれのシリーズには専用のバインダーが別売りされる。それを買って、1冊買う毎にファイルするようになっている。ところが、買っても読めない人間が、それをファイルすることなんかできるわけがない。……というわけで、きょうは30センチほどの厚さに重ねてある『源氏物語』のファイリングに着手した。全96冊、12冊で1巻のファイルになり、全8巻の『源氏物語』ができあがる予定なのだが、3時間かかってもまだ終わらない。ついつい中身を読んだりしてしまう。6巻まではできたが、ほとほとくたびれたので残りは明日にする。

きょうの教訓:継続は力なり。ファイルはこまめに!

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日本語の表記法

きょうの『その時歴史が動いた』は「ひらがな革命」。

平安中期、律令制が危機に瀕していたときに、それでも従来の律令制に縋ろうとする官僚たちの意識を変革するために、積極的に「ひらがな」を取り入れようとした藤原時平にスポットが当てられていた(時平といえば、菅原道真を追い落とした名門藤原氏の御曹司というイメージが強いが、律令制からの脱皮という点では道真と同じ思想だったらしい)。番組では、漢詩漢文の道真に対し、和歌ひらがなの時平という描き方がされていた。

日本語の表記の歴史をみると、それまでの公文書はすべて漢文で書かれていた。当時の官僚はスゴイと思う。中国語が話せたかどうかは知らないが、中国語で文章を綴ることができたのである。貴族のたしなみとして和歌も詠んだだろうから、万葉仮名やひらがなももちろん書けたのである。これはスゴイことだと思う。ひらがなは、それまで女性のものという認識があったわけだが、時平が日本で最初のひらがなによる公文書『古今和歌集』を編纂したことにより、日本独特の表記法としてその地位を確立することになる。以来、漢字とひらがなが混じった表記が一般的になり、現代のわれわれもそのスタイルで文章を綴っているわけだ。

この、漢字という表意文字とひらがなという表音文字を併用するというアイデアもまたスゴイと思う。そういうスタイルが定着してから既に700~800年くらい経っている。日本以外でこういうことをやっている国はあるのかな? 韓国はどうなのだろう? ハングルと漢字を混ぜて使うことがあるのかな? あるにしても、その歴史は日本のほうがはるかに長い。また、漢字には音読みと訓読みがあり、音読みの中にもさらに漢音読みと呉音読みがあったりする。また現代ではそういうことは滅多にないが、口語体と文語体の違いがあったりする(撥音便とか促音便とか)。日本語を表記するために、様々な試行錯誤があって、その上に、今の日本語表記が成り立っている。そのことを思うと、ちょっと感動する。

ひところ暴走族系の皆さんが好んで使った「夜露死苦」なんてのも、様々に読んだり書いたりできる日本語でしかできない遊びだろう。万葉の昔からこういう遊びはあった。万葉集の「戯書」に「十六」を「しし」と読ませたり、「蜂音」を「ぶ」(昔の蜂は、ぶ、ぶ、と飛んでいたのでせう)と読ませたりするものがある。いや、そもそも漢字からひらがなやカタカナを作り出した感性も、遊びに近いものなのかもしれない。少なくとも、日本語をちゃんと表記したいのだ!という強い意志のもとに作り出されたものではないような気がする。表記だけでこれだけ遊べる言語は日本語以外にはないと思う。語彙だって豊富だ。ヘタにわけのわからない外来語を使うより、もっと日本語を知って、楽しんでもいいんじゃないのかな?

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(備忘録061128)

そろそろテンプレートを替えようかなぁと、いろいろ見ていたら時間がなくなりました。迷い出すとキリがありません。きょうの記事はお休みします。

「いじめ」問題についての記事に、メールでもコメントをいただき、嬉しかったです。ありがとうございます。

造反議員のうちほとんどの皆様方が復党なさるそうです。一人だけ復党なさらない方も、ご自分の面子だけが問題のように思われます。公約ってのは破るためにあるんでしょうなぁ。

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如月めぐみとブラック・クイーン

月曜日は『BJ』語り。

「BJの色っぽさ」の中で両性具有の色っぽさというのに触れたが、如月めぐみはどうなのだろう? 彼女も両性具有と言ってよいのか、それとも両性具有とは正反対だと言えばよいのか? 男性でも女性でもないという点では両性具有と同じなのかもしれないのだが……。ああ、こういう点についての言い回しは慎重の上にも慎重にならなければいけない。最初にお断りしておくが、私は子宮や卵巣などの女性特有の器官を失ったからといって女性でなくなるなどとは断じて思っていない。また、現実にいらっしゃる両性具有や性同一性障害の人達に対する偏見も持っていないつもりである。ただ『BJ』という作品の中で、どうして如月めぐみが女性という性を失わなくてはならなかったのか、あるいは、どうして女性ではなくなったという表現がされているのかを考えてみようと思うだけである。

「めぐり会い」のエピソードでは、研修医時代のBJの恋の顛末が語られている。彼は、同じ医局の後輩である如月めぐみを好きになる。しかしなかなか告白できず、そっけない態度をとることしかできない。ある夜更け、家路につく彼女が暴漢に襲われそうになり、BJが助ける。このことがあって、彼女はBJがいつも自分のことを陰から見守っていてくれたことに気付き、彼女もまたBJのことが好きになっていく。しかし彼女は子宮癌に侵されていた。それもかなり進行している。命が助かるためには子宮や卵巣をすべて取り去ってしまうしかない。その難しい手術をBJが買って出る。手術室で二人きりになったとき初めてBJは彼女に愛を告白し、彼女はそれを受け入れる。そして最初で最後のキス。BJがたった一人で行った手術は成功。その後彼女は男性の格好をし、如月恵(けい)を名乗り、船医として生きていく。

この話で、二人が別れる場面は描かれていない。手術後にどういういきさつがあったのかは読者が想像するしかない。BJには、たとえ彼女が「女性でなくなった」としても二人で生きていく覚悟はあっただろうと私は思う。キスしてから「この瞬間は永遠なんだ」と言った、これが彼の永遠の愛の誓いでなくてなんだろう。しかし実際には二人は別れている。私は、如月めぐみの方がお互いの未来と幸せを考えてBJの前から去って行ったのだと思う。あるいは実際にBJのアプローチを蹴るようなことがあったのかもしれないとも思う。いずれにしても、別れることを選択したのは如月めぐみのほうだろう。ラストページの1コマ目にBJのこんな台詞がある。「過去を忘れさせてくれるからだろう?フフフフ」。これ、笑う場面ではないのである。事実、如月恵は苦しそうな表情をしてこれを聞いている。何故BJはこんな皮肉な言い方をしているのかずっと不思議だった。そんな傷跡を抉るような言い方をしなくてもいいじゃないかと思っていた。この「過去」とは、如月めぐみが女でなくなった辛い思い出のことだとずっと思っていたからなのだが、たぶんそうではないのだ。この「過去」とは、BJとの思い出のことなのだ。そしてその思い出はBJを結果的に振ったところで終わっているのだと思う。そう考えれば、振られ男のBJが「フフフフ」と自嘲とも茶化しとも恨み言ともとれるような笑いを漏らすことにも納得できるのだ。(ちなみに、碧ゆかこ氏が描いた「めぐり会い」でも、如月めぐみはBJに黙って退院して姿を消している。)

連載当時、「めぐり会い」のエピソードが世間で問題になったかどうか、記憶がない。(なにしろ私はBJと如月めぐみのキスシーンにメロメロになっていたのだ。)現代ならば「女でなくなる」という表現が大問題になりそうだし、当時だって傷ついた人がいなかったとは言い切れないと思う。しかも必要以上にしつこくこういう表現がされている印象もあるのだ。しかし今思うと、如月めぐみが「女性でなくなる」ことそのものが重要だったのではないかと思われる。如月めぐみにはそういう役柄がふられていたのだ。少々の障碍ならば越えられる恋する男女にとって、これほど残酷な障碍はない。つまり手塚治虫は、如月めぐみを女性でなくすることで、性を超越した存在、絶対に肉体的に結ばれることのない存在にしたかったのではないかと思うのだ。二人の間に越えられない巨大な障碍を設定して究極のプラトニックラブを描きたかったのではないかと思う。

後に「海は恋のかおり」で彼女を愛する少年が現れると、BJは再び火がついた恋心を抑えかねて少年に対してライバル心をむき出しにする。「めぐり会い」で昔のアルバムを本人に返し、自分の想いに決着をつけたつもりだったのに…。BJは如月めぐみを忘れていない。きっと生涯忘れられない。船医となった如月めぐみと、海を望む岬に居を構えたBJ。彼女をそっと陰から守って歩いたあの日々の延長線上にBJは居る。プラトニックで終わったからこそ、如月めぐみはBJの永遠の恋人になったのである。

如月めぐみと対極の印象があるのが、ブラック・クイーンこと桑田このみである。「ブラック・クイーン」のエピソードの中で、BJとブラック・クイーン(以下BQ)は出会う。婚約者から外科医の仕事を辞めてほしいと言われてヤケ酒を飲んだBQがBJにからむのである。ただそれだけの接触だったのに、どうやらBJはBQに一目惚れしてしまうのである。BQが勤めている病院を探し出して、手紙とプレゼントまで渡そうとする。この一目惚れというのが私にはどうにも納得がいかなかった。BJのキャラと違うではないかと思っていた。(アニメではBQが忘れて行った指輪を返すというそれなりの理由付けがされていたが、BJが一目惚れしたのはピノコの前でアタフタする様子で明らかだった。)どうにか自分の中で結論が出たのは、BQを演じているのが「ゼフィルス」であることに思い当たってからだ。

『BJ』という作品はスターシステムが採用されている。つまり手塚治虫が過去に生み出した様々なキャラクターが総出演で『BJ』という劇を演じているという構造になっている。例えば『火の鳥』のメインキャラである猿田彦が本間先生を演じたり、アセチレン・ランプが友引警部を演じたり、マグマ大使がエレベーターに閉じ込められる一般市民を演じたりしている。BQを演じたゼフィルスは『地球を呑む』という青年向けのマンガに登場した女性である。そもそもゼフィルスとはギリシア神話に出てくる「西風の精」で、ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』においてヴィーナスにその息を吹きかけたりしている天界の住人なのだが、『地球を呑む』に登場した彼女は肉感的な肢体と美貌を誇り、彼女を一目見た男達すべてを虜にせずにはおかない魔性の女(おまけに男を憎んでいる)として描かれていた。このゼフィルスの蠱惑的な魅力と性質がそのまま『BJ』におけるBQに受け継がれているのである。舟人を水中に誘い込むセイレーンのような彼女の神通力は、BQとなっても健在である。だからBJが一目でコロッといったのである。逆に言えば、彼女にコロッといかないようなら一人の生身の男性としてどっかおかしいというくらい、ゼフィルスBQは「女性」そのものを具現化した存在として設定されていたのである。両性具有の色気などという観念的なものではない、もっとあからさまなメスの色気がその根底にはある。

如月めぐみとBQは一対で、プラトニックラブと性愛の象徴なのだ。普通の恋愛に欠かせないこの二つの要素が、それぞれ別々にこの二人に割り当てられている。それはまるで生と死がBJとドクター・キリコに別々に割り振られたようなものだ。そして、如月めぐみもBQも、ともにBJの理想の女性像(ユング心理学で言うところの「アニマ」)の一部分であろうと思う。一般に、BJのBQへの愛はあまりに唐突なので浮気であるように捉えられることが多いようで、ならば本命は誰だ、ということになるのだが、BQがBJのアニマのひとつの表象であると考えるならば、これは決して浮気ではなく、本気である。(←BJのアニマについては、ピノコも一枚噛んでいて、それはたぶん母性愛か慈愛を分担しているのではないかと思っているのだが、うまく説明できないので、ここでは書かない。)

この二人の女性をともに愛し愛されているBJがどういう態度を取るかで、彼の恋愛観、女性観の傾向は見えてくるのだろう。BQが人妻だということもあり、BJの気持ちの中では今のところ如月めぐみのほうに軍配が上がっているようで、だから私はBJが生涯独身を通す可能性も高いと思っている。しかし「終電車」ではBJ、結構危うかったと思う。BQの後を追って最終電車を降りましたもんね(どこに泊まるつもりだったやら?)。将来BQが海外から帰ってきて「主人とうまくいってませんの……」なんてことでも言おうものなら、またBJがグラッとすることも必定で……(なにしろゼフィルスだから)。なかなか大変ですね、BJ先生(笑)。

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(備忘録061126)

きょうは、昨日の記事で言い忘れたことを書こうと思っていたが、記事に対して濃いコメントをいただいたので、お返事の中に書き込ませてもらった。ので、きょうの記事はお休みです。

あ、そうそう。「手塚治虫デビュー60周年大型貨幣」というのが発売されている。BJ先生(赤いリボンタイをお召しになっている。原作の先生じゃないな)は銀貨の方にご登場だが、お値段 50,925円也- はちとキツイ……。

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どうしていじめるのか?

いじめによる自殺者が続出して、今さらながら急速に表面化してきた「いじめ」問題。「いじめた生徒は出席停止に…」という事態にまで発展したようだ。いじめられる側が一方的に辛い思いをしてきたことと比べれば、いじめた方に制裁を与えることは理に敵っているとは思うが、いじめた生徒をそう簡単に断定できるものかしらん? それに一人の子をクラス全員でいじめた場合、どうなるのだろう? こんなのはしょせん姑息的手段でしかない。

思い出せる限りで、私は人をいじめようと思っていじめたことは、一度も無い。無意識のうちにそういう結果になったことはあったかもしれないし、相手がいじめられたと感じたこともあったかもしれないが、それは決していじめようと意識してのことではない。人だけでなく、動物相手でもそんなことはしたことがない。いじめられたこともないような気がする。幼い頃、髪が長くて三つ編みにしていたのでそれを引っ張られることはしょっちゅうあったが、それは悪ふざけの範疇だったと思っている。いじめっ子というのは、いた。いつも不機嫌そうな顔をしていたような気がする。でもその子は同時にリーダー的な存在でもあったように思う。

近頃のいじめというのは、いじめる側といじめられる側が固定していないという話をよく耳にする。今はいじめる側だが、過去にはいじめられた経験があるという者、またその逆のパターンがざらにあるらしい。自分がいじめられたときの苦しさや辛さを知らないはずはないのに、それと同じ行為を他の子に対して行う。ここのところがどうも理解できない。

人はどうしていじめるのだろう? 「いじめる」を辞書で調べると「弱い者を苦しめたり、困らせたりする」とある。キーワードは「弱い者を」である。どの辞書にもそう書いてある。今の子どもたちは、いじめるという行為で自分より弱い者を作り出そうとしているのではないのだろうか。弱い者をいじめることでしか自分を強いと思えなくなっているのではないだろうか。群れの中で序列ができるのは、たぶん動物の本能である。学校、クラスという群れの中で、自分の地位がどのあたりなのかを、子どもたちは日々探っているのではないのだろうか。そして動物の群れには必ずいるはずのボスが、そこにはいない。強者と弱者の序列は流動的で固まらず、群れとしてもまとまるはずがない。

どうも私には(前から何回も書いているが)、横並びで平等、優劣をつけない主義の学校教育とか、本来の意味を拡大解釈した「オンリーワン」とかの弊害のように思われてならないのだ。うまくまとまらないけど……。

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「今昔バトン」

いつもお世話になっている神無月さんから「今昔バトン」をいただきました。ありがとうございます。では早速……。

○あなたの名前を教えて下さい
わかばと申します。

○今と昔の性格を教えて下さい
昔:自分ではよくわからないのですが…。幼稚園時代に登園拒否児になりました。どうも雰囲気に合わせられなかったようで。さあ楽しくお遊戯しましょうっていうときに、床の木目をずっと眺めているような子でした。それ以降はずっと副委員長とか生徒会の書記とかをおとなしくこなす優等生でした、何か違うゾと思いながら。社会に出て一人暮らしを始めてから、自分の生きたいように生きてやる決心を固めて仮面を脱いだら、楽になりました。今までは自分を偽って無理していたのだと気付きました。敵もいっぱい作ったけど、それ以上に理解してくれる人もできました。仕事が好きで、周りからはキャリアウーマンのように思われていたみたいで、結婚したときは「あんたは絶対結婚しないと思っていた」と驚かれました。……そんな性格です。(どんなだ!?)
今:う~ん、だいぶん丸くはなったと思いますが、まだまだ修行が足りません。

○今と昔の夢を教えて下さい
昔:ずっと幼い頃には「男の子」になりたかったです。というか、大きくなったらそうなるもんだと思っていました。兄がいたせいかも。
今:幸せな老後。

○今と昔の好物を教えて下さい(意味は何で捉えても可)
昔:何かちょっと普通と違うものや主流でないものが好きだったようです。お人形が嫌いでぬいぐるみが大好き、とか、大鷲のケンよりコンドルのジョーが好き、とか。
今:絶対に流行に乗りたくないという偏屈なところは変わっていません。

○今と昔のマイブームを教えて下さい
昔:8マン、赤影、アルセーヌ・ルパン、BJ、ジュリアーノ・ジェンマ、EL&P。他にもいっぱい。
今:上記のものプラス 仏像。(自分で自分の趣味がわからんですが、ハマるとしつこいです。)

○今と昔のペンネームの由来を教えて下さい
ペンネームなんて大それたものは持っておりません。

○今と昔のジャンルを教えて下さい
創作していませんので、パス!

○今と昔のお友達に出来るだけ回して下さい
すみませんが、ここで置かせていただきます。

答えてみてわかったのですが、私、全然進歩しておりません(泣)。これからも劇的な変化は起こりそうもなく、馬齢を加えて資源の無駄遣いをしているだけのような気もしてきました。でも、これからも好きなもの(マイブーム)が増えたら楽しいだろうなと思いますし、縁側で猫を抱いてひなたぼっこをするお婆ちゃんというのになってみたいと思っています。
神無月さん、いっぷう変わったバトンをありがとうございました♪

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(備忘録061123)

ここ三日ほどで庭のモミジが真っ赤になった。今年はなかなか綺麗だ。

せっかくの休日だったが、ちと体調悪く寝て過ごす。記事もお休みします。

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『ブラック・ジャック火の鳥編』

お店に注文しておいたゲームソフト『BJ火の鳥編』が来たとの連絡があったので、そそくさと買いに行き、早速プレイ。

おお、この絵柄は良いな。原作とアニメの中間くらいの感じ。おお、ミッドナイトが出てきた。おお、懐かしの大塚ヴォイス! ふむふむ、そうやって操作するのね。よっしゃ来い!

……ダメだわ私。意気込んでみたものの、こういうスピードを要求されるゲームって苦手だわ。台詞を読んでいる間もなく、「メス」「鉗子」「ガーゼ」と矢つぎ早の指示が飛んでくる。ランクはBとCのみ。『新宝島』のお店まで辿り着いたところで、もう今日はお終い。目は痛いわ肩は凝るわで大変だ。こんなもん長時間やるもんじゃない。

しかし、人工呼吸のところで「マイクに息を吹きかけろ」とかなんとか出たときは焦った。マイク? そんなもん付いてたか? 箱の中を探そうかと思ったが、そんなことしている間に患者が死んでしまうかもしれない。ゲーム機本体をためつすがめつ見てみたら、ヘッドフォンやマイクを接続する穴がある。ダメもとで、そこを吹いてみたさ。

Bj_1 動いたよ!!! (吹いた本人が驚愕)

クリアできたよ、あっちょんぶりけー!!!

これが本来の使い方なのだろうか。んなわけないよな。精密機械に対する冒涜的行為だよなこれは。繰り返してたらサビるよな。マイク買わなきゃ。でも今日のところはクリアできたし、結果オーライ♪

『BJ』以外の手塚キャラもいろいろ出てきておもしろそうだ。いや、操作自体は苦手だけれど。暇を見つけてぼちぼちやろう。

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Jack The Ripper

19世紀末、ロンドンを震撼させた殺人鬼「切り裂きジャック」のモンタージュ写真が公開された。少なくとも売春婦5人を惨殺して臓器を切り取るなどし、その他にも彼の手にかかったのではないかとされる被害者は10数人に上る。容疑者は王室関係者をも含めて多数おり、現在に至るも真相は闇の中である。

事件後120年も経ってからモンタージュ公開というのは、役に立つとも思えないのだけれども、イギリス流のジョークかしらん? しかしどうやって作成したのかも気になるところだ。この写真はどう見てもCGだが、犯行当時に手描きのモンタージュがあってそれを元にしたのだろうか。昨年だったか、切り裂きジャックのDNAと、当時の容疑者の子孫のDNAを比較するとかいうニュースも聞いたような気がする。容疑者の子孫がよく協力する気になったものだと思ったが、犯人を暴くための捜査というよりも、イギリス犯罪史上最大の謎を解き明かすという謎解きの趣きが強いのだろう。

切り裂きジャックが現れた時代は、ちょうどイギリスが誇る名探偵シャーロック・ホームズが活躍した時代である。電燈ではなくてガス燈の時代。自動車ではなくて馬車の時代。霧深いロンドンの街で起こる連続猟奇殺人事件。ホームズファンならずとも、ホームズなら切り裂きジャック事件をどう解くのか興味あるところなのだが、残念ながらコナン・ドイルはこの事件については何も書いてくれなかった。これに先立って実際にアメリカで起こった「メアリ・ロジャーズ殺害事件」が、ポーの手によって「マリー・ロジェ」という作品の中で真相が推理されていることを思えば(探偵はもちろんオーギュスト・デュポンである)、ホームズにもこの事件に携わってほしかったと残念に思う。そう思うミステリファンは多いのだろう。パスティーシュとして、M.ディブディンの『シャーロック・ホームズ対切り裂きジャック』や、エラリー・クイーンの『恐怖の研究』(←エラリーとホームズの夢のようなコラボ)などがある。

さて、「切り裂きジャック」の正体が明らかになる日は果たして来るのだろうか?

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Lonely BJ

月曜日は『BJ』語り。

BJというのは後ろ姿の男だよなと、ふと思う。で、調べてみた。『BJ』全243話中、ラストのコマにBJの後ろ姿が描かれているものはなんと69話を数える(≒28%)。また、彼自身の姿ではないが彼が乗っている車や飛行機や船である場合が23話。ラストのコマにはエピローグのフレーズが書かれていることもあるので、ラストから2コマ目も勘定に入れると確率は更に高くなる。これだけあるのだから、BJ=後ろ姿の男、という印象が強いのも道理である。納得した。
(なお、『指』『植物人間』『快楽の座』の3作は手元に無いため調べられなかった。だから正確には240話である。)

基本的に『BJ』は一話完結であり、患者を手術して一件落着となるわけだから、仕事を終えて去っていくBJの姿がラストに描かれるのは当然と言えば当然である。しかしそれが横向きであったり、手前に向かって歩いてくる確率は低いのである。あくまでも後ろ姿。都合よく風が吹いてくることも多く、彼はコートの裾を翻して画面の奥に去って行く。これは劇画に多くみられる典型的なアウトロー、ニヒルで無頼な一匹狼の描き方であろう。

余談になるが、『マンガ夜話』の中で夏目房之介さんが次のように指摘していた。「劇画の主人公は”何か”が”なびいて”いる」と(笑)。確かに当時の劇画の主人公たちは、およそ似合うとも思えないスカーフなんぞを首に巻いたりしていたものだ。そしてBJの場合はコート(アニメではマントだった)の裾と袖とリボンタイがなびき、キリコの場合はスカーフと長髪がなびき、琵琶丸の場合は衣服全体がなびいている。アウトローのセオリーどおりである。間違っても白拍子先生などは、なびくところがあってはいけないわけだ。

BJの後ろ姿は、彼の心境を雄弁に語っている。ご機嫌なときは足取りも軽く、憤っているときは大股で、悲しいときは肩を落とし深くうな垂れて…。これが何とも言えない余韻に繋がることが多い。BJは歩きながら微笑んでいるのかもしれない。あるいは唇を噛み締めているか、もしかしたら涙を流しているのかもしれない。実際の表情が見えないぶん、読者はBJの表情を想像し、彼の心情を慮り、ストーリーを反芻しながらBJを見送るのである。

彼はどこへ行くのだろう。これが西部劇か何かだったら、風来坊BJはそのままいずこへともなく去って行くのだろう。しかし彼には帰る家があり、そこにはピノコが待っている。ところで、一人暮らしならまだしも、BJは心にいろんなものを抱えたままでピノコの待つ家に帰ることはしないのではないかと、私は想像するのである。楽しい気分のときなら、八っつぁん熊さんが現れそうな下町の一杯飲み屋へ、どうしようもない気分のときなら、店の片隅で男が人知れず泣いていても誰も気に留めないような薄暗い場末のバーあたりへ(BGMは暗めのジャズか陰鬱なシャンソン推奨)、暴れたい気分のときなら、キリコのところへ喧嘩をふっかけにでも行くのではなかろうか(キリコさん大迷惑)。

そういう観点で観ると、先般のTVアニメには不満が残るのである。原作のスタイルを踏襲してBJの後ろ姿で終わったお話は何作かあったように思う。しかし一人ではなくて、必ずピノコが一緒だったのだ。嬉しいにしろ悲しいにしろ、BJの孤独感が皆無だったのだ。いま私が思い出しているのは『オペと映画の奇跡』(原作『フィルムは二つあった』)のラストなのだが、BJとピノコの後ろ姿に「The End」の文字が被って一編の映画を観ているような凝った演出になっていた。BJの先見の明とスマートな引き際が印象に残った作品だが、この話、実はBJは相当傷ついていると私は思うのだ。世間から白い目で見られることは百も承知二百も合点、覚悟の上の闇の無免許医なのだが、こうも面と向かってオマエのことは認めないのだと言われれば、いかにBJといえども平常心ではいられまい。BJが大逆転の妙手を打って話は終わるものの、原作ラストでの2コマ続く彼の後ろ姿(もちろんBJ一人だ)は、決して「してやったり!」ではなくて、どこか寂しげなものに見えるのだ。

これだよ、これなんだよBJの魅力は! 進んで憎まれ役を引き受けて、相手にも傷を与えるけれども自分も同じだけ傷ついて、しかもそれを自分で舐めて治すしか方法を知らない男なのだ、BJは!

だから、こんなときにピノコが居てはいけない。BJというのは、傷を負ったことすら誰にも知られたくないと思うようなプライドの高い男だと思うのだ。様々な思いを噛み締めて飲み込むために、風に吹かれてコートの裾翻しながら独りきりで歩く時間が必要なのだ。酒を飲んだり夜の街を彷徨ったりすることが必要なのだ(たぶん)。そして、どうにかこうにか自分の中で納まりをつけてから、何もなかったふうに岬の家へ帰っていく。ピノコの出番はそれからだ。たとえ何かを嗅ぎ取っても知らないふりで、ピノコのペースに巻き込んでいけばよい。まともでないカレーライスを食べさせたり、おこづかいに100万円要求してBJをひっくり返らせたりすればよい。そうやってBJは癒されていくのだ。BJが基本的に孤独な男であるからこそ、ピノコの存在もまた輝くのである。

参考までに、全作品中ピノコが出てくる話は64作品しかない。やっぱり彼女はたまに出てくるから良いのだと思う。

(数え間違いがあったらごめんなさい。ついつい次から次へと読みふけってしまってカウントが疎かになりがちだったもんで…。)

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迷信

昨日観た『世界一受けたい授業』で、様々な迷信の意味するところを解説していた。大体において、子どもに礼儀や躾を徹底させるために怖いものと結びつける(つまり脅しの意味)ものか、霊的なものにまつわるもの、が多いようだ。

霊柩車を見かけたら親指を隠すというのは、親が死なないようにという意味だと思っていたが、それは最近のことだそうで、元々は自分の霊気とか精気を吸い取られないようにするために末端部分を隠すという意味だったのだそうだ。また、わが家では新しい靴を下ろすときには履いたまま下りてはいけない、つまり一旦靴を地面に下ろしてから足を入れなくてはいけないと教わってきたのだが、この意味もやっと判った。新しい器状のものには霊気が宿っているそうで、それに自分が乗っ取られてはいけないから、例えば靴の場合なら靴底に泥をつけることで「新しい」状態でなくすることが必要なのだ、ということだった。(突っ込もうと思えばいくらでも突っ込めるが、一応たいへんに納得したので突っ込まない。)

ここで言う「霊」というのは、たぶん目に見えないエネルギーの総称なのではないかと思う。手や指先から何かが出ているのではないかというのは、(科学的に見たらどうなのかは知らないが、)これまた何となく納得してしまうところだ。システィナ礼拝堂にあるミケランジェロの『天地創造』なんて、神とアダムが指先を触れ合わせるようなポーズを取っている。映画『ET』でもETと少年が同じポーズを取っていたが、これはミケランジェロの絵にインスパイアされたのかな? いずれにせよ、指先で交信をしている様子に見える。古今東西を問わず、指先からはエネルギーが出ていると考えられていたのではないかと思う。

あと、番組では世界各国の迷信も紹介されていたが、ロシアの「試験勉強をしているときには掃除をしてはいけない」というのも、せっかく身に蓄えた知識を「掃き出す」行為がよくないからだし、インドの「子どもが外食をして帰って来たら、ガンジス河の水を振りかけて清める」というのも、不浄のものを身に入れたかもしれないから身を清めるという意味で、要するに、目には見えないが何らかのエネルギーが身体を出たり入ったりしているという共通認識が根底にあるようなのだ。

重ねて言うが、科学的に見てそれが正しいのかどうかは知らない。しかし、それだけいろいろな場所や時代で同じようなことが信じられているのなら、そこに何かが存在していてもおかしくないと私は思う。そして、行きすぎは良くないが、そういうものを信じている人間のほうが精神的に安定しているのではないかとも思うのである。

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『東京タワー』

『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』を観た。リリー・フランキーの原作は200万部突破のベストセラー。原作を読んでいないのと、導入部を観て「これは最後まで観られるかな?」と思ったが、中盤からはあっと言う間だった。ボロ泣き。

以下、数年前の父の入院のときのことなど思い出していろいろ書いていたが、削除した。ひとつだけ。ドラマで病室に大勢の人がお見舞いに来て賑やかだったのは、とても良いと思った。一人で看るのはとても辛いことだから。

ニンテンドーDSライトを買ってきた。10軒くらい電話を掛けて、やっと「1台だけあります」の返事が返ってきたときの嬉しかったこと。でも、ソフト『ブラック・ジャック火の鳥編』はどこにもなくて、注文をして帰った。1~2週間後には届くだろう。

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29年前の拉致事件

米子市に住んでいた松本京子さんが17人目の北朝鮮による拉致被害者と断定された。20日には政府が認定する予定である。

数年前まで私は米子に住んでいた。この拉致が行われたとされる海岸には、夫の釣りに付き合って何度も行っている。私は釣りをしないので、松林に停めた車の中で本を読んだり居眠りしたりしながら夫を待っていたものだった。松本さんが拉致されたのは29年前だが、北朝鮮による日本人拉致はほんの数年前まで行われていたとも聞く。そんなところに一人ぼっちで何時間もいたなんて、なんて恐ろしいことをしていたのかと今さらながら恐ろしくなった。夫が釣りをしている場所からは土手があって直接見えないのである。もしかしたら、工作員が機会を窺っていたかもしれないなんて……(震)。

京子さんの母親は彼女の写真を毎日眺め、拉致されたときに現場に残されていた片方だけのサンダルを今でも大切に保存している。京子さんの兄は、今まで拉致被害者と認められなかったことへの苦渋を語っていた。政府に認定されるのとされないのとでは、周囲の反応はまったく違うのだそうだ。誰に言っても「拉致とは違うだろう」と言われ、外務省に訴えてもけんもほろろだったそうだ。家族でなくては判らない苦しみの末に、やっとスタート地点に立てたのだ。京子さんの母親はもう80歳を越えている。もっと早くなんとかならなかったのかと思わずにはいられない。

それに、もしかしたらまだ他にも拉致事件は存在しているのかもしれない。この松本京子さんの事件、私は当地にいたときでさえ、その場所でそんな事件があったなんて知らなかったのだ。地元の新聞社やテレビ局、どこでもよいが、この際、過去の事件を調べ直して、時の流れに埋もれてしまっている事件を掘り起こしてもらいたいと思った。

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照る葉と椎の実

朝っぱらから「シ●ンをひっくり返した。二人とも具合が悪くて起きられん」などという電話を受ければ、今日もまたヤルセナイ気分の一日になることは決まったようなもので……。それでも、医者に連れていくほどのことでもなさそうだったので、適当に掃除をして、冬物の着替えを用意して帰った。

帰り道、バスが来るまでに時間があったので、日頃歩かない道を少し歩いてみる。まだ錦秋というには程遠いが、所どころ色づいた楓に雲の隙間から差し込む光が当たっているのはとても綺麗だ。椎の木の下には椎の実がたくさん落ちていた。なんとなく五つ六つ拾ってポケットに入れてみる。子どもの頃にはよく城山まで拾いに行ったことを思い出した。山ほど拾ってきて、ほんの少しは食べたりもしたが、残りはどうなったのかな。しかしこんな道ばたにある木はかわいそうだ。ほとんどの実はアスファルトの上に落ちて車に轢かれる。それを鳥が啄ばむこともあるだろうが、子孫を残すことはできなさそうだ。

そんなことを思って家に帰って、ポケットから取り出した椎の実をわが家の庭のあちこちに放り投げておいた。それでなくともわが家の庭は雑木林のようなものだ。運が良ければ1本くらい椎の木が育つかもしれない。

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(備忘録061115)

千島列島付近で起こった地震による津波の情報を聞いていたら、いつの間にか寝ていました。きょうの記事はお休みします。いただいたコメントへのレスも明日させていただきます。すみません。

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毒吐きます

(!!今日は毒を吐きます。悪口です。興味のある方のみお読みください!!)

いやもう……。毎日いろんなところからのトラックバックがあって、削除したり投稿に規制をかけたりするのに大変である。たいていは、ブログの体裁をとって何かの商品の宣伝をするものだったり、エロ画像満載のものだったりするのだが、きょうはちょっと毛色の違ったものが来た。まあ宣伝ではあるのだが、とあるSNSへの勧誘である。名前は書かないけれど「人・モノの悪口を絶対に言わない!」が売りのSNSである。

とても立派な心がけで、私なぞ平伏するしかない。いや本当に立派だ。そうありたいものだ。「人・モノの悪口を絶対に言わない!」とはつまり、人様を不快にさせることもなく、自分自身の心を清浄に保ち、さらに上なる精神的な高みにも到達せむとする崇高な志の表れであろう。

でもね。私はそういう人間ではないのだよ、悲しいことにね。蔑んでもらって結構だが、「人・モノの悪口を絶対に言わない!」SNSに対する悪口を書くような人間なのだよ。虫酸が走るくらい、こういうことを標榜するのが嫌いな人間なんだよ。

何なんだろうなぁ、この気持ちの悪さは。人やモノの悪口は言うべきでないことくらい誰だって知っている。この私だって普段はそう心がけている。でもそれを前面に押し出して謳い文句にして勧誘するという行為自体に、嘘くささと薄っぺらさと趣味の悪さと品の無さを感じてしまう。会員制のSNSだからこそできることなのだろうが、いかにも了見が狭いやね。来る者こばまずどころか、最初から言論統制で人をフルイにかけるようなことをしている。いや、言葉は思想や感情と不可分であることを思えば、思想統制でもあるわけだ。そんな中で、いったいどんなことが話題になっているのか、これにはちょっと興味がなくもない。

しかし、まったく関係ない話題のブログ記事に勧誘トラックバックをかます行為は、彼らにとっては許容範囲なのかもしれないが、一般ピーポーには迷惑行為以外のなにものでもない。私にとっては人の悪口を読まされるよりもタチが悪い!(←これは嫌なら読まなきゃいいだけだ。)限られたお仲間の中で崇高なお話をするだけで満足していていただきたいものだ。……と、こう書いても、彼らは私への悪口や反論を言えず、仲間内で慰めあうしかないわけか。考えてみれば気の毒だね。

……ああ、そうか。気持ち悪さの正体がわかってきた。私は、基本的に他人とツルむことが嫌いな人間だ。自分から進んでそうしたのならまだしも、誰かと仲間になれと強いられることが苦手なのだ。会員制の、ネット上の密室に入ることなど私はゴメンだ。人間は密室に入れられると、そこに居る見知らぬ他人を良い人だと思い込もうとする性質があるように思う。言わなくてもよいことまで打ち明けたりして、和気藹々を演出してしまいそうだ。その結果であるところの個人情報の垂れ流しや、誹謗中傷が問題になっているSNSだからこそ「人・モノの悪口を絶対に言わない!」なんて標語を掲げなくてはならないのだろうと想像するが、私はそういう妙な馴れ合いの仲間意識が嫌なのだ。自分のブログにリンクを張らないのも、根底にはそういう意識があるからのような気がする。いやもちろん、こんな駄文を読みに来てくださる方々には感謝の言葉が見つからないほど感謝している。嬉しい。こっちからはリンクしていないのに向こうからリンクしてくださっている方々にも、どんなにお礼を申し上げても足りないくらいだ。しかしそれとは別の問題として、自分が困らない程度に自分の考えや日常をさらけ出し、不特定多数の皆さんからの様々なご意見やご批判を頂きたいと思っているのだ。そのために、自分にとって居心地の良いグループ、なぁなぁの仲間を特定したくはないのだ。皆様にはどうぞこれからも忌憚の無いご意見をいただきますようお願い申し上げます。

話がずれたが……。「人・モノの悪口を絶対に言わない!」ことは、何遍も言うようだが、決して間違ってはいない。(特に、匿名性の高いネット上で、特定可能な個人やモノの悪口を言うことは良くない。言うなら堂々と本人に言え、と私などは思う。)これは説明不要の常識であろう。しかし、これが人間に絶対にできないこともまた万人が認めるところの真実だろう。「セロリきらい!」これ一言でアウトである。これを聞いたセロリはどれほど傷つくことか(笑)。これは冗談だが、自分の好みを言っただけで、それはある人やモノに対する悪口になってしまう可能性は大きいのである。「あそこのケーキ屋さんのケーキが一番美味しいよ」と言えば、それは褒め言葉であると同時に「その他のケーキ屋さんはたいしたことないよ」と言っているのと同じである。本人が悪口を言おうと意図しているわけではないのに、結果的に人やモノを貶めることになることはままあることだ。だから、普通の人間には厳密な意味で「人・モノの悪口を絶対に言わない!」ことは無理なのである。私に至っては、文章をただの1行も書けなくなってしまうだろう。

前述のSNSは、何もそこまでのことを求めているわけではあるまいと思う。悪口雑言、誹謗中傷の温床とならないよう釘を差したという程度の意味だろう。それは判るのだが、ネチケット違反のトラックバック乱発をするようなところが、それを守れるとはとうてい思えないのである。しつこいけど。そんな仲間になんざ入りたくもないサ。

因みに、仏教では『十善戒』の中で悪口を戒めている。十善戒=不殺生 不偸盗 不邪淫 不妄語 不綺語 不悪口(ふあっく) 不両舌 不慳貪 不瞋恚 不邪見。キリスト教でははっきりと「悪口」とは書かれていないが『十戒』の中の第9戒(あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。)がそれに当たると思われる。

さんざん毒を吐きました。懺悔します。

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「ブラック・ジャック」を名乗る前

月曜日は『BJ』語り。
BJという男、「ブラック・ジャック」を名乗る前、つまり8歳の事故の後から開業するまでの暮らしぶりが謎である。きょうはその辺りのことについて。

ブラック・ジャック、本名 間黒男(以下の文章では、年齢によって「黒男」と「BJ」を使い分ける)。8歳のときに不発弾の爆発事故に遭い、母親とともに瀕死の重傷を負う。外科医・本間丈太郎の手により奇跡的に蘇るが、母親は帰らぬ人となる。父親はおそらく事故以前から家庭を放棄していたと思われるが、愛人とともに海外へ去り再婚、その後BJが世界的に有名な天才外科医となるまで再会することはなかった。

この爆発事故があったのは「曲り浜」という海岸沿いの場所。「このあたりは米国の特別射撃練習地になっています。不発弾がうまっていますから ぜったいに はいってはいけません。 県」という立て札が立っていた危険地帯だったが、自衛隊の特別作業班が不発弾の撤去作業をし、土地は売りに出された。しかし、この撤去作業が不十分なものだったのだ。早く土地を売り出したいがために充分な安全確認を怠ったのである。残っていた不発弾が3年後に爆発し、間母子が巻き込まれてしまう。以降、黒男少年は立て札を撤去した関係者5人を割り出し、復讐を誓うことになるのだ。

爆発による怪我の治療費は「県」が出したとされている(『不発弾』)。しかし、事実上孤児となり、歩けるようになるまでに3年もかかる重傷を負った黒男少年が、退院後どこでどのように暮らしてきたのか、この辺りのことがさっぱりわからない。月々の生活費や学費くらいは父親が送ってきていたのかもしれないとしても、毎日の食事は、洗濯は、買い物は、どうしていたのか。兄弟や親戚も出てこない。身寄りもなく、8つの年から彼はどうやって生きてきたのだろう。

いくら原作を読み返しても、わからない。手掛かりがない。その辺りは手塚治虫がBJを謎めいたままにしておきたかったのかもしれず、もうこれ以上考えても無駄なので、潔く諦める。それでも、黒男少年と関わった人たちのことは断片的にわかるので、以下に時代ごとにまとめてみよう。

【小学校時代】

小学校当時の友人に、間久部緑郎がいる(『刻印』)。大嘘つきで仲間からは嫌われていた少年だったが、車椅子に乗っていた頃の黒男とは心を許しあって親友となった。親のいないガランとした家の中で毎日毎晩いろんな夢を語り合い、一緒に通学した、と書かれているところを見ると、間久部とは一緒に暮らしていた可能性も捨てきれない。後に「暗黒街の皇太子」と呼ばれるほどの悪党になる間久部だが、彼にも親の影が見えないところを見ると、あるいは二人ともいわゆる孤児院のようなところで育てられたのではないかとも考えられる。しかしそれなら「親のいないガランとした”家”」と書くだろうかという疑問が生じ、ここはやはり二人がお互いの家を頻繁に行き来していたと考えるほうがよいように思われる。間久部も親の愛情を充分に受けられずに育ったのかもしれない。その後間久部は海外に渡るが、彼の多指症の手術をしてやったり(これが黒男が行った初めての手術ではないかと思う)、という関係が続いていた。しかし、口封じのために親友のBJをも殺そうとしたために友情は終わりを告げる(『指』)。この話はあまりに殺伐としていたためか後に『刻印』に描き改められ、BJを殺そうとしたのは間久部本人ではなくて彼の部下ということになった。間久部とBJの友情は美しいまま終わる……のは良いのだが、今度は逆に、誤解して間久部を告発して死刑に追いやってしまったBJの立場がなくなってしまった感がある。どういう結末を用意しようと、BJと間久部の関係はハードでスリリングで、そして多分に謎めいている。

黒男の顔面の皮膚を提供したタカシも小学校時代の友人である(『友よいずこ』)。混血児でいじめられっ子だったが、黒男少年とはノートを見せたり一緒にオタマジャクシを取ったりする仲だった。黒男が長い入院生活を経て学校に復帰したときにはタカシは既にどこかへ転校してしまっており、二度と会うことは叶わなかった。彼は過激な自然保護活動に身を投じ、結局それで命を落とす。タカシは、間久部とはその生き様において好対照をなしている。また時間的に見て、間久部より前からの友人だったようだ。

平松小学校時代の恩師は志摩先生(『虚像』)。児童から慕われる良い先生だったが、校長の不正を暴こうとして学校を追われた。後年BJが探し出したとき、志摩は麻薬中毒患者となっており見る影もない。更には、彼が教員の免許を持っていなかったこと、本当は校長の金を取ろうとしていたことを知り、BJは愕然とする。それでも、彼にとっては事故後の自分をかわいがってくれた恩師であることに変わりはない。志摩の身体を治してやり「先生……たっしゃで」と呟くのである。

もうひとり、お茶の水博士も担任だったらしい(『一ぴきだけの丘』)。話中の名前は不詳だが、自然保護運動協議会会長の役で出てきてBJに寄付金を募っている。

【中学校時代】

中学校の頃の友人としては矢口夏江(ナッちゃん)がいる(『クマ』)。一緒にマンガを読んだりして仲が良さそうである。黒男は将来医者になりたいと語り、彼女のほうは、ロバート・レッドフォードと結婚できないならクロオさんでよいと言ったりしている。しかし彼女はマタギの兄・冬造を奮起させるために熊の毛皮をまとい、挙句に兄に撃たれて非業の死を遂げるのであった。

どうしようもないヤサグレだった無理(←苗字である)も中学校時代の同窓生(『話し合い』)。本間先生が行った手術代の掛取りに行くBJの行動がなんとなく可笑しい。無理は今では荒れる学校の教師となって、暴力を振るう生徒達に無抵抗主義で立ち向かっている。(あまり話題にもならないけれど、この作品、なかなか傑作だと思う。)

【高校時代】

黒男が、その笑い声にイライラしながらもいつしか心を開いていった親友ゲラ(『笑い上戸』)。中学校時代の親友と書かれている本もあるが、医局員時代(25~26歳)の黒男が8年前と言っていることから、私は高校時代だと思う。復讐のためだけに生き、授業もサボってダーツの練習をし、荒んで笑うことすらできなかった黒男に、人間らしい暖かさで接することができたのはゲラだけだった。両親が借金の末に夜逃げをして、ひとり置き去りにされた悲しみを笑い飛ばし、「笑いは人間だけが持ってる感情だってさ」という名言や、「ねーまっ暗ん中に男が二人いるとホモみたい」という迷言を残している。しかし、サラ金の取り立て屋に黒男が持っていたダーツの矢を刺され、その傷が元で笑うこともできない闘病生活に入る。後年やっと探し出したBJの渾身の手術もむなしく二次感染が起き、最期に底抜けに明るく大笑いしてから息を引き取った。愛すべき人物である。

【大学時代~医局員時代】

大学時代の友人には辰巳先生がいる。大学を出てからも交流は続いているようで、BJの意見を仰いだり(『ホスピタル』)、逆にBJが彼の手を借りたり(『フィルムは二つあった』)している。頬っぺたに渦巻き模様のある風貌と誠実な人間の良さが忘れられないキャラだが、『壁』では学校の先生役で出たりしている。

安東医師。同窓生である。BJは空港でマニラ帰りの彼とたまたま出会う。無理矢理ちょっと一杯に付き合わされたために、コレラに感染したかもしれないという騒ぎになる(『コレラさわぎ』)。医師であることの使命感とか緊張感をまったく感じさせない人物(笑)。

姓名不詳だが、『はるかなる国から』『誤診』『しめくくり』に出てくる大きな病院の院長が黒男の学友である。医者としてはヤブで、BJが尻拭いをやらされたりしている。名誉欲や自己顕示欲の強い、いっそ清々しいほどの俗物として描かれているが、BJに手術室を貸してくれたりして、それなりに双方にメリットがあるので付き合っているようだ。

医局の後輩に如月めぐみ(『めぐり会い』『海は恋のかおり』『人生という名のSL』)がいる。おそらく黒男が初めて本気で好きになった女性だったが、悲恋に終わる。

手塚医師。同じ医局にいたらしい(『笑い上戸』)。その後も、何かあると相談に行ったり来たりしているようだ。手塚治虫自身がモデルであることは言うまでもない。

BJの命の恩人にしてBJが恩師と仰ぐ本間丈太郎先生。実際にBJに学科なり手技なりを教えたことがあるのかどうかは判らない。しかし、「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて おこがましいとは思わんかね」(『ときには真珠のように』)という遺言は、BJにとって最大の苦悩の種であると同時に最高の薫陶であろう。

山田野先生。『助っ人』においてBJを「教え子じゃ」と言っているので、恩師であることは間違いない。そしてその大学は「ポン骨大学」かもしれない。BJに「人間のからだをあなどっちゃいかん。あなどってかかると きっとしっぺがえしをくらうぞ」という厳しい言葉を投げかける一方で、BJのトラウマからくる痙攣を治したり(『けいれん』)、無免許医ゆえに公開手術など見られないBJに便宜を図ってやったり(『音楽のある風景』)する、BJを慈しんでくれる数少ないお医者さんである。目を悪くして引退した。

アフリカの奥地で原因不明の奇病と闘う戸隠先生。『ちぢむ!!』においてBJを呼び寄せ、「きみは優秀な教え子だ」と言っている。体が縮むのは、限られた食糧を生きもの全部で分かち合わねばならないからではないのか、これは神の警告ではないのかと言い残して息を引き取る。戸隠先生の亡骸を抱いて「医者はなんのためにあるんだ」と絶叫するBJの姿は忘れ難い。

【時期不明】

姓名不詳だが、財団法人ゴキブリぼくめつ粉砕協会の会長(?)が同窓生らしい(『奇胎』)。同じホテルに泊まって二人で「母校にカンパイ」なんて酒を酌み交わしている。BJに会への寄付を頼むが、「おれはゴキブリが好きなんだ」とキッパリ断られている(爆)。

五條ミナ。『BJ』シリーズ中、最大の謎の女性である。姿を現したことはなく、『宝島』においてメモにその名が書かれているだけの登場である。BJの言によれば「8年前死んだんだ。私をかわいがってくれた看護婦だった」ということらしい。BJはそれをよほど恩に感じたのか、沖縄出身の彼女のために、自分が買い取った島に沖縄風の亀甲墓を作ってやっている。しかし彼女が黒男を可愛がったというのが爆発事故の入院生活のときのことなのか、その後のことなのかがわからない。8年前に死んだのなら、医局員時代に世話になったというのとも違うようだし……。う~ん、謎だ。因みに沖縄がアメリカから日本に返還されたのが1972年、『宝島』が掲載されたのは1975年である。(何の手掛かりにもならないか…)
しかし、想像をたくましゅうすると、五條ミナこそが事故後の黒男少年の世話をしていた人物なのではないかとも考えられなくはない。本間先生と同じ病院に勤めていた看護婦で、黒男の身の上を案じた本間先生が彼女を派遣したのだとしたら…。母を亡くしたばかりの黒男少年にとっては、まさに母親代わり。亡くなったときに墓を作ってやるくらいのことはするのではないか。そして彼女がBJに遺言したということ自体、彼女が黒男を自分の子どもとも思っていた証拠ではないのか。

そう思ったのにはワケがある。ここまで書いてきてふと思ったのだ。「BJとアルセーヌ・ルパンは似ている」と。何を突然、と思われるだろうが、ルパンも12歳のときに最愛の母を亡くしてから20歳までの経歴が不明なのである。父親は彼が赤ん坊のときに既にアメリカで死亡していて、父親の愛情を受けられなかった点も黒男と同じである。ルパンは6歳のときに、マリー・アントワネット所縁の品である「女王の首飾り」を盗み出すことに成功する。しかし疑われたのは彼の母親だった。世話になっていた人からも酷い仕打ちを受け、彼は母を辛い目に遭わせた世間を憎み、復讐を考えるようになる。病弱な母親が亡くなった12歳以降、彼がどうやって生きてきたのか、彼は人に訊かれてもはっきりとは答えないのだが、勉学とスポーツに勤しみ、一方で悪事に手を染めていたものと思われる。これも、将来医者になることを夢見ながら、母親の復讐を考えてダーツの練習に明け暮れていた不良少年黒男の姿とダブるものがある。この時期は彼らのいわゆる修行時代である。
しかし、ルパンにはヴィクトワールという乳母がいた。困っていたルパン母子を助け、ルパンが成人してからも彼を「坊や」と呼んで溺愛した女性である。彼女から受けた愛情のおかげで、ルパンは極悪非道な悪人に成り下がらず、怪盗紳士と呼ばれるような泥棒になったのだ。ならば! ここまで似ている二人ならば! 黒男少年にもヴィクトワールのような役割の女性がいたのではないか。そう考えると、それが五條ミナという女性であったような気がしてならないのである。

Bj2 ま~た長くなっちまったヨ……。ファッションもよく似ているルパンとBJの落書き1枚。BJが持っているのは札束ということでどーかひとつ(汗)。

BJソフト買うべきかなぁ(本体も持ってないくせに)。でも私に手術なんかさせたら、助かる患者さんも助からないんだろうなぁ…。

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呆れた

昨日録画した6時間番組『たけしの日本教育白書』を少しずつ観ている。

恥を知らぬバカ親たちの存在にもたいがい驚いたが、それより暗澹たる気持ちになったのは、子どもたちだけの話し合いの内容だ。妙に世間擦れした会話をするかと思うと、今が嫌なら自殺してまた生まれ変わればいいじゃん、というようなことを平気で言う、そのギャップの大きさ。(もしや最近の子どもたちは皆チベット仏教の信奉者なのかと思ってしまった。)命の重み、自分がここにいることの重さを感じていないことが、はっきり判った。いや、その年頃なら(小学校高学年~中学生)まだそんなことが判らなくてもよいのかもしれない。しかし、だったら、大人びた口調で、いじめを繰り返す自分を正当化するなと言いたい。プンスカ!

え~と、いろいろ書きたいことがあったはずなのに、忘れてしまった(笑)。あ、そうだ! 結局「品格」と「教育問題」との関係がよくわからなかった。ただ流行語を入れたかっただけのような印象。それから、いろいろ事例は紹介されていたけれど、そして今まで手をこまねいていたことが指摘されてはいたけれど、ならばどうする?というところまで行かなかった気がする。久米宏さんの話はもうちょっと聞きたかったな。

「日本昔話を変えてしまう親」というところで出てきた18人桃太郎には笑った。誰か一人を主役にするのは不公平だから……って、ああもう、何と書いたらこの胸に渦巻く呆れMAXを表現できるのか。この子達の親の顔を心底見てみたいと思った。きっと縦にバカ、横にアホと書いてあるに違いない。おお、親の顔が皆一緒、平等だゼ! ああ、ホント疲れた。

ふと思い出した。小学校のときの学芸会で、私は「水」の役だった。一生懸命やった。それだけ。

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(備忘録061111)

さっきまでビートたけしが出ている教育問題を論じるTV番組を観ていて、疲れてしまった。いや、内容はそこそこだと思うのだが、何しろ長丁場なものだから…。もう最近は2時間と続けてTVを観ていられなくなった。集中力が続かない。本なら何時間でも時間の許す限り読めるのに。

ところで、番組の途中のCMで懐かしい曲を聴いた。JTのCMに使われている、Mの「Pop Muzic」。あと、何のCMだったか忘れたが、The Knackの「My Sharona」。両方ともノリの良い曲だ。「My Sharona」はもしかしたら当時シングルを買ったかもしれない。

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「指定バトン」

神無月さんからまたまたバトンを頂戴しました。いつもありがとうございます。

今回は「指定バトン」とのことで、神無月さんのご指定は『BJ』でした。以前にやった「もしもバトン」というのによく似ていましたが、項目が少ないぶん迷って、キャラを入れ替えたりしました。以前の答と違うところがあるのは、そういうわけです。では行ってみましょう「指定バトン」。

1.家族にするなら

父・・・本間先生。厳しくて優しそう。包容力のあるお父さんです。
母・・・白拍子先生の母。髪型が変なので一緒に歩きたくはないけど、厳しくて優しい良いお母さんだと思います。
兄・・・友引警部。頼り甲斐があって、甘えさせてくれそうな気がします。   
弟・・・BJ。なんとかBJを入れようとすると「弟」しか該当する場所が見つかりません。私にとって先生は恋愛対象ではないようです。昔は「BJ先生サイコー!!」だったはずなのに、いつからこうなってしまったものやら? あんな弟がいたらもう舐めるようにして(実際に舐めるかもしれない)可愛がりますよ。身体中くすぐりまくって笑い転げさせてやりますよ。兄妹全員で集中砲火ですよ。で、本間パパに「弟を自由にしようなんておこがましいとは思わんかね」とか言って怒られるですよ。でも全員が「思いません」って言って続けるですよ。そしたら、本間パパも参戦してきて……2時間後に買い物から帰ってきた白拍子母ママに救い出された頃にはBJ弟、笑いすぎて息も絶え絶えになっておるですよ。腹筋が痛い痛い言って泣くですよ。可愛いな~。歪んだ愛情スミマセン。
姉・・・BQ。あんな綺麗なお姉さんが欲しいです。でも、BJと姉弟ってマズイよな…。
妹・・・以前はピノコと答えましたが、今回はヨーコにします。哀れで可愛くて、タマラナイ…。 あんな妹がいたらもう舐めr(以下略)。

2.彼氏にするなら

ブリリアント三世。彼、めっちゃ好きなキャラなんですわ。ハンサムだし、やると言ったらやるし、女性に優しい紳士だし。焦がした肉じゃがを出しても「この苦味がいい」とか言って食べてくれそうな気がします。

3.愛人にするなら

キリコ氏。いつも逢っていたいとは思わない人だけれど、たまに逢えばちゃんとエスコートしてくれて楽しい時間を過ごせそう。何事にも執着しそうにない人だから、別れ話がこじれる心配もないと思う。(どーしてキリコ氏とは長続きする気がしないのか不思議だ。)

4.結婚するなら

蟻谷さん。『BJ』キャラの中で一番の「漢」と言えば彼ではないかと。いろんな割りを食って出世なんかと縁がなさそうな人だけど、誠実で暖かい人だから一緒にいれば幸せになれるんじゃないかな。家では尻に敷けそうだし…(ヲイヲイ)。

5.次に回す人に指定付きで五人以上

すみません。今回もアンカーということで。一部お見苦しい点がありましたことをお詫びいたします。

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麻雀の思い出

きょうは久しぶりにパソコンで麻雀をやったら、いきなり国士無双ができてしまった! それだけ配牌もツモも悪かったということだが、その後もチャンタ系の手でトントン拍子で勝ち続け、ぶっちぎりのトップだった。

私が麻雀を覚えたのは小学校3年生のとき。父が教えてくれた。もちろん賭け麻雀などではなくて、週末に家族4人で卓を囲む家庭麻雀だ。兄が家を離れていたときには、私と両親の3人打ち。マンズか何か1種類を抜いてやっていた。明日テストだというのに、無理矢理やらされた記憶もある。(それで成績が悪いと怒るんだもんなぁ……。)

最後にやったのは、4年ほど前だ。父が入院を翌日に控えて「やろう」と言ったので、母と3人で囲んだ。今は父はほとんど寝たきりで座っていられないし、母はもうルールも覚えていないだろう。先日何気なく麻雀牌を見たら、全体にカビが生えたようになっていた。昔のものなので、裏は竹、表面は何かの骨か牙だ。ところどころ字も薄くなっている。もう一度家族で麻雀ができる日を夢見て、丁寧にカビを拭った。

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開ける?開けない?

テレビをつけると教育問題ばっかり取り上げられている印象だ。ちらりと見た番組では、小学校の道徳の授業の様子が映っていた。先生が例題を出し、児童はそれを2日にわたって議論するというスタイルで、例題として挙がっていたのは「門番」の話だった。うろ覚えだが、そのあらすじを書いてみると…。

ある男(名前を失念したので”A”とする)がお城の門番を命ぜられた。父親がAを諭す。「この国は王様がいるから我々は安心して暮らせるのだ。王様をしっかりお守りしなさい」。先輩BがAにアドバイスをする。「この門は、味方が戦に出掛けるときだけに開ける門だ。以前、敵兵に騙されて門を開けて酷い目に遭ったことがある」。Aは2人の忠告に従って門を守っていたが、ある日、ドンドンと門を叩く音とともに「王様が急病だ。今すぐ門を開けてくれ」という声がした。さて、Aは門を開けるべきかどうか----。

スタジオの大人は、「開ける」と「開けない」が同数だった。小学校では「開ける」がやや多い。両派に分かれて向かい合って座り、討論開始。「王様の一大事なのだから開けるべきだ」「いや、戦に行くときだけに開ける門なのだから開けるべきではない」。様々な意見が飛び交う。結論の出ないまま1日目が終了。2日目、意見が変わった者は席を移ってもよいと言われ、数人の児童が動く。「開ける」派がかなり多くなった。「騙されているのかもしれない」「確かめればよい」「どうやって?」う~ん…。

2日目も結局結論は出ない。けれども、児童たちは自分とは違う意見にもそれなりの理由があることを知り、一方的な決め付けをせずに皆の意見を尊重するようになる、と締めくくられていた。そういう面は確かにあるかもしれない。自分と違う意見を持つ子を排除することはなくなるかもしれない。そういうことを教えるのが主眼なら、こういう方法もアリだ。でもこれ、道徳かなぁという感想を持ってしまったのは、私が古い時代の道徳の授業を受けたからだろう。なんとなく例題の内容そのものが生かされていないように思われた。ちなみに、我々の同世代なら、この答は「開けない」だろう。

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猫のシャー 飼い主でもないおばさんを走らす

私の私室は2階にある。2週間ほど前から、通い猫のシャーがその部屋の窓から顔を覗かせるようになった。最初は、突然窓から「ニャ」という声がしたのでビックリした。見ると、1階の屋根に座って窓枠に手をかけて中を覗き込んでいる。なんて可愛らしい格好! 彼女も、いつもは縁側にいる私がこんなところにいるのでビックリして声を掛けたのだろう。「よしよし、エサをやろうね」と言ってから下に降りて縁側で待っていると、ほどなくしてやってきて「ニャ」と鳴いた。通じたらしい。

以来、夜になると毎日のように窓から顔を覗かせるようになったので、そのたびに私は下に降りなくてはならない。今までは晩ご飯どきになると縁側の外でじっとおこぼれにあずかるのを待っていたものなのに、その時間にはサッパリ姿を見せなくなった。私の部屋の窓にやってくるには、台所の脇にある樟の木をよじ登って1階の屋根に飛び移り、そこから屋根伝いに家の周りをグルリと3/4周するしか方法がない。そこで「ニャ」とアピールすると、今度はルートを逆に辿って樟の木から地上に降り、更に縁側まで家の外を1/4周するのだ。エサをもらえるのは縁側だけなのだから、どう考えても従来のように最初から縁側で待っているほうが利口だと思うのだが、彼女にとってはそうではないらしい。毎晩、窓から「ニャ」と鳴く。

楽しんでいるんじゃないか、と夫が言った。私もそんな気がする。2階で挨拶をしてから、今度は縁側でエサにありつく。このルートを発見開拓したことが、彼女は嬉しくてしょうがないんじゃないかな。なんとなく私自身は彼女にいいように使われているような気がするのだが、窓から覗く様子が可愛いから……許す。

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BJの色っぽさ

月曜日は『BJ』語り。きょうは思い切り趣味に走って、BJの色っぽさについて。

昨日のエントリにコメントをくださった三景さんのご指摘にもあったが、手塚治虫のマンガの要素を「白手塚」「黒手塚」と称して分けることがあるようだ。「白手塚」の方は、明るくて元気で公明正大で健康的で明朗活発な諸要素であるが、「黒手塚」の方は、そこから受ける感情を素直に口に出して人に言ってよいものかどうか考えてしまうのだけれど「ウンこのどす黒い感情も大いにわかるゾ」というような要素である(わかりにくいな)。つまり、エロス(それも常軌を逸した)とか猟奇趣味とか禁忌を破るとかその他もろもろの、いたって原初的、動物的な本能に直接ビビッと響くような暗黒面の要素である。作品で言えば、『奇子』とか『MW』とか『アラバスター』から受ける印象と言えばよいのか、……なにしろそういうモノだ。「白手塚」作品が『鉄腕アトム』とか『ジャングル大帝』であると言えば、対比としてわかってもらえるだろうか。あるいは、TVアニメ版『BJ』は「白手塚」で、原作は「黒手塚」だと言ったほうがわかりやすいか。

しかし、私はとてもではないが「黒手塚」全般について語ることはできない。語れるほどたくさんの手塚作品を読んでいない。また、『BJ』も作品全体としては「黒手塚」に分類される印象のものだと思うが、決してそれだけとは言えず、白と黒が両方うまくバランスをとって現れているように思われる。そもそもが、白と黒に分けることに意味があるのか、分けられるものなのかという疑問も持っている。だから、ここでは単に「色っぽさ」という観点のみで書いてみる。

手塚治虫の描くキャラというのは、たいがい色っぽい。柔らかい筆致、曲線や円を基調とする描法からもそれは感じ取ることができる。アトムの丸っこいお尻や太もも、BJの分厚くて長い睫毛。一言で言えば、強いはずの男性キャラにもどこか女性的な要素があり、それを読者は知らず知らずのうちに「色っぽい」と感じている。逆に『リボンの騎士』のサファイヤは、男性の格好をすることで倒錯的な色っぽさを醸し出す。女性の格好をしていればなんの色気も感じない。宝塚歌劇の男役とか『ベルサイユのばら』のオスカルがこれに該当するだろう。つまり、中性的なモノが「色っぽい」のである。これが【色っぽさの要素 その1】。

しかし、これだけ色っぽさを感じるのに、絵だけ見ると手塚キャラはみんな幼顔なのである。で、こんな絵に色っぽさを感じてしまう自分はどこかオカシイのではないかとひとり悶々とするのであるが、ここで思い出すのは「艶(なま)めく」という日本語である。「艶めかしい女性」とか言いますな。これの語源は「生めく」である。ここで言う「ナマ」とは「未成熟」という意味だ。つまり元々は未成熟なものを指して「なまめいている」と言っていたのであるが、長い年月を経て「未成熟だ」→「可愛らしい(魅力がある)」→「色っぽい(魅力がある)」に変わっていったものと思われる。可愛らしい魅力と色っぽい魅力というのは、どうやら近い領域であるらしいことがわかる。ここに至って、幼顔に色っぽさを感じるのはどこもオカシクないという結論に達するのである。ことに日本人は他民族と比較してもネオテニー志向が強い民族であるらしいから、ますますオカシクないのである。強引だな…。これが【色っぽさの要素 その2】。

さて、BJの色っぽさをこれらに当てはめてみよう。まずは、何遍も言うが、睫毛である! なんだあの睫毛の長さは! 目を開けているときにはその存在を感じさせないが、ふっと目を伏せたときには女性キャラ顔負けの長い睫毛が出現するのである。太い線で横に睫毛を描き(普通のキャラはここで終わり)、さらに放射状に縦に数本の睫毛が描き足されている。かと言って顔の作り自体は決して女顔ではない。普通の男性キャラ並みに口が大きいし、顎も張っているし、三白眼だし、眉毛ももみあげも濃くて太い。黒ずくめの衣装でコートの裾を風になびかせて歩く様は男性的で渋い。なのに、睫毛が長いのだ。この混在はまさに中性的な魅力となり、【色っぽさの要素 その1】に該当する。

次に、髪。どこでカットしてもらっているのか知らないが、とても不思議な髪型である。右半分はほとんど顔が見えないほどに前髪を長く垂らし、後ろ髪もあれだけ飛び跳ねているのだから相当長いと思われる。水に濡れたらかなりの長髪であることがわかるはずだ(OVA版ではシャワーシーンでオールヌードを披露していたが、髪の長さにまで注意していなかったのが悔やまれる。どこを見ていたんだ自分)。この長髪、特に顔を隠すほどの前髪というのは【色っぽさの要素 その2】に該当する。身辺の男性を思い浮かべていただきたい。男性はある程度齢がいくと、たいてい額を露わにする。横分けかオールバック、あるいは髪自体がなくなるか。『BJ』キャラでも、友引警部や哲や手塚医師や琵琶丸などの大人の男は、前髪を垂らしていない。私などはそういう大人の男(一般的にはオッサンと呼ぶようだ)の魅力にゾッコンなのであるが、それはひとまず置いといて…。時代劇でも、前髪のある男はまだ元服前。華やかな若衆だったりする。つまり前髪は若さの象徴。BJは未成熟なもの、若者として描かれており、そこが色っぽいのだ。

髪は色気と密接に関わっている。俗世を離れて出家する者がまず剃髪をすることからも、それは明らかだろう。仏教でもそうだし、キリスト教でも通称ザビエルカット(正式にはなんて言うんだっけ。トンスラ?)にする。神仏に仕える者であるという目印や儀礼の意味だけではあるまい。おそらく根本には、異性にとって魅力がなくなり相手にしてもらえなくなるから修行に専念できるという、人間の心理に則った理由があると思われる(尼僧に魅力を感じるという方はもうひとつ段階が進んでいると思われるので、ここでは黙っていていただきたい)。普通は、男も女も豊かな髪を嗜好する生態があるのだ。これは、髪があることがまだ年が若い(繁殖能力を持っている=SEXの対象となる)ことの象徴だからなのである。

次に、傷跡。BJには顔面だけでなく、全身いたるところに傷跡がある。髪が白黒二色なのも傷跡と言えるだろう。これらは彼の壮絶な生き様をも象徴するものであるが、「黒手塚」の視点に立つと、それがえもいわれぬ「色っぽさ」となる。引き裂かれた身体を縫い合わされ、足りないところは他から調達して作り上げられた、世界に二つとない肉体。その生々しさ、不完全さ、醜さ、一種の畸形、そしてそれらが彼の心理面に及ぼしたであろう影響、さらに言えば存在自体の異常性と猟奇性。そこから感じ取れるすべてのことこそが「色っぽさ」なのである。【その1】【その2】のように外見でわかるものとは性質が違う。普通の読者が、それを感じ取ることに後ろめたさを感じるような、嗜虐性に近い、そんな性質のものである。

完全なるもの、全き美には、おそらく人は色気を感じない。そこにあるのは厳かな聖性だけであろうことを思えば、くどいまでの特異性を付与されたBJは、それだけで異形であるが故の濃密な色気を身にまとっているのである。しかし彼はよほどのことがなければその肌を人前にさらすことをしない。真夏でもスーツにコートで腕さえ出さないし、銭湯へ行くのでも人が少ない時間を見計らって行っている(湯治宿で、周りがおじいちゃんおばあちゃんだらけのときはその限りではない)。隠されたもの、というのはまた暴きたい欲望を掻き立てるものであるから、あの年がら年中着たきりの重装備も、顔の半分が見えないことも、彼の色気に一役買っていると思われる。

色っぽさの要素にはまだまだいろいろなものがあるだろう。動作とか視線とか声とか匂いとか。そもそも、色っぽい魅力というのは自分独りの世界ではなんの役にも立たないもので、他人の存在があり それを惹きつけるために初めて存在意義がある。それだけ性欲と直結しやすいものだと思うのだが、【色っぽさの要素 その1】中性的なものに色気を感じるというのは矛盾しているように感じられる。書いているうちにそう思われてきた。そこで思い出したのが、プラトンの『饗宴』に出てくる「アンドロギュヌス」である。たいてい男と女がひっついて頭が2つ、腕が4本、脚が4本の形が完全体である。だから両性具有である(男同士、女同士がひっついたものもあるが)。これが神に反逆したものだから、神が怒ってその身体を両断してしまい、今の人間の姿になった。だから人間は自分の片割れを探し求めるという話だ。ここで一気に飛躍した考えになるが、中性的なものに魅力を感じるというのは、もともと両性具有で完全だと思っていた名残りだと考えれば説明できるな、と。一人の肉体の中に両性具有を見るわけだ。もちろん、生物学的にはそんな進化はなかっただろうし、むしろ話は逆で、欠けたものを補って完全になろうとする人間の志向を神話に作り上げたに過ぎないだろう。しかし、人間に自ずと備わった完全なものを希求する感覚が【色っぽさの要素 その1】なのかなと思った次第である。

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『ラストメッセージ1 手塚治虫』

NHKスペシャル『ラストメッセージ1 手塚治虫』を観た。涙が出てきてしまった…。もっと長生きして、もっともっと作品を描き続けていただきたかったなぁ。

番組では、彼の生い立ち、戦争体験、医師時代の体験、マンガ家となってからの体験などが、彼が亡くなる3ヶ月前に とある中学校で行った最後の講演と重ね合わせて描かれていた。このとき彼が子供達へ伝えたかった3つのメッセージ、それは「やじ馬となって、いろんなことに食いついていってほしい」「これまでの人生、これからの人生で出会う大きな出来事を、生涯忘れないでいてほしい」そして「命を大切にしてほしい」ということだった。

今でこそ「マンガの神様」といわれる手塚だが、昭和20年代には有害図書排除の風潮の矢面に立たされたという。まさに焚書坑儒を思わせるような、マンガの山が燃やされる写真が紹介されていた。ろくにマンガを読みもしない大人の一方的な決め付けには、さすがの手塚も怒りを覚えていたに違いない。しかし子供達は違った。手塚の描く夢と冒険に溢れたマンガを歓迎し、『鉄腕アトム』が大ヒットする。だが、その後に訪れた劇画ブームもまた手塚のマンガ家生命にとっては危機的なものだった。リアルな描写がもてはやされ、彼自身もこれまでにない作風を模索せざるを得なくなり、従来の彼のファンが去っていく。後年の彼はその時代について「自分の最低なとき。時代に迎合した」と語っていた。もはや彼の時代は終わったと思われた頃、一話読み切り、人気が出なければ4話で打ち切りという条件とともに仕事の話が舞い込む。そうして生まれたのが、彼の代表作とも最高傑作とも言われる作品、『ブラック・ジャック』だった。

幼くして小児ガンで亡くなった弟と一緒に『BJ』を愛読した読者は「弟はきっとBJのような医者がいることを信じて、生きる力にしていたのだと思う」と語り、現役の心臓外科医は「医者としてのBJのジレンマがよくわかる」と語る。

また、爆弾が落とされ燃える街を逃げ惑い、死屍累々たる淀川の光景を見たときの彼の衝撃と、医師時代に臨終に立ち会った患者が苦しみ抜いた末に穏やかな表情になったのを目の当たりにしたことは、彼に「生命」というものを考えさせる大きな経験となった。人間の命はたかだか50年70年のものだけれど、もっと大きくて永遠の生命の存在を感じたことが、彼の作品に大きな影響を与えることになる。彼のライフワークともいうべき『火の鳥』。『BJ』と並んで、まさに「生命」そのものをテーマにした作品だ。

後年の手塚は、子どもがわからなくなったと感じていたらしい。夢も希望もなく、すぐに「もう死んでしまいたい」と口にする子供達。親だけのせいでもない、学校だけのせいでもない、と語る手塚治虫。ならば、何がどうおかしくなってしまったのか。それを具体的に語る前に、昭和とともに彼は逝ってしまった。

いじめや学級崩壊が多発する現代を、彼が生きていたらどのように観るだろう。まだ「子ども」が子どもであった時代に、「生命」という大上段にふりかぶったテーマを子供達にもわかるように描いた彼なら、今の子どもたちにも大切なことを訴えかけることが可能だったかもしれない。彼の作品を多感な時期に読むことのできた自分の幸せに感謝すると同時に、今さらながら、彼の死が惜しまれてならない。

(文中引用した語句はうろ覚えなので正確ではありません。)

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(備忘録061104)

久々にチャットしました。楽しかった~♪

つるさん、みささん、りえさん、ののちゃん、ももちゃん、ありがとうございました。

m(_ _)m

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お誕生日

「文化の日」、昔流に言えば「明治節」(明治天皇の誕生日)。ここから「治」の字を取って名付けられたのが、昭和3年の今日誕生した手塚治虫である。天国の手塚先生、お誕生日おめでとうございます。

きょうは『BJ』DVDのVol.16も買いに行ったし、ふと目的もなく立ち寄った「ポ○ラ」でホットドリンクに付いているBJとピノコのモデルノは見つけるしで、BJに縁のある日だった♪ だって「tezuka moderno」は12種類もあるというのに一番手前にBJとピノコが仲良く並んでいて、パッケージのBJと視線がドンピシャと合ってしまったのだから、これはもう運命としか…。「せ、先生が呼んでいる!」(誰か止めてぇ!) 両方買った。

ちなみに、私の超個人的設定では、BJの誕生日は今日である。さそり座の男だ。根拠なんぞありはしないが、強いて言うなら手塚治虫の分身ということで同じ誕生日。「クロちゃん」だから9月6日という説が多いのだけれど、私一人が勝手に祝うぶんには構わないだろう。お祝いの意味を込めて、わが家の今晩のメニューはカレーにした。(まさかお茶漬けというわけにはいくまいて。)ついでに言うと、ピノコは母性を象徴するかに座だと良いなと思うし、キリコは二面性のあるうお座か さそり座のような気がする。アニメ版白拍子はてんびん座(いやなんとなく)。

夜、夫と一緒にDVDを観る。「ピノコ誕生」で、実の姉から拒絶されるピノコを、なんとも痛ましそうな顔をして観ていた夫は、私以上のピノコファンである。以前、「偽りのウェディング」を観たときには、BQを観て「美人だ、美人だ」を連発していた。どうやらBJと同じ美的感覚を持っているようである(笑)。さ~て、残り2本、「笑い上戸の同級生」と「文化祭の用心棒」を観よう。そうだ、5日夜9時からの録画予約もしなくちゃな。

明晩は某所でチャットの予定。更新できないかもしれません。

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お地蔵さまが見てござる

近頃の「いじめ」問題の報道を見ていて思う。学校がいじめの存在を認めるかどうかというレベルでワイワイやっているだけで、その先がまったく見えない。まあ、私がほとんどテレビを見ていないから耳にしないというだけなのかもしれないのだが。

どうしてこういう時に宗教家が黙っているのかと思う。先日文化勲章を受けた瀬戸内寂聴さんだけはテレビでコメントしているのを見たが、そのほかの人たちは何をしているのだろう。「いじめ」は心の問題だ。心の問題なら宗教の出番だろうに。今の学校では心のあり方までは教えてくれないようだ。私は、幼少の頃は少々強引にでも型にはめてよいと考えているのだが、個性を尊重する時代においてはそれは違うらしい。しかしそのやり方で認められた子供達がのびのびとやっているかというと、そうでもないようで、弱い者を作り上げて「いじめ」を繰り返す。心が育っていないのだ。心の伴わない個性もないもんだ。

心を形成するには、何か絶対的なものの存在が必要だと思う。キリスト教圏においては、それは神イエス・キリストだろう。子供達には学校以外に教会という心を育む場所がある。日本にはそれがない。昔はあったのだ。家にはお年寄りがいたし、神棚がありお仏壇があった。朝日に向かって拍手を打つお爺ちゃん。ご飯を炊くと一番に神棚とお仏壇に供えるお婆ちゃん。家にいながらにして、自分よりはるかに大きな何物かに触れ、自分の行動を軌道修正できる機会があったのだ。今はそれがない。お盆に、自分をここにあらしめてくれたご先祖を偲ぶ気持ちを持っている人などはたして何人いるだろう。旅行に行く日と思っている人のほうがはるかに多いことだろう。

自分がここにあること。他人がここにあること。その意味を語ってくれる宗教家が今こそ必要だ。あるお寺の門に「お地蔵さまが見てござる」という言葉が掲げてあったのを見て、歩き歩きそう思った。

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近所の家

わが家から水路を隔てて斜め向かいに建っていた古い二階建ての空家が取り壊された。壊しては運び出し、壊しては運び出ししていたので3日ほどかかったが、しかしそれにしても「あっ」という間だった。昔は、あるお菓子屋さんの従業員さんの寮に使われていたのだが、ここ20年くらいは空家だったのではないかな。漏れ聞こえてきた作業員さん達の会話によると、どうやらこの夏の水害で浸水したらしい。だいぶん傾いているとのことだった。重機を使って端から壊していく。メリメリ、ドスーン、ガチャーン。地響きと振動で、家の中にいても車酔いしたような気分だった。

家は人が住んでいないと荒れるものだ。なにしろ古い家だった。外壁には草が伝い、窓枠なども脆くなって、きっとあの窓は開かないに違いないと思われた。この家のおかげでわが家からは花火が見えないという不平もあった。けれども、毎日庭先から眺めていた家がなくなるというのは、なにやら寂しいものだ。持ち主ではあるが毎日見に来るわけもないお菓子屋さんよりも、私のほうがあの家には愛着があったのではないかと思う。いや、もっと切実なのは、その家の床下などを根城にしていたノラ猫たちかもしれない。

もう二度と見られなくなってしまった。周りの木もだんだんと伐られつつある。なにやら物悲しい……。

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