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2007年3月

ティファニー美術館閉館

本日をもって閉館したらしい。毎年2月頃には『市報』に無料券がついていたので、タダで入っていた。今年は忙しくて行かれなかったのが残念だ。今にもアルセーヌ・ルパンが夜会服に身を包んで現れそうに思えるあの雰囲気はけっこう好きだったのに。開館当初から美術館と市の間でゴタゴタがあり、結局それが最後まで解決されないままだったようだ。

閉館に伴って、今まで日本で一番長い駅名だった一畑電鉄の「ルイス・C・ティファニー庭園美術館前駅」も変更されることになるそうだ。南阿蘇鉄道の「南阿蘇水の生まれる里白水高原駅」が繰り上げトップになるらしい。
私だったら頭に「元」をつけるけどな。「元ルイス・C・ティファニー庭園美術館前駅」。ほ~ら前より長くなった(笑)。

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道徳

先ごろ聴いた『Knock Out VOICE』でこんな話が紹介されていた。ある小学校で、PTAから「子供達に、給食の前の『いただきます』を言わせないでくれ」という申し出があったという。何故かというと、「給食費は親が払っているのだから『いただきます』なんて言う必要はない」とのこと。学校側が、これは食べ物から命をもらっていることへの感謝の気持ちの表れなのだからと説明すると、「そんな宗教的なことは子どもに教えないでくれ」と言ったという。まことに世も末である。

こういう実情を知ると、「道徳」を小中高校で正式教科に、という動きもむべなるかなと思えてくる。採用された教科書に「ごはんをいただく前には『いただきます』と言いましょう。」と明文化されていれば、少なくともこんなPTAのくだらぬ減らず口を撃破する根拠にはなる(笑)。

しかし、「道徳」を正式教科にするということは、何らかのテストをして先生が評価をするということで、そんなことができるはずはなかろうと思うのである。漢字の書き取りや数学のドリルとは違う。答えはいくつも考えられるはずだ。誰が「これこそが唯一無二の正解だ」と自信を持って答えられるというのだ? また、深く考えていても、それを上手く言葉にできなかったり行動に移せない子どももいることだろう。それをどうやって推し測って評価することができるというのだ? 世界中の誰一人としてそんなことはできまい。

ところで、私自身、学校でどんな道徳教育を受けたか、まったく記憶にない。当時は、躾は親の責任であることくらい改めて言うも恥ずかしいくらい当たり前のことだったから、躾以外の何かを教わったのかもしれない。教科書はなかったと思うが(あったかな?)、副読本のようなものがあって、それを読んだかもしれない。つまりそれくらい道徳なんて曖昧模糊とした扱いしかされておらず、しかもそれで充分な時代だった。

「道徳」というのは、生きる上で必要になる 自分の身の処し方の規範なのだろうと思う。それは程度の差こそあれ、誰もが持っているはずのものだ。持っているはずなのだが、大人だって判らないことが多い。というか、判断できなくて迷うことだらけだ。たとえば、多くの人が「人を殺してはいけない」という規範を持っていることだろう。でも重罪を犯した犯人には「死刑にされて当たり前だよね」という判断を下すのは何故だ? その根拠を述べよと言われたら、たいていの大人は困るだろう。人を殺してはいけないはずなのに、何故いつまでたっても戦争という殺し合いがなくならないのか、子どもに明確に答えられる大人がいるだろうか? 宗教ならこれに答えることが可能だと思うが、宗教色を排除しなくてはならない日本の「道徳」ではそれもできまい。

道徳というのは誰かが誰かに教えられるものではなく、生きて様々なことを経験したり本を読んだりしていくうちに漠然と出来上がってくるものなのだろう。それは人それぞれに微妙に違うであろうし、誰かから○×で評価されるべきものでもないと思う。もっともそれがあまりに反社会的な言動に結びつけば、世間から糾弾されるだろうけれども。そして、人の道徳観というのに最も大きな影響を与えるのは、多くの場合「親」だ。経験的にそう思う。だから、まずは躾という道徳のもっとも根本的な部分において、学校よりもむしろ家庭で頑張ってもらいたいと思う。子どもが喋れるようになったら「いただきます」くらいは言わせてほしいと思うのである。

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( Д゚)゚

目ン玉飛び出ました。
本日のアクセス数が400件近い。いつもの5倍。1時間に57件……て何ですかそれは?
てっきり「2ちゃ○ねる」あたりで何か書かれたかとチキンになりました。
「アクセス解析」でリンク元を探したところ、「@nifty」の「みんなのブログ」に紹介されていると判り、ホッと一安心。いやー、こんな弱小辺境ブログを運営する身としては光栄ですが、心臓にも悪いです。
”「ブラック・ジャック」懐かしのエピソード”ということで、2月19日の記事「BJの犯罪」にリンクされていました。どうして選りにも選ってこの記事なのかは判りませんが(笑)、この魅力的なキャプションに釣られて数百人の方が訪れてくださったようです。
ということは、とりもなおさずそれだけ『BJ』の人気が高いということで……、バンザ~~イ!
最近『BJ』関係のサイトやブログを閉じられる方が多くて凹んでいましたが、どうしてどうして世間様の関心は高いようですよ。
22時台に「みんなのブログ」の紹介記事は差し替えられたようで、現在アクセス数は通常に戻りました。よかったです。←チキンハート

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愛の逃避行

ボリス・アクーニンの本を探しに書店へ行ったのだが見つからず、代わりに『あらしのよるに II 』(きむらゆういち著 あべ弘士絵)を見つけたので即買い。シリーズの第4、5話に当たる「きりのなかで」と「どしゃぶりのひに」の2編が収められている。

前作『あらしのよるに』を読んだ感想を「エロティックだ」と書いたが、前作がメイとガブの心理描写に重きが置かれていたのに対し、今作ではどちらかというと話の展開が楽しめるようになっていて、前作ほど私を勘違い(?)させるようなことはなかった。でもやっぱり、この2匹は友人ではなくて恋人だという思いは拭いきれない。

「きりのなかで」では、仲間のオオカミにメイが襲われそうになるのを必死に守るガブが健気だ。言動から、ガブは男性という印象が強いが、メイはやっぱり男女どちらなのかわからない。ただツンデレ系であることだけは確かだ(笑)。

「どしゃぶりのひに」では、メイとガブの秘密の関係がそれぞれの仲間にバレて糾弾される。「ガブからオオカミの動向を聞き出せ」と言われたメイと、「メイからヤギの動向を聞き出せ」と言われたガブは、再び谷川で会うことになる。当日、周囲の森の中からはそれぞれの仲間や他の動物たちが様子を見つめている。2匹は、仲間から命令されたことをなかなか聞き出せない。そのうち雨が降り始め、稲妻が光った拍子にメイが足を滑らせ川に落ちそうになる。咄嗟に、自分の身の危険も顧みずメイを支えるガブ。お互いの友情の温かさに気付いた2匹は「実は……」と。その先の言葉はないが、お互いが置かれている状況はよくわかっている2匹。

クライマックスはここから。「ここまできたら、行くところまで行ってみますか」とメイ。「おいら、その覚悟なら、もうできてやすよ」とガブ。「絶対に、生きて、また会おうっす」と、いち、にの、さん、で勢いを増す谷川に飛び込むのである。土砂降りのカーテンが、森中の動物たちの目から2匹の姿を消した……。

おいおい、ここで終わられたら続きを買わざるを得ないじゃねーかよー!(笑)

それぞれの仲間よりも、お互いを選んだメイとガブ。相手を欺き裏切ることよりも、逆巻く谷川に飛び込むことを選んだ2匹。これは心中(しんじゅう)をも辞さない道行(みちゆき)であると言っても間違いではなかろう。ああそうか。だから文庫の帯に「きむらゆういちはこれで、近松になった!」と書いてあるのだな。……やっぱりこれは友情美談ではなくて愛の逃避行のお話だと、私は断言する。

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『砂時計』

最近『愛の劇場 砂時計』をちょこちょこ観ている。原作は芦原妃名子の同名のマンガらしい。なんか有名なマンガらしいので読んでみようかな。

ヒロイン・杏(あん)が少女時代の一時期を島根(どうやら大田市らしい)で過ごしたことから、島根の名所等が出てくる。タイトルの『砂時計』というのも、仁摩サンドミュージアムにある砂時計に関係しているのかもしれない。ここの砂時計は世界最大で1tの砂を1年かけて落とす。真中のノズルの直径は1㎜以下だ。たしか毎年大晦日から元旦にかけてひっくり返すんじゃなかったかな? 一度その瞬間に立ち会ってみたいとは思っているが、まだ行ったことはない。 

きょうは杏とその初恋の相手・大悟が、出雲大社や八重垣神社を回っていた。そのほか写っていた場所は、京橋川沿い、宍道湖大橋の上、宍道湖岸の夕陽鑑賞スポットなど。出雲大社では大注連縄にコインを投げ挟もうとして他のコインを落としたり、八重垣神社の鏡の池で結婚占いをしたり、宍道湖の夕陽を眺めながら語らったりと、中学生カップルの嬉し恥ずかし初デートの様子が描かれていた。まあ松江のカップルならたいてい訪れるコースである。

八重垣神社は出雲大社よりも古い縁結びの神社として知られている。ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトがクシナダヒメを娶って新居を構えた場所だ。女性が思わずドン引きするような形体の巨大な御神体(わかってね)が祀ってある場所もあるが、良縁を求める善男善女にはお勧めスポットである。
鏡の池の占いは私も中学生のころ友達(女だけど)とやったことがある。コインを乗せた紙が早く沈むほど早く結婚できるということなのだが、一緒に行った友達全員なかなか沈まなくて(20分くらいは見ていたと思う)、終いには微動だにしないのを上から枝でつついて強引に沈ませた。1円玉を乗せたのが敗因だったと、道々反省会をしながら帰った。今なら500円玉を乗せればたぶんすぐに沈む。(けど、それって占いになるのだろうか?笑)

ドラマのほうはまだ始まったばかりで、これから紆余曲折が予想される。明朗活発なスポーツマンタイプより どこか影があって謎めいていて素直でないNo2タイプのほうが好きな私としては、大悟より藤のほうが気になる。観る機会はあまりないかもしれないが、あらすじだけはネットで追っていこうと思う。

【昨日はココログメンテナンスのため、記事のアップができませんでした。日付は操作して昨日にしてあります。】

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BJ先生なら……

最新の『Knock Out VOICE』を聴いた。大塚さんは風邪を引かれたらしく、いつものパワーが若干トーンダウンしているが、鼻にかかった声が艶っぽい。話題の方は下ネタ全開(笑)。BJ先生の声でそんなこと喋られると、だんだんBJ先生自身がエロ侯爵に思えてきて困るのだが(爆)。上手い人の猥談というのは変にイヤラシくなくて(いやすごくイヤラシイんだけど…どっちだ!)本当に面白いものなのだ。女性が手放しで笑える猥談ができる人はイイなと思う、男でも女でも。病気で子宮等を取ってしまった女性に対して「これからはヤりたい放題だね♪」と力づけた女性を知っているが、こういうセンスは好きだ。もちろん言ってはいけない場面で彼女はそんなことを言いはしない。その場の雰囲気をちゃんと読み取ってこういう起死回生の一言が言えるような人は、本当の大人だと思う。

……というわけで、全然関係ないが(笑)、月曜日は『BJ』語り。実はきょうも読みたい本が届いたので、さらっと行きます。

最近マスコミをにぎわす医学的なニュースというのは、言い換えれば倫理的な問題であると言ってよい。つい先日の向井さんの赤ちゃんの件、万波医師の病気腎移植の件、ちょっと前にあった安楽死事件等々。これらの件について、BJ先生ならどのような思いを抱くだろうかと考えてみた。

まず向井さんの件には、あんまり興味を示さないのではないかと思う。『BJ』の中に、母親も息子も他人とすりかわっているのに、お互いがそれと知らずに幸せな母子関係を築く「幸運な男」というエピソードがある。偽りだらけなのに、二人とも幸せであるという事実だけは本当である。電話で息子の方に「あんたうまくいってたか?」と尋ねるBJ。BJが興味があるのはそのことだけだ。たとえ嘘で塗り固められていようと、名称肩書きその他が事実と違っていようと、母と慕い子どもと慈しむ気持ちがお互いにあればそれで良いと思っているのだろう。だから向井さんの件も「わたしの知ったことじゃないね」で終わりになりそうな気がする。

病気腎移植の件。これは万波医師がブラック・ジャックを気取っていると騒がれたりしたが、さてどうなのだろう? 昨年末だったか、「こんなのブラック・ジャックでもやらない」という意味の川柳を新聞で見かけて吹き出したものだが、私もBJならやらないのではないかと思う。BJは自分の患者を命を懸けて守る男である。そしてたいていの場合、手術が終わればBJと患者の関係は切れる。その後長期にわたって経過を見守るということは基本的にないはずである。BJは一回の手術で患者を治さなくてはならないのだ。だからよほど切羽詰った状況にない限り、病気腎を使うことなどないだろうと思う。
『BJ』のエピソードの中で腎移植が取り上げられているものには「ピノコ愛してる」「二人目がいた」「モルモット」「ペンをすてろ!」がある(ほかにもあったらゴメンナサイ)。「ピノコ…」では患者の両親に腎臓の提供を頼んでいる間に容態が急変した患者を死なせている。「二人目…」では患者の娘から提供された腎臓を移植。「モルモット」ではそのタイトル通り、BJが慈善でモルモットの腎移植をする。「ペン…」では患者の恋人から提供された「もぎたての水もしたたる腎臓」を移植している。実は恋人からの腎臓提供がある前に、BJはいろんなところへ電話をかけて移植可能な腎臓の有無を尋ねている。そのとき利用可能な死体の腎臓があったにもかかわらず、もっと若い人のもののほうが良いとスルーしているのだ。それくらい自分の抱える患者のことを考えているBJだから、病気腎を治してまで使うことはないはずだと私は考えるのである。

安楽死事件については、……う~ん、これはBJがどう思うか私には判らない。患者自身の生きる意思、生きていてほしいという家族の思いがあったかどうかが分岐点になりそうな気がするのだが、しかしそんなことで判断してよいのかどうか疑問にも思うわけで(このことは以前に「キリコ考」で書いたので割愛)。……う~ん、どうしても「浦島太郎」を思い出してしまう。あのときドクター・キリコの姿をみかけなかったら、BJはあのまま病院を去ってしまっていただろう。ということは、暗黙のうちに病院側の延命処置中止に同意していたことになる。「B・Jそっくり」でもスパゲティ状態の患者を見て「何のために生きてるんです?この人は…」と言っている。これに対する黒松先生の「死なないために生きてるのさ」という返答が、痛い。医者が、BJが、キリコが、永遠に苦悩し続ける問題がここにある。
「天地神明にさからうことなかれ。おごるべからず。生き死にはものの常也。医ノ道はよそにありと知るべし」と遺言した馮二斉のように達観できたら楽になれるのかもしれないが、使命感に燃えた医者であればあるほど、ジレンマは深いものになるのだろう。私ごときにはとても結論が出せない。

いやしかし、最近話題の医学ニュースがみんな『BJ』の中に描かれていることに改めて敬服した次第。

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地震と運命

9時42分、私はパソコンに向かってメールを打っていた。あれ、眩暈かな? と思って電灯の紐を見ると揺れている。地震だとわかった。能登半島沖地震、ここ松江でも震度1だった。亡くなった方1名、負傷者は160名超と報道されている。亡くなられた方のご冥福を祈るとともに、一日も早い復旧を望みたいと思う。

私が経験した一番大きな地震は2000年10月の鳥取県西部地震だ。震度5だったと思う。ちょうど道を歩いていたときで、立っていられなくて近くの電柱にしがみついた。頭上で電線が波打っていて、これが切れて垂れ下がってきて身体に触れたら死ぬな、と思った。思ったが動けなかった。幸いなことにその地震では1人の死者も出なかったのだが、運が悪ければ私が「死者1名」になっていた。

夫と、運命を信じるかという話になった。私は運命は必然だと思っている。だから、信じているということになるのかな?「風が吹けば桶屋が儲かる」式に、こうなればああなる、ああなればそうなる……その結果が運命という眼に見えない力になるのだと思う。極端なことを言えば、私がここでくしゃみをすれば、遠いアルゼンチンで誰かが転ぶことになるかもしれない。私は運命というものをそんなふうに捉えている。

運命なんてものを考えるときは、たいてい何か悪いことが起こったときだ。でも悪い方ばかりに運命が作用するはずはない。何事もなく平穏な生活を送っていられるのも、それもやはり運命のなせる業のはずだ。平々凡々たる日々の暮らしに感謝しなくてはいけないなぁと、そんなことを考えた。

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子どもは誰のもの

向井亜紀さんの双子を、最高裁は実子と認めなかった。とてもデリケートな問題で、向井さんには気の毒だけれど、現行法に従えばやむを得ない結果だと思う。

このケースではそんなことはなかったらしいが、代理母となった女性が出産した途端に子どもを引き渡すのを嫌がることもあるそうだ。十月十日の間自分のお腹の中で育てて出産という大事業を成し遂げたのだから、そういう気持ちになることにも頷ける。

こういう話を聞くと、大岡裁きを思い出す。生みの母と育ての母がいて子どもを取り合う。奉行は子どもの手を引っ張って奪い取れと言う。両側から力の限り子どもの手を引っ張る二人の母。子どもは痛さに泣き出す。それを見て不憫になり手を離したのはどちらの親だったか。手を離した母親の愛情のほうがより強いということなのだが……。

向井さんの場合、法律上で実子であることを認められないだけで、特別養子縁組が認められれば普通の親子関係を育むことに何の問題もない。向井さんも最初の頃は自分達の遺伝子を持った子どもを残したいと言っていたように記憶している。それなら、形式などどうでもよいのじゃないかと思う。子どもさえ幸せならば。

向井さんの主張が通るためには現行法を変えねばならない。立案して国会で審議して可決して……と、長い時間がかかるだろう。それではたして変わるかどうかもわからない。個人的には、変わらなくてもよいと思っている。法律は弱い者を守るためにあるべきだと思っているのだが、向井さんが弱い者だとは私は思わない。どちらかと言えば、自分の希望や権利を主張して実現していくことのできる強い人だと思う。

それに何よりも、子どもは授かり物だと思うからだ。授かればよし、授からなくてもまたよし、と思う。こうでなくてはいけない、ということはないだろうと思う。言葉は悪いが、医学の進歩によって、欲しいときに子どもができるようになったことの是非は問われてしかるべきだと思う。正直に言えば、むかし向井さんが夫・高田延彦さんの遺伝子を残したいのだと語っているのを見て、私はちょっと怖かった。遺伝子の乗り物としてしか子どもを見ていないような気がして。

世の中には子どもが欲しくても叶えられない夫婦がゴマンといる。そのことを思えば、たとえ法的には実子と認められなくても、子どもができた幸せを謙虚に味わってもらえたらな、と思う。

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(備忘録070323)

ちと多忙につき、本日の記事は休みます。

昨日の記事についてコメントやメールを頂いておりますが、レスは明日にさせてください。誠に申し訳ありません。

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読み逃げ禁止?!

変な話だ。こういう話を読むと、ますます私にはmixiというものが伏魔殿のように思われてくる。やっていないので、普通のサイトやブログや掲示板とどう内容が違うものなのか、詳しくは知らない。ただSNSは情報の双方向性というものが重視されているのだろうという予想はしている。だからこそコメントがないことを失礼だと思う人もいるのだろう。しかし自分の書いたことが誰かのお役に立っているのなら、コメントがあろうがなかろうがそれで良いではないか。そういうわけにはいかないものなの?

人からの反応がないと寂しいのかな? それとも、自分の書いた内容に対して自信満々なのかな? しかしいずれにせよ、よほど暇のある御仁なのだろう。コメントのやりとりだけで忙殺されていらっしゃるに違いない。

義務でコメントをいただいても、私なら嬉しくない。自分の書いたものに対して、いやそれは違うゾとか、こういう考え方もあるヨとかの、内容を深めるために一筆書いてやろうかという気持ちを持ってくださった方からのコメントだからこそ嬉しいのだ。

もし私のブログを「読み逃げ禁止」なんてことにしたら……。「つまらん」「アナタハ ニホンゴ シャベレマスカ?」「やめれ」「へぇ~」「ひっこんでろ」なんて正直な感想ばっかりになるぞコラ! うわぁ~~~~ん(泣)!!

(注意:来ないとは思いますが、この記事に関してもしも暴力的なコメントをいただきましたら、記事ごと削除することもあります。)

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お彼岸

お彼岸の中日ということでお墓参りをしてきた。チャリンコで回るには、うらうらとした春の陽気が嬉しい。

母方の祖父母が眠る墓を磨いた。お祖父ちゃんの丸くハゲた頭を思い出しながらてっぺんをやさしく撫でる。お祖母ちゃんと一緒にお風呂に入って洗いっこしたことを思い出しながら背面をタワシで擦る。気持ちいい? 花を供えてからナムナムと般若心経を唱える。こうしていると何故かいつも風が吹く。普段屋外で眼を瞑ることなどないから、いつも吹いている風をそのときだけ感じているに過ぎないとは思うけれど、お祖父ちゃんお祖母ちゃんが喜んでメッセージを送ってくれているのだと勝手に解釈するくらい許されるだろう。

彼岸……サンスクリット語の「パーラミター」の訳である。「パーラム」が彼岸、「イター」が渡る、という意味だから、「到彼岸」というのが正しい直訳だろう。今われわれがいる迷いと煩悩の世界が「此岸」。対する仏の浄土が「彼岸」だ。彼岸に至るには「六波羅密」(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)が必要とされる。……私には死ぬまで無理だ(笑)。

070321_112201 続いて行った父方のほうのお寺さんでは桜が満開だった。「ヒガンザクラ」というのかな?

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毛の必要性

ネットを楽しみながらなんとなく口の周りをなでていて、硬い毛が生えているのが気になった。なんとか爪で摘まんで抜こうとするが、うまく摘まめない。やれやれ、と思いながら毛抜きで1本だけ抜いて気が済んだ。

口の周りの毛が硬くなるのは女性の老化現象である。昔は白いツンツンしたヒゲを数本生やしたおばあさんなんかがいたものだ。なんでこんなもんが生えてくるのかなぁ?

ふつう、毛というのは人体を保護するために生えているはずだ。というか、太古の昔は全身毛むくじゃらだったのが、必要なところの毛だけを残して退化したのだろうと思う。頭髪は上部からの衝撃や紫外線等から頭を守るため、また身体に有害な重金属を体内から排出する役目も持つ。眉毛や睫毛は眼を守るため。鼻毛は吸気に含まれる塵芥を除去するため。腋毛や下腹部の毛は自分の匂いを留めておくため、かな。ならば普通男性にしか生えないヒゲの役割は何だろう?

ここから先は想像だが、首を守るためではないだろうか。太古の昔から、外敵と戦うのは男性の役割だったはずである。アマゾネスなどの例外はあるだろうが、一般的に、女性よりは筋骨逞しい男性の方が効率は良いだろう。そしてこの場合の外敵とは牙のある猛獣である。猛獣は狩りのとき獲物の喉に噛み付く。頚動脈があることを本能的に知っているのかもしれない。このとき長くふさふさとしたヒゲで首元が覆われていたら、襲われたときにある程度はダメージを軽減することができるのではないかと思うのである。

余談だが、以前に中国清朝を舞台にした映画を観たことがあった。辮髪の男達は何かの争い(相手は人間だが)に出掛けるとき、あの三つ編みのおさげをぐるぐると首に巻きつけていた。束ねた毛髪というのは案外切り難いものだ。青竜刀で斬りつけられてもかなりの緩衝材になったのではないかと思った。

……というわけで、ヒゲは頚部を守るためだと想像するのだが、どうして女性の老化現象としてヒゲが生えてくるのかは、依然謎のままである。一部中年以上の男性に見られる耳毛も大きな謎である。

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浮世風呂

月曜日は『BJ』語りなのですが、今夜は読みたい本があるので(うふふ♪)、さらっと短めに好きなお話など取り上げてみようと思います。「浮世風呂」。

落語で「浮世風呂」というのがあったような。江戸では「湯ぅ屋」という表現で(関西では風呂屋)、そこに集るいろいろな人たちの様子を描いたものだったと思う。サゲは「厄落とし」と「アカ落とし」をひっかけたものだったかな? まあそんな風呂屋における人々の裸のつきあいが面白い話なのだが、『BJ』においても町の銭湯を舞台にドラマが起こるわけだ。

毎日銭湯にやってくるBJとピノコ。これが実は不可解なのである。BJ邸にはお風呂があるはず。どこにあるのかは定かでないが、ピノコがシャワーを浴びているシーンがあるから(たしか「肩書き」)、無いはずはないのだ。それなのに毎日3時という時間に銭湯に入りに来るというのは、浴室の修理か改築でもやっているのだろうか。しかしそれなら家に大工さんだけを残して二人とも外出するというのはおかしい。よって、私の貧弱な脳ミソで考えられる理由はひとつだ。バスタブの中で何かを飼っているに違いない。ザリガニとか蛙の卵とか、亀とかアザラシとか……。(すみません。大真面目なんですが。)

あらすじを端折っていうと、勘違いの積み重ねのお話。端折りすぎ……(笑)。もう少し詳しく言うと、女湯から聞こえるピノコの声に恋をする大平少年がやくざに刺されてBJが裸で応急処置をするという話。やっぱり端折りすぎ……。壁に隔てられて姿の見えないピノコを、銭湯から出てきた八頭身美人(やくざの組長の女でクラブのママ)と勘違いする大平君が可笑しい。「そーよ、ピノコ。ハタチ。バスト45 ウエストは……」とピノコは壁越しに正直に言っているのに(笑)。BJの身体の傷を見て、どこかのやくざの親分だろうと勘違いして挨拶する若い衆も可笑しい。大平君はクラブのママにつきまとっていると勘違いされて刺されてしまい、結局、大平君の初恋はBJの鞄を持って男湯に入ってきた本物のピノコを見てあえなく玉砕。恋をしてホンワカ気分だった彼は、鬼のように厳しい柔道部の主将に戻るのであった。大平君には気の毒だが、なんともほのぼのとした味わいが他に例を見ない佳作である。

私がこのお話を好きなのにはもうひとつ理由がある。BJとピノコの距離感が好きなのだ。他人がBJとピノコの二人を見れば、たいていは親子だと思うだろう。バスト45㎝の女児ならば、父親に連れられて男湯に入っても誰も変に思わない。ところがこの二人は男湯と女湯に分かれている。ピノコの方が「ハタチ」だと主張して一緒に入らないのか、それともBJが思うところあって一緒に入らないのか。どちらにしてもこれはBJがピノコを一人前の女性として見ているからに他ならない。子どもだと思っているのなら、どんなに本人が「ハタチ」だと言っても一人にはしないはずだ。ちなみにこの二人、家でも一緒には入浴していないようだ。BJの入浴シーンをピノコが隠し撮りしたりしている(たしか「過ぎ去りし一瞬」。ちなみにBJ先生、一人のときもしっかり腰にタオルを巻いている。笑)。しかし鄙びた湯治場では混浴風呂ということもあって一緒に入っていた(たしか「キモダメシ」)。

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意識

先日読んだ『まともな人』(養老猛司著)にこんなことが書いてあった。

「われわれは人生の三分の一を眠って過ごす。(中略)寝ている間、意識はない。その意識がすべてになるのが、近代社会、都市社会、脳化社会、つまりわれわれの社会である。意識は意味を追求するが、追及している意識のほうは、自分の限界を心得ない。(中略)寝ている間に脳は起きているときと同じ量のエネルギーを消費する。つまり意識があるというのは、そのていどのことだともいえる。寝ているのと、さしてちがわないのである。つまり寝ている間とは、脳がただ「休んでいる」時間ではない。そこではなにか、重要なことが行われているに違いないのである。」

おもしろいと思う。起きている間、人はたいていの時間、何かを考えているはずだ。真剣に、あるいは漫然と。頭の良い人とか受験生などは、おそらく私の何十倍もの量のことを考えていると思う。それなのに、寝ている間のエネルギーの消費量と変わらないということは、そこでは、頭の良し悪しという個人差などほとんど問題外、無視してもよいくらいの微々たる数値ということになるのだろう。そのほんの少しのことで、様々な考え方や感性を持つ千差万別の人間ができあがっている。それがとてもおもしろいと思う。

意識がないところで、脳は何をしているのだろう。どんな人間の脳もそれを知らない。自分の頭の中にそんなミステリアスな物体がつまっていると思うと、なんだかゾクゾクする。と同時に、その脳の死(脳死)を、ほんの軒先を借りているような状態の「意識」ごときが決定できるはずがない、と思ったりした。

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日本の食

最初、「「正しい日本食」の基準設けず」という見出しだけを見て、「美しい日本」実現を目指す安倍政権がとうとうそんなものまで決めて国民に強制しようとしているのかと思った。「朝は、炊きたてのご飯に生卵または納豆、お味噌汁、塩鮭に浅漬けに海苔3枚を食すべし」なんて決められているのかと思ったらそうではなかった。当たり前だ(笑)。要するに、海外の飲食店で「日本食」として供されているものが日本食とはかけ離れたものであることを憂えて、農水省がそういう基準を設けて店を認証しようとしていたけれど……ということらしい。

それで考えてみたのだが、海外で「日本食」だと言われて出されたものが日本食ではなかったとして、いったい誰がどう困るのだろう? それがたとえものすごく不味いものだったとしたら、現地の人は日本人というのはなんと不味いものを食べているのだろうと思って二度とは食べなくなる。それがひいては日本食への偏見になりかねないということなのだろうか。しかしそもそもそんなことはあり得ない。不味くて誰も食べないような料理なら、最初から店がメニューに載せるわけがない。そうではなくて、現地の人の味覚に合ったようにアレンジしているから一般の日本食とは似て非なるものが供されているわけで、まさにそれが問題にされているわけだ。でも、現地の人が日本食というのはこんなに美味しいのだと思って食べてくれるのなら、それで良いではないか。何か問題があるか?

それにしても、「正しい日本食」とはどういうものなのだろう? 外来のハンバーグやカレーやラーメンは正しい日本食ではないのだろうか。それなら歴史的に見て鎖国時代の食事が正しいとかいうことになるのだろうか。だとしたら明治以降に入ってきたキャベツなんかは食材として認められないことになる。平安の昔からあったチーズやヨーグルトの類(日本語では「醍醐」という)なんかどうなるのだろう。お好み焼きやたこ焼き、もんじゃ焼きなんかは正しくないのだろうか。……なんかもう、どうでもいいや(笑)。

それにこの「日本食」という語感がどうもよくない。「宇宙食」みたいだ。「和食」と言えばどこか凛々しい語感があるが、そうしなかったのにはきっと何かワケがあるのだろうな。私は、和食にはその礼儀作法も含めてひとつの世界観があると思っている。「いただきます」「ごちそうさまでした」は不可欠だ。お箸や食器の扱い方や、咀嚼の仕方だってマナーを学ぶ場になろう。「いただく」ことへの感謝があれば、不味いだの嫌いだのと言って残すなどもってのほかだ。それに、和食はだいたい薄味だから、味覚も肥える。「旨み」という第5の味覚を発見したのは日本人だ(あとの4つは、塩辛さ、酸っぱさ、甘さ、苦さ。辛さと渋さは味覚器官以外で知覚される)。そういう和食の良さを再認識しなくてはならないのは、どちらかと言えば海外の人たちではなくてわれわれ日本人のほうである。子どもが求めるからと言って、ご飯時に甘いジュースなど一緒に飲ませたりしたら、味覚だっておかしくなろうというものだ。それにもともと西欧人とは内臓の作りからして違うのだから、動物性高たんぱく高脂質の食材は日本人の身体には合わない。

幸いなことに、今の日本には世界中から様々な食材や調理法が入ってきて、それを楽しむことができる。しかし一方では、メタボリックだの何だのとダイエット番組花盛りである。「正しい日本食」かどうかは別として、健康的な食事を心がけることは必要だと思った次第である。

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(備忘録070316)

ちょっとゲームをするつもりが、気がついたら1時間。いかんなぁ。でも疲れたときに頭を空っぽにするにはゲームが一番。

因みに、やっていたゲームはコチラ。大連鎖したときの笑い声が不気味(笑)。130万点行きました。ではおやすみなさい。

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臨界事故発覚

以前に山岸凉子の『パエトーン』を取り上げたことがあった。パエトーンは父親アポロンの日輪の馬車を操ろうとするが、制御できず、人も大地も灰にしてしまうという物語である。日輪の馬車を原子力、パエトーンを人間に例えてあったのだが、きょうはまた背筋が冷たくなるような事実が明らかになった。北陸電力志賀原発の臨界事故隠蔽である('99)。制御棒が抜けて核反応が始まったが、緊急停止装置は作動しなかった。発電所員が手動で制御棒を戻したが、その間15分間は臨界状態にあったという(その所員さんの健康状態は大丈夫なのだろうか?)。またそのことを日誌にも記載せず、原因究明も行わなかったという。

最近、日本各地の○○電力で様々な事故隠しが発覚している。事故は隠しておいて、どの面さげて「原子力は非常に安全なエネルギーです」などと言っているのか。原子力発電所というのは、それを建設する場合、たいてい地元や周辺地域で賛否両論が巻き起こる。しかし人口が少なく目立った産業もない貧しい地域では、地元に金が落ちることもあって受け入れることが多い。大都市の煌々とした灯りを作っているのは、周辺の人々が危険と隣り合わせに暮らしている地方の原発なのである。そんなに安全で危険がないというのなら、東京湾を埋め立ててそこに建設してみろと言いたい。やっぱり不安があるからできないでしょ、○○電力さん?

隠蔽するというのは何よりも卑劣な手段だ。会社内で処分すればよいという問題ではない。国全体の問題として、厳しく処断すべきである。そして、もっと根本的な問題は、パエトーンには日輪の馬車は扱えないのだということを人間が認めようとしないことである。嗚呼。

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自作のお雛様

きょうは記事がないので、先日飾った実家のお雛様の写真をアップする。このへんでは月遅れの4月3日に祝う。母の年代物の人形も飾りたいのだが、なにしろたくさんあるので追い追い出していこうと思う。
これは、10年ほど前に私が母のために作った十五人揃いの雛人形。お顔はマッチ棒の頭に薄くティッシュを巻いた。あとは色紙と千代紙。

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きょうのニュースより

きょうはテレビで全日空機の見事なタッチ・アンド・ゴーと胴体着陸を見た。止まったときには思わず拍手してしまった。大事故にならずに済んで本当によかったと思う。これまでも同機種で多くの不具合が起こっていたそうだが、ほとんどの人はそんな事実は知らなかったことだろう。恐ろしいことだ。これを機に、徹底的に原因を究明して空の安全を保障してもらいたいものだ。

笑えるニュースはこちら。普通、5千万円を埋めて忘れるものだろうか? 私なら5千円のヘソクリのありかだって覚えているが。また更に可笑しいのが、数人が「我こそは」と名乗り出たという事実。そうなるんじゃないかなと思っていたら、やっぱりそうなった(笑)。現実と妄想の区別がつかないとか、なんらかの病気とか、ひやかし(?)でないとしたら、そんなにこの日本という国では5千万円を土中に埋めるのが流行っていたのか? 事が事だけにマスコミに発表していない事実がたくさんあるらしいので、いずれ真実の持ち主が特定されるのではないかと思うが、そのとき、名乗り出ている他の人たちはなんと言うのか、それを是非聞いてみたいと思うのである。

……うちの庭も掘ってみようか……

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チルチルミチル

月曜日は『BJ』語り。きょうは病人のワガママに付き合ってクタクタ。というわけで、こんな話題。

もう今までに何十回となく読み返している『BJ』だが、おそらく全部で10回もまともに読んでいないだろうと思われるエピソードが一つだけある。「かりそめの愛を」である。

全身を癌に侵され余命いくばくもない青鳥ミチルという少女が、最期の願いとしてこれから病室に最初に入ってきた男性と結婚したいと言い出す。そこに入ってきたのはBJだった。手術代1千万円(持参金込み)で手術を引き受け、病室で真似事の結婚式を挙げてから、BJは手術を敢行、見事に成功させる。ところが、命を取り留めたミチルはあの結婚は有効だと、BJを愛しているのだと告げるのである。BJは、自分は愛されるような人間じゃない、医者は患者を治すことだけが商売だと別れを告げ、ミチルの幼馴染みである久磨富士夫に後のことを託して去っていく。後に、久磨と結婚したミチルをそっと見送るBJの姿があった……

という、書いているだけで腹が立ってくるストーリーである(落ち着け!)。ミチルちゃんはいい歳をして髪におリボンをつけた およそ病人に見えない美少女で、病室に飾りつけたぬいぐるみの数々もナイスである(言葉にトゲがあるな)。このミチルを、私の脳が受け付けないのである。重病に苦しむかわいそうな少女なのだと思おうとしても、周りがちやほやしてくれるのを当然と思っているような少女にしか思えない。人の気持ちを慮るだけの想像力も気持ちもないワガママいっぱいな少女に見えて仕方がない。病人というのは、えてしてそういうものだというのは判るのだけれど。だから、もっとこう見るからにやつれて薄幸そうに見えるとか、こっちの胸に切々と訴えかけてくるような、生涯でただ一度のワガママとして憧れのウエディングドレスを夢見る控え目で楚々とした美少女だったら、こっちも感涙にむせび袖を絞ったと思うのだ。青鳥ミチルだけは……どうもだめだ。

しかし、何が腹が立つといって、最後にわざわざミチル(おそらくこれから新婚旅行に出掛けるところ)を見送りに来るBJほど腹が立つものはない! ミチルちゃんに未練があったとでもいうのか、先生?! 何だその思わせぶりな無表情は?! いっそニッコリ笑っていてくれたほうがどれだけ良いか!(ゼイゼイハァハァ)

とはいえ、BJの新郎姿(アニメでは白のタキシードだった)などという、滅多に見られないコスプレが楽しめる一作ではある。また、久磨さんが結構いい味を出している。最初は、ミチルとの結婚なんて考えてもいないと言っていたが、BJと結婚式を挙げるという事実を目の当たりにして自分の気持ちに気付いたのか、ミチルを慰め励ます姿はなかなか良い。そしてめでたくゴールインということになるのだが、その陰には、久磨さんの本心を見透かしたBJの粋なはからいがあった。BJという男、自分自身に向けられた好意や愛情には鈍感だが、人様の恋愛感情にはものすごく敏感である。恋人達にはとても優しいし、進んで手を差し伸べることも多い。基本的にロマンティックな男なのだと思う。

今回の深読みポイント。ミチルの主治医はブラック・クイーンである。「私、この患者と結婚しちゃいますぜ。いいんですかい?」という、BQに対するアピールだったらおもしろいなと……。

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コミットメントとデタッチメント

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』をじっくり再読中。それぞれの話題にいちいち深く思うところもあって、なかなか進まない。感想を書こうと思うのだが、とても全体をまとめた感想など書けそうにない。そこで、おもしろいと思った部分を取り上げてみようと思う。

構成は、「第一夜「物語」で人間は何を癒すのか」「第二夜 無意識を掘る ”からだ”と”こころ”」となっているが、これだけでは何のことやらわかるまい。話題は実に多岐にわたる。

最初の部分で、村上春樹は「コミットメント(関わり)」と「デタッチメント(関わりのなさ)」という自分が関心のある問題を提起している。これが日本人の「個性」の話に発展していく部分があるのだが、一言で言えば、欧米に比して日本人のコミットはベタベタしたものになりやすく、「日本人は、個人ということを体感としてわかることはすごいむずかしいことじゃないでしょうかね(by 河合隼雄)」ということになる。ボランティア活動を取ってみても「週に三回来られる人と一回しか来られない人がいて、三回来られる人がいばるというのが出てくるのですよね。(by 村上春樹)」という指摘には笑った。日本人は、それがたとえ最初は個性に基く自由意思によりできたグループであっても、体系化してしまう傾向があるらしい。そしてそうなってしまえば、それはもう個性とか個人の問題ではなくなってしまう。

ただ、それは決して悪い面ばかりがあるわけではないらしい。たとえば阪神淡路大震災のとき、被災者は団結した。結束して物事に当たり解決していった部分が確かにある。個人の問題として背負い込むことをせず、全体の問題として受け止めて対処したのである。その結果、ノースリッジ地震の場合と比べても、PTSD(心的外傷後ストレス障害)になった被災者は相当少なかったそうだ。全体で分担することで一人当たりのストレスが軽減されたのだろう。

ところで、この対談集が発刊されたのは平成8年、今から11年も前のことである。十年一昔と言うが、このコミットメントとデタッチメントの問題というのは、今でもやはり新しい問題だと思う。人が悩んだり、挙句の果てに病んだりする一番の原因は、何といっても人間関係だろう。この本には指摘されていないが、メールやネットが隆盛を極める現状からは、コミットでありデタッチである状態を好む傾向が如実に窺えるような気がする。面と向かって話すのは気疲れして嫌だけれど、ひとりぼっちになるのもまた嫌だからメールやネットで誰かと繋がっていたい。そんな思いが見え隠れしているように思う。こういう状態が人間性や社会にどんな影響を及ぼすのかは、きっと数年後にわかることだろう。

……とりとめのない文章になってしまった(汗)。きょうはここまで。

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(備忘録070310)

本日読書中につき、記事はおやすみします。
明日は、手塚治虫オンリー『虫魂2』が開催されるのですなぁ。参加される方、お出かけになる方、どうぞ楽しんでらしてくださいね~♪

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薔薇の香り

最近は「○○には△△が効く!」と言われても眉に唾をつけて聞くようにしているのだが、『Science』誌に掲載されたのなら、これは信じてもよいかもしれない。「記憶力の向上にはバラの香りが有効」なのだそうだ。海馬部分の働きが活発になったそうなので、さっそく母の身の回りの物にはバラの香りを付けることにしてみよう。この頃では自分の記憶力にも自信がなくなってきたので、私自身の身辺にも。実際のバラの花でなくても、アロマオイルや香水でもいいよね。これがバラの香りで良かったと思う。嫌な香り、嫌いな香りだったら、どんなに有効でもゴメンだ。

薔薇で思い出すのは、ローマ皇帝アウレリウス・アントニウス。良い話は全然聞かないから、いわゆる暗君だったのだろう。宴会の客の上に数トンの薔薇の花びらを落として窒息死させたというから、相当なものである。虚ろな放蕩と酒池肉林の果てが薔薇による殺人とは、デカダンの極致かもしれない。表記も「バラ」ではなくて「薔薇」としたいところである。しかし、半端じゃない量の薔薇の花びらを集めさせられたほうも大変だっただろうなと思うのである。

以下、私信。
ご感想を下さった方、ありがとうございます。このブログ内では詳しく書けませんが、反響をいただいたことに驚きつつも、嬉しく読ませていただいております。お骨折りいただいた某様にも、あわせて心より感謝申し上げます。(誕生日のお祝いコメントもありがとうございました♪)
m(_ _)m

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(備忘録070308)

自分への誕生日プレゼントとして、『BJ』DVDのVol.20を買ってきました。「縫い目皮膚の提供者」「ピノコのお受験日記」「老人と大木」の3本。トランプが全部揃った(らしい)ので、今回は百鬼丸とどろろのトレーディングカードが付録として付いてきました。これはやっぱり映画とのタイアップということなのでしょうか。1年8ヶ月前から毎月買ってきたこのシリーズも、あと1回、Vol.21で完結です。長かったような短かったような。また新しいシリーズが始まってくれないかなぁ。今夜はこれを観ながら、「おやすみなさい」

Gさんからとても素晴らしいプレゼントをいただきました。きょうという日のことは忘れません。ありがとうございました。

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クイズ番組と学習意欲の低下に思う

最近のクイズ番組には、芸能人の信じられないようなおバカ解答を笑うことで成り立っているものがある。小学生でもスラスラ読めるような漢字が読めないとか、想像を絶する珍解答を連発するとか。観ていて確かに面白いと思うこともあるので、番組自体についての良し悪しはここでは問題にしない。出演者も学力が低いことを笑われるのが嫌なら出演を拒否すればよいところを、出ているのだから、自分の役割をちゃんと理解して演じているわけで、それもある意味強い人たちなのだろうと思う。

きょうのニュースで、日本の子供達は学習意欲が低いという調査結果を見た。中国韓国と比較していただけなので、他の先進諸国等と比べたらどうなのかは判らない。しかし、ゆとり教育と言われ、学級崩壊と言われ、様々な問題を抱える教育現場の現状から見れば、過去の日本と比べても学習意欲は低くなっていることは間違いないことのように思われる。だから、昔は良かった、と言いたいわけではない。昔は、成績が良ければ良い学校に入れて、その次には良い会社に入れるという神話があった。今はそれが崩壊したから、この学習意欲の低下にもつながっていると指摘されているようだが、それならそれで良いと私は思う。勉強は良い学校、良い会社に入るためにするものではないと考えるからだ。

勉強は、将来自分がどんな境遇になってもなんとか生きていくための知恵を得るためにすべきものだと思う。極端な話を言えば、明日食べるものがなくなったら、野山に分け入り食べられるものを見分ける知識、川に行って魚を釣る技術こそが必要ではないか。そんなときに、たとえ相対性理論を知っていても役には立つまい。教育現場がどん底の状態である今こそ、教育や勉強の本当の意味を見直すべきチャンスであるとも言えるのではないかと思う。

しかし、もったいない話ではあるのだ。柔軟で旺盛な知識欲を持つことができるのは、なんといっても子ども時代だ。大人になると、新しいことなどなかなか覚えられるものではない。人から押し付けられて嫌々する勉強は確かに楽しいものではないけれど、そんなチャンスは子ども時代にしか無いのだ。これが、大人にならないとわからないというのが、人類の悲劇なのだろうな。

というわけで、前述のクイズ番組。おバカ解答をする芸能人たちは、ちゃんと力強く自分の生きられる道を見つけているわけで、そういう意味で大変賢いのではないかと私は思うのである。

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キョロキョロ

たまに夫と一緒に街を歩くと、お互いの見ているモノが違うことに、呆れる(笑)。こっちが梅だとかボケの花だとか水仙だとかみかん1ネット380円だとかをキョロキョロ見ていても、あっちはそんなものひとっつも見ていない。その代わり、さっきのおっさんゴツかったよな、などと突然言う。誰が? そんな人いた? 会話が噛み合わないことおびただしい。

以前読んだ小説で、田舎のツッパリ兄ちゃんだった頃の土方歳三が、道ですれ違う侍に向かって一々殺気を放ちながら歩いていた、というシーンを読んだことがある。相手が自分の殺気に気付けばまぁそれなり。気付きもしなければ「けッ」である。つまり相手を値踏みしていたわけだ。

夫と歳三を比較するつもりなどないが、男性の本質としてそういうことはあるのかもしれないと思う。向こうから来る男は自分より力量が上か下か、それを見極めようとするのは動物のオスとしての本能なのかもしれない。身体の大きさ、発散する気の大きさ、動作、顔つき、目の配り方、性格、そんなものを一瞬で見て、判断して、自分なりにランクしているのかもしれない。こればっかりは女性には実感できないのだけれど。(もちろん女性だって、ひと気のない道で男性とすれ違ったりするときには、それなりに緊張して相手を観察したりする。しかし普通の往来で来る男性来る男性にそんなことしていたら、疲れて外出などできるものではない。)

そんな噛み合わない夫婦でも、ただひとつ、同じモノを見ていることがある。それは……美人が居たときである(笑)。

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love キャラバトン

月曜日は『BJ』語りの日なのですが、きょうはバトンを頂戴しましたので、それに答えたいと思います。
回してくださった神無月さん、いつもありがとうございます。では早速。

■loveなキャラを一人だけあげて■

ブラック・ジャック先生でございます。

■何のキャラクター??■

手塚治虫先生が描かれた同名漫画の主人公ですv(←神無月さんのご回答をそのままコピペ m(_ _)m)

■どこが好きですか??■

それを聞くですか! ワタクシ際限なく語ってしまいますよ?(笑) 
どう答えましょうかね。う~ん……。
一言で言えば、ギリギリな生き様、ということになろうかと思います。あんまり余裕の無い男ですBJは。いつも何かの決断に迫られるとか、追いまくられるとかいう状況になっています。そしてそれをなんとか自力で打開していく才覚と力強さがあります。
更に、そういう局面において初めて、これだけは絶対に妥協できないとか、許せないとかの、彼なりのプライドや覚悟や優しさが浮き彫りになります。あのクールなポーカーフェイスの下に、こんなに熱くて人間的な素顔が隠されているというのが最大の魅力だと思います。それに気付いたときに、一気に惚れます。ぽ。

■ここがたまに傷■

たまに傷があるどころか、全身傷跡だらけですが……、そういう意味ではないですね。
あんまり自分の身を顧みないところでしょうか。頭の良い人だから自分なりに勝算はあるんでしょうが、傍目にはそうとは見えない無鉄砲さでいろいろな危険に飛び込んでいかれます。長生きできるタイプではないですよね。もうちょっと自分を大事にしてもらいたいと思います。

■愛の大きさを運動会に例えると■

質問の意味が理解できません。競技に例えるのではなくて運動会に例えるですか(競技に例えろと言われてもそれはそれで困りますが)? 問われているのは規模ですね?
オリンピックでお願いします。

■踏まれてもいいわ■

だから、質問の意味が(以下略・笑)。
いいですけど、意味もなく踏まれたら踏み返しますよ。

■抱き枕にしたい■

私には一応夫が一人おりますので、他の男性と同衾というのは社会通念上いろいろな問題……
したいですね。いい子いい子してあげます(にっこり)。

■監禁願望■

ますます質問の意図が見えません(笑)。監禁するの? されるの? されるのは絶対嫌ですが……。いや、でも何もしないでご飯食べさせてもらえるならそれもいいかな? 私ならきっと牢名主みたいになると思います。
BJ先生を監禁したいという願望は……ありません。自由に動き回ってこその先生です。

■現実にいたら何してそう??■

きょうのように風が強い日なら、あの岬に立ってコートを翻して格好つけててコートが飛んだので追いかけたり……。もとい。世界中を飛び回って手術手術の毎日でしょう。
もしも現実にいらっしゃったら、もう還暦が近いお歳になる計算なんですよね。たぶん髪はほとんど白くなってて、老眼も進んでて、外科医としての腕も若い頃に比べたらどうなんでしょう。ますます神技に磨きがかかっていたらスゴイですが。家では、十年一日の如く、カルテを書いたり医学書を読んだりして過ごしておられると思います。

■ハァハァ5人■

だから(以下略)。

もしよろしければ、
トーレスさん
グリコさん
受け取ってくださいまし。

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危機管理と覚悟

私がいつも不思議に思う道路標識、「落石注意!」。これ、どうやって注意すればよいのだろう? 既にいくらかの石が路上に落ちていて「落ちている石に注意!」というのなら、ああここは危険区域なのだなと気付いて手前で引き返すこともできよう。しかし、何の異状もないところで「いつ落ちてくるかわからない石に注意!」と言われたってどうしてよいのかわからない。少しでも危険を回避しようと猛スピードで走り抜けようとしたばっかりに、まさに頭上に石が落ちるタイミングになってしまうことだってあり得る。運次第、度胸試しだ。覚悟を決めるしかない。

いま読んでいる『まともな人』(養老猛司著)におもしろい記述があった。引用してみる。
「……(戦争の背景にあるメタ恐怖の話題から)……日本では(中略)それを危機管理という。危機が起こったら大変だ。それなら平時にそれに対する準備をしておく必要がある。それ自体は結構だが、まず危機の定義を考えてほしい。危機とは、そもそも管理できない状態をいう。それを「管理する」とはどういうことか。私の辞書はそこでたちまち混乱におちいる。昔の人は、こういう問題にどう対処したか。(中略)食っていくのに精一杯だったから、危機管理などという贅沢はいえない。それなら、いうことは一つしかない。だから覚悟といった。「洪水がきたらどうする」「覚悟してます」というわけである。」

安倍首相が目論んでいる憲法改正。主眼は9条だ。今なら隣国北朝鮮の脅威があるから国民の理解も得やすいと考えているのかもしれない。しかし、養老猛司ふうに言えば、脅威すなわち危機を管理することなどそもそも不可能なのだ。軍備(私は全然詳しくないが)で言えば、どこまで高性能の兵器等を揃えたとしても、相手がそれ以上のものを持っていたら役に立つまい。どこまでいってもキリがない。どこまでいっても中途半端だろう。9条を改正しようという動きは、単に「落石注意!」の標識を立てるほどの意味合いしか無いと私は思う。実際の危機に対しては何の役にも立たない。

9条を改正するより守ることのほうがはるかに険しい道なのかもしれないが、崇高な理念を失うよりは良い。それで本当に危機が来たとしても、私なら、仕方がないと覚悟が決められると思う。

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千の風になって

図書館員時代の同僚が亡くなった。きょうの午前中だったという突然の訃報が留守電に残っていた。

私より一学年下だった。小っちゃい身体のくせに力強くて、可愛らしくて、若々しくて、面白くて、人生のどんな場面も楽しんでしまう賢い人だった。おそらく私が知っているすべての人の中で、一番「死」とは縁遠いイメージの人だった。だからまだ信じられない。涙も出ない。

昨年の4月から病欠しているという話は、別の人から来た今年の年賀状で初めて知った。彼女自身からの年賀状には、いつも添えてある一筆が無かった。それでも心配などしていなかった。まさか死に到る病だなどとは考えもしなかった。今でも正式な病名を知らない。誰かに尋ねる気もしない。

死んでなんかいないよねぇ。また一緒に遊びに行って、晴れ女 vs 雨女の対決をしたいね。お葬式には行かない。当面忙しいだろうけど、暇になったら遊びにおいで。カヨちゃん。

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図書館の本

こんな記事を目にした。

いや実際、督促しても督促しても本を返さない利用者はけっこういるもので、私も図書館員時代には頭を悩ませたものだった。実際にあった例で一番呆れたのは、卒業して自分は下宿を引き払ってから、「返却していない本が残してあるので、部屋まで取りに行ってください」と連絡してきたツワモノ。実に数十冊の図書館の本が山積みになっていた(らしい)。学生は同時に3冊までしか借りられない規則だったのだから、「返却していない本」ではなくて、正しくは「無断で図書館から取ってきた本」なのである。怒髪天を衝く思いだった。

図書館側としては、ブックディテクション・システム(1冊1冊の本に磁気テープが仕込んであり、そのまま持って出ようとするとゲートで警報が鳴る仕組み。あのレンタルビデオ屋さんにあるようなやつ)などを導入したが、ゲートを駆け抜けて逃げる子もいた。将来医者や看護師になろうとする学生がそんなことするなよと、実に嘆かわしかった。本当はそんなシステムなんか使いたくないのである。何十万冊という本に一々磁気テープを仕込む作業だって大変だし、そもそも利用者を信用していないようで嫌だった。図書館員の気持ちは、利用者には気持ちよく利用してもらいたい、ただそれだけなのである。なのに、ほんの少数の不心得者がいるおかげで、そういう対策を講じなくちゃいけない。情けなかった。今はこういうシステムが当たり前になっていて、利用者も図書館員も特に違和感は覚えないかもしれないが、こんなシステムは本当は無くて当たり前なのだ。

ルールを破る人間がいる。→規制、規則、管理体制、その他もろもろが強化される。→それまで融通が利いていた部分も融通が利かなくなる。→がんじがらめ。

ますます住みにくい世の中にしないためにも、最低限のルールやマナーくらいは守ろうね。

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読書中

昨日買ってきた『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』を読んでいる。おもしろい。

取り上げられているそれぞれの話題についてはいろいろ思うこともあって、それはまたちゃんと読み終えてから書こうと思うが、とりあえず、村上春樹がこんなに素直に心情を吐露していること自体が興味深い。あまり自分のことをしゃべらない人だという印象があったので、意外だった。見ようによっては、村上春樹という患者が臨床心理学の大家・河合隼雄の分析を受けているという構図に見えなくもない。それくらい、裸の自分をさらけ出しているように見える。これが河合隼雄の心理療法の手腕によるものだとしたら、やっぱりすごい。

すらすらと読めるのだが、内容はとてつもなく深くて、おまけに脚注もついている。きちんと読んでできるだけ理解したいと思う本なので、一応読み終えたらもう一度読むつもり。

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