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2008年3月

「おどりませんか めぐみさん」

きょうはお疲れモードで気合が入りません。『BJ』関連でちょっとだけ書いてみます。

●2008年3月24日、リチャード・ウィドマークが亡くなった。1947年に『死の接吻』の殺し屋役でデビューして以来、悪玉善玉の両方を演じられる俳優として活躍していたが、手塚ファンにとっては悪役「スカンク草井」のモデルという印象が強いのではなかろうか。ご冥福を祈りたい。

以前、『BJ』に出てくる人物の中で一番の悪者は誰だろうかと考えたことがある。スカンクやハム・エッグやランプやゴアが演じた小悪党から巨悪まで、名も無い殺し屋たち、テロリスト、自分のことしか考えない大統領等々、思いを巡らす中で、そのときは「蓮花」こそが悪者NO.1ではないかと思っていた。血が繋がっていないとはいうものの、仮にも自分の息子であるBJを殺させようと画策した希代の悪女だからだ。しかし考えてみれば、それも自分の産んだ愛娘「小蓮」を思えばこその行動だったと考えれば、情状酌量の余地があるように思われた。今でも、誰が一番の悪なのかよくわからない。もしかしたら、通りすがりにBJを「気味悪い」だの「ツギだらけ」だの「暴力団くずれ」だのとコソコソ無責任な暴言を吐いている、その他大勢の人々が一番タチが悪いのかもしれないと思ったりもする。

●某Aさんがブログで紹介されていたニコニコ動画が面白そうだったので、ついに意を決してアカウントを取得して観てみた。大塚明夫さんにとてもよく似た声の人がブラック・ジャックの台詞(+オリジナルの台詞)を喋り歌っているものとか、初音ミク風BJとか、いろいろ楽しめた。だいたい元ネタがわかるのが嬉しい。「おどりませんか めぐみさん」というオリジナル台詞には腰が砕けた。なるほど、言いたくても言えなかった言葉かもしれないなぁ。しかし踊れるのか、間先生?! まさか「どじょう掬い」ではあるまいな。

間先生の青春時代、めぐみさんと知り合った頃、70年代前半頃にはどんなダンスが流行っていたのか。60年代のゴーゴーは既に無く、ディスコダンスに火が点くのは1978年の『サタデー・ナイト・フィーバー』前後のことだったと思う。年代的にもうちょっと前となると……ヴァン・マッコイの『ザ・ハッスル』がヒットしたのが1975年。そうか、ソウル・ダンスの頃なのだな。踊り方は……よく知らない。

音楽ではGaro の『学生街の喫茶店』が1972年、山本コウタローとウィークエンドの『岬めぐり』が1974年、チューリップの『サボテンの花』が1975年など、洗練されたフォークが流行していた頃。洋楽では、ビートルズが1970頃に解散して、ロックが黄金期を迎えた頃。エリック・クラプトンの『いとしのレイラ』が1972年、カーペンターズの『Sing』が1973年に大ヒットしている。

こういう曲を聴きながら、めぐみさんを想って悶々としていたのだろうなぁ、きっと。めちゃくちゃ可愛いゾ!(^m^)

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『戦争と平和』はトルストイ

知識というのはどの程度必要なのかと思うときがある。

きょうは録画しておいた『ヘキサゴン』を観て、昨晩も番組改編期恒例の長時間クイズ番組をちらりと観たりした。最近この手のバラエティクイズ番組が大流行のようで、視聴者もテレビの前で一緒に答えながら観ているのではないかと思う。自分が答えられなかった問題については覚えておこうと思うけれども、いつかまた忘れてしまう。

『戦争と平和』がトルストイで、『罪と罰』がドストエフスキーで……なんてことを知っていて、人生にどれだけ役に立つのか。50年近く生きてきたが、私は未だにその知識を役立てることのできる機会には恵まれていない。また、本当に知識として必要なのは、ちゃんとそれぞれの作品を読んでその内容を知っておくことだが、私は『戦争と平和』は途中で挫折し、『罪と罰』は読むには読んだが内容を理解したとは言い難い。読んでいないのとなんら変わりない。ならば、『戦争と平和』がトルストイで、『罪と罰』がドストエフスキーで……なんてことを知っていても、実は何も知らないのと同じことだ。

生きていく上で必要なのは、知識ではなくて知恵だ、たぶん。知識というのは知恵をつけるための材料・手段の一つなのであって、それが最終目的なのではない。たぶん。

以前に、いわゆるおバカキャラを売りにしているタレント達はその生き方においておそらく賢い、ということを書いた覚えがあるが、その考えは今でも変わっていない。彼らが想像を絶する珍解答を連発している一方で、インテリと言われる同じような顔ぶれの解答者たちが「『戦争と平和』はトルストイ」式の問いに正解して得々としている(いやおそらく、正答を出して抜けるまでは相当なプレッシャーがあるとは思うが)。最近はそれが却って嫌味にも思えてしまって、私の中ではおバカキャラの方の好感度がますます上がるのである。

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その道中の陽~気なこと!

名残惜しくも、NHK朝ドラ『ちりとてちん』が終わってしまいました。最初の数週間は見逃した回が多かったですが、散り散りになっていた徒然亭一門の弟子が戻って来た頃から俄然面白くなって、毎朝テレビにかじりついて観ていました。

私のお気に入りは四番弟子の四草(しーそー)さん。ニヒルで毒舌家ですが、実は誰よりも人の気持ちを汲み取ることのできる優しい人でした。きょうの最終回では、主人公をはじめそれぞれの登場人物について全てが丸く納まっていく様子が描かれていましたが、なんかもう四草さんに全部持って行かれた感じで……。あの女の人はいったい誰(爆)?! きょう初めて出て来て、「あなたの子です」かなんか言って、四草に男の子を押し付けて去って行きました。も、大笑い。(≧∇≦)ノ彡 バンバン! 最初の頃は綺麗なお姉ちゃんとイチャついたりしてたくせに、本当はああいうデb……もとい、大柄で、ブs……もとい、十人並みの器量のおb……もとい、そこそこ歳の行ったご婦人が好みだったとはね~。いやもう、しばらく笑いが止まりませんでしたわ。何が起ころうとも微動だにしない四草さん、黙って男の子を引き取って育てることになったようです。めでたしめでたし。

さて、最終回の話は置いといて。このドラマは本当に出来が良かったと思います。時々おちゃらけ過ぎる場面が無きにしもあらずでしたが、見せ場の盛り上げ方がとにかく上手かった。すっかりやる気を無くしていた草若師匠が弟子達の頑張りにほだされて「寝床」寄席の高座に上がるシーン。ここのスローモーションなんか、もう鳥肌が立つほどのカタルシスを感じました。そうなってくれ、いやそうなるに違いないと思って観てはいましたが、期待を遥かに上回る演出に圧倒されました。個人的には、これが半年間を通じて最高のシーンだったと思います。

このドラマのテーマは「伝えたいもの・伝わる思い」というようなものだったと思います。上方落語と伝統若狭塗箸というどちらも代々受け継がれていくものをうまく絡めて、主人公・喜代美の成長が描かれていました。結局、彼女は落語家を辞めて、徒然亭一門のおかみさんになることと、生まれてくる子どものお母さんになることを選択しました。「母」の思いというものも代々受け継がれていくという意味で、このドラマの影の主人公は喜代美の母・糸子さんだったのではないかと思います。

久々に見ごたえのある朝ドラを楽しませてもらいました。今年10月からは、ここ松江と京都を舞台にした『だんだん』が始まるそうです。『ちりとてちん』を上回る出来のものができるでしょうか。

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(備忘録080328)

さあ楽しいネットサーフィンの時間……と思っていた22時30分、グループホームから電話が掛かり、母がどうしても落ち着かないというので、それから出掛けて、帰ってきたのが0時30分。お泊り覚悟で行ったので、帰ってこられただけマシだけれど。私の顔を見たら安心したらしくニコニコしていた。今夜はもう大丈夫かな。しかし、家族も大変だが、ああいう所の職員さんの仕事は大変だとつくづく思った。

クタクタなので記事はお休みします。コメントのレスも明日させていただきます。すみません。投稿時間は操作して前日に。

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オリンピックと政治

オリンピックと政治問題は本来無関係であるべきだと思う。オリンピックに限らず、またスポーツに限らず、あらゆる分野での国家の枠を越えた国際的な催しと、政治問題は無関係であるべきだと思う。

……と、ここまでは理想論である。

『オリンピック憲章』というものがある。その第I章「オリンピック・ムーブメント」の中の「3 オリンピック・ムーブメントへの帰属」に次のような記述がある。
「2 人種、宗教、政治、性別、その他に基く、国もしくは個人に対する差別は、いかなるかたちの差別であっても、オリンピック・ムーブメントへの帰属とは相入れないものである。」

現在のチベット騒乱は、これに違反しているではないか。よって、中国は開催地として不適格ではないか。ということで、EUではボイコットも話題に上るような状況になっている。これに対し、国際オリンピック委員会(IOC)は「北京五輪のボイコットは何も問題を解決しない」として、騒乱を理由にボイコットの機運が高まることを牽制している。IOCとしては、自分達が選んだ開催地なのだから、さぞかし頭の痛いことであろう。

もしもいくつかの国がボイコットしたとしたらどうなるだろう? 今後中国はチベットに対する態度を変えて独立を認めるだろうか? (いや、チベットは本当に独立を求めているのか、それとも人権と独自の文化や宗教を守ろうとしているだけなのか、報道管制が布かれている状態の現時点では騒乱の発端も明確にはわからないのだが。)たぶん、中国側の態度は変わらないのではないかと思う。中国政府の見解では、ダライ・ラマによって扇動された一地方の不届き者を鎮めただけなのだから。ボイコットした国々と中国との外交が今後多少ギクシャクするだけに終わってしまうのではないか。だとしたら「北京五輪のボイコットは何も問題を解決しない」というIOCの見解は正しい。

ならばここはひとついっそのこと、IOCが2008年の北京オリンピック中止を宣言して欲しいものだ。選抜された選手達にはかわいそうだが、今は4年に一度のオリンピックを待たずとも様々な国際競技大会があって、以前ほどオリンピックは重視されていないように思う。むしろ最近のオリンピックは、スポーツの祭典というよりビッグビジネスとしての存在意義のほうが大きいのではなかろうか。

『オリンピック憲章』に違反し、且つ、外国メディアの報道の自由も認めない国で(←これは重要なポイントだ)、平和なスポーツの祭典が運営できるのか、甚だ疑問だ。オリンピックが中止されて経済的打撃を受けるくらいでないと、龍の大国は認識を改めないような気がする。

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『「痴呆老人」は何を見ているか』

母はいったいどんな世界にいるのだろうと思う。思考能力が若干衰えてはいるものの、日常会話は支障なくできるし、判断能力もまあまあまともだ。電話で用件だけ話している分には、母が痴呆症であることは相手にわからないかもしれない。しかし、受話器を置いた途端に、母は電話で話をしていたことを忘れている。痴呆症とはそういうものだ。

新しい記憶ができず、今までに蓄積された記憶も少しずつ失われていく。大昔のことは覚えているが、近い過去の記憶が無い。入力自体が行なわれていないのか、出力ができないだけなのか? それともそこには本人による記憶の選別が行なわれているのか? そんなことを考えながら、本書を読んだ。

『「痴呆老人」は何を見ているか』(大井玄著)読了。読了……とは書いたものの、内容が理解できたという自信は無い。読んでいて意味が理解できず、数行あるいはその章全体を読み返すという作業を繰り返しながらどうにか最後まで辿り着いたが、引用も多く、関係分野も多岐にわたり、各章間のフィードバックも多いため、頭の中が整理しきれていない。それでも「なるほど」と思う新しい知見が多々あったので、忘れないうちにメモしておこうと思う。内容は次のとおり。

第1章 わたしと認知症
第2章 「痴呆」と文化差
第3章 コミュニケーションという方法論
第4章 環境と認識をめぐって
第5章 「私」とは何か
第6章 「私」の人格
第7章 現代の社会と生存戦略
最終章 日本人の「私」

著者は臨床医としての立場から終末期医療全般に取り組んでいる人である。本書も最初は著者が実際に見聞した認知症に関する話題から始まり、症例の紹介も興味深いのだが、それはやがて認識論、比較文化論に及び、最後は現代日本社会が抱える問題にまでメスを入れる内容となっている。全体として、哲学書を読んでいる印象だ。

認知症の病理学的解明などというものではなく、従って認知症を治そうというような取り組みが書かれた医学書ではない。この本に指摘されているのは、彼らの症例から見えてくるものが決して彼ら特有のものではなく、全ての人間にも理解できる、また全ての人間がそうなる可能性のある機序によるものだということだ。このときもっとも重要なキーワードとなるのは「私」と「つながり」だと著者は説く。

認知機能の低下=外界とのつながりが失われていくこと。
その不安が異常行動を取らせることもある。

医学的には立派な認知症患者であるはずの老人が、ある環境下ではごく普通の生活を送っている例が紹介されている。
「……敬老意識が強く保存され、実際に老人があたたかく看護され尊敬されている土地では、老人に精神的葛藤がなく、たとえ器質的な変化が脳におこっても、この人たちにうつ状態や、幻覚妄想状態は惹起されることなく、単純な痴呆だけにとどまると考えられるのである」

これはまさに目からウロコが落ちる指摘だと思った。アルツハイマーという病気が認知されてから急にアルツハイマー患者が増えたという事実とも相俟って、つまり、医学的には病気に分類されてしまう老人でも、環境さえ整っていれば普通の生活が送れるということだ。一時代前の日本、核家族化する前の日本なら、「おばあちゃん、最近ちょっと呆けてきたわね」と言いつつ自宅介護で済んでいた問題だったのだろうと思う。現代の社会環境が認知症患者を作り出しているのだ。

また第7章では「ひきこもり」について触れられている。これにも社会環境や教育・育児の側面から明快な分析がなされている。認知症、ひきこもり、それらにどう対処していくのか、これは現代日本人に課せられた大きな問題であると再認識した。

私も母とどう向き合っていくか、考えていかなくてはならないと思った。道は、あるはずだ。

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(備忘録080325)

読書中につき、記事はお休みします。m(_ _)m

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人格の座

上地雄輔の白黒ツートーンの髪を見るとデジャ・ヴュを覚える今日この頃。今の世の中、BJ先生が街を歩いていてもあんまり目立たないかもしれない。

さて、月曜日は『BJ』語り。

『BJ』シリーズの中で、連載当時には読んだけれども、いま私の手元になく読めないエピソードが3編ある。

#28「指」(1974.6.24号 後に#227『刻印』に描き直される)
#41「植物人間」(1974.9.23号 以前は新書に収録されていたが、現在の版には無い)
#58「快楽の座」(1975.1.20号)

このうち、「指」は「刻印」で一応読めるとして(間久部の扱いが180度異なるが)、「植物人間」と「快楽の座」が新書でも文庫でも全集でも未収録なのは、この2編が人間の脳を扱ったエピソードだからだろう。人間の脳をテーマにした作品の扱いが難しいことは想像に難くない。他の臓器と違って「脳=人格」と考えられるからだ。

人格としての脳を扱った作品にはこの他にも次のものがある。漏れがあったらゴメンナサイ。★印は文庫未収録作品(新書には収録されている)。
#36「しずむ女」★
#37「2人のジャン」★
#70「からだが石に……」
#76「水頭症」★
#86「絵が死んでいる!」
#128「最後に残る者」★(未熟児の形成手術の話であるが、脳を生かすための施術とも考えられる)
#153「ある監督の記録」(1977.1.1号 後に『フィルムは二つあった』に改題され、脳性マヒをロボトミー手術で治すという記述が、デルマトミオージスを交感神経切断術で治すというふうに書き改められた。これは当時ロボトミー手術を美化していると問題になったためで、同年2月には全国紙に謝罪文が出された。ただし、BJが行なったのは正確にはロボトミー手術ではなく用語の誤りであったとの指摘もある。たしか電極を刺したんじゃなかったかな~?……←うろ覚え)

★が多いこと、また「ある監督の記録」がそのままでは収録できなかったことからも、このテーマを扱うことがいかに難しいかを窺い知ることができよう。一方で、馬の脳を人間に移植する「化身」は新書、文庫、全集のいずれでも読むことができる。動物ならOK? 「人間鳥」は? 「山猫少年」は? 人道的、医学倫理的な観点から、どこまでがOKでどこからがNGなのか、その境界線を引くことは非常に難しい。

ただ基本的に、手塚治虫は患者の人格を損なう方向でこれらの作品を描いてはいない。むしろ逆で、「快楽の座」でも、患者の脳にスチモシーバーを埋め込んで鬱病治療をした鬼頭教授に対しては否定的な姿勢が鮮明である。また、どちらかを犠牲にしなくては両方が死んでしまうシャム双生児を描いた「2人のジャン」でも、分離されて実験用として水槽の中で生かされることになった脳に死を与えている(BJが、ではない。身体を得た方のジャンが水槽を破壊するのだ)。これは、身体を失い脳だけになった人間に、人間らしい幸せはないと手塚が考えたからだろう。結果は「死」だが、その人格を尊重しているからこその当然の帰結だったと思う。

しかしこれらの話が文庫に収録されないのには、やはり何らかの理由や事情があるのだろう。一読者としては全ての作品がどんな出版形態ででも読めることを望むが、差別や偏見等の実態があるのなら出版を躊躇するのも無理からぬことだと思う。(実際に差別や偏見という実態があるのか、あるいは過剰な人権意識のなせるワザなのか、疑問に思うところもあるが、ここではそれに触れることは避ける。)

最後に、問題となった「ロボトミー」について。「lobo-」は前頭葉や側頭葉などの「葉」を表し、「-tomy」は「切除」の意。精神障害の外科的治療として、前頭葉の一部を除去するというもの。その前駆的治療法は19世紀から行なわれていたが、ポルトガルの医師エガス・モニスによって1930年代に手術法が確立され、盛んに行なわれるようになった。モニスはその功績により1949年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。

しかしその後、ロボトミー手術の危険性が注目されるようになり、薬物療法の進歩もあって1970年代以降はほとんど行なわれなくなった。それでも日本でも3~12万件は行なわれたらしい。ちなみに1975年公開の映画『カッコーの巣の上で』はロボトミー手術の悲惨さを描いたものである(『快楽の座』が描かれたのと同年であることは注目すべきかもしれない)。また、1979年東京で「ロボトミー殺人事件」が起こっている。無断でロボトミー手術をされた患者がその後の生活に支障を感じ、執刀した医師を恨んでその妻と母親を殺害したというもの。

モニス自身もロボトミーの手術を受けた患者に狙撃されたことがあるらしい。1989年にはロボトミー被害者の家族のネットワークが作られ、モニスのノーベル賞受賞を取り消すよう求める動きもある。当時は画期的な治療法だったのかもしれないロボトミー手術だが、今ではどうやら負の遺産となっているようである。

きょうのタイトルは、脳=人格と捉えて「人格の座」と付けた。しかし脳には「心臓か、脳か」の「生命の座」としての側面もある。「植物人間」や『ミッドナイト』最終話などはそっちの方向で考えるべきかと思うし、BJ vs ドクター・キリコの戦いも突き詰めればそういうことになるのかもしれないと思ったりする。

いつにも増して支離滅裂でまとまりのない文章、すみません。

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(備忘録080323)

一昨日からどうも風邪っぽい。妙に寒かったり暑かったりする。……風邪じゃなくて、更年期障害かな~。_| ̄|○

昨日は母の所へ行かれなかったので、きょうは頑張って行った。マッチ棒と千代紙で作った「おひな様」をお盆の上に飾ったら、喜んでくれた。ここら辺ではひと月遅れで祝う。きょうは比較的気分が安定していたようだ。

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情報流出

日銀松江支店の内部情報がネットに流出した事件が、地元のニュースでも盛んに報道されている。

Winny の暴露ウイルスに感染したパソコンで資料を作成しようとしたために、「2ちゃん○る」を介して閲覧が可能になってしまったらしい。私は Winny などというものの仕組みも使い方もよくわからないのだが、あれだけ以前から問題視されていたのにまたまたこんな事件が起こったということ自体に呆れてしまう。「削除したつもりだった」と話しているそうだが、削除できたかどうかの確認さえできない人間が、そもそも Winny なんか入れるんじゃない!と言いたい。その職員には厳しい処分が下されて当然と考えるが(内部資料を上司に無断で持ち帰っただけでも厳罰ものだ)、日銀としても厳重な再発防止策を講じないと、ただお偉いさんが頭を下げただけでは信用は失墜したままだ。

それより問題なのは、名前を晒された3つ(と言われている)の企業の先行きだ。これだけ大騒ぎになれば有形無形の影響が少なからずあると思う。風評被害というのもあるだろう。最悪、取り付け騒ぎにでもなったら、日銀はどう責任を取るのだろう。お詫びの印として、現在貸し付けをしている某銀行を通じて融資でもするのだろうか。

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『ホームレス中学生』

『ホームレス中学生』(田村裕著)読了。

父親の「解散!」の一声で一家離散の憂き目に遭った田村少年。その困窮生活を知恵と工夫で乗り切る『十五少年漂流記』のような物語……かと思っていたら、案に相違して、テーマは「亡き母への尽きせぬ想い」だった。飾らない言葉で、素直に真面目に綴られている。

小学生のときに母を亡くした田村少年が、その現実を受け入れられず、ずっとお母さんは帰ってくると信じていたこと。親切にしてくれた近所のおばさんが亡くなった高校生のときに、初めて「死」というものを理解し、お母さんとはもう会えないとわかって泣いたこと。そして自分が生きる意味を見失ったこと。そして恩師との出会い……。このあたりの心情の流れは、まるでテレビドラマのようにドラマチックである。こんな人生があるんだなぁ。

ちょうど今夜、『金スマ SP』でこの小説の再現ドラマが放送されていた。小説では所々に挿入されている思わず笑ってしまうエピソードがすっかり省略されていた。「泣いてもらいます」という制作上の意図が見え隠れしているようで、逆に安っぽく感じた。小説のほうが骨太で淡々としているだけリアルで泣ける。

映画化もされるらしく、300万部を狙っているとかいないとか。田村少年の周りにいた人達の優しさと暖かさが皆に伝わればよいなぁと思う1冊。

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「松江開府400年祭」関連

Photo先日兄からもらったペットボトルの緑茶。抹茶が入っているとのことだったが、よくわからなかった(ごめん)。昨年から始まった「松江開府400年祭」を記念して島根・鳥取両県内のみで販売されている。松江城がドドーンとプリントされ、「1607(慶長12)年、堀尾吉晴公により松江のまちづくりが始まり、云々」と解説も書かれている。松江はお茶どころだからこの企画は良いと思った。これからの暑い時期、ペットボトル片手に町を歩く観光客にもぴったりなんじゃないのかな。伊藤園さん、あっぱれ。ついでに、抹茶のペットボトルも出してくれないかな。しゃかしゃかシェイクして泡立てて飲むとか……(笑)。

Photo_2あっぱれと言えば、400年祭のマスコットキャラクターは「あっぱれくん」である。しかしこれはこの祭用にデザインされたものではなく、19年前の平成元年に松江市で開かれた「第21回全国菓子大博覧会(松江菓子博)」の際に、公募で選ばれたものの使いまわしだ。当時から思っていたが、この殿さま真っ直ぐに立っていないように見えて仕方がない。右足が宙に浮いているような気がする。でも本人はそんなこと気付いていないようだし、それをそのまま手直しもしないで使っている人々も皆「おんぼら」としていて、いかにも松江人らしい(笑)。「おんぼら」というのは『出雲弁の泉』によれば「ゆったりと、柔らかく」という意味だが、どこかに「ゆるい、温い(性格とか行動とか頭とか・笑)」という意味合いを感じる。まぁおおらかでゆったりしているというようなことだ。

先般より話題になっている「平城遷都1300年祭」マスコットほどのインパクトもなく、「ひこにゃん」ほど遊べるキャラでもなく、ただ地に片足がついてない状態で「あっぱれ」と言っているだけの、本当の意味の「ゆるキャラ」ではないかと思う。好きだ。また会えて嬉しい。

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(備忘録080319)

母の83歳の誕生日。赤い薔薇の花束をプレゼント。

畠山鈴香被告の無期懲役判決の是非とか、未だに続いているチベット暴動とか、日銀総裁人事とか、関心のあるニュースはあるのだが、きょうは頭が働いてくれない。

記事はお休みします。ばたんきゅ。

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携帯電話と心配

2008年03月18日(火)19:30~03月19日(水)11:00の約16時間、ココログのメンテナンスが行なわれて記事の投稿ができなくなるので、今のうちに書いておく。

携帯電話のCMで「子どものことを心配しない親はいない」とか何とかいう文句をチラリと聞いた。まぁ確かにこの言葉に嘘はないだろうなと思う。心配だから子どもに携帯電話を持たせましょうというCMなのか、そもそもどういう趣旨でどういうサービスのCMかまでは判らない。ちゃんと聞いていなかった。しかし今の世の中、子どもに携帯電話を持たせることもまた心配事のひとつだろう。

子どもの身が心配だから持たせたのに、持たせた後がまた心配だという親心。どっちの心配のほうがより切実なのかと考えてみる。持たせる理由となる心配とは、例えば登下校の際や塾などで帰りが遅くなる際に、誰かに危険な目に遭わされるのではないか、あるいは誰も居ない場所で急病や怪我で動けなくなるのではないか、というようなことだろうか。そして、持たせたが故の心配とは、出会い系サイト他から好ましくない情報を得て、更には子どもの身に危険が及ぶ可能性があるのではないか、ということだろうか。

時間がないので一足飛びに私の結論を書くが、携帯電話は子どもを守ったりはしないと考える。例えばひと気のない山道などで怪我をして動けない場合には役に立ちそうにも思うが、そういう場所はたいてい圏外である。あるいは、悪人が子どもを誘拐拉致したとして、まず真っ先にすることは子どもが持っている携帯電話を捨てることだと思う。GPS機能が付いているかもしれない。私が悪人ならそうする。少なくとも目の前で子どもが親に電話したりメールしたりするのを黙って見ているなんてことは絶対にない。そういう犯罪に巻き込まれて携帯電話のおかげで助かった例があるとすれば、それは本当に運が良かったと考えるべきだと思う。

そういう万に一つの幸運よりは、持たせたが故にネットを介した犯罪や事故に巻き込まれる確率のほうがはるかに高いのではなかろうか。百歩譲って「どーーーしても子どもに携帯を持たせたい!」という親がいるならば、通話しかできない(電話ってのは本来そういうものだ)携帯電話を持たせればよい。今はいろんな機能が付きすぎているから却って危険なのだと思う。フィルタリング機能だってどこまで有効なのか怪しいものだ。いまどき通話しかできない携帯電話があるかどうか知らないが、無ければ作るように働きかけてみても良いんじゃないか。「子どものことを心配しない親はいない」と謳っている会社なら、採算なんか度外視して喜んで作ってくれるのではないかな?

以上、携帯電話を「心配」という観点から綴ってみた。親と子の結びつきとか距離とか、教育とか躾とか、地域社会と子どもとか、人間同士のコミュニケーションとか、携帯電話というのはいろんな側面からもっと語られても良いと思う。その功罪について、子どもを持つ親なら、一度は真剣に考えなくてはいけないことなのではないかと考える。

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ジュリアーノ、タバコ買ってこい

なんでも近々自動販売機のタバコを買うのにカードが必要になるらしい。未成年者の喫煙を防止するためらしいが、お父さんが子どもに「タバコ買ってきてくれ。お釣りはお駄賃な」などと言っている美しい日本の情景ももう見られなくなるのかなぁ。……なんて思っていたが、お父さんが子どもにカードを渡せばよいことだと気付いた。果たして未成年者の喫煙防止効果が挙がるのか、どうなんだろう? カードを作るのだってお金が掛かっていると思うのだが、誰かがボロ儲けしているのかしらん?

さて『BJ』語り。

BJも愛煙家である。紙巻きタバコのこともあるがパイプを咥えていることが多い。喫煙シーンを数えてみたらパイプだけで40話ほどもある(注:『ほど』としか書けないのは、そういうシーンを数えるという本来の目的を忘れて例によって読みふけってしまったため。たぶん漏れがあると思う…… ^^; なお『ミッドナイト』に出たときにもパイプを持っている)。実にシリーズ全体の6分の1ほどの話にパイプでの喫煙シーンが描かれていることになる。紙巻きも合わせたらかなりの数になるだろう。

連載当時は喫煙について今ほどやかましく言われていなかったから、BJ先生は医者のくせして堂々とタバコを吸っている。手術の後の一服は特に美味そうだ。(余談だが、『サザエさん』にも以前は喫煙シーンがバンバンあったのが、世論の流れを受けてそういうシーンが描かれなくなったと聞いたことがある。)BJ先生、さすがに患者の前で吸うことはないようだが(例外もあるが、タバコの害はないと思われる場合である)、逆に「刻印」では患者の間久部に手術中にタバコを吸わせたりしている。

ちなみに、BJ以外の医者にも喫煙者は多い。
ドクター・キリコ……紙巻き
ブラック・クイーン……紙巻き
手塚医師……紙巻き
白拍子……パイプ(白拍子がパイプって、なんかワケも無く腹が立つな。笑)

で、そのパイプなのだが、基本的に女性はあまり吸わないように思う。粋な女性が煙管を使うのは婀娜っぽいと思うが、パイプを使うのは見たことがない。だからパイプを吸うこと自体、非常に男性的なイメージがあるのだが、個人的にはBJ先生にはあまり似合っていないように思う。男性的でないというわけではなくて(先生はものすごく男らしい!!)、まだ歳が若いからだと思う。初老あたりになって少々枯れてからロッキングチェアに揺られて静かにくゆらしていただきたいと思うのだが、どうやら先生は紙巻きよりはパイプの方がお好みのようだ。何種類かお持ちのようで、形ではシャンク部分が真っ直ぐのカナディアンとビリヤードが多い。色では白っぽいものが多いがこれは石(メシャム)、黒っぽいものは木(ブライヤー)だろう。

私の兄が一時期パイプを吸っていたのだが、パイプにはただ煙を吸うという以外の楽しみがあるようだ。まずパイプの選び方から始まって、刻みタバコの選び方や詰め方、着火の仕方、タンパーの扱いを含めた吸い方、更にはお手入れの仕方まで、各人の好みとこだわりが出る。パイプ用ライターとかカーボンを削る道具とかスタンドとかケースとか、そういう小道具を選ぶのもまた楽しいものらしい。BJ先生はこれと言って趣味らしい趣味もなさそうなのだが、パイプという案外手間ひまかかるものを敢えて選んでいるところを見ると、これが趣味なのかもしれない。中身の銘柄は何なのだろうな? 兄はたしか「Promenade」という銘柄を吸っていたと思うが、とても甘い香りがしていた。BJ先生ならその名前から「Black Vanilla」あたりかな。もちろん最初は国産の「桃山」だったのではないかと思うが(笑)。

なお、アニメ『BJ』で、BJのパイプをネズミが倒してあわや火事になりそうな描写があったが、BJ先生はそんな不注意な間抜けではないと少々腹立たしく思ったことを記しておく。ちなみにそのときアニメに描かれたパイプはブライヤーのベントだった。原作では「話し合い」で吸っているのがベントである(ただし白っぽいのでブライヤーではなくてメシャムだろう)。

Pipe 「タイムアウト」に、交通渋滞に巻き込まれて不機嫌な様子でパイプに火を点けるBJが描かれている(これは間違いなくカナディアン)。このライターとおぼしきものがよく判らない。パイプ用ライターは炎が横向きに出るが、これは真上から押さえるようにして着火している。こんなツールがあるのかな???

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音楽が好きな死神

『死神の精度』(伊坂幸太郎著)読了。久々に上等のエンタテインメントに巡り合ったという感じ。文句なしに面白かった。「死神の精度」「死神と藤田」「吹雪に死神」「恋愛で死神」「旅路を死神」「死神対老女」の6編。

「千葉」は正真正銘の死神である。と言っても、大きな首狩り鎌を持って実際に人の命を奪う死神ではない。死神社会における情報部というところに身を置いて、どこか別の部署が「この人間に死を与える」と判断したときに、その人間に7日間接触してその死が「可」か「見送り」かを調査する仕事をしている。彼が「可」と連絡すれば、8日目にその人間は死ぬ。

どうやら死神は死ぬことがないようで、千葉はもう何千年もこの仕事をしているようだ。しかしその割りには、何故この人間が死ぬ運命に選ばれたのかなどという仕組みは知らないらしい。それは他の部署の管轄であり、彼はただ淡々と自分の仕事をこなしているだけである。中にはろくすっぽ調査もしないで「可」の連絡をする同僚もいるが、彼は真面目に仕事をしている。まるで人間社会と同じで、笑ってしまう。

音楽が好きで、仕事をしているときはいつも雨で、クールなのだがどこかズレている死神が、調査対象と過ごす最後の7日間。千葉は対象と接触するとき、その人と親しくなるのに一番ふさわしい外見、年齢に変身する。だから死神というのは本来はどうやら人間とは違った風貌をしているものらしい。

まさか自分がもうすぐ死ぬなんて思ってもいない人達が千葉に見せる様々な人間模様。恋愛小説風あり、ミステリ仕立てあり、任侠映画風あり、ロード・ノベル風あり、多彩なシチュエーションが楽しめるが、人はその一生の終わりに死神と親しくなっているという設定自体が、最高に楽しいメルヘンだ。クールだけれど、ドライではない。たいてい千葉は「可」の判定を下すけれども、読んでいて気持ちがほっこりと暖かくなるのが不思議だ。

一話完結だが、最後の「死神対老女」に仕掛けがある。6編まとめて長編とも読めるので、これから読まれる方には、順番どおり読むことをお勧めする。

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ストレス解消法

相変わらず帰宅願望の強い母に四苦八苦……。ある程度環境に慣れるのに「長い人で3ヶ月」と、施設長さんから言われているが、サテいつまでかかるか。まだまだ先は長そうだ。

『世界一受けたい授業』でストレスの話題があった。適度なストレスは必要だが溜め込むのはいけないということで、解消方法として「人に話す」というのがあった。この分野ならこの人、あの分野ならあの人という具合に、溜まりそうになったストレスを適当な相手を選んで喋って発散するのだそうだ。それには相手が分野別に5人くらい必要なのだそうだが、私にはそんな相手が5人もいない。

だいたい口数が少なくて、どちらかと言えば聞き役に選ばれてしまうような人間だ、私は。中学高校の昔からそうで、恋に悩む友達の話をいっぱい聞かされた。周りは誰一人知らないような秘密など打ち明けられた。もとより彼女達は私に助言を求めているわけではなくて、誰かに話を聞いてもらいたかっただけだ。石のお地蔵さんに話すより多少の応答があるだけまし、という存在だったと思う。

今から思えば、そもそも彼女達は本当に悩んでいたのかどうかさえ怪しい。「別れたほうが良いかなァ」と問うときには、たいてい彼女達の中では既に答が出ている。私は「さあね」としか答えないのだが、それで充分なのだ。自分の気持ちを喋れるだけで満足だったのだと思う。

確かに、誰かに何かを喋るというのは、気持ちの上でなにかフンギリがついたり気が晴れたりするものだと思う。でも性格的になかなかそれができない人間がいる。連続テレビ小説『ちりとてちん』を観ていて、主人公・喜代美の弟(正平)や、親友のジュンちゃんがそうだと思う。人の良き相談相手で理解者にはなるのだが、自分の悩みやストレスを人には話せない。人から頼りにはされても、自分から甘えることはできない。性格だけの問題ではなくて、周囲が知らず知らずのうちにそういう役割を担わせている場合もあるのだ。

『世界一受けたい授業』では、他に「お風呂の中で独り言を言う」というのがあった。私はいつもお風呂でゴニョゴニョと「般若心経」を唱えているが、案外これは効いているような気がする。「色即是空 空即是色」だ。いや、意味そのものよりも、仏様が聞いていてくださると思えることが嬉しいのかもしれないな。

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『犯罪ホロスコープ1』

本日のお買い物
『死神の精度』伊坂幸太郎著
『六点鐘は二度鳴る』井沢元彦著

時間が無くて内容も見ずに平積みされているところから2冊引っ掴んでレジへ向かったのだが、いま見たら、織田信長が探偵役となる短編集『六点鐘は二度鳴る』は、以前読んだ『修道士の首』と内容が大幅に重複していた。アッチョンブリケ……。

『犯罪ホロスコープ1 六人の女王の問題』(法月綸太郎著)読了。黄道十二星座にちなんだ本格ミステリだが、後期クイーン問題に悩める法月綸太郎はそこにはおらず、パズル感覚で犯人当てを楽しめる短編集に仕上がっている。内容は以下のとおり。

〔牡羊座〕ギリシャ羊の秘密
〔牡牛座〕六人の女王の問題
〔双子座〕ゼウスの息子たち
〔蟹 座〕ヒュドラ第十の首
〔獅子座〕鏡の中のライオン
〔乙女座〕冥府に囚われた娘

サブタイトルが皆8文字というどうでもよい(笑)コダワリを初めとして、どれも緻密に計算され尽くしたミステリだ。それぞれ最初に該当の星座にまつわる神話が紹介され、本編ではその神話を彷彿とさせる殺人事件が起こる。見立て殺人ではないので、見ようによっては「ここまでやるか」というくらいコジツケめいた印象もあるが、短編のこととて登場する人数も少なく、この中に犯人がいるという当てものとしては、これくらい徹底してこだわってもらったほうが面白い。

内容も、アナグラム、『オイラーの三十六士官問題』、歌舞伎、都市伝説、携帯メール等、幅広く触れられていて雑学も増える。最後の「〔乙女座〕冥府に囚われた娘」は記録的に暑かった昨年の夏に相応しい題材で、時事的にもタイムリーだと思う。個人的には「〔双子座〕ゼウスの息子たち」が面白かった。文字通り双子が鍵となる展開で、絶対犯人を当ててやろうと意気込んでいたのだが、見事にしてやられた。頭が硬くなっていることをつくづく思い知らされる。

残りの6星座も早いとこ出版してほしいものだが、なにしろ遅筆で知られる法月氏のこと、いつになるやら。ちなみに法月氏、私の高校の後輩に当たる。和製エラリー・クイーンということもあって、クイーンファンの私には親近感を覚える作家だ。デビュー作以来、全作品読んでいる……かもしれない。あるツテでサインを頂けるはずだったのだが、あの話はどうなったのでしょうツテさん?

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思い出せない

面白い質問を見つけた。「クラシックなのだが曲名がわからない」というもので、旋律が「チャーラッチャッチャ……」と書いてある(笑)。果たして正解が見つかるのかと思ったら、ちゃんと見つかったらしい。すごい。ちなみに私は「トルコ行進曲」かと思った。

一部の旋律や歌詞から曲名を探すソフトがたしかあったと思うが(夢だったかな?)、音楽に限らず、草花の名前がわからないとか、こんなあらすじの話なのだが書名がわからないとかいうことはよくある。何とかキーワードで検索して判明することもあれば、未だに判らないこともある。

数ヶ月前から私の頭にこびりついている歌詞と旋律……男の歌声で「まもーるためー」、旋律は「ミレーファレミー」。

何の歌なんだろう……。

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(備忘録080312)

『ホーム○ス中学生』が200万部を突破したそうだ。かく言う私も買った1人ではあるが、初めの数ページを読んだところで中断している。私にとって調子よく波に乗ってスラスラ読める文章と乗れない文章があるとすると、これは後者の方。決して下手ではないのだが、上手く乗れない。ちょっと時間を置いてから読んでみようと思う。

あと気になっている本は伊坂幸太郎の『死神の精度』。次に買うのはこの本の予定。

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ありのままを受け入れる

学校教育法の改正を受けて「聾学校」を「聴覚特別支援学校」と改名することになったが、全日本聾唖連盟は改名に反対しているという記事を読んだ。用語の問題からも人権の問題からも、いろいろ考えさせられるニュースだ。

結論から言えば、私もこういう単なる言葉の置き換えには反対である。私の母は認知症と診断されているが、「痴呆(症)」を「認知症」と言い換えることにも私は未だに納得できず、このブログでは「痴呆(症)」を使っている。差別を感じさせない言葉に替えることが差別の根絶には繋がらないと思うのと、そもそもこういう動きがあること自体が差別的に思えるというのが主な理由だ。

もちろん、患者や障害者の方から「こんな名称は差別的だから替えてほしい」という申し出があったのなら話は別だ。しかし、記事を読む限り、聾者の方々はその名称に誇りを持っている。いや、「聾」であることに誇りを持っている。「聾者」という言葉を差別的だと捉える「聾ではない」人達が改名を言い出したのではないかと思うが、簡単に用語を替えれば済むと思うのは、考えが浅いんじゃないのか。

変えなくてはならないのは用語ではなくて、いわゆる健常者と言われる多数派の人間の考え方のほうだ。障害という健常者との差異を、上辺だけでも目立たなくしてしまおうという動きには、どこか胡散臭くて危ういものを感じる。逆だと思う。大事なのは、その差異をそのまま丸ごと認めることだ。耳が聴こえない、言葉が喋れない、目が見えない、身体が動かない、奇形である、痴呆である、その他諸々の、いわゆる多数派の人間とはほんの少し違っているところを、皆がありのままに認めて、それなりの方法で受け入れていくことこそが大事なのではないのか。

また、その差異のせいで身体的直接的に辛い思いをすること以上に、他人から偏見を持たれたり見当違いの憐れみを掛けられることの方が辛いんじゃないかと私は想像する。耳が聴こえなくても、言葉が喋れなくても、目が見えなくても、身体が動かなくても、奇形であっても、痴呆であっても、彼らは皆一個の人間としての誇りを持って生きている。それなのに、健常者こそが正常であるとして、その健常者より一段劣った者、異常な者として彼らを見る。それこそが差別の根源なのではないかと思う。

健常者を自称する我々がそんなに「健常」でも「正常」でもないことは、誰もが判っているくせにネ。

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黒一色

PhotoB「出番だぜ おまえさんの」
K「あとはおれにまかせろ」

「恐怖菌」で、擦れ違いざまガンを飛ばし合うお二人のイメージ。

『BJ』語りはお休みいたします。m(_ _)m

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『音の細道』

『音の細道』(群ようこ著)読了。実に久しぶりに読んだ群ようこのエッセイ。幼い頃から現在に至るまでの、音にまつわる思い出のあれこれが綴られている。

群ようこを読んだのは何年ぶりだろう。以前、椎名誠にハマったことがあって、本の雑誌社つながりということで、木村晋介、沢野ひとし、目黒考二、そしてこの群ようこの作品群を読み漁っていた時期がある。その頃読んだ印象とそんなに変わりはなく懐かしく読めたのだが、才気煥発な自由さというものが若干影をひそめた観があるように思った。譲れないものがだんだんと増えていっているような感じ、と言えばよいのか。大人になるってのはそういうことなのかもしれないと、内容に関係ない感想を抱いたりした。でも、気楽に読めて面白いことは面白い。音楽が好きな人にはお勧めできる作品である。

一番最後に「涙の出る歌」という一文があって、「涙そうそう」を聴いていて涙がだだだーっと流れ落ちたと書いてあった。それまで何度聴いても何ともなかったのが、あるとき突然だだだーっとなった経験は私にもある。たぶん誰でも1回や2回はあるのではないかな。その歌が聞こえてきただけで条件反射で泣ける歌というのとは違う。別に悲しいわけでもないのに、だだだーっと……。私の場合、淡谷のり子の「別れのブルース」を聴いたときにそうなった。歌声なのか曲なのか歌詞なのか、何が私をそうさせるのかわからないが、とにかく本当にだだだーっと涙が出た。感動、というのともまた違うような気がする。心の奥のとても深いところで何かを感じたのだろうなぁ、きっと。

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♪三月八日よく記せよ

たとえば鳥が大空の高みから一筋の道を見下ろすように、自分の一生を上から見られたら、自分は今どの辺を歩いているのかなと思う。もう中間点は過ぎているだろう。いつ、過ぎたのかな。……な~んてことを言っているが、中間点なんてとっくの昔に過ぎていて、あと残りわずかなのも知らずにいるだけなのかもしれない。暢気なものだ(笑)。

ちょっと性根を入れ直して生きなくてはと思う今日この頃。気分を換えようと、ブログのテンプレートを替えた。髪を切った。黄色いチューリップを買った。きょう、48回目の誕生日。

タイトルは、母が「誕生日おめでとう」と言ってくれた後に鼻歌で歌い出した歌。なんでも大昔の歌だというのでネットで調べてみたら、尾上柴舟作詞、岡野貞一作曲の『奉天附近の会戦』の歌だった。日露戦争のときに作られた歌らしい。まさか母が日露戦争を知っているわけはなくて大正15年の生まれなのだが、子どもの頃に歌っていたのだろう。こんな昔のことはよく覚えている。でも、ね。「三月八日」じゃなくて、正しくは「三月十日」だったよ……。

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半径0

きょうの『太田総理』で、テリー伊藤が「インターネットは1日1時間まで」を提唱していた。まあそれはどうでもよいが、ブログというものは「身の回り半径5mのことしか書いてない」という指摘に笑った。話しているうちにそれは更に狭まって「半径50㎝」にまでなったのだが、いやホントそうだと思う。

世間には、政界や経済界に大きな発言力を持つに至った「αブロガー」と言われる人が書くブログもあるが、たいていのブログは「半径50㎝」の世界だ。

つい先日も、あるお笑い芸人さんが「ブログ4か条」(だったかな?)という、ブログを書く上で気をつけなくてはいけないことを挙げていた。覚えているのは「悪口や愚痴を書かない」「楽しいことだけを書く」という2つだが、そんなブログなら多分私は読まない(笑)。悪口は書かないほうが良いと思うけれども、「きょうはこんなものを食べたよ。美味しくて幸せな気分になれました♪」なんてことを書かれても、「ああそうかい」と思うだけで共感もできない。見知らぬ他人様の「半径50㎝」になど興味はない。

何かもっとこう……頭脳と身体から絞り出したような文章が読みたいのだ、私は。身の「回り」ではなくて「身」そのもの、「半径0」から出たものが読みたいと思う。人間、そんな綺麗ごとばかりで出来上がっているわけじゃないし、幸せな気分になりたくて誰かのブログを読むわけでもない。私の場合は。その人の思考の跡や主義主張を窺い知ることのできる文章ならば、たとえ自分と考えが反対でも、遥かに面白いしその姿勢に親近感も湧く。

願わくば、自分がそういう文章を書きたいものだけれど……_| ̄|○

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『鞍馬天狗』最終回

(ここのところ母のことが何かと気懸かりで、気の抜けたような記事しか書けない。今まで母のことを心配性だと笑っていたが、しっかり遺伝子は受け継いでいたようだ。どうしても毎日書かなくてはならないブログでもないのだが、途切れるのも悔しいので、きょうもまた気の抜けたようなことを書いてみる。こんなブログにお越しくださる皆様に感謝!)

『鞍馬天狗』最終回を途中から観た。先週録画に失敗して(HDDに残量がなかった……_| ̄|○)観られなかったので、何が何やらわからないことになっていたのだが、どうやら「角兵衛獅子」の話らしい。天狗さんが大坂城に乗り込んだは良いが、撃たれて捕まりそうになって米蔵に潜んでいるという状況。たしか原作では穴倉で水責めに遭ったのではなかったかと記憶しているが、予算の都合か、米蔵になっていた。

近藤局長がイイところを見せて天狗を解放。へろんへろんになっている天狗さんが艶っぽい。ラストは二人の果し合い。剛剣を振るう近藤に、跳躍がお得意の天狗さんが舞いのような殺陣をみせる。おお~、素敵だ萬斎さん♪ 腕を斬られた近藤が負けを認めるが、天狗さんも着物の背中を斬られている。相打ち、引き分けだろうな。頭巾の目元も涼しく「さらば」と後日の再試合を約束して「完」。わーい、なんか久しぶりに血湧き肉躍る昔のちゃんばらを観たような気がした。決して強そうではないのだけれど、リズム感で見せる殺陣と言えばよいのかな。双方微動だにしない息詰まるような殺陣も良いが、こういう見せ場満載の殺陣も華やかで楽しい。

続編を期待する!!

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『源氏物語』1000年

お昼にたまたまテレビをつけたら瀬戸内寂聴さんが出ておられた。『源氏物語』の話をしておられたのだが、今年は『源氏』が書かれて1000年の記念の年なのだそうだ。そんなにはっきり成立年が判明したのかと思っていたら、根拠となるのは『紫式部日記』だそうで。この日記の中で、藤原公任が「…此のわたりにわかむらさきやさふらふ…」と言ったと書かれているのが寛弘5年(1008年)11月1日。だから少なくとも1008年までには『源氏』の「わかむらさき」の章は書かれていた、ということになるわけだ。

『源氏』五十四帖のうち、「わかむらさき」は第五帖。まだまだ序盤だから、全巻が完成したのはもっと後年のことかもしれないが、1000年も昔の古典に陽が当たる良いきっかけではあると思う。

『源氏』といえば中学高校の古典の授業でサワリを習うけれども、私が最初に読んだのは小学生の頃だった。家に子供向けの絵入りのダイジェスト版があって、どこか遠い外国のおとぎ話を読むような感覚で読んだ。源氏と頭中将が二人で「青海波」を舞っている絵がとても素敵で、お気に入りのページだった。あの本、どこに行ったかなぁ……。

その後、大学で変体仮名の写本をちょっとだけ読み、谷崎、円地、瀬戸内の現代語訳『源氏』を読み、桑田次郎のマンガを読んだ。そしてわかったことは、『源氏』というのはエロ小説(ただし萌えない)だということだった(笑)。日本における高貴な古典文学の金字塔だとありがたがる人もあって、そういう人達に「エロ小説じゃないか」などと言ったら叱られるかもしれないが、それはエロ小説に対して失礼だろうと私は思う。古典の最高峰がエロでもちっとも構わないじゃないか。『千夜一夜物語』だって、暴君のご乱行を止めるために(あるいはセックスを避けるために)シャハラザードが延々と話し続けた末にできたものだ。堅苦しい高尚なだけの古典なら、後世まで読み継がれる確率は低かったんじゃないかと思う。

しかしまぁ、『源氏』には単なるエロというだけには止まらない別の魅力があることも確かで、もうひとつ重要なキーワードがあるとすれば、それは「出家」だと思う。どろんどろんの愛欲の世界で苦しんだ女たちが、出家することで救われる姿もそこには描かれている。……ということも一応書いておこう(笑)。でも、基本はエロだ!(しつこい?笑) だから、奔放な生き方の末に仏門に入られた瀬戸内寂聴さんの訳が一番しっくりきているような気がして、私は好きである。

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(備忘録080304)

本日のお買い物
『ホームレス中学生』(田村裕著)
『犯罪ホロスコープ1 六人の女王の問題』(法月綸太郎著)

読書中につき、記事はお休みします。m(_ _)m

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義賊

月曜日は『BJ』語り。

「灰とダイヤモンド」というお話がある。大金持ちの松方氏に呼ばれた百鬼先生。松方氏は1年前、BJに300個のダイヤモンドを身体中に埋める手術をしてもらったが、それが本当にあるかどうかが不安になってきたので、百鬼先生にそれを確かめてもらいたいと言う。呆れながらも300箇所を次々に確認していくと、なんとダイヤモンドなど1個もなく、すべてアクリルの玉にすりかえられているではないか。麻酔で眠っている松方氏をそのままに(おいおい)、BJのところへ文句を言いに行く百鬼先生。問い詰めると、300個のダイヤモンドはある老人ホームに預けてあり、いずれはホームを建てかえる資金にすると言う。一緒にそこへ行って、老人が置かれている状況や老朽化した建物を目の当たりにした百鬼先生は、松方氏の元へ帰り、ダイヤはちゃんと全部あったと嘘をつく。この2度目の手術に耐えられなかった松方氏がやがて亡くなる。火葬場の煙を見ながら30億円のダイヤも焼けていくとつぶやくBJに、ダイヤは老人ホームに届けたよと言う百鬼先生。祝杯をあげようと仲良く歩いていく2人の後ろ姿が嬉しそうだ。

BJ先生が30億円をドロボーする問題作である(笑)。でも、そんな些細(?)な犯罪などどうでもよくなる作品なのだ。読後感は痛快だが、いろんな読み方ができる作品でもある。大金持ちの典型として描かれる松方氏からは、自分のことが一番大事というエゴや、いくら大金を持っていても不安だという飽くなき欲望等々を読み取ることができる。一方のホームの老人たちからは、老後の寂しさ、(我が身に振り替えて)年を取ることの不安、高齢化社会や老人福祉の問題点などが読み取れる。

ところで、BJとこのホームとはどういう関係があるのか。「先生 いつもいつもお世話をかけます」という老爺の言から察するに、BJは足繁くこのホームに通い、老人達の力になってやっていると思われる。いつも大金を取れる手術ばかりしているのかと思うと、こういう場所で頼りにされている(おそらく金銭的な援助をしているのではなかろうか)BJというのは意外でもある。そして「先生 ボタモチつくっとくからなァ」「先生 わしの息子も生きとりゃあんたぐらいだったわな」などと声を掛けられるBJの表情はどこか淋しげなのである。

実はこの話、重要な台詞の改変が行なわれている。単行本に収録されたとき「あんた クソまじめを一生とおす気かい!!」となった台詞は、雑誌掲載時には「ばかな」「おれの母はな おれの…」という手書き文字だった(←本文校異をなさっているサイト様に感謝)。この部分の一連を書くとこうなる。

百鬼「新しいホームができるって?」
BJ 「そのほうが三十億円を生かせると思ってね」
百鬼「松方氏ひとりをだましても」「何千倍かの年寄りが助かるならいいと思ったのか? そうはいかないよ」
BJ 「ばかな」「おれの母はな おれの…」「……いや ……こんなことはどうでもいい……」
 -場面転換-

どうやらBJの母親はホームで悲惨な死を迎えたか、あるいは貧困のまま孤独な死を迎えたか、はたまた強欲ジジイの松方氏に酷い目に遭わされて亡くなったか……、そんな諸々が想像できる口ぶりである。この「灰とダイヤモンド」はシリーズ25話目。5話目の「人間鳥」にほんの一言言及があるだけで、まだBJの母親については何も明らかにされていない時点の作品である。後に、BJと共に不発弾の爆発事故に遭ったことが設定されるが、この「灰とダイヤモンド」の頃にはそれとは異なる設定がされていたと考えられて興味深い。たぶんこのとき、BJはホームのお年寄りに自分の母の姿を重ね合わせて見ていたと思われる。老人達への援助は、母への親孝行のつもりなのではないかと思う。(ただどんなに多く見積もってもBJの年齢は30代だ。その母親がここに描かれているような「年寄り」と呼ばれる年齢で既に亡くなっているとすることには無理があると、手塚治虫は考え直したのではないかと思う。)

それにしても、このホームのお年寄りたちはなんとも惨めに描かれている。1日の食費が180円だとか、せいぜい8~10畳ほどの部屋に30人以上が座っている状態だとか、思わず目を背けたくなる描写が続く。それだけたくさんの仲間がいるにも係わらず、息子のようなBJが来るのをひたすら待ちわびている孤独な老人達。そんな現状を見れば、百鬼先生ならずとも、30億円も持っているくせに今度はそれを盗られるのが不安だなどと抜かす松方氏が憎らしくもなってこようというものだ。自分で努力して金を儲け、それを自分のために使うことは決して悪いことではないのだが、金にまつわる妄執と渇愛の醜さ、自分のことしか考えないエゴの醜さが、容赦なく暴き出されている。対比の妙だ。

この話では、BJ先生は義賊である。灰になってしまう運命だったダイヤモンドを見事に輝かしてみせる。

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(備忘録080303)
きょうは母のいるグループホームで「ひなまつり」の催しがあったようで、部屋に「さくら」や「ひなまつり」の歌詞を書いたプリントが置いてあった。本人はそんなことちっとも覚えていなかったが、後で施設長さんに訊いたらお茶を点てたりしたらしい。徐々に安定してきているようなので、ちょっと安心した。

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(備忘録080302)

書きたいネタはあるのだが、どうも文章にならない。ちょっとお疲れモードなので、記事はお休みします。
明日は書ければよいのだけれど……。

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(備忘録080301)

グループホームに入所した母の様子を見に通う毎日である。どうして自分がここにいるのかが判らず、帰宅願望が強い。当然だと思う。事によったら精神安定剤を使うこともあると言われていて、でもなるべくそうならないように、頻繁に顔を見せて安心させてやりたいと思う。とにかく同じ話ばかりの繰り返しなので、相手をするのはなかなか大変だ。家に帰る。父母のいる実家に帰る(祖父祖母はもちろんとうの昔に亡くなっている)。自分は何故ここにいるのか。ここはどこなのか。きょうは何日なのか。○○さん(私のこと)はきょうは仕事は休みなのか。家に帰る。実家に帰る……。どこまで穏やかに笑顔で会話できるか……忍耐力の勝負だ。

ホームの近くに書店があるので、ホームからの帰りに寄って息抜きをする。それまであまり行かない書店だったから縁ができて嬉しい。きょうは「『痴呆老人』は何を見ているか」(大井玄著)、「音の細道」(群ようこ著)、「ブラック・ジャック・ザ・カルテ 2」、「ブラック・ジャック公式ガイドブック」の4冊を自分用に、「大人の塗り絵」と12色の色鉛筆を母のために買って帰った。

「カルテ」は「1」だけしか持っていなかった。正直、『BJ』の医学的専門的内容についてはまったく興味がないからあんまり中身は読まないと思うけれども、表紙のイラストが好きなのでカバー買い。「公式ガイドブック」は2004年の発売当時に書店で見かけたが買わなかったものだ。原作だけ読んでいればよいと思っていたからだが、毎週『BJ』語りをするようになってから、はたして一般の見解はどのようなものなのか知る必要もあると思えてきた。あんまり一人合点のトンチンカンなことも書けないからね~(今さら……滝汗)。

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