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人格の座

上地雄輔の白黒ツートーンの髪を見るとデジャ・ヴュを覚える今日この頃。今の世の中、BJ先生が街を歩いていてもあんまり目立たないかもしれない。

さて、月曜日は『BJ』語り。

『BJ』シリーズの中で、連載当時には読んだけれども、いま私の手元になく読めないエピソードが3編ある。

#28「指」(1974.6.24号 後に#227『刻印』に描き直される)
#41「植物人間」(1974.9.23号 以前は新書に収録されていたが、現在の版には無い)
#58「快楽の座」(1975.1.20号)

このうち、「指」は「刻印」で一応読めるとして(間久部の扱いが180度異なるが)、「植物人間」と「快楽の座」が新書でも文庫でも全集でも未収録なのは、この2編が人間の脳を扱ったエピソードだからだろう。人間の脳をテーマにした作品の扱いが難しいことは想像に難くない。他の臓器と違って「脳=人格」と考えられるからだ。

人格としての脳を扱った作品にはこの他にも次のものがある。漏れがあったらゴメンナサイ。★印は文庫未収録作品(新書には収録されている)。
#36「しずむ女」★
#37「2人のジャン」★
#70「からだが石に……」
#76「水頭症」★
#86「絵が死んでいる!」
#128「最後に残る者」★(未熟児の形成手術の話であるが、脳を生かすための施術とも考えられる)
#153「ある監督の記録」(1977.1.1号 後に『フィルムは二つあった』に改題され、脳性マヒをロボトミー手術で治すという記述が、デルマトミオージスを交感神経切断術で治すというふうに書き改められた。これは当時ロボトミー手術を美化していると問題になったためで、同年2月には全国紙に謝罪文が出された。ただし、BJが行なったのは正確にはロボトミー手術ではなく用語の誤りであったとの指摘もある。たしか電極を刺したんじゃなかったかな~?……←うろ覚え)

★が多いこと、また「ある監督の記録」がそのままでは収録できなかったことからも、このテーマを扱うことがいかに難しいかを窺い知ることができよう。一方で、馬の脳を人間に移植する「化身」は新書、文庫、全集のいずれでも読むことができる。動物ならOK? 「人間鳥」は? 「山猫少年」は? 人道的、医学倫理的な観点から、どこまでがOKでどこからがNGなのか、その境界線を引くことは非常に難しい。

ただ基本的に、手塚治虫は患者の人格を損なう方向でこれらの作品を描いてはいない。むしろ逆で、「快楽の座」でも、患者の脳にスチモシーバーを埋め込んで鬱病治療をした鬼頭教授に対しては否定的な姿勢が鮮明である。また、どちらかを犠牲にしなくては両方が死んでしまうシャム双生児を描いた「2人のジャン」でも、分離されて実験用として水槽の中で生かされることになった脳に死を与えている(BJが、ではない。身体を得た方のジャンが水槽を破壊するのだ)。これは、身体を失い脳だけになった人間に、人間らしい幸せはないと手塚が考えたからだろう。結果は「死」だが、その人格を尊重しているからこその当然の帰結だったと思う。

しかしこれらの話が文庫に収録されないのには、やはり何らかの理由や事情があるのだろう。一読者としては全ての作品がどんな出版形態ででも読めることを望むが、差別や偏見等の実態があるのなら出版を躊躇するのも無理からぬことだと思う。(実際に差別や偏見という実態があるのか、あるいは過剰な人権意識のなせるワザなのか、疑問に思うところもあるが、ここではそれに触れることは避ける。)

最後に、問題となった「ロボトミー」について。「lobo-」は前頭葉や側頭葉などの「葉」を表し、「-tomy」は「切除」の意。精神障害の外科的治療として、前頭葉の一部を除去するというもの。その前駆的治療法は19世紀から行なわれていたが、ポルトガルの医師エガス・モニスによって1930年代に手術法が確立され、盛んに行なわれるようになった。モニスはその功績により1949年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。

しかしその後、ロボトミー手術の危険性が注目されるようになり、薬物療法の進歩もあって1970年代以降はほとんど行なわれなくなった。それでも日本でも3~12万件は行なわれたらしい。ちなみに1975年公開の映画『カッコーの巣の上で』はロボトミー手術の悲惨さを描いたものである(『快楽の座』が描かれたのと同年であることは注目すべきかもしれない)。また、1979年東京で「ロボトミー殺人事件」が起こっている。無断でロボトミー手術をされた患者がその後の生活に支障を感じ、執刀した医師を恨んでその妻と母親を殺害したというもの。

モニス自身もロボトミーの手術を受けた患者に狙撃されたことがあるらしい。1989年にはロボトミー被害者の家族のネットワークが作られ、モニスのノーベル賞受賞を取り消すよう求める動きもある。当時は画期的な治療法だったのかもしれないロボトミー手術だが、今ではどうやら負の遺産となっているようである。

きょうのタイトルは、脳=人格と捉えて「人格の座」と付けた。しかし脳には「心臓か、脳か」の「生命の座」としての側面もある。「植物人間」や『ミッドナイト』最終話などはそっちの方向で考えるべきかと思うし、BJ vs ドクター・キリコの戦いも突き詰めればそういうことになるのかもしれないと思ったりする。

いつにも増して支離滅裂でまとまりのない文章、すみません。

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コメント

『生命の証明』『人格の証明』は近似的な命題だと思う。ヒトを扱う上で重用かつ不可欠で繊細な問題。けれど、わたしはそのどちらにも答えはないと答える人だったりする。
わかばさんの見立てによれば、手塚治虫は、どちらかといえば『人格=脳』と考える人のようだ。確かに、医学的にはその考えが多数派だけれど、だからと言って水槽に入れられた脳が、果たして『人』格を持っているといえるだろうか。
医学をかじり、ひねた主人公を模して風刺を語る手塚作品は、医学に対するアンチテーゼが多分に盛り込まれているのだろう。
ということで、考えてみる。もし『人格=脳』とするなら、脳もしくは神経系だけの存在は、人格がある、生きている、といえるだろうか。さらに、脳と身体を分けられて、もしそのどちらもが生命活動を続けていたとしたら、はたして人格はどちらにあると言えるだろうか。
まあ、どうしたって夢物語ですが。

投稿: もりびと | 2008年3月26日 (水) 16時35分

もりびとさん
結論が出ない問題であるというご指摘には私も同意です。むしろ、結論を出してはいけない問題のように思います。それこそ本間先生が言われた「おこがましいこと」に思われて。手塚治虫が医学に対するアンチテーゼを提示してBJにジレンマを与えていることも確かですが、それ以上に、人間の存在に対する永遠の問題提起をしているようにも思います。

「水槽の中の脳」で私が思い出すのは、星新一のショートショートです。詳細は忘れましたが、何かの事情で脳髄が取り出され保存されます。脳は生きているものの、むき出しになった神経からもの凄い苦痛を感じています。脳は何とかこの状況を周りにいるはずの研究員に伝えようとするのですが、その手段がありません。研究員達は、脳から電気信号が出ていることは判っているのですが、その意味が判りません。あと何十年何百年、この状態が続くのか……というようなストーリーでした。これは結構私のトラウマになっている話です。

ここでは脳は人格を持っているとして描かれています。「2人のジャン」にも「生きている」という記述がありますから同じような状況かもしれないと私は想像しています。あと、どうしても映画『ジョニーは戦場へ行った』も思い出してしまうのですが、話が長くなるので、やめます。

結論は出ませんが、読者一人一人が考えるべき永遠の問題なのでしょうね。考えることが大事なのでしょう、きっと。

投稿: わかば | 2008年3月26日 (水) 22時54分

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