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2008年5月

逃げ方去り方などを考える

『「世逃げ」のすすめ』(ひろさちや著)読了。以前読んだベストセラー『「狂い」のすすめ』の第2弾で、世間の物差しとは違う物差しを持つことによって、精神的に世間から逃げましょうという「夜逃げ」ならぬ「世逃げ」の勧めだ。書かれていることは、著者がこれまでにも様々な著作で主張してきたことが多く、あまり目新しさはなかった。しかし、入院中の義父の傍で細切れに読むのにちょうど適していて、あれやこれやと思いを巡らしながらいつの間にか読み終えていた。

ところで、この本に書かれていたのは「出家」ではなく在家のままで「出世間(しゅつ・せけん)」する方法であるが、読んでいてインドの「四住期」という思想を思い出した。「学生期(がくしょうき)」「家住期(かじゅうき)」「林棲期(りんせいき。林住期、林間期とも)」「遊行期(ゆぎょうき)」の4つで、それぞれが約20年である。20歳までは勉学に勤しみ、40歳までは家族とともに暮らし、60歳までは林の中で己を見つめて暮らし(宗教的祭祀だけは行なうらしい)、それ以降は無一物になって放浪の旅に出るというもの。もともとはバラモンの教えであったが、奇しくもブッダの人生もそれぞれの年数こそ違え同じような経過を辿っている。思索することを重んじれば自然にこのようになるということか。ともかく、人生の後半では「出家」同然の生き方をするのが理想的だと、古代インド人は考えてきたらしい。

なんと贅沢な生き方だろうかと思う。学問をして自分を高め、仕事をして子を儲けて家族と愛のある暮らしをし、己を見つめる長い時間を得て、最後は何もかも捨てて自然に還る。林棲期、遊行期には稼ぎがないわけだが、インドには相互扶助というのかそういう人達への施しを当然とする思想があるとも聞いたことがある。家も仕事も捨てられず、精神的に「出世間」をしなければやっていかれない現代日本がなんとも貧相なものに思えてしまう。

私自身の歳に照らし合わせてみれば、林棲期の半ばということになる。林の中にはいないけれども、ちょうど40歳以降は親の介護等を通じて自分の来しかた行く末などをぼんやり考えてきたように思う。しかし世間から逃げることはできていない。60歳過ぎたら、うまいことこの世界とオサラバできるようなおばあさんになっていかれたら良いな、などと思う。

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(備忘録080530)

赤塚不二夫の番組など観ていたら時間がなくなりました。

きょうの記事もお休みです。m(_ _;)m

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(備忘録080529)

義父の入院はもう2週間ばかり延長できそうになった。ひとまず安堵。その間にしっかりリハビリしてもらわねば。

本日のお買い物
・『うちのパパが言うことには』(重松清著)
・『新篇 眠狂四郎京洛勝負帖』(柴田錬三郎著)
 眠狂四郎シリーズは全部読んだのでこの本の小説部分は既読だが、後半のエッセイ「武蔵・弁慶・狂四郎」「眠狂四郎の生誕」「わが小説 II 『眠狂四郎無頼控』」が面白そうなので買ってみた。

あと、通販で頼んでいた御本も到着したので、今夜は読書に専念します♪

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(備忘録080528)

どうやら義父は今週いっぱいで退院させられる情勢になってきた。以前と比べて若干言うことがおかしくなっているし、水分を飲むと噎せるし、自力で起き上がれないし、いつまた転ぶかわからない萎えた脚のままなのに「退院?!」と家族一同驚く。病院は療養施設ではないという(まぁそれはそうなんだが……)ことなのだろうが、もうちょっとリハビリしてからでもよいではないかと、つい思ってしまう。2週間前には命の保証はないと散々脅かされていたのだぞ? 自宅で誤飲して気管にでも入ったらもうお手上げだ。どうしたものか、また明日は家族会議だ。昨今の医療事情を垣間見た思い。

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誰か居るらしい

入院中の舅殿がおもしろいことを言う。自分の左側に誰かが居るのだそうだ。1人だったり2人だったり群集だったり、子どもだったり若者だったりお爺さんだったり兵隊さんだったりするらしい。それも上半身だけだったりもするらしい。

私と話していて突然びっくりしたように左下方向を見るので「どうしました?」と訊いたら「よくあんな狭いところから……」などと言う。聞くと、ベッドサイドの、あれは何というものか、テレビを置いたりいろんなものを入れたりしておく台なのだが、それの下、床との隙間わずか5㎝ほどのところから子どもが出てきたらしい。あるいは、食事中にしきりに左耳のあたりを手で払う仕草をするので、これまた理由を尋ねると「すぐここにお爺さんの顔が寄ってきた」とのこと。そりゃあさぞかし鬱陶しかろう。

転んで脳挫傷を負ったのは左側。左眉のあたりを縫い、頬骨から鼻骨までしたたかに打っていたので、眼だって異常が起こっても不思議はない。しかし、「複視」かもしれないと眼科を受診したものの異常はないとのこと。するとやっぱり脳の損傷のせいなのかな。看護師さんとも話をしたが、これがまたおもしろい人で「居るかもしれませんね。病院だし」なんておっしゃる(笑)。「○ちゃんには見えんか?」と訊くので「残念ながら見えません」と言いつつ(本当に残念なのだ!)、それでも子どもがいるらしい辺りに向かって手を振ったり、顔の横から追い払われたらしいお爺さんに「すいませんね」と謝ったりする。

本人が格別それを怖がっているふうでもないのでたいして問題視はしていないが、慣れるまでは大変だろう。それにしても……、脳が損傷したために幻覚が見えるようになったのか、それとも脳にとんでもない刺激が与えられたために今までにもそこにあったにも係わらず見えなかったものまでが見えるようになったのか……。脳って実に不思議なシロモノだ。

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『BJ』キャラを記号として読む

手塚治虫は「マンガは記号だ」と言っていたそうだ。例えば、○を描いて中に2つ点を並べれば人間の顔に見える。口をへの字に描けば不機嫌そうに見える。目尻を吊り上げれば怒っているように見える。またそれらを反対にすれば笑っているように見える。目から滴を垂らせば泣き顔になる。日常使う言語が異なっていても、マンガの表現は万国共通で判り合える。

また、作画上だけでなく、手塚治虫はキャラクター自体に記号としての意味を持たせていることがある。「ブタナギ」なんていう正体不明の生物は、ストーリーにはまったく関係なく笑いの場面にだけ突如現れるキャラだ。ただコマの隅で「ハハハハハ」と笑うだけ。これは「笑い」に特化されたキャラだが、他にもほとんど「おむかえでごんす」しか言わない「スパイダー」や、「ホーサヨカ」が決まり文句の「ロロールル」、決め台詞は持っていないが常連の「ヒョウタンツギ」など特異なキャラがいる。これらのキャラは突然出てくるというだけで不条理な笑いを呼び起こし、加えてストーリー展開の上ではガス抜きの意味を持つ記号と言えるだろう。

ところで、手塚治虫は「スター・システム」を採用している。自分が生み出したキャラを俳優に見立てて、いろんな作品に登場させるのである。ヒゲオヤジやアセチレン・ランプや、更には手塚自身までもが様々な作品で様々な役柄を演じているという構図だ。善玉悪玉両方を演じ分けられる名優も多い中で、ハム・エッグとスカンク草井だけは悪役に徹している。ハムが小悪党ならスカンクは何をするかわからない危険なワルという違いはあるが、この2人が出てくれば悪人と見てまず間違いない。手塚マンガを読んでいる者には説明不要。悪役という記号として機能しているのである。(私の好きなランプ氏も元々はギャングの親分的悪役だったが、『BJ』の中ではちょっとワルくて侠気のあるオヤジという渋い役が多いので、ここでは悪人にカウントしなかった。)

さてそこで、『BJ』の登場人物を記号論的に見るとどうなるか。以下、勝手な自己流解釈なので、読み流してくださることを願う。思いついた順に挙げてみる。

・ドクター・キリコ
一番端的にわかるのは、ドクター・キリコに付与された「死」の記号だろう。「生」の記号であるBJとの関係はまさに+と-、1本の棒磁石だ。一方の磁気がなくなれば他方の磁気も消滅する。同じ重みで存在していなくてはならないもの。BJとはコインの裏表、鏡像でもある。

・本間丈太郎
演じているのが『火の鳥』のメインキャラ猿田彦であることから、生命という神秘に向き合う「人間」そのものという記号が与えられているのではないかと思う。「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて おこがましいとは思わんかね」とか「きみは人間をロボットに改造するつもりかね」などの台詞には、時空を超えて火の鳥と向き合い続けた彼が悟った「人間」のあり方が表れているように思う。

・ピノコ
ずばり「生命」という記号。存在するだけで価値のあるもの。

・如月めぐみ
女性という性を失った彼女は「プラトニック・ラブ(純愛)」という記号だろう。

・ブラック・クイーン
演じているのが『地球を呑む』のゼフィルスであり、さしものBJまでがクラッとなったということで「魔性の女(Femme fatale)」かとも思うが、恋人の脚を切断できずに苦しむあたりは魔性とも言えず、これは如月めぐみと対にして「性愛」の記号と見る。

・ヨーコ
『しずむ女』に1回出てきたきりのキャラなので記号として確立することに無理があるのは承知だが、なにしろ印象が強いので……。「純粋無垢」の記号と見る。このストーリーの場合、その対立概念が「知能」であるところが悲しいのだが。

・日本医師連盟会長
ずばり「権力」。

・琵琶丸
この人は何だろうなぁ……?「自然」……だろうか。琵琶丸に対する場合のBJは「人為」という記号になるのだろう。

・友引警部
演じるのはランプ氏。なんでもこなせる名優なので決まった記号として見るのは難しいが、「義理人情」とか「潔さ」とかを色濃く感じる。「男の美学」かも?

う~~ん、だんだん記号論と関係なくなったところで、タイムアップ(笑)。これにて御免!

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エロゲーで人間性失う

いつもお世話になっているkoshi さんのブログで、こんなことが話題になっていることを知った。曰く「『アダルトゲームで青少年は心を破壊され、人間性を失う』-。民主党の円より子参議院議員らが提出したアダルトゲームの規制を求める請願に対し、同議員のインターネットサイトの掲示板に、数百件の批判的な意見が寄せられている」。なかなか興味深い話題だったので、拙ブログでも取り上げてみる。

まず基本的な問題として、上に引用した「」内の文章にはそれ自体齟齬がある。何故「アダルトゲーム」を「青少年」がやれるのだ? 私にはそれが一番の問題に思える。円議員の言う「規制」が18禁ゲームを青少年にやらせないための流通販売に関する規制であるのなら、私は彼女に賛同する。なお、以下の文章でも私が問題にしているのは「青少年」についてである。

私自身はエロゲーというものをやったことがないのだが、たぶん私が今やっても別にどうということもないものだと思う。しかし、少々くたびれたおばさんの感性と青少年期の若者の感性は、おそらく違う。円議員の発言には医学的科学的な根拠はないとされ、やや感情的に過ぎ、それがバッシングの焦点となっているようだが、逆にそれが青少年にまったく影響が無いと言い切ることもまた誰にもできないのではなかろうか。

↑上でリンクしたニュースの2ページ目に、この請願に対する反論が載っている。「子持ちの主婦ですが(ストーリー重視の)エロゲーくらいやる」……だから何だと言うのでしょう? あなたの子どもが被害者になったときにもそんなことを言ってゲームを楽しめるでしょうかね? 「美少女ゲームを嗜む大人だが、自分の心も壊れているのか」……自分で判断がつかないようなら既に壊れているのかもしれませんね? ……こんな感情論はたくさんだ。

大人の感覚で云々してももはやわからない問題であり、科学的医学的に証明しようとすれば長期にわたる生体実験経過観察しか方法はない問題だと思う。しかしちょっと考えてみてほしい。今の大人たち(おもに30代以上を想定)はその青少年期にはネットもなければ携帯もアダルトゲームも身近でない時期を過ごしてきている。その間に善悪の基準とか恥の概念、表に出してよいものかどうかの判断基準などを培っている。その上で、今のIT全盛の世の中を迎えているのだ。ところが今の青少年世代には、物心ついたときからこれらのものが身の回りに溢れている。環境がまったく違うのだ。さっきは「感性」と書いたが、倫理的な意識も相当に違っているのではないかと思う。

私にはここ10年くらいで世の中が劇的に変わったように見える。何事もが雪崩を打って抑制の効かない方向に向かっているように思われる。特に「性」の問題というのはごく個人的なことであって秘めておくべき最後の砦だと思っていたのが、淫靡な味付けをされて大っぴらになっている印象がある。アキバでメイドさんのミニスカートの中を撮ろうとするオタクども(それも路上でだ)なんて、醜悪以外のなにものでもない。まぁこれは極端な例だろうが、これを「人それぞれ好き好きなんだからイイじゃない」と思える感覚を私は持ち合わせていない。彼らに、みっともない事をしているという自覚がないことが恐ろしいのである。自分の欲望を曝け出す風潮が蔓延することは決して良いことだとは思えない。

自分の欲望と現実の行動とを切り離して考えることができる人間が大多数であることを信じたい。またこのことに限らず法的な規制を厳しくすることについては、充分な検討が必要だと考える。なんでも闇雲に規制なんかするべきではないとは思う。しかし、こと青少年が「アダルトゲーム」をすることに関しては、規制してもよいのではなかろうか。喫煙や飲酒と同じで、どうしてもやりたい者はどんなことをしてもやるのだろうし、いずれ成人になれば堂々とやれることだ。2~3年我慢して、その間にちゃんとした大人になる準備をしておけと、私なら言う。だいたい喫煙でも飲酒でも画像等の18禁指定でも、それはすべて青少年を守るために禁止されていることなのだ。青少年に心身ともに健全に発育してほしいからこそ禁止されている事柄なのだ。それくらい社会に守られていることを知らずに文句だけ言うのはどんなものかね、青少年諸君?

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『虫眼とアニ眼』

『虫眼とアニ眼』(養老孟司 宮崎駿共著)読了。

う~ん、少々馴れ合い気味の対談集だ(笑)。養老先生はいつものとおりだし、宮崎さんについてはあまり興味がないので、アニメ作りに賭ける想いを力説されてもいまいちピンと来ない。『もののけ姫』も『千と千尋の神隠し』もよくわからなかったしなぁ(ごめんなさい)。

ただこの本を読んで、どうして私が宮崎さんの描くものがわからないのか、その理由がわかった。この本は全体として、脳だけが発達した人間が作り出した現代社会と自然が失われていくことの関わりについて書かれているのだが、宮崎さんがアニメで描こうとしているのが自然との共生ということならば、田舎暮らしの私としては「そんなの当然じゃん」という感想しか出てこないからなのである。都会の子なら『もののけ姫』を観て自然の驚異や恐ろしさを初めて知るのかもしれないが、石や草にまで神が宿ると言われるような風土で生まれ育った者にとっては、自然を敬うのは最初からごく当たり前のことなのだ。だから『もののけ姫』というのは、都会人(あるいは、昔はそうではなかったが今は都会人になった人)が都会人のために作った作品という印象がある。田舎者の目から観てそこに何かそれ以上の意味を探ろうとするのは、野暮で無駄なことなんだろう、きっと。

(↑書きながら、私の感想は「脳と身体」「都市と田舎」という対立項を説く養老先生の説を追認する結果になっていることに気付いた。うん、たぶんそういうことだ。←自分にだけわかる文章スミマセン。)

ところで、本の中で1ヶ所だけ手塚治虫に言及されている部分があったので抜粋しておく。このところ決してそれが目的で本を選んでいるわけではないのに、突然手塚治虫の名前が出てきてびっくりすることが続いている。誰もがあまねくその作品を読んでいて、共通認識を形成するのに都合のよい例なのだろう。

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養老:そういえばさっき人間嫌いって話がでたでしょう。ぼく、手塚さんのほうがよっぽど人間嫌いだと思う。彼、ものすごくはっきりしているでしょう。主人公の選び方とか。人間はとにかく変な人しか出てきませんよ。あとロボットでしょう。『どろろ』はからだの部分がなんにもないし、『ブラック・ジャック』はツギハギだらけだし、とにかく普通の人は出てこない。あのぐらい人間嫌いの作家はいないと思うけれど。

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手塚治虫が「人間嫌い」だったのかどうかについては私には判断がつかない。そうではないような気がするけれども、反論するほどの根拠を持たない。しかし、ロボットや異形の者が多数出てくることについては、一昨日触れた内田樹の「現象の図と地を入れ替えて考える」という指摘で説明がつくように思う。BJがツギハギなのは、人を見た目で判断したり偏見を持ったりすることへの問題提起であり反逆である。

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不公平?

義父の付き添いから帰宅したら、本日携帯するのを忘れていた携帯電話に着信3件。母のいるグループホームからで、折り返し電話したら、どうも母が落ち着かないので来てもらえないだろうかとのこと。クタクタでも行かないわけにいかない。で、帰れたのが9時。やれやれ、毎日ハードだ。

以前、親友Mが同じような状況だったとき、ぼやいていた。「世の中には、次男次女で結婚して、こういう苦労を一切しないですむ人達もいるんだよね。不公平だよね」。普段あんまり他人を羨んだり妬んだりすることのないMがそう言ったのだから、このときの彼女はよっぽど疲れていたのだと思う。ちなみにMは一人っ子だ。

確かに不公平かもしれない。今日くらい疲れると私もそう思わないでもない。でも、どうすれば不公平でなくなるかと言って、彼らにも同じ目に遭ってもらえば済む問題かというと、そういうものでもないような気がする。いざそうなれば、彼らにそんなことをしてもらうことに心苦しさを覚えそうだ。あのときMを苦しめていたのは、実際の看病の大変さよりも、自分は両家の親4人を看なくてはならないという強迫観念と、ご主人の弟夫婦にそんなことはさせられないというプライドだったように思う。都会はどうだか知らないが、地方ではまだまだこのテの固定観念は根強い。ちょうどわれわれの世代が、そこから抜け出そうとしてあがくものの抜け出せないでいる最後の世代かもしれない。

「どうして私だけがこんな目に……」と思うと、余裕がなくなる。下手すると、早く終わってほしいなんて酷いことを願ってしまいかねない。そんなことを思う自分自身は想像するだに惨めだと思う。幸い、私はまだそこまで切羽詰っていない。生涯こんな苦労をせずに済む人生と、4人の親を看る人生と、さぁ、どっちが自分の人間性を磨ける機会が多いかという視点で見れば、それほど不公平な条件ではないかもしれない。

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『街場の現代思想』

『街場の現代思想』(内田樹著)読了。おもしろかった。この著者の著作は何冊か読んだが、ハズレがない。

印象に残った文章を3箇所ばかり、以下に抜粋してみる。

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「教養」というのは、「生(なま)」の知識や情報のことではない。そうではなくて、知識や情報を整序したり、統御したり、操作したりする「仕方」のことである。
 絵画的な比喩を使って言えば、「教養」とは、「古今東西すべての知識」を網羅した巨大な図書館があった場合(ヘーゲル=ボルヘス的な幻影だ)、自分の持っている知識や情報が、その巨大な図書館の、どの棟の、どの階の、どの書棚に、どんな分類項目名をつけられて、どんな本と並んで置いてあるのかを想像することのできる能力のことである。
   --第1章 文化資本主義の時代 「越すに越されぬ、バカの壁」より--

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 想像力というのは、「現実には見たことも聞いたこともないもの」を思い描く力である。そのためには、自分がいま見ているものは「見せられているもの」ではないのか、自分が想像できるものは「想像可能なものとして制度的に与えられているもの」ではないのかという疑念を抱き、そのフレームの「外部」に向けて必死にあがき出ようとする志向がなくてはすまされない。想像力を発揮するというのは、「奔放な空想を享受すること」ではなく、「自分が『奔放な空想』だと思っているものの貧しさと限界を気づかうこと」である。
   --第3章 街場の常識 第15回 想像力と倫理について より--

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 手塚治虫が天才であることに異論のある人はいない。だが、彼が「どのように」天才であるかについてはさまざまな解釈があって必ずしも意見は一致しない。私は手塚の天才性はなによりもその「さかさまのストーリーテリング」にあると考えている。手塚は重大な問題については、ほとんどつねに「現象の図と地を入れ替えて考える」人だったからである。
(中略)
 ---『鉄腕アトム』で「人間性とは何か?」という問いに答えるために「人間ならざるもの」を主人公にしたように、「文明とは何か?」を考えるためにジャングルの生き物たちを主人公にしたように(『ジャングル大帝』)、「セックスとは何か?」に答えるために、性を失った人間を主人公にしたように(『人間ども集れ!』)、「生きることの意味は?」という問いに答えるために、手塚は「死ぬことを禁じられた人間たち」を連作の主人公とするケース・スタディを試みた。それが『火の鳥』である。
   --「あとがき」、あるいは「生きることの愉しさ」について より--

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この本全体についての感想を書くのはなかなか難しいのだが、この人の本を読むたびに感じるのは、それが何についてであれ「気付く」ことの大切さと愉しさだ。気付かないままでも人生そこそこ生きてはいかれるけれども、気付いた後の自分は気付かないでいたときの自分とは全然違うものになっている。内田樹はそこんところの面白さを伝えてくれているような気がする。

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「自己責任ですからね」

舅殿は多少意識がはっきりしてきたようで、呂律は回らないながらも少しくらいならまともな会話ができるようになった。痙攣が起こった一昨日に比べるとだいぶん良い……ように見える。

それにしても、主治医の先生の「ちょっとあちらでお話を……」という言葉は何度聞いても慣れることがない。過去の経験上良い話だったためしがないからで、話を聞く前から気が滅入る。

舅殿の場合、肝臓が既に壊滅的にやられているので手術をすることができない。出血が止まらなくなる危険があるそうで、だから脳挫傷も骨折もそのままだ。数ヵ月後に全身痙攣が起こるかもしれないというような話を聞き、今が多少良くても喜ぶのは早いと釘を刺された。寝たきりになると肺炎を起こす危険があるし、もともと痰がからむ体質の人なので吸引する必要があるが粘膜を傷つけて出血することもある。肝臓の状態がとにかく悪いので投薬すらなかなか難しい、云々。さんざん怖い話を聞かされて、最後は決まって「(飲酒によって肝臓を壊したのは)自己責任ですからね」と言われて終わる。

判っている。死んでも良いから酒が飲みたいと言っていた舅本人と、それをやめさせることができなかった家族が悪い。それは誰に言われるまでもなく本人たちが一番よく判っている。そして、先生はありのままを家族に話し、ここまで肝臓が悪ければ何があってもおかしくないですよとおっしゃっている、それも当然の行為であると判っている。しかし「自己責任ですからね」で終わられると、まるで「本来の使用目的以外の用途や過重な負担をかけすぎた場合は修理の責任を負いかねます」という機械の取り扱い説明書に書かれた免責事項のようで、ほとほと悲しくやり切れない思いになる。

まだ若い先生だから人生経験が浅いせいもあるかもしれない。あるいは訴訟問題にならないようにするための、これがマニュアル通りの話し方なのかもしれない。または過剰な期待を抱かせないための親切心から出た言葉かもしれない。そのあたりのことはよく判らない。しかし……。

「自己責任ですからね」。家族としては、その後に一言ほしいのだ。「それでも治療に最善を尽くします。ご家族の皆さんも一緒に頑張りましょう」。そう言ってくだされば、たとえどんな結果になろうとも先生への信頼は変わることがないし、家族も頑張れるのに、と思う。

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明日は更新できないかもしれません。また、お見舞いのメールをくださったG様、ありがとうございます。また落ち着きましたら、みっちりとお返事をしたためさせていただきます。
興味深い論考をなさっているブログ様サイト様にコメントもしたいのですが、その余裕も無く残念です。
ああ、郵便局にも行きたいのに……。舅殿の様子を見ながら枕元で読んでいる『密命』だけが巻数が進んで4巻目をもうすぐ読み終わります。

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『レジェンド・オブ・ゾロ』

夜にまた義父の付き添いに行くかもしれないので昼寝をしておこうと思ったが、眠れない。寝るのは諦めて、録画しておいた『レジェンド・オブ・ゾロ』を観ていた。

徹頭徹尾アクション娯楽作品。ハラハラドキドキワクワクして楽しい。前作『マスク・オブ・ゾロ』ではヒーローとしてのゾロの活躍が描かれていたが、今作は夫として父としてのゾロが描かれていたという印象。家族の愛の物語で、今回は特にゾロの奥さんエレナが大活躍だった。綺麗だし強いし、初っ端に彼女に離婚されてショボクレているゾロより目立っていたくらいだ(笑)。最後に復縁するけれども。

エレナの声を当てていたのは沢海陽子さん。ゾロの声を当てている大塚明夫さんの奥様だ。本物のご夫婦が作中でも夫婦の役を当てていらっしゃるわけで、息もぴったり。痴話喧嘩のシーンなんか本当に楽しかった。沢海さんはアニメ『BJ』でも清水きよみ先生役でBJと良い雰囲気になっていたのを思い出す。演じていて照れたりしないものかな。

まあそれはさておき、ゾロほどのヒーローでも家庭では妻に頭の上がらない夫であり、あんまり息子のことを知らない父であるのだなぁと、ごくごく普通の男なんだなぁと、そんなことを思った作品だった。ヒーローをヒーローとして見られない唯一の女性は彼の妻なのだろうな、きっと。

(今夜は義父の容態も安定していたので10時過ぎに帰ってきました。)

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(備忘録080514)

また病院通いの日々になりそうなので、更新が不定期になるかもしれません。舅殿が玄関から道路へ下りる階段で転んでしまいました。脳挫傷と硬膜下出血と鼻骨骨折。額も数針縫いました。鼻血が止まらず心配しましたが、出血はどうやら止まったようです。でもまだ予断を許さない状態で、治っても後遺症が残るかもしれないとも言われました。目を覚ましているときはちゃんと話もできますが、熱もあるので辛そうです。

神様仏様ブラック・ジャック様、どうか治してください!

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動物の地震予知

このところ、ミャンマー・サイクロン(あまり『ミャンマー』という呼称は使いたくないが…)、中国・四川省大地震と、アジアで大災害が続発している。ほぼ1日たって大地震の死者は1万2千人と発表されたが、今なお9万人以上の人が生き埋めになっているとか。一刻も早く一人でも多くの人が救助されることを願ってやまない。私も僅かながら義援金を送ろうと思う。

ところで、今回の「大地震の前に、同省の綿竹市で数十万匹のヒキガエルが一斉に移動するという異常現象があった」というニュースを読んだ。日本ではナマズが暴れると言われるし、以前読んだ地震の本には、雪の上を這いずっているヘビが確認された後に地震が起こったと記されていた。冬眠中のヘビを叩き起こすような変化が土中に起こったのだろう。また私の経験では、近所の犬が夜中にうるさく鳴き続けるので目が覚めたら直後に地震が起こったことがある。このような動物の異常行動を「宏観異常現象」と言うそうで、動物達は電磁気や化学物質の変化を感知しているのではないかと考えられている。

現在のところ、これらの宏観異常現象は、地震が起こった後に「ああ、そう言われればそんなことがあった」と思い出される段階にとどまっていて、防災の役に立つまでには至っていない。飼っている犬が突然鳴き出しても、それがただ虫の居所が悪いせいなのか地震を予知したせいなのか判断ができない。しかしせっかくこれだけインターネットが普及した世の中なのだから、「うちの金魚の様子がおかしい」とか「鳥の鳴き方が変だ」とかの情報をリアルタイムで集めて分析できるところがあれば良いと思う。もちろん、変な情報を流してパニックを起こしてはいけないから、それは信用の置ける機関でなくてはならないし、基本データを集めるためには何年もかかると思うけれども。

昔は人間もそんな能力を持っていたのかもしれないな。知能の発達と引き換えに、失くしてしまったのかもしれない。動物達の地震予知能力に期待したいところだ。

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ピノコの姉

月曜日は『BJ』語り。きょうはピノコの姉について。

ピノコの姉はシリーズ中「畸形嚢腫」「ピノコ生きてる」「おとずれた思い出」の3話に登場する。彼女の言動を中心とした簡単なあらすじは以下のとおり。(注:秋田文庫版を参照しています。)

・「畸形嚢腫」では、ピノコの姉はお多福の面をかぶって最後まで素顔を晒さない。彼女を連れてきたのは主治医の可仁博士で、「ある身分の高いおかた」とだけ紹介している。
 今晩手術をしないと危険というギリギリのタイミングで彼女はBJ邸に運び込まれる。病名は畸形嚢腫。それまで何度も嚢腫を切り取ろうとしたが、そのたびに医師たちがおかしくなって中止せざるを得なかったという。可仁博士は「嚢腫ののろい」と言っている。BJは嚢腫の信用を得て切り取ることに成功し、人間の姿に形作る。1年後、最後の診察に訪れた彼女と可仁博士に、BJは「同じ年の妹さんだ」と女の子を対面させる(このときまだピノコという名前は出ていない)。「私に妹なんか……」と戸惑う彼女に、女の子は「ひとごろし」「しにゾコナイ」「ろくでなし」等々悪態の限りを尽くす。対して彼女は「こんな子 私の妹じゃありません!!」「いやらしい子」と嫌悪感を示し早々に立ち去るのである。BJの脚に縋りついて泣く女の子が痛々しい。

・「ピノコ生きてる」では黒いベールで顔を隠し、やっぱり彼女の顔は見えない。可仁博士の説明は「たいへん地位の高い家柄の人」。
 このエピソードではピノコが重い白血病に罹り、ピノコの血液を交換しようとBJがピノコの姉を探し回る。しかしやっと探し出した可仁博士から、彼女は自殺したと告げられる。ピノコの死を覚悟するBJ。だが可仁博士の言葉は彼女の心中を慮った嘘だった。可仁博士は「医者としての責任で」ピノコの姉を連れてくる。「ご縁はこれきりにしてください。私には婚約者もいますし……」とはピノコに輸血をしながら彼女が言った言葉。

・「おとずれた思い出」でやっと彼女の素顔が明かされる。目がクリクリとしたとてもチャーミングな女性である。可仁博士によれば「さる高貴なご門跡の令嬢」とのこと。
 家柄と格式にとらわれた家族はゴタゴタが多く、彼女はノイローゼになって自宅の3階から投身自殺を図った。命は取りとめたが、その後行方不明に。彼女は家から大金を持ち出し、何故かBJ邸を訪れていたが、自分の名前すら思い出せない記憶喪失になっていた。BJは彼女の腹部の手術痕からピノコの姉だと気付く。ピノコには言えない。ピノコに看病させているうちにピノコと姉はお互いの関係を知らないままにとても仲良くなっていく。ピノコ曰く「まゆれピノコの姉妹みたいに思ゆの」。姉の記憶が戻ったときに起こるであろう悲劇を避けるために、BJは可仁博士に彼女を引き取りに来させる。別れを悲しむピノコだったが、可仁博士の顔を見た途端に記憶が戻った姉は「早く車を出して!! 早く!!」と……。

この3話で一貫して描かれているのは、格式や名誉や世間体を重んじる上流階級とやらのエゴイズムの醜さであろう。「おとずれた思い出」でBJが可仁博士に言った「格式だの家柄だのってやつは わたしゃァ胸がムカつくんでね!!」「そいつァ人間のいちばん愚劣な病気みたいなもんだ!」という台詞にそれが如実に表れている。

ところで「門跡」とは、文庫の側注によれば「一門(同じ宗派)の仏法の系統を伝承する(資格を持つ)寺院」のことである。余談だが、以前に私は「門跡寺院の数は限られているのだから、BJ邸からほど近い門跡を調べればピノコの素性は明らかになるのではないか」と考えて数十の門跡の所在地や歴史等を調べたことがある。またピノコの姉には婚約者がいるということで、門跡の後継というのはどういう仕組みになっているのかも興味の対象であった。しかし考えてみれば、ピノコと姉の双子だけでなく他にも後継者となる兄弟がいるのかもしれないし、門跡寺院とピノコの姉の自宅は別のところにあるのかもしれないし……ということで、調べるのはやめた。要するに、この場合は、ピノコというのは本来皇族や摂家に連なるような高貴な家柄に生まれるはずだったという理解で良いのだと思う。

また、「双子」「門跡」というキーワードから思い起こされるのは、奈良県の尼門跡・円照寺である。昭和の終わり頃だったと思うが、第10世の山本靜山門跡は三笠宮の双子の妹君だという噂が流れたことがあった。『昭和天皇の妹君』という本に悲劇の皇女として取り上げられた方だが、「男女の双子の前世は心中者同士である」とする迷信により、皇室ではその存在は無きものにされ養女に出された……とされている。真相のほどはわからない。ご門跡はこのことについて生涯何も語られなかったらしい。ちなみにこの山本靜山門跡は三島由紀夫の『豊饒の海』に出てくる綾倉聡子のモデルとなった方である。作中で聡子は月修寺の門跡になっている。

ピノコの家の場合、ピノコの何が格式や名誉や世間体を傷つけると思われたのか? ピノコの姉の腹部に腫れ物がある。これが普通の腫瘍なら切り取ったところで世間体には何の差し障りもなかろう。ところが腫瘍は畸形嚢腫だった。つまりは双子の片割れである。これがまず問題だったと思われる。双子にまつわる迷信や因習を調べてみると、前述の「男女の双子の前世は心中者同士」と同様、高貴な身分の家では「双子は畜生腹」と言われ、一人は里子に出されるか捨て子にされる運命だったようなのである(←もちろんこんなことは正式な文献などには記録されない。存在を抹殺しようとするのだから、記録なんかされるはずがない)。現代ならばなんと非人道的な考えかと思うが、高貴な家ならずとも「双子は畜生腹」というのは今でも多少は生き残っている考えだろう。私も実際に人が言っているのを聞いたことがある。

考えてみれば、ピノコの姉も相当に気の毒な立場なのだ。ピノコに辛く当たる人非人としてのイメージがあるが、それは我々が後のピノコを知っていて贔屓目に見るからで、姉もまた格式や名誉や世間体の犠牲者なのである。望んで高貴な家に双子として生を受けたわけではない。しかも片割れは無事に生まれることができず、自分の腹の中でどんどん大きくなっていく。切り取ろうとしても切り取れない。なにしろこの畸形嚢腫は意思だけでなく超能力までも持っていて手術を妨害するのである。由緒正しい門跡の令嬢にそんなワケのわからない忌まわしいものが取り付いたこと、これが世間体を憚るもっとも大きな理由だったと思われる。嚢腫があれだけ大きくなれば外見からでもわかる。世間体を気にする家柄ならば、おそらく彼女自身も世間から隠されるようにして暮らしてきたのではないかと想像できる。そして遂に「今晩手術をしないと危険」というところまで追い込まれて、BJ邸に運び込まれるのだ。医者の可仁博士でさえ「呪い」だと言う不幸を、18年間一身に背負ってきたのは彼女自身だ。自分を肉体的にも精神的にも苦しめ抜いた嚢腫(ピノコ)を疎ましく思うのも無理からぬことだと思うのである。

あの夜、可仁博士がピノコの姉をBJ邸に連れてこなかったらピノコは存在しなかった。嚢腫の中身を人間にすることなどBJ以外の人間には出来ないだろうということがひとつの理由だが、それ以前にタイミングという要素がある。嚢腫側(というのも妙な表現だが)から見てもあの夜がギリギリのタイムリミットだったのだ。何故ならば、母体とも言うべきピノコの姉が死んでしまったら嚢腫もまた生きてはいかれないからである。そのタイムリミットを嚢腫がわかっていたかどうかは定かではないが、案外可仁博士の話すことで察していたかもしれない。なんとしてもその夜のうちに姉の身体から出なくては生存の道がない、しかし他の医師の手によって取り出されてもやはりそこに待ち受けているのは死なのである。二進も三進もいかなくなったまさにその時に、嚢腫はBJと出会うのだ。これはもう奇跡だと私は思う。

しかしそれにしても、だ。嚢腫をそこまで生きることに執着させたものはいったい何だったのだろうかと思う。漠然とだが……、とにかく自分の存在を認めてほしかったのではないかと私は想像する。仏門の家なのだから本当は生きとし生けるものすべてに慈愛の目を向けなくてはいけない立場なのに、あの家の人間たちは高貴な家柄を後生大事に守って世間体を取り繕うことだけに汲々としていたのだろう。双子の片割れの嚢腫を気味悪がり疎ましくは思っても、正常な状態で生まれてこられなかったひとつの命として慈愛を注ぐことなど誰もしなかったのだろう(註*1)。ただ存在してはいけないもの、無き者にしなくてはならないものとされて刈り取られようとした命の、必死の抵抗、自己アピールがあの超能力なのではないかと思う。「生きたい」というのは「わたしの存在を認めて!」という叫びなのではなかろうか。だから……、もしも姉や他の家族が嚢腫に対して愛情と憐れみを持って接していたら……、嚢腫はそれで満ち足りて、結果はまったく違ったものになっていたかもしれないなと思う。

 (註*1)これについてはピノコ登場の場面がその証左となる。姉の「私に妹なんか……」という反応はごく当然のものだ。しかしピノコはすぐさま憎しみと怒りと悔しさを爆発させている。これは嚢腫だった時の記憶に基いた行動に他ならないと思われる。BJもまさかここまでとは予想していなかったのか、慌てて引き離している。

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カーネーション

きょうは「母の日」。毎年別に何をプレゼントするわけでもなく、ただ感謝して過ごす。し、姑さんには何かしたほうが良いのかな(おどおど)?

母の日の花はカーネーション。キリストが十字架に架けられたときマリアが流した涙のあとに咲いたとされる花で、「母と子」の関係を象徴する花となったようだ。母の存命する者は赤いカーネーション、亡くした者は白いカーネーションを捧げるようになったのは、1908年アメリカが発祥だとか。同国では祝日なのだそうだ。

私が子どもの頃読んだお話で、皆が赤いカーネーションをつけている中に一人だけ白いカーネーションをつけている子がいて……というものがあった。その先どんな展開になってどんな結末だったのかまったく覚えていないのだが、一輪だけの白いカーネーションというのが、絵本だったわけでもなかったのに、鮮明に脳裏に焼きついて離れない。美しくて残酷で悲しくて……。今でもカーネーションの花を見かけるたびに、必ず思い出す。

母に限りない感謝を込めて。ありがとう。

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(備忘録080510)

ちと多忙につき、お休み。

最近ちゃんとした記事を書いてないなぁ……。

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ショック……

う~む。きょう玉造の老舗温泉旅館が2軒いっぺんに自己破産の申し立てをした。このうち1軒はまんざら知らないこともない旅館だったので、ニュースを聞いたときには驚いた。都会に本社があるホテル運営会社が買い取り、事業は継続されるらしいのだが、歴史があるだけに大女将も若女将も辛いだろうなぁ……。

神代の昔、出雲の神々も湯浴みしたといわれる玉造温泉。皆さん、来てね。

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(備忘録080508)

・夜中に関東・東北でかなり強い地震があったようで、被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。

・胡錦濤国家主席来日中。ほとんどの人が予想したとおり、当たり障りの無い話に終始しているような感じだが、朝食会では安倍前首相がチベット問題に触れて、座が凍ったとか(笑)。いいんでないの? 今の時期、その話題を避けるほうがどうかしている。

・先日録画しておいた昭和の美男美女ランキングを観た(番組タイトルは失念)。どういう集計方法かわからないが、おもに白黒の映像で紹介される美男美女 TOP 20 に見惚れた。トップは、赤木圭一郎と山本富士子。さすがにリアルタイムでの記憶はない。しかしあれだね。ゲストの女性も言っていたが、現代のイケメンと言われる俳優さんたちは確かに格好は良いのだが、昔の俳優さんたちのような色っぽさが無い。艶が無い。夫が関心を示したのは市川雷蔵さん。今度一緒に『眠狂四郎』シリーズを観てみようということになった。楽しみ~♪

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評価

通信簿における「成績のインフレ」が問題になっているようだ。生徒の9割に「5」をつけることもあるとか。なんじゃそりゃ?

今の成績評価は、2002年から導入された「絶対評価」で行なわれている。それまでは「相対評価」だった。相対評価では、児童生徒を成績順に並べていって決められたパーセンテージで5段階に割り振るので、通信簿に「5」「1」をつけられる者がそれぞれ必ず7%あった。「4」「2」は24%、「3」は38%である。ところがこれがとても出来のよいクラスだったりした場合、「1」をつけられた児童生徒は他のクラスでは「2」である可能性もある。「5」について逆のパターンもあるだろう。クラス間での格差があるわけだ。これをもっと大きな集合で考えれば、学校間、地域間で評価に差ができることになる。

これを改めたのが絶対評価で、成績だけでなく、関心・意欲・態度なども考慮されることになった。教師は非常に煩雑な評価作業をしなくてはならなくなったと、当時問題になっていたことを思い出す。それがどのような作業なのか私は知らないのだが、その実際の煩雑さよりも、一人一人を個別に主観的に評価する責任の重さのほうが、教師にとっては大変なのではないかと想像する。

一般に絶対評価というのは個人ごとに立てた目標をどれだけ達成できたかで評価するものだ。つまりそこには明確な目標ラインというのが設定されていなくてはならない。各児童生徒がどれだけの関心や意欲を持っているか、そしてそれがどの程度達成できたのか、それを教師は見極めなくてはならないことになる。そんな目に見えないようなものを評価する責任を負わせられた教師は大変だ。

絶対評価と相対評価、これは教育に限らず集団社会においてはどちらも必要なものだと思う。実績としては表れなかったとしてもいかに工夫をして頑張ったかということを絶対評価され、自分が全体のどの辺りの位置にいるかが相対評価されるのがベストだろう。

しかしそれを実際にはどのような手段で行うのか。人が人を評価することがいかに難しいかは想像に難くないのだが、しかし「1」がつかないとか9割に「5」をつけるとかいうのは、既に評価すること自体を放棄してしまっているようにも見える。まるで徒競走で順位をつけない運動会や全員主役の学芸会と一緒だ。そんな通信簿なんて何の意味もないんじゃなかろうか。それならいっそ「国語では○人中○番、算数では……」とテストの順位だけ教えてくれた方が役に立つと思う。

ともあれ、私はあんまり学校に多くを期待するのはやめたほうが良いように思う。学校というのは基本的に画一的な教育を施す場であり、相対的な評価しか下すことはできないし、それで良いと思う。個性を伸ばしたり全人格的な評価をしてくれる場ではない。「1」と評価されようが、たとえそれが他のクラスでは「2」と評価されるものであろうが、実際の学力が変わるわけではない。事実はひとつだ。ちょっとでも上げようと努力するしかないというのが私の結論だ。

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(備忘録080506)

溜まったHDDの録画を消化していたら記事を書く時間がなくなりました。きょうはお休みします。ふぁあ~~、テレビ疲れ……。

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天の配剤

先日別のものを検索していて、たまたまこんなページを見つけた。最初のところで萩尾望都さんがピノコについて言及している。「『あ、みんなピノコに萌えてるんだ、こんな萌えキャラだったのか』と、そのとき初めてわかったんです。」という一文。「初めてわかった」という部分を読んで、ああ一緒だとホッとした。

そう! そうなのだ! リアルタイムで『BJ』を読んでいたとき(30年前だ)には、ピノコあるいは BJとピノコの関係について「萌え」たことなどただの一度もなかった。もちろん「萌え」なんて言葉の使い方もなかったが、BJとピノコを男と女だと思ったことすら一度もなかったのだ私は。いや私だけではなく、同じく『BJ』ファンの友だちの間でもそんな話は出たことがなかった。だからTVアニメでやたらとBJに付いて回りべたべたひっつくピノコを観たときには盛大に違和感を覚えた。こんな焼餅焼きのこましゃくれたガキンチョはピノコじゃないと思った。いや、正直に言えば、違和感どころではなくて嫌悪感さえ抱いていた。カッコいいクールなお兄さんとおしゃまな女の子のカップルだなんて、頼むからそんな「萌え」た目で描いてくれるなよ、見てくれるなよと思っていたのだ。

ピノコはそんな軽い存在じゃない。BJとピノコの関係はそんなもんじゃない。あのね、ピノコってのは生命の輝きそのものなんだよ。眩しいほどの存在なんだよ。いっそ神々しいまでの重い存在なんだよ。そんな存在が人間の形になって、神の手を持つといわれる天才外科医の傍にいつもちょこんと居る。ピノコが傍にいる限り、BJは「生」の意味を絶対に見失わない。その配剤の妙、そのシンボリックな関係になら私も「萌え」られる。ピノコはBJの掌中の珠だ。べたべたした愛情表現なんかしなくたって、BJがピノコを愛おしく思っていることくらい原作では簡単に読み取れる。BJを龍だとすればピノコは龍珠だ。BJの傍にいるだけで、ピノコがBJに力を与えていることだってこれまた簡単にわかるではないか。……と、ひとりTV画面に向かって憤慨していた。

ところが、である。そのTVアニメ化に伴って起こった『BJ』ブームの頃、私がふと気付いてネットで検索したときには、既にこの2人は鉄板の如く既成事実の如く強固に確立されたカップルとして世間に認知されていたのだ。アッチョンブリケである。途方に暮れた。ピノコってそういう存在なの? ピノコがそういう存在なら、同時に私のBJに対しての認識も改めなくてはならなくなるよ……。

それ以来、悶々としていた。原作のピノコは好きだからもっと語りたい気持ちもないことはなかったのだが、どうもそれが世間様の認識とはズレまくっているようだ。小出しにちょこちょこと(その多くはアニメでの描かれ方についての不満という形で)触れてはきたが、何しろ自分の認識のほうがオカシイのかもしれないという意識があったものだから、ずっとおっかなびっくりだった。【ちなみに、ピノコについては過去にこんなことこんなことを書いている(誤字脱字にはご容赦を!今さら直せない)。いま読むと、どうにかして一般世論との折り合いをつけようと四苦八苦している様子が窺えて笑える。またその後に若干考え方が変わった点もあるのだが、この時点ではそういう考え方をしていたということでご承知置きください。】しかし今回、上記の記事を見つけたことで、昨今のピノコの捉え方にびっくりしたのは私だけじゃなかったんだと、意を強くした。なかなかこういうことを書いた記事というのは見つからないのだ。

同じ作品なのに、連載当時と今とでピノコの捉え方がこれほど違うというのは、やはりあのTVアニメでのピノコの描かれ方と、当節流行の「萌え」という風潮の所為だと思う。一言で言えば、時代の空気のなせるわざだ。30年前には考えられなかった。ネットもない。コミックマーケットもない。原作を読んで一人で満足していた時代。特定の登場人物を好きになることはあっても(ときどきオスカル様に憑依されている友人がいたりした)、それを誰かとカップルにする想像をして喜ぶなんてことはしたことがなかった。いや、みんな頭の中ではいろんなことをやっていたのかもしれないが、それが語られることは決してなかったのだ。「オタク」という概念もまだ無い頃だ。余談だが、ソシュールの「言葉があって初めて概念が生まれる」というのは本当だと思う。「萌え」という言葉があって初めて人は萌えるのだ。

「萌え」というのは、キャラを自分の嗜好やレベルに合わせたところに発生する感覚だと私は思う。同性ならば彼我を同一視する傾向というか……。早い話、どこを取っても嫌いなキャラに萌えることなど無いはずだ。好きだから、萌えられる。その好きなキャラに更に自分の嗜好をどんどん投影するのが楽しい。「萌え」ってのは、そういう感覚なのだろうと思う。

私はピノコに萌えることはできない。何故ならば、ピノコに萌えるということは、ピノコを私自身が想像可能なレベルにまで引き摺り下ろしてしまうことに他ならないからだ。48歳のオバサンの邪念と妄想が投影されたピノコのどこに魅力があるというのだ!?(……それはそれで_| ̄|○……。)これがBQやめぐみさんなら萌えることは可能だ(萌えようとは思わないけれども)。彼女達が自分と同じ女であり人間のレベルだからだ。ピノコは……超えているのである。私の中でピノコに匹敵するレベルのキャラは火の鳥しかいない。火の鳥に萌えようとは誰も思わないだろう、脚は色っぽいけど。他のどのキャラに萌えられてもピノコにだけは萌えられない。私にとってのピノコとは、つまりそういう至高の存在なのだ。

しかし、さっきも書いたが、ピノコがBJの傍に配されているという設定には惹かれてやまぬものがある。この2人の出会いは奇跡だとさえ思う。ピノコは母のような愛でBJを包み込み、BJは騎士のようにピノコを守っている。たぶんBJの意識の中にはピノコに対する畏敬の念がある。それは「生」の神秘への憧憬のようなもので、それに対する愛おしさは普通の男女間の愛とはまったく性格の異なるものだと思う。だから私はこの2人をペアとして見ることはできても、どうしてもカップルとして見ることができないのだ。将来この2人が結婚できたら良いとは思うものの(法律上では不可能だが)、そうならなくても別にかまわない。どうでもよい。あの2人は、たぶんそんなものは超越したところで、魂同士が触れ合う世界を構築しているのだと思われてならないのである。

さてそういうわけで、ピノコについて書くことは気後れがしてなかなか難しい。「めぐり会い」において、めぐみさんとのデートにBJがピノコを連れていっている心理などは、考えるとなかなか面白いものがあると思ったりするのだが。それはまた機会があれば。本日はこれまで。

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昨日いただいたトランプから数枚をご紹介。
Photo BJとピノコ

Photo_2上段:ロック(間久部)とランプ(友引警部)

下段:ドクター・キリコとシュマリ(冬造)

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「Star System」トランプ

きょうは嬉しい嬉しいサプライズが!!
某Hさんが手塚グッズの数々をプレゼントしてくださいました~~。ドンドンドンパフパフ♪

「Star System」トランプの1枚1枚を見ているだけで、5年は過ごせそうですワタクシ。「スペードのA」が4枚あります。ロックとハム・エッグとスカンクとランプがその座を取り合った挙句(なんで悪役ばっか?)、結局ロックに決まったものの、あとの3人も勝手に手書きのカードを作ってしまい4枚になったそうで。その他もお遊び感覚満載のトランプです。楽しい~~♪♪♪ わが愛しのBJ先生はちゃんと各種の「J」のカードを押さえておられます。キリコは「スペードの4」。「死」ってことですかね。注射器片手に不気味な笑みを浮かべています。ふっふっふ。明日は月曜日だし、何枚か写真で紹介しようかな。

Hさん、本当に素敵なものをありがとうございます! 一生のお宝にさせていただきます。以後5年間はワタクシ使い物にならないかもしれませんよぉ(笑)。

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(備忘録080503)

昨日書いたエラーメッセージは、何の対策も取らなかったのに、きょうは出なくなった。何だったのだろう。ただWindows そのものの起動に一手間かかるようになった。どうなのこれは?

ところで、先日何かの検索をしていたときに、いくつもの別々のブログにまったく同じ記事が書かれているのにぶち当たった。ニュースの引用記事というわけでもない。複数のブログを運営している人がそれぞれに同じ記事をエントリする、いわゆるマルチポストかと思ったが、それだけでもなさそう。あれがブログの記事代行サービスというやつなのかな。アフィリエイトとかネットビジネスとかいうものにイマイチ胡散臭さを感じている身としては、人様が書いた記事を丸写ししてまでブログを作ろうという気持ちがどうにも理解できない。まあそれは人様の勝手だから良いとしても、検索のときの邪魔になるのだけは勘弁してもらいたい。

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(備忘録080502)

何度も観ているのに、ついついまた観てしまった『ルパン三世 カリオストロの城』。宮崎さんの絵は好きではないのだが、ストーリーにワクワクする。それにやっぱり山田さんの声は良い。安心して聞いていられる。銭形のとっつぁんも大活躍だし♪

ウ○ルスバスター2008の自動アップデートに、どえらい時間がかかるようになった上、エラーメッセージが出るようになったため、現在対処法を調査中。

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新しい時代小説

昨日買ってきた『密命』を読み始めた。時代小説というより剣豪小説というのだろうか。昼行灯のようにぼーっとしている男が実は……という、変身ヒーローのような楽しさもあって、面白い。

佐伯泰英を読んだのは初めてだ(と思う)。書店には彼のいろんな作品が平積みされていて、人気作家さんなのだろうとは思っていたが今まで手が出ないでいた。たぶん、私の中で時代小説と言えば司馬遼太郎、池波正太郎、藤沢周平、そして柴田錬三郎と隆慶一郎という BEST 5 がキッチリ決まっているからなのだろう。読んでしまったらハマるかもしれないという怖さのようなものを感じていたのかもしれない。

まだ第一章を読んだだけなので何とも言えない状況ではあるが、のめり込むほど深みに嵌ることはなさそうな感じだ。面白そうなストーリーなのでたぶんこのシリーズは全巻読むのではないかと思う(笑)。でも他の作品まではどうかな、というところ。

ところで佐伯泰英について「ポスト藤沢周平」という謳い文句を目にしたが、それは全然違うと思った。同じ市井モノでも文体とか行間から滲み出る情感の質が違う。他の作家と比べても、司馬遼太郎のような歴史小説の趣きがあるわけではないし、池波正太郎のように特徴的な文体でもない。柴錬ほどニヒルでもないし、破天荒さは隆慶一郎に通じるかとも思ったが文体が何しろ違う。読みやすいエンタテインメントに徹した新しい大衆時代小説、という感じだ。   

私は一言一句をなおざりにしないカッチリした文章と、そこから醸し出されるどこかストイックな世界観に酔うのが好きなので、私の波長とはちょっとズレているということなのだろう。特に、女性の台詞があまりにもくだけた現代風なのに違和感がある。そのままドラマの台詞になりそうで……、ああ、だからTVドラマ化には向いているのだろうな。現代語の台詞による時代小説、という分野があるとすれば、それだ。逆に言えば、ちょんまげをつけた現代劇という趣き。たぶん若い人達にはウケると思う。

さて、第二章を読もうかね。

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