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2008年6月

『BJ』Quiz

クイズです。写真にちょっと細工したものもありますが、わかると思います。1問4点。選択肢なし。100点満点めざしてやってみてください。易しいのから超難問までいろいろです。どうしても答のわからないものがあったら、コメントでお知らせください。

【1-1】~【1-5】で、BJ先生が破っているものは何でしょう?
【2-1】~【2-20】は、それぞれ誰でしょう? 作中で名前が明らかになっている人物を選んでいます。……のはずです。

What1_3 What2_3 What3_3What4_3What5_3Who1_2 Who2_2Who3_2 Who4_2Who5_2Who6Who7 Who8Who9Who10Who11Who12 Who13Who14 Who15Who16_2Who17 Who18Who19 Who20

写真が綺麗に並んでいなくてすみません。編集段階ではびちーっと並んでいるのに、反映されると何故だかこうなります。くぅ~。(T-T)

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シャーちゃん

通い猫のシャーちゃんが姿を見せなくなって1週間ほどたった。最後に見たとき、腹に肉が見えるほどの傷を負ってグッタリしていた。牛乳を与えて物陰から様子を窺っていたが、あまり飲まなかった。ノラだから、呼んだところで近寄って来ないし、絶対に触らせない。動物病院へ連れていくこともできない。どこかで生き延びていてくれと祈るばかりだ。

同じ頃に生まれた兄弟が4匹いたので、トン、ナン、シャー、ペーと名付けた。母猫とお祖母さん猫とがいつも一緒にいて、わが家の庭や縁台で転げまわって遊んでいるのを縁側からそっと見るのが楽しみだった。もう4~5年も前になるか……。他にも家系の違うノラ猫が数匹いて、縄張り争いなどもあったようだ。おまけにタヌキまで出たりして。どんだけ山の中かと思われそうだが、普通の住宅街だ。

みんないなくなってしまったなぁ……。ペーは弱っているのを見つけて発泡スチロールの箱に入れてやった。他の猫が次々に覗きにきた。そのうち一声「にゃ」と鳴いて死んでいった。庭の片隅、お祖母さん猫を埋めた横に埋めた。他の猫も次々といなくなり、最後に残ったのがシャーだった。ベッピンさんだったので恋の季節は必死で逃げ回っていた。お腹が大きくなっていた時期もあったが、子猫は見たことがなかった。育たなかったのかもしれない。

人間が作った街中で、ノラが生き抜くのは、とても大変なことなのだと、つくづく思う……。

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『ごくせん』

『ごくせん』を観た。あれ? 長いな?と思っていたら、きょうが最終回だったそうで。このシリーズは何回か観た。が、一回も授業風景は見たことがない。ヤンクミって何の先生(笑)?

きょうもきょうとて、いやSP版だけあっていつもより大勢による乱闘騒ぎがあって、あわやクラス全員退学となりそうになるが、ヤンクミの父兄を前にした熱い演説と、「自分達が責任を取る」と言う生徒全員の一途さに、なんとか2週間の停学で収まった。「責任取るなんて簡単に言うんじゃねーよ! 親の金で学校通わせてもらって何が責任だ!」とか「この子達は未熟なんです」という台詞が決まっていた。

このドラマ、「『秀才=悪』『不良=心はきれい』という図式で不良を美化している」と叩かれたりしていたが、視聴率は良かったようだ。自分は秀才だと自惚れているごく一部の人以外には、受けが良かったんだろう(あれ? 言葉にトゲがある?笑)。というか、このドラマに出てきた生徒達って「どこが不良?」という感じだったのだけれど。確かに家族に心配はかけていたようだったが、一般人に迷惑をかけるような行為はしていなかったし(私が視聴した限りでは)。彼らを「不良」と呼んでよいのかどうか疑問だ。ただ学力が劣っているだけなんじゃないのか。

昨日は『太田総理』を観たが、たまたま「小さいころからの英才教育の禁止」というようなマニフェストだった。私自身としてはどっちつかずの状態でずっと観ていたが、番組後半でぐっと「賛成」の方向に傾いた。英才教育を施されている子ども達(5~6歳)が出てきたのだが、「子どもの頃に勉強しないと、賢い大人になれない」とかなんとか言ったのだ。言った相手はつるの剛士さんだったのだが(笑)、だからヤラセかもしれないのだが、仮にも大人に向かってそんな思い上がった口をきく子どもを作る英才教育なら、禁止したほうが良いと思った。

頭の良し悪しは、心の成熟度とはあまり関係ないのじゃないのかな。

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○○って何?

日頃使っているにもかかわらず、どうしてそう言うのか知らなかった言葉などなど。

・学ランの「ラン」
 敢えて漢字で書けば「蘭」。すなわち、オランダ(阿蘭陀)の「ラン」だそうだ。江戸時代、洋服全般を「蘭服」と呼んでいた名残り。「学ラン」=「学生用蘭服」。

・ガテン系
 いわゆる現業系・技能系職種に従事する人達。リクルート社発行の求人情報誌『ガテン』(1991創刊)に掲載されている職種なのでそう呼ばれる。元々は「合点」が由来だそうだ。

・みたらし団子の「みたらし」
 「みたらし団子は、京都市左京区下鴨の加茂みたらし茶屋が発祥で、この店の近所に鎮座する下鴨神社境内にある御手洗池(みたらしのいけ)の水泡を模して、この団子がつくられたといわれている。」--Wikipediaより--

・ロリコン
 和製英語「ロリータ・コンプレックス」の略。英語では“Lolita Syndrome”と言うらしい。意味は言わずもがなだが、「ロリータ」に「少女・幼女」の意味はない。ウラジミール・ナボコフの小説『ロリータ』(1955)に登場する少女の名前が「ロリータ」。←これが語源。

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(備忘録080626)

うわ! ちょっと仕事してたら時間がなくなりました。記事はお休みします。

『アドルフに告ぐ』アニメ化! ……という夢を今朝方 見ました(すみません、夢です)。詳しくは、そういう見出しが新聞の1面に載っていた、という夢です。正夢になると良いなぁ。『ブッダ』でも良いですが。

今年は手塚治虫生誕80周年記念で、『MW』の実写化などいろいろな企画がなされていますが、ブラック・ジャックのQUOカードなんてものもあったんですね。この「キャラクターシリーズ(集合)」というカードの人選に興味を惹かれます。真ん中にBJ、時計回りにドクター・キリコ、ユリさん、本間先生、ピノコ、山田野先生、如月先生、ブラック・クイーンという面々。キリコを除きBJのシンパで固められている中に、なんでユリさんが!? そんなに重要なキャラなんだろうかこの人は。う~む。……というか、本当にユリさんだよな、この人?

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(備忘録080625)

昨日、夫の実家に置いていたピアノをわが家へ戻した。舅殿の電動ベッドを入れたら部屋が狭くなってしまったため。作業に来られたのは男の人2人。段差のあるところは2人でピアノに紐をかけて持ち上げて運ばれた。凄い力だ……。聞いてみたら、グランドピアノでも2人で運びますとのこと。ひえ~~。
ほぼ20年振りに元の場所に納まったピアノをさっそく弾いてみた。夫のリクエストでバッハのインベンションなど。先生について習っているときにはあんまり楽しいとは思わなかったけれど、趣味で弾くのはとても楽しい。そんなものなんだろうね。

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馬鹿げたこと

「爆破、殺害予告で毎日検挙者 捕まるのになぜやってしまうのか」という記事を読んだ。本当にね。どうしてやるんだろ? きょうもきょうとて、アイドルグループ「AKB48」の公式サイトに、無差別殺害を予告する書き込みをしたとして、威力業務妨害の疑いで東京都の無職の少年(18)が逮捕されている。

記事には「『書けば捕まる』のは頭では分かっていても、いざ捕まってみないと実感がわかないのでは」と書かれていたが、なにも捕まるのを実感したくて書くわけではなかろうから「なぜやってしまうのか」の答にはなっていない。逆に、自分だけは捕まらないと、何の根拠も無い想定の下に書いているのではないかと私は思う。彼らはただ騒ぎになるのを無責任に傍観したいだけなんじゃないだろうか。

そりゃあ面白いだろうと思うよ。自分の書き込みに対して、たとえそれが否定的なものであろうと誰かから何らかの反応があったとすれば、少なくとも誰かが自分のことを気にしていることになるわけだから。更には実際に防犯警備が強化されたりすることもある。たくさんのお巡りさん達が自分の書いた一言で動いている、なんてことにでもなれば、かなり大きな全能感を得られるんじゃないかと思う。騒ぎが大きくなればなるほど「俺ってすごくね?」なんて思うかもしれない。そこらへんの気持ちは察せられないこともない。

単に面白半分でやった者が大半だろうが、中にはある程度思いつめたものもあるのかも。その根底にあるのは、孤独感だろうと思う。たぶんこういうことをグループでやる例は少ないんじゃないかな。グループなら、同じ悪いことをするにしてももっと現実的に享楽的なことをしそうな気がする。独りで、来ると思っていたメールの返事が来なかったりして、周りが自分の思い通りにならないことにイライラする、でも自分のイライラに誰も気付いてくれない……なんていうときに、注目を集めるためにやっているんじゃないのか。所謂「構ってちゃん」。そんな気がする。

人はね、あなた一人のために生きているわけじゃないんだよ。あなたの思い通りにならなくて普通なんだよ。誰だってそうなんだよ。他人があなたのために何かしてくれるのを期待する前に、あなたが他人のために何かをしてあげているのかどうかを、まず考えるべきだと思うよ。

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受け継がれる思い

『BJ』シリーズ中、その後どんな単行本にも収載されず(註1)当時の掲載誌でしか読むことのできなかった3編(「指」「植物人間」「快楽の座」)を、30数年ぶりに読むことができた。全243話、これでやっとコンプリートだ。(註1:「植物人間」は最初コミックスに収録されたが、現在は別の話に差し替えられている。)

あらためて読んでみて、「植物人間」と「快楽の座」は、確かに脳に関する強引な生体実験とも受け取られかねず、単行本化が躊躇されるのもわかる気がした。特に「植物人間」には「頭蓋骨切開」に「ロボトミー」とルビをふるという致命的なミスがあるし、そもそも「植物人間」というタイトル自体にも問題があろう。脳死や精神疾患に係わる問題(偏見等も含めて)がクリアされない限り、これらの話は永遠に封印され続けるのかもしれない。しかし封印され続けることで、却ってその指摘の鋭さが際立っている作品であることの証明にもなっている気がする。

扱われているテーマはそれほど重いのだが、この2編とも読後感は不思議と明るい。将来に希望が持てる終わり方となっているからである。特に「植物人間」では、突平(トッペイ)少年は脳死状態となった母を救うために、将来医師になることを宣言する。「ぼくは おかあさんをなおすぞっ」「きっと……きっとなおしてみせるっ」「医者になって!!」「それまでおかあさんは生きてるってさ」。それを聞いてBJは静かに病室を後にする。機械で測れないだけで脳は生きているかもしれないと頑張ったBJの意志は、確かに突平少年に受け継がれたのである。

救いたい人がいるから医者になる、これほど強いモチベーションはないだろう。また、自分が救われたから医者になる、というのも同様だ。「指」は、まだ不発弾爆発事故という設定がなされる前のお話だが、黒男少年は車椅子に乗っている(ちなみに髪は全部黒い)。それを手術で治してもらって歩けるようになったから黒男は医者を志したのだと、間久部が回想で語っている。怪我だか病気だかはっきりしないが、黒男の脚を治そうと懸命に努力した医師(たぶん本間先生だ)の思いを、BJはしっかり受け継いだのである。

受け継がれる思い――このテーマを扱ったお話はこの他にもいくつかある。

・「未来への贈りもの」
BJが医局員時代に担当した男性患者の病名は「筋萎縮性側索硬化症」。現在の医学では原因もわからないし治しようもないのだが、その患者は同じく「エリテマトーデス」という難病を患った恋人と結婚し、苦労を分かち合おうとする。10年後、男性患者の容態は悪化しており、もはや命も危うい。そのとき二人の前に現れたBJは、人体を冷凍保存し未来に目覚めさせるという旧ソ連の技術(コールドスリープ)を、結婚祝いとして二人にプレゼントする。いかなBJでも今は治すことができない難病だから、その完治法が確立されるであろう未来に希望を託すのだ。いつかBJの思いを受け継いで、彼らの難病を治す医師がきっと現れると信じたい。

・「話し合い」
BJの中学時代の同窓生・無理(←これが苗字)。今は教師となり、手のつけられない不良生徒・〆沢に対して非暴力と話し合いの姿勢を貫いているが、毎日やられてボロボロの有り様である。ところが彼も昔は教師いびりに明け暮れるどうしようもない不良生徒だったのだ。そんな無理を恐れずに対等に話しかけてくる一人の教師がいた。それが気に入らず、その教師を襲おうとした無理だったが、二人一緒に大怪我をする。無理はなんとか助かったが(助けたのは本間先生だ)、その教師は無理に笑いかけながら死んでいく。そのときから無理は生まれ変わった。やがて教師となり、質の悪い生徒のいる学校を選んで赴任するようになったのだ。
そして……、この話を聞いていた〆沢が今度は無理と同じ道を歩んでいる15年後の姿がラストシーン。
ある教師 → 無理 → 〆沢と、思いが伝わっていっている。生徒を立ち直らせたいという思い。そして、暴力に対して非暴力で真向から立ち向かう勇気もまた確実に受け継がれている。私が「隠れた名作」だと思う一編である(関係ないが、〆沢が『ドラえもん』を読んでいるのが妙に可笑しい)。

・「死者との対話」
これは「受け継がれる思い」がメインのテーマではないのだが、BJと解剖実習で気持ち悪くなった学生・間武田の会話がなかなか深い。

BJ「きみはなぜ医者になろうと?」
間武田「え…それは その…人生に何かあると思ったから……」
BJ「私も同じだよ」
間武田「え」
  :
  :
BJ「きみはさっき 医者なんてむなしい仕事だといったね?」
間武田「はあ」
BJ「満足なことだってあるさ……」「きみにもいまにわかるよ」

たぶんBJの思いは何年かたってから間武田に伝わるのではないかと思う。母校の先輩BJが穏やかに語ったこれらの言葉を、そのとき間武田はしみじみと噛み締めるのではないかな。

まだ他にもあったように思うが、いま思い出したのはこれだけ。思いが受け継がれるというのは良いものだ。一途であるからこそ伝わる。自分では成し得なかったことが、その思いを受け継いだ者によって、いつか実現されることもあるだろうと考えるのは楽しいじゃないか。自分の一生という短いスパンではなくて、もっと長いスパンで観ることがあっても良いと思う。いやそれにしても、改めてBJというのは本間先生から絶大な影響を受けていると再確認した。本間先生がいなかったらBJはいなかった。そしてBJがいなかったら……、現実問題として、多くの優れたお医者さんは生まれていなかったかもしれない。

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諸悪莫作 (しょあくまくさ)

『仏教が好き!』(河合隼雄、中沢新一共著)読了。二人の対談集である。タイトルのとっつきやすさに惹かれて買ったら、まぁ難しいのなんの!! 途中で2、3回投げ出しそうになったが、なんだか心惹かれるものがあって、判らないところはそのままにとにかく読了。とても感想を書けるほどではないので、「仏教は宗教ではなく「知恵」(「智慧」と記したいところだ)を説いた非宗教である」とだけ覚え書きをしておこう。

読み終えてたまたまテレビをつけたら、NHK教育で「こころの時代~宗教・人生~『道元のことば~正法眼蔵随聞記にきく~ 我執を離れる(3)』」なんてのをやっていた。NHK教育は時として非常に面白い番組をやっていて飽きない。その中に出てきた言葉。

むかし白居易が道林禅師(鳥巣禅師)に「仏法の大意とは何か」と問うた。答えは「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」――すなわち「諸々の悪事を成すことなく、率先して多くの善行をなせば、自ずからその心は浄らかになる。これが諸仏の教えである」と。白居易が「そんなことは三歳の子どもでも知っている」と言うと、「実行することは八十歳の翁でも難しい」と。

神仏が説く教えなんて、教えてもらわなくてもたいていの人間はちゃんとわかっているのだ。ただそれを実行するのが難しいだけ。仏教は、それを実行するために自分なりに智慧を持ちなさい、と言っているのだと思う。

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(備忘録080621)

最近パチンコのCMで流れているジッタリン・ジンの「夏祭り」が良いな~と♪ CD買ってこようかな。
先日手に入れたブツを、きょうも繰り返し読んでいます。それについてはまた書くこともあろうかと。
というわけで、本日もお休み~。最近多いな……。

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ごめんね

絶滅危惧種で特別天然記念物に指定されている動物がいる。その動物をネコエイズ等から護るために、接触の可能性のある飼い猫の避妊が義務化されたというニュースを読んだ。飼い猫でない野良猫については積極的に島外へ搬出するのだそうだ。その動物とは、イリオモテヤマネコである。

なんだか、複雑な気持ちになってしまった。イリオモテヤマネコは護らねばならない、と思う。人間や人間が持ち込んだ猫が住み着くはるか以前から西表島で生きてきた動物だ(Wikipedia によれば、「西表島を含む島々が大陸から切り離された20万年ほど前にベンガルヤマネコから分岐して独自の進化を遂げ、遺伝的に固定化されたものと考えられる」のだそうだ)。西表島にはイリオモテヤマネコが生息することで成り立っている生態系があるはずだ。少なくとも人間のせいで絶滅するような事態は避けねばならないと思う。しかし、飼い猫の立場はどうなるのだろうと、ふと考えてしまう。

一般的に、ペットとして犬や猫を飼うときにも避妊はすべきものとされているようだ。もしも子どもが産まれても、飼い主に飼う余裕や貰い手を捜す余裕がなければ捨てられる運命にある。やがては人間にとって迷惑な存在とされて、捕獲され処理される。だからそんな「不幸な命」を作らないようにしましょう、という呼びかけは説得力のあるものかもしれない。しかしちょっと待て。ここにあるのは「人間」の視点と思惑だけだ。ノラで自由に生きられない環境を作り、その存在を迷惑がり、「不幸な命」にしてしまっているのは他ならぬ人間ではないのか。

言っても詮無いことだとは判っている。西表島での決定にケチをつけるつもりも微塵もない。断腸の思いで愛しいペットに避妊手術を施す飼い主もいらっしゃることだろう。だからこれは、人間とその他の動物がどのように接触し合い、または距離を置くのかということを、自分なりに考える機会だと思って書いている。

「動物愛護」という言葉が好きではない。人間が高みに立っている匂いがする。他の動物を支配し制御できるという前提があって「愛し護りましょう」と言っているような気がする。それじゃいけないんじゃないかと思う。というか、それは思い上がりじゃないかと思う。人間も動物も、その命の重さは平等だ。鋭い牙も爪もなく身を守る毛皮もなくした人間が、ただ一つ他の動物より優位に立てるものがあるとすれば、他の生きものの命を奪ったときに、たとえばそれが食糧になるのであればその恵みに感謝し、自分の身を守るためにやむを得なかった場合にはその死を悼む、そういう気持ちを持てること、それしかないと私は思う。あれは良寛さんだったか、自分の衣に住み着いている蚤を、昼間はひなたぼっこさせてやり、夜はまた衣に戻してやったという話がある。私はそこまで達観できていないから、蚊やゴキブリなどの害虫を見つけたら駆除する。しかしこの話を聞いてから、必ず謝って「南無阿弥陀仏」と唱えることにしている。

子孫を残す自由と権利を奪われた飼い猫たち。彼らの、未来に続くはずだった生命の連鎖を断ち切る決定をせざるを得なかった人間のひとりとして、心から謝りたいと思う。未来に産まれるはずだった子猫たち……、ごめんね。

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(備忘録080619)

こちらでは、降りそうで降らない蒸し暑い毎日が続いています。
こういう暑さは真夏の暑さよりもコタえます。
頭が働きません。きょうもお休みします。
コメントレスも明日にさせていただきます。すみません。
きょうはちょっと「デング熱」について調べていました。

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(備忘録080618)

●今後調べてみたいと思っていること。
・巨大地震と地球温暖化は関係あるのか?
・「引用」と「転載」の違いは? 
 著作権上ではどうなっているのか?
 引用元と典拠はどこまで明らかにする必要があるのか?

●きょうは念願のブツを手に入れた。おお~~(感涙)♪♪
読みふけっているので、記事はお休みします。m(_ _)m

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70000hit いつもお世話になっているトーレスさんのBJサイトが、過日めでたく7万ヒットを迎えられました。おめでとうございます~~♪♪ 記念イラストが持ち帰り自由となっていたので、ありがたく頂戴してきました。

(^m^)ぷぷぷ。 闇医者3人にカモにされている正義の白拍子先生がかわいそう。……なんてちっとも思っていませんが(笑)。空になった箱に焼き鳥カードまで入れて、大損害の模様です。レートはどれくらいなんでしょう。ま、白拍子先生ん家はお金持ちだから払えるんでしょうが。
ちなみにこのとき、あとの3人の手役は、ドクター・キリコが九連宝燈、琵琶丸が大三元、BJが清老頭と、オール役萬だそうです。恐ろしや~。白拍子先生は一向聴(イーシャンテン)どころか五向聴だとか。むかし、どんなに最初の配牌が悪くても五向聴だと聞いたことがありますが(ホントかウソか知りません)、だとすれば白センセはいったい何をやっていたのでしょうな(笑)?
上がる確率が一番高いのは9面待ちのキリコ。次に琵琶丸。BJ先生は残念ながら聴牌までしかいきません(キリコがマンズの九連宝燈をテンパっていれば、BJ先生は一萬か九萬の単騎待ちしかないはずなので)。でもBJ先生なら上がれないとわかっていても、迫力で白センセを押しまくるんでしょう(笑)。

トーレスさん、楽しいイラストを、どうもありがとうございます~♪ 恭しく飾らせていただきます。
m(_ _)m

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またか……

きょうはやっぱりこのニュースだろうなぁ……。連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤死刑囚(45)の死刑が17日、東京拘置所で執行された。衝撃的な事件だったが、あれから20年もたったのか。

とうとう最後まで被害者や遺族への謝罪がなかったという点に、またか、とやり切れない思いになる。本人には死刑制度や執行方法を批判する持論があって、「踏み板(床板)がはずれて下に落下している最中は、恐怖のどんぞこにおとしいれられるのである(人権の軽視になってしまいます)」とか「この国の現行の死刑執行方法だと、死刑確定囚の人は、刑執行時は恐怖とたたかわねばならず、反省のことなど考えなくなる」などと述べていたそうだ。彼にそんなことを言う権利は微塵もないと思うものの、自分が引き起こした事件についてまったく反省も後悔もしていないのに、「自信と責任を持って執行できるという人」(鳩山法相の談)に選ばれて死刑を執行されたことに関しては、それでいいのだろうかと疑問を感じないではいられない。

死刑というものが重罪人を社会から排除する目的を持つ目的刑であることはわかるのだが、社会あるいは第三者にとってはそれでよいとしても、被害者や遺族関係者の思いを考えると、果たしてそれが最善の方法なのかといつも思う。彼らが欲しいのは心からの謝罪の言葉なのではないのだろうか。また、4人の幼女の命と宮崎1人の命はどう考えても等価ではない。死刑が応報刑と言うのなら被害者1人の命を贖うために宮崎の命1つ、計4つの命が必要なはずで、そこに「極刑」と言われながらも死刑という刑罰の限界があるように思う。だからと言って、彼のような人間に他人の痛みを知らしめるためにどのような方法があるのかと問われると、その答は見つからないのだけれど……。

最後に、どの死刑囚の死刑を執行するかについて、何か基準があるのだろうか? この宮崎の事件が起こった当時にはオタクと呼ばれる人達が随分と肩身の狭い思いをしたと聞いているが、きょうの死刑執行について先日の秋葉原事件の影響はなかったのだろうか? 時期が時期だけにどうしても憶測をしてしまう。

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弁慶を切った男

BJ先生の何がスゴいと言って、外科手術しておきながら皮膚に毛ほどの痕も残さないというのは相当スゴい。馮二斉鍛えるところのメスの威力(真っ二つに両断された瓢箪がまたピタリとくっついて何事もなかったかのようにぶら下がるほどの切れ味を誇る)もあるのだろうが、それを操る手腕はやはり驚嘆に値する。そんな、まさに神技と言うべきメス捌きは「イレズミの男」や「助っ人」に描かれているが、きょうは「イレズミの男」について。

ヤクザの大親分・香取仙之助が腎臓ガンに冒された。しかし彼は手術を拒む。彼の全身にはそれは見事なイレズミがあったのだ。そのイレズミに傷をつけることは彼の誇りを傷つけることになる。ちょっとでも傷が残れば7千人の配下が黙っていない。どうするBJ?!

ここでちょっと注釈だが、「入れ墨(刺青)」とは主に江戸時代に前科者や無宿人の腕に筋目を入れたものを指し、いわゆるその道の人達が入れる倶利迦羅紋々や唐獅子牡丹などは「彫り物」と呼ぶことが多い。

ある男性から聞いた話……。銭湯だか温泉だかで、見事な彫り物をしたお兄さんと一緒になったそうだ。しげしげと眺めるわけにもいかず、でもどうしても目がそっちに行くのを止められずにいると、先方から「見ますか?」と言ってきた。「よろしいですか」「どうぞどうぞ」というような心温まるやりとりがあって、至近距離から拝ませてもらい、あまつさえ触らせてもらい「いやあ、見事なものですね」と言ったら、「お兄さんの胸毛のほうがすごい」と褒められたとかなんとか。確かに、彫り物が映えるのは体毛が薄くて色白で肌理の細かい人で、そういう人はかえって胸毛などに憧れるのかもしれないのだが。それにしても男湯で野郎2人何を触りっこしているのかと……(笑)。

つまり本人としては見事な彫り物は見てもらいたいものであるらしい。下書きとなる線彫りでさえ痛くて途中でやめる人も多いのに、全身に彫り物をするというのはそれだけ性根が座っていることの証拠となるのだ。生き様や覚悟を表すものでもあるだろう。だから任侠映画などではイザというときにバッと諸肌脱いで彫り物を見せる。それが広範囲で見事なものであればあるほど「オレはこれだけのものを背負って生きている男なんだゾ」という無言の威圧ともなるのだろう……きっと。ましてや、仙之助のように全身隈なく入れた彫り物は、これはもう芸術の域であって、彼が惜しむのもわかるのである。

2010985 仙之助の背中一面に彫られているのは歌舞伎十八番より『勧進帳』の場面。三代目歌川豊国の浮世絵である(図版典拠:『演劇博物館所蔵浮世絵閲覧システム』)。BJはこの弁慶の左腕のあたりから縦に「サクッ」とメスを入れている。ネタバレすると、BJは素早く正確に切ることによって傷痕を残さずに手術するのである。以下、BJ自身による解説。
「鋭利な刃物で皮フや筋肉のはしる方向にそって切れば ふさがれたキズ口はすっかりなくなってしまうものだ」。
いや理論上はそうかもしれないけれども、それを実際にやってのけてしまうBJ先生の手腕はやっぱり途方もなくスゴいものなんじゃなかろうか。彫り物も損なわず、仙之助のプライドも傷つけることなく、仙之助を助けたいと願う姐さんの思いにも応えられるのは、世界一の腕を持つ(←これは「過ぎさりし一瞬」の中で自分で言っている)BJ先生しかいなかったに違いない。先生の凄さを堪能できる一編である。

手術は成功し仙之助はいったん全快したが、2年前に他界し、その彫り物はなめし皮となり「R大学」の法医標本室に保存された。「R大学」とはどこだろう。『BLACK JACK ザ・コンプリート・ダイジェスト』には「手塚の母校、大阪市の中之島にあった大阪大学医学部旧校舎にはイレズミの標本があった」と指摘されている。ネットで調べてみると、大阪医科大学に明治の女賊・雷お新のイレズミが残されていたという記述を見つけたので、この大阪医科大学が旧制のことならばこの本の指摘とも符合する。手塚治虫はもしかしたら雷お新のなめし皮(金太郎、弁財天、北条時政、龍に雲、大蛇退治、波や緋桜)を見たことがあるのかもしれない。

また、『BJ』シリーズにはあと2つばかりイレズミ関係の話がある(他にもあったらゴメンナサイ)。「焼け焦げた人形」と「海は恋のかおり」である。前者では暴力団の父親が背中に般若のイレズミをしている(関係ないが、この話につけられた“A Father's  Gift”という英語タイトルが私はとても好きだ)。後者ではBJの恋のライバルとなる船乗りの少年がイレズミをしている。背中に天女と龍、腹にとぼけた顔した鯉、である。天女が如月先生、寄り添う龍がBJ、鯉が少年、という見立てをするのも面白いかもしれない。少年が難しい関門をくぐり抜けて大人の男になるというテーマのお話だから、鯉が龍になることを示唆している(「登龍門」という言葉もあるし)とも受け取れるのではないかと思ったり……。

ついでだから、イレズミ関連で思い出した話を書いておこう。

・TATTOO
先日のニュースで熱波に喘ぐアメリカ(ニューヨークだったかな?)の様子が紹介されていた。画面に映っていたのは肩も露わにした若い女性。そのうなじに「心」と一文字、イレズミされていた。それを見て思い出したのが、以前どこかで見た「台所」と彫られたイレズミ(笑)。アメリカ人男性だったと思う。たぶん「台風」と彫りたかったんじゃないかと思うのだが、まことに残念な結果に涙を禁じ得ない。

・ふてぇあま 腕に火葬が二つ三つ
たしか江戸時代の川柳(表記未確認スミマセン)。遊女が好きな男の名前を腕に「○○命」と入れる。それを焼き消した痕が二つ三つもあるという……(笑)。一度入れたら消えないのでわざと火傷させて皮膚を爛れさせるしかないのだが、「命」ごと消したのを「火葬」とは、上手いねどうも。

・『刺青殺人事件』
高木彬光の処女作である。東大医学部標本室に保存されている刺青の標本のうち「児雷也」にインスパイアされて書かれたとされている。ネタバレとなるので内容は紹介しないが、科学捜査が発展した現代では通用しないトリックではある。

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『古畑中学生』

録画しておいた『古畑中学生』を観た。いかにも中学生っぽい推理ごっこだったが、楽しかった。秘密基地みたいな「探偵事務所」とか、暗号解読とか、埋蔵金とか、黒マスクの怪人とか……。むかしホームズ、ルパン、少年探偵団をむさぼり読んだ世代にはたまらなく懐かしい世界だ。

ドラマでは、古畑がホームズ、向島君がワトソンという趣きだった。教頭先生はモリアーティ教授かと思わせておいて実は……。また『シャーロック・ホームズの帰還』『バスカビル家の犬』『赤毛連盟』『美しき自転車乗り』と、多くのホームズ作品が語られていたが、もしかしたら三谷幸喜はホームズファンなのかしらん? ならばルパンファンとして一言文句を言っておこう。古畑が「ルパンは推理物じゃない」とかなんとか言っていたが、短編には優れた推理物がいっぱいあるゾ! それに、少なくとも舗道をステッキで叩いて、その音から「この下には空洞がある」なんていうようなバカな推理はルパンはしない(笑)。

展開としては「一番怪しくない奴が犯人だ」の定石通りの解決となったが、住職の着脱可能な耳毛とか、温水洋一扮する自称作家に対する古畑の推理とかの枝葉末節部分が面白かった。シリーズ化されるという噂もあるが、どうなのだろう?

ああ、なんだかホームズの『最後の事件』が読みたくなってきたな。ホームズとモリアーティ教授の対決、そしてライヘンバッハの滝壷へ……。小学生の頃、ドキドキしながら読んだ。モリアーティ教授がとにかく怖かった。後に『羊たちの沈黙』を読んだときに、レクター博士の面影と重なった。モリアーティとレクター、この2人は似てるよね?

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偶然

14日午前8時43分ごろ岩手県内陸部を震源とする強い地震(M7.2)が発生。同県奥州市と宮城県栗原市で震度6強が観測された。ここによくおいでくださるkoshiさんはご無事だったようでホッとしたが、被災された方々には心よりお見舞いを申し上げます。

さて、地震の直後から拙ブログへのアクセス数が急増した。調べてみたら2006年10月30日の記事「『BJ』に描かれた時代 その2」にアクセスが集中している。記事中で「もらい水」について触れているのだが、なんと作中で起こった地震が「6月14日午前8時頃東北一帯にマグニチュード7.5の地震」だったのだ。あまりの符合に唖然とした。こんな偶然はあってほしくないなぁ。

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(備忘録080613)

夫宛てにタスポが届いた。こまわり君のような写真写りに大笑いしつつ、なんでいちいちこんなもんが要るんだ!とひとしきり愚痴を聞く。「こうやって少しずつ飼い慣らされていくんだ」は、けだし名言。

明日、義父が退院の運びとなった。さあ、これからが大変だ。

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プレカリアート

「饐えた匂い」のする小説を一つ選べと言われたら(誰も言わないだろうが)、小林多喜二の『蟹工船』を挙げる。この小説がこの平成の御世にバカ売れしていると聞いたのは1ヶ月ほど前だったろうか。先日書店へ行ったとき何気なくベストセラーのコーナーを見たら、3位にランクインしていた。

共産主義を啓蒙するプロレタリア文学としての『蟹工船』に注目が集ったわけではないようだ。小林多喜二を読んだから次はマルクスを読もう、という人はほとんどいないんじゃなかろうか。イデオロギーではなくて、そこに描かれた劣悪な労働条件下で働かされる労働者の姿が、ワーキングプア、格差社会と言われる労働環境に疲れた現代人の悲痛な共感を呼んだのだろうと思う。

現在、日本には400万人を超えるフリーターがいる。派遣や請負を含めた非正規雇用者は全労働者数の約3分の1だそうだ。また日雇い労働者を「プレカリアート」(「precario(不安定な)」と「プロレタリアート」を合わせた造語)と呼ぶこともあるそうだ。

さてこのブームは彼らに何か変化をもたらすだろうか。共感しただけで、不安と閉塞感を打ち破ることができるだろうか。『蟹工船』の労働者たちは団結して闘争したけれども、現代のプレカリアートたちはどうするだろう? そもそも彼らの敵はいったい「何」なのだろう? 「搾取する者」と「搾取される者」という単純な構図だった80年前より、社会ははるかに混沌としているような気がする。

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(備忘録080611 ココログが妙に重たい日)

先日「オタク」関連の記事を書いたが、その後コメントを下さったOSさんも同じ本を題材に記事を書かれ、またAさんGさんからも参考となるメールを頂き、そのことについてもうちょっと深く考えてみたい気持ちはヤマヤマあるものの、やっぱり今は秋葉原の無差別殺人事件のことが頭から離れず、しかしそれについていざ何かを書こうとしても何を書いてよいのか判らず、何を書いてもありきたりでしかも的外れなことになりそうで、且つ、ネットというものが深く関連していると思われるこのような事件についての記事をネット上に書くことの滑稽さにも思い至り、やはりここは何も書かないのが一番良いように思われ、ただ漫然とニュースを見たりネットの記事を読んだりしている。

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図書館という迷宮

『ふしぎな図書館』(村上春樹著 佐々木マキイラスト)読了。既に文庫化もされているが、大好きな作家さんの、それも図書館をテーマにしたものだったから、思い切ってハードカバーを買った。

このストーリーに意味を求めてはいけないんだろうな。はっきり言って、何が書かれているのかわからない。たぶんそれを考えるのが読者の役目であって、100人の読者がいれば100通りの解釈があるのだろう。そういう意味で、なんだかすごい本だ(笑)。

元図書館司書の目で読むと、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『バベルの図書館』をまず思い出した。同じ六角形をしたたくさんの閲覧室、すべて同じ体裁でページ数も字数も決められた膨大な図書。ここには宇宙の全てが詰まっている。過去も未来も、そして謎も……。

さらに思い出すのはウンベルト・エーコの『薔薇の名前』だ。知識が増えれば増えるほど謎が深まるという、身体が捩れそうな想いをする作品らしいが(注:非常に悔しいことに、私はこの本をまったくと言って良いほど理解できなかった。字面だけは最後まで追ったのだが。いつかリベンジしてやりたいと思う最有力候補作品である。ショーン・コネリーの映画は観た。何故か「イエスが持っていた財布はイエスの私有財産と言えるかどうか」という議題だけがやたらと印象に残っている)、これも図書館(=知)を題材にしたミステリだ。

ボルヘス、エーコ、村上春樹……、それぞれが知の迷宮に迷い込む楽しさを語ってくれている感じだ。果たしてそういう読み方が正しいのかどうか、わからないのだけれど。

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「時よ止まれ、汝は美しい」

6月9日。トイレに掛かっているカレンダーに「ロックの日」と書いてあった。国民挙げてロックを聴く日なのかと思ったら、ロックセキュリティのほうだった。それは……鍵のアリガタさに感謝する日ということなんだろうか? 気持ちが伝わってくれると嬉しいけど(笑)。いろんな語呂合わせができそうな日だが、手塚ファンにとってはなんといっても「ロック・ホームの日」でしょうね。

手塚作品では主役級の役をこなせるキャラとしてあちこちに顔を出している。詳しくはWikipediaの記述に譲るが、これだけ出ているにもかかわらず、しかし私の記憶では『バンパイヤ』と『火の鳥 未来編』と『アラバスター』の「シーーーーン」という場面くらいしか印象に残っていない(笑)。『ロック冒険記』も読んだはずなのだがサッパリ覚えていないし。器用貧乏で損をしたクチかもしれない。最初の頃は善玉少年スターだったが、『バンパイヤ』以降は一変。シェークスピアの「マクベス」から名前を取った間久部緑郎を名乗るようになってからは、可愛い顔して悪役に徹している。

さて『BJ』の中では、BJの同級生の親友で今や「暗黒街の皇太子」と言われている間久部緑郎としての印象が強い。あとはBQの旦那のロックあたりか。ふむ。親友同士でBQを取り合っていたことになるわけでBQが羨ましい限りだが、それは置いといて……。悪役でないのはこのロック(苗字は鈴木)と、「ナダレ」でノーベル賞を受賞した大江戸博士くらいなもので、残りは全て悪役としての出演ではないかと思う。ちなみに『BJ』という作品に一番最初に登場した人物は彼である。記念すべき第1話「医者はどこだ!」の1コマ目からアクド役で車を暴走させている。見るからに、こりゃあきっと天罰が当たるゾと思わせる放埓振りで、事実そのとおりになるのだが、短期連載の予定だった『BJ』の初っ端に出演を果たしていることから考えると、手塚治虫が大事にしていた思い入れの強いキャラだったのだろうと思う。

私が抱くロックの印象というのは、ナルシストでエゴイスト、である。ロックファンの皆様には大変申し訳ないが、それ以外言いようがない。いや多分ロックファンの方々はそういう彼の性格自体がお好きなのだと思うので、判っていただけると思うが……。過激で自信過剰で人を見下す「俺様」的ワルをやらせたら上手い。一言で言えば誇大妄想狂的なのである。良い男振りなのにそういうワルだというのがロックの最大の魅力なのだろう。だからこそ「地下水道」でのネズミに顔を齧られたロックの無惨さは強烈だった……。

ところで、このロックをも一つ妖しく冷酷にしたのが『MW』の結城美知夫ではないかと思う。同じくナルシストでエゴイストの路線だ。ただロックは女性にだけは優しいんじゃないかというイメージがあるが(『アラバスター』などではそうでもないが、『BJ』に出てくる彼を見るとなんとなくそんな気がする)、結城は自身が両性具有的なところがあるので、男女どっちにも非道が働ける。人の気持ちを弄んで喜んでいるところなどは、ロックよりも更に陰湿だ。ロックはその点「俺様」なので、たいして人の気持ちなど斟酌せず、後先考えずに自分のやりたいことを強引にやってしまうような単純なところがある。また、結城には破滅の道しか残されていないように思われるのに対し、ロックは何度でもワルとしてやり直し(?)がきくような気がする。ワルではあるが、それだけ人間味が残されている人物像として描かれているからなのだろう。ロックが自分がワルであることを誇りに思っている「悪の華」なら、結城は一片の良心をも持たない「悪の権化」だ。

ちなみに結城は自分の余命がいくばくも無いことを知っていて世界中を道連れにしようとするのだが、こういう思考回路を持つ犯罪者に、人はどのように対峙すればよいのだろう。恋人である賀来神父でも止められなかった。彼に必要だったのは神ではなくて悪魔だったから。う~ん、このあたりはモロに『ファウスト』なのだが……。もしも『MW』にBJ先生が出ていたら、「お前さんが死ぬのは勝手だが、人を巻き添えにするのはよせ」とかなんとか言いながら、奇跡のメスさばきで結城を救ってしまうかもしれないと思ったりする。なにしろどんな領域でも外科手術で治してしまう人だから(笑)。それにしても無差別殺人は怖いよね、ということで、ロックの話から完全にズレたところで強制終了(汗)。ロックにはあまり思い入れがないので、いつにも増して内容もなく散漫な文章スミマセン(滝汗)。

(タイトルは『ファウスト』から。これを言うとメフィストフェレスに魂を持って行かれる。しかしここではそんな深い意味はなくて、ナルシストのロックならウットリ鏡を見てこう言ってるんじゃないかと思ったので……(笑)。いや、でも、しかし、手塚作品を理解しようとすればゲーテの『ファウスト』はちゃんと読まねばならないと常々思ってはいるのだ。でも、あんまり面白くないんだなコレが……。)

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『赤と黒』に白黒を

きょうは秋葉原で通り魔事件が起こったそうだが、なんとも言葉が出てこない。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりだ。合掌。

閑話休題。

スタンダールの『赤と黒』の新訳を巡って「まるで誤訳博覧会」「些末な論争」と論争が起こっているようだ。『赤と黒』……ジュリアン・ソレル。のし上がろうとする青年の野望と、貴族階級の腐敗。最後は死刑になったのだっけ? 原作よりもジェラール・フィリップ主演の映画のほうが印象に残っている。

なにしろその誤訳だらけと言われる訳を原文と照らし合わせたわけではないので、その程度がどれほどのものかなんとも言いようもないのだが、翻訳によってその作品の印象がガラリと変わることはよくあることだ。たとえばモーリス・ルブランの『奇巌城(奇岩城)』。幼い頃に読んだ南洋一郎の訳に慣れていたら、後に堀口大學の訳を読んで驚愕した。話の筋もたしか違っていたし、なんだか格調の高さが違う(笑)。石川湧の叙情的な訳にはホロリとしたし、逢坂剛の冒険活劇的な歯切れのよさも捨てがたい。同じ話なのに訳者によってそれほど違うのだ。

だから『赤と黒』についても、「この訳はそういう論争があった訳」という位置付けで良いのではないかと思う。ただ、誤訳箇所として指摘されリストアップされた箇所だけが「改版」でなく「改刷」で訂正されているという事実はなんだかいただけない。出版社の編集長の妙に強気な談話はあるが、当の訳者の声が伝えられていないのもなんだかなァ……である。この訳で初めてスタンダールに接する読者だっているのだ。メンツの問題ではなくて、読者のためを考えて善処していただきたいと願う。

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『オタクはすでに死んでいる』

『オタクはすでに死んでいる』(岡田斗司夫著)読了。不肖わかばはオタクなのかどうなのか、これを読めば判るかなと思いながら読んだのだが、話がコアすぎるのか、門外漢の私には結局よく判らなかった(笑)。……ので、もう一度読むつもり(爆)。

おおまかな趣旨としては、岡田氏をはじめとするオタクと、いまどきのオタクとはちょっと違う、と。それは「第1世代-貴族主義的オタク」(←岡田氏はここに入る)、「第2世代-エリート主義的オタク」「第3世代-自分主義的オタク」という世代の違いである、と。

面白いなと思ったのは、本当の(と言うと語弊があるかもしれないが、少なくとも岡田氏の周りの)オタクたちは「萌え~」などとは決して言わないということだった。「萌え」はオタクの必須条件ではないということらしい。

ところが、「萌え」たのだから自分もオタクなんだと思う輩が大挙してオタクを自称し始めたもんだから、それまでの何となく世間とは隔てられていたオタクという共同幻想体はその存在意義をなくしてしまって、今や終焉を迎えているのだと、まあ乱暴に要約するとこんなところだろうか。

全体として、昔のオタクは頭が良かったのに今は……というような懐古的論調が目立つのは、岡田氏があまりにも裾野が広がりすぎて且つバベルの塔のようにオタク同士の話が通じず理解し合おうともしない今のオタク世界を、喜ぶべきものとしては思っていないからなのだろう(氏の著作を読むのは初めてなのでよくわからないけれども)。「一億総コドモ社会」とか「日本はロリコンの国」とか、否定的な記述が目立つ。でも多分、オタクを世間に認知させようとした氏の活発な働きかけなどもあって(なにしろ岡田氏はオタキングだったのだ)、この現状もあるのではないのかな? 美少女ロリコン路線がはびこってしまったのは氏の計算違いであったかもしれないけれども。

まあ何はともあれ、もう一度読まないことにはわかったようでわからないことが多すぎる。しかし「大人とコドモ」「世相の反映」などというキーワードを頭に置いて読むと、社会時評としても面白い。

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『怪盗グリフィン、絶体絶命』

『怪盗グリフィン、絶体絶命』(法月綸太郎著)読了。講談社ミステリーランドの中の1冊で、ジュヴナイルではあるが大人も充分楽しめる。新本格派ミステリ界で活躍している作家さんだから、「子供向け? 怪盗? 大丈夫か?」と心配しながら読み始めたが、杞憂に終わった。面白い。むかし怪盗ルパンの活躍に胸躍らしたように、いやもう一気に読んでしまった。

文体が翻訳物ふうなのにまず惹き込まれる。登場人物の会話もどこかバタ臭い。エラリー・クイーンがジュヴナイルを書いていてそれを法月さんが翻訳したのだと言われても、私なら一片の疑いも持たなかっただろう。舞台は現代アメリカ(およびカリブ海のボコノン島)で、グリフィンはニューヨーカーだから、古典的でロマンチックな怪盗ルパンというよりは、もうちょっと現代的でスピーディーな怪盗セイントに近い感じかな。それにプラス、ビジネスライクというようなドライな味付けもされているような気がする。

構成は大きく二つに分かれる。メトロポリタン美術館にあるゴッホの自画像の真贋を巡る一件と、ボコノン島の権力者が持つ人形を争奪する一件だ。ゴッホの件は一応伏線ということになるのだろうが、どっちが本物か、という謎が全編を通して横溢し、やがて最後に二つの事件が合わさって見事に一件落着となる。

終盤での人形を巡る心理戦は手に汗を握る。大統領と将軍が持つ人形は入れ替わっているのか、それとも……? 人形にかけられた呪いは本当に効くのか、それともただのまやかしか……? 派手な立ち回りは少ないが、権力者の思惑と土着の信仰がうまく融合されて非常にスリリングで先が読めない展開となっている。どんでん返しに次ぐどんでん返し。このあたりは法月さんの面目躍如という趣きで非常に面白かった。

「あるべきものを、あるべき場所に」という信条と、「怪盗グリフィンに不可能はない」という絶対の自信を持つ怪盗グリフィン。続いての活躍を読みたいところだが、なにしろ遅筆で知られた作家さんだからなぁ……。

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(備忘録080605)

きょうは、あっちもこっちもいろいろ大変でくたびれました。
おとなしく寝ます。おやすみなさい。m(_ _)m

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『ホムペ秘話バトン』

いつもお世話になっている神無月さんから上記のバトンを頂戴しました。ありがとうございます~♪ うちはHPじゃなくてブログなのでバトンの趣旨から外れておりますが、以下「HP」を「ブログ」に読み替えていただければ幸い。では早速答えてみます。

◆あなたがこのHPを作ろうと思ったきっかけは?

ボケ防止のため(笑)。あわよくば文章が上手くなるかもしれないという期待も込めて。あと、思ったことを気兼ねなく思いっきり書ける場所が欲しかったから。「おぼしきこと言わぬは腹ふくるるわざなれば」……。
最初の頃は、こんな自分にしか意味のないごく個人的なものをネット上に公開する必要があるのかということをつらつら考えたりしていましたが、日常生活とは違う形で他人様とのコミットメントとデタッチメントが図れるこの媒体は、自分が吐き出す駄文の置き場所としてはちょうど手頃だったと、今では思っています。

◆何個HPを運営している?

更新しているのはここだけですが、以前のブログもそのまま残しています。

◆今のHPはどこの会社で作っていますか?

ココログ。

◆この機能便利!この機能不満!

ん~~、よくわかりません(汗)。文章さえ書ければ良いので。

◆HPづくりでどこが一番苦労した?

ん~~、あんまり苦労していません(汗)。難しそうな機能は使っていませんし、ブログはHPを作るよりははるかに簡単にできますから。

◆逆に作ってて楽しかった事ある?

テンプレートを選ぶこと、かな?

◆では今のHPに落ち着くまでの経緯を分かる範囲で。

最初はMSNを利用していましたが、私のPCで管理するにはあまりに重くなったのでココログに替えました。

◆特に自慢したい事は?

あるわけないです(キッパリ)! 時々皆様から美麗イラストを頂くのでそれだけは是非ご覧いただきたいと思いますが、これは私が自慢することじゃないですね、ハイ。

◆HPを運営していて嫌だった事、嬉しかった事を教えて?

嫌だったこと……スパムです。削除するのが面倒くさいというのもありますが、なんかあの見境の無い破廉恥さが生理的に嫌です。
嬉しかったこと……まずは読んでくださる方があるということが何より嬉しいことであり、且つ意外でもあります。基本的に「ひっそり、こっそり」が信条なので、こちらからはどなた様ともリンクもしていないし、そもそもあんまり人に読まれることを意識せずに自分の考えをまとめるためだけに書いているのに、それでも定期的に読んでくださる方があって、その上コメントを頂けることもあるなんて望外の喜びです。今この文章を読んでくださっている貴方様に心からの感謝を! m(_ _)m   

◆この人のホムペ秘話を聞きたいと思う人5人に回してください。

すみません。ここに置かせていただきます。興味のある方はどうぞ持って行ってくださいまし。

以上です。
わぁ、全然面白みの無い回答になってしまってすみません。『秘話』なんか一つもないです(汗)。
神無月さん、バトンパスありがとうございました~♪

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(備忘録080603)

実家の母宛てに「ねんきん特別便」が先月届いたが、記入されている内容が正しいのかどうか誰もわからない。どうも婦人警官時代の記録が抜けているようなのだが、母と一緒に働いていたはずの方に電話で問い合わせても、はっきりした年月までは覚えていないとのこと。ただ、その頃に国家警察から地方警察に機構そのものが変わったので、たしかそのときに一時金という形で既に受け取っているはずだというお話を伺うことができた。そういう歴史的事実を知ることができたのは嬉しかったが、それにしても、やれやれ、こんな形で今さら母の若い頃の足跡を辿らなくてはならなくなるとは……。

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♪大好きな雨なのに何故かきょうは冷たくて♪

BJ先生は傘を持っているのだろうか。シリーズ中、彼が傘を差している姿が描かれているのは「めぐり会い」での回想シーン1コマだけのように思う(他にあったら是非ご教示ください!)。アニメ『BJ21』ではたしかアフリカへ行ったときに差していたと記憶しているが、原作ではとんと見覚えがない。

原作に雨や雪のシーンが無いわけではない。「海のストレンジャー」や「未知への挑戦」では車を降りてから建物に入るまでにずぶ濡れになっているし、「山小屋の一夜」では篠つく雨の中を妊婦さんを抱えて山小屋まで登っているし、「老人と木」ではピノコと共に雨に濡れているし、「デカの心臓」では雨の中デカと立ち話をしているし、「デベソの達」では土砂降りの中を達を探しに行くし、「白い正義」では雪が降る中で白拍子先生と立ち話をしているし、「身代わり」でスージーと話をする場面も雪だ。この他にも、まぁこの状況では傘を差すのは無理だというような話はあるのだが、少なくともここに挙げたシーンでは普通の人なら傘を(持っていれば)差す。しかし彼は差さない。

よって、私はBJ先生は傘を持っていないと推測する。患者が危急の場面で雨なんかに構っていられないからとか、移動するのに身軽なほうがよいからとか、あるいは、降らば降れロンリー・ウルフは雨を避けたりしないのサ、というような人物設定の都合上、等々の理由があるのかもしれない。しかし、往診を頼んだ医者が濡れ鼠でやってきたらその家の者は困るだろうなぁ(笑)。玄関から座敷まで拭き掃除をせねばならぬ。てるてる坊主を18個も持ち歩く余裕があるくせに、何故折り畳み傘の1本が持てないのかが不思議だ。きょうはそのあたりのことをグダグダと語ってみる。

さて、先生が唯一傘を差しているシーンのある「めぐり会い」に話を戻そう。この話で、黒男先生は如月めぐみ先生のために傘を買っているようだ。以下、めぐみさんの回想。
「医局でよく夜まで仕事をして 雨のために帰れなくなったとき……おかしなことにいつも 医局のどこかでカサが見つかるのです。やがて妹(注:めぐみさんのこと)にはその主がわかりました。あのかた(注:黒男先生のこと)が 雨になると自分の家からわざわざカサをとどけて そっとおいておくのでした。妹がお礼をいって いっしょに帰りましょうというと ムッとしたようにこれから残業だといって 部屋へはいってしまいました」「そのつど妹は夜道をひとりで帰るのですが じつは百メートルほどはなれて あのかたはいつも妹の身を守るように歩いていたようです」

この述懐を読むと、めぐみさんも結構天然だなと思う。そもそも医局に1本置き傘をしておけばよかったろうに。「いつも」「どこかで」見つかる傘。「いつも」というからには一度や二度のことではなかろう。「やがて」その主がわかるまでにどれくらい時間がかかったのだろう。その間、めぐみさんはその傘をどうしていたのか。翌日にめぐみさんが傘を元あった場所に返しておくと、黒男先生がこっそり回収していたと考えるのが普通だろう。雨が降るたびに1本の傘が2人の間を行ったり来たりすることになるわけだが、しかしそれなら黒男先生はその傘を「自分の家」に持ち帰る必要はないのであって、次の機会まで医局の自分のロッカーあたりに隠しておけばよいはずなのである。

ところが「自分の家からわざわざカサをとどけて」という一文がある。この一文に合致する状況とはいかなるものか。夜になって雨が降ってくる → めぐみさんが帰れなくなる → 黒男いったん自分の家に帰る → めぐみさん用の傘(A)を持って再び医局へ行く → 「どこか」に置く → めぐみさんが見つける → 借りる → めぐみさん「夜道をひとりで帰る」 → じつは黒男が百メートル後方を歩いている → めぐみさん無事帰宅 → 黒男安心してそのまま自宅へ帰る(だろう) → 翌日めぐみさん傘(A)を自宅に置きっぱなしで出勤 → 黒男仕事を抜けて傘(B)を買いに行き自宅に置きに帰る → 黒男一応仕事に戻る → 夜になって雨が降ってくる → めぐみさんがまた帰れなくなる → 黒男仕事なんかおっぽり出していったん自分の家に帰る → めぐみさん用の傘(B)を持って再び医局へ行く → 「どこか」に置く → めぐみさんが見つける……以下、傘がアルファベット降順に変化して無限ループ。

どうもこういう状況しか考えられないのだが、そうするとめぐみさんの自宅にはどんどん傘が増えていく計算になる。片や黒男先生はしょっちゅう傘を補充しておかなくてはならないわけで、きっと最寄りの傘屋では「またあの男が女物の傘を買いにきた」と噂されていたに違いない(笑)。めぐみさんが借りた傘はそのデザインや大きさから間違いなく女物と思われるのだ。しかしこうして見ると、黒男先生はめぐみさんが傘を持って来ているかどうか、今夜雨が降るかどうかが毎日の最大の関心事だったようだ。医局と自宅と傘屋を行ったり来たりするのに大忙しで、仕事どころではなかっただろう。そして、自宅に傘を溜め込んでいるくせにしょっちゅう持っていくのを忘れるめぐみさんは、どう見てもおっちょこちょいだ。あるいは忘れた振りをして今度こそ犯人(?)を突き止めようとしていたのかも?

まぁ傘は1本でも複数本でもよいのだが(笑)、黒男先生にとって夜の雨は嬉しいものだったに違いない。むしろ待ち望んでいたかもしれない。雨の夜に限らず彼はいつもめぐみさんの後をついて帰っていたのだが、雨が降れば彼女は自分が買った傘を差してくれる。もうそれだけで献身と独占のヨロコビを味わっていたんじゃないかと思う。手っ取り早く自分の傘で相合傘……という発想にならないところが、黒男先生のウブで奥手で不器用なところだ。しかし、雨に煙る夜の街路には他の人影もなく、めぐみさんと自分の間を遮るものは何もない。実際は 100mも離れて別々の傘の中にいるけれども、その状況は黒男先生の気持ちの中では立派な相合傘だったに違いない。……ああもう、じれったいやら可愛いやら。くぅ~。o(>_<)o ぷるぷる

ところでこの「傘」というアイテムなのだが、深層心理学では先端が尖ったものの範疇に入り「男性生殖器」の象徴とされているようだ。また夢占い等では「外部の圧力などから、精神的や肉体的に守ってくれるものの象徴」となっている。「男としてあなたを守りたい」という黒男先生の純愛を如実に表す小道具と見ることができそうだ。

さてそこで……。医局員時代(私の計算では26歳当時)には雨が降ればちゃんと人並みに傘を差していた黒男先生が、どうしてその後はずぶ濡れになるぶんでも傘を差すことをやめてしまったのか。そこには何か理由があるはずだ。医局員時代に既に一生分の傘を買ったからもういい……じゃなくて! 彼にとって傘はめぐみさんとの思い出と切り離しては考えられないものなのではなかろうか。彼の意識の中で傘というのは、雨風を防ぐためのものではなくて、めぐみさんへの想いを託すものという認識になっているのではないかしらん? あの雨の夜の思い出を、めぐみさんを独り占めしていたと思えたあの嬉しさを、彼は永遠に「傘」に封印しているのだと考えるのは夢見すぎだろうか? 自分で書いていて照れるナ……(笑)//// 

これは牽強付会の謗りも免れないところだと思うけれども、その後の2人に訪れたあまりにも過酷な運命を考え合わせてみても、この傘のエピソードがBJに何らかの影響を及ぼさなかったとは私には思えないのである。BJは、傘と共に、めぐみさんとの思い出の日々と訣別しようとしたのじゃなかろうか。だから、めぐみさんを忘れられない限り、BJはこのさき一生傘を買うことはないし差すこともないのだろう。逆に言えば、BJが雨に濡れ続けている間は、めぐみさんのことを忘れていないという証になると思う。

ところで、「落としもの」「カプセルをはく男」の扉絵には、BJが横を歩くピノコの上にコートを羽根のように広げて雨を防いでやっている後ろ姿が描かれている。なかなか良いシーンである。夢占いでは「コート」は「自己防衛の表れ」とか。その自分のコートの中にピノコを入れてやる行動からは、ピノコがBJの「自己」と同化するくらい近い存在(文字通り「身内」)になっていることが窺えるのではないかと思う。めぐみさんへの「傘」と比較すると、その相違が興味深い。でもいつも一緒に行動するわけじゃないんだから、ピノコにはちゃんと傘を買ってあげようね、先生。

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『うちのパパが言うことには』

『うちのパパが言うことには』(重松清著)読了。角川文庫版の表紙に使われているのは幼い頃の著者が父親と共に写っているモノクロ写真である。2人が取っているのは当時大流行した『おそ松くん』からイヤミ氏の「シェー」のポーズだ。裏表紙にはこうある。「高度成長期に産湯を使った。テレビのヒーローに正義と勇気を教わった。アポロと万博が見せてくれた明るい未来を信じていても、水爆とノストラダムスの大予言はやっぱり怖かった。そんな1970年代型少年は、やがて夫になり、父親になって、不惑を超えた。たとえヒーローにはなれずじまいでも、生きていくのはあんがい悪くない――。著者自らの歩みをたどりつつ、「いま」と「あの頃」を見つめて綴った、珠玉のエッセイ集。 」

著者は1963年3月生まれというから、私より3つ年下に当たる。著者には記憶がないという『鉄腕アトム』を私は覚えている、という程度の時間差はあるが、ほぼ同じ時間を生きてきた人間として、この本に書かれていることは皆懐かしい。そしてもっとも共感できたのは次の部分だった。

「ノストラダムスの大予言が唱えた地球滅亡の一九九九年七月まで、あと何年。
 二十一世紀まで、あと何年。
 (中略)
 『宇宙戦艦ヤマト』の各回の終わりに掲げられる「地球滅亡まであと○○日」のフレーズが好きで好きでたまらなかった。
 (中略)
 カウントダウンのタネがなくなってから、初めて気づいた。ハッピーエンドかどうかはともかくとしても、「終わり」が見えている状態というのは、あんがい楽だったんじゃないか。
 二十一世紀になって、子どもの頃に思い描いていたのよりずっとガキっぽい四十歳になろうとしているいま、目の前に茫洋と広がる「終わりまでの日々」の果てしなさに、ぼくはいささか困惑しているのだ。」
               --これでいいのだ より--

私が40歳を迎えたときに感じていたのがまさにコレだった。私の場合はそれがちょうどミレニアムとも重なっていたものだから、これが最後のクッキリとした境目! という意識がとても強かった。いったい自分はこれまでに何をやってきたのか(何もできていない)というような、はっきりとした正体はわからないけれどももはや取り返しだけはつかないというような焦りを感じていた。あとはもう自分が終わるまでのカウントダウンしか残されていないではないかと思った。重松氏の「いささか困惑」というのよりは、人間の出来が悪い分だけ「切実な困惑」だったと思う。以降、実際に、何となくどこかでブレーキがかかったようなメリハリのない生活で馬齢だけを重ねている感じだ。

重松氏は「かつてジャイアンだった奴」を登場させ、「元ガキ大将が最後の最後で一発逆転してオレたちの世界をもう一度つくりあげる」小説を書いてみたいそうだ。子ども時代の私はジャイアンではなくてのび太だったけれど、明るい未来を信じていたあの頃を思い出せるなら、その小説、是非とも読んでみたいと思う。まだ間に合う、と思いたい。「何に」間に合うのかは自分でもわからないけれども。このエッセイの最後の文章はこうだ。

「<何がほしいんだ>――その答えは、いまもまだ、わからない。」

昭和30年代後半に生まれた方には、おすすめの1冊。

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