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2008年7月

『ノルウェイの森』

竹島の帰属問題……については、もう何も言うまい。福田さんは反応がない。ただの○のようだ。

今朝の朝日新聞で読んだのだが、村上春樹の『ノルウェイの森』が映画化されるらしい。へえ、村上春樹がよく承知したな、というのが正直な感想なのだが……。

この小説は1987年の発売当時に一度だけ読んだけれど、一言で言えば衝撃的だった。筋だけ追っていけば陳腐極まりない(失礼)恋愛小説だ。でも、何と言うか、その、底知れぬ喪失感、透明な哀しさに、ただ泣けた。人が死ぬのが悲しいのじゃなくて、生きていくことの哀しさ、だったと思う。思う、としか書けないのは、実はその後二度と手に取っていないからである。もうあの衝撃は一遍でたくさんだと思うからである。それくらい私にとっては忘れ得ぬ作品だ。

しかし読後感は決して苦くない。苦くはないが、何も考えられなくなる。まぁ、読んだ年齢にも関係するのかもしれない。20代後半の、実生活でも何やかやとあった頃だったから、余計リアルに感じたのかもしれない。いま読んだら、と思わないでもない。でもまだ読めないな、きっと。

ごっちゃごちゃの本棚の中でも、この本の在り処だけは判っている。あの金色の帯に巻かれた赤一色と緑一色の上下巻。心臓と子宮に打ち込まれる赤と緑の楔……。そんな印象の本だ。

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きょうのニュースより

9時からNHKのニュースをぼんやり観ていた。トップニュースはイチローの日米通算3000本安打達成。文句なしにおめでとう! それから内閣改造。福田首相は「けじめをつける」と言っていたが、今頃いったい何のけじめだろう? 何もしなかったことに対するけじめだろうか。それなら納得。

そして次がワーキングプアの話題。ネットカフェに寝泊りする37歳の男性が「明日の仕事があるかどうかが不安だ」と。「専門業務を除いて日雇い派遣は原則禁止」案が打ち出されるようだが、今の日本が、職を求める全ての人が常用雇用になるような景気とも思われず、いったいどうなるんだろうと思う。

かと思うと、次の話題がペットのメタボ問題だと! 運動不足で太った犬に、やれ野菜だの鰻だのをエサとして「あげる」のだそうだ。そのための料理教室まで開かれているとは呆れた。さっきのネットカフェ難民の男性は尾羽打ち枯らした風情だったのに、こっちの犬はぶっくぶく。

このままでいいのか、日本。

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(備忘録080729)

あれ?
ここのところ不調だったアゴン(私のPCのニックネーム。ちなみに一つ前のはバビラン。判る人だけ判ってね)が、何故だかきょうは絶好調。ウイルススキャンもすいすい進む。
何も特別なことなんかしなかったのに調子悪くなって、治そうとしたら何もしないうちに治るって、どゆこと???
アゴンちゃん、夏バテだったのかな。しばらく様子を見てみるか……。

きょうはヘッセの『シッダールタ』を読んでいたら夫が「それ、ワシの?」。あ~持ってたのか。またダブって買ってしまったようだ。たまにこういうことがある。高木彬光の『成吉思汗の秘密』なんて3冊くらいある、はずだ。本棚の整理もしなくちゃなぁ。

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Kuroo Hazama

ブラック・ジャック先生の本名が「間黒男」だというのは周知の事実だが、これが明らかになったのは実にシリーズ全243話中第232話目の「虚像」においてである。第68話の「えらばれたマスク」で「黒男」という名前だけは明かされていたが、名字の方は5年半もの長きに亘ってずーーーーっと不明だったのである。主役なのにねぇ。

以前にBJのことを人はどう呼んでいるかを調べたことがあって、せめて如月先生くらいは「間先生」と呼んでほしいと思ったものだが、こりゃあめぐみさんの所為じゃない。呼びようがなかったわけだ。アッチョンブリケ。ちゃんと調べようよ自分。だから発表順の単行本が欲しいとあれほど……(愚痴愚痴)。

『BLACK JACK Treasure Book』に「虚像」の創作過程(コピー)が載っている。小学校の同窓会でBJが自己紹介をするシーンではまだ単に「黒男です」となっている。しかしこのセリフの上部にちょっと空白がある。「  黒男です」という感じ。名字は後でゆっくり考えよう、ということだったのだろう。現在われわれが読むことのできる完成稿は「間黒男です」だ。このコピーが取られたほんのわずか後に手塚治虫が「間(はざま)」という名字を付けたのだと思うと、なんだか感慨深い。そういうタイミングで取られたこのコピーはまさに「お宝」である。

「まっくろおとこ」のシャレから命名されたのだろうと思っていたが、もしかしたら「  黒男です」の空白部分を見ながら(名字をどうしよう、この空白をどうしよう、この隙間をどうしよう、この間を……、間……、『間』で良いじゃん!)となったのかもしれない(笑)。

恩師が「本間丈太郎」、親友が「間久部緑郎」。第227話「刻印」で間久部は「黒男 おまえはきっと医者になるだろうね それも 世界一悪い医者に…… 技術は本間先生ゆずり 性格はぼくゆずりでね」と言っているが、「間」の字もちゃんと二人から譲り受けているのも興味深い。BJの立ち位置はまさに正邪の「間」かもしれない。

「間」という姓で思い出す有名人と言えば、『金色夜叉』の間貫一がいる。許婚のお宮が金持ちと結婚してしまったために彼女を蹴り飛ばして高利貸しとなる。金の亡者というところでBJ先生と共通点があるかも。あと、思い付くのは間寛平氏。好きな芸人さんだけれども……別に共通点を考えたくはない。

「Hazama」という音の響きは何となくカッコいい。音韻学には詳しくないが、全部「あ」段でキレが良い中に「ざ」というちょっと尖った一音が入っているからだと思う。矢沢永吉や(鈴木)イチローなんかもそう。「ザ行」の音が入ると締まった感じになる……ような気がする。

いやもうすっかり名字の話になってしまったが、本当は、第229話「人生という名のSL」で一応の『BJ』定期連載が終わってから後の不定期掲載13話にはBJのプライベートな心の軌跡を描いた作品が多いということを書こうと思っていたのだ。初めて名字が判ったり小学校時代の様子が描かれたり、父や義妹の死が描かれたり(「骨肉」)、幻の名医を求めて旅をする姿が描かれたり(「過ぎさりし一瞬」)、学生時代の友が描かれたり(「笑い上戸」)と、それまで主役ではあるが狂言回し的役割でもあったBJの素性が段々と明かされていく。BJを仇と勘違いする患者を描いた「復しゅうこそわが命」は、BJ自身の復讐譚の一応の結末と見てもよいのかもしれない。

最後の13話は、まさにカーテンコールだったのだと思う。

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2008summer さて、今年もトーレスさんの暑中見舞いをかっぱらって来ました。
上の文章などすっかり忘れて楽しんでください。
いつも黒尽くめの黒医者2匹が、明るく爽やかに夏のバカンス! きゃっほー♪ 
2人ともなんて良いガタイをしてるんだ!(そこか)皆様も是非目の保養を。
トーレスさま、いつもいつもありがとうございます。
ここに恭しく飾らせていただきます。m(_ _)m

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(備忘録080727)

いや、VBを再インストールしようと思ってはいたのだ。

メールで教えてもらった手順が私にはとても煩雑に思われたので、まずはそれをプリントアウトしようとした。そしたら、プリンタのインクが切れていたのだ。この殺人的な暑さの中をインクを買いに行く元気はない(朝のうちは雷雨だったが、それが一層蒸し暑さに拍車をかけて……)。夕方行くことに決めて、何回も洗濯機を回しながら冷やっこい廊下に座って昨日買って来た本など読む。そしていざ出ようかなと思っていたところへ、グループホームから電話があって「お母さんの帰宅願望が強くなっています」と。行かずばなるまいよ。で、9時まで帰れなかったのだ。

これからやる元気もないしな~。明日は忙しいしな~……ということで、延び延びになりそうな予感。

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(備忘録080726)

ウイ○スバ○ターから返信があり、やはり再インストールした方が良いとのこと。明日やってみよう。おそらく明日の記事はお休みします。m(_ _)m

【本日のお買い物】
 図らずも、仏教関係3冊。特に下2冊はチベット仏教だ。行ってみたいけど、絶対高山病になりそうで行かれない、憧れのチベット。

・『シッダールタ』(ヘルマン・ヘッセ著)
  これは以前から読まねばと思っていた本。
・『聖玻璃の山 「般若心経」を旅する』(夢枕獏著)
  帯に「写真と戯曲で迫った「般若心経」への新たなるアプローチ」とある。ヒマラヤの山々の写真が素晴らしい。
・『チベット』(多田等観著)
  岩波新書の記念復刊。初版は1942年だ。ラサで10年の修行をした間の滞在記らしい。旧仮名遣いだし漢字は難しいし……。でも面白そう。

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魔法のランプ

PC不調の原因はウイ○スバ○ターだと思うので、サポセンに問い合わせた。返事待ち。(あ、ウイルスの所為ではなく、こちらのシステムとの不具合ですので念のため。)
あ~、きょうはなんとか書き込めそうだ。昨日は初めて携帯から投稿してみたが、無事に反映されていたので一安心。

さて、日本の夏の風物詩『ルパン三世 テレビSP』。今年は「Sweet Lost Night ~魔法のランプは悪夢の予感~」だったかな(長いよ!)。ところが見始めた途端に電話は掛かるわ、風呂上りの夫が「暑い暑い」と騒ぐわで、前半の筋がイマイチよくわからなかった。どうやら奪われた記憶を取り戻すための大騒動らしかったが、私は最後のあたりではイカロス島から脱出するBJとキリコを思い出していた。研究施設(じゃなくて牢獄だったか)が滅茶苦茶になるところとか。色合いや雰囲気は全然違うんだけれども。いつの間にかそこにキリコがいて、撃たれて崖から落ちるんじゃないかとか、本当に余計な心配までした(大バカ)。

今年は結構アクションが多かったんじゃないかな。銭形のとっつぁんが使い物にならない分、ルパンファミリーが頑張っていた感じ。近年に無く、なかなかルパンがカッコ良かったと思う。栗田さんも無理なく声を当てていた印象。不二子ちゃんは相変わらずあっちに寝返りこっちに寝返り(笑)、それでこそ不二子ちゃんだ。でもどうして不二子はあのランプを欲しがったんだろう? ワタクシ肝心なところを見逃したかも……_| ̄|○ あ、今年はサービスショットも盛り沢山でしたな。ゴエちゃん、わざと服だけ斬ったのかしらん? 次元のカッコ良さは変わらず。ピストル型ライターの炎が大きすぎて帽子の鍔を焦がしそうになっていたのがツボ(細かい?)。しかしこれもどうして右腕を負傷していたのかわからず……_| ̄|○

しかしまあ、なんだよ。この時間帯、最近アニメばっかりやってないかい?

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携帯より

パソコン絶不調のため、しばらくの間お休みするかもしれません。クスン。

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QUEEN

無性に QUEEN が聴きたくなって“QUEEN Greatest Hits”を買ってきた。直輸入盤なので歌詞カードなんざ付いていないが、“Bohemian Rhapsody”から“We Are The Champions”まで全17曲、フンフンと鼻歌で歌えるのが嬉しい。熱狂的なファンというわけではなかったから、シングル1枚持っているわけではない。それでもラジオからしょっちゅう流れていたから自然に覚えている。ただ“We Will Rock You”を聴いていると、なんとなく「3」でバカにならなくちゃいけないような気がしてくる(笑)。同様に、The Knack の“My Sharona”を聴くと「はぁ~い、準備は良い?」という幻聴が……。

高校の2年生くらいだったかな。渋谷陽一が来るというので話を聴きに行ったら、そこで上映されたのが QUEEN のプロモーションビデオだった(曲名は忘れた)。毎月『MUSIC LIFE』や『音楽専科』や『Rockin' On』を買ってはいたものの、外国のアーティストの動いている姿なんてそれまで見たことがなかった。田舎の高校生なんてそんなもんだったサ。

今、その QUEEN を聴きながら書いている。“KILLER QUEEN”を聴いていたら、日本史の参考書の表紙をありありと思い出した(笑)。……ああ、あの頃は楽しかったな。戻りたいとは思わないけれど。

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夫婦愛に感動

昨夜は「女たちの中国」を観た。満映のスター李香蘭こと山口淑子、男装の麗人・川島芳子、日中ハーフの美人スパイ・鄭蘋如(テンピンルー)、愛新覚羅溥傑と政略結婚した愛新覚羅浩の4人が紹介されていた。敵対する日中の間で、両国をともに愛しながら時代の流れに翻弄された女性達だ。

思うところもいろいろあったけれども、救われたのは最後に紹介された溥傑と浩のご夫婦。日本から政略結婚で嫁いで来た浩さんは、ラストエンペラー溥儀からは日本のスパイだと思われたらしい。しかし溥傑と浩さんは人間同士として愛し合い、過酷な運命を乗り越え、生涯を添い遂げる。腕を組んでゆっくりゆっくり歩く晩年のお二人の映像。先立っていった浩さんの遺体にとりすがって「浩さん、浩さん」と泣く溥傑の姿。深い深い夫婦の絆が胸に沁みた。

国家の思惑だの謀略だの戦争だの……、クソ食らえ、だ。

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悩める子ども達

なんだか閉塞感の漂う殺伐とした世の中になってきたような気がする今日この頃。親への反発から親を殺したり、親を困らせてやろうと行きずりの人を殺したりバスジャックしたりする少年のニュースにも、さほど驚かなくなってきた。家庭は生きる基盤だろうに……。

そんな子ども達を不器用だなぁと思わないでもない。もっと上手く発散できなかったものかと思う。親の言うことなんていつの時代でもそんなに変わらない。そんな親に子が反発を覚えるのも当たり前のこと。三島由紀夫には反抗期が無かったらしいが、あんな天才は別格として、たいていの人間には親と衝突して反抗する時期がある。で、昔の少年は家出をすることが多かったように思う。地方から都会に出て警察に保護されたなどと、昔はよくニュースになっていたように記憶している。あるいはもっと手軽にグレて俄か不良少年になったりしていた。タバコを吸ったりお酒を飲んだり、親達には評判の悪い子と付き合ってみたり、夜遅くまでほっつき歩いてみたり(夜遊びをするかしないかは不良化の一つのバロメーターだった。今は小学生でも夜に出歩いているようで、親は何をしているのかと思うのだが)。たいていそのうちバカバカしくなって家に帰って親にこっ酷く叱られてオシマイ。他人に迷惑をかけない程度に不良化することは、それ以上悪いことをしないための安全弁だったのかもしれないと思う。自分なりのカタルシスを得られればそれで満足するのだ。

今は簡単にグレることもできないのか……。昔は、少なくとも親を殺すような真似だけはしなかったんだがなぁ。気持ちがわからんよ……。

さて、『BJ』語り。『BJ』にも不良少年が描かれることは多い。「ミユキとベン」のベン、「赤ちゃんのバラード」のマギー、「帰ってきたあいつ」のジョーズ、「二人三脚」の昭吾、そしてそもそもBJにしてからが、授業にも出ないで先生をダーツの的にするような不良少年だった。ベンは何が原因でグレたかわからないが(「政治が悪い」と言っている・笑)、マギーは自分を構ってくれない両親への反抗や寂しさからグレたようだ。ジョーズにはどうやら金持ちの親がいるが威厳がない。誰も止めないまま何でも好き勝手しているうちにグレたのではなかろうか。昭吾の家庭が一番まともで普通だ。頑固オヤジと反抗期の息子という一般的な構図で、尊敬できない(と思っている)オヤジへの反感からグレたらしい。黒男の場合はちょっと特別で、そもそも反抗すべき親がいない。いや、どこかで生きているはずの父親に対する恨みと反感はあっただろうが、それよりも復讐を遂げねばならないという思いと思春期のペシミズムが相俟って虚無的にグレたのだろうと思う。

それぞれ環境は違うのだが、決して救いようがないような悪い子達ではない。仲間の手前、父親を殺さなくてはならないハメになった昭吾も、最後の瞬間には父を救うために命を張る。大切なものを見失ってはいないのだ。ベンもマギーもジョーズも「愛したい」「愛されたい」という思いを持て余し、どうしてよいかわからずに無軌道に問題行動を起こしているだけだ。

このような不良少年に対して、BJは非常に物分りが良い。やっぱり自身がそうだったからか、とても親身になって世話を焼いたり助言を与えたり叱ったりしている。「ミユキとベン」でベンが死の間際に「おれァ 役に立たねェだめな男だ 人間のクズさ」と自嘲したのに対し、「そうでもないぞ おまえは役に立つ!」と言ってやっている。この後ベンの臓器をミユキに移植することになるので文字通り「役に立つ」わけだが、このBJの言葉がもし聞こえていたとすれば、ベンは自分の価値を人から認められた喜びを胸に天国へ旅立ったことだろう。BJもたぶん二重の意味を込めてこの言葉を言ったのだと思う。

これらのステレオタイプの不良とはまた違う問題行動を取る子ども達も描かれている。まずは「密室の少年」。密室の少年は交通事故で身体が動かなくなったことの憎悪を超能力に変えて、その念動力を誰彼かまわずぶつけるようになる。家の前を通る車の運転手の骨を折ったり木を折ったりする。自分の母親さえ信用していない。ここでBJは少年と1対1で話をして心を通じ合わせ、彼の憎悪と人間不信を解くことに成功する(一応)。手塚医師に「やたら子どもの頃を思い出したのさ」と言っているように、BJも子どもの頃は車椅子の生活だったから少年の気持ちが誰よりもよく判るのだろう。

そして「快楽の座」。無気力で笑わなくなってしまった三郎は、その治療と称してスチモシーバーを頭に埋め込まれたことによって、いつも不気味な笑みを浮かべるようになる。笑いながら可愛がっていたトカゲを殺し、何かと口やかましかった母親を縛り上げナイフで脅す(殺そうとしていたのかもしれない)。駆けつけたBJは手術で機械を取り外し、三郎はまた元の陰気な少年に戻る。BJは母親に「ま はじめから出なおしですな」と「今後絶対に勉強を押し付けない」など数項目の注意書きを記した「処方箋」を渡すのである。このエピソードの背景は、昨今の少年犯罪と通じる点があるような気がしてならない。「勉強しろ」と言う親。おとなしくて反抗できない少年。溜まる鬱憤。そして、まさかスチモシーバーではないが、何らかのきっかけで少年の心が臨界点を超えてしまったとき、タガの外れた残虐な報復行動に出る。このエピソードだけは諸般の事情でなかなか封印が解かれないのだが、現実社会に起こる事件に見事に符合していることに慄然とする。

……また、まとまらず時間切れ(汗)。要するに、逃げ場がなくなるほど追い詰めちゃいけない、どこかに風穴を空けておかないといけないと思うよ、ということです。決して不良になることを推奨しているわけではありません。m(_ _)m

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(備忘録080720)

買い物の帰り、どうにも喉が渇いて堪らなくなり、自動販売機でコカ・コーラを1缶購入。普段ならお茶を選ぶが、そのときは100% Coke! Cokeでなきゃダメ!という気分。川風の涼しい橋の上で自転車を止め、川面を眺めながらグビグビ飲んだ。炭酸が食道の内側をこそげ落としていく感覚。くぅ~!

日曜日だからか、3連休の中日だからか、いつにも増して交通量も人通りも少ない。ポチャンとフナが跳ねる音もはっきり聞こえる。気がつくとそこら辺り中にトンボが飛んでいて、ときどき私の身体をかすめていく。トンボの種類には詳しくないが、黒っぽい、シオカラトンボかな? 川向こうの栗の木に綺麗な緑色のイガイガがたくさん生っている。キョウチクトウの赤い花。どこかで風鈴がチリン。静かな夏の夕暮れ時。

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作ってみたい気もある

たいてい土曜日くらいから、次の月曜日の『BJ』ネタをぼんやりと考え始める。時間があるときは、だけれども。パラパラと原作を読み返し、ついつい読みふけり……。たまに何か「あれ?」と思うことがあったときに、コミックスにしろ文庫にしろ当時の掲載順に収録されていないのが非常にネックになることが多い。『コンプリート・ダイジェスト』でいちいち発表年月日を調べなくてはならない。

そう。『BJ』を掲載順に収めた単行本は今に至るも発行されていないのだ。初めて発表順に収録されているというのが最大の売りだった『新装版 ブラック・ジャック』も、何のことはない、文庫に収録されている作品だけが対象だった。全243話を掲載順に収めた単行本、これが発売されたら迷わずに買う。たぶんそう思っている人は多いと思う。

う~む……。自家製のを作るか……。しかしそうなると、後に描き直されたものではなく初出時のものを集めたいという欲が出てくる。「恐怖菌」ではなくて「死神の化身」が欲しい。「ふたりのピノコ」ではなくて、ピノコとロミは偶然にそっくりだったという最初の設定の「緑柱石」が欲しい(←余談だが、この設定のほうがBJの悲しみと怒りは際立っていたと思う。なにしろ目の前で偶然にもピノコそっくりの女の子が死んでいくのだから、そりゃあ悪夢を見ているようだったろうと思う。また医学雑誌で患者の顔が特定できるような写真が載ることもまずあり得ない。瞳部分に黒丸を入れるか目全体を黒く覆うなどの修正を行なうのが普通だ。手塚先生、なんで描き直したかな?)。まだ他にもいろいろあるが、そういうのを入手しようとしていたらお金がかかって仕方がない。

う~む、う~む、と悩みつつ、ネタも決まらない(汗)。

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いかがわしさという魅力

『箆棒な人々 戦後サブカルチャー偉人伝』(竹熊健太郎著)読了。「戦後大衆文化に放たれた、激烈なるエネルギー――ケタ外れの偉人たちを追う伝説のインタビュー集。裏の昭和が熱く妖しくよみがえる」。取り上げられているベラボーな男達は4人。

康芳夫 現世はすべて神の遊戯
石原豪人 画怪人かく語りき
川内康範 憎むな!殺すな!赦しましょう!
糸井貫二 ダダの細道

いわゆる王道を行くハイカルチャーではなくサブカルチャー……それもかなりキワモノに近い分野で活躍した「怪人」たちの生き様を、インタビューや往復書簡等で炙り出している。いやもう、なんか、スゴイ……。

寡聞にして康芳夫という人物は知らなかったのだが、ヒトかチンパンジーかと騒がれたオリバー君を呼んだのも、「人喰いトラ対空手」「猪木対アミン大統領」「猪木対アリ」などを画策したのも、『家畜人ヤプー』を初めて単行本化したのも、ネッシーやノアの方舟探索を企画したのも、全部、この人らしい。肩書きは「興行師」。「要するに僕は煽動を楽しんでいる」と彼は語っているが、なるほど、大衆を楽しませて自分は陰から楽しむフィクサーなのだ。

石原豪人は旧ブログでも取り上げたことがあるが、エログロな美男美女を描かせたら右に出る者はいないほどの挿絵画家。怪奇もの、冒険もの他、頼まれれば何でも描くが、何を描いても色っぽくなる人。「石原豪人」で画像検索すると作品がたくさん出てくるので確認していただきたいが、我々の世代なら少年マンガ誌で必ず一度は彼の絵を見たことがあるはずだ。話も巧みだが、たいていエロ話になってどこまで本当なのだか煙に巻かれる(笑)。島根県出身なので贔屓目で見てしまうが、暗い世相の時代にも楽しんで楽しんで生きてきた、そんな余裕を感じる人物である。ちなみに、彼の死後に出版された『謎とき・坊っちゃん』は漱石の『坊っちゃん』を新解釈した怪著である。登場人物が全部ホモで複雑な相関関係を呈しており、マドンナの影の薄さのわけが腑に落ちる(そうか?)。なお、人目のあるところでは絶対に本のカバーを取らないように。

川内康範は『おふくろさん』での森進一との確執が記憶に新しいが、彼の母親は本当に菩薩のような慈愛の人だったようだ。戦中戦後の厳しい時代に、自身は破天荒な生活をしていても一貫して母から受けた教えを実践している。そこから生まれたのが『月光仮面』であり『レインボーマン』である。「どこかで相手を赦さなければいけない。それには菩薩の心を持たないとできない」。月光仮面は月光菩薩に由来しているそうだ。インタビューに熱く答える彼の言葉からは、一途な人、というイメージを持った。

糸井貫二。「ダダイズムの貫二」を縮めて通称「ダダカン」と呼ぶ。仙台のあたりに全裸で生活し、「殺すな」と書いたプラカードを首からぶら下げて街を歩き、ほとんど誰にも理解されない前衛的芸術を実践している。ところがこれが案に相違して紳士的な人物である。きちんとした丁寧な言葉遣いで控えめに話す。ちゃんと彼なりの芸術哲学があって裸に固執しているのだろうと思うが、決してそれを理解してくれと強要はしない。もの凄い変人だが、隣に住んでいても何の問題もなさそうな人、という印象である。聖性か醜悪か、私には彼の芸術は理解できないけれども、人間としては興味あるなぁ。

一般的に見ればいかがわしさの権化というような人達だが(失礼)、皆が毅然とそれをやっているところが良い。戦中戦後の動乱期を乗り越え、自分の才覚一本で生きてきた力強さが小気味良い。こんな男達、今はあんまりいないかもしれない。

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「察する」ということ

『人は見た目が9割』(竹内一郎著)読了。ベストセラーは読みたくないという天邪鬼な私がずっと避けて通っていた本なのだが、病院の売店で他に選ぶ本がなかったので買ってしまった。「本はタイトルが9割」などと揶揄されて、タイトルに釣られて買った人が期待していた内容と違うというので酷評することの多い本だが、うん、確かに「新潮新書」はタイトルの付け方が上手いな、と(笑)。

別に容姿の美醜について書かれた本ではなく、ノンバーバル・コミュニケーション(言語によらない伝達)について書かれた本である。アメリカの心理学者アルバート・マレービアンが、人が他人から受け取る情報の割合について次のような実験結果を発表している。
 ・顔の表情 55%
 ・声の質(高低)、大きさ、テンポ 38%
 ・話す言葉の内容 7%
つまり、どんなに素晴らしいことを喋っていても、その内容が伝わるのは最大で全体の7%に過ぎず、それよりは話し手の表情や声の印象が伝わる割合のほうが93%と遥かに大きいということだ。「見た目が9割」という根拠である。

上記の実験結果はいわゆる「メラビアンの法則」として知られているところだが、この法則の本当の意味合いは、「視覚」「聴覚」「言語」の3つで矛盾した場合、人はどれを優先して受け止めるかといったものである。矛盾したときにだけ適用されるべき法則の誤用(?)に、別に目くじらを立てるつもりもないが、やっぱり、タイトルの付け方が上手いな、と(笑)。

内容にそれほど目新しいものもないが、「さいふうめい」の名前で漫画の原作や劇作にも係わっている著者が、どうしたらより効果的に意思や想いを伝達できるかを考えまとめたものだから、それなりに面白いことは面白かった。

でも結局……。こういう本を読むたびに思うのだが、本を読んで、本に絵入りで説明されているとおりの表情や仕草をしたとして、それで100%上手くいくというわけでもないだろうと思うのだ。相手は一様ではない。必要不可欠なのは現実での予測不可能な人と人との接触だ。接触の経験だ。こっちからただ伝えようとするだけでは駄目で、相手の受け答えによってこっちの出方を工夫する柔軟性がどうしても必要だ。それには場数を踏んで(たくさんの人と会って)経験値を上げるしかない。

携帯(やメール)での伝達が多い若い人達は「残心」とか「間」が分からないと著者は指摘しているが、さもありなんと思う。携帯は時も所も構わないし、メールは知らないうちに来ている。いつ話し始めて、どういう状況で終わるのかなんてことには頓着なしに、ズケズケと入り込んでくる。面と向かって全身全霊で伝えようとする機会そのものが少ないから、相手の表情を読むことも場の雰囲気を掴むことも、今の若い人達は苦手なんじゃないのかな。その結果、伝わらないと感じる。誰も自分のことを判ってくれないと感じる。そんな大層なことじゃないと思うんだけどね。……話がズレた。

この本に書かれていることを読むまでもなく、「メラビアンの法則」なんか知らなくても、日本には昔から「目は口ほどに物を言い」という諺がある。誰でも経験的に知っていることだ。ただそれを察する感受性自体が弱くなってきているのかもしれない。ことさら「KY」なんて言葉ができたり、こういった類の本が売れたりする現象こそ、つまりはそういうことを誰かに指摘してもらわないとわからない人間が増えてきた結果なのではないかと思った。

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(備忘録080716)

きょう、中国・近畿地方で梅雨が明けたそうだ。去年は梅雨明けと同時に見事に夏が来たが、きょうはここ数日と変わらない天候。一週間前に明けていたと言われても不思議じゃない。竹製の寝茣蓙を買ってきたので、今夜からそれで寝ることにする。ヒンヤリ冷たい♪ ブログ、テンプレート変更。

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竹島

まったく、なんとかならないものか、竹島問題。

日韓関係を慮って「日本固有の領土」という表現を避け、領土問題があるというだけの記述に対してもあれだけの過剰とも思える抗議行動。韓国の駐日大使は「これにより日本は大事なものを失う」と、脅しのような文句を言うし。日本の弱腰とも思える外交にも腹が立つが、問題があることさえ認めようとしない韓国の傍若無人ぶりもいかがなものかと思う。日本と仲良くしようという気はないんだろうな、きっと。

以下、各紙面より抜粋。

・読売新聞
「『竹島』明記は遅いぐらいだ」と題して、「外交上の配慮と、主権国家として歴史や領土を次世代に正しく伝えていくこととは、次元が異なる」

・産経新聞
「竹島が日本固有の領土であることがはっきりと書かれておらず、大いに不満が残る」「日本の公教育の将来に禍根を残したといえる」

・毎日新聞
「一朝一夕には解決が難しい問題で大切な日韓関係を逆戻りさせては何の得にもならない」

・日経新聞
「先行き見えぬ朝鮮半島情勢」と題して、「竹島は日本の領土である」「竹島を巡る対立を大きな政治問題にしないよう、日韓政府の努力を望みたい。日韓対立の激化は北朝鮮を喜ばすだけである」

・朝日新聞
「日本が竹島を島根県に編入した1905年は、日本が韓国から外交権を奪い、併合への道筋を開いた年だ。竹島は、日本による植民地支配の象徴とされている。韓国の人たちは『独島』と呼び、『独島、われらが土地』という唱歌で子どもの頃から愛国心を培ってきた。島の領有は韓国ナショナリズムのゆるがせにできない柱なのだ」「互いに主張し、違いがあればあることを認め合ったうえで、冷静に打開を図る。それ以外にない」

朝日新聞が一番冷静だが、日本の外交的配慮さえ評価しない相手だから「冷静に打開を図る」ことができるかどうか。未来永劫うやむやのままかもしれないなぁ。

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「おれはいらん」

「不死鳥」というエピソードがある。コミックスと全集に未収録で、文庫にもやっと17巻(最終巻)に収録された。本来は文庫12巻の巻頭に予定されていたらしいが、着色する時間がなかったのだとか。しかし、別に内容に問題があるとも思えないのに、どうしてコミックスと全集に収録されなかったのか、その理由がわからない。一説には、『火の鳥 現代編』の構想との兼ね合いだったらしいとも言われているが、もしそうだとすると、「不死鳥」の話はその構想と相反するものだったのだろうか。それとも、『火の鳥 現代編』を描くまで出し惜しみをするつもりだったのか。今となっては永遠の謎だ。

さて、「不死鳥」。原作の中ではBJと火の鳥の唯一のコラボ作品である。中央アジアとおぼしき土地まで呼び寄せられたBJ。そこには200歳の老人がいて末期の肉腫に冒されていた。老人の子孫だという若い娘によれば、その老人はむかし火の鳥の血を飲んだために病気にはなっても死なないのだという。BJは信じないが、老人を手術する報酬として火の鳥を撃てという娘の言葉に負けて手術を施す。その後、火の鳥を銃で撃ち落とすことに成功するが、火の鳥を我が物にせんとする娘に石をぶつけられて追い払われる。帰り支度をしていると、喋れるようになった老人が語りかけてくる。自分は火の鳥の血を飲んでいない。気力でここまで生きてきた。火の鳥の巣穴には毒蛇がいる、と。慌てて娘のもとに駆けつけると、娘は発光する毒蛇に襲われていた。火の鳥の発する不思議な光と同じ光。その正体は発光バクテリアだったのだ。BJは娘に処置を施して去っていく。

ラストのBJの言葉が良い。
「不死鳥(フェニックス)か! そんなもんはこの世にいるはずがないんだ。もし たとえ かりに いたとしたって………… おれはいらん。おれの仕事は人間をなおすことだが 人間を死ななくすることじゃない」
ここではいたってクールにビジネスライクに言い切っているが、この言葉はDSのゲームソフト『ブラック・ジャック 火の鳥編』の結末に上手く翻案されていて、「私はね、人間はね……」と火の鳥に語りかけるBJ先生の言葉がとても感動的だったのを思い出す。いつか終わる命だからこそ愛おしい、というBJの想いが伝わるものになっていたと思う。

また、「不死鳥」では結局その鳥は火の鳥ではなく、発光バクテリアが体表について光っていただけということになっているが、アニメ版では本物の火の鳥の存在を感じさせるラストとなっていた(ピノコが見ただけでBJは見ていないが)。きょうはちょっとそのあたりについて……。

「青鷺火(あおさぎび)」という現象がある。江戸時代には妖怪画家の鳥山石燕も取り上げており、割りとポピュラーな怪談だったようだ。アオサギやゴイサギの体が青く発光して見えるというもので、水辺でサギの体に付着した発光バクテリアによるという説が有力らしい。「不死鳥」での設定は決して荒唐無稽なものではないということだ。

だからあの鳥は火の鳥ではなかったのだろうけれども……。この話でどうも私が引っかかるのは、BJがあの鳥を撃っていることだ。アニメのように麻酔銃ではなく、原作では猟銃で撃っている。火の鳥なんて迷信だとしつこく言っていたBJ。しかし本当にただの鳥だと思っていたのなら、撃つ必要などないのではないか? それはまったく無駄な殺生ではないのか。『BJ』シリーズ中、医療上あるいは正当防衛以外の理由でBJが生き物の命を奪ったことはない。ただ一つ「満月病」で山下クミの元恋人と喧嘩をしたときに、BJがメスを小鳥に命中させてその腕前を見せつけるというシーンがあったが、「BJはそんなことしない」という読者からのクレームで、単行本収録のときには銃口にメスを投げ込むというコマに差し替えられている(先日発売された『Black Jack Treasure Book』で差し替え前の小鳥が落ちたコマを見ることができる)。それくらい、BJと殺生とは相容れないのだ。

BJがただの鳥を殺そうとするはずがない、とすれば、このときBJは火の鳥の存在について半信半疑だったのではないかと考えられる。死ねば普通の鳥、もし死ななかったら……。BJはそれを試そうとしたのではないかと思う。なにしろBJが鳥を撃ったのは老人の告白を聞く前だ。実際に200歳まで生きている老人をその目で見て、その老人は若い頃火の鳥の血を飲んだのだと娘から聞かされれば、いかに科学的思考をするBJでも、いや、科学的思考をするBJだからこそ、長寿はその血のせいかもしれないと考えるのではないか。

とにかくBJは光る鳥を撃った。そしてラストから3コマ目、鳥は地面に落ちて動かない。……この後なんだヨ、知りたいのは!! ところがBJ先生は毒蛇に咬まれた娘の治療に専念されてしまったようで、本当にその鳥が死んだかどうかを確認したところは描かれていないのである。このときには既に老人の告白を聞いて、火の鳥の血が長寿の原因ではないとわかっているから、もはや確認の必要もないということだろうか。BJは火の鳥(不死鳥)などいないという結論に辿り着く。しかし私は、もしかしたら本物の火の鳥だったのではないかという疑いを捨て切れない。何故ならば、火の鳥にだって発光バクテリアは付着するかもしれないではないか。それになにより、この話がコミックスと全集に収録されなかったという事実がある。このエピソードが単なる「火の鳥もどき」の話なら、『火の鳥』のパロディ作品、スピンオフ作品、あるいは手塚ファン向け楽屋落ちの話として収録されていてもよいはずだと思うのだ。それが収録されていないということは……あれは本物の火の鳥だったんじゃないのか?

本物だったとしたら、どうなるだろう? BJが本物の火の鳥かどうかを試そうとしたのと同様、火の鳥もまたBJを試そうとするのではないか。BJが鳥の生死を確認するようなことをすれば、火の鳥はまた例の問いかけをしたかもしれない。「あなたは何が望みなの? 死なない力? それとも生きている幸福がほしいの?」。ところがわれらがBJ先生は、せっかく撃った鳥の生死も確認しなければ近寄ろうともしない。目の前の怪我人を助けることしか頭にない。挙句、「不死鳥(フェニックス)か! …中略… おれはいらん」である(笑)。

火の鳥はその生き血を欲しがる人間の前にはその存在をひけらかすように姿を現す。その存在は正邪どちらでもなくただあるがままなのに、欲に取り付かれた人間にとっては己を狂わせる魔物ともなる。しかし「いらん」と言う人間の前には火の鳥は現れない。不老不死という欲を映し出す鏡のようなものだ。だから火の鳥というのは、BJ先生には絶対に見えない存在なのかもしれないと思う。

ところで、とうとう未完に終わった『火の鳥』の完結編は「現代編」になるはずだったと言われている。Wikipedia によれば、この「不死鳥」のエピソードとの「関連は薄いと見るべき」となっているが、「関連していた」という見方もネット上にはあって、これはもうどっちだか判らない。どちらの説も確たる根拠が示されているわけではない。天国の手塚先生にしかわからないことなのだが、『BJ』ファンとしては「現代編」はBJと関連があって欲しいと思わずにはいられない。そしてアニメ『BJ21』やゲームソフト『BJ 火の鳥編』は、その一つの形ではあるのだろう。BJは時空を超えて火の鳥に翻弄され続けたサルタヒコ=本間先生の愛弟子であり、医者としての苦悩はするが、対火の鳥に関しては「おれはいらん」と切って捨てるだけの強さを持っている。一気に話が終わってしまう可能性もあるが(笑)、ドクター・キリコと表裏一体で絡んで欲しかったと……、ああ、叶わぬ夢だなぁ。(まとまらぬまま時間切れで終わる。)

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守宮(ヤモリ)

わが家の台所の窓にいつも外からへばりついているヤモリの「やも吉」君が、きょうは窓の内側にいた(おいおい)。なにしろ古い家のこととて窓もアルミサッシではなく木枠だから、ちょっとした隙間なんざどこにでもある。そこから入ってきたらしい。なんとか出そうと試みること30分。片側の窓を開けたり閉めたり。意思の疎通ができないのは辛かったが、なんとか出てくれた。

ヤモリは「チッチッ」とか「キュッキュッ」とか鳴くらしい。30分格闘している間に鳴いてくれないかなと思ったが鳴かなかった。よしよし強い子だ(違)。調べてみると、ニホンヤモリはほとんど鳴かないらしい。な~んだ、残念。

(備忘録)
普段あんまり行かない本屋へ行ったら、レジ近くに「星座早見」が置いてあった。月日と時間を合わせてくるくる回す円盤状の早見板だ。前からひとつ欲しかったので即買い。さっきからためつすがめつ眺めてはニマニマしている。いいよなぁ、星座。

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図書館という小宇宙

司書時代の上司から電話があって、今度図書館についての本を出すと言う。話を聞くと、図書館は図書館でもおよそ一般受けしそうもない分野の本のようだ(笑)。それでも自費出版ではなくて、ここいらでは大手の書店が版元だから損はないのかな?……とか、余計なことが気になってしまった。よろしい、私が1冊買いましょう。と言ったら、一度書店で手に取って見てくれ、気に入ったら進呈するとのこと。ついでにサインもお願いしておいた。エーコの『薔薇の名前』にも若干関連があるようなことを聞いたが、さてどうだろう? 楽しみに待つとしよう。

思えば、この人と一緒に仕事をしていた頃が一番楽しかったと思う。実務的なことをやらせたら実にアバウトな人だったので部下としては泣かされたが、ついて行くのが大変なくらい広い視野から図書館を考えていた人だった。図書館は螺旋構造だ、なんて二人でぶちあげて図書館の底知れぬ魅力を語り合いつつ、同時にお役所仕事としての図書館業務に忙殺される日々を共に過ごした。敵も多いが味方も多いという人で、結局上との折り合いは悪かったのだろう、実務を捨てて研究者になった人だ。それから間もなく私も図書館を辞めた。

図書館というのは、利用者からすると自分の欲しい文献なり情報なりを得る場所に過ぎないのだが、司書として日がな一日その膨大な図書や雑誌に囲まれていると、そこに詰め込まれた情報やら文字やらが唸りを挙げて蠢いているような気がすることがある。あらゆる知識を蓄積した生命体に思えることがある。情報は上書きされ、新陳代謝が起こり、図書館自体が進化していっているように思うことがある。よく(特に大学においては)図書館は「脳」だと言われるが、まさにそうだ。そしてその脳は即ち小宇宙であり迷宮なのである。

そんなふうに気付かせてくれたのも、この上司だった。そんな中で働くのは面白かった。司書は、言ってみれば、脳の中の血球とかリンパ球のひとつ、あるいは宇宙の中で星の動きを見つめている宇宙塵だったかもしれない。司書は、端末をカチャカチャ叩いて情報を引き出すだけの単なるオペレーターとは違うのだという自負も、この人から学んだ。古い時代の司書の数少ない生き残りかもしれないなぁ。たぶん来週、何年かぶりで会うことになると思う。もう私は図書館とは縁がなくなってしまったけれど、久しぶりにちょっと図書館に対する思いをぶつけてみようかと思う。

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(備忘録080711)

読書中につき、記事はお休みします。m(_ _)m

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ほう、

京極夏彦の『魍魎の匣』がアニメ化されるそうだ。キャラクター原案はCLAMP。う~む、この人間離れした頭身と現代風イケメン顔についていけるかどうか不安だが……。←一応観る気はある(笑)。もっと昭和20年代の古臭さと一抹の暗さを感じさせるデザインだと良いと思うんだけどな。

妖怪シリーズ(別名:京極堂シリーズ)の中でも最高傑作の呼び声の高い『魍魎の匣』。個人的には『鉄鼠の檻』が一番好きだが、『魍魎の匣』は猟奇的な中に妙な美しさがあって、アブナイなぁと思いながらもやはり好きな話の一つである。私の好きな木場修が主人公だし。

主人公の話になったところで、ずれた方向に話を持っていく。このシリーズには主人公が4人いる。中禅寺(京極堂)、関口、榎木津、木場である。京極堂が一応メインの主人公で、古今東西あらゆる知識を持っていて薀蓄を延々と垂れ流す。このシリーズが分厚いのも、半分くらいはこの男のせいである。古本屋であり、陰陽道に通じて憑き物落としをする神主でもある。あと、小説家でうつ病の関口、人の過去が見えるという超美形探偵の榎木津、無骨な刑事の木場。こいつらがそれぞれ途方もない存在感を放つのが、このシリーズの人気の秘密である。

で、今はそれほどでもないかもしれないが、2000年代初めの頃はそれはもう様々なカップリングがネットを賑わしていた。京極堂シリーズの記事を検索していると、ま~た当たっちまったよ、と思うくらいゴロゴロあった。このシリーズは女性ファンが多いと聞くが、そっち方面のファンも多かったのだろう。それでなくともまぁ魅力的な主人公達ではあるのだ。私はと言えば、京極堂と榎木津の過去に絡んだ堂島という男にちょっと興味がそそられたりしたが、それだけ。基本、私は腐女子ではない(断固)。

でも、榎木津と木場の関係は好きだ。元華族の家柄の榎木津と石屋の息子の木場が、幼馴染みで名前で呼び合うのなんかほのぼのする。榎木津の暴走(何でもやるんだこの男)を木場がなんとなく抑えているふうでもある。この無骨で一本気で不器用で四角い顔をした木場刑事が、私の一番好きなキャラである。彼の描かれ方如何で、このアニメを観るか観ないかが決まる。

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気高いインディアン

『手塚治虫医療短編集』読了。「原人イシの物語」がしみじみと心に沁みた。

「イシ」で検索すると、Wikipedia に写真があった。「ヤナ族インディアンのうち、ヤヒ族の最後の人物」で「最後の生粋のネイティブ・アメリカンであった」とされている。1911年8月29日に飢え死に寸前のところを保護され、人類学者のクローバー博士とウォータマンによって研究された。その実話がもとになったマンガである。

マンガではウォータマンに扮するのはロックだ。このウォータマンはイシを下等な人間として、ことあるごとに見下すような態度を取る(これは史実ではなく手塚のフィクションだろう)。しかしイシは動じず、堂々とした態度を崩さない。

――彼が車や高層ビルを見てキモをつぶしたかい? いや ケロリとしていったよ。
「私のふるさとのガケのほうがもっと高い」とね。――

ウォータマンはイシを生まれ故郷の山地へ連れていく。そこで感動的な出来事があり、ウォータマンはイシの誇り高さと優しさに打たれ、彼のことを好きになり擁護するようになる。

原始と文明、気高さと野卑。人間の質とか格とかいうのは文明の程度なんかとは全然関係ないのだと思い知らされる話だ。結核に罹って死の床にあるイシに対して、ウォータマン(ロック)が泣きながら「死んじゃだめだ!!」というシーンが良い。白人に絶滅させられたインディアンの最後の一人が、白人に惜しまれながら死んでいったのは、せめてもの救いだったと思う。

実際のイシの最期の言葉は、「あなたは居なさい、ぼくは行く」だったそうだ。

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(備忘録080708)

・書店で『BLACK JACK Treasure Book』(秋田文庫)を探したのだが、まだ発行になっていないのか見つからなかった。どんな中身なのか、何が“Treasure”なのか、さっぱり知らないけれども、とりあえず表紙買いするつもり。

・『手塚治虫医療短編集 Another side of BLACK JACK』(秋田文庫)を買ってきた。サブタイトルにBJとあり、表紙がBJ先生だったもんで(笑)。内容に『BJ』シリーズは含まれていない。畸形嚢腫を扱った「嚢」(1968年)を初めて読んだ。ちょっと哀しい話だった。まだ全部読んでいない。

・伊坂幸太郎氏が直木賞選考対象を辞退したそうだ。対象作品は『ゴールデンスランバー』らしいが、私は未読。たしか「本屋大賞」を取った作品で、今回の直木賞では最有力候補だったようだ。「有名になることに恐怖があり、無邪気に候補になることが楽しいとはいえない賞だ」と語っておられるようで、好感を持った。
「大きな賞を取った作品だから読む」というのは本当の本好きではないと、私は常々思っている。そういうのじゃなくて、人と人がまるで見えない糸に引かれたかの如く出会うように、一冊の本との出会いも運命的であって欲しいと思う。

……最近、碌な記事を書いていない。_| ̄|○
急に暑くなったのに身体がついていけないのと、病院通い(舅殿が入院中)や町内の仕事その他で何かと気忙しく、早くもバテ気味。……でも痩せない。_ノフ○

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宇宙の真ん中で

Photo 「ねー あえ なんて星」
「ああ…… あれは織女星さ」
「じゃあ あの大きなのは?」
「あれは牽牛星だろう。七夕の星だよ」
「あのちっちゃーい消えそうなのは?」
「あんなの知らん」

きょうは七夕だったと思い出し、急遽落書き1枚。「六等星」では、ピノコはBJ先生の足元から夜空を指差して上記のような質問をしているが、あの身長差ではどの星を指しているかわからんだろうと思ったので、先生に肩車してもらった。なお、バックの天の川の写真には織女星も牽牛星も写っていない。あしからず。m(_ _)m

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『鉄腕アトム』がハリウッドでリメークだそうで。何故CGアニメなのにハリウッドで?『ゴジラ』の二の舞にならなければよいが……。

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潔い言葉

『職人』(永六輔著)読了。これはもう何度読んだかわからない。なんかこう……シャキッとしたい気分のときに引っ張り出して読む。著者が出会ったいろんな職人さんが言った、何気ないけれども一本芯の通った言葉が集められている。

「人間、<出世したか><しないか>ではありません。
 <いやしいか><いやしくないか>ですね」

「もらった金と稼いだ金は、はっきり分けとかないといけないよ。
 何だかわからない金は、もらっちゃいけねェんだ」

こんなことをスパッと言い切れる人ってスゴイと思う。今の政治家や官僚なんて誰もこんなこと言えない、きっと。

買い物についておもしろいことが書いてある。著者が河井寛次郎と一緒に京都清水を歩いていたときのこと。古道具屋の店先に、いいなと思う蕎麦猪口があった。河井先生が「いくらなら買う?」。著者は「一万円でも買う」。著者が一人で店に入って聞いてみると「五百円です」とのこと。喜んで買って出たら、河井先生に叱られた。「自分で一万円で買うって言った以上、一万円で買わなきゃいけない。買い物ってそういうもんなんだ」。つまり、いいなと思ったら、それはそのモノに負けたということ。負けた以上は勝った相手に礼を尽くさなくてはいけない。一万円だと言ったのなら一万円で買うのが礼儀だ、ということだ。

私には骨董の趣味はないが、普段の買い物でもこの話はときどき思い出す。街中の道路端に野菜の無人スタンド(百円均一)があって、そこに私の価値基準では200円分ものブロッコリーを発見したとき、など。迷わず200円を錆びた缶に入れる。普通に考えれば損なのだが、何故かサッパリとした満足感がある。思い通りの買い物ができた、ということなのだろうな。何でも値切れば勝ちというものではないし、いつでも安物ばかりを買っていてよいものでもない。モノを見る力や感性をちゃんと養って、自分なりの価値基準を持つことは大事だ。買い物に限らず、生き方ってのはそういうことだよな、と思う。

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(備忘録080705)

今年の土用の丑の日は7月24日と8月5日だそうですが、これだけ産地偽装だの発がん性のある薬物検出だのと騒がれると、ちょっと考えてしまいます。今年は無しにしようかな。

「丑」絡みでは、もう来年の年賀状用素材が発売になったようです。「ウシ好きにはたまらない……」の見出しに笑ってしまいました。巳年なら「ヘビ好きにはたまらない……」になるんでしょうか。

ちとくたびれたので、きょうの記事はお休みします。m(_ _)m

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The Fugitive

「リチャード・キンブル、職業医師。 正しかるべき正義も時として盲いることがある 。」というナレーションで始まる往年の人気ドラマ『逃亡者』。日本では1964年から1967年まで、『ルーシー・ショー』や『宇宙家族ロビンソン』を間に挟みながら第3シリーズまで放映された。

何パターンかのOPナレーションがあるようだが、この結構長い文章を暗記して、同級生たちと競って言い合った記憶がある。テープレコーダーなんか普及していなかったから、毎回必死で聞いていた。友だちもきっとそうだったんだろう。「盲いる(めしいる)」なんて言葉もこれで覚えたが、そのとき意味は知らなかった(笑)。「……彼は逃げる。執拗なジェラード警部の追跡をかわしながら、現在を、今夜を、そして明日を生きるために。」ここで♪パーパーパパー♪とテーマ曲が流れて、提供の「テイジン」のロゴが出たように記憶している。

さてその『逃亡者』がDVD化されてアメリカで発売されたが、劇中で使用された音楽がテーマ曲を除いてすべて差し替えられていたために、批判が集中しているそうだ。原因は音楽のライセンス問題。DVD化に際して1曲1曲に再ライセンス料を支払わねばならず、また古い作品なので音源の権利者も不明になっていることが多いため、全ての音楽を新しいものに差し替えたという事情らしい。私なら気付かないかもしれないが、熱烈なファンならやっぱり気付くだろう。ファンはオリジナルを観たいものだ。それに、音楽を変更した旨を記述していなかったというのは、ちょっと、ね。

それにしても、著作権で保護される年数がちょっと長すぎるような気がするのは私だけだろうか。

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やっぱり「萌え」はわからないけど

ちょっと前に、自分はオタクだろうかと考えたことがあった。何のオタクかと言われれば『BJ』で、それ以外にも「仏像」オタクかもしれないと思うものの、なにやらそれは罰が当たりそうな気がして公には言えない。だからとりあえず『BJ』を対象にして考えると、自分の場合は別に「オタク」という言葉を用いなくても「『BJ』好き」で充分なような気がしてきた。

「オタク」というのは、何かが、どこかが、自分とは別次元の存在のように思う。自分が、特に「萌え」を重視する最近の「オタク」ではないことはわかる。ならば古い世代の「オタク」かと言えば、同じようなマニアックな仲間がいて初めて「おたくは……」という言い方も可能なわけで、そういう共同幻想社会が身近になかった、存在さえ知らなかったという点でそこにも入らない。というわけで、私は「オタク」ではなく、また、ある程度の社会環境が整ったところにだけ「オタク」世界は展開されるのだろうという結論に至った。まったくどうでもいい結論だ(汗)。

で、たまたま「松岡正剛の千夜千冊 遊蕩篇」を覗いたら、1248夜に秋葉原関係の記述があった。(後半以降にピノコについても触れられているので、興味のある方はどうぞ。)森川嘉一郎の『趣都の誕生』についての論評で、松岡氏の見解というわけではないのだろうが、秋葉原という街が持つ特異性が記されている。街の変遷などはわかったが、『エヴァンゲリオン』なんてまったく知らない私にとっては、「アキハバラという「趣都」は、しだいにアニメのなかでおこった出来事を反芻するしかない方向に向かって“特区”になってきたという話なのである。」と言われても「ほーさよか」としか言えないのが悲しい。

ただ、アニメというものの持つ影響力の大きさというのは、なんとなくわかる。冊子体のマンガと、音や色がついて動くアニメでは、同じ『BJ』という作品でも印象は全然違っていたもんなぁ。アニメのほうが受動的でラクだ。答とか、こっちの方向性へ、というのが全て表現されている。絵でわからなくても音楽でわかるとか。だから反面、こっちで考える余地が残されていないし、余韻もない(「少ない」と書いておこうか)。アニメというものを現在まったく観ていない素人が言うのもナンだが、これはもうストーリー自体をミステリ仕立てにするとかどういう方向へいくのか予測できない筋書きにするとかにしないと、おもしろくないんじゃないかと思う。あまりにも完成されすぎていて、マクロな部分でこっちの想像力を刺激するものがないのだ。だからこそ、その想像力は逆にミクロの方向に進んで、非常に限定された「萌え」になったりもしたんじゃないかと。上の「アニメのなかでおこった出来事を反芻するしかない方向に向かって」というのを、私はそんなふうに解釈したりした。……いや、「萌え」というのは相変わらず判らないのだけれど。マンガかアニメかと言われたら、私は断然マンガ派だ。

また、文中で「つるつるの萌えキャラ」嗜好が書かれているが、これはネオテニー嗜好に通じるものだと思う。幼形成熟。それが各自の妄想内で済めばよし、ロリコンとなって現実社会に放たれれば私の容認できないところとなるのだが、それはまた別の話。ネットで調べてみるとオタクそのものがネオテニーと書かれているものもあり、賛否両論のようだ。しかし、これは別にオタクに限った話でもないと思う。どんな大人でも子どもっぽい趣味や嗜好を持ち続けていることはあるだろう。ただ、それを表に出すか出さないかの違いは大きいのではないかと考える。私がこれほど愛してやまぬ『BJ』を、でも人前では絶対に読めないというのはそこのところだ。いい歳をして、と自分で思う。秋葉原という街は、そういう自分で決めたガードを外せる、究極に特化された街なのだろうなと想像する。

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(備忘録080702)

・昨日はウィルスバ○ターのウィルス検索がなかなか終わらなくて往生した。何度か一時中断をさせながら、結局4時間半くらいかかった。これまでは精々2時間くらいだったと思うが……。人様はどうなのだろうと検索してみたら、7時間とか1日半とか書かれていたのもあったので、それよりはマシかと。1日半って……。

『イラストを“借りる”ってなんなんだ』という記事が話題になっているらしい(元記事は文末の『関連リンク』から)。イタリアの世界遺産の大聖堂に落書きをしたりする輩も多いようだし(それとは関係ないか)、何でもかんでも我が物顔にやりたい放題なんだね。二次創作をやっている方のお話でも、丸々パクられて挙句に「下手でごめんね」などと書かれていたという事態さえあるようだ。読んでいるだけでこっちの頭にも血が上る。
 著作権云々以前に「恥」の問題だと思うけれども、ネットでは簡単にそういうことも起こり得る。もともと情報の共通利用が目的のネットなのだから、「個人的にはWebに出した絵はもう自分のものじゃないと思ってる」という意見もわからないでもない。私が行くサイトにはイラスト掲載サイトさんも多いのだが、後々問題にならないためにも、1枚1枚のイラストにつき「無断転載禁止」と明記しておく必要があるかもしれない(文章についても同様)。注意書きのページをすっ飛ばして辿り着く人もいるだろうから。
 ……私の今週月曜日の記事なんかどうなるんだろうな……。戦々恐々。

・『つぶせ!裁判員制度』(井上薫著)読書中。それにつけても、最近裁判所等を騙った電話がかかってくることがあるらしい。自動音声テープを用いたもので、個人情報を引き出そうとするそうだ。他にも手口があるかもしれないが、どうぞ皆様ご注意ください。

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出雲弁と「気骨」

いつも拝見しているKさんの出雲弁日記で、懐かしい言葉を見つけた。「ぎじょ(ー)」。「ぎじょな し だけん」などと祖母が使っていたのを思い出した。「折り目正しい」とか「几帳面」とかいう意味で、祖母の言葉を標準語に直すと「几帳面な人だから」となる。ここ何十年と聞いた覚えがなくて、ここで思い出さなかったら永久に忘れていたかもしれない言葉である。思い出させてくださったKさんに感謝。

ネットで調べてみたら、和歌山県の方でも同じ意味で使われている例を見つけたので、古くはどこででも使われていた言葉なのかもしれない。柳田國男の『蝸牛考』通りの伝播と衰退をしたものかも。語源は「儀仗兵」の「儀仗」ではないかと思う。儀式を執り行うように何事も式次第通りに行なう、というようなニュアンスだろう。

思えば、祖父や祖母の使う出雲弁には、いや出雲弁ではないものもあったのかもしれないが、難しい語彙がたくさんあった。例えば、ゴテゴテと飾り立てた女性を見て「ヨーラクのようだ」なんて言っていた。きっとそういう派手な女性を「ヨーラク」と呼ぶのだと思っていたら、ずいぶん後に意味を調べて「瓔珞(ようらく)」すなわち仏様を荘厳する飾り具のことと知った。

あるいはお茶を飲みながら「この てーさは まいのー(この落雁は美味しいね)」。出雲地方では「落雁」のことを「てーさ(菓子)」と呼ぶ。この「てーさ」も高麗渡りの「庭砂糕(ていさこう)」という干菓子が由来だとか。日本全国で和風な「落雁」という呼び名が定着しているのに、ここ出雲地方では年配の方は未だに「てーさ菓子」と呼ぶ。

また、「だいじょから そげ言っちょったに(最初からそう言っていたのに)」の「大序」とか、「ほんそご(可愛くてならない子)」の「奔走子」などは、今や浄瑠璃や歌舞伎でしか聞かれない言葉かもしれないが、出雲弁ではまだまだ現役の言葉だ。

このように、ここ出雲地方には古い言葉が比較的豊富に残っているように思う。それも、保守的で変化を嫌う土地柄のせいかもしれない。この点は若い人達には不評だろうと思うけれども、私はこれはこの土地の人が自分達の文化と歴史にプライドを持っているからだと思う。外から新しい人や物が入ってきても、例えば古くはスサノオノミコトやアメノワカヒコが、近代ではラフカディオ・ハーンがやってきたが、彼らは出雲文化に懐柔されて居着いてしまっている。来る者を拒みはしないが、己は変わらないという文化なのだ。だいたいにのんびりとおおらかな気風の土地柄なのだが、その根本にはそういうプライドに基いた気骨があるような気がする。

ちなみに、出雲弁で「きこ」と言ったら「頑固」の意味だ。「あの し は きこだけん(あの人は頑固だから)」などと使う。おそらくその語源は「気骨」だろうと思う。そういえば、私の周りにも「きこな し」はいっぱいいる。私もそうかも……(汗)。

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