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2008年8月

(備忘録080831)

最近また帰宅願望が著しくなっていた母だが、きょうはとてもご機嫌でホッとした。舅殿も先日の検査で腹水がなくなっており、体調が良くなってきたようだ。とても「今年いっぱい……」なんて言われていた人とは思えない。よかったよかった。皆が健康で元気なのが何より幸福なこととしみじみ思う。

本日読書中につき、お休みします。ちょっとお絵描きもしたい気分。

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何を読んできたか

毎年『24時間テレビ』というともう夏も終わりだな~と思うのだが、今年もきょうから始まったようだ。NHKの『思い出のメロディ』も今夜やっていて1時間ほど観た。こちらは例年はもっと早い時期にやるように思うけれども(気のせい?)、今年はオリンピックの関係でズレたのだろうか。

小学生の頃なら、夏休みの宿題に必死になっている頃だ。私の親は絶対に手伝ってくれたりなんかしなかったから、一人でやるしかなかった。ま、適当だったけど。一番手強かったのは読書感想文だった。あれの存在は良し悪しだと思う。後で感想文を書かなければいけないと思いつつ課題図書を読む、あの感覚が嫌だ。ここの部分は使えそうだとか、ここで感動しなくちゃいけないんだろうな、なんて計算高く考えながら読むツマラナサといったら無い。で、私は毎年、大好きだった『トム・ソーヤーの冒険』の感想ばっかり書いていたように思う。ここでトムが何をするか、次にハックがどう言うかなんて全部覚えてしまっているのだが、それでも毎年ワクワクしながら読んでいた。好きなものは何回読んでも飽きない。……というか、しつこい性格なのかな(笑)。

中学生の頃は、夏休みの宿題についてはほとんど記憶がない。やったのかな? どうだろう。読んでいたものと言えば、その頃はルパン、ホームズ、明智小五郎を卒業して、エラリー・クイーンやアガサ・クリスティなんかばっかり読んでいた。創元推理文庫の後ろの目録を見ながら、次はこれを読もうなんて考えるのが楽しかった。あとは『少年チャンピオン』の立ち読み、これは欠かせなかった。

高校時代に横溝正史のブームがあって、金田一シリーズを軒並み読んだ。『三国志』や『水滸伝』などの中国物にハマったのもこの頃。読書感想文は安部公房の『けものたちは故郷をめざす』で書いたのを覚えている。遠藤周作や松本清張も読んだなぁ。あと『少年チャンピオン』の立ち読み(笑)。この頃がチャンピオンの黄金期だった。

大学時代は柴田錬三郎とか梶山季之とか坂口安吾とか有島武郎とか陳瞬臣が多かった。今から考えると、学生時代にもっとたくさん本を読んでおけばよかったと思う。当時は専攻分野の本を読むのにいっぱいいっぱいだったのが悔やまれる(ダメ学生だったもんで)。時間はあったはずなのに……。後悔先に立たずとはこのこと。同じ本でも、やっぱり若い頃に読むのと今読むのとでは違うのだ。その年代の感性というものがある。あまりにも現実的になってきた今の私の年代で読んでも感じ取れないものが、若い頃には感じ取れていたと思う。まあその逆もあるのだろうけれども。タイムマシンがあったってもう一度あの頃に戻りたいとは思わないが、夢見がちだった頃の感性だけは懐かしいと思う。

しかし……、あんまり夢見がちなものは読んできていないね、私(苦笑)。

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三上寛の『夢は夜ひらく』

夫とCDを買いに行く。お風呂で石鹼が泡立たなくて困っていたら「ブライアン・フェリーの“Tokyo Joe”を聴かないと泡立たないのだ」という啓示があった……という夢を見たため。今夜の入浴で泡立たないと困るので早速買いに行った次第。久々に聴いたが、懐かしかった。無事に泡も立った。

ところで、夫は70年代の日本のフォーク集を買ったのだが、それを帰りの車で聴いてぶっ飛んだ。三上寛の『夢は夜ひらく』を初めて聴いた! 藤圭子が歌ったあのメロディなのだけれども、詩が凄まじい。Wikipedia によれば放送禁止歌になっていたらしい。「サルトル マルクス並べても あしたの天気はわからねえ ヤクザ映画の看板に 夢は夜ひらく」あたりはまだカワイイ。あしたのジョー、キャベツ、四畳半、現金書留、この包丁で母さんを……、だんだんエスカレートしていって最後はもう絶叫に近い。

最初は二人で爆笑しながら聴いていたのだが、繰り返し聴くうちにこれはひょっとすると歴史的な名盤かもしれないと思うようになった。猥雑で動物的でやるせなくてドロドロしていて……。まるでオーバーアクションのアングラ劇を観ているようだが、なんだか今の世の中にも通じる雰囲気もあるように思う。なにしろいまは『蟹工船』が流行る世の中なのだから。

You Tube にも動画があるし、ちょっと検索すれば歌詞も出てくる。太宰治や永山則夫と絡めた論考などもあってなかなか興味深かった。三上寛という人物にちょっと興味が湧いてきた。

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(備忘録080828)

『チルドレン』(伊坂幸太郎著)読了。短編集だが、ひとつの長編としても読める。破天荒で一見KYな変人・陣内が起こす小さな奇跡の数々。とりあえず上っ面の体裁だけを整えようとするような姑息さが、この男には無い。そこが痛快なのだが、個人的にはあんまりお近づきになりたくない人種かも(笑)。振り回されて絶対とんでもない目に遭いそうな気がする。読んでいる間はニヤニヤ笑いが止まらない。読後感は爽快。

続いて『転校生とブラック・ジャック』を読んでいるのだが、脳味噌が攣(つ)る。普段全然使っていない部分を使っている感覚だ。しかも理解できているのかどうかは自信がない。この本で扱われているのは、普通には起こらない現象を仮定して「この世界がどうできていざるをえないか、どうできていることはできないか」を問う思考実験だという点だけはわかった……ような気がする。なんか、頭の体操みたいだ。

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原作至上主義

最初にちょっと愚痴を……。

いわゆる「スプログ」という迷惑ブログからの迷惑トラックバックに怒り心頭。トラックバックしてくるだけ良心的な方かもしれない(されなかったらわからない、いや調べる方法はあるらしいがそこまでしたくない)が、勝手に私の書いた文章を使わないでくれ! ロクな文章じゃないのだから恥ずかしいじゃないか! って、問題はそこじゃなくて……。人の褌で相撲を取るなよ、自分の力で読者を増やせよ、ってことだ。以下、つらつらと罵詈雑言を書き連ねてみようかと思ったが、ここに書いたとてそれらがなくなるわけでもなし、やめた。問答無用で削除するのみだ。あ~あ。

頭を冷やして……。

ここから本題。

先日いただいたバトンで「あまり頻繁には更新されていない」というなんとも失礼なことを書いたサイト様で、ごく最近更新されたところがあって、もう本当に穴があったら入りたいという気持ちでいっぱい……(大汗)。すみませんすみません。そして、新作を読ませてくださってありがとうございます! ここに書いたって伝わらないのだけれど、だから先様にコメントすべきなのだけれど、どうも圧倒されるというか気後れがするというか、恥ずかしくて、なかなかコメントができない性質(たち)なので。(これはどこのサイト様に対してもそうで、書かせていただくときは2~3日考えて蛮勇奮って書くことが多い。それなのにいざ書くとワケのわからないものになるので、ますます書けなくなるという……。_ノフ○)

新作には退役後のキリコの心情が描かれていたのだが、なるほどそういうものかもしれないなぁと、しみじみ読ませていただいた。ここのところが私にとってキリコの一番の謎なので。ストンと腑に落ちる描写に、作者様の力量を見せ付けられた思いがしたし、一つの解答をいただいたような気もした。インターン時代のBJとの一瞬の邂逅もまた鮮やかで。静のキリコと動のBJが醸し出すハードボイルドな世界を堪能させていただいた。

結局、私が読みたいのはこういう作品なんだろうなと思った。作者さんの描きたい世界が原作と無理なくマッチしているもの。『BJ』という作品はいろんな味わいがあって実に「懐が深い」(←この表現はTさんからのパクリ。深謝)ので、その二次創作はコミカルなものからハードボイルドまでほとんどイケるんじゃないかと思う。ただ私がそこに求めているのはやっぱり原作の匂いなのだ。どんなシチュエーションでもパラレルでも(パラレルに関しては、原作者以外の人間が作ったものは全てパラレルと言えないこともないんじゃないかと思ったりする)、どこかに原作に繋がる匂いを探しながら読む。

私は原作至上主義で、原作を読むときにはキリジャとかジャピノとかを一切排除して読む。ジャピノは今でも無理だが(ごめん)キリジャも最初は受け入れられなかった人間で、いわゆるそういう関係の描写を目的に読む読者でもない。創作者さん達にとっては、そうあってほしくない読者の典型だろうと思いつつ、しかし二次創作の作品を通して気付かせていただいたことは数多くて、心から嬉しいことだと思いながらこっそり読ませていただいている。最近は各作家さん達が続々と新作を発表されて、じっくり味わうのに忙しい。目からウロコが落ちる解釈で衝撃的だった作品や虚虚実実の心理戦キリジャ等々。昨晩は「もぐり」と「やぶ」のTシャツに思わず笑ったり。

こういう人間だから、ますます先様に伺ってコメントを残すことに罪悪感を覚えて、こんな辺境ブログの片隅で愛を叫ぶしかないのだけれど、二次創作をされる方はやっぱり原作の最大の理解者であり研究者であられると思う。尊敬と憧憬の思いを込めて、これからも素晴らしい作品を見せていただきたいと願っている。

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きょうのニュースより

北朝鮮が寧辺(ヨンビョン)の核施設の無能力化作業を即時中断すると発表したらしい。アメリカが北朝鮮のテロ支援国指定解除を延期していることがその理由だそうだ。何故アメリカが延期しているかというと、指定解除の条件として核申告の検証手続き案の受け入れを北朝鮮が拒否していたため。「お前が悪い」「お前のほうがそもそも悪い」とキリがない。北朝鮮としては最初から予定の行動だったんじゃないかと思うけどね。

そもそも私はアメリカが北朝鮮に対して核放棄を迫ること自体がおかしいと思っている人間だ。アメリカは自国の核の放棄なんてしないじゃん。自分は持ったままなのに、相手に「お前は捨てろ」ってどういう理屈? 「オレも捨てるからお前も捨てろ」って言わなきゃウソだと思うよ。アメリカも北朝鮮も、どっちも信用できないという点で私には同列。ここで「持たざる国日本」が堂々と「お前らどっちも捨てろ」と発言して世界平和のために貢献すればカッコいいと思うんだけど、福田さんには無理なんでしょうね。

●1億8000万のブログエントリを対象に、どんな心霊スポットが書かれているかが都道府県別にまとめられていた(「ブログでみる、みんなの心霊スポット」)。怖いもの見たさでいくつか読んでみたら結構怖いのもあった。

わが県はどうかといえば、別に心霊でもなんでもない記事が挙がっていた。私も身近では聞いたことがない。ただ松江市内には小泉八雲が『怪談』で取り上げたスポットがあるにはある。その橋の上で「かきつばた」の謡曲を謡うと女の幽霊が出るという「あずきとぎ橋」はわが家から歩いて数分のところにある。産み落とした赤ん坊のために夜な夜な水飴を買う幽霊が出るお話(「水飴を買う女」)で、その幽霊が帰っていくお寺とされた大雄寺にも行ってみたことはある。もちろんどちらの場所でも幽霊に遭遇したことはない。

あ、ひとつ思い出した。松江城の北ノ門近くに馬場池という池があるが、真夜中にこの池を3周すると幽霊が出るという話があった。小学生の頃、友だちといつか試そうと話していたことがあったがとうとう実行できなかった。いまはそんな気はさらさら無い。もし本当に出たらどうするんだ……。

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馮二斉

『BJ』には、プロフェッショナルな男達に会えるという楽しみがある。その中でも、たった1回しか登場していない(「湯治場の二人」)のに強烈な印象を残すのが刀鍛冶の馮二斉である。BJや琵琶丸というこれまたプロフェッショナルでしかもヤサグレた男達が、辞を低くして接する唯一の男である(BJは馮二斉の前ではずっと正座している)。商売道具のメスや針を鍛えてもらうために、遠路はるばる足を運ぶ。

この馮二斉はどこに住んでいるのかを考えてみた。日本で「鍛冶」と言ってまず思い出すのは「関の孫六」で有名な岐阜県関市と大阪府堺市だろう。ところが山深く清流が流れる原作の描写を見るとどうも堺市とは思えないし、堺は鉄砲鍛冶だ。馮二斉は刀鍛冶なので関市と仮定。次に、近くに「奥底温泉」という湯治場がなくてはならないのだが、これは架空の温泉らしく見つからない。そこで「関市 湯治場」で検索したら関係ないものがわんさかヒット。これも早々に諦めて、JTBの観光情報で「関市・美濃市・山県市」の「温泉」で検索してみたら……、1件しかない。その名も「神明温泉」!

もうここに決めた(笑)! だって「神明」だよ! 「天地神明にさからうことなかれ……」の遺言は馮二斉が自分の住所を伝えようとしたダイイングメッセージだったんだよきっと! ←誰に? 何のために? なんて、良い子のみんなは訊いちゃダメだゾ。

さて、その温泉から徒歩で清流に架かる吊り橋を渡り、道なき道を山へ分け入ったところに「刺生庵」という庵を結んで独り住んでいるのが馮二斉である。障子は破れ放題だし草葺き屋根が垂れ下がっているようなあばら家だが、柴垣が組んであったり庭には鹿威し(あるいは筧と手水鉢)もあるという、もともとは風雅な庵だったことを偲ばせる何やらゆかしきたたずまいである。

そこに、素肌に袖無し、ツギの当たったステテコ(だろうか)というなんとも言いようのない姿で、二つ折りの座布団を枕に寝転がっているのが馮二斉その人。歳の頃なら70代から80代といったところだろうか。庭から訪ったBJと琵琶丸を寝たままギロリと睨むと「きたか 上がんな…」。遠慮ない言葉を浴びせながらBJが持参した30数本のメスを検分し、代金の1000万円を受け取ると早速火を熾し始め、口元だけに微かな笑いを浮かべながら受け取ったばかりの札束をそこにくべてしまう。「金はこうするに限るな これがわしのたのしみだ」。一体どんな変人なんだと思いながらページをめくると、そこにはりゅうとした鍛冶装束に身を固めて一心不乱に槌をふるう馮二斉の姿が! 私はもうこのへんで彼にヤられた。なんてカッコいい男なんだ!!

この後も、研ぎ上げたばかりのメスで瓢箪を一刀両断してまたくっつけたり、琵琶丸の針で飛んでいる蜂を柱に縫い止めたりしてみせる。あのメスの刃渡りでどうして瓢箪の幅が斬れるのかと思うが、五ヱ門の斬鉄剣がヘリコプターを真っ二つにするようなものかと思ったり(違うかな)。飛んでいる蜂を仕留めるという話は、宮本武蔵が蝿を箸でつまんだという逸話を思い起こさせる。古武士の風格さえ漂わす馮二斉、世が世なら絶対に剣豪になっていたに違いない。

BJのメスに続いて琵琶丸の針を鍛え終わった直後、馮二斉は倒れる。琵琶丸が針を打ち、BJが胸を割き心臓マッサージを試みるが蘇らず、帰らぬ人となる。遺体を埋葬し、しみじみ語り合うBJと琵琶丸。オイオイ24時間経たないと埋葬はできないんじゃないのかというようなことは、この際不問に付そう。馮二斉はどうやら自分の死期を悟っていたらしく、この後、二人に宛てた遺書が見つかる。その文句が「天地神明にさからうことなかれ おごるべからず 生き死にはものの常也 医ノ道はよそにありと知るべし」である。映画『BJ2D』ではこれをBJがアララ?な方向に解釈していてガックリきたが、基本的に本間先生の遺言と同じ意味合いだろうと思う。まだ若いBJのあまりの天才ぶりを親身に心配した先達の言葉だ。そしてシリーズ中幾度となく繰り返される、医者の存在理由と死生観を問うてBJを苦悩させる基本テーマでもある。

「この意味がわかったときゃ また会いましょう」と琵琶丸。「私には一生わからないかもしれない…… 私には切るだけが人生なんだ」とBJ。二股道で琵琶丸と別れたBJの顔には苦悩が浮かんでいる。

世俗を離れ自然の境地に悟りを開いたかのような馮二斉と、現役の医者であるBJと琵琶丸の対比が興味深い一編である。生き物に本来備わった自然治癒力を説いてその治療方法においてはBJと対立する琵琶丸も、馮二斉が倒れたときには彼を生き返らせようと必死になった。彼もまた医者なのだからして。しかしその二人を共に斬って捨てるような馮二斉の見事な死に様。決して二人の努力をあざ笑うのではなく、呆気なく、飄々と、淡々と、あるがままに、当たり前に死んでみせる鮮烈さが心に残る。しかし、だからといって、そう簡単にハイそうですかと諦められないのがBJであるし、BJはそうでなくちゃいけない。切るだけが人生。メスを握り締めて苦行の道を歩むからこそBJなのだろうと思う。

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(備忘録080824)

きょうは母のところからなかなか帰れず、帰宅してテレビをつけたら北京オリンピックの閉会式をやっていた。もう終わり前だった(ジミー・ペイジが出たはずなのだが見損なった)。

開催が心配された北京オリンピックもどうやら無事に終わったようだが、華やかなオリンピックの記事に隠れて報道の規制やデモの取り締まりなど、事前の約束が破られた事実は多々あったようだ。世界的な人権擁護団体も、このオリンピックのせいで人権弾圧の状況は更に悪化したと批判している。チベットやウイグルのことだろう。中国側はどうにか対外的な体面は保ったと思っていることだろうが、これから各方面からいろいろな糾弾がなされるのではないかと思う。

ちとくたびれたので、今夜の記事はお休みします。

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時は巡って

きょうから9月6日まで「処暑」。暑かった夏が終わりを告げる頃。実際、数日前から気温が下がって過ごしやすくなった。温暖化の傾向はあっても、一年という周期の中ではまだちゃんと季節が巡っている幸せ。数十年後には一年中夏になるかもしれないのだから、これは幸せと呼ばねば罰が当たる。

日が短くなった。ちょうど日没頃に外を歩いていて、今頃が「暮れ六つ」かなと思う。江戸時代ならどこぞのお寺の鐘が鳴るだろう。まず最初に「捨て鐘」が3つ。これは今から時鐘を鳴らすという合図。そして暮れ六つなら6回鳴らす。

時代劇や落語(「ときそば」とか)に出てくる昔の時間の数え方というのが不思議でならなかった。暮れ六つと明け六つが同じ「六つ」というのはなんとなく納得できるとしても、正午や午前0時が「九つ」というのはどういう数え方をしているんだと。しかも「四つ」から「九つ」までしかないのである。で、良い機会だと思って調べてみた。何事も「一」から始まると思っていると理解できない数え方なのであった。

太陽の出ている時間を基にした不定時法なので、冬至と夏至では大きな差ができるが、春分と秋分の日には↓のようになる。

午前0時の前後2時間(子の刻)……九つ
午前2時の前後2時間(丑の刻)……八つ
午前4時の前後2時間(寅の刻)……七つ
午前6時の前後2時間(卯の刻)……六つ(明け六つ)
午前8時の前後2時間(辰の刻)……五つ
午前10時の前後2時間(巳の刻)……四つ
正午の前後2時間(午の刻)…………九つ
午後2時の前後2時間(未の刻)……八つ
午後4時の前後2時間(申の刻)……七つ
午後6時の前後2時間(酉の刻)……六つ(暮れ六つ)
午後8時の前後2時間(戌の刻)……五つ
午後10時の前後2時間(亥の刻)……四つ

始まりは「九つ」から。これは中国の陰陽道で陽(奇数)の一番大きい数が9で最も縁起がよいことから来ているらしい。あとはこれの倍数である。9×2=18、9×3=27、9×4=36……となるところを、1の位だけ取って丑の刻は「八つ」、寅の刻は「七つ」……とした。実際に18回や27回、最大で9×6=54回も鐘を撞くことは現実的ではなかったのだろう。そして12時間毎に「九つ」に戻るから鐘の数は4~9回。最初に書いた「捨て鐘」が3回というのは、3回以下の時鐘が存在しないからなんだね。やっと判ったよ。

さて数え方は判ったが、次に不思議なのはそのおよそ2時間の間隔をどうやって計っていたかということだ。江戸城あたりには精巧な和時計があって、それに合わせて太鼓などを叩いていたらしいが、地方の村々の小さな寺々にそんなものがあったとは考えられない。そこで調べてみると、どうやら日時計らしい。地面に棒を突き刺しておけば良いのだから簡単だ(江戸時代には携帯用日時計なんてものまであったらしい)。影がここに来た、申の刻だ、鐘撞け、ってなもんだったのだろう。それがたとえ江戸城の時報と数10分ずれていたところで、おそらく何の支障もなかったに違いない。本来なら毎日微調整しなくてはならないはずだが、そんな必要もきっとなかっただろう。その鐘が聞こえる範囲内で時刻が共有されていればそれで良かったはずだから。問題は雨の日と夜間なのだが……。勘、かな(笑)?

時間の計り方ということで、落語の「立ち切れ線香」を思い出した。お女郎さんを買う時間を線香の燃え尽きる本数で計ったというもの。あ、坐禅を組む時間も線香だな。というところで「ちょうど線香が……たちぎれまし」て、アップの時間となりました。

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空耳ワールド

英国人でも英語の歌詞を聞き違えるらしい。で、その聞き違え「TOP 10」にビートルズの曲が2曲入っているとか。

“Lucy in the sky with diamonds”で、「万華鏡の瞳をした少女(ガール・ウィズ・カレイドスコープ・アイズ)」との歌詞を「結腸炎の少女が通り過ぎる(ガール・ウィズ・カレイティス・ゴーズ・バイ)」と誤解する人が続出……って、そういうの「誤解」って言うのだろうか? その意味で納得するほうがオカシイと思うのだが。また、ポリスの“Message in a bottle”では、「手紙を書いてから(シンス・アイ・ウロート・マイ・ノート)」を「鼻が折れてから(シンス・アイ・ブローク・マイ・ノーズ)」というのも相当スゴい。それで前後の文脈は通じているのか心配になってしまう。

日本人が洋楽を聴く場合は、ライナーノーツの歌詞を見ながら聴くことが多いから、却ってそういう間違いは起こらないような気がする。しかしそこに書かれている歌詞そのものが間違っていることもある。公式に歌詞が発表されておらず、日本で聞き取りをしたものもあるからだ。私の好きだったELPの曲にもそういうのがあったような気がする(他のアーティストだったらごめんなさい)。対訳にワケのわからないカタカナが書かれていたりして、随分悩んだものだ。

邦楽で秀逸だと思った空耳ワールドは「都会は病気だ 身の慌ただしさ」。正しい歌詞を知っていらっしゃる方がいるかしら。

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「指定されたキャラの口調で答えるバトン」

トーレスさんからの指定は「ピノコ」だったんだが、ここの管理人がピノコの声とは似ても似つかぬ低音でボソボソと「~のよさ」「~らわのよ」なんて練習している気持ち悪さに耐え切れず、オレがしゃしゃり出た。悪く思わないでくれ。ところで「慇懃無礼で横着なツギ」ってのは誰のことだキリコ? 覚えてろヨこの「こよしやのれきそこない」め!

◆誰に回すか5人を選んでください。

ナム三。ここの管理人は友だちが少ないんだ。以前に同じような趣旨のバトンで5人のサイトマスターさんに思いのたけを綴ったこともあるしな。あのときの思いは今も変わっていない。何度もしつこく書くのも鬱陶しがられるだけだろうし、かと言って、ここで以前選ばなかった別の5人を選ぶのは第2候補みたいでいかにも失礼だろう。ということで今回は、現在あまり頻繁に更新はされていない、または休止(閉鎖)中だが、オレが頻繁にストーk……もとい、覗いているサイトのマスターさんを選ぶ。もとよりオレの一方的な片思いで、先様はこの辺境ブログなんかご存じない。だからバトンは続かないし、口調も指定しない。トーレスさん、どうか許してくれ。m(_ _)m

GH菊さん
シギさん
ヨシヒコさん
鳳煌輝さん
夜篠りんさん

◆その5人との共通点

『BJ』が好き、ってことだろうな。

◆5人のいいところは?

GH菊さんは『BJ』の世界をモノトーンで追求している絵師さんだ。一見クールな絵なんだが、とても暖かいし激しくさえある。健康を取り戻して完全復活されることを心から待ち望んでいる。

シギさんはいろんな作風を持つ作家さんだ。心理的な駆け引きだとかちょっとした心の葛藤なんかの描写が上手い。前回の更新でこのみさんを描いてくだすったのには感激した。ああいう男らしいオレ、もっと書いてほしい。

ヨシヒコさんは手書きブログで『スラムダンク』を描いている方だが、最初の頃は『BJ』も多かった。めちゃくちゃイイ男でカッコよくてスタイリッシュなオレがいる。色使いもとても綺麗だ。

鳳煌輝さんはオレの好きな友引(高杉)警部を魅力的に描いてくれた作家さん。ブリリアント3世も出してくれて嬉しかった。女王様タイプのオレを描かせたら上手いんだぜ。

夜篠りんさんはほのぼのタッチの可愛らしい絵を描く人なんだが、アニメ版をちょっとハスから見たパロディがとても面白かった。キリ番取ってピノコを描いてもらったこともある。オレの宝物だ。

◆5人との出会いは?

どこかのリンクから飛んで行ったんだと思うが、もう忘れた。

◆この5人とは今度どうして行きたい?

今までどおりストーk……もとい、つきまとい……もとい、足繁く通わせてもらいたい。

◆5人は自分のことをどう思ってる?

残念ながら、先様はここの管理人のことを知らないんだ。

◆5人とは喧嘩したことある?

ない。

◆5人は一生の友達?

いや、今でも友だちとは言えないから。でも、願わくは末永くサイトを見させてもらいたいと思っているぜ。

というところで終わりです。まるで出せないラブレターのようになってしまいましたが……(汗)。更新は滅多になくても、今でも『BJ』を本当に愛していらっしゃるのが判るサイトマスターさん達だと思い、一方的に綴らせていただきました。トーレスさん、良いチャンスを与えてくださって本当にありがとうございました。楽しかったです♪ 先日下さったメールでの暖かいお言葉にも心からの感謝を。m(_ _)m

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(備忘録080820)

Tさんからバトンを頂戴しておりますが、後日回答させていただきます。身に余るお言葉を頂き、またそれがキリコ口調だったりしたものですから、動悸がして手が震え何も考えられませぬ(いわゆる「舞い上がった」状態)。ありがとうございますありがとうございます。m(_ _)m キリコに話しかけられるってもの凄いインパクトがあるんですね。新発見です。

さて、本日のお買い物。

『転校生とブラック・ジャック 独在性をめぐるセミナー』(永井均著)
 最初を少しばかり読んだが、非常に難解な哲学書である。帯にはこう書かれている。「デカルトのコギトは、主観性の哲学にも、独我論にも結びつかない。すなわち自己同一性の閉域を構成しない。<私>の存在にはらまれた存在論的・意味論的含意を、いくつかの思考実験を通して精査してみよう。」……この文章の意味するところを、誰か私に判りやすく教えてくれないだろうか。
 BJとは直接関係ない。ただ二人の人間の脳を入れ替える外科医として登場する。BJにはそういう無茶なことを可能にする人物という共通認識があるのだろうな。不可能だと思われることを仮定する際には必要不可欠な人物かも。もしもそういう手術が行なわれた場合、<私>はどこにいるんだろう……というようなことが考察されているのではないかと思うが、今のところまだ全く判らない。orz

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(備忘録080819)

夜になって20度台まで気温が下がった気持ちよさに(クーラーをつけないわが家は夜でもずっと30度台でした)思わずうたた寝してしまい、目が覚めたら日付を跨いでいました。ああ、よく寝た。では、おやすみなさい。

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神の奇跡

『BJ』の中で一番宗教色の濃い話といったら「からだが石に……」ではないかと思う。ちなみにこの話はコミックス第4巻から問題作「植物人間」が除かれた代わりに収録された。考えようによってはこれもかなりの問題作ではあるのだが。きょうはこのお話について。あらすじは以下のとおり。

イタリアの田舎町。信心深い両親を持つ少年が「進行性化骨性筋炎」(筋肉が骨にかわっていく病気)におかされ、余命いくばくもない。世界中から名医がやってくるが成す術がない。BJにも治しようがなく、この少年の脳を誰かの身体に移植するしか方法はないと言う。「あとは死体待ちですなァ」。それを聞いて思い余った少年の父親は、息子と同じような年頃の子どもを車でひき殺そうとして、制止しようとした身重の妻を誤って撥ねてしまう。妻は産気づいて出産するが、赤ん坊は死ぬ。BJはその赤ん坊の身体に少年の脳を移植する。(赤ん坊はそのために生まれたんだ)。イエスに祈る神父が言う。「神がくださったのだ!」「たぶん…………」。

「ナダレ」「化身」に次ぐ脳移植の話だが、人間については初めての例だと思う。いやしかし、これだけの内容をたった18ページに収めてしまうとは、マンガの神が起こした奇跡だ。少年の父親の心情を追っていくだけでも一つのテーマになりそうなほどだし、そこに母親の想いが重なり、家族を見守る神父の視線が絡まる。

だが、生まれたばかりの赤ん坊の自己犠牲がなくては成り立たない話で、もしもキリスト教的な味付けがなかったら、もっと後味の悪い話になっていただろうと思う。母親が「私に身代わりをさせてくださいまし」とイエスに祈るシーンや、ラストの十字架に架けられた神々しいイエス像の絵のおかげで、BJの手術云々よりはイエスが起こした奇跡という意味合いが強調され、いろんな意味で救われている話だ。

ところで、BJは「死体待ち」と言っているが、脳移植をしようとしている彼が待ち望んでいたのは、完全な死体ではないはずだ。もしも完全に死んでいるのなら、その身体に少年の脳を移植したところで生き返るはずもなかろう。彼が欲しいのは、厳密に言えば、脳は死んでいるが身体は生きている状態、即ち植物状態あるいは脳死状態の人間の身体のはずなのである。

赤ん坊は「息がとまった」と書かれている。心臓はどうだったのだろう? これについても触れられていない。しかし彼がその身体を使おうとしたという事実から、このとき赤ん坊はまだ死んでおらず仮死状態で蘇生が可能な状態だったと推測される(「ドリンカーの救命曲線」によれば、呼吸停止から2分以内に人工呼吸を始めると90%は蘇生する。5分後で25%、10分後ではほとんど蘇生できない。また呼吸停止後に心臓も停止して脳に酸素が送られない状態が3~4分以上続くと、蘇生しても重大な後遺症が残る可能性がある)。BJはどうやら赤ん坊が生まれる現場に立ち会っていたようなので、「息がとまった」赤ん坊を助けようと思えば助けられたはずなのだ。しかし彼は赤ん坊に対して救命行為を一切行なっていないし、脳死の確認もしていないようだ。急展開のどさくさに紛れて(?)BJは一人で非情な決断を下し、仮死状態の赤ん坊よりは少年を救う道を選んだと思われる。ここらへんが、この話も「植物人間」に負けず劣らずの問題作だと思う所以である。いやそれ以前に、脳移植の是非も問題だろうが……。

ここでのBJは宗教とは一番遠い位置にいる。徹底的な現実主義者だ。生まれたばかりの赤ん坊の息が止まり、悪魔的な所業をした父親が「自分のせいだ」と悲嘆にくれている場面でも、BJはその身体を有効利用することしか考えていない。死んでしまった(と皆が思っている)ものはもうどうしようもない。それよりは生きようとして苦しんでいる者を救うのだ、というのが、この天才外科医という神の存在理由だ。(赤ん坊はそのために生まれたんだ)とは、救わなかった赤ん坊へのせめてものはなむけの言葉か、それとも自己弁護でもあったろうか……。

(赤ん坊はそのために生まれたんだ)。神父はそれをイエスの思し召しと取る。父親の暴走、BJの独断と手術という人為は加わっているが、それらも含めて全て神の意思と捉えているのではないかと思う。このストーリーで、この神父は非常に魅力的なポジションにいる。BJが「死体待ち」と言ったときの彼の表情は見ものだ。彼にはBJが悪魔に見えていたかもしれない。渦中の人々である少年の家族とは少し距離を置いたところから全てを見ていて、BJの密かな赤ん坊殺しの罪にも気付いている唯一の人物ではないかと思う。しかし彼はBJを告発しない。「神がくださったのだ!」「たぶん…………」。この「たぶん…………」というところに、彼の畏れと彼自身がそう思うことで救われたいという願いが表れていると思う。もう少しページがあったなら、この神父とBJの会話を聞いてみたかったと思うものである。

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隔世の感

先日お盆のときに会った姪っ子たちが、実家にあったファミコンで遊んでいた。ニンテンドーの初代ファミコンである。あの赤と白のやつ。当時父が麻雀がしたいというので買ったのだが、他のソフトでも遊べるというのに彼は結局麻雀しかしなかった。我が家では「麻雀専用機」と呼んでいた(笑)。私が買った「テトリス」や「Dr. Mario」や「紫禁城」などのソフトがそのまま置いてあったのを、今は姪っ子が珍しがって遊んでいる。

私のゲーム歴はこの初代ファミコンで終わったと言っても過言ではない。その後に買ったゲームボーイは「ぷよぷよ専用機」だし、DSは「BJ火の鳥編専用機」だ(笑)。今でもテレビゲームの最高峰は「テトリス」だと信じて疑わない(痛い?)。

後日行ったときには、姪っ子は持参した最近のゲーム機(よくわからん)で遊んでいた。後ろから画面を眺めていたのだが、三国志の英雄と、日本の戦国時代の武将と、孫悟空と、太公望と、平清盛が出て戦っていた。もう叔母ちゃんにはついていけまへん……。

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ブッダとイエス

あちこちで推奨されていた『聖☆おにいさん』(中村光著)の1,2巻を購入、読了。東京立川のアパートでルームシェアして暮らしているブッダとイエスの日常を描いたマンガ。「モーニング2」で連載中。

大笑いすることはなかったが、小さなネタが時々ウケた。Tシャツとジーンズという格好で普通の人と同じように生活しようとする二人なのだが、ふと気を緩めると奇跡を起こしてしまいアタフタするのに笑える。聖人ならではの苦労というものがあるものらしい。

仏教ネタはだいたい判ったと思うのだが、天界でウケている「肋骨ダンス」というのが判らない。“bone dance”で「盆踊り」のシャレだろうか。キリスト教のほうのネタはどれくらい判ったか心もとない。イエスがヨハネから洗礼を受けたときはどういう事情だったのだろう? このマンガに描かれている灌頂礼が正しいのか? ちょっと調べてみなくちゃな……。仏教キリスト教の知識がもっと多ければ、より深く楽しめるマンガのように思われる。

しかしこんなマンガ、日本でないと受け入れられないんだろうな。二人の教祖様がいたって仲良くのほほんとしている姿には癒されるものがある。これがイエスとマホメットだったら、こんなふうにはならないかもしれない。

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オリンピックと終戦記念日

オリンピックというのは平和的な戦争だと思う。否が応でもナショナリズムが前面に押し出される構成になっている。つくづく考えるのだが、どうして自分は日本を応援するのか?(ほとんどオリンピック放送は見ていないが、日本選手が外国人選手と戦っていたら、そりゃあたぶん日本を応援する。)理由は、自分が日本人だからだ。その選手と同じく、同じ日本人で日本の国土に住み日本語を話すからだ。即ち、自分に近いからだ。なんだ。ナショナリズムって結局自己愛だ。

いま読んでいる『イタリアの図書館』に著者のイタリア見聞記が載っているが、イタリアでは中世の都市国家の名残で未だに「私はローマ人だ」とか「私はミラノ人だ」という言い方をするそうだ。もちろんオリンピックでは皆「イタリア人だ」と言うのだろうが。そこにあるのはより狭いぶん より強力なナショナリズム、即ち郷土愛であり、より強力な自負心だろうと思う。

スポーツで発散できるくらいの程々のナショナリズムが良いよ。兵器の良し悪しや物量ではなくて、人間というひとつの生き物の肉体と精神の力だけで闘うのが良いよ。それだったら、人間同士としてきっと判り合える。国家単位で命のやりとりなんて野蛮なことは人間のやることじゃない。仮にも万物の霊長を自認するなら、それを回避してうまく処理する道を探さなくちゃウソだ。

不幸にも戦争で命を落としたすべての国のすべての御霊に心からの追悼を。

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しきたりとか伝承とか

母のいるグループホームでは、皆が集るスペースに「今日は○月○日」と書いた大きな張り紙がしてある。職員さんが毎日数字の部分を入れ替える。それを見て母は「お盆だ」と突然気付いたらしく、「お墓参りをしたいと言っておられます」と連絡が来た。

夕方、兄の車で父方と母方の二つの寺に詣でる。道々、「今年はお料理を何もしていない」とか「迎え団子を作っていない」とか「お花を買っていない、どうしよう」とか、いろいろ不安になったらしい口ぶりで話す。「大丈夫。みんな済んだから」と言っても10秒後には忘れて不安がっている。何もやっていないという記憶だけがある(それも“勘”かもしれないが)のも気の毒だが、ずっと何十年もの間、お盆にはそうしなくてはいけないという強迫観念めいたものを抱いていたのかもしれないと思うと、それもかわいそうに思われたりする。

私の実家は本当に親戚が少なくて、お盆だからといって誰かが泊りがけで帰省したりということは皆無だった。しかしそれでも和尚さんが仏壇を拝みに来られるし、時々誰かが訪ねてきたりしたので、13日の朝にはちゃんと準備が整っていなくてはならず、大晦日ほどではなかろうが母にとっては忙しく、また気を遣う行事だったのだろう。煮しめを中心とした精進料理も夏場は傷みやすいし、冷房などない台所で汗だくで何回も素麺を茹でている母の姿も覚えている。

ふと、お盆のときだけに食べた「うどん豆腐」というものを思い出した。とろみをつけた澄まし汁の中にうどんのように細長く切った豆腐が入っているというもの。あまり美味しいものではなかったが、お盆の料理の定番だった。覚えているかと母に尋ねると、覚えていると。ただしこれがわが家だけの風習だったのか、母方の実家から受け継いだものなのかは、忘れたらしい。もっと早く確かめておけばよかったと思ったが、あとの祭。母がせっかく受け継いできたものが私には伝わらなかったことに、忸怩たる思いを抱えた。私は決定的なチャンスを既に逃がしてしまった……。

私が子どもの頃には、年配の人達というのは何でも良く知っていた、と思う。特に仏事とか年中行事とか、あるいは日常のタブーとか。「しきたり通り」というといかにも古臭くて迷信っぽくさえあるけれども、たぶん最初はそれなりの理由があったことどもなのだろう。一概にバカにしたものでもなかろうと、今になって気付く。お盆で親戚の皆さんが集られるご家庭では、年長の方々の昔話に是非耳を傾けていただきたいと思う。それこそが「家」の歴史だ。

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おかえりなさい

父の初盆。母は結局参加(?)しなかった。父の死が理解できておらず、まだ入院中だということで通している手前、例年と違う飾りつけがしてある盆棚の説明がつかないため。父があの世から帰ってきていれば「あらあら」と思ったかもしれないが、事情を汲んで許してくれると思う。

姪っ子が明日から東京へ行くと言う。ゲーム関係だと言っていたが、何のゲームでどんな本を作っているのかよく知らない。『BJ』関係なら叔母ちゃん買ってあげるんだけどね(笑)。エスカレーターには気をつけろと言っておいた。

若者はコミケに行き、大人はお盆の行事。まぁそんなもんなんだろうな。夕方独りでお墓参りをして、しばし父と語らった。

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勝った負けたと……

いやもうどうも、テレビをつければオリンピック一色で、他の番組を観ていても日本選手が金メダルを取った取らないとニュース速報が流れる有り様で、マスコミはどうでもオリンピックに興味を持たせたいらしい。スポーツに、勝敗にまったく興味のない人間にとっては、うっかりテレビもつけられない日々が続く。

私がオリンピックに燃えたのは1972年のミュンヘン大会までだった。男子バレーが絶頂期で、なにしろ『ミュンヘンへの道』なんていうアニメまで放映されていた。大古、森田、横田の3本柱に名セッター猫田を擁して金メダルを狙いに行ったときだ。準決勝ブルガリア戦で奇跡の大逆転勝利を得たときには大興奮した。観ていたこっちが燃え尽きた(笑)。ベテラン南の起用がズバリ当たったと記憶している。決勝は東ドイツ戦だったかな。場所がミュンヘンということで、東西に分断されていたとはいえドイツが負けたわけで会場の盛り上がりにはちょっと欠けていたけれども。決勝戦よりあのブルガリア戦は今に至るも忘れ難い。

だからスポーツ自体は、見れば面白いとは思うのだけれど、すぐにメダルに結びつけて話題にする姿勢に辟易する。結果だけを見る態度は絶対に間違っていると思うんだけどね。

『イタリアの図書館』(宍道勉著)読書中。

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『BJ』と戦争

『ブラック・ジャック』という作品が生命の大切さをテーマにしていることはもちろんだが、もうひとつ大きなテーマがあるとすればそれは戦争だろう。手塚治虫は多くの作品に戦争の悲惨さと平和への希求を描いている。先日テレビ放映された『どろろ』も、本来はもっと戦国の世の地獄絵図と、戦いに勝つことによって利権を我が物にしようとする人間の醜さをこそ中心に描かれるべきだったろうと思う。その人間の欲望が生んだものこそ48の魔物であり、百鬼丸はその犠牲者として生まれたのである。

『BJ』にも戦争の犠牲者や被害者は数多く登場する。「アナフィラキシー」のジョージ・メイスン、「戦争はなおも続く」のルナン、「やり残しの家」の丑五郎。「魔王大尉」のケネス大尉もまた戦争によって精神を蝕まれた被害者であろうし、「あつい夜」のゴ・ウィンは家族を失った恨みと悲しみを戦争が終わった今もなお持ち続けている。そして何よりBJ自身も戦争の影を引きずっている。彼はアメリカ軍が作った射撃演習場跡地で不発弾を踏んだのだ。太平洋戦争がなければ、敗戦して一時的にせよ日本がGHQに占領されることがなければ、日本の地にアメリカ軍の射撃演習場など作られることはなかっただろう。彼の一生を一変させた事故の遠因は戦争である。その戦争を憎む気持ちは、まさに彼の骨の髄まで染み渡っていると言ってよかろう。

もう一人の黒医者ドクター・キリコもまた戦争の被害者である。元軍医である彼は、戦地で助かる見込みもなく苦しむ兵士を死なせてやり、それが安楽死に手を染めた最初であるとされている。助けられるものなら助けただろう。しかし次から次へと運ばれてくる傷病兵を全て助けてやれるほどの物資的時間的余裕は、戦地にはなかったに違いない。現在でも、天災が起こって怪我人が多数出たときには、助かる見込みのある者から助けるのが常識となりつつある。容赦ない選別が行なわれ、それを是としなくてはならない極限の状態である。悲しみも情けも捨ててかからなくてはならない異常な状況の中で、キリコは軍医としてはあるまじき、しかし人間としては至極真っ当にも思われる安楽死という手段を選んだ。

退役してからのキリコが普通の医者に戻らなかったことに関して、そこにどういう心の動きがあったのか私には想像もつかないが、彼に関して最も興味のある部分でもある。「死神の化身」で『BJ』に初登場した彼は、殺人嗜好者のような恐ろしさを纏っていた。役に立つ者なら助けるが役に立たない者は遠慮なく殺すと明言しており、これは戦争という非常時における考え方に連なるものである。私はこれを最初に読んでいるから、後に同話が「恐怖菌」に描き改められキリコの不気味さが薄められても、やはりキリコは怖くて非情な男だというイメージが抜けない。たぶん「死神の化身」から「恐怖菌」への間に、手塚治虫自身の中でのキリコのイメージが変化し固まったのだろう。手塚の意向を考えれば定本とすべきは「恐怖菌」の方であろうから、私が抱いているイメージは払拭しなくてはいけないと思ってはいるのだが、第一印象が強烈だったがためにこれがなかなか難しい……。

ところで手塚治虫は戦時下の大阪帝国大学附属医学専門部の出身である。これは軍医を速成するための教育機関で、もしも戦争がもっと長引いていたならば手塚自身も従軍してどこかの戦地へ送り込まれていた可能性は高い。そうなればキリコのようにジレンマに苛まれていたかもしれない。苦しんで死を待つばかりとなった兵士を安楽に逝かせてやることを一概に「悪」とは言えないという思いがあったのかもしれない。キリコの描写の変化は、手塚のそうした思いの反映であり、同時に、もう一段階深いところでのBJとキリコの対立を描くことを可能にしたように思う。ギリギリまで同じだが、最後の最後に正反対を向く二人の構図の鮮やかさ。BJが手塚治虫の影であるように、キリコは手塚がもしかしたらそうなっていたかもしれないもう一つの影なのだろう。

BJとキリコは不可分の存在なのであるが、ならばもしもBJが軍医となってキリコと同じような事態に追い込まれたらどうするだろうと想像してみる。彼ならば誰のものとも知れぬ千切れた肉片を縫い合わせて1人の兵士の命を救いそうな気もするが、そのための物資さえ無いという状況ならば……。たとえ1人の天才外科医がいても、非常事態の中で彼がたった1人の命を救う間に5人の命が失われたという事実は「病院ジャック」に描かれている。この話は戦争に関係してはいないが、非日常、突発的な危機的状況という点では戦時下と同じようなものだと考える。戦地では医師一人ひとりの力量などほとんど問題外なのではないかと思う。キリコの場合と同じく、日々死んでいく兵士を呆然と見送ることしかできないのではないか。しかしそれでもBJならば安楽死だけはしないように思う。たぶん目の前で消えかかっているたった一つの命の火を消さないことだけを考えるのではないかと想像する。そしておそらく、多くの命を救えなかった自分を悔しがるのだろう。何度でも。

いや、そもそも「軍医」と「BJ」というのが相反する概念なのだと思う。いや、それを言えば「戦争」と「軍医」もまたそうなのかもしれない。命懸けの戦いが行なわれる現場で、命を救おうとすることの虚しさは……。もちろん、傷ついた兵士一人ひとりにとって軍医が神にも等しいありがたい存在であることは想像に難くない。しかし傷が癒えればまた戦いに復帰しなくてはならない状況の非情さときたら……。人間はロボットではない。壊れた部品を交換してハイ元通り、行ってらっしゃいというものではない。しかしそれと同じことを兵士と軍医に課するのが戦争というものだ。決して軍医という存在が無意味なわけではない。しかしそれを存在せしめる戦争というもの自体が不条理なのだとつくづく思う。

……終戦記念日の週には戦争に関することを書こうと前々から決めてはいたのだが、いざ書き始めるとやはり支離滅裂なものになってしまった(大汗)。ドクター・キリコは避けて通れない人物なのに、その心の変遷がいまひとつ掴み切れない。BJとどこがどう違って背中合わせの関係になってしまうのか、その決定的な要因が、自分で納得できる答が、見えそうでなかなか見えないのが歯痒い。自分に戦争体験が無いことが理由の一つだとは思う。戦争を体験した世代との乖離ってのはそういうものだとも思う。しかし体験したからといってキリコの気持ちが判るものでもないかもしれないし、体験したくもない。BJはキリコを良く理解した上でケンカしているような気がする。その辺り、二次創作の作家さん達は上手く描いていらっしゃると舌を巻くのだが……、う~ん、BJの苦悩とともにキリコの懊悩というのは実に興味のある点である。キリコに関してまだまだ自分の読み方が浅いことを恥じるばかりだ。

ところで今回、ネットで軍医の記録等を少しばかり調べたのだが、軍医は基本的に外科医が多いように感じた。キリコは Army Surgeon かもしれない。しかし中には、ベトナム戦争を肯定し軍医として従軍したものの、後に精神科医となった Gordon S. Livingston のような人物もいる(もともと精神科医だったのかどうかは不明)。彼はベトナム戦争の内情を知るにつれ疑問を持ち始め、戦争を告発する文書を書いて即刻逮捕、本国へ送還された。彼は後の著書でこう書いている。“The war was a waste of lives and inflicted untold misery on this country and on Vietnam.”彼の政治的信条としての側面もあるかもしれないが、「戦争は命の浪費である」という部分には軍医としてのやり切れない思いが垣間見えると思う。

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暑い!ネズミ!花火!

父の初盆の準備をせねば、ということで、きょうは兄と実家の大掃除。簡単に済むだろうと思っていたらドッコイ! 今年2月に母がグループホームへ入所してからほぼ半年間無人になっていた家は、ずいぶんと荒れていた。ときどき兄が風を通しに来ていたのだが、人の世話で手一杯で、とても家のことまで手が回らなかった(泣)。ゴキブリは覚悟していたけれども、ネズミまで出るとは思わなかった。キャーーーーーーー!!! 我ながら可愛い悲鳴だと思いつつ、5mほど飛んで逃げた。うん、こんなときにはまだ機敏に動ける。どうやら冷蔵庫の後ろに入り込んだようだったが、もうどうしようもない。後は知らないっと。

もう台所に入る勇気はないので、トイレと風呂場と、玄関から仏間までの廊下と部屋の掃除をして、仏壇の掃除をして、盆棚をしつらえ、盆提灯を組み立てて、終了。二人掛かりで3時間ばかり。畳を拭きながら、顎からボタボタ汗が落ちる。ヘトヘトになった。最初にお墓の掃除に行っておいてよかった。

暗くなってから家に帰ると、締め切っていたために家中が暑い。外より暑い。滝のような汗をかきながら窓を開けるが、今夜は夫と花火を見に行く予定だったので、間もなく仕事から帰ってきた夫とともにまた窓を閉める。8時過ぎ、二人で自転車に乗って大橋川まで走る。去年はもっと涼しかったよねと言いながら、8時半から1時間、宍道湖上に打ち上げられる花火を眺める。例年のことだが、ラストの5分ばかりは圧巻だ。

我々が見た場所は音が2~3秒遅れて聞こえるようなところで、周りにいるのはランニングに短パンのお父さん、団扇を持ったアッパッパ(と言っても若い人達にはわからないかもしれない。ムームーだ。と言ってもわからないか。苦笑)のお母さんといった年配の人達が多かったのだが、打ち上げ場所に近いところには若い人達が多いはずだ。浴衣にミュールで気合の入ったお嬢さんと、それを嬉しそうにエスコートするお兄さんのカップルとか。いいよねぇ、真夏のデート。われわれ夫婦は川岸に腰掛けて、いまフナムシが足を這った~~と言いつつの花火見物であった。色気もなにもあったもんじゃない。

夫よ、55回目のお誕生日おめでとう。

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(備忘録080809)

『水木サンの猫』(水木しげる著)読了。
 水木作品のうち猫又とか猫の妖怪が出てくる話を集めたもの。全体的に猫に好意的に描かれている。それにしても、水木しげる描くところの女性がみな美人なのに驚く。男はたいてい人間離れした顔なのにね(笑)。

『シッダールタ』(ヘルマン・ヘッセ著 高橋健二訳)読了。
 一言で言えば、凄いものを読んだという実感。いつかちゃんとした感想を書いてみたいものだが……。

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080808北京オリンピック開幕

9時からNHKで観ていたが、予想通り、開会式でのCGかと見紛うほどの人海戦術によるマスゲームは凄い迫力だった。一糸乱れずとはまさにこのこと。体格から髪型までぴったり揃えるのは大変なことだったろうなあ。夫は「ギャラが出ているんだろうか」と言っていたが、どうなのだろう? 

何を隠そう、私は競技にはまったく関心がない。でもこういうイベントは好きだ。見た目にもとても綺麗だったし。演出担当は映画監督の張芸謀(チャン・イーモウ)。たしか『黄色い大地』とか『赤いコーリャン』を撮った人だったと思う。撮影出身の人だから、色彩感覚なんかが抜群なんだろうな。お得意のワイヤーアクションも多用されていた。

現在も延々と入場行進が続いている。日本(リーベン)は早いうちに終わってしまった。国名を漢字表記して一字目の画数順ということで、次にどこが出てくるのかさっぱりわからない。確かに「漢字」は世界に冠たる発明だとは思うけれども、国際化を標榜するならアルファベット順にやってくれないかなと思う。

すったもんだあったリレーの末に辿り着いた聖火の点火式が最大の見所らしいのだが、何時頃になるのだろう? 兵馬俑は? 切りがないから、もう寝ようかな。

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『もっと、狐の書評』

『もっと、狐の書評』(山村修著)読了。著者は“狐”のペンネームで1981年2月から2003年7月まで1188本の書評を日刊ゲンダイに発表した。2006年逝去。

当地では日刊ゲンダイなど馴染みがなく、従って私は著者の生前にその文章に触れることはなかったのだが、書店で本書がふと目に留まり立ち読みしてみるとなんとも心地よい文章が綴られている。迷わず買った。著者が大学図書館の司書だったという経歴にも何やら近しいものを感じてしまった。

本書には少女マンガから新約聖書まで150冊分ほどの書評が収められている。1冊につきだいたい見開き2ページ弱だから、800~1000文字くらいの分量だろう。たったそれだけで「この本が読みたい!」と思わせる力を持っている文章だというのがすごい。

そもそも書評というのは、その本の成り立ちから著者の意図するところまでをおおよそ紹介した上で、評者の見解までを書くものだと思うが、紙媒体だと文字数が限られることもあって、単純に褒めるか問題点を指摘するに止まっているものが多い。ところが、あまりに評判の良いものは読みたくない、最初から問題点が判っているものなどわざわざ読みたくないという私のような天邪鬼な読者もいるのである。その点“狐”の書評にはそのような臭みがない。「どれどれ?」と読んでいくうちに、いつの間にかその本が読みたくてたまらなくなっている。

9章に「書評者に「名前」なんか要るでしょうか」という一文が載っている。“狐”が著した『水曜日は狐の書評』について東京新聞に載った書評(評者は“狸”)への反駁である(ややこしい・笑)。“狸”氏は「……狐氏は点が甘く、ほとんど誉めてばかりです。(中略)匿名なら、(中略)厳しさも欲しい」と。ここで“狐”氏は自らの書評観を明かしている。評者が本を自身の教養を軸として裁いてしまうことの愚を語り、書評者は採点者ではなく、本を採点対象とは考えないと語る。そして、以下、ちょっと長いが、感銘を受けた部分を引用する。

「書評者は伝達者だと思う。肝心なのは、本を閉ざして自己主張することではなく、本を開いて、そこに書かれていることを伝えることのはずです。
 伝える、じつに単純なことです。しかし書かれていることをどうとらえ、どう伝えるか、それが思いのほかにむずかしい。もしも伝えるべきことがうまく、十全に、いきいきと読者のもとに届いたならば、それが書評者にとっての幸せというものでしょう。
 そしてそのとき書評文からは評者の名前などきれいに消えて、どこを探してもみあたらないはずなのです。それで、それだけで、いいのです。」

これ、読まれるために生まれてきた本たちを、死蔵するのではなくなんとか読まれるようにしてやりたいと願う図書館司書の思いと通じるものがあるのである。読者の手元に渡ってその本が開かれるなら、仲介・紹介をした司書にだって名前なんか要らない。“狐”氏の書評は、自身の教養をひけらかすという臭みがない上に、読者というよりはむしろ本に向かって注がれる眼差しが暖かい。それが、嬉しい。

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(備忘録080806)

毒入りギョーザは、やはり中国での混入が濃厚となった。福田首相は「捜査状況についてわが国の捜査当局と意見交換、情報交換している状況だ。捜査上の問題もあり、説明するわけにはいかないが、進行中である」と、相も変わらずウヤムヤなことを述べたが、この人は本当に事件を解決しようという意思があるんだろうかと疑ってしまう。国民の命が脅かされた重大事件だという認識があるんだろうか?

注目すべきは、中国側は7月初めに外交ルートを通じ、この事実を日本政府に伝えていたという事実だ。それがどうして1ヶ月もの間、日本国民に知らされなかったのか。洞爺湖サミットを優位に進めたいとでも考えたか。もしそうなら、それは功を奏したのか。何も判らない。中国との外交問題と、この問題はまったくの別物だ。この事件は明らかに犯罪ではないか。意見交換、情報交換というレベルではなく、徹底的に糾弾すべきであり、首相は国民にもその意思を明確に示さなくてはならないと思うのだが。……本当にこの人は何もしない人だなぁ……。

『もっと、狐の書評』を読書中。う~ん、良い文章だ。

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『妻よ!』

松本サリン事件被害者の河野義行さんの奥様・澄子さんが亡くなられた。心からご冥福をお祈りしたい。

あの事件からもう14年。オウム真理教の犯罪とは別に、冤罪の恐ろしさと、正義を騙ったマスコミの暴力をリアルタイムで目の当たりにした事件だった。10年ほど前に義行さんが著した『妻よ!』を読んで憤りに目が眩みそうになったことを思い出す。と同時に淡々と綴られるお二人の深い夫婦愛に感動もしたものだ。

義行さんは「これで自分のサリン事件が終わった」と語っておられたが、本当に長い間お疲れ様でしたと申し上げたい。あとは、我々一人ひとりがこの事件から得た教訓を決して忘れないことだ。

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某さま。多忙のため御本の感想をなかなか書けないでおりますが、明日は必ず! おみ足お大事になさってくださいませ。m(_ _)m

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奴らは何を歌うんだろう?

『どろろ』を観た。簡単に感想を。
ちょっと今手元に原作がなくて確認していないのだが、「鯖目」と「ばんもん」の章が繋がっていたように思う。醍醐景光と百鬼丸の決闘はオイディプス王の話っぽいけれども、多宝丸が生き返ったり景光が妖怪を裏切ったりするのは家族愛を描きたかったのかもしれないと思ったり。何が描きたかったのかちょっと焦点が定まらない印象が残った。
ラストはゲロ甘。おいおい、『どろろ』はいつから恋愛ロードムービーになったんだ? 柴咲コウは頑張っていたとは思うが、やっぱりどろろは子役でやってくれなくちゃ原作の世界観とは違うものになってしまった観がある。原作ではあんな小っちゃい子が泥棒をしなくては生きていかれない悲惨な世の中ということなんだけれども、あんな妙齢の女性なら簡単に女だとバレて……もっと悲惨な目に遭うよ。それか玉の輿に乗るかだ。どっちみち、百鬼丸と一緒に旅はできないと思う。
百鬼丸を作る寿海を観ていて、BJとピノコの関係を思い出した。寿海役の原田芳雄は良かった。ただ「術」を使ったという設定はどうも、ね。普通の医者という設定ではダメだったんだろうか?

さて、時間も無くなったし『BJ』関係のネタも思いつかないので、きょうは妄想ダダ漏れでいきます。意地でも月曜日は『BJ』語り!
BJキャラがカラオケに行ったら何を歌ってほしいかについて。あり得ない設定だとか、言わない。

BJ先生……『TSUNAMI』
 「止めど流る」は日本語としておかしいだろうなんて思いながら、歌っているうちに感極まって泣いてほしい。だって、「見詰め合うと 素直に お喋り出来ない」 だよ。 「めぐり逢えた瞬間から 魔法が解けない」だよ。「思い出はいつの日も 雨」だよ。めぐみさんソングに決定でしょ。

ドクター・キリコ……『Born To Be Wild』by Steppenwolf
 何故だかこの単純なロックナンバーが私のキリコのイメージ。ベトナム戦争と大型チョッパーを思い浮かべる。「死神」としてではなくて、戦争によって人生を狂わされた人間という印象が強いせいなんだろうな。

本間先生……『蘇州夜曲』
 これ以前に男の人が歌っているのを聴いてすごく良かったので。本間先生は中国へ行ってることだし。高音部を裏声で歌ってくれないかな。

白拍子先生……『昴』
 本人陶酔の境地で歌い上げてるけどきっと誰も聴かない(次のナンバーを入力するのに夢中)。

馮二斉……『枯葉』
 突然流暢なフランス語で歌い出したら素敵。過去に何があった馮二斉?!

琵琶丸……『崖の上のポニョ』
 琵琶ちゃん、あなたが歌うと不気味です。

友引警部……『傷だらけの人生』
 きっと鶴田浩二あたりが好きだろうと。台詞部分もしっかり暗記していそう。

うわあ、ここまで書いて時間切れっす。しかし……何故、何故、オヤジばっかりなんでせう。女性陣、最初っから眼中になかったです(大汗)。

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(備忘録080803)

ちと忙しいのと暑いのとでお疲れモード。記事は休みます。m(_ _)m
読みたい本も、まだ読めていません。う~~。

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巨星墜つ

赤塚不二夫が亡くなった。長く植物状態が続いていると聞いていたが、とうとう……。ご冥福をお祈りしたい。

ちょっと前にNHKの特集番組を観た。しりあがり寿やみうらじゅんといった奇才たちが「スゴイよね」と言っていたほどのギャグの天才。私自身は実は『天才バカボン』『おそ松くん』『もーれつア太郎』『ひみつのアッコちゃん』までの作品しか馴染みがない。『レッツラ☆ゴン』になると、もう理解不能だった。シュールすぎて何が可笑しいのかわからない。しかし『天才バカボン』という金字塔だけでもう充分ではないか。あのバカボンのパパが41歳というだけで私は笑える。あんな底抜けのギャグマンガは空前絶後だと思う。ちなみに私は全巻持っていた。某所に寄付してしまったけれど。

先月だったか、朝日新聞に「ゲゲゲの娘」「レレレの娘」「ラララの娘」の鼎談が載っていた。つまり水木しげるのお嬢さん、赤塚不二夫のお嬢さん、手塚治虫のお嬢さんのことだ。現在3人ともが父親のマンガに関する仕事に携わっておられる。家族にだけ見せる父親の素の姿などを、憧憬と愛情を込めておもしろく話しておられたが、赤塚不二夫のお嬢さん(りえ子さん)は父親の病状のことなども気にかかっていたのだろう、その話し振りに胸が詰まるような思いを滲ませておられたように思った。

ギャグマンガの巨星、赤塚不二夫。きっと今頃は大好きだったお酒をラッパ飲みしながら「これでいいのだ」と言っているに違いない。合掌。

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予言

きょうから8月。1週間後には北京オリンピックが始まる予定だ。ところがメイン会場の周辺にはテロに備えてミサイルが配備されただとか、中国国内では未だに暴動が起こっているだとかの物騒なニュースも絶えず、本当に無事に開催できるのか誰しもが不安に思っているところではなかろうか。

未来から来たと称するジョン・タイターやジュセリーノ・ノーブレガ・ダ・ルースというブラジル人予知能力者は、北京オリンピックは中止になると予言した。先ほどジュセリーノ氏の予言についてちょっと調べたが、かなりの的中率で驚いた。一方では、唐代の詩人李白が北京オリンピックや四川大地震を漢詩で予言していたとする「偽漢詩」も出回ったりしている。

北暮蒼山蘭舟四 
京無落霞綴清川 
奥年葉落縁分地 
運水微漾人却震

沓冠歌の要領で、各句の最初と最後の漢字を並べると「北京奥運(北京五輪)」「四川地震」となる。ただ、この詩は意味が通らない上に韻も踏んでおらず、李白全集にもこんな詩はないらしく、ニセモノだそうだ。まぁ微笑ましい罪の無いウソであって、中国の人々(漢民族の人々と書くべきか)はこの一大イベントを楽しみにしているということなのだろう。

ところで、この「予言」というもの。予言者たちは、自分が発した予言が及ぼす影響というものを考慮しているのだろうか。地震とか隕石の落下とか異常気象とかの天災についてはここでは問題にしないが、例えば誰かが暗殺されるとか今回の北京オリンピック開催妨害とかの、いわゆる人為的な事象について、どうなのだろう。その予言がなされたことによって、誰かがそれを現実たらしめんと実際に行動する可能性も「0」ではないように思う。いや、別に予言をするなと言っているのではない。予言者が予言をするという行動もまた、歴史の中に組み込まれているのだろうかと思っただけだ。

昔ノストラダムスの予言にワクワクしたように、タイターやジュセリーノの予言がどうなるのかを気にしている自分が確かにいるというこの事実。今まではどこでオリンピックが開催されようが関心もなかったが、今回は、今回だけは無事に開かれるのかどうか気になる。「予言」の影響力ってのは、結構大きいと思う。せめて開会式のイベントでの兵馬俑は是非観てみたいのだが……。

"The words of the prophets are written on the subway walls and tenement halls"
---The Sound Of Silence---

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