トロッコ問題
ココログニュースで取り上げられていたのだが、「トロッコ問題」という古典的な問題があるそうだ。こういうのもパラドックスと言うのだろうか。ジレンマを発生させる思考実験と言ったほうが良いような気がする。また哲学の領域というより倫理学の領域に思われて、たとえばゼノンの「アキレスと亀」のパラドックスを考えるときのような思考遊戯的な楽しさが無い。私のこれからの人生においてこんな場面には絶対に遭遇したくないと思うような究極の選択を迫る問題である。
もしも実際にこんな立場に立たされたら……私ならきっと何も行動を起こさないのではないかと思う。それはパラドックスを考えるというそもそもの姿勢からは大きく逸脱するし、思考を放棄することに他ならないのだろうけれども、きっと自分自身の関与というもの自体を避けるのではないかと思う。一番ズルい方法かな。しかし自分自身を関与させるならば、例えば2番目の設問においては自分自身が線路に飛び降りてトロッコを止めるという方法も選択肢に入れなくてはならないと思う。しかし、私にはとてもそんな『塩狩峠』のような自己犠牲はできそうにない。
これは何を問うためのパラドックスなのかな? 確かに「1人をトロッコの前に突き落とすことと、トロッコを1人の方へ向かわせることとは、なにかが異なるようだと直感的に感じる」のだが、上でリンクした記事の最後の部分(“Science”と“Nature”の論文)によると、それはその際に活発に働く脳の部位が異なっているからであるらしい。だから医学的にはたいへん有意義な思考実験ではあるようなのだけれども。倫理学のパラドックスとして見た場合、「道徳観念において、われわれの考え方は思ったほど理性的ではないのかもしれない」という結論しか出ないのであれば、なんだか釈然としないものが残る問題だなぁと思う。
ふと、神様ならばどうするだろうかと思った。そのとき思い出したのが、以前ひろさちやさんがテレビで言っておられた言葉だ(ひろさんは仏教哲学者なので「神」ではなくて「仏」だったし、そのときの例題は「カルネアデスの板」の状況に近いものだったけれども)。仏様が誰かを助けようとされる場合、それは手近なところから助けられるのである、とひろさんは言っておられた。つまり仏様には人間個人個人の命の軽重(や人数)など関係ないのであって、助けられる人から助けるのだということだ。だとすれば、だ。いま自分が何も行動を起こさなくても1人の人は確実に助かる(その代わり5人は助からないが)という状況は、仏の意思にも沿うものではないかと思ったりする。イエス様だって99匹の羊を放っておいても1匹の迷える羊を探しに行かれるというから、やはり「数」ではないのだ(とするのはいささか強引か)。だからというわけではないが、やっぱり私ならいずれの場合も1人を助けられるなら何も行動を起こさないような気がする。
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コメント
10月28日の記事を見ようとして途中で止まりました。そういえば、教育白書でやってたな……と。
放送内でも一人紹介されてましたが、わたしはトロッコの『脱線』を選択します。その結果6人全員が死のうとも、全員が生き残る可能性が1%でもあるその選択を取ります。
橋の上からなら、何もなければ見てますかね……。近くに石や木片があるなら、もしくは、線路に砂利を敷き詰める時間が十分にあるなら、動くでしょう。
あとは気分の問題ですかね。
橋の上の解答は、別に、一人を突き落とすのが嫌だというわけではなく、どちらかが死ぬしかないならどちらでも同じだろうというだけで、後のことを考えれば、自分が責められるか鉄道会社が責められるか、ならば、鉄道会社であるのが妥当だという考えなだけですね。
投稿: もりびと | 2008年12月 4日 (木) 01時05分
もりびとさん
残念ながらこの設問に「脱線」という選択肢はないのです。結果として1人か5人かの人が死ぬ、そのどちらかを選ばなくてはならない。そして自分が何もしなければ5人が死ぬという状況があるだけなのです。
この問題、実際にそんな切迫した状況があったとしたら咄嗟に上手く判断ができるかどうかという点で、私はちょっと座り心地の悪さを感じてしまいます。後々じっくり考える場合とは違う結果にもなるのではないかと思います。実際その場にいたら責任問題まで考える余裕があるかどうか……。1秒しか余裕がないのか、1分くらいあるのか、それもわかりませんけれどね。
ただ、1秒しかないような咄嗟の場合にはきっと、もりびとさんの仰る「気分」というのが大きく作用するように思います。そしてそれは本能に近い直感的「気分」だろうと想像します。決して「きょうは気分が良いから5人助けよう」なんてものではないだろうと思います。
さてもりびとさんのご気分やいかに。
この記事を書くに当たって当日どうしても思い出せなかった言葉を思い出したので、この場を借りて付記しておきます。
「一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」(『歎異抄』より)
--たった一人の人間でも業縁(原因や縁や理由や条件など)が整わなければ害せないものなのだ。自分の心が善いから殺さないのではない。また、害することのないようにと思っても百人千人を殺してしまうこともあるのだ。--
人間は自らの意思ではなく業縁によって左右され行動する存在なのだということを説いているのだと思います。咄嗟の場面では特に、意思なんてものは働かないような気がしてなりません。
投稿: わかば | 2008年12月 4日 (木) 14時48分