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2008年12月

2008⇒2009

『紅白』のフィナーレの賑やかさと、その一瞬後に映る『ゆく年くる年』のお寺の静かな佇まいのギャップ。これを見ないと大晦日という感じがしない(笑)。今年はアンジェラ・アキと森山直太朗の対決がみどころでしたな。
今年もなんとか無事に暮れました。

今年一年、皆様方にはたいへんお世話になりました。ありがとうございます。
来年がより良い年になりますように。2009年もどうぞよろしくお願い申し上げます。m(_ _)m

さ~て、お蕎麦を茹でよう。

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今年読んだ本 2008

今年は何冊本を読めたかな? 再読を含めて100冊くらいなものかもしれない。その中で印象深かったものを挙げてみると……。

『シッダールタ』(ヘルマン・ヘッセ著)がダントツなのだが、ブログには感想を書いていない。思いをうまく表現できそうもないけれども、とにかく何か大変なものを読んだ、という印象だった。これから先も幾度となく読み返しそうな予感がする一冊。

『日本浄土』(藤原新也著)、『死神の精度』(伊坂幸太郎著)、『街場の現代思想』(内田樹著)などがそれに続く。フォトエッセイ、小説、評論と、ジャンルが相変わらずバラバラだ(汗)。伊坂幸太郎と内田樹は他にも何冊か読んだが、いずれもハズレがなく面白かった。

あと、手塚治虫生誕80周年ということで、手塚関係の本をたくさん読んだ年だった。来年は没後20年ということになるのかな? また関連本がたくさん出るのではないかと楽しみである。

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本日休診

きょう大掃除をやる予定でしたが、年賀状のラストスパートやら(まだ書いてたんだなこれが)、今は無人になっている実家の手入れやら、母のご機嫌伺いやらで、まったくできませんでした。明日と明後日、頑張ります。

Photo 掃除に勤しむ先生とピノコ嬢(「肩書き」より)。お~い、ウチも頼むよ。

さて、月曜日は『BJ』語りの日なのですが、きょうはネタを考える暇がありませんでした。また新年に頑張って書こうと思います。いや、「頑張って」というのは実は当たっていません。月曜日の記事は、毎日の記事より楽しんで書けます。なにしろ好きな人、好きなお話についてのことなのですから。

いまちょっとこの一年の間に何を書いてきたのかざっと目を通してみたのですが、まぁ大したことは書いてなかったです(大汗)。ただ、私の中ではめぐみさんの存在が大きいなぁと改めてわかった一年だったかもしれません。私が歳を取っていくにつれて、その存在感は一層大きくなるかもしれないと思ったりします。『BJ』の中で、女の一生とか、女の生き方とか、あるいは女の魅力とか、そういうものを私に考えさせてくれるキャラです。「女」という性を捨てた人なのに、ね。これが手塚先生お得意の、欠落させておいてその部分に目を向けさせるという手法なのかもしれませんが。

しかしまあ、『BJ』という作品については、考えるネタが尽きるということはまずありませんね。めぐみさんのことも然りなのですが、BJ自身は狂言回し的な役割を担っていますから、本当に目を向けなくてはならないのは毎回のゲスト出演者の方なのでしょう。数え切れぬほどの登場人物の、それぞれの思い等々、来年からはそういうことも書けたらいいなと思っています。

今年も『BJ』関係で新しくお知り合いができました。本当に嬉しいことだと思います。30年以上も前のマンガなのに(感涙)。また来年からもここでグダグダと語って参りますので、今後ともどうぞよろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。m(_ _)m

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色恋話

バスを待っていると、右斜め後方にいた女の子2人の会話が聞こえてきた。私服だからよくわからないが、おそらく高校生だろう。友達のことを話しているようだ。
A子「Y(女)がT(男)と別れたんだって」
B子「えッ?! この間やっとHしたって聞いたばっかりだよ」
ここで私の右耳が俄然ダンボになる。ところがその途端にA子のケータイが鳴り、話が中断。あと4分ほどで私の乗るバスは来てしまうのだから、ちゃっちゃと続きを話してほしい。

幸いにも二言三言でケータイでの話は済んで、それからのA子の話を要約するとこのようになる。YはTのことが大好きで身も心も捧げたのだが、その後でTは二股をかけていたことがわかった。それでTを責めたところ、あっさり振られたということらしい。A子さんは「(Tのことを)信じられない!」と。B子さんは「あんなに好きで、捧げたのにね」と。A子さんの話では、その後Yさんは泣き暮らしているという。二人して「Yちゃんかわいそう……」と言っているところで、私のバスが来た。

バスに揺られながら、青春だなぁ~と羨ましく思う。身辺でそのテの話を聞かなくなってからもう何年……いや何十年たったことか(笑)。「捧げた」とはまた古風な、と、笑ってしまった。バス停で声をひそめることもなくこんな話をしてはいるが、根は真面目な子たちなのだろう。そう簡単に誰にでもくれてやることもできないが、捧げるほどのものでもないように思う私のほうがずっと不良で夢がないんだろうな。

Yちゃんのことはかわいそうに思うが、なに、すぐに忘れるよ。本当に、ずっと長いこと忘れられないのは、プラトニックラブだ。……と、私の経験上断言する。誰も(特に女は)将来別れようと思って恋人になるわけはなくて、だから「この人なら」と愛して一線を越えることは別に責められるべきことではないと思う(未成年の場合は後々の責任等よくよく考えなければいけないのだけれど)。Yちゃんも、自分が信じてそうしたのなら後悔なんかすべきじゃない。「捧げられただけよかった」と思って、スッパリ割り切って次の恋を見つけてもらいたい。

……この後、調子に乗ってずらずら書いていたのだが、明日読んだら絶対恥ずかしくてたまらなくなりそうだったので、削除!! ここで唐突に終わります(笑)。

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(備忘録081227)

午前中も午後も超多忙でバタバタしていたのに、完全に終わったものが何ひとつないってのはどういうこったい! な一日でした。
記事はお休みしますです。

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宇宙ゴマ

わが家は敬虔な(?)仏教徒なので、クリスマスには精々ワインを飲んで酔っ払うくらいが恒例行事である(罰当たりな!)。今年も決して例外でなく、そうであった。子どもがいないため、ツリーにもリースにもプレゼントにも縁がない。

「子どもの頃にはプレゼントをもらっちょったかね?」と夫に尋ねると、「宇宙ゴマをもらった覚えがある」と。その名を聞いたことはあるがどんなものか知らなかったので訊いてみると、「知らん?!」と驚かれた上に「輪っかの中でコマが回る。どこででも回る」と非常に判りやすい説明。全っ然わからんがね! 「ジャイロだ」と言われてやっとわかった。ジャイロスコープとかジャイロコンパスとかいう、アレが宇宙ゴマだったのか。

ネットで調べてみたら、「地球ゴマ」という登録商標でWikipediaに載っていた。「宇宙ゴマ」は模造品とのこと(ヒヒヒ)。リンク先で映像も見てみたが、なかなか不思議で面白そうなシロモノだ。回転を10分の1のスローで見せる映像など見ていると、なにやら神秘的にさえ思われてきた。物理の苦手な人間ゆえ「歳差運動」などと言われると寒気がするが、地球に起こっていることとまったく同じことがこの小さなコマにも間違いなく起こっているのだと思うと、その不思議さに……身体が捩れる(私は難しいことを考えると身体が捩れます・笑)。

これ、宇宙空間で回したらどうなるのだろう? コマも回るが重力がないからコマ全体も回るのだろうか。それも初めの勢いと方向そのままに、永遠に回り続けるのだろうな。しかしアレだ。地球やほかの天体がずっと回り続けているということ自体、身体が捩れそうになる事実だ。周りが真空で摩擦がないという事実もそうだし、回っているうちに重力だの遠心力だのが発生することもまた……。ビッグバンの衝撃のままに今でもすごい速さで拡がりつつ、個々の天体は回り続ける宇宙って……。

ねぇねぇ、個々の天体の距離は徐々にすごい速さで離れていっているはずだよね。太陽と地球の距離も大きくなっていっているはずだよね。地球と月の距離も。……それなのにどうして、いつまでたっても月の見かけの大きさが変わらないの? 全体の宇宙がとてつもなく大きいから、それがたとえどんなに高速で拡がっていても、地球と月の距離なんて目じゃないってこと? 宇宙って、どんだけ大きいのか……。身体が捩れまくったところで、終わり。あ、最初はクリスマスプレゼントの話だったんだよな。支離滅裂で、スミマセン。

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(備忘録081225)

まだ年賀状のデザインが決まらないのです。焦ってはいるのですが、ネットを漁っているうちにいつか脇道に逸れて「大富豪」ゲームなんかやっている自分がいたりします(汗)。なんとか今夜中に決めないと。
というわけで本日の記事はお休みします。冷え込んでいます。明日は銀世界かな。

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7 o'clock News / Silent Night

「マーティン・ルーサー・キング牧師は、日曜日に予定されているシカゴ郊外シセロでの住宅解放デモ行進を中止するつもりはないと語りました。郡の行政区を管轄するリチャード・オグルビー保安官は、デモ行進を中止するようキング牧師に要請しました。……」
「ワシントンでは、反米活動に関する議会の予備議会で、討論がヴェトナム反戦運動に移るにつれて、緊迫した空気に包まれています。傍聴していたデモの参加者たちは、反戦スローガンを大声で歌いはじめたため、強制的に退廷させられました。前大統領リチャード・ニクソンは、現在ヴェトナムで行われている戦争で実質的な成果が認められない場合、米国はさらに5年間戦争をつづけるつもりだと語りました。」

これはサイモンとガーファンクルが歌う“Silent Night”のバックに淡々と流れるラジオのニュースの内容である。この他にも、公民権法案に関する住宅解放問題だの、コメディアンのレニー・ブルースが麻薬の過量摂取で死亡しただのという話題に触れられている。

1966年発表のアルバム“Parsley, Sage, Rosemary and Thyme”のラストナンバーなのだが、42年たっても社会の状況というのはあまり変わらないものらしい。アメリカの低所得者層の住宅問題は既にこの頃からあって(レッドライニング)、今年サブプライムローン問題となって世界を揺るがした。イラク戦争が終われば今度はテロの標的をアフガンに定めて戦争は続く。ヴェトナム戦争が泥沼化していたこの頃とどこが違うだろう。来年は初の黒人大統領が就任するが、キング牧師はこの歌の2年後の1968年に凶弾に倒れた。人種差別問題は果たしてどれくらい解決されたのか。オバマ氏は大丈夫なのか……。

来年は今年よりも良い年になってほしいものだが。

Silent Night!
Holy Night!
All is calm,
All is bright!
Round you virgin mother and child!
Holy infant so tender and mild,
Sleep in heavenly peace, sleep in heavenly peace!

Goodnight!

              【参考:『サイモン&ガーファンクル詩集』山本安見訳】

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靴下と炬燵と

昔から靴下というものが嫌いだった。幼少期を過ごしたのが純然たる日本家屋(要するに畳と板の間しかない)で、フローリングなどというシャレたものなどどこを探してもなかったから、スリッパを履く習慣もない。この性癖はいまに至るも変わることがなく、私はどんなに寒い冬の日でも、板の間を素足で歩いている。

さすがに外に出るときには靴擦れを起こすといけないので靴下を履くが、家に帰れば一番に脱ぐ。この癖がきょうはよそのお宅で出た(笑)。寒かっただろう、上がって炬燵に当たれと言われてすぐさま靴下を脱いだら、笑われた。気の置けない人だからよいのだけれど。普段でも靴下を履かない人間が、ましてや靴下を履いたまま炬燵に当たることなど考えられないのであった。

幼い頃に、靴下を履いたまま炬燵に当たってはいけないと教わった、ような気がする。理由は知らない。健康上の理由か、衛生上の理由か。いずれにせよ、それでなくとも靴下は嫌いなのだから、その教えを守るのにやぶさかではなかった。同様に、夜寝るときも靴下は履くなと言われた。こちらも、今に至るも忠実に教えを守っている。昔の冬は今よりずっと寒かったはずなのだが、不思議と霜焼けなどになったことはなかった。

そういえば、今年はまだ炬燵を出していない。暖冬だということなのだろうな。昔だったら今頃は雪遊びで手袋をビショビショにして帰って、掘り炬燵のやぐらの格子にぶら下げて乾かしていた頃だ。なんか変な匂いがする、と布団をめくって見ると、手袋が金網の上に落ちて焦げていたりして……。懐かしいな。

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父子の愛憎劇

きょうはBJの父親について考えてみる。アニメでは「影三」という名前と新たな設定が加えられたが、原作では名前も明らかではない(ちなみに「かげみつ」という名前で思い出されるのは「どろろ」の百鬼丸の父親・醍醐景光である。もひとつおまけにアニメでBJの母親の名前だった「みお」は、百鬼丸の彼女の名前である。BJと百鬼丸の類似点については以前に書いたことがあるので割愛)。BJの父親(以後、間氏と呼ぶ)は68話「えらばれたマスク」と233話「骨肉」の2編に登場するが、「骨肉」では脳卒中で倒れて既に意識もない状態である。さて間氏という男、どういう人間であるのか。

原作中、間氏のことに言及された最初は39話「純華飯店」と思われる。ちなみにBJの少年時代が描かれている28話の「指」ではまったく触れられていない。「純華飯店」のラスト、「あなたはまだ父親がいてしあわせだ……」という独白で初めて、BJには既に父親がいないことがほのめかされる。いや、このときはまだ外国で生きていたのだろうが、39話目ではまだそこまではわからない。ただ、父親はもういないのだなと察せられるだけである。このBJの台詞からは、父親を慕う気持ちが窺える。父親孝行ができる息子を羨ましく思い、それができない自分の境遇を淋しがっている様子がありありである。

Photo そして68話「えらばれたマスク」で間氏は初めてその姿を現す。父子再会の緊迫したシーン。
間氏が、ほぼ20年振りの再会なのに面変わりした自分の息子をちゃんと識別しているのが興味深い。やはり血のなせるわざか。確かに似てはいるのだ。瞳の描き方やボサボサの髪質がそっくりだ。BJは少年時代は母親似だが、だんだん父親に似ていったようだ。あ、ちなみに、BJの本名が「黒男」であることはこの話で初めて明らかにされた。

このとき間氏は現在の妻である蓮花を手術して欲しいとだけ言ってBJを滞在先であるホテルへ呼び出している。まだ顔の整形手術であることはわかっていない。「りっぱなドクターぶりじゃなァ」と息子を褒めたまではよかったが、その後に「そ その顔のキズはどうしたのだ」と言っている。つまり間氏はまだキズのない頃のBJの顔しか知らなかったことがわかる。ずいぶん薄情な、と思うが、実際、99話「友よいずこ」でBJの顔面の皮膚の色が違う理由、115話「不発弾」でやっとBJの身体に残る傷痕の理由が描かれるまで、それはずっと読者にとっても謎だったのだ。

手塚治虫の頭の中でもまだ設定されていなかったのかもしれないのだが、これらの事実が明らかになった後で間氏の「その顔のキズはどうしたのだ」発言を読むと、あの爆発事故のあと一度も息子(と妻)に会っていなかったとしか思えない。いや、事故のことさえおそらく知らなかったのだ。「えらばれたマスク」では外に女性を作って妻子を捨てたという(まぁそれだけでも充分ロクデナシなのだが)浮気性の男というイメージだったのが、「友よいずこ」や「不発弾」で更にりっぱなロクデナシに昇格した感じだ。

「えらばれたマスク」に話を戻す。間氏とBJとの会話でわかることは、20年近くも間氏からは音沙汰がなかったこと、その間に間氏はマカオで事業を興し成功を収めたということである。そして間氏はハンセン氏病を患って顔が崩れた蓮花の美容整形手術をBJに依頼する。そしてこれを機会にBJと仲直りをしたいこと、蓮花は病気のせいで子どもが産めないからBJに自分の跡を継いでもらいたいこと、等を話す。対するBJは、あれからお母さんがどんなに悲しんだか、自分がどんなにあなたを憎んで殺そうとまで思ったか、でも最期のときにお母さんはあなたを許したんだ、「あんなすてきなりっぱなおかあさんを なぜすてたんです!!」と思いのたけをぶちまける。間氏には返す言葉がない。

この父子の応酬は凄絶だ。自分の遺産は蓮花とBJで分けろという間氏からは、父親として息子を思う気持ちの一片を読み取ることができるし、間氏から母親に対する誠実な言葉を引き出したいBJからは、まだどこかで間氏を信じたいという気持ちが感じられる。父子の愛情と慕情を交錯させながらの応酬は、しかし結局すれ違ってしまうのだ。

ここで一転、話はビジネスの様相を帯びる。手術と報酬の話題へ。父子の情愛では埒が明かないと、男同士の取り引きへと持っていったのはBJの方だ。父親としては失格だが、では仕事ではどうなのか。
「世界一の美女にしてほしいのだ…(中略)…おまえならできるだろう」
「そりゃあできますよ しかし もしまんいち世界一みにくい顔に仕上げたらどうしますか 復讐のためにね!」
「そんなことはおまえのプライドがゆるしゃあしないよ」
「信じますか?」
「信じてるよ」
(顔に汗を浮かべながら見詰め合う父子。やがてBJが「フフ…」と笑う)
「七千万円いただきましょう」
これで商談成立である。

間氏という男、ビジネスではかなり敏腕なようである。己のプライドを賭けて仕事をすることの尊さを知っている。BJはここで間氏を信頼に足る男だと判断したのではなかろうか。と同時に、自分との共通点をも見出したのだろう。「フフ…」という笑いは(父子だなぁ……)という実感から生じたものではないかと思う。

BJは手術を始める。「ああ 一つだけ聞いておきたい……いまでもおかあさんをすこしは愛していますか」と問うBJ。しかし間氏の答はこうだ。「黒男……わしはおまえの母親にすまなかったとは思う……だが いまは愛してはいない! わしがいま心をこめて愛しているのは……家内だ! この蓮花ひとりなのだ わかってくれ 愛情とは残酷なものだよ」。そして一ヵ月後、包帯が取れた蓮花の顔はBJの母そっくりに整形されていたのである。
「なぜ まえの妻の顔なんかにしてしまったっ わしは世界一の美女にしろといったはずだぞっ」
「私はおかあさんこそ世界一美しい人だったと信じていますのでね これから一生 あなたはいやでもおかあさんの顔とむかいあってくらすんだ あのときひとことでも おかあさんを愛しているといえば 別の顔にかえるつもりだったのです」
そして、夜の街に車を駆るBJが一人つぶやく。「さようなら おとうさん」

なんともはや、凄い復讐劇である。解説本等で指摘されているように、これはBJのエディプス・コンプレックスを描いた話に間違いはないと思う。「さようなら おとうさん」という台詞から、BJはここまでやってキッパリ父親の影と訣別できたのだということがわかる。愛憎相半ばする父親という存在を、自分の中から抹殺できたのだろうと思う。

しかし私はこの話からエディプス・コンプレックスよりはマザー・コンプレックスの方をより強く感じてしまう。「いまは愛していない」とはっきり言われてしまった母親を、BJは限りなく哀れに痛ましく感じたのではないかと思う。母親を自分のものにしようとして父親に反抗心を抱くのがエディプス・コンプレックスだが、その父親が母親をもはやまったく愛してはいないのだ。競争相手にもならないのである。だからこれは「父親に対する復讐」というよりは、「母親を愛するがゆえの復讐」なのではないかと思う。

いや、結果は同じなのだが、母親を愛したのが自分一人だったという事実が、あのすてきなお母さんを覚えているのは自分一人しかいないという事実が、BJには耐え難いことに思われたのではないかと思うのだ。お母さんが忘れられていいはずはない! という思いに突き動かされて、こんな復讐を思いついたのではないのだろうか。前々から準備された復讐ではない。BJはホテルに行って初めてどんな手術をするのか聞いたのだから。父親を信じたい、でも憎い。微かな希望を探して間氏の心を探りながら、「父親への復讐」という気持ちはある程度失せたのではなかろうか。しかし最後まで捨て切れなかったのが、「母への愛」だったのだと思う。

この話で幸せになった人物は誰一人としていない。忘れたい先妻の顔とずっと向き合って暮らすはめになった間氏も、知らぬ間にそんな顔にされてしまった蓮花も、そして最期には間氏を許して死んでいったBJの母親もおそらく喜んではいまい。あの気高いおかあさんはこんなことを望んではいない、と、BJにもそれはよくわかっているはずだ。それでもやらずにはいられなかったBJの心を、哀れに思う。

最後に、これは以前にも書いたことだが、ちょっとアニメ版について触れる。アニメでは影三がとても良い人になっていて、もうどうしようかと思った。BJのあのちょっと捻じくれた性格は、原作のこの女好きで家庭を崩壊させても省みない、しかしビジネスでは有能な間氏でないと辻褄が合わないと思うのである。自分と母を救うために家庭を捨てたといういやにカッコいい影三の秘密が明かされた後、BJはいったいどうするのかと、他人事ながら心配になったりしたものだ。私は影三よりは間氏のほうが断然好みだ(笑)。

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ゲーム

記者会見の壇上に見え隠れするブッシュ大統領に靴を投げ、30秒間で何個当てられるかを競うオンラインゲームが、約70万円で落札されたそうだ。実際のブッシュ大統領はけっこう機敏な動きで避けていたが、ゲームのブッシュはどうなんだろう? それにしてもたった70万円か。私は安いように思ったのだが、すぐにブームが去るであろうことを考えると、こんなものなのかな。

ところで、私がよく遊びに行くゲーム配信サイト「Shockwave」が業績悪化でサービスを終了するそうだ。「ZOO KEEPER」や「二角取り」なんてよくやったものだし、最近は「Delbo」でやっと1万超えができるようになったのに、残念だ。

不況の波がネット業界にまで及んできたということなのだろうか。Shockwaveは元々アメリカのマクロメディア社が事業展開したものだったから、いち早く本国の不況のあおりを食らったのかもしれないとも思う。いや、そもそもネットだのITだのと この分野だけは持てはやされて不況知らずだろうと思っていたこと自体が幻影だったのかもしれない。

現在私もこのブログシステムを無料で使用させてもらっているが、もしもスポンサーが付かなくなったら無料サービスは打ち切られることだろう。有料となったら、ちょっと考える。いや、考えるまでもなく、止める。今まで改まって考えたこともなかったが、今よりまだ若干景気がよかった時代のおかげで、このブログもやってこられていたのだなぁと気付かされた。感謝しなくちゃいけないね。

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ゴミを捨てる

やっと大掃除に着手しました。きょうは雑誌やカタログ類の中から要らないものを選別しました。もう目を瞑って片っ端から捨て……るつもりでしたが、やっぱり読みふけってしまい……orz でも4束ほど紐でくくるところまでいったので、自分で自分を褒めてやりたいです。冷蔵庫の中も整理したので、今晩の夕食は残り物だらけのなんだかワケのわからないものになりました。ふつう、味噌汁に蕎麦は入れないよなぁ。

夜のニュース番組(たけしが出るやつ)で、各地の「ゴミ屋敷」が紹介されていました。その中の一つ。70歳代の姉妹が住んでいるはずなのだけれど、その妹の方を最近誰も見ていない。もしかしたら……ということで、老人福祉の係の人が姉の方に「中を見せてください」と頼んでいましたが、姉は断固拒否。どうなるのかと思っていたら、なんとか妹さんが元気に発掘(失礼。でも本当にそんな感じだった)されました。どうやらもうほとんど家の中にスペースがないらしく、姉の方は道路にはみ出したゴミにかけられたブルーシートの中で寝起きしている様子。それなら市の協力を仰いで(今回は老人福祉という名目でしたが、本当はゴミを撤去したいというのが目的)、きれいにしてもらえばよいと思うのですが、姉が断固拒否しているようです。

物が捨てられないという病気だったか症候群があるやに聞いていますが、この姉妹はそうなのかもしれないと思いました。いや、この年代の人には過去の教育や経験上、物を捨てることに罪悪感を抱いている人も多いものです。私の母は80代で、やはり昔からそういう性癖を持っていましたが、痴呆が進んでからは更に輪をかけて一切のものが捨てられなくなり、捨てようとする私とはしょっちゅう喧嘩になったものです。物が無かった時代の感覚をそのまま現代に持ち込むと、大変なことになってしまうのですが、病気や性癖云々を別にして考えると、こんなに大量のゴミ(になるもの)を生産しているほうがおかしいという気もします。

この姉妹は、別にどこかから廃棄物を拾ってきているわけではなさそうで、日々の生活に必要な物を買って、それについてくる包装だとか容器だとかを捨てられないだけのようでした。ということは、われわれだって、もしもちょっとでもゴミ捨てを怠れば、すぐにこれくらいのゴミに埋もれてしまうということなのでしょう。他人事ではないような気がしました。

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(備忘録081219)

NHKの9時のニュースが不景気な話題ばっかりだったので、ちょいとチャンネルを替えたらスティーヴン・セガールの『暴走特急』をやっていて、ずるずると最後まで観てしまった。^^; まあ景気よくいろんなものが燃えること燃えること。ミサイルやら衛星やら列車やら。ステルス戦闘機も2機こっぱみじんになった。刻一刻とタイムリミットは迫ってくるし、吹き替えが大塚さんということもあって『BJ21』の最終回を観ているような感じだった(笑)。おまけに敵役の吹き替えが若本規夫さんだ。なかなか迫力があって良かったですぜ。ああ、こんな頭を使わない映画が一番楽しいや。

『百物語』(手塚治虫著)、『天才柳沢教授の生活3』(山下和美著)読了。これで先日B○○K ○FFで買ってきたマンガを全部読み終わった。いま読んでいる『手塚治虫大全3』を読み終わったら、読む本のストックがなくなる。う~む、いいかげん大掃除とか年賀状とかをやれという神様の思し召しか。

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底なしの虚無

『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍原作 萩尾望都著)読了。連載当時に飛び飛びに読んではいたのだが、全巻通して読んだのは今回が初めて。そうか、こういう結末だったのか。

宇宙の始まりからして既に崩壊は始まっているという考えは、このマンガのおかげで当時の読者にはある程度植えつけられていたように思う。それくらいインパクトのある作品だった記憶がある。手塚治虫の『火の鳥』が生命賛歌の趣があるのに対して、こちらは何故滅んでいく過程に自分が存在する必要があったのかという、どちらかといえばマイナス思考的な印象もある。それに疑問を持った阿修羅王、シッタータ、プラトン、イスカリオテのユダが、「神」へと挑んでいくわけだが……、非常に難解である。少なくとも私にとっては、超難解だった。

何か不可思議な力によってこの世が存在しているのではないかと、人は思う。それを宇宙と呼んだり神と呼んだりするのだが、その神を生み出したのは他ならぬ人間であるからこそ、人は神を疑う。56億7千万年後に現れるという弥勒は、この世をどう変えるというのか。神の救済など本当にあるのか。人はユートピアに暮らしてはたして幸せなのか。また逆に、神に疑いを抱く自分はいかなる理由でそう思うのか。自分もまた何かに操られているだけではないのか。実に様々な「?」が浮かんでくる。

以下、ネタバレになるが……。最終話で、転輪王と話した阿修羅王は、仲間を失い独りになっても、それでも前へと歩き始める。彼(女)は戦いの道を選んだということだろう。この宇宙には彼(女)以外の生き物はいないのかもしれない。彼(女)は何と戦っていくのか。もう全ては崩壊してしまったのだから、宇宙だの神だのは関係ない。彼(女)がこれから戦っていくもの、それはおそらく彼(女)自身にある底なしの虚無なのではないかと思った。

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(備忘録081217)

・銀行へ行って、先日から紹介されていた話について「もうちょっと考えさせてくれ」と返事をする。担当者さんはたぶん当てにしておられたと思うが、ごめんよ。始めるなら今がチャンスだというのはわかるのだが、アメリカの経済状態がどうにかなる見込みがついてからでも遅くはない。今が「底」なのかまだ底を打っていないのかさえ見極めができない素人なのだから、そう急いで決断すべきではないと判断した。元本割れは起こさないし、仮に会社が破綻した場合でも90%は返ってくるというプランだが、さてそれが将来まで有効かどうかの保証がない。国家が経済破綻したらどうしようもないもんなぁ。今は何が起こるかわからないミゾウユウの時代なのだからして。

・さて、昨夜は身も凍る怖い思いをした。自業自得なのだけれど。そもそもは「『ジングルベル』のジングルってどういう意味だ?」と思ったのが始まりだった。ネットで調べて「ああ、鈴よ鳴れという意味なのね」と、そこで止めておけばよかった。ふと関連記事に「『ジングルベル』を逆再生させると怖い」とあるのに興味を惹かれて聴いてみたのだ。うわあッ!!……心臓が口から出るかと思った。本当に背筋が凍った。深夜真っ暗な部屋でたった一人でイヤホンなんかで聴くもんじゃない。すぐさま布団を引っ被って寝たが、嫌でも思い出してしまい、しばらく心臓のバクバクが止まらなかった。本当バカだな~~自分。

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『第六の大罪 伊集院大介の飽食』

気がついたら、ここのところ本の感想を書いていないので、久しぶりに一つ。『第六の大罪 伊集院大介の飽食』(栗本薫著)読了。

伊集院シリーズを読んだのは『タナトス・ゲーム』以来かもしれない。『天狼星』あたりまでは喜んで読んでいたのだが、『タナトス・ゲーム』で「やおい」という今でもやっぱりよくわからないが当時はもっとわからなかった腐女子の世界が描かれてからちょっと敬遠していた。『天狼星』も乱歩ばりの幻想お耽美の世界で、名探偵伊集院大介と宿敵シリウスのキスシーンなどもあったりはしたのだが、まだお話の中の世界という感じで受け入れられた。『タナトス・ゲーム』は実際にいるそういう趣味の女の子たちの世界そのままで、しかも私にはまったく馴染みがない世界のことだったから、ピンと来なかったのだろうと思う。

さて『第六の大罪』、飄々とした大介の持ち味は昔と変わっておらず、懐かしくも面白く読めた。「グルメ恐怖症」「食べたい貴方」「芥子沢平吉の情熱」の短編3つと「地上最凶の御馳走」という中編1つで構成されているが、共通するテーマは「グルメ」である。本のタイトルも、キリスト教が定める7つの大罪(傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲)の6番目ということに由来していると思われる。食通、ゲテモノ喰い、味を追求する料理人等を巡る事件は、どことなく可笑しく滑稽で、しかし食欲という動物の本能に根差すものであるがゆえに身近な恐怖でもあった。

関係ないと思うけれども、私は「グルメ」と聞くと食屍鬼を表わす「グール」を思い出してしまう。この本の中にも1編そういう趣きのお話があったので、書き添えておく。苦手な人は読まれないのが無難かも。『天狼星』が大丈夫な人ならOKだ。

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BJ先生の身体能力

BJ先生がbjリーグのマスコットキャラ(?)になられたということで、来年は「にわかバスケファン」になりそうな予感がします。とりあえず、バスケ関係の雑誌には目を通そうと思います。ピノコが持っている先生の人形が欲しいですが、これは売っていないんでしょうか。この際、バスケットボールの模様も縫合痕仕様にすればよいのに。
http://bjleague.livedoor.biz/archives/51268197.html
佐藤公威選手(186cm)とそんなに身長が変わらないBJ先生。背ぇ高~い!(いや、それを言ったらピノコは……)。でもBJ先生にバスケットボールって似合わないですね。選手じゃなくて監督という感じです。以前は西武の試合で始球式なんかもしておられましたが、やっぱこの先生にはめっちゃキレよく踊っていただくのが一番かと(笑)。

さて、月曜日は『BJ』語り。きょうは、では、BJ先生とスポーツということで。

幼い頃から車椅子の生活で、爆発事故遭遇のあとは歩けるようになるまでに3年かかったというBJ先生。高校時代(だと思う)には授業にも出ずに(でも一応学校には来ているところをみると出席日数は欲しかったのだろう)ダーツの練習に明け暮れていたBJ先生。ダーツ以外にはおよそスポーツとは縁遠い印象がある。特に団体球技などのチームプレイは苦手そうな感じ……というか、高校の体育の授業以外ではやったことがないかもしれない。小学校中学校の体育はいつも見学だったのではなかろうか。一緒に遊ぶ友達も極めて少なそうだし、部活やっていた気配もないし。

しかし大人になってからのBJ先生が身体能力や運動能力に劣っているかというと、決してそんなことはない。シャチのトリトンから教わったスピード泳法で水泳は得意そうだし、悪漢との闘いでは見事な巴投げや手刀を決めていて柔道空手ボクシング等の格闘技にも強い。練習の甲斐あってダーツ改めメス投げの腕も抜群だし、どこで習得したものか射撃も抜群の腕前である。馬にも乗れるし『BJ2D』では大型バイクにも乗っていた。いやホント、いつ、どこで練習したのだ?

格闘技は不良少年時代のストリートファイトの実践で身につけたのかもしれないと思う。ピノコを人質に取られない限り、難局をその腕っ節の強さで切り抜けることも多いなかなかの武闘派だ。相手の攻撃を避ける瞬発力にも優れている。裏の世界とも交流の深いBJ先生のことだから、喧嘩の強さは必要不可欠なのだろう。

おまけに怪力の持ち主だ。「ハリケーン」でクロスワード氏をストレッチャーごとロープで井戸に吊るしてまた引き上げるという離れ業をやってのけている。いくら男でも一人では無理なんじゃないかと思うのだが、いわゆる火事場(台風場?)の馬鹿力ってやつだろうか。

足は速いのかな? 「ふたりのピノコ」では病身のロミちゃんに追いつけなかったが(笑)、「B・Jそっくり」では車に追われてもそこそこ逃げているから逃げ足は速いのかも。

また手先の器用さにおいては群を抜いていると思われる。でなきゃ、外科医なんてできないだろう。映画ではたしかピアノを弾いたりしていたのじゃなかったかな。

こうして見てみると、BJ先生の身体能力および運動能力は人並み以上と思われる。動かない身体に鞭打ってリハビリに励んだ成果であろう、見事に身体的ハンデは克服されている(精神的ハンデが残っていたことは「けいれん」や「20年目の暗示」に描かれたが)。また実際の整形外科の先生から伺ったことがあるのだが、2時間くらいの手術を毎日やっているとかなり足腰が鍛えられるのだそうだ。その先生はちょっと小太りだったので、内心(4時間やったほうがいいよ)と思ったものだが、そう言われてみれば一般的に内科の先生より外科の先生のほうが体育会系の体つきの方々が多かったように思う。毎日の手術という立ち仕事で基礎体力は鍛えられているのかもしれない。BJ先生なんか18時間なんてのもあるもんなぁ。この先もBJ先生はきっとメタボとは無縁だろう、というところで、本日はこれまで。

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討ち入りでござる

12月14日といえば、赤穂浪士の討ち入りの日。田村正和で『忠臣蔵』ものをやっていたようだが、我が家では視聴できず、昨日録画した三億円事件のドキュメンタリーなど観て過ごした。『忠臣蔵』で何かネタはないかと思ったが、以前のブログに記事を書いたこともあり、ことさら何も書くことがない。手塚治虫原案の『わんわん忠臣蔵』が観たいなぁというくらいか。

しかし、当時は大ニュースだったのだろうな。三億円事件以上だったかも。

k大兄さんのお誕生日ということで、お祝いをコメントさせていただいた。討ち入りの日にちなんで、お父様から日本人の心を教わられたとか。よいお話を伺うことができました。お誕生日おめでとうございます♪

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青色照明

先日わが家の近くの街路灯が点滅しているな~と思っていたら、どなたかが言ってくださったらしく、新しいものに交換されていた。それが今までの白色灯と違って青色灯である。気付くと、町内のところどころが既に青に変わっていた。どうやら切れたものを交換するときに順次変えていく方針のようだ。

この青色照明、防犯効果や自殺防止効果があるとされている。心が落ち着く癒しの色である(青色を見ると脳内にセロトニンが分泌される)からとも言われているらしいが、明確な理由はわかっていないようだ。どうなのかな? 私は先日初めてこの照明の下に立ったとき、まるで自分が深海魚にでもなったような気がした。夏場ならまだしも冬場なので、急に体感温度が下がったように思うくらい寒々しい色に思われたのである。

この色に癒されるから悪いことをしなくなったり自殺を思い止まるのではなくて、なんだかこの世ならぬ異次元へでも迷い込んだような気がして急に防衛本能など諸々の意識が覚醒するのではないのかと思ったりする。「この場所はいけない」と我に返るんじゃないかと。定説とまったく逆の感想になってしまうのだが、だって陸上の自然界にこんな光は無いだろう。今まで経験したことのない光に照らされたとき、癒しよりはまずその居心地の悪さが先に感じられるのではなかろうか(←私がそう思っただけで科学的根拠なんぞありはしません。あしからず)。

青色灯の光、それ自体は綺麗なものだと思う。街全体が淡い青色で照明されていれば、幻想的な気分にもなるだろうとも思う。そんなムードも悪くはないし、充分な光量があれば文句はないのだが、さてわが町内の場合、夜道を俯いて歩く分にはちょっと足元が暗いように思う。舗装道路の色も関係するのだろうけれど、雨上がりで濡れて黒っぽくなっているときなどは特に不安感が増すように思う。青色照明にもきっと明度・彩度・色相の段階でいろんな種類があるのだろうが、街路灯にはもうちょっと白っぽくて明るいほうが適しているんじゃないかと感じた次第。

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ノート

最近、書店へ行くたびに気になっている本がある。1ヶ月で16万部売れたという『東大合格生のノートはかならず美しい』である。中身をパラパラと覗いてみると、確かに美しい。私の高校時代のノートとはエライ違いだ。道理で私は東大には合格できなかったはずだと納得する。最初から受けてもいないが。

この本の横には『情報は1冊のノートにまとめなさい』と『読書は1冊のノートにまとめなさい』のシリーズも並んでいる。どうやら最近流行のキーワードは「ノート」らしい。

こういうのには無条件で惹かれる人間である。きちんとノートを取れば頭脳明晰になれるんではないかと、単純に思う人間である。ノートを取り続けることのできる根気や、おそらくそういう人の毎日の生活は清々しいのではないかという想像に、限りない憧れを抱く人間である。私は。それは私の現実がまったく正反対であるからに他ならない。

元図書館司書のくせに、自分の本棚から抜き出した本をまず100%元の場所に返すことができない人間なのである。いや、仕事はちゃんとしてましたヨ。自分の物となるとダメなのだ。その結果、シリーズ物があっちこっちにバラバラになるという惨状を呈することになる。「3巻はトイレにある。4巻はあのあたり」などと、本人は割りと覚えていて探し出せるのだが、他人にはまず無理だ。そういう状況は、まさに私の頭の中と同じなのではないかと思う。

私にノートを書かせても同じようなことになる。大学時代、私のノートは評判が良かった。講義に1回も出なかった友人が私のノートをコピーして、試験では私より良い点数を取ったこともある。皆が見るからと張り切って綺麗にノートを取ったものに限って、私自身は点数が悪いのだ。頭に入っていない。私しか見ないノートには、他人にはほとんど意味不明であろう走り書きくらいしかしなかった。同じフレーズが何度もぐちゃぐちゃに書き殴ってあったりする。ノートを後で見ればよいと思うと、どうやら私はダメらしいのだ。系統立てて物事が考えられない分、気合いでカバーしていたのではないかと思うくらい、本当に私のノートはぐちゃぐちゃであった。

私の頭の中もきっとこんなふうにぐちゃぐちゃなのだろうと思うと、我ながらゾッとしたりする。普通の人なら芋ヅル式に出てきそうなことが出てこないで、私だけはあさっての方向に飛んでいっているのではないかと、ときどき不安になったりもする。今からでも、たとえば家計簿をきちんとつけてみるとかすれば、頭の中も整理できるのだろうか。いやもう今さら東大を受験しようとは思わないけれど。まめにノートを取ることもない生活だけれど。でもちゃんとしたノートを取ると頭に入らない人間なんだよな、私は。買おうかやめようか……。もしかすると私の思考パターンをも変えるかもしれないこの本の前で、私はいつも逡巡してしまうのである。

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ニューディール

その昔、エジプトのファラオは、ナイル河の氾濫等で農業ができない期間、農民をピラミッド建設という公共事業に雇用した。また20世紀においては世界恐慌を克服するためにアメリカのルーズベルト大統領がニューディール政策を打ち出して雇用確保に努めた。

最近の日本での不景気や雇用不安の状況を見るにつけ、このような大規模な公共事業で雇用を促進するほか打開策はないような気がしている。一人当たり1万2千円ずつ配ったところで景気回復には程遠かろう。配られたら、私は「さもしく」もらうけれども。

この公共事業を農業の分野で行ってはどうかと思う。農村は後継者不足なのだし、日本は食料自給率がとことん低いのだから、農業に人を投入すれば将来の食料不安にも対応できるのではないかと思うのだが。

でも国会議員さん達は政局の行方に夢中で、政策なんか考えている暇はないのだろうね。ご苦労様でございます。

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舅殿と飛行機と

先日夫の実家にいたとき、ダイニングテーブルにパソコンを置いてカチャカチャやっていると舅殿がやってきた。熱いお茶など淹れて2人で飲みながら話をしていてふと思いつき、彼が昔勤めていた「中島飛行機」でネット検索した結果を見せてあげた。ネットに縁がない舅殿が「ほぉ~、こんなものが出るかね」と興味津々の様子だったので、いくつかのページを開きながら当時の思い出話を聞いた。

中島飛行機。現在の富士重工業だが、戦時中には戦闘機「隼」を生産していた会社である。「0戦」を作っていた三菱と並んで2大飛行機メーカーだったと言えるかもしれない。舅殿はそこの企画にいたと言う。残念ながら機体のことは聞いてもさっぱりわからないので、主にそこにいた人たちの話になったのだが……。

社長の中島知久平氏が言った言葉は忘れることができないと舅殿が言う。曰く、「この戦争に勝っても負けても、いずれは社員を解雇しなくてはならない」。立派な人だったと思う、と舅殿は言った。そして全体にそういう気風の会社だったとも。つまり、お国のために戦闘機を作ってはいるが、それに乗る多くの若者が死んでいくことを誰もが忘れてはいなかったということ。そしてその生産に携わっている多くの若者の未来もまた不確実なものだということを経営陣がしっかりわかって責任を感じていたということ、だろう。ポツポツと話す舅殿の言葉から受けた中島氏の印象はそんなふうなものだった。外国で学んできた人だから戦争の行く末もはっきり判っていたのだろう、と舅殿は言った。

舅殿は終戦の年の2月に召集されて中島飛行機を去った。隊に入ったときはこれで生き延びたと思ったと言う。B-29に爆撃される心配がなくなったからである。その頃、中島飛行機の各工場は徹底的に攻撃されていたらしい。兵隊に入るよりも危険なところで働いていたわけで、そのとき召集されていなかったら私とこうして思い出話をする日は訪れていなかったかもしれない。

「0戦」と「隼」のエンジンは同じだとか、だいたい何機くらい生産されたのかだとか(これは当時は秘密事項だったらしいが)、他にも断片的にいろいろ聞いたのだが、なにしろ聞き手が悪いことを痛感する。もっと飛行機好きの人が相手だったら舅殿もいろいろ話してくれただろうに。

昨年他界した私の父も飛行機を作っていた。こちらは川西航空という「紫電改」を生産していた会社である。舅殿とは生年月日もまったく同じで、同時代に同じようなことをやっていたのだと思うと不思議な因縁を感じたりする。いま思うと、父からももっともっと当時の話を聞いておけばよかったと後悔しきり。

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裁判員制度について思うこと

裁判員候補になったことを個人が特定できるブログ等に書くことは禁止されているらしいが、「ならなかった」と書くことは別に構わないだろう。私は選ばれなかった。仮に選ばれたとしても、私は死刑制度には「反対」の意見を持っているので面接で落とされる可能性が大なのではないかと思うけれども。

候補通知が発送されて以来、ネット上でもいろいろな意見を目にするが、私自身はあんまり感心しない制度だと思っている。以前に、とある本で公判の傍聴マニアがいることを知った。いろいろな裁判に出かけていって、被告の態度、裁判官の様子、弁護士や検事の主張などを見聞しては判決を予想したりする人たちのことだ。その本を読んで、ほとほと嫌になった。その人たちがまるでテレビの2時間サスペンスを観ているようなノリで傍聴しているように思われたからである。

悪いことをしようとして悪いことをした被告ももちろんいるだろうが、生活苦に負けてどうしようもなくて悪事に手を染めてしまった被告もいる。彼らは事件を起こす前までは私たちと同じごく普通の人たちだったのだ。後悔と不安に苛まれながら連れていかれた法廷に、さてどんなドラマが展開するのだろうかとワクワクしながら傍聴しているマニアなんかがいた日には、私だったらやりきれないだろうとその本を読んで思ったのだ。

法律や裁判の知識はまるで無いが裁判員になってみたいと思う人と、傍聴マニアと、基本的にどこか違うのだろうかと思う。筒井康隆氏は「笑犬楼大通り」の12月1日付ブログで「実は参加したくてたまらんのだ。どんな面白い体験ができることか」と、作家としての好奇心を覗かせている(しかしそれを発表することができない以上参加しないに越したことはない、と結論づけているのだが)。作家なのだからこんなふうに思うのは仕方ないと思う。別に氏を責める気などさらさら無い。しかし、作家ならぬ一般人が、いったい何の必要があって無関係な人物の裁判に参加しようと思うのか、私にはそれがわからない。

好奇心が無いと言えば嘘になる。私も興味はある。しかしそれはやはり2時間サスペンス的な興味だ。法廷という未知の空間というだけでも面白そうだが、何か起死回生的な新しい証拠の発見などがあって、真犯人はアイツだ!というようなドラマが眼前に展開されることにでもなれば、それはそれはなお一層面白いだろうと思う。しかし、ここには被告の身になるという視点が欠けている。被告の一生をも左右するような出来事に、そんな野次馬のような好奇心で参加してよいものではないと思う。被告は単なるドラマの悪役などとは全然違うものであるに違いない。

考えてみれば、自分だって、いつ被告席に座ることになるやも知れぬのだ。裁判員になるのと被告になるのとどっちの確率が高いのか、わかったものではない。万が一、自分が被告になったときに、裁判員は法律の知識もなく過去の判例研究もしていないズブの素人で、傍聴席にはドラマを期待している傍聴マニアがいるというのでは、なんだか浮かばれないような気がするのは私だけか。

一般人が裁判に参加しても判決は従来のものとそんなに変わらないだろうと言う人もいる。ならばなおさら一般人を参加させる意味などないではないか。従来の判決に不満を持つ国民が多いからこういう制度ができたのか? 裁判官の信用がないのか? ならばこれまでに国民審査によって罷免された裁判官が一人もいないという事実はどう説明するのだ?

考えれば考えるほどその必要性がよくわからない制度なのだが、一番の問題点はもっと単純なことかもしれない。守秘義務を守れるかどうか、だ。そんな教育も受けていない一般人が、日常とまったく違うシーンで知り得た事実やそれに対する自分の考え・言動を、一生黙って墓場まで持っていくことができるかどうか……。私にはたぶん無理だ。いや、絶対、無理! ストレスで病気になったらどうしてくれる? 裁判員自身に及ぼす影響は考慮されたのだろうか。人を裁くことは、それほど簡単なことではないと思うのである。

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苦し紛れの雑考

きょう午後自宅へ戻って来ました。この4日間ですっかりペースが狂ってしまいました(健康的な方に・笑)。ブログも書こうと思えば書く時間はあったのですが、ほとんど家の中にいたのでネタがなくて結局書きませんでした。また今夜から不健康にブログを書く生活に戻りたいと思います(笑)。

さて『BJ』語り……と思ったのですが、な~んにもネタを考えておりません。う~む。先日は雪が数cm積もって舅殿が「寒い寒い」言っていたので、寒い話にしてみようかな。

BJ先生は結構寒がりだと思います。「ネコと庄造と」で、雪が降った夜の往診を「こんな寒い夜は往診できん! 一千万つんでもいけないといえ」と言っています。結局「五千万でも六千万でも」と言われて行くんですが(笑)。「奇妙な関係」で暖炉に薪をくべていたり、「ピノコ西へいく」でだるまストーブに当たっている姿が妙に似合っていたりします。真夏でもあの黒装束をやめない男ですから暑さにはきっと強いのでしょう。

寒い話が終わりました。えーと……。次。

ドクター・キリコとの触れ合いについて。意味深ですが、そのままの意味です。

この2人の関係は、キリコの姿を見つけたBJが突っかかっていくというパターンが多いわけですが、取っ組み合いの喧嘩が描かれたことはありません。そこでどの程度のことをやっているかというのを調べてみました。要するにどれくらい接近しているかということです。

・恐怖菌(『死神の化身』改訂)
 「ドクター・キリコ おまえさんの見立てではどうだね?」「正直のところ こいつはお手上げだ」の会話シーンでの二人が妙~~に近いというのは皆様ご承知のことでしょう。なぜそんなにひっつく必要があるのだ?と思います。

・弁があった!
 「どこにかくした?」左手でBJの胸倉を掴むキりコ。なんと、最初に相手の身体に触れたのはキリコのほうからだったんですね。
 毒薬を注射しようとしたキリコの腕を掴んで止めるBJ。これがBJがキリコに触れた最初。
 毒を注射してしまったキリコの顔を殴るBJ。「バチッ!」という音から察すると平手打ちでしょうか。アニメではグーで殴っていたようでしたが。一瞬ですが触れ合っています。

・99.9パーセントの水(原題『限りなく透明に近い水』)
 グマにかかったキリコを手術。とうとう内臓に触れちゃいました。

・死への一時間
 「そんなものを使うことはゆるさんぞっ」右手でキリコの胸倉を掴むBJ。
 ペースメーカーを埋めて縫合をしていると思われるキリコのすぐ左隣で指示を出すBJ。近い(オペ中ですから)。
 屋上からニューヨークの夜景を並んで見ている2人。近い(オペ後ですから)。

・小うるさい自殺者
 「おれの仕事は神聖なんだ!!」「からかいにきたんなら出てけっ」左手でBJの胸倉を掴むキリコ。わぁ、湯気まで出して怒ってら(笑)。顔が至近距離です。外人さんはよくこんなふうにして怒りますよね。それじゃ目の焦点が合わんだろうってくらい顔を近づけてます。「出てけ」と言ったり「待て」と言ったり(笑)。

……というような結果になりました。あとのキリコ登場作品では口喧嘩はしていますが、ボディタッチはありません。以上、何ら得るところのない調査でした(ガッカリだよ)。
一つ意外だったのは、相手の胸倉掴んだ回数はキリコの方が多いということでした。キリコは右利きですが、左手で掴んでいるということは右手でいつでも殴れるということで、よっぽど頭にキているのだなぁと思います。まず最初に散々キリコを罵って挑発するのがBJ先生。我慢の限界にきて先に手が出るのがキリコ。そして本格的な喧嘩へ……ということになるのかもしれません。以上です。

来週は何かちゃんとしたことが書けるとよいなァ。

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私事です

明日からお姑さんが法事その他の用事で親戚へ出かけるので、その間3~4日、夫の実家でおさんどんしてきます。普通なら舅殿も一緒に行くところですが、最近は足腰が弱くなったため(5月には石段から落ちて頭を打って入院したし)、今回は家でお留守番です。で、私の出番、と。
パソコンは持って行こうかと考えています(モバイルだとこんなとき便利♪)が、もしかするとしばらくの間、ブログが更新できなくなるかもしれませんので、ここにお知らせしておきます。あ、いや、案外、毎日書けるかもしれないのですが(笑)。
定期的に更新されている方が突然何日も何も書かれなかったりすると、何かあったのだらうかと心配になったりする性質なものですから、もしかして私以外にもそういう方がいらっしゃればご心配をかけてしまうと思い、一言書きました。まったくの私事でスミマセン。

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有害情報とかそのあたりのこと

数日前に、面白いところから拙ブログへ来られた方があった。その名も「MITERU:2008年10月28日に更新された要注意記事(ブログ/コンテンツ)」。ひゃー、ついにどこかからマークされたかと光栄に思ったりもしたのだが、★1つなのはまだまだ精進が足りないな(笑)。記念にそのページをブックマークしておいた。上から7番目にある。

このサービスの概要を覗いてみたら、例えば「語彙検出」では「危険や犯罪につながる違法、有害、差別の直接的・間接的表現だけでなく、文脈により不快、差別的になる表現、隠語、マイナーな表現も検出対象としています」となっていて、文脈まで読み取っているらしいのだが、自動監視システムでそんな高度な技ができるとは思わなかった。そこまで読み取っている割には、どうして拙エントリに「アダルト」というタグが振られたのか合点がいかないけれども、まあ突っ込まないでおこう。

子どもが持つケータイのフィルタリング機能というのも基本的にこういう仕組みなのだろうと思う。私が書いた記事が果たして「要注意」に当たるかどうかはわからない(意識的に乱暴な言葉遣いをしたことは認める)が、しかしまぁ読んだところで何の役にも立たないであろうことは確かだから、こういうサービスに引っかかって検索からはじかれることには何の異存もない。だから、余計な情報に触れさせたくない子どもを対象とするならこういうサービスは有効なのだろうと思う。

ただ普通の大人相手ならこんなサービスは要らない。例えばこの仕様では一般の新聞記事までひっかかってしまっている(上記リンクでは下から2番目。もう削除されているが)。真面目に死刑を報道した内容であろうがそうでなかろうが一緒くたに処理されてしまう。言葉狩りと同様の危うさを感じないでもない。また、例えば人名を書くときに間に「/」を入れて検索避けをすることなどはごく一般的に見られるが、その伝でいけばアブナイ言葉にちょっと細工をすればどうにかなってしまうことだってあるかもしれない。

そんなこんなで、どうも私はこのテのサービスはあまり好きではない。上で、子どもの持つケータイには必要なサービスだろうとは書いたけれども、フィルタリングをしたからと安心できるものでもないと思っている。子どもにケータイを持たせることは、それはどこかわからない外の広い世界へ通じるパスを持たせることと同じことだと考えている。本当ならば、フィルタリングなどせずに、興味本位であちこち覗くことはとても危ないことにもなり得るのだということをまず教えなくてはいけないと思う。それが理解できそうにない子どもには与えるべきではないというのが私の持論だ。

……最後はすっかりケータイの話になってしまったけれども、ケータイもネットもなかった時代が最近むやみと懐かしく感じられたりするのである。別に何の不便も感じなかったのだよ、いや本当に。

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流行語大賞

今年のユーキャン流行語大賞は「グ~!」と「アラフォー」、ネット流行語大賞は「あなたとは違うんです」だったそうだ。ユーキャンのほうのトップ10(居酒屋タクシー、蟹工船、ゲリラ豪雨、後期高齢者、名ばかり管理職、埋蔵金等々)はそれなりに聞いたことがあるが、ネットのほうの銀賞「~ですね、わかります」や、銅賞「ゆっくりしていってね!!!」なんてのはさっぱりわからない。ネットのほうが若い層の流行を反映しているようだ。そんな中で、大賞がF元首相の捨て台詞「あなたとは違うんです」だったというのは、意外に政治にも興味があると見るべきか、あまりにも揶揄しやすかったせいと見るべきか。

しかしそれにしても大賞以外あんまりぱっとしない言葉ばかりなのは、世の中の閉塞感を象徴しているようで、やはり言葉というのは世相を反映するものなのだなぁと思う。昨年の大賞は「どげんかせんといかん」と「ハニカミ王子」だった。大賞ではなかったが「消えた年金」で舛添氏が受賞したのには失笑した覚えがある。民主党サイドから「消した年金」ではないかとの皮肉も聞かれたらしいけれども(笑)。F元首相も辞退せずにもらえばよかったのに(冷笑)。

『養老孟司の人間科学講義』読書中。

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「もう治せないんだ!!」

月曜日は『BJ』語り。きょうは「シャチの詩(うた)」について。

私にとっては5本の指に入るくらいに大好きなお話なのだが、泣くのがわかっているのでその覚悟をしないと読めないお話でもある。

BJが岬に診療所を構えたばかりのころ、外見を嫌ってか誰も彼に近寄る人間はいなかった。孤独に何時間でも海を見つめていた毎日に、ある日変化が訪れる。怪我をしたシャチがやってきたのだ。BJはシャチの怪我を治してやる。シャチはその後も何度も怪我をしてやってきた。報酬となる真珠や珊瑚を咥えて。BJは彼に「トリトン」と名前を付けて、カルテまで作成するようになる。BJはトリトンと友情を育むが、町の噂でシャチが漁場を荒らしていることを知る。大海原へ帰るようトリトンに話すBJだったが、遂に子どもが3人シャチに殺され、大掛かりなシャチ狩りが行われる。トリトンは傷つき、またもBJのところへやってくる。BJはもう彼を治すことができなかった。毎日報酬を咥えてBJの元へやってくるトリトン。BJは見て見ぬふりをする。岩陰に隠れて「もう治せないんだ!!」と叫ぶBJが哀しい。そして、最後の一粒の真珠を咥えたまま、トリトンは死んでいった。

誰も悪くないのだ。他の動物を食べて生きているシャチ。子どもを殺されてシャチ狩りをしようとする人間。誰も悪くない。いや、唯一悪い奴を探そうとすれば、それは最初にトリトンを治療したBJ先生だということになる。これでトリトンがBJに懐いてしまった。怪我をしてもここに逃げ込みさえすればBJに治してもらえると思い込んでしまった。だからトリトンと縁を結んでしまったBJ先生が一番悪い。しかしそれを責めることができるのだろうか。目の前に傷ついて死にそうな生き物がいるとき、思わず手を差し伸べてしまうことは果たして自然の摂理に反することになってしまうのか……。

トリトンのことをピノコに話して聞かせるBJは、悲しさを押し隠して淡々としているように見える。彼が泣けないのを、代わりにピノコが泣いてやっているようにも見える。自分が犯した罪とそれに対して与えられた罰を、BJはしっかり自分の身ひとつに受け入れている。トリトンに対してもずっと許しを乞い続けてきたのかもしれないと思う。

後に「戦場ガ原のゴリベエ」というお話が描かれた。連れ合いを亡くしたゴリベエという猿が、残された子ども達のために乳を得ようとして人間を襲い乳製品を奪う。地元の猟師に撃たれたゴリベエを追ったBJは、ゴリベエの巣穴で事の顛末を知り、彼を治療してやる。一週間後、車で去ろうとするBJに、巣穴に置き忘れたメスを届けるゴリベエ。親しく言葉を掛けるBJとちんまり座ってそれを聞くゴリベエ。しかし次の瞬間、ゴリベエは再び猟師の銃弾に倒れるのだ。慌ててゴリベエに駆け寄ったBJが猟師に向かって叫ぶ。「クソッタレめ!!」。

トリトンが死んだときにはBJの感情は描かれなかったが、ゴリベエのときには感情を爆発させている。怒りと憤りともどかしさと……。BJにはこの猟師を糾弾することはできない。人間を襲う凶暴な猿を放っておくことはできないのだから、猟師の行いには正当性があるのだ。子どもを3人も殺したシャチを狩ろうとした漁師たちと同じである。野生動物と人間の関係を描いた同じようなストーリーの中で、BJは2度も同じような苦い悲しみを味わう。

しかしこの「クソッタレめ!!」というラストのコマから察するに、BJの心情は人間側よりは動物側に近いところにあるように思う。『BJ』シリーズを読むたびに思うのだが、BJの視点は常に弱者の側にある。野生動物と人間の関係で「弱者」というのはおかしいかもしれないが、人間は少なくともシャチや猿よりも思考能力において勝っていて、自然や社会の全体像を把握できる立場に居り、自然界に介入できる力をも持っている。そういう点で野生動物は人間より「弱者」の立場に置かれていると言ってもよかろう。だからこの場合も、BJの視点が動物側にあることは頷ける。

トリトンのときにはどうすることもできない運命を嘆くことしかできなかったBJだが、ゴリベエの最期では、人間を害するものは皆殺すのか、なきものにするより他に方法を思いつかないのか、このクソッタレめ!!という気持ちだったのではないかと思う。人間ならば、その思考能力の高さを誇る人間なればこそ、彼ら野生動物との共存の道を探らなければならないのではないのか。

「シャチの詩(うた)」では切ない結末にただひたすらに泣くことしかできないが、「戦場ガ原のゴリベエ」では「クソッタレめ!!」というラストの台詞から、手塚治虫はそういうことを描きたかったんじゃないかなぁと感じるのである。

(もうちょっと書きたいことがあったような気がするのだが、泣きながら書いているうちに忘れてしまった。時間がきたのでここでアップします。)

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