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2009年1月

罠!美しい心が欲しいズラ

『銭ゲバ』第3話。着々と茜ちゃんとの結婚計画を進める風太郎。彼が三國家に入り込むことを快く思わない白川を殺害して庭に埋める。原作ではこの上に犬の死骸を埋めるのだが、さてどうなるか。きょうも面白かったが、さしたる感想は無し。また、先週もそう思ったが、サブタイトルはその回の内容を表しているのではなさそうだ。

ひとつ、風太郎の印象深いセリフがあった。「格差なんてずっと昔からありましたよ。無かったことなんてないですよ。貧乏人は必要なんですよ。お金持ちのためにね」。また殺人を犯した後に「地獄があるから天国があるんだよね」。(←例によってうろ覚えなので正確ではありません。)

そうだと思う。「お金持ちのために」かどうかは判らないけれども、万人がお金持ちになることなんてあり得ない。共産主義なら皆が平等で公平かとも思うが、そうならない、いや、そうなれないことは歴史を見れば明らかだ。お金持ちがいれば必ず貧乏人がいる。勝ち組がいれば必ず負け組がいる。強者がいれば必ず弱者がいる。『この本のとおりにやれば、あなたも勝ち組になれる』(仮称)なんていうハウツー本があったとすれば、もうそれだけでウソッパチだ。負け組になる人間がいない限り、勝ち組になんか絶対になれない。絶対的ではなくて相対的な価値観だからだ。

『銭ゲバ』は、単に金儲けが目的ではなく「下克上」をこそ目指す男のゲバルト物語だとも言える。まるで絵に描いたようなお金持ちと貧乏人の対比が目を引く。クロワッサンとオムレツその他諸々の豪華な朝食と、ベラの煮付け定食。500万円の腕時計と、ボロボロの革ジャン……。お金持ちと貧乏人なんて相対的なものであるはずなのに、この絶対的な現実の厳しさは……。だんだんと風太郎を応援したくなってきた。

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♪レ~オ~の さ~け~び~♪

『プレミアム10 手塚治虫 漫画、音楽そして人生』を観た。

ああ、やっぱり『ジャングル大帝』の音楽は良いな~!! あの壮大なテーマをバックにレオが矢のように草原を走っていく姿を見て、胸がいっぱいになってしまった。当時はなにしろ白黒テレビで観ていたものだから、こんなに鮮やかな色彩だったのかと、それにも感動。

『鉄腕アトム』『マグマ大使』『リボンの騎士』『どろろ』『ふしぎなメルモ』『海のトリトン』……みんな歌える。私がものごころ付いた頃から小学校~中学校の作品ばかりだ。懐かしいったら、ない! メルモちゃんはあんなにパンツ丸見えだったのか、とか、百鬼丸はこんなにカッコ良かったのか(杉野さんが着物の碇の柄を描いてたんだよね)とか、当時は気付かなかった魅力も再発見した。『海のトリトン』が流れたときには「オリハルコ~ン!」と思わず叫んで、夫に「何だそれは」と呆れられた。いいんだ。黙ってて。浸らせてちょうだい。

やっぱり、アニメとそのテーマ音楽というのは固く結びついて記憶されるものだ。昔のアニメはテーマ音楽もその作品の一つの大切な構成要素だった。いまのようにレコード会社とタイアップで人気アーティストの新曲を使うのとは、力の入れ方が全然違う。手塚治虫が冨田勲に夜中でもかまわずに電話を入れて一緒に構想を練ったというような話を聞くと、良い時代のアニメを見させてもらったことを感謝せずにはいられない。現代のアニメもそうであってほしいと思うのだが。

『BJ』に関しては、冨田勲つながりで『BJ2D』くらい紹介されるかと思ったが、出なかった。残念。あのジャズ風味のテーマ曲は嫌いではない。今後はBS2で手塚治虫特集が組まれるようだが、我が家では観ることができない。いずれ総合テレビで再放送されるのを期待することにしよう。【追記:親友Mがダビングしてくれると言う。持つべきものは友だ。ありがたい。当然だが、2月11日分を頼んだ。この1回分だけでいいよ、贅沢は言わない。】

もっといろいろ思うところはあったのだが、時間切れ。とりあえず、ここまで。

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大伯父のことを調べる

今さらながら、ネットってスゴイわと思うことしきり。

海軍将校だった大伯父のことを知りたいと思って、でも出てくるわけないだろうなと思いつつダメ元で検索したら、出たのだ。驚いた。「南方で戦死」としか知らなかったのだが、自決だったとは……。アメリカ軍がレイテ島に上陸したとき、レガスピーにいた彼が隊員に訓示した言葉というのも読むことができた。もう結果は予測できていたはずだ。そう思うと悲しい。書き留めてくださった方に心から感謝する。

フィリピンのビコール地方。レガスピー、ダラガ周辺。いつか行ってみなくては、と思った。

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フォーリーブス

「フォーリーブス」の青山孝史さんが亡くなられたそうだ。57歳。若すぎる、と思うとともに、ご冥福をお祈りしたい。

「フォーリーブス」の全盛期、私はそれほどファンというほどでもなくて、私よりいくつか上のお姉さん方が夢中になっていたように思う。今のようにジャニーズのグループが幾つも並び立っている時代ではなく、アイドル男性グループといえば「フォーリーブス」しかない時代だったから、それはそれは凄い人気だったのを覚えている。青山さんはメンバーの中でも一番整った顔立ちで洗練された雰囲気を持っておられた。たぶんメンバーの中では人気も一番だったと思う。テレビで初めてこのグループを見たときは、『マグマ大使』のマモル少年(江木俊夫さん)が歌っている姿に驚いたりした。個人的には北公次さんが好きだったけれども。

歌は……あんまり覚えていない。『みんなのうた』で歌われた『オブラディ・オブラダ』と、「にっちもさっちもどーにも…」の『ブルドッグ』くらいか。あのゴムバンドのパフォーマンスは何だったのだろうな? 2002年に再結成されていたというが……今後の活躍が見られなくなって残念だ。

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やっぱり風邪気味。ちょっと熱があるような気がするが、きょうは暖かかったのであちこち出歩いていた。悪化させないようにせねば。

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(備忘録090127)

なんとなく節々が痛いように思うのは、風邪の前兆か。暖かくして早く寝よう。

本日のお買い物
『オーデュボンの祈り』(伊坂幸太郎著)
『フラジャイル』(松岡正剛著)
『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一著)

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天才は天才を知る

昨日触れた『手塚治虫クラシック音楽館』に、ストラディバリウスを弾くモロゾフ氏の場面が取り上げられていたので、きょうは第55話「ストラディバリウス」について。

BJの乗った飛行機が、計器の事故で北極近くに不時着する。外は猛吹雪。暖房も切れ、乗客は騒然となるが、そこに流れてきたバイオリンの音色に平静を取り戻す。弾いたのは乗客の一人で、世界的なバイオリニストのモロゾフ氏だった。やがて乗客は近くのエスキモー村へ避難することになったが、乗務員の指示で荷物を持ち出すことは許されず、BJ先生は医療器具が入ったカバンを持っていくことを諦める。一方、モロゾフ氏は指示に従わず無理矢理ストラディバリウスを持っていくのだが、移動の途中で風に吹き飛ばされてしまう。いったん村へ落ち着いてから、モロゾフ氏は吹雪の中をストラディバリウスを探しに行き、凍死寸前になる。命は助かったが、凍傷を負った指をBJが治療しなくてはならなくなる。しかし手元に医療器具がないためにどうすることもできない。結局、3本の指を失ったモロゾフ氏が言う。「自分が生きるためには 大事なものはいつも身からはなさぬことですて…… たとえば先生にとっては手術器具でしょうな…… あれは先生……飛行機の中においてくるべきではなかった」……

モロゾフ氏の機内での感動的な演奏(原作では何を弾いたのか不明だが、アニメ版では『G線上のアリア』が使われていた)や、「大事なものはいつも身からはなさぬこと」という説教めいたセリフに、なんとなく上手く丸め込まれてしまいそうになるが、元はと言えばモロゾフ氏の身勝手な行動が招いた自業自得の悲劇である。と、言えなくもない(笑)。しかしそんな皮肉な見方は手塚先生の意図とはかけ離れたものになるであろうから、\(・_\)こっちに(/_・)/置いといて。

大きく2つのテーマが描かれていると思う。一つは音楽の素晴らしさ、もう一つは人をその人たらしめるものの大切さ、である。「音楽の素晴らしさ」については改めて言うこともない。機内での名演奏のシーンに象徴されている。音符に花が咲き、人々は非常事態であることも忘れて感涙にむせび喝采を送るのだ。BJ先生とモロゾフ氏は隣り合わせの座席なのだが、演奏を終えたモロゾフ氏に先生が満足そうな顔でべったりもたれ掛って懐いているように見えるのは私だけか(笑)。氏の名演奏は乗客の不安や恐怖を取り除いたばかりか、このクールで仏頂面の外科医の心まで蕩かすほどのものだったのである。

そしてもう一点の「その人をその人たらしめるもの」だが、モロゾフ氏においては愛器ストラディバリウスを奏でること、BJ先生においては手術、である。実際、それらを欠いた彼らというのは、彼らであって彼らではないと言えるだろう。単に身に付いた技術のことではない。生き甲斐というのでもない。個性というのともまた違う。それがないと自分自身ではなくなってしまう、というようなもの。自我の一部というような深い領域のものかもしれない。モロゾフ氏は「自分が生きるためには」と強い言葉を放っている。言葉を補うとすれば「自分が『自分として』生きるためには」ということになると思う。モロゾフ氏とBJ、この2人の天才は、この極限状態でそういうものの大切さに気付き、共感し合っていたのではないかと想像する(凡人には想像するしかできぬ…)。

後にエスキモーの夫婦によって発見されたストラディバリウスが、モロゾフ氏の3本の指に寄り添うように埋葬されたというラストシーンは、美しく神秘的であり、せめてもの救いでもあった。凍える氷の下で、ストラディバリウスは今も美しい音楽を奏でているのかもしれない。

最後に蛇足を。猛吹雪の中をカバンを取りに飛行機へ向かうBJ先生。さすがにコートの袖に腕を通して着ておられます。肩にひっかけるだけのいつものスタイルではなくてコート本来の着用方法でお召しになっているのは、シリーズ中このシーンだけではないでしょうか。また、飛行機に乗るからと、いつもはコートの内側にしのばせているメスも外してしまわれていたのでしょうね。

こんな強風なのにやっぱりデコが見えない……。orz

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手塚治虫と音楽

『手塚治虫クラシック音楽館』(手塚治虫 小林準治 著)読書中。帯に「クラシック音楽と漫画の幸福な関係」とあるように、手塚の漫画を音楽をキーワードに読み解こうとする試みである。漫画も2編(『ふたりの演奏家』と『雨のコンダクター』)収載されている。このうち『ふたりの演奏家』は初めて読んだが、佳い作品だと思った。わずか5ページの中に戦争の悲惨さと音楽の素晴らしさを盛り込み、しかも全体としては童話のような趣きを持っている。

クラシック音楽には疎い私だが、手塚作品と結びつけて書かれていると、聴いてみようかなという気にもなる。クラシックにも手塚漫画にも詳しくなれそうな一冊だ。

Photo ところで、1月30日のNHK『プレミアム10』は「手塚治虫 漫画 音楽 そして人生」で、やはり手塚と音楽の関係を探るらしい。昨日の『土曜スタジオパーク』で紹介されていたので画面を写してみた。進行役は宝塚でBJ役を務めた真矢みきさん。

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愛は金で買えるズラ

『銭ゲバ』2回目。風太郎のワルぶりが少しずつ発揮されてきて、初回よりおもしろかった。原作に比べるとこれでもまだ洗練されすぎていて泥臭いパワーが不足している観は否めないけれど、ドラマはきっとこの路線でいくのだろう。今回は、最初から緑さんを狙うのではなく、まずは妹の茜さんに気に入られようと画策する風太郎を描いていた。姉妹の父親には警戒されるが、作戦はまんまと成功。

茜の耳を塞いで、優しく愛を語るような顔で「俺は自分が醜いからさ。美しいものが好きなんだ。だからお前は大嫌いだ。お前の顔なんか見たくもない。財産のためだよ。だけど、緑さんを手に入れるのはオレには難しそうだ。だから仕方なくお前に近付いたんだ。銭のためずら」と囁く彼にゾクリとする(←セリフは正確ではありません)。

「自分が醜いから」と言っている割りには、傷はあってもたいして醜くない風太郎なので、原作の一種プリミティブでストレートな懸命さではなくて、何かこう、精神的にねちっこく絡め取られていくような危険な魅力を感じた。これは松山ケンイチという役者さんの演技の上手さに負うところが大きいのかもしれない。

来週からはいよいよ本格的に三國家乗っ取りを企てることになるのだろう。刑事からは既にマークされているし、あのロクデナシ親父も身辺をうろちょろしているしで、おもしろくなりそうだ。定食屋「伊豆屋」というのはどういう役割なのだろう? 原作にはない設定だが、あの女子高校生はもしかしたら……要チェックかもしれない。それにしても、きょうの「愛は金で買えるズラ」というサブタイトルはちょっと先走った感じがする。風太郎、全然お金なんか使ってなかったし。

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(備忘録090123)

『かけがえのないもの』(養老孟司著)読書中のため、記事はお休みします。m(_ _)m

寒くなってきました。明日はまた雪かな。

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携帯電話 文部科学省の方針

文部科学省は、子供の携帯電話について、小中学校への持ち込みや校内での使用を原則として禁止すべきだとする方針を固めたらしい。基本的には賛成である。学校生活に携帯電話は不要だ。どうしてもどこかへ電話したいなら、先生にそう言って職員室から掛けさせてもらえばよい。私が子供の頃は実際そうしていた。しかしいざお上がそんなことを決めたとなると、ムラムラと反撥心が起こるのが私の性格で…(笑)。

お上が口を出すような問題ではないと思うんだけれどなぁ。国がいったん決めたことはそう簡単にはひっくり返らない。国が規制しなければ学校での携帯電話の使用が止まなかった、それが日本国民の程度だ、日本の教育現場の実情だと示されているようで、なんともナサケナイことだと思う。学校単位でどうにかならなかったのかと、まず疑問に思う。授業中に使っているような児童生徒からは問答無用で取り上げればよい。そんなふうに決められなかったものだろうか。親が文句を言ってくるのだろうか。そんな親さえ説得できないなら学校のほうが力不足だ。

また、文部科学省が言っているのは「小中学校への持ち込みや校内での使用」についてだけであって、これでネットいじめやその他子供への被害がなくなるなんてことは、いかに文部科学省でも考えてはいないだろう。しかし今回こういう方針を打ち出したということで、穿った見方をすれば、これで携帯電話によって引き起こされる問題は文部科学省とは関係ありませんよ、と言いたいんじゃないのかとも思われる。子供たちは登下校のときには、以前と変わらず携帯を操作しながら歩くのだろうが、もうそれは文部科学省とも学校とも関係ありませんよ、と。いや、今度の指針に「登下校」も含まれるのかどうか、詳しいことは知らないけれども。

責任はこれですべて「親」に帰することになったのだと思う。携帯電話をどう扱うかは、学校で行う教育ではなくて、家庭で行う躾の範疇に入ることになったのだと思う。それはそれで良いと思うのだけれども、文部科学省が口を出さざるを得なくなるまでに問題が悪化した状態で丸投げされれば、親も大変だろうなとは思う。中には、本当に、呆れるほど問題意識を持たない親もいるから、仕方ないことなのかもしれないけれども。そんな親に育てられる子供が可哀想だね。とにかく、本来国が禁止するようなことではないと思うのだ、この程度のこと。どうせ口を出すなら有害サイトを取り締まる方にしてもらいたいものだ。もう遅いけど……。

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(備忘録090121)

オバマ大統領一色の日。ほぼ世界中が喜んでいるというのも珍しい現象なのではないかと思う。ヨルダンではオバマ就任よりブッシュ退陣の方が歓迎されていたようだが(笑)、なるほどそういう理由もあるだろう。いずれにせよ、頑張ってほしいと思う。この人の演説を聞いているとやる気が出てくる。それだけでも人々に良い影響を与えられる人だと思う。A首相ならびに日本の政治家の話を聞いていても、そんな気になることは皆無だものね。

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世知辛い・・・

たとえば、道端に倒れている人を見て、「あなたが今ここに倒れるに至ったのは、あなたの自己責任の結果ですか」と尋ねて、「いや、そんなことはない。これまで身体に良いと思われることは全部やってきた。今ここに倒れていることについて自分には何の落ち度もない」と答えた人だけを助けようとするのが、大多数の人なのだろうか? もしも「酒やタバコを何十年やっているし、健康診断も受けたことがない。持病も治そうと思ったことはない」と答えたら、じゃあそれはあなたの責任だからそのままそこに倒れていなさいと言うのかな。

「『派遣村』にいたのは誰だったのか?」という記事を読んで、漠然とそう思った。

数年前に私は実際、道に倒れていた60代くらいのご婦人を介抱したことがある。偶然通りかかられたご近所の奥さんの車に乗せて、そのご婦人を家まで送り届けた。どうやらそのご婦人は酒に酔っ払っておられた様子だったので病院へ行く必要はあるまいと判断したからだが、一人暮らしのようだったので、その地区の民生委員さんに電話で事情を話しておいた。仕事には大幅に遅刻したが、それで一件落着。しかし後で思い出して腹が立ってならなかったのは、そのご婦人を横目で見てそのまま通り過ぎていった若い男性がいたことだった。私よりも彼女に近いところにいたのに。私が慌てて駆け寄って介抱しようとしているのも見ていたのに。

「派遣村」にいたのは誰だったのか? という記事に対して、ほらやっぱりね、と答える人たちは、この若い男性と大差ないように思う。自分は何も行動しないで、外野から自分が何もしなかった言い訳を言っているだけのように思う。日比谷公園に集まっていたのは派遣切りされた人たちだけではなくて、以前からの路上生活者もいたという。だから何だ? そんな人たちまで助けるのは嫌だから本当に困っている人がいても彼らに対して目を瞑るのか? 貯金はしていなかったのか、正社員になるよう努力したのかと責めて、それが今さら何になる? 彼らが職を失う前に親身になって助言してやれよ。実行委員会の政治的PR? もしそうであったとしても、それはいけないことなのか? 

かく言う私だって、彼らのために何をしたわけではない。金も出さず行動もしていない。しかし、いや、だからこそ、その上にボランティアの人たちを貶めるようなことだけは言いたくない。ボランティアは無償の行為だ。見返りを期待してするものではない。あそこに来たのが本当に困窮した人たちなのか、ただ一食浮かそうとしてやってきた人たちなのか、そんなことを問題にしていたらきっとボランティアなんてできない。助ける必要のある人だけを助けるのだ、条件を満たさない奴まで助ける必要はない、騙されてたまるか、というのはまだ損得勘定をしているのであって、およそ無償の行為とは程遠い。

今度のことに「ほらやっぱりね」と言える人たちは、きっと自分がどんなに困窮しても人の助けなんか要らないと思う人たちなんだろう。私はそんなに強くもないし立派でもないし覚悟もできていないし小悧巧でもない。私なら、自分が道端に倒れて動けなくなったら無条件で助けて欲しいと願うだろう。良いことばかりやってきたわけじゃない、悪いことだっていっぱいしているから、彼らからすれば助ける必要も価値もない人間だろうと思う、私という人間は。それでも助けて欲しいと願うに違いない。

想像してみてほしい。困っている人が居て、それを誰もが見て見ぬふりをしたり自分が助ける必要はないと思い込もうとする人間が集まっている社会と、すぐに誰かが暖かい手を差し伸べることを期待できる社会と、どっちが幸福か。

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皆様にお願い

伯母から年賀状が届いていない。兄に尋ねたらやはり届いていないと言う。もしや身体でも壊しているのではないかと電話を入れたら、元気そうで「あら、年賀状出したわよ」と言う。もう90代の高齢でもあり、たぶん出したつもりで忘れているのだろうとは思うが、郵便事故の可能性もないとは言い切れない。

そこで、皆様にお願い。
もしも今年私宛てに年賀状を出したのに返事が来ていないという方がいらっしゃいましたら、ご一報ください。
よろしくお願いいたします。m(_ _)m

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クマ

『BJ』シリーズには主役級の役どころで2頭の熊が登場する。「クマ」のジンベエと、「一ぴきだけの丘」のタローである。ジンベエは5人もの命を奪った凶暴なクマ、タローは人間に懐いた優しいクマ。タローは北海道産だからエゾヒグマ、ジンベエはおそらくニホンツキノワグマである。(注:ジンベエが北海道以外には生息しないエゾヒグマだとすると、ジンベエを狙うマタギの矢口冬造さんも北海道に住んでいることになり、その妹の夏江(ナッちゃん)も北海道民ということになる。そうなるとナッちゃんと同じ中学に通っていたBJはますますもってどこに住んでたんだアンタ?状態になってしまうので、ここはどうしてもジンベエにはニホンツキノワグマであってもらわないと困るのである。ニホンツキノワグマは北海道にはおらず本州、四国に広く生息している。)きょうは「クマ」について。

「クマ」では、雪深い山中へナッちゃんを訪ねていくBJ先生。ジンベエを仕留めようとする兄・冬造を心配して思い留まらせようとするナッちゃんの相談に乗ろうとしたようだが、ナッちゃんは半年前に町へ行ったきり帰ってきていない。いったいその手紙はいつ届いたものなんだ? それとも、自分抜きで男同士の話をしてくれというナッちゃんの算段だろうか。それにしても、中学時代のガールフレンドの頼みを聞いてやろうとするBJ先生の義理堅いこと(笑)! 

戸口を開けてBJに応対する冬造さん。夏江さんはどこに?と問うBJを無遠慮にジロジロ見ている。どうやら矢口兄妹には両親がいないようで、冬造さんはナッちゃんの親代わりのつもりなのだろう、可愛い妹を訪ねてきた男(BJ)を何者だ?とばかりに品定めしている。そしてどうやらBJ先生は冬造さんのお眼鏡に適ったようで「まあ あがんな」と言ってもらっている。外見はじゅうぶん胡散臭いと思うけどな(笑)。

ナッちゃんから来た手紙を見せると冬造さんは俄かに人懐っこくなる。自分のことが書いてある、と嬉しそうである。仲の良い兄妹のようだ。そしてBJに濁酒を勧め、ジンベエについて語り始める。BJ先生はひたすら聞き役に徹していて、ほとんどセリフがない。冬造さんは人里離れた山中で一人暮らしだから、きっと話し相手がいなくて淋しかったんだろう。「ジンベエをあきらめるってことは おれから人生取りあげるってことだぜ」と言う冬造さんに、BJは説得を諦める。……というか、最初から本当に説得する気があったのかどうかもよくわからない。逆に、ナッちゃんに「お兄さんの生き方を変えるのは無理だ」と言おうとしていたのかもしれない。少なくとも、BJ先生には冬造さんの生き方に共感するところがあったのだろうと思う。

「そこんとこが 夏江は女で わかンねえンだな」。うん、冬造さん、よくわかってらっしゃる。男と女の間の一番深い溝はそれなんじゃないかと私も思う。男って何故か危ない冒険をしたがる生き物なんだよね~。女はそんな男をひたすら心配する。もうちょっと楽で安全な生き方があるだろうに、と思う。そんな冬造と夏江と同じ構図で、ドクター・キリコとユリの兄妹がいる。BJとピノコも同じと言ってよいかもしれない。命懸けで危ない道を行く男達と、ハラハラする女達。埋めようのない溝、男と女の違いだ。

詳しい説明は省くが、ストーリーはこの後かなりとんでもない方向に展開する。おいおい、それはいくらなんでも……と思うのだが、ナッちゃんの文字通り命懸けの行動で、冬造は命を永らえる。冬造さんが真相を知ったときのことは、あまり考えたくない…。 

さてさて、この話の季節は真冬のようだが、読むたびにいつも不思議だった。クマってのは冬眠するんじゃないのだろうか? で、調べてみたら、クマの場合は完全な冬眠ではなく「冬ごもり」というほどのもので、確かにその期間外に出てエサを獲ることはないが、すぐに目覚める程度の浅い眠りらしいのである。ジンベエはというと、眠る気なんぞさらさらないようである(笑)。あるいは、冬造さんの存在がジンベエを寝させないのかもしれない。ジンベエの方も、冬造と闘うことを生きがいとしていたのかも。冬造とジンベエの間には同じオスとして通じ合う、本能的な何かがあったのかも。そしてそれは冬造さんにとって、夏江と通じ合うものより強力なものだったのかもしれない。ヒトだのクマだのという生き物の種類による分類よりは、男と女という2分類のほうが、はるかにしっくりくるものなのかもしれないと思ったりする。

最後に余談だが。「クマ」を初めて読んだとき、私は石川球太の『牙王』を思い出した。ここに出てくる「片目のゴン」は凶暴なエゾヒグマで、馬でも人でも襲って食べてしまう。人々はオオカミと犬の血を引く「キバ」を使ってゴンを仕留めようとするのだが、結局はキバが自分の家族や仲間達とともにゴンを斃す。その死闘が圧巻なのだ。『牙王』が「マガジン」に連載されていたのは昭和41年らしい(私はコミックスになってから読んだのだが)ので、「クマ」に先立つこと10年である。石川球太と手塚治虫はどうやら旧知の間柄のようで(写真)、「クマ」には『牙王』の影響が多少はあるのではないかと思ったりする。ちなみに『牙王』にはおとなしいクマ「タロー」も登場するのである。イヨマンテ(クマ祭り)の捧げ物になってしまうのだが…。

  片目のゴン と ジンベエ

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女と男

NHK特集『女と男』、3回シリーズで今日が最終回だった。
 第1回 惹かれあう二人 すれ違う二人
 第2回 何が違う? なぜ違う?
 第3回 男が消える? 人類も消える?

全部観たが、それなりに面白い内容ではあった。個人的には、男と女では同じ問題に対処するのでも使う脳の部分が違うというのが興味深かった。そして一番怖かったのが今日のお話。Y染色体はどんどん小さくなっていって、そのうちなくなってしまうそうだ。それは500万年後頃と予想されていたが、もしかしたら来週にもなくなってしまうかもしれないと言っていた研究者もいた。そうなれば人類は子孫を残すことができなくなり、滅びる。今の時点でも、ヒトの精子は濃度や運動能力が劣化していて、チンパンジーなどと比べても出来が悪いのだそうだ。(←これを一夫一婦制の結果だと説明していたのにはちょっと納得がいかなかったが……。)

そこで出てくるのが生殖医療。以前の試験管ベイビーや、たった1個の精子があれば事足りる人工授精の技術などが紹介されていた。そして実際に精子バンクを利用して子どもを作った女性や、知り合いの男性から精子をもらってそれぞれに子どもを産んだレズのカップルなども出ていた。新しい家族形態が生まれていることを目の当たりにしたが、一方ではイタリアのように人工授精はカップルに限る等の法整備を行った国があることも知った。

性が男と女に分化したのは、そのほうが子孫を残せる可能性が高いと判断した結果の戦略だ。だから性を考えるときには「子ども」という要素が欠かせない。しかし最初から男はいらない、でも子どもは欲しいから精子だけ欲しいという欲求は、どうなんだろう? 赤毛の子どもが欲しいから赤毛の男性の精子を選んだという女性の考え方には、とことん嫌悪感を抱いてしまった。そういう要望に応じるビジネスがあることもまた。生き物は子孫を残すことが究極の目的なのだからそれで良いというふうには、どうしても割り切ることができない。お父さんとお母さんがお互いに相手を愛するからこそ子どもを授かるのだと、私はそういうふうに考えたいなぁ。

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(備忘録090118)

新聞で目にした話題2つ。

・米俳優のパトリック・マッグーハン氏死去
う~ん…………。顔はまったく思い出せないのに、なんかこの名前聞き覚えがあるゾと思いながら過ごすこと半日。思い出した! 青池保子の『イブの息子たち』の番外編「プリズナー69」の管理人さんの名前だ! 氏の経歴を調べてみたら「60年代、スパイが主人公の英国の人気テレビドラマ「プリズナーNo6」で主演や監督、脚本などを務めた」とある。ああ、そうだったのか。このサブタイトルにはそんな遊び心が隠されていたのか。30年ぶりに気付いた真実であった。

・大阪大学付属病院で国内初となる心肺同時移植手術
患者は「アイゼンメンジャー症候群」の30代の男性。アイゼンメンジャー症候群? もしかしてこれって……。慌てて『BJ』の「空からきた子ども」を読み返す。やっぱりこれだよね、「アイゼンメンゲル複合」。当時さすがのBJ先生でも手が出せず、窮余の一策、アンドレイを母親の身体にくっつけてしまったあの病気だ。
手術は18日午前0時前に終了し、患者の容体は安定しているという。BJ先生は肺の移植だけを視野に入れていたようだが、昨日行われたのは心肺同時移植。すごいなぁ。医療は確実に進歩している。

昨日のお買い物
『草原からの使者 沙高楼綺譚』(浅田次郎著)
『詩の力』(吉本隆明著)
『禅とは何か』(鈴木大拙著)

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金のためなら、なんでもするズラ

実は数日前から拙ブログに「銭ゲバ」を検索してやってこられる方が多くて、もうどうしようかと思っていた。たいしたこと書いてないのに(汗)。それでも通常より50件くらいアクセスが多いだけだったが、きょうに至っては21時台だけで405件、22時台に460件のアクセスがあり、本日の総アクセス数が1200件を超えた。リンク元をたどると、その多くはgoogleの検索結果だ。……どうして拙ブログが6番目に表示されているのだ?! 表示の順番ってのはどうやって決まっているのか合点がいかない。飛んできて記事を読んでガッカリなさった方、ごめんなさい。m(_ _)m

しかしまぁ今晩からドラマが始まったので、もっと相応しい記事がたくさん上位に表示されていくことだろう。

さて、『銭ゲバ』注目の初回。松山ケンイチの演技はなかなか良いと思った。ただ、ニヒルさに余裕があってカッコよすぎて、いくら泥水をかけられても汚れないイメージがあったけれども。原作の風太郎は、もっとこう、泥水の中でドロドロになって足掻きながらも、這い上がってのし上がっていくことだけを考えている、強靭なふてぶてしさと底知れぬ不気味さがあった。少年時代の風太郎も、ちょっとイイ子すぎた。貧しいが故にいじめられるのは原作どおりだが、悪い連中と付き合って悪いこともやっているのだ。それは描いておくべきだったと思うけれどなぁ…。

全体的にスマートに過ぎる感じはしたが、初っ端の派遣切りなどは、現代の世相にうまく合わせて貧困や格差社会を表現していたと思う。風太郎が自分と同じところを怪我している野良猫にエサをやる描写(これは原作にはなかったと思う)もよかった。しかし、落ちている1円玉を拾う風太郎が携帯電話を持っているのはどうかと思う。DoCoMoがスポンサーだから仕方ないんでしょうか(笑)。

ともあれ、「愛か、金か」なんていう綺麗ごとに終わることなく展開していってほしい。収拾がつかなくなるくらい、風太郎のあの生き様をギラギラと再現させてほしい。それだけでよい。そこから何を感じ取るかは視聴者次第だ。

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あの男性を思い出した

USエアウェイズ機がハドソン川に不時着したが、乗客乗務員全員が無事だったとのこと。大惨事にならなくて本当によかった。機長の冷静な判断と技術に拍手を贈りたい。

このニュースを見て思い出したのは1982年に起こったエア・フロリダ90便の墜落事故だ。記録的寒波が襲ったその日、翼に雪や氷が付着した状態で離陸を開始した同機は、離陸直後に失速状態となって氷結したポトマック川に掛かる橋梁に墜落・激突した。このとき、一人の男性の行動が全世界の感動と涙を誘った。

生存していた乗客6人がポトマック川の割れた氷にしがみついていた。事故から20分後に救助ヘリがやってきて命綱を投げる。受け取った男性は2度にわたって近くにいた女性にその命綱を譲ったのだ。3度目にヘリが救助に戻ってきたときには、彼は既に力尽きて水中に没していた……。

彼の名前はアーランド・ウィリアムス。事故現場となった橋は後に「Arland D. Williams Jr.記念橋」と改名された。

自分も生きるか死ぬかという状態のとき、こんな行動が取れるかどうか……。今となっても、忘れ難い事故であり人物である。

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エコロジーとエコノミー

この不景気な世相を反映して、テレビでは各種の節約術が紹介されているようだ。先日チラリと観たところでは、空腹状態で買い物に行かないように、などと指摘されていた。そんなことは以前からやっているが、それでどれだけ節約できたのか実感できないのが悲しいところだ。しかし節約すれば消費は冷え込み、景気回復は更に遠のくはず。難しいものだ。というか、今まで日本経済がよくどうにかこうにかやってこられたものだと、却って感心したりする。エコロジーが叫ばれるほどに大量に消費・廃棄していたのだから。

ところで、昨年後半話題になった本に、武田邦彦の『偽善エコロジー』がある。私は敬遠して未読だが、エコロジーを標榜する世相というのは結局、金と政治の問題、すなわち利権絡みの現実に踊らされているだけだということが書かれているようだ。レジ袋の代わりにエコバッグにすることは却って石油の消費を増やすことになるとか、冷房温度を上げても温暖化は止まらないとか、せっかく分別したゴミはそのほとんどが焼却されているとか、書かれているらしい。

そういう事実もあるだろうよ、と思う。きっと世の中には「偽善エコロジー」と言うよりは「偽装エコロジー」と言ったほうが良いようなことも存在するのだろうと思う。しかし、本物のエコロジーの思想自体が間違っているとは思わない。「ecology」とはそもそも環境と生物との相互関係を調べる学問のことであって、直訳すれば「生態学」ということになる。日本で初めて「ecology」という言葉を使ったのは南方熊楠であったとされる。1909年、時の政府が出した「神社合祀」の号令一下多くの神社が廃され、同時に神社の森が伐採された。粘菌の研究家であった彼は生態系が破壊されたことに激怒して反対運動を起こすのだ。日本人が誰も生態系だの生態学だのを理解していなかった時代のことである。

エコロジーの本質は「生態学」。だから、人間がどうやって自然を壊さずにこの地球上で生かしてもらえるかを考えることであるはずだ。ところが、「経済学(エコノミー)」もまた同じ「エコ=オイコス(家計)」を語源としているらしい。経済学とは「有限な資源からいかに価値を生産し分配していくかを研究する学問(Wikipediaより)」であり、私のような素人にはエコロジーとエコノミーの両立は無理であるように思われる。つまり、100%のものを100%の状態で存続させるのがエコロジーであるとするならば、100%のものを人間にとって100%以上に価値のあるものにするのがエコノミーなのではないのか。元の100%になんらかの手を加えなくては余剰分は出ないわけだから、そこでは当然、変容や簒奪、搾取が行われるはずだ。

いままで経済重視で豊かになった国では、この、元の100%をどのくらい使い、あるいは破壊してきたのだろうか。石油や石炭や天然ガス等の地下資源はあとどれくらい残っているのだろう。森林や湿地はどれくらい狭くなったのか。そしてそれらを人間だけが人間のためだけに利用して良いという根拠はどこにある? エコロジーという視点は決して失くしてはいけないものだったと思う。大量に消費しすぎる豊かな生活に慣れてしまったから、余計にこの不況が身に沁みるのではないかとも思う。

それでもエコロジーとエコノミーの両立を願ってこれから経済活動の活発化を考えるなら、元の100%を復元させる方向に動いてほしいと思う。地下資源を人間の力で作り出すことは不可能だろうが、森林を復活させるために木を植えることはできる。休耕田で稲作をすれば田んぼは自然のダムの役割を果たしてくれる。気温だって下げてくれる。そういう活動で経済が上向きになることを考えられないだろうか。

この100%をいつの時代に設定すればよいのか、そんなことは私にはわからないが、とりあえず南方熊楠がエコロジーを唱えた100年前を目標にしてもよいと思う。さぞや不便で質素な生活だろうと思う(笑)。現実的な目標でないことはわかっているが、当時はそれが当たり前の生活だったのだ。人間も自然の一部としてつましく生活していたのだ。その頃の人間ははたして今の人間より劣っていただろうか。たぶんそんなことはない。却って現代の我々のハシタナサを見たら、当時の人々は眉をひそめるのではないかと思う。

たぶん、感覚的な問題なのだ。金銭に豊かさを求めるかどうかの。「自分は生かされている」という感覚を持っているかどうかの。生きていることに感謝の気持ちを持っているかどうかの。

今までどおりの感覚や価値観のまま、レジ袋だエコバッグだと騒いでも、ただそれだけの現象で終わってしまう。根本的に見方考え方を変える時期に来ているように思う。拝金主義に麻痺してしまった我々の感覚にとって、この不況はカンフル剤になるかもしれない。お金がないことが即ち不幸であるのか、人間の幸福とは何かを考える上でも良いチャンスと捉えられたら、と思う。

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『稀覯人(コレクター)の不思議』

『稀覯人(コレクター)の不思議』(二階堂黎人著)読了。時間がかかったのは、なにしろ登場人物の数が多いのと手塚治虫の古書に関する薀蓄を頭に入れるのが大変だったため。

内容(「BOOK」データベースより)
手塚治虫愛好会の会長が自宅の離れで殺され、貴重な手塚マンガの古書が盗まれた。しかも、その部屋は完璧なる密室に仕立てられていた。犯人は、やはり手塚マニアなのか?また、どんな方法で密室を創り出したのか?愛好会の一員である大学生・水乃サトルは、持ち前の頭脳と博識で、真犯人を追いつめてゆく、鮮やかな論理とトリック!スリリングな傑作長編。

何故密室で自殺を装わせる必要があったのか、犯人はどの本をどうするのが目的だったのか等の謎解きも充実しているが、一番の新機軸は犯行の動機であろう。なるほど、これがコレクターというものか、と思わせられた一編。作中、小道具として著者が創作した手塚治虫作の『白雪姫』や『学童社版ジャングル大帝3』なんていう本も実在しそうに思われた。もしもそんなものが出てきたら、それこそ殺人を犯しても手に入れたいと思うコレクターは数多いのかもしれない。

しかし、この本に登場する手塚本のコレクターたちは、手塚ファンというよりは、手塚本に特化した古書ファンといったほうがよいような気がする。マンガの内容ではなくて、そういうマンガが過去に出版されたという事実のほうに興味がある人たちのように思われる。手塚治虫という人は満足できるまで自分の作品に何度も手を加えた人だから、同じ作品でも出版社や刊行形態や版によって違いがある。それを全部手に入れないと気がすまないという人が、いわゆる稀覯本のコレクターということになるのだろう。私にはそういう欲望はあまりない。『BJ』についてだけはその内容の変遷や相違点を知りたいと思うけれども、単行本について「初版」でないと気がすまないというようなことはない。読めればよろしい。

この作品は手塚治虫最晩年の1980年代半ばが舞台となっている。『ミッドナイト』が掲載されている少年チャンピオン……などという描写が出てくるとなんだか嬉しくもあり、ほろ苦い懐かしさに胸が締め付けられる思いもする。その当時の私はマンガとはすっかり縁が切れていた。こんな愛好会が身近にあったなら、と思わないでもない。今も手塚治虫のファンクラブは存在しているが、いろいろ専門的で高度な話をしておられるのだろうなと思う。そこの会員さんたちがもしも拙ブログの『BJ』記事などをご覧になったら……いかん、冷や汗が出てきた。

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(備忘録090113)

今年に入ってから、まともに太陽を見た日はないような気がする。あ、1日だけ、陽射しの明るい日があったかな? それだけで、あとは曇天雨天または雪。ここ3~4日ほどは毎日雪掻きだ。嫌いではないのだが、腰が痛くなる。何故か今シーズンはタイミングを逸して炬燵を出していなかったのだが、さすがに雪が降ると寒さが違うので、やっと数日前に出した。で、今までうたた寝をしてしまっていた。炬燵を出すとこれでいかんなぁ。

きょうは自民党の渡辺喜美氏が離党届を出したらしいが、この人の話を聞いていても首相批判ばかりで新しいビジョンが見えない。沈むと判っている泥舟からいち早く颯爽と抜け出したというところなのだろうが、応援しようと思うほどにはカリスマ性がない。

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リボンの騎士

『BJ』に頻繁に出てくる手塚キャラ(女性)にメルモとサファイアがいる。『BLACK JACK 300 Stars' Encyclopedia』によれば、メルモが7話、サファイアが6話に登場している。サファイアは登場回数ではメルモに及ばないが、主役級の役を当てられることが多く、また連載開始早々の第4話目に登場していることからも手塚治虫の思い入れの深さが窺えるキャラである。

・サファイア登場エピソード
#4  「アナフィラキシー」  
#15 「ダーティー・ジャック」  
#49 「二つの愛」  
#94 「サギ師志願」  
増刊「U-18は知っていた」 
#212「ある女の場合」

特に印象深いのが「ダーティー・ジャック」と「ある女の場合」の2編だ。
「ダーティー・ジャック」では幼稚園の先生役。園児を引率してバスに乗っていてトンネルの落盤事故に遭うが、子ども達を怖がらせないよう、優しく、そして毅然と事に当たる女性である。最期は差し入れられた医薬品に火が燃え移るのを身を呈して防ぎ、子ども達をBJに託して死んでいく。
「ある女の場合」では浮き沈みの激しい人生を歩む女性役。駅のホームで倒れたところをBJの手術によって一命をとりとめ、その後幸せを掴んだかに見えたがまた没落し……。それでも健康な身体を手に入れた彼女は強く生きていくのであった。

「アナフィラキシー」でも人に向かって発砲するという(緊急事態だったので)思い切った行動に出る看護師を見事に演じているし、男勝りでちょっと気は強いがそこが魅力的……という女性を演じさせたらサファイアの右に出る者はいない。まさに男と女両方の心を持つリボンの騎士の面目躍如である。

で、BJ先生が何故かサファイアにはいつも好意的なのである。「ある女の場合」の手術料がラーメン1杯分とは破格の安さである。プラットホームで倒れたのがサファイアでなくスカンク草井あたりだったら、見て見ぬふりをするか(をいをい)、5千万円ローンで払え、くらいは言うはずだ。美人は得だなあ(笑)! サファイアの屋敷での、手術料を払う、いらない、の応酬もなんだか楽しそうだし、BJ先生は自分に対等に向かってくる相手がお好みなんじゃないかと思う。その一途さとか懸命さとかその底にある譲れない信念とかプライドとか、悪く言えば頑固さとか、そういう部分で相対することのできる数少ない女性キャラであるように思う、サファイアは。

そしてこのサファイアの性格と非常によく似ていると思うのがピノコである。BJと対等に物を言い、一途で頑固で、優しい。逆に言えばサファイアがピノコのポジションにいてもBJとは上手くやっていけそうな気がするが、それだとサファイアが妙齢の美女なのですぐにBJと恋愛関係になりそうな気がして……、だからこれは却下。やっぱり孤独な影をまとう男であるところのBJの傍にいても良いのは「小さい」ピノコだけだ。話が逸れたが、サファイアとピノコは似ていると思うのである。手塚治虫が生み出した最大の女性キャラ・サファイアのキャラクターを踏襲しているのがピノコなのかもしれないと思う。ピノコの髪やスカートに「これでもか」とばかりにたくさんついているリボンは、その目印なのではないのかな。

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ミステリ三昧

『和時計の館の殺人』(芦辺拓著)読了。

地方の旧家、時計台のある館、遺産を巡る諍い、頭部を包帯で隠した男、密室の惨劇、突如鳴り始める時計、地下の洞窟に隠されていたものは……。横溝正史を思わせる道具立てだが、あのオドロオドロしさは無い。探偵役を務める森江春策弁護士の人柄と関西弁が、全体の印象を柔らかなものにしている。最後に水に落ちたためにやむを得ず和服姿で謎解きをするのは、紛れもなく金田一耕助へのオマージュであろう。

以下、多少のネタバレあり。

連続殺人と思わせておいて……という点は先が読めたし、時計係の女性の素性も思ったとおりで、犯人当てという観点では平均的な出来だと思う。しかし関係者の「時間」に関する証言の扱い方が上等のミステリになっている。誰一人、時間に関しては嘘を吐いていない。それなのに生じる矛盾と、深まる謎。和時計に関する雑学も増えて、なかなかに興味深いミステリだった。

続いて、『稀覯人(コレクター)の不思議』(二階堂黎人著)読書中(それにしても、「稀覯」くらい漢字変換してくれよ)。帯に「すべての手塚ファンと本格推理ファンに----。」とあるように、殺されるのは手塚治虫愛好会会長で、始まって2ページ目に、ブラックジャックで殴られる。少チャンコミックスを読んでいれば判る「ブラックジャック」という表現が嬉しいではないか。著者が手塚治虫ファンクラブの2代目会長を務めたほどの手塚マニアなので、手塚関連の薀蓄も楽しい。

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(備忘録090110)

読書中につき、記事はお休みいたします。m(_ _)m

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明日はわが身か

定額給付金を各閣僚が受け取るかどうかなんて、どうでも良いんじゃないのか? 大事なのは、2兆円もの財源を定額給付金以外に有効に使おうとする意志がいまの政府にあるかどうかであって、それはどうやら「ない」らしいということだ。挙句に、年度内に給付できるかどうか、それすらも判らないらしいということだ。国会での論点がズレていることも腹立たしいが、それ以上に、こんないい加減な政策があってよいものかと思う。

年末にテレビのワイドショーで麻生総理のことを「2KY、MW」だと言ったコメンテーターがいた。「空気読めない 漢字読めない まったくわかってない」の意味だそうだ。さらに「溺れている人を船で釣りをしながら『頑張れよ』と眺めているようなもの」と評した人もいた。座布団3枚進呈!

最初は、この年末に路頭に迷う人を出してはいけないと、昨年末までに給付するというような話だったと記憶している。たかだか1万2千円でどうなるものではないかもしれないけれど、実際に住むところも失くして日比谷公園の「年越し派遣村」にやってきた人たちは数百人にも及ぶ。全国でははたしてどれくらいの失業者が途方に暮れていることだろう。この「派遣村」にしても、決して政府主導ではない。NPO法人や労働団体などでつくる実行委員会が開設し、実際に現場で働いたのは1700人ものボランティアだ。政府は「宿泊場所を提供しろ」と働きかけられるまで何もしていない。

そんな暗い話題ばかりの中で、この正月三が日の初詣での人数が9939万人と、統計の残る1974年以降で最多だったというニュースがあった。いや、これさえも不景気ゆえの神頼みが増えたということらしいのだが。お賽銭を1人当たり100円としても100億円ほどのお金が集まったはず。宗教法人は、この集まったお賽銭を少しは世の中に還元してもよいのではないかと思う。お寺の本堂を「派遣村」住民の宿泊場所として提供するとか。時代劇なんかを観ていると、よく火事で焼け出された人などをお寺に収容しているではないか。八百屋お七なんか、そうだ。世の中の困っている人たちを救済することが宗教の本分。既に精神的な拠り所としての宗教の存在感は希薄だが、ならば実質的な拠り所になっても決して罰は当たらないと思うが、どうか。

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あれから20年

「Yahoo! ニュース」に「天皇一代の間で元号を改められる?」というクイズがあった。2009年1月現在、答は「×」。1868年9月8日、天皇一代に元号を一つとする「一世一元」の制が定められたからである。

ところで、当時の内閣官房長官だった小渕恵三氏が「平成」と書かれた額を持って記者会見したのが1989年1月7日。そして20年前のきょう、平成の御世が始まった。このとき「平成」のほかに「修文」「正化」の候補があったが、「元号に関する懇談会」がローマ字表記の頭文字が「昭和」と同じ「S」になってしまうことに配慮して「平成」と決定したとか。ちなみに「平成」を考案したのは陽明学者の安岡正篤であるとされている。

元号の話になると思い出すのが、猪瀬直樹の『天皇の影法師』である。「昭和」が決定されるときには、東京日日新聞が「光文」という世紀の大誤報を流した。そのあたりの事情や、森鴎外、吉田増蔵らの元号に対する思い等、これは私が今まで読んできたすべての本の中で10本の指に入るほど面白い本である(いま、どうしても見つからないのだが……orz)。

森鴎外が元号制定にタッチしていたとは、この本を読むまで知らなかった。わが島根県が生んだ大文豪だが、小説家としての名声は夏目漱石に及ばないのかな。素晴らしく怜悧な文章を書く人だと思うけれども。医者とか研究者としての素質のほうが勝っていたのかもしれない。『天皇の影法師』、もう一度読みたい。明日見つからなければ、もう一冊買ってこよう。

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七草粥

芹なづな 御形はこべら 仏の座 すずなすずしろ これぞ七草 (詠み人知らず)

今朝は「七草粥」をいただいた。これまではスーパーで七草がパックになっているのを買っていたが、今年は乾燥させたものを売っていたので使ってみた。完成したお粥に混ぜるだけというお手軽なものだけれど、こっちのほうが香りが高い。うん。来年からはこっちだ。

冒頭の作者不明の歌は「七草」を覚えるのに便利な歌で、一説には左大臣四辻善成の作とも言う。南北朝~室町の頃の人で、『源氏物語』の注釈書『河海抄』を著した人物として有名である。『源氏』研究では欠かすことのできない大学者だ。案外、春の七草はコレだ!と決めたのはこの人なのかもしれない。

ところで「七草粥」の由来は……
「正月7日の朝に粥(かゆ)に入れて食べる7種の野草、もしくはそれを食べて祝う行事。この日、羹(あつもの)にした7種の菜を食べて邪気を避けようとする風は古く中国にあり、おそらくその影響を受けて、わが国でも、少なくとも平安時代初期には、無病長寿を願って若菜をとって食べることが、貴族や女房たちの間で行われていた。ただ、七草粥にするようになったのは、室町時代以降だといわれる」(Yahoo! 百科事典より)
ということらしい。とすると、百人一首にある光孝天皇の御製「君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ」の若菜はお粥にして食したわけではなく、お吸い物に入れたのだね。

江戸時代になると、七草粥は武家から庶民にまで広く浸透したらしい。現代では、邪気を払い万病を除く占いとしての「行事」という意味合いは薄れたかもしれないけれども、お正月休みの飽食を爽やかに終わらせる節目という役割を担っているような気がする。ハレからケへの移り変わりをシャンと身体にわからせてくれる、素朴で若々しい香りの食べ物である。

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『銭ゲバ』

テレビから突然ローリング・ストーンズの“Paint It Black”が流れてきたので何事かと思ったら、新ドラマ『銭ゲバ』のCMだった。松山ケンイチが主演らしい。原作よりはるかに男前じゃん! ということで『銭ゲバ』(ジョージ秋山著)読了。

1970年「少年サンデー」で連載開始されたマンガで、私は当時はほとんど読んでいない。『銭ゲバ』と「マガジン」掲載の『アシュラ』だけは避けて通っていたフシがある。絵もストーリーも気持ち悪いというのが正直な感想だった。いやそれにしても、今から考えるとよくこんなマンガを少年誌に載せたものだと驚く。Wikipediaの解説を借りれば「極度の貧困から、殺人を繰り返しながら金銭と名誉を掴む1人の青年・蒲郡風太郎の波瀾万丈ストーリー」ということになる。

蒲郡風太郎の母は貧困のため病死し、父は外に女を作って出て行ってしまう。金の力だけを信じて生きていく主人公……というようなところは、どことなくブラック・ジャックにも通じるところがある。その頃の少女マンガではヒロインが必ず継母に苛められていたが、少年マンガにおいては家庭崩壊と金儲けが流行だったのかもしれない(笑)。恩も情けも親切も、風太郎は信用しない。刑事にマークされながらも次々と殺人を犯し、人を欺き、札びらで人の顔を張りながら、とある会社の運転手から、社長の娘婿になり、ついには社長になり、最後は県知事にまで登りつめる。富と名声と権力とを手に入れたとき、彼は……(以下ネタバレになるので割愛)。

彼が本当に求めてやまぬものは何だったのか。それまで憎たらしさしか覚えなかった彼に、最後は同情と憐憫の情を覚えた。このマンガの最後の言葉はすごい。「そうだ てめえたちゃみんな銭ゲバと同じだ もっとくさってるかもしれねえな それを証拠にゃ いけしゃあしゃあと生きてられるじゃねえか」。この言葉に真っ向から反論できる人間がはたして何人いるだろうか。

ドラマではどんな脚色がなされるかわからないが、いま一番観たいと思う新ドラマである。しかしまぁこのご時世に『銭ゲバ』とは。いや、こんな時代だからこそ、このチョイスなのかもしれない。

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「この坂は苦しいぞ」

さて、新年一発目の『BJ』語り。

BJ先生は医学書以外にどんな本を読んでいるのか。『ハムレット』や『シラノ・ド・ベルジュラック』などは知っているようだし、俳句だってすぐに思い出しているから、理科系の人間とはいえ一通りの古典等は読んできているようだ。自宅の書棚はきちんと整理されているようで、少なくともめぐみさんの写真が貼ってあるアルバムの位置は把握できている様子だ。その他にどんな本が並んでいるのか見てみたいものだが、確実にこれだけは所蔵していると思われる本が『ある身障者の記録』(本間丈太郎著)である。きょうは「アリの足」について。

この年末に私はテレビアニメ版の「アリの足」を横目で観ながら大掃除をしていた。「挫けるもんか!」と思いながら(笑)。読むたびに、自分も頑張らなくてはと思うストーリーなのだが、おおよそのあらすじは次のとおり。

ポリオによって足が不自由になった光男少年は、この病気の患者がどんなに努力しているかを伝えようと、広島から大阪までを歩く旅に出る。そのルートの参考になったのが『ある身障者の記録』である。そこに書かれた患者が、過去に同じルートを歩き通しているのだ。山火事に巻き込まれそうになったり不良少年に財布を奪われたりしながら、光男の苦難の旅は続く。そんなとき陰になり日向になって彼を助けるのがBJである。しかし高額な報酬を取る医者であるという認識から、光男はBJを軽蔑しており「自分をつけまわすな」と怒る。ルートの最後の難所で再び現れたBJは彼に最後の助言をし、『ある身障者の記録』に書かれている患者は幼い頃の自分であることを明かす。ある事故で身体がバラバラになり、それをつないで治してくれたのが本間先生。そしてリハビリに励む自分のことを記録してくださったのだ、と。BJと話をしたがる光男だったが、BJはそのまま去っていく。そして、光男は無事大阪までを道のりを踏破するのだった。

ストーリーの良さもさることながら、『BJ』ファンにとってはBJの過去が明かされる一編として欠かすことのできないエピソードである。アニメでは、旅を終えた光男と自宅でそのニュースを見るBJが画面越しに微笑み合うラストがなかなか良かった。黒男少年が昔同じルートを歩いたときには、光男少年のようにマスコミに騒がれることもなく、おそらくひっそりとした孤独な旅だったろうと思う。人の助けは借りない、自分一人でなんとかするんだ、という気概だけで歩いたんじゃないだろうか。つきまとわれて苛立つ光男の気持ちを、BJほどよくわかる人間は居まい。きっと危ない目にも遭ったことだろう。しかし反面、黒男少年だって行きずりの人から数知れぬ親切を受けたのではないのかな。でなければ、光男少年にあれだけ親切にはせずに放っとくんじゃないかと思う。あるいは、自分の他に誰か親切にする人がいたら、BJは手を貸さなかったのではないかと思う。自分があのとき人から受けたと同じくらいの親切を、BJは光男に返したのではないのかな。

ところでここでちょっと整理しておくが、この54話「アリの足」以前には、29話「ときには真珠のように」で、大怪我をした黒男少年を手術で治したのが本間先生であることがわかっている。このときに描かれた黒男は車椅子に乗っていてなんらかの事故に遭っている。さらにその前の28話「指」では間久部との会話に「おぼえてる……中学のときだ…(中略)…わたしは身体障害者 きみは不具者だったんだ」とあり、車椅子に乗った黒男が間久部と仲良くしている。このときの黒男は顔に傷もないし髪も全部黒いので、まだ事故に遭う前だということがわかる。つまりシリーズのこの時点での設定は、黒男はもともと何かの事情で歩くことができず、間久部と出会った中学時代までは車椅子で生活しており、その後に身体がバラバラになるほどの事故に遭い、本間先生の手術と過酷なリハビリによって歩けるようになった、ということになる。よって、黒男少年が広島~大阪の旅をしたのは中学高学年~高校生の頃と考えられるのだが、後に、この「身体がバラバラになるほどの事故」が「不発弾の爆発事故」になり、更には事故に遭った年齢も「8歳」と前倒しされ、幼少の頃から脚が不自由だったという設定が曖昧になっていくので、「アリの足」までとそれ以降では、BJの生い立ちの設定が違うことは頭に入れておかなくてはなるまい。

さて次に、広島~大阪というルートなのだが……。広島のどこが出発点なのかは絵を見ても判然としない。広島在住の方ならお判りになるだろうか? 終着点は判る。JR大阪駅前の、阪急百貨店と新阪急ビルと曽根崎署に囲まれた三角形の部分だ。地下街の「通風塔」が何本も地上に突き出しているところで、これは私が10数年前に実際に見て確認した。「Yahoo! 地図」の航空写真で調べたら今もあるようだ。ところで謎なのは、どうして広島~大阪なのかということだ。身体の不自由な少年が、縁もゆかりもない土地を起点や終点に選ぶだろうか。そこまでの移動だって大変だろうに。というわけで、このとき黒男少年は広島に住んでいたと考えてみる。ここからは一気に想像の世界に突入するのだが、黒男がそもそも歩けなかった理由を原爆だと考えるのは無理があるだろうか。まだ彼がほんの子どもだった1945(昭和20)年8月6日、爆風によって倒壊した家屋に押しつぶされて怪我をしたという可能性は考えられないだろうか(胎内被爆ということも考えたが、生後脚に障害が出たという例を見つけることはできなかった)。

広島だから原爆、というのでは短絡的に過ぎるかもしれない。しかしその後「身体がバラバラになるほどの事故」が「アメリカ軍の不発弾の爆発」に設定されたことを見ても、BJの生い立ちと戦争を結びつけることはそれほど不自然なこととは思わない。シリーズ全体からも戦争の匂いは色濃く感じられるし、手塚治虫が『BJ』で描きたかったテーマの一つは「戦争」であると信じる。よって、BJは戦争の被害者であるという設定が手塚の頭の中にはあったのではないかと想像するのである。そうするとBJの年齢は、ぎりぎり1945年生まれとして、シリーズ開始の1973年には28歳。うん、それくらいなんじゃないのかな。ということで、今まで私はBJ1948年誕生説をとってきたのを訂正して(…というか、どうして1948年という計算になったのかもはや覚えていない)、誕生日を1944年11月3日に勝手に決めることにする。手塚先生と同じ誕生日という妄想だけは捨てられない(笑)。

黒男少年は当時広島に住んでいた……となると、不発弾が埋まっていた場所も広島近辺で探さなくてはならないことになるのだが、それはまたの機会に。

「アリの足」に話を戻す。旅を終えた黒男は何を思ったのだろう。想像するしかないが、いちだんと逞しく成長した少年像が眼に浮かぶ。やきもきして待っていた本間先生に「よく頑張ったな」と暖かく迎えられて、はにかみながらも旅の思い出を夢中で語る黒男少年……(激しく妄想中)……は、後に先公をダーツの的にする不良少年になり、さらには法外な手術代を請求する闇の無免許外科医になるのであった。あらあら。だからBJって男はおもしろいよ。

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(備忘録090104)

ステレオの調子が悪くて夫と二人で配線などかまっていたら時間がなくなりました。
記事はお休みです。m(_ _)m

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手作りの年賀状

今年の年賀状は版画で作成した。初めての試みである。2版刷りだったので、彫るのに1日、刷るのに1日を要し、90枚ばかり宛名を手書きするのに更に1日を費やした。これまでは2日で仕上げていたのが1日余計に掛かってしまい、おかげで年末の大掃除が手抜きになってしまったが、これでだいたいのタイムスケジュールがわかったので今年の年末には参考にできるだろう。

これまでのわが家の年賀状の歴史を振り返ると、4年前の酉年まではプリントゴッコ、戌~亥はプリンタで印刷、昨年の子年は喪中欠礼、そして今年の丑年が版画ということになる。プリントゴッコは私が独身の頃から実に22年の長きにわたって使ってきたが、絵の具等の消耗品が文房具店から姿を消したことからパソコンでの制作に切り替えた。絵柄は毎年自分で考えるが、しかしパソコンで作った出来がどうもいまひとつ気に入らない。綺麗すぎる。絵柄ではなくて、つまり100枚が100枚すべて同じように出来上がるというのが面白くない。それで、版画に替えた。

1枚1枚の出来が、それはもう見事に全部違う。濃いのや薄いのやズレたのや、いろんなのができる。バレンで擦ってめくってみるまで、どんなふうになっているのか自分でも判らないのが面白い。ひゃ~、とか、うわッ、とか、奇声を上げながらの作成であった。楽しかった。今回は初めての試みということで、簡単で多少ズレてもわからない図柄にしたが、次回はもうちょっと凝ったものにしたいな、などと思っている。これを無謀といふ。

今年これまでにいただいた年賀状のほぼ9割はパソコン印刷のようだ。みな華やかで美しい。どんなデザインを選ぶかに、その人のセンスが窺える……のかな。さすがにこの年齢になると家族写真を使ったものは少なくなる。そうなると却って見たくなる心理も不思議なものではあるが(笑)。家族全員の動向を細かく書いてこられる方もあってそれはそれで面白いけれども、私自身はあまり近況などを書くのは好きではない。良いことであってもあまり良くないことであっても、読む人にはそれなりの思いが生まれるだろうから。一筆入れるときはただ「お元気ですか」とか「ご多幸をお祈りします」とか書くことが多い。共に新年を賀することさえできたら、と思う。

残りの1割ほどが手作りの年賀状だ。水茎の跡も麗しい達筆の賀状はいくら見ても見飽きない。いや、たとえ金釘流でも、この賀状1枚に籠められたエネルギーを思うと、ただ嬉しい。一人ひとり相手のことを思い浮かべながら、今年も無事に新年を迎えられる喜びを伝えようとする年賀状というのは、やっぱり重みが違うのだ。そういう年賀状をいただける喜びは何物にも替え難いから、せめて私も手間暇だけはかけて手作りの年賀状を作り続けたいと思う。

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満足な一日

きょうも雪が降ったりやんだりの一日。しかし積もるほどではなく、路面はほとんど乾いていた。

夫と平田本陣記念館の『タツノコプロの世界展』を見に行った。お正月になったら行こうと、以前から楽しみにしていた展示である。来館者もまばらでゆっくり楽しめた。売店には現在テレビ放映中の『ヤッターマン』のフィギュア等も売られていたが、私のお目当てはなんといっても『ガッチャマン』である。展示室の前にあるテレビモニターにはその『ガッチャマン』のOPとEDの映像が流されていて、じっくり観たかったのだが、30代くらいの男性2人が画面前に陣取って食い入るように観ていらっしゃったので遠慮した。かなりオタッキーな方々とお見受けした(笑)。

PhotoPhoto_2残念なことに、夫は「タツノコプロとは何ぞや?」と訊いてくるくらい興味がなく、唯一知っていたのが『いなかっぺ大将』だった。年代的に『宇宙エース』くらいは知っていると思っていたが……。『忍者部隊月光』は実写版を観たことがあるらしい。うん、それは私も観た覚えがある。あとは『ガッチャマン』も『タイムボカンシリーズ』も知らないらしい。7才の歳の差は大きいな……。それでも「綺麗な絵だなぁ」と言いながら一回りすると、「一人でゆっくり見なさい」と言って早々に出て行ったので、あとは私一人で『ガッチャマン』の絵を心行くまで堪能した。改めて見ると、ボロボロになったコンドルのジョーを大鷲のケンと白鳥のジュンが支えているような構図が多い。セカンドシリーズではたしかにジョーが悲劇のヒーローで、ケンよりも印象が強かったことを思い出した。再放送してくれないかなぁ、『科学忍者隊ガッチャマン』。

Photo_3 分厚いパンフレットやドロンジョ様のクリアファイルなどを購入して、ほくほく顔で記念館を後にする。次に目指すは出雲大社。もう夕方でしかもこんな天気だから参拝者は少ないだろうと思っていたが、それでも駐車場は満杯。やっと駐車して早々にお参りを済ませた。今年は良い年になりますように。

出雲市内まで足を延ばして古本屋や釣具店へ。私は探していた『風翔ける国のシイちゃん』(中田友貴著)を見つけることができたし、夫も何やら釣り道具を購入して嬉しそうだったし、満足満足な一日だった。

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一年の計は

明けましておめでとうございます。

終日雪だったため、初詣の予定も取りやめ、夫の実家で飲み食いプラス昼寝をして過ごしました。「一年の計は元旦にあり」だとすれば、初っ端から計画挫折の気運が漲っているように思われます(笑)。ついでにこの三が日は寝正月を決め込もうかと思います。布団に寝転がって好きな本を読めたら、もうこれ以上の幸せはありません。

↑上の文章を書いてから10分ばかり、画面を見たまま寝ていました。飲めないくせに飲んだワインが効いています。微かに頭痛までするのは二日酔いの予兆でしょうか……orz

なにやら先が思いやられる2009年元旦のグダグダ振り。たしか何かネタを書こうとしていたのに、それがなんだったのかも思い出せないくらい眠いです。こんなダメダメなワタクシですが、今年もなにとぞよろしくお願い申し上げます。m(_ _)m

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