先日の『いのちとヒーロー ブラック・ジャックからの問いかけ』で、「医は仁術」を期待するわれわれの意識が現代の医療崩壊を招いているのではないか、との指摘が海堂氏から出た。と同時に、BJが法外な報酬を要求することは「当然でしょう」とも(←もちろん、患者がどれだけ生きたいと願っているかを量る「踏み絵」であることにも言及しておられたことは書き添えておく)。
もしも私がBJ先生以外の医者には治せない病気にかかったとして、いくらまでなら出せるかを考えてみた。借金してでも払えるのは1000万円までだ。生きる意欲も含めて今の私の価値は決してそれ以上ではないと思う。自分がもっと若くて20代の年齢だったとしたら2000万円くらい。しゃかりきに働いて返す。3000万円、なんて言われたら、諦める。そしたらBJ先生は「フン」と鼻で笑って去っていくのだろう。嗚呼。
BJが請求する額について、「患者が交通事故で亡くなった場合に受け取れる賠償金と、ほぼ同じくらいの金額を請求しているのではないか」という説を見たことがある。まったく過失のない人が交通事故で死亡したとき、もちろん年齢にもよるが、2~3千万円の慰謝料と遺失利益でだいたい1億円という賠償額になるらしい。つまりこれは、交通事故に遭って担ぎ込まれた病院にBJがやってきて「手術料は1億円だ。手術を受けずに死んで1億円の賠償金をもらうか、手術を受けて生きて私に1億円払うか、どっちにする?」と問うているようなものだ。死亡ではなく怪我の場合の治療費も当然賠償されるだろうが、まさか1億円も出るわけはなかろうから、あとは自分が稼いでBJに返していくしかない。究極の選択だ。日頃から自分の死生観を培っておかないと、咄嗟に判断なんかできないだろう。
これと同じような場面が展開するのが「ふたりの黒い医者」だ。BJがドクター・キリコに言う。「ここに百万円ある。もし手術に失敗したら おまえさんがとれ。手術がうまくいって助かったら 私のものだ……いいなっ」。まさに「生」と「死」の代理戦争である。命の値段が100万円とはまたずいぶん安いが、この際金額の多寡は問題にしないとして、生き続けることと、安楽に死ぬことが同じ値段だと描かれていることには注目しなくてはなるまい。ちなみに他のキリコ登場作品で彼がどれだけの報酬を得ているのか調べてみたが、はっきり値段が書かれている作品はこの「ふたりの黒い医者」以外には、ない。しかしこの作品でBJとキリコが得る報酬が同額であるということは、その他の作品でもおそらく同じくらいと見てよいと思う。「恐怖菌」でBJは1億円受け取っている(ただし後金の5千万円は受け取ったかどうかわからない)が、キリコもきっとそれくらいで雇われていると推測できる。
今までは、なんとなくBJの報酬のほうが高いような気がしていた。これはBJが長時間オペするのに対してキリコはピーーーで終わるので、その労力の差ということからの思い込みであったようだ。ただし「浦島太郎」でキリコは「いかに相手がらくに気持ちよく死ねるかということで値段が決まります」と、依頼主に各種安楽死の値段表を見せているから(←ここはブラックジョークとして笑うべきところなのか、いつも悩む)、値段に多少の幅は持たせてあるようだ。この値段表は一度見てみたいと思うものだが、どんな手段にしろ口止め料という内訳が一番高価そうな気がする。
「浦島太郎」といえば、これまたよく似たケースがごく最近イタリアであった。交通事故から17年間も昏睡状態が続いていた一人の女性に対して、生命維持装置を取り外し尊厳死が実行されたのである。長期裁判の結果、尊厳死が認められたのは2006年のこと。しかし病院が実行をためらったため、今月になって老人ケア施設に移送されて後の実行となった。イタリア政府は尊厳死に対して条例を制定しようとしているらしい(どういう内容なのかは不明)が、一方でヴァチカンは「殺人行為」と決め付けている。
そんなの、国や宗教が一律に決めてよいはずはない、決められるはずがないというのが私の持論である(これは以前に「キリコ考」に書いた)。ただ、患者や家族の負担、医師の裁量権の限度等に鑑みて、医療現場には必要なガイドラインであろうことは理解できる。それが正しいかどうかは別として。
話を元に戻す。生き続けることと、安楽に死ぬことは同価値。ならばそのとき「生きよう」と思うか、「もういい」と思うか。生死の境目で患者本人が選択しなくてはいけない(海堂さんは医療崩壊の話題に際してこのことも指摘しておられた)。ここで迷うことなく「生きろ!」と言うのがBJだ。それでなくたっていずれ必ず死神はやってくる。ならばそれまでは精一杯生きようと努力しろ、と。森山直太朗ではないが、「生きてることが辛いなら くたばる喜びとっておけ」に近い感覚ではないかと思う。
考えてみれば、これはキリコよりもハードな考え方だ。海堂さんは、医者という仕事の範疇には患者の希望に沿ってどこかで医療行為を終わらせることも含まれると言っておられた。ある意味、不遜とも思える言葉だが、現代の実際の医療は人をただ生き長らえさせることができるレベルにまでは既に達しているのだろう。しかし一方の選択肢として、死なせることはもっと簡単にいつでも出来る。その意味で医者はいつでもキリコになれるわけだ。そんな中で、常に「生」に向かって進むようにプログラミングされているのがBJという存在だ。これはハードだ。時の流れを遡行するような無謀。現実的には必敗の戦いであることは歴然としているのだが、しかしそこにこそ『BJ』という作品が持つ夢と希望があると言っても過言ではない。苦悩してのたうちまわりながらも無謀な戦いに身を投じるからこそ、BJはヒーローたり得るのだ。BJは患者の代わりに戦っているのだ。(……あ、そうか、これが「患者とともに」でも「患者のために」でもないところがBJなんだな。だから肝心要の患者が死を望んだらオシマイなのだな……。本間先生が心配しているのもそこんとこだし、BJが纏っている孤独な寂寥感もそれなんだな……。←メモ書きでした。)
キリコが登場するまでは、BJは「生と死」の両方を担っていた。BJから滲み出たようなキリコという人物に「死」を分担させたことによって、BJは「生」一本に邁進できるようになった。実際には「死」という選択肢を放棄したぶんだけBJは弱くなっているはずなのだが、シリーズ中、BJがキリコにコテンパンにやられる話はひとつもない。「弁があった!」でのみキリコに後れを取っているが、これは患者がキリコの父親であったという設定だから、どちらかといえばキリコのほうがより深く傷ついている。こういうプロットにこそ、手塚治虫の意図は見え隠れしていると思う。決して簡単に「死」に軍配を上げたりはしないのである。
生き続けることと、安楽に死ぬことは同価値。ならば生きてほしいというのが、手塚治虫の祈りなのだと思う。
最後に。先日の番組で改めてシリーズ第1話「医者はどこだ!」の扉絵を観て、気付いたことがあった。お馴染み、ダイヤのジャックのカードだ。扉絵にはよくいろんなカードが描かれていて、印象としてはスペードのジャックが一番多いような気がする。だが第1話はダイヤのジャックなのだ。ダイヤの意味するところ、それは「商人(貨幣)」。『BJ』は第1話の扉絵からして「金儲けのジャック」を的確に表していたのだ(ちなみに、連載初期のアオリ文句やハシラでのBJ先生の呼び方は「B・ジャック」または単に「ジャック」だった)。う~む、初めて気付いた……。手塚先生のことだから、他にもどこにどんな仕掛け(?)をされているかわかったものではない。とりあえず、扉絵については今後調べてみようと思う。
そんなことも含めて、今回の番組はとても参考になった。医者から見た『BJ』、というのは私には絶対に持つことのできない視点だから、医者である海堂さんが語られた内容からは大いに得るところがあった。原作をありのままに読んでその意味するところを考えるだけで、あんなに深いお話になって、しかもそれがとてもおもしろかったじゃないか! 『BJ』という作品はまだまだ掘り下げられる。自分はまだまだ読みが浅いことを痛感した。今後もこのような番組があって、もっとたくさんの考えるヒントを与えてくれないものかと思う。キリコについては、手塚眞さんが海堂さんに食らい付いて共に語ってくださったのが嬉しかった。眞さん、キリコに興味がおありのご様子に見受けられたが、新作を考えてくださらないかな。原作のキリコ登場作品を丹念に繋いでいくだけでも、ものすごいものが作れると思うけどなぁ。「善悪」がテーマの『MW』よりも、やっぱり私は「生死」の間(はざま)でのギリギリの攻防が観たい。
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