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2009年2月

イグアスと銭ゲバと

NHKで世界遺産イグアスの滝を観て、幻想的な満月の夜に掛かる虹に感動したそのすぐ後に、『銭ゲバ』第7話「命の値段も結局金ズラか…」を観る。こっちは神も仏もない。

先週の風太郎の痛々しさには参ったが、今週は留置所の中で見事復活! よしよし、風太郎はこうでなくては! 釈放されて三國家に帰り、緑と茜とともに食事をとる風景の寒々しいこと。風太郎は姉妹に過去の犯罪を平然とペラペラ話すが、それも犯罪など金の力でいくらでももみ消せる自信があってのこと。憎々しい風太郎の完全復活だ。父親を殺され家も会社も乗っ取られた姉妹が、それでも風太郎と一緒に暮らしているという脚色はいかにも現実離れしているが、このドラマの場合はそんな不自然さは些細なこと。とことん暗くて重苦しい状況になってくれたほうが、観ていて面白い。

緑が言った「風太郎は、けだものだと思っていたけど今は人間。けだものなら死んでしまえばそれでいい。でも人間なら死ぬよりもつらい苦しみを味わうべきだ」というような言葉は原作にもある。彼女は復讐を誓っているが、茜のほうは風太郎を本当に愛している。その結果が、首吊り自殺。原作ではほとんど存在感のなかった彼女だが、ドラマではけっこう詳しく描かれていたので、感情移入してしまった。かわいそうに。死ぬしかなかったのかな。一方で、つきまとう刑事も金で懐柔する風太郎。奥さんの移植手術代を用立てることで何も言えなくさせてしまう。

「金だ……結局金なんだ。全部金なんだ。銭ズラ。銭ズラ~~!!」。なかなか説得力のある言葉だと思う。イグアスの滝に神の降臨を見る原住民たちがこの言葉を聞いたらどう思うかな、と、ふと思ったりした。

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ボクらの心に流れる歌

『フジテレビ開局50周年特別企画ボクらの心に流れる歌』を観た。最初の1時間を見逃したが、全部で388曲が放送されたようだ。懐かしかった。一緒に歌っていたら声が嗄れた(笑)。80年代初頭のアイドルの歌にはちと耳を塞ぎたくなったが、あれでOKの時代もあったんだよなぁ。いまは、ジャニーズ系は別として、やっぱり歌の上手い人が残っていることを実感。当たり前だけど。吉田美和はやっぱりスゴイな。

夫とは妙なところで気が合う。あいざき進也と吉川晃司が好き(笑)。

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(備忘録090226)

母を眼科へ連れて行った。手術をした右目の眼圧は20。正常範囲内ということでまずは安心したが、来月には左目を手術することになった。近い将来こちらも緑内障になるだろうということで、予防的にレーザーで水の排出孔を作るのだそうだ。外来で5分ほどで済むとのこと。

舅殿は、来週月曜に検査して経過が良ければ水曜木曜あたりに退院の運びとなった。こちらもまずはめでたい。

しかしまぁ、なにやかやとあって、なかなか余裕が持てない毎日だ。自分の予定がいろいろ狂う。困ったな。

●本日のお買い物
『ナイチンゲールの沈黙』『ジェネラル・ルージュの凱旋』(海堂尊著)
『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ 増補版』(森川嘉一郎著)

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なので悔しいです。

家に来た宗教関係の人と話をしていて、文の頭に「なので」という言葉を使ってしまった。小冊子を渡されそうになったので、「忙しくてとても読む時間がありません。なので要りません」と言ってしまったのだ。しばらく自己嫌悪……というほどでもないが、悔しい思いに捉われる。絶対に自分では使わないつもりだったのに。

相手が盛んに「なので」を連発していたから、ついつられたのかもしれない。若い人を中心に巷には氾濫しているし、NHKのアナウンサーも平気で使っている。人が使う分には「やめろ」と言うつもりもないし権利もないが、なにしろ数年前に初めて耳にしたときの違和感が酷かったものだから、自分は使わないぞと決めていたのだ。

手元に新しい辞書がないので調べられないが、この言葉は既に接続詞として認められているのだろうか。普通に考えれば、断定の助動詞「だ」の連体形または形容動詞の連体形活用語尾+接続詞「ので」であって、連語と捉えられる。単独で文頭には来るはずのない言葉だ。

しかしまぁそれを言えば、「だから」という接続詞も本来ならば文頭に使うのはおかしいということになる……のかな。それでも私が「だから」に違和感を覚えないのは、昔から使っているからということと、辞書に【接続詞】となっているからという理由だけなのか。う~む。

言葉は生き物だから、様々に変化したり新語ができたりするのは当然のこと。あとは、自分がそれを使うか使わないかの問題だと割り切るしかないのだろう。しかしたぶん言葉遣いというのはその人の人となりをもっともよく表しているのだろうと思う。センスとか信条とか品性とかその他諸々を。たとえば私は、子どもの担任の先生や年長者に対していきなりタメ口をきく人間を好もしいとは思えない。それは単に言葉遣いの問題ではなく、どんな相手に対しても尊敬の念を抱くことのできない人間と捉えるからだ。同様に、いい歳をして「なので」を連発して時流に乗ったつもりでいる人間を見れば、そのセンスをみっともないと思う。

……ああ、そうか。私がきょう、あの人に対して「なので」と言ってしまったのは、あの人につられたからではなくて、こんな大人が「なので」を使うのは恥ずかしいでしょ?ということを、私がその言葉を使うことによって思わせたかったからかもしれない。私の無意識レベルの抵抗だったのかも。でも……。わかってもらえるはずないよな。恥ずかしいとは思っていないから、使っているんだもんな。う~む、どうしたって勝てない、な。(きーーッ)

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Oscar Statuette

昨日からこっち、『おくりびと』がアカデミー賞外国語映画賞を獲得したニュースで持ちきり。私はちょうどニュース速報が出たのを見ていた。海外では「サプライズ!」などと言われているらしいが、まずはめでたいことだ。政治家がらみのくだらなくて恥ずかしい話ばかりの昨今、久々に明るいニュースに接したようで、嬉しい。

女性レポーターが「オスカー像」を持たせてもらっていたが、けっこう重いものらしい。調べてみたら、錫と銅の合金の上から24金メッキが施され、3.86㎏もあるという。ちなみに高さは34cm。正式名称は“Academy Award of Merit”だが、“Oscar”という名前で人口に膾炙している。呼称の由来については諸説あるようではっきりしない(←オスカー・ワイルドの全身像だという説も見かけたが、それはちょっと違うと思う、なんとなく・笑)。

『ローマの休日』で主演女優賞を獲得したオードリー・ヘップバーンが、スピーチ後に演壇の上に忘れてきてしまったとか、ソフィア・ローレンが家に飾っておいたら泥棒に入られて盗まれたとか、バリー・フィッツジェラルドがゴルフの素振りをしていたらクラブが当たって首が取れたとか、オスカー像にはいろいろなエピソードがあるようだ。

また、受賞を拒否する俳優もいるようで、『パットン大戦車軍団』のパットン将軍役のジョージ・C・スコットが受け取るべきオスカー像は今でもアカデミー協会に保存してあるらしい。他にも、『ゴッド・ファーザー』のマーロン・ブランドが拒否したし、ダスティン・ホフマンも拒否したことがあるらしい。理由は何なんだろ? オスカーを取るとギャラは跳ね上がるが、制作側はそれだけ使いにくくなるだろうから、そこらへんが理由かもしれない。でも、マーロン・ブランドなんてそれ以前から大スターだったのだから、関係ないかな?

さて『おくりびと』。ブームが去ったころにひっそりと観てみようと思う(笑)。原作を先に読んだほうがよいのか、迷うところだ。

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お休み、だけど…

きょうは『BJ』語りはお休み。でも、話題はみんなどことなくBJ関係(笑)。

●なんとかして「たちばな出版」の本を買って「ブラック・ジャックの日清焼そばプチU.F.O」をゲットしたいと思うのだが、近辺の書店ではどこもこのキャンペーンを張っていない。7月いっぱい探してみよう。あるいは、書店に本を注文すれば付いてくるかも。よ~~し! 余談だが、この出版社、なんだかいつもヘンテコなことをする。営業マンがコスプレ(と言うより仮装だアレは)しているのも変だし、営業車も変だ。そもそも本を買うとそれとはまったく関係のないオマケが付いてくること自体、変だ。今回の「焼そば」もその一環なのだが、グリコのオマケより唐突だ。

Photo しかしこの出版社、どうやら私とは浅からぬ因縁があるらしく、2004~2005のキャンペーングッズだった「赤影ラーメン」を、私は箱ごと(15個)ゲットすることができたという過去がある。『仮面の忍者赤影』で青影を演じた金子吉延さんのサイトでキリ番を踏んで、金子さんからサイン入りの本と一緒に頂いてしまったのだ。うん。今回も頑張ってみよう。「求めよ、さらば与えられん」だ。でもBJ先生には焼そばよりボンカレーのほうが似合うと思うんだけどな……。

●『チーム・バチスタの栄光』(海堂尊著)読了。私はTVドラマも映画も観ておらず、犯人を知らないので、ワクワクしながら読んだ。文章のキレとリズムが良く、一気に読ませる力を持っている。この上なく深刻なストーリーにもかかわらず、登場人物の描写が面白く、ところどころで大笑いもできる。心臓外科のお医者さんに言わせると取材不足な点があるそうだが、この作品の場合、要は登場人物それぞれの心理だと思うので、門外漢にはまったく気にならなかった。却って専門用語を並べて説明されたりしたら、こちらの読むリズムが崩れてしまいそうな気がする。以前読んだ『孤高のメス 外科医当麻鉄彦』(大鐘稔彦著)より楽しく読めた。

後半、破天荒な厚労省の役人・白鳥が出てきて話は一気に盛り上がるが、この人物に対しての好みは分かれるところだろう(笑)。嫌いではないが、私はそれよりもチームを背負って立つ桐生に惹かれた。外科医としての悩みやジレンマなど、BJを彷彿とさせるものがある。BJ先生が「けいれん」や「20年目の暗示」で経験した恐怖というのも、こういうことだったのかなと思う。

2009kanchu ●トーレスさんから「寒中見舞いフリイラ」を頂いてきました。(^m^)ぷぷぷ。画面にぎっしり総勢11名がつまった力作です。きっと42.195㎞先に患者が待っているのでしょう。BJとキリコ、どっちが先にゴールするかで患者の運命が決まるのかもしれません。どちらも必死の形相です。どっちも頑張れ。第2グループに白拍子と琵琶丸がいますが、琵琶ちゃんの余裕綽々ぶりに引き換え白センセはもはやバテバテの様子。脱落も時間の問題のようです。白バイに乗っているのは友引警部(ばんざ~い)。トレードマークのローソクをあしらった特注白バイで粛々と先導しております。渋いです。そして実況解説が山田野・本間コンビ(最高だ!)。浅草先生あたりだと「20㎞も走ればBJの脚は動かなくなる」なんてとんでもねーこと言い出すに決まっているので、この人選は嬉しいですね。でも興奮しすぎて血管切れないかちょと心配。そしてそして、中央部で盛んに声援を送っているのが、めぐみさん、ピノコ、小蓮、ユリの美女連。可愛いです美しいです。どの部分を見ても微笑ましくて見飽きません。トーレスさん、楽しいイラストをありがとうございます~~♪

ゴール直前、BJが先を行くキリコにタックルかまして転ばして、その隙にテープを切るような気がします(笑)。

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2月22日

竹島の日。入籍記念日。猫の日。

竹島については、今年もシュプレヒコールが聞こえ、講演会が開かれ、韓国の人が抗議行動をしたらしい。数日前には、竹島が日本の領土と閣議決定された1905年より前にヨーロッパ(ドイツだったかな?)で作られた地図で、竹島が既に日本の領土となっているというニュースもあった。どこまで遡ればよいのかキリがないようにも思う。「竹島は韓国領」とする日本人学者もいて、“知韓派”と呼ばれて韓国でもてはやされてもいるらしい。考え方ひとつでどっちにでも転ぶ問題だろう。一番大きな問題は、記念式典を開いても一人の政府関係者も出席しないという現政府のやる気のなさだ。

きょうは覚えていた入籍記念日! 忘れないように「2」尽くしの日にしたのに、夫はやっぱり覚えていなかった。「そんなもん毎年覚えていて楽しみにしている男なんて、嫌だろう」と言う。まあそうだね。ワイン開けて乾杯!

「にゃんにゃんにゃん」で猫の日。Yahoo! のクイズに「猫下ろしって何?」というクイズがあった。答は「猫が物を食べ残すこと」だそうだ。知らなかった。普通それは「猫分け」って言うような気がするけれども。正解率は12%。一番多い誤答は「味のよくない魚」で44%。それは「猫またぎ」と言いますね。
←左欄下部に猫のカレンダーを置いているが、2月22日の写真には思わず笑ってしまう。猫、大好き♪

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母はあのせん妄状態がウソだったように落ち着いている。まずは一安心。

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(備忘録090221)

銭ゲバ第6話「逮捕…金が招いた不幸ズラ」を半分寝ながら観た。今回もかなり衝撃的な内容ではあったのだが、風太郎が精神的にちと弱すぎる感じがする。緑さんが心身虚脱を装っていたというのは、原作と照らし合わせて、ああそういうことにしたのかと合点がいったが、悪巧みが緑さんにバレて動顛するような風太郎ではこの先どうなるのかと心配になる。最後の最後まで憎々しい奴でいてほしかったけどなぁ……。あんまり痛々しすぎるゾ、この風太郎は。本日の爆笑ポイントは、マカロンタワー(笑)。

見終わってから、夫と「金がすべてじゃないだろうけど、愛がすべてでもないよね」という話をする。奴も半分寝ているような状態だったので、なんだか脈絡のない話が続いて、最後は「いまこれを盗まなくちゃ自分が死ぬという状態だったら盗みも許される、って吉/本隆/明も言ってたよ」という話で終わった。ドラマと全然関係ないし、はたしてそう言ったのが吉/本隆/明かどうかも定かでない。わけがわからん。……うん、もう寝たほうが良い。

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お昼過ぎ、母が退院してグループホームに戻った。8時頃まで様子を見ていたが、幻覚等の症状は見られない。手術、入院の一連の記憶がないので、透明プラスチック眼帯をしているのが不思議でならない様子。取らないでよ!

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お願いだから眼帯取らないで!

母の入院で付き添いをした。途中4時間の仮眠で2夜連続完徹はキツイ。今朝家へ帰るときにはふらふらして足元が覚束なかった。

実家の父のときも経験したがいわゆる「せん妄」状態で、こちらが何を言っても通じない。私には見えない何かが見えるらしいし、手術後に付けた眼帯を取ろうとするし、やっと寝てくれたかと思うと数分後にはガバリと起き上がりベッドから降りようとする。延々その繰り返しで、目が離せない。腹が立つやら可哀想やらで、こちらはへとへとに消耗した。他に患者さんのいない部屋ではあったが、あまり夜中に大声で話すのも隣の部屋にも迷惑だと思い、昨夜は母を車椅子に乗せて病院中を散歩していた。消灯して薄暗い廊下の曲がり角で巡回中の警備員さんと鉢合わせして「うわッ!」と驚かれたりもした。「眼帯をして髪振り乱したおばあさんが車椅子でキコキコと……」、新しい怪談が生まれたかもしれない。

目を手術したことも既に忘却の彼方だし、ここが病院で自分が入院患者であることもわかっていない母の、何やら意味不明の言葉をフンフンと聞き流しながら渡り廊下から見た街の夜景は、たぶん忘れないだろうな。

おかげさまで緊急の手術も無事成功で、明日にはもう退院の運びとなった。ありがたいことだ。元の環境に戻れば幻覚も消えてくれると思うのだが。

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携帯より

本日多忙につき記事はお休みします。コメントのお返事も後日に。すみません。

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(備忘録090217)

昨日からこっち、いろいろ大きなニュースが目白押しだったようで。

・中川財務相辞任……当たり前だろう。初めてあの映像を見たときは「やっちまったな~!」と思ったもん。お付きの連中も止められなかったものだろうか。

・クリントン国務長官来日……就任して初の訪問国が日本とのこと。24日にはオバマ大統領と麻生首相会談も決定とか。これも大統領就任以来最初の外国首脳との会談になるそうだ。麻生さんもこれを良い思い出として退j(以下自主規制)。

・北朝鮮キム・ジョンイル総書記の後継は三男のキム・ジョンウン氏……エリック・クラプトン好きの長男キム・ジョンナムさんは落選らしい。しかしロイヤルファミリーでもないのに最高指導者が世襲の国ってどうなんだろう……。

・村上春樹氏「エルサレム賞」受賞……おめでとう! 受賞スピーチで堂々とイスラエル批判をやってのけた胆力にも拍手。このスピーチ、テレビや新聞では一部しか紹介されなかった(「壁と卵」の部分とか)が、日本のブロガーがもっと詳しい内容を入手して翻訳したらしい。読んでみたいものだけれども、何というブログなのだか判らない。

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母が緑内障(+白内障)の手術をすることになった。まだこれから精密検査だが入院することになるだろう。どうして自分がここにいるのかわからなくなるだろうから一人で病室に置いておくわけにいかず、しかし昼夜ずっと付いているわけにもいかず……。う~む。

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命の値段

先日の『いのちとヒーロー ブラック・ジャックからの問いかけ』で、「医は仁術」を期待するわれわれの意識が現代の医療崩壊を招いているのではないか、との指摘が海堂氏から出た。と同時に、BJが法外な報酬を要求することは「当然でしょう」とも(←もちろん、患者がどれだけ生きたいと願っているかを量る「踏み絵」であることにも言及しておられたことは書き添えておく)。

もしも私がBJ先生以外の医者には治せない病気にかかったとして、いくらまでなら出せるかを考えてみた。借金してでも払えるのは1000万円までだ。生きる意欲も含めて今の私の価値は決してそれ以上ではないと思う。自分がもっと若くて20代の年齢だったとしたら2000万円くらい。しゃかりきに働いて返す。3000万円、なんて言われたら、諦める。そしたらBJ先生は「フン」と鼻で笑って去っていくのだろう。嗚呼。

BJが請求する額について、「患者が交通事故で亡くなった場合に受け取れる賠償金と、ほぼ同じくらいの金額を請求しているのではないか」という説を見たことがある。まったく過失のない人が交通事故で死亡したとき、もちろん年齢にもよるが、2~3千万円の慰謝料と遺失利益でだいたい1億円という賠償額になるらしい。つまりこれは、交通事故に遭って担ぎ込まれた病院にBJがやってきて「手術料は1億円だ。手術を受けずに死んで1億円の賠償金をもらうか、手術を受けて生きて私に1億円払うか、どっちにする?」と問うているようなものだ。死亡ではなく怪我の場合の治療費も当然賠償されるだろうが、まさか1億円も出るわけはなかろうから、あとは自分が稼いでBJに返していくしかない。究極の選択だ。日頃から自分の死生観を培っておかないと、咄嗟に判断なんかできないだろう。

これと同じような場面が展開するのが「ふたりの黒い医者」だ。BJがドクター・キリコに言う。「ここに百万円ある。もし手術に失敗したら おまえさんがとれ。手術がうまくいって助かったら 私のものだ……いいなっ」。まさに「生」と「死」の代理戦争である。命の値段が100万円とはまたずいぶん安いが、この際金額の多寡は問題にしないとして、生き続けることと、安楽に死ぬことが同じ値段だと描かれていることには注目しなくてはなるまい。ちなみに他のキリコ登場作品で彼がどれだけの報酬を得ているのか調べてみたが、はっきり値段が書かれている作品はこの「ふたりの黒い医者」以外には、ない。しかしこの作品でBJとキリコが得る報酬が同額であるということは、その他の作品でもおそらく同じくらいと見てよいと思う。「恐怖菌」でBJは1億円受け取っている(ただし後金の5千万円は受け取ったかどうかわからない)が、キリコもきっとそれくらいで雇われていると推測できる。

今までは、なんとなくBJの報酬のほうが高いような気がしていた。これはBJが長時間オペするのに対してキリコはピーーーで終わるので、その労力の差ということからの思い込みであったようだ。ただし「浦島太郎」でキリコは「いかに相手がらくに気持ちよく死ねるかということで値段が決まります」と、依頼主に各種安楽死の値段表を見せているから(←ここはブラックジョークとして笑うべきところなのか、いつも悩む)、値段に多少の幅は持たせてあるようだ。この値段表は一度見てみたいと思うものだが、どんな手段にしろ口止め料という内訳が一番高価そうな気がする。

「浦島太郎」といえば、これまたよく似たケースがごく最近イタリアであった。交通事故から17年間も昏睡状態が続いていた一人の女性に対して、生命維持装置を取り外し尊厳死が実行されたのである。長期裁判の結果、尊厳死が認められたのは2006年のこと。しかし病院が実行をためらったため、今月になって老人ケア施設に移送されて後の実行となった。イタリア政府は尊厳死に対して条例を制定しようとしているらしい(どういう内容なのかは不明)が、一方でヴァチカンは「殺人行為」と決め付けている。

そんなの、国や宗教が一律に決めてよいはずはない、決められるはずがないというのが私の持論である(これは以前に「キリコ考」に書いた)。ただ、患者や家族の負担、医師の裁量権の限度等に鑑みて、医療現場には必要なガイドラインであろうことは理解できる。それが正しいかどうかは別として。

話を元に戻す。生き続けることと、安楽に死ぬことは同価値。ならばそのとき「生きよう」と思うか、「もういい」と思うか。生死の境目で患者本人が選択しなくてはいけない(海堂さんは医療崩壊の話題に際してこのことも指摘しておられた)。ここで迷うことなく「生きろ!」と言うのがBJだ。それでなくたっていずれ必ず死神はやってくる。ならばそれまでは精一杯生きようと努力しろ、と。森山直太朗ではないが、「生きてることが辛いなら くたばる喜びとっておけ」に近い感覚ではないかと思う。

考えてみれば、これはキリコよりもハードな考え方だ。海堂さんは、医者という仕事の範疇には患者の希望に沿ってどこかで医療行為を終わらせることも含まれると言っておられた。ある意味、不遜とも思える言葉だが、現代の実際の医療は人をただ生き長らえさせることができるレベルにまでは既に達しているのだろう。しかし一方の選択肢として、死なせることはもっと簡単にいつでも出来る。その意味で医者はいつでもキリコになれるわけだ。そんな中で、常に「生」に向かって進むようにプログラミングされているのがBJという存在だ。これはハードだ。時の流れを遡行するような無謀。現実的には必敗の戦いであることは歴然としているのだが、しかしそこにこそ『BJ』という作品が持つ夢と希望があると言っても過言ではない。苦悩してのたうちまわりながらも無謀な戦いに身を投じるからこそ、BJはヒーローたり得るのだ。BJは患者の代わりに戦っているのだ。(……あ、そうか、これが「患者とともに」でも「患者のために」でもないところがBJなんだな。だから肝心要の患者が死を望んだらオシマイなのだな……。本間先生が心配しているのもそこんとこだし、BJが纏っている孤独な寂寥感もそれなんだな……。←メモ書きでした。)

キリコが登場するまでは、BJは「生と死」の両方を担っていた。BJから滲み出たようなキリコという人物に「死」を分担させたことによって、BJは「生」一本に邁進できるようになった。実際には「死」という選択肢を放棄したぶんだけBJは弱くなっているはずなのだが、シリーズ中、BJがキリコにコテンパンにやられる話はひとつもない。「弁があった!」でのみキリコに後れを取っているが、これは患者がキリコの父親であったという設定だから、どちらかといえばキリコのほうがより深く傷ついている。こういうプロットにこそ、手塚治虫の意図は見え隠れしていると思う。決して簡単に「死」に軍配を上げたりはしないのである。

生き続けることと、安楽に死ぬことは同価値。ならば生きてほしいというのが、手塚治虫の祈りなのだと思う。

最後に。先日の番組で改めてシリーズ第1話「医者はどこだ!」の扉絵を観て、気付いたことがあった。お馴染み、ダイヤのジャックのカードだ。扉絵にはよくいろんなカードが描かれていて、印象としてはスペードのジャックが一番多いような気がする。だが第1話はダイヤのジャックなのだ。ダイヤの意味するところ、それは「商人(貨幣)」。『BJ』は第1話の扉絵からして「金儲けのジャック」を的確に表していたのだ(ちなみに、連載初期のアオリ文句やハシラでのBJ先生の呼び方は「B・ジャック」または単に「ジャック」だった)。う~む、初めて気付いた……。手塚先生のことだから、他にもどこにどんな仕掛け(?)をされているかわかったものではない。とりあえず、扉絵については今後調べてみようと思う。

そんなことも含めて、今回の番組はとても参考になった。医者から見た『BJ』、というのは私には絶対に持つことのできない視点だから、医者である海堂さんが語られた内容からは大いに得るところがあった。原作をありのままに読んでその意味するところを考えるだけで、あんなに深いお話になって、しかもそれがとてもおもしろかったじゃないか! 『BJ』という作品はまだまだ掘り下げられる。自分はまだまだ読みが浅いことを痛感した。今後もこのような番組があって、もっとたくさんの考えるヒントを与えてくれないものかと思う。キリコについては、手塚眞さんが海堂さんに食らい付いて共に語ってくださったのが嬉しかった。眞さん、キリコに興味がおありのご様子に見受けられたが、新作を考えてくださらないかな。原作のキリコ登場作品を丹念に繋いでいくだけでも、ものすごいものが作れると思うけどなぁ。「善悪」がテーマの『MW』よりも、やっぱり私は「生死」の間(はざま)でのギリギリの攻防が観たい。

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(備忘録090215)

先日からまた舅殿が入院しているので、夫とお見舞いに行く。今回は、いちいち通院するのも面倒だから入院しますか、という経緯だったから若干気楽である。まだ足の浮腫みは取れないが、元気にヒマそうにしていた。病院の玄関の前の紅梅が見事だったので一緒にお花見。そこへちょうどTさん(私の義弟にあたる、お医者さん)も見舞いに来られたので談話室でしばらくダベる。

そこの娘さん(私の姪だ)がいま臨床研修中である。(いま何科にいるって言われたかな、忘れた。)まだ将来どの診療科に行くのか決まっていないというような話をしていたら、舅殿が「女の子なのだから、切るほうはちょっと……」と言う。要するに外科手術をする診療科はやめたほうがいいんじゃないか、ということだ。「いまは女性もたくさんいますよ」とTさんは言っていたが、私は思わず『BJ』のBQとロクローを思い出したりした。やっぱり一般的にはロクローや舅殿のような意識は根強いのだろうな。おじいちゃんとしては、孫娘の将来、特に結婚が心配なのだろう。Tさんは耳鼻咽喉科のお医者さんだが、手術はやっぱりあるしな。手術しない科って、内科くらいのものだろうか?

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バレンタイン・デー

『銭ゲバ』(第5話 友情も愛も必要ないズラ)の感想を書こうと思っていたのだが、傍で夫が電話を掛け続けていたので、集中して観ることができなかった。よって簡単に。

今回は風太郎が工場でともに働いていた男を使って三國社長を殺し、社長に就任したところまでが描かれていた。友情の証として死んでいった男や、自分を娘婿として迎えてくれた三國社長を殺した自責の念(?)から、混乱してビルの屋上から1万円札を何百枚と撒き散らすシーンが圧巻。人々が我先に拾い集める様子を狂ったように笑いながら眺め、「自分のしたことは間違っていない」と自分自身に言い聞かせる風太郎。原作の風太郎よりもナイーブだ。原作でも万札を撒くシーンはあったが、後で回収してまわっていたもんな。「隠したやつも出せ」とかなんとか言いながら。

父の死と風太郎への疑いでどうやら緑さんが精神的に参ってしまったようだ。茜さんは風太郎の思惑なんか全部わかっていた、と結構図太いところを見せた。さて来週はどんな展開になるか?

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バレンタイン・デー。世はおしなべてラブラブムード……なのかな? 羨ましいことではある。結ばれて永く愛を育んでいくのも良いが、夏の日の花火のような恋もまた良いものだと思う。

いま、あまり意識せずに「愛」と「恋」を使い分けたが、日本人にとっては「愛」ってのはなんとなく照れ臭い感覚ではないかと思う。「愛」の前立てをあしらった直江兼続の兜を見るたびに、私は気恥ずかしくなる(いえ、決して兼続を貶めるつもりはありませんが)。これが愛染明王から取られたものだとすれば、ずいぶんとまた色っぽい仏を選んだものだと思う。どちらかといえばたぶん勝軍地蔵を本地仏とする愛宕信仰から取ったものだと思うけれども。……話がズレた。

仏教においては、「愛」というのはあまり良い意味では使われない。「愛欲」「渇愛」という言い方に表されるように、煩悩を意味する言葉として使われることが多い。キリスト教的な「愛」を表すのは、仏教では「慈悲」ということになろう。

恋愛は、つまるところ「欲」だ。愛し愛されたいという「欲」。まさに煩悩の最たるものだろう。でも「欲」と言ったのではあまりにもミもフタもないから、「愛」という耳に心地よい言葉に置き換えて言っているだけなんじゃないかと思う。だから、ね。やれバレンタイン・デーだホワイト・デーだと、この日は愛を告白する日、みたいに喧伝されると、なんだか私は気恥ずかしくなってしまうのだ。実際のところ、チョコの売り上げに貢献しているのは「義理チョコ」だと思うけれども、中には「本命チョコ」もあるわけで、でもなにもこの日に愛を告白する必要もないだろうと思ってしまう。

バレンタイン・デーとクリスマス・イブ、この2日は日本全土に愛欲が渦巻いているようで、なんとなく嫌だ(笑)。つくづく画一的なことが好きな国民性だよ、と思う。なんて言いながら、私も好きな人にチョコレート贈りましたけどね(爆)。

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政治ごっこ

なんだか最近だんだんと麻生さんがカワイソウになってきた。首相どころか政治家になったこと自体、道を誤ったんじゃないかと思う。「ライフル射撃が趣味のマンガ評論家」になっていた方が、おそらく彼にとっては幸せだったのではなかろうか。

「郵政民営化には反対だった」と口を滑らしたことで小泉さんからは愛想を尽かされたが、今度は「予算関連法案は3分の2条項にはなじまない」とした過去の発言をつつかれることになりそうな按配だ。立場も情勢も違う時代の発言なのだから今さら問題にしても始まらないと思うのだが、マスコミや野党がこれだけいろんな些細なことで突っ込むのも「早く辞めろ」という圧力に他ならない。

早く辞めたほうが良いという意見には賛成だが、小沢民主の世の中になれば万事が解決するかといえば、変わらないんじゃないかと思う。そもそも私には自民党と民主党のどこがどう違うのかよくわからない。いつだかの『太田総理』では、「自民党は官僚政治、民主党はそうではない」と誰かが言っていたが、たったそれだけの違いらしい。根深い官僚政治がそう簡単に一掃できるとも思えないし、成果が上がるのは数年後だろう(あるいはまったく成果は上がらないかもしれない)。

もっと切実な問題はこの不況だが、それに有効と思われる政策が民主党からも聞こえてこない。結局、いま誰が首相になっても、手も足も出ないんじゃないのかと思う。民主党は政権奪取を謳いながら、いまの時点で本当にそうなったら困るのではないかな。もう少し麻生政権を延命させておけば、いざ政権を取って成果が上がらなくても、「既に手のつけられない状態になっていたのだから仕方がない」と言えるという算段なのではないのかな。いま解散総選挙をやりたくない自民党の思惑と上手く噛み合って、絶妙なパワーバランスが成り立っているような気がする。

時間稼ぎのようにネチネチと苛められる麻生さんはいいツラの皮だが、一番カワイソウなのが国民であることは間違いない。政治家よ、頼むから、政策を議論してくれ。

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必敗の戦い

Mから、最後の5分間が録画されていない(石田衣良さんが「奇子」について語っている部分だったらしいので、許す。)『手塚治虫2009 現代への問いかけ<第3夜>いのちとヒーロー ブラック・ジャックからの問いかけ』のテープを受け取って、さっそく観てみた。

ゲストの海堂尊さん(作家・医師)は手塚眞さんと同い年。ということは私より2学年ほど下だと思うが、当時「少年チャンピオン」を立ち読みしたという話に思わず「同志!」と親近感を抱いた。誰もが読んでいたから(それこそ基礎教養として)、格別話題にも上らなかったという述懐にも頷くことしきり。読者は皆それぞれの思いを胸に秘めて、大っぴらに語ることなどほとんどなかったのだ。ましてや妄想など。今とは隔世の感があり、また今と当時とどちらが良かったのかつらつら思うところもあるが、まぁそれは別の話。海堂尊さん、とても感じの良い方だったので、今度『チーム・バチスタ……』読んでみよう。

「空からきた子ども」のアニメが観られたのは収穫だった。2000年の制作だというから、2003年の「少年チャンピオン」の応募者全員サービスだったやつとは違うのかしら? いずれにせよ初見だった。BJ先生の住居はやはり房総半島付近という設定になっていた。それにしても、ガガノフ少佐といい、追跡してきた6~7機のレポールといい、平気で日本近海上空を飛んでいるようで、日本の防衛監視体制に非常に不安を覚えたが(笑)、それもまぁさておき。原作よりガガノフ少佐の描写が多く、より感動的に仕上がっていた。良い出来だったとは思う。しかし原作の淡々とした味わいとどちらが良いかと言われると、それはやっぱり原作なのだなぁこれが。あまりに劇的で感動的だと、重すぎて繰り返して見ようという気が起こらない。情報量が多すぎるアニメのこれが弊害だと思う。こちらの想像の余地がない。

父としての思いと、軍人としての立場の葛藤。それを押し隠して冷静かつ毅然とした態度を崩さないガガノフ少佐と、その心中を察して何とかしてやりたいと思いながらも医学の限界にのたうちまわるBJ。この2人の醸し出す重圧感や無力感や悲愴な覚悟、そういったものがこのお話の肝だと思うのだ。アニメのガガノフ少佐はちょいと頭に血が上りすぎていたように感じたが、でもまぁ良い出来ではあったと思う。

また、ガガノフ少佐がレポールとともに自爆して果てた後、彼の思いと最期の記憶をBJは一人で受け止めて生きていくのだなぁと感じられたのは、このアニメのおかげだ。重いな、これは……。原作からはそこまでは感じ取ることができなかったから、これは素直にアニメに感謝したい。監督は瀬谷新二さん。原作に一番近い絵柄を描かれるということで、テレビアニメシリーズでも多くを手掛けておられた。また因みに、手塚治虫公式ページの「手塚マンガあの日あの時」で、今ちょうど「空からきた子ども」が取り上げられている。いやホント、あの素早さには驚いたよ!

そして嬉しいことに、番組ではドクター・キリコにも焦点が当てられていた。海堂さんは「キリコは死の象徴。BJはキリコには絶対に勝てないことを知っている」とか「医者というのはキリコの心を少しは持っていないとやっていけない」とか「医療現場は必敗の戦い(人間は必ず死ぬものなのだから)」と語っておられたのが印象深かったが、だからといって『BJ』という作品は夢も希望もない方向性では描かれていない、とまとめられていた。時間の不可逆性からいっても、BJがキリコに敵わないという点は、以前にTさんも考察しておられたし、二次創作の世界でジャキリよりキリジャが多いという現象にも現れているように思う。だから取りたてて新しい知見ではないと思うけれども、天下のNHKでそう解説されたとなると、今後はこれが公式見解になっていくんだろうなと思った。「ドクター・キリコが登場したことによって作品の格が一段も二段も上がった」と指摘しておられたのが嬉しかった。キリコはやっぱり怖い存在なのだ。「ふたりの黒い医者」の原作絵に合わせて大塚BJとキリコ(山路さんのような若本さんのような?)の吹き替えも聞くことができた。あのキリコの哄笑とBJの叫び(と、その前の「……ち…く…しょー」)は、なかなか聞き応えがあった。

あとは、OVAの「しずむ女」が紹介されていた。久しぶりに観たが、いや~濃いな、OVAは(笑)。シリアス路線なので、先生が体操なんか始めると笑うべきかどうか悩んだりするが、ヨーコ改め月子ちゃんの語りに涙ぐんだ。初めて観たときは号泣したが、やっぱり慣れてしまったのだろうな……。私にとって「しずむ女」は思い入れの深い作品なので取り上げてくれて嬉しかったが、これだけ観た人にはBJ先生がえらくイイ人に勘違いされそうな気もする(笑)。

なかなか充実した2時間だった。いやもう、テレビの画面にBJ先生が映ることがこんなに嬉しいものだとは、アニメが終わってから忘れていた。テレビアニメとOVAの中間くらいのテンションで、また新作を作ってもらえないものかなぁ。原作絵、アニメ、OVA、それぞれのBJに合わせて声を使い分けておられた大塚明夫さんにも拍手!

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よみがえる巨匠のコトバ

ETV50「教育テレビの逆襲~よみがえる巨匠のコトバ~」(再放送)を、ちょうど手塚治虫のあたりまで観た。巨匠(石原裕次郎、湯川秀樹、三島由紀夫、手塚治虫、岡本太郎、矢沢永吉その他大勢)の名言の数々が、60年代70年代80年代…と時代を追って、当時のNHK教育テレビの映像で紹介されていた。司会は爆笑問題で、矢口真理と糸井重里がコメンテーター。ゲストには加山雄三と立花隆。

あまりにも細切れな印象が強かったのが残念。一人ひとりの言葉をもうちょっと長く聞きたかったのと、合間合間に現れる帽子を被った人物の演出が邪魔だと思ったのは私だけだろうか。それでも、様々な分野で巨匠と言われている人たちの言葉はそれぞれに含蓄があって面白かったし、糸井の「80年代に入ったらすべてが変わった」、立花の「その時代が正しく語られるのは40年ほど経ってから」という指摘にも説得力があった。

古今亭志ん生の高座の様子が観られたのは嬉しかった。もう呂律が回らなくなってきている晩年の頃のものだったが、想像していたより風格があった。さすが大名人だなあ。彼の「(落語が)好きだからやっていられる」とか、赤塚不二夫の「自分が一番バカになればいいの。そしたら(他人は)何でも言ってくれるの」とかの言葉から滲み出る、巧まざる謙虚さが良い。またそういう謙虚さがなければ、後世に名を残すような人物にはなれないのだろう、きっと。

手塚治虫については「この人に会いたい」のVTRが紹介されていた。『鉄腕アトム』の真似をして2階から飛び降りてけがをした子がいたというので糾弾されたことがあると話し、何故かいつも自分が吊るし上げられると嘆いておられた(笑)。しかし当時(20数年前だろう)、マンガやアニメが無批判に世間に受け入れられていることを憂え、もっとマンガに対して、更には手塚治虫に対して、批判的になってほしいと語っておられた。太田光に言わせると、マンガが世間から批判も寄せられないような無関心なものになってしまうことが嫌だったのだろうと。うん。確かにそういう意味もあると思うけれども、マンガとは本来ハングリーなもので、世間とか社会とか政治とかに対する批判精神がなくては成立しないものであることを、たしかこのインタビューのもうちょっと後の部分で語っておられたはずなのだ。「マンガに必要なのは風刺と告発の精神だ」と。その一番重要なところが今回は紹介されていなかったのが、返す返すも残念。

しかし、2時間の番組でこれだけ多くの巨匠たちの言葉を取り上げるのでは、個々の人物像をそれほど深くは掘り下げられないのだろう。視聴率を気にしないで番組を作れるNHK教育テレビのメリットを生かして、今後も丹念に「時の人」を取り上げてもらいたいと思う。もしまた10年後にこのような特集番組が組まれるとしたら、また新たな時代の流れというのが鮮明になるのではないかと思った。

ところで本日はBS2の『手塚治虫2009』でブラック・ジャックが取り上げられたはず。9時直前に親友Mに「録画してね」とメールしておいたから、録画してくれたと思うのだが……。明日受け取ってこよう。

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(備忘録090210)

●本日のお買い物
『時代劇は死なず! 京都太秦の「職人」たち』(春日太一著)
『ラッシュライフ』(伊坂幸太郎著)

先日録画しておいた『太田総理』を夫と観る。今回のマニフェストは「他人の子へのゲンコツを許可します」というもの。スタジオでは否決されたが視聴者の投票では賛成のほうが多かった。よっぽど腹に据えかねている大人が多いとみえる。私も「口で言ってもわからないならば」という条件付きで「賛成」だが、夫は「実際には難しいだろうな」ということで「意見保留」。

賛成意見の中では、自民党のO議員が「愛があるなら」と、また毒にも薬にもならない一般論を言っていたが、そのとき初めて出会った悪ガキに愛なんて持てるわけがないから、いかにも説得力がない。……

ちょっと時間がなくなったので、きょうはここまで。メモとして書き留めておく。またいつかチャンスがあれば考えてみたい。

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アトムの子

太宰治は「桜桃忌」、藤沢周平は「寒梅忌」、司馬遼太郎は「菜の花忌」……。文学者の命日にはその作品に因んだロマンティックな呼び名が付けられることがあるが、手塚治虫の場合はどうなのだろう。一説には「アトム忌」とも聞くが、これではまるでアトムが死んだようでイタダケナイ。個人的には「オサムシ忌」あたりが良いように思うのだが。手塚治虫が亡くなって、きょうで20年だ。

1989年2月9日、訃報に接したのは夜のニュースでだったと思う。思わずテレビの画面に向かって合掌した。入院しておられたことも知らなかったけれど、「BJは来なかったのか……」と悲しく思ったことを覚えている。その後、追悼番組が組まれ特集雑誌などがたくさん刊行されたけれども、一時代の終焉を見せつけられるのが嫌で、私はほんのわずかしか見ていない。個人的にも仕事の異動があったりその他何やかやで慌しく混乱していた時期だった。

PhotoPhoto_2私がちょうど物心付いた頃、テレビでは『鉄腕アトム』(フジテレビ系 1963~1966)を放映していた。雑誌では読んだことがなかったが、明治製菓のマーブルチョコに入っていたアトムのシールやマジックプリントを柱にペタペタ貼っては親に叱られたものだ。シールといえば、同時期(1965~1966)にやはりフジテレビ系で放映された『W3』のシールがロッテのフーセンガムに入っていて、私はボッコ隊長がお気に入りだった。そして『W3』の後番組が、たしか『マグマ大使』だったと思う。いまから思えば、アニメと実写でずっと手塚マンガ漬けだったわけだ。もちろん同時に『宇宙エース』『スーパージェッター』『エイトマン』なども観ていたから「手塚」というブランドに特別惹かれていたわけではなかった。しかし当時はSF風味の夢のある子供番組が充実していたのだなぁ。『ジャングル大帝』『どろろ』『海のトリトン』『ふしぎなメルモ』などもすべてアニメで知った。

私が雑誌で初めて読んだ手塚作品は「COM」の『火の鳥』だった。我が家ではマンガは買ってもらえなかったから、兄が友達から借りたものだろう、部屋に置いてあったのを読んだ。いま思うと、たぶん「COM」の創刊号だったと思う。ネットで見る表紙に見覚えがある。小学1年生の頃。そして正真正銘、これが私のマンガ雑誌初体験であった。それまでは絵本の類しか読んだことがなかったから、フキダシの中にセリフが書いてあることがまず珍しかったことを覚えている。『鉄腕アトム』や『W3』と同じ人が描いているなんてことは知らなかった。ただ『火の鳥』というのは難しい、という印象を持っただけだった。そりゃあ小学校低学年には難しいに決まっている。いまでもあの作品は難解だというイメージがあるが、それはこのときのファースト・インプレッションに拠るところが大きい。「手塚治虫」の名前は『火の鳥』で覚えたのだと思う。

その後、少女マンガでは「りぼん」、少年マンガでは「少年チャンピオン」や「少年サンデー」「少年マガジン」などを、友達から借りて読む時代に入る。「りぼん」では手塚治虫の作品は読んだ記憶がないように思う。『リボンの騎士』は当時身体が弱くてしょっちゅう病院に掛かっていたその待合室で読んだが、あれは「なかよし」だったのだろうな。「少年チャンピオン」に掲載された『ザ・クレーター』(1969~1970)は印象深く覚えている。当時の私にとってはとても怖かったのだ(ぶるぶる)。そして1973年から「少年チャンピオン」で『ブラック・ジャック』が始まるのだ。虫プロの倒産だとか、手塚の死に水を取るつもりで始まった連載だとか、そんな裏事情など一切知らなかった。長期連載マンガが多い中で、一話完結の形で語られる医療を巡るストーリーがとても新鮮で面白かった。少年ではなく大人の男が主人公というのにも心惹かれた。書店やスーパーで立ち読みすることが多かったが、全部暗記するほどの勢いで真剣に読んだものだ(笑)。

私が大学を卒業して社会に出るのとほぼ時を同じくして『ブラック・ジャック』は掲載されなくなり、自然消滅した。それがきっかけというわけでもなかったが、それ以降はとんとマンガやアニメに興味がなくなって、マンガとは完全に縁が切れた。だから私のマンガの歴史は、『鉄腕アトム』に始まり『ブラック・ジャック』に終わったと言っても過言ではない。それも、自分の生活の節目節目で、何故だか手塚マンガとシンクロするめぐり合わせになっていることが不思議でならない。詳しくは書かないが、人の死が悲しくてならなかったときに偶然『ブッダ』に出会ったという事実も私の中では大きな救いだったし、アニメがきっかけでいま再び『ブラック・ジャック』にのめり込んでいることも親の老いを見る日常とリンクしているのかもしれないと思う。そんなふうに考えると、このさき自分がどんな手塚作品を読むようになっていくのか興味津々だ。きっといずれの場合も、そのときどきの私を勇気づけて導いてくれるに違いないと信じている。

先日の『プレミアム10』で山下達郎がいみじくも言っていたが、彼らの世代および彼らよりちょっと年少のわれわれの世代にとって、手塚治虫はまさに基礎教養だった。手塚マンガの洗礼を受けずに育った者のほうが珍しいだろう。『鉄腕アトム』でテレビアニメ初体験をし、『火の鳥』でマンガ雑誌初体験ができた私は、山下達郎風に言えば間違いなく「アトムの子ども」だ。差別や戦争を憎み、自然のかけがえのなさと生命の輝きを描き、たとえ報われることがないとしても懸命に生きることの尊さを語った手塚治虫の遺伝子を、我々の世代はごく自然に受け継ぐことのできる環境にあったのだ。彼の哲学がまさにわれわれの基礎教養だったという幸運には、いくら感謝してもしたりない。私がいつも「人間だけが特別であってよいのか」と考える根底には間違いなく幼い日に読んだ『火の鳥』や『ジャングル大帝』の影響がある。人間の醜い部分や狂気を思うときには『アドルフに告ぐ』や『MW』がある。なんと贅沢なことだろう。

まだ読んでいない手塚作品は山とある。そのことにも感謝しつつ、20年目の命日に改めて合掌する。
手塚先生、ありがとうございます。(-人-)

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地球防衛バット

ゲームサイトのShockwaveが1月いっぱいで閉鎖された(今まで本当にありがとう)。そこにあった数々のゲームのうち、人気のあったものについては別サイトで公開されていて、先日「地球防衛バット」を再発見した。以前けっこうハマっていたのだが、考えてみればこれが妙なゲームでね。

宇宙人の乗り物から地球に向かって爆弾が発射されるのをバットで打ち返すという……(笑)。地球の直径と同じくらいの長さのバットが宇宙空間に固定されているのがまず不思議なのだが、地球を守る手段がバットしかないというのが、妙に地球防衛本能をそそるのである。きっとみんな持ってるよね、地球防衛本能。そのバットで打ち返した爆弾が敵機に当たればよし、当たらなければいつまでもポイントが取れずに、延々とバットを振り回すことになる。

こんなふうに書くと、いかにもオマヌケなゲームなのだが、バックに拡がる宇宙のグラフィックが素晴らしく綺麗なのである。その中でただバットを振り回すだけという、このアンバランスさが妙に私のゲーマー魂を捉えて離さない。

爆弾を発射する敵機は数秒前から音を発して光る。3機くらいがあちこちで順番に光るとなかなか防衛が難しいので、ものすごく緊張する。きっと私の体内にはアドレナリンがバンバン分泌されているに違いない。そういう緊迫した場面を何度か経験しているうちに、クリックしてバットを振った瞬間に自分の足の指がピクリと動くことに気がついた(笑)。身体に力が入りすぎてそうなるのかもしれないが、あ、また動いた、と可笑しくなる。

興味のある方はどうぞこちらで遊んでみてください。そして、自分も足の指が動いたという方がいらっしゃいましたら、是非ご一報を(笑)。

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僕の家族は母さんだけズラ

『銭ゲバ』第4話。いや~、きょうはなかなか見どころ満載で面白かった。思わず殴り倒したくなるほど風太郎の父親が憎々しい(笑)。椎名桔平さん、グッジョブ! 三國家の3人の、幸せを絵に描いたようにわざとらしい会話には思わず失笑。風太郎と親父の悪意まる出しの会話のほうが、数倍もリアルだった。

本日最大の見どころは、三國家の庭に死体が埋まっているという匿名の電話(ハルちゃんが掛けたと思われる)を受けて刑事が掘り返すシーン。まさかあのロクデナシ親父が尻拭いをしているとは思わない風太郎が固唾を呑んで見つめている。殺人が明るみに出る覚悟を決めているのか、はたまた上手く言い逃れる術を必死で考えているのか。緊迫の一瞬。出てきたのは「へのへのもへじ」の絵と「バカが見る~」と書かれた紙1枚。まさに九死に一生を得た風太郎だが、これで親父に弱みを握られたことになる。「カードは握らせてもらいましたよ、風太郎お坊ちゃま」とは、女性と豪遊する親父の弁。ホント憎ッたらしいわ~、この親父(笑)!! ちなみにエンドクレジットで、「へのへのもへじ」の絵はジョージ秋山が描いたと出ていた。

きょうは「家族」が大きなテーマになっていたように思う。風太郎の家族、三國家、そして「伊豆屋」、三者三様の家族像が描かれていた。一番幸せそうなのは「伊豆屋」の一家。風太郎がわざと落としていったお金に大騒ぎしてお巡りさんに届けに行く。彼らが醜い心を見せるのを期待していた風太郎が呆気に取られるほど、善良……というか、庶民(笑)! 松山ケンイチ二役で演ずるところの、あのお兄ちゃんの今後の役どころが気になるところだ。

ところで、緑のセリフに「お金持ちなんて名前の人間はいないんだよ」というのがあった。言わんとするところは、お金があるとか無いとかは人間性とは関係ないということで、もちろん関係ないと私も思う。お金の有無で人間性が決まるとすれば、貧乏人から高潔な人物は出ないということになってしまう。そんなはずはない。その意味で緑の言葉は正しい。だが、お金持ちの人たちにはどこか共通する雰囲気がある。風太郎に言わせれば、それは「お前ら金持ちはこういう貧乏人が好きなんだよなあ。牙をむかない従順な貧乏人が好きなのは金持ちは貧乏人が怖いから」という認識となっている。その認識は正しくて、だから三國家の人間は風太郎にころりと騙されて彼の掌の上で踊らされることになる。貧乏人がいなくてはお金持ちもいないという事実を一番良くわかっているのは、お金持ち自身のはずなのだ。お金持ちと貧乏人との間にきちんと一線を画しているのはお金持ちの方なのだ。だから、緑のセリフはいかにもお金持ちで世間知らずのお嬢様が言いそうな、上っ面だけの非常に軽いものに聞こえた。「お金持ちという名前の人間は、いる」と、私は思うのだが、それが貧乏人の僻みと言われれば返す言葉はない(汗)。

お金持ちと貧乏人、この対比をしつこいくらい描いているこのドラマ、いろいろ考えさせられることがあって面白い。最後に風太郎がどんな境地に至るのか、楽しみだ。

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研究者たち

『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一著)を、もう少しで読み終わる。読了していないから感想やレビューを書くことは控えるが、DNAが二重らせん構造をしていることが判るまでの研究者たちの動向や駆け引き(?)等についての記述が、なかなか興味深かった。タイトルから受ける印象や帯に書かれた「生命とは何か?」という惹句とは、内容はちょっと違う。様々な分子生物学の研究者たちの悪戦苦闘振りや毀誉褒貶を綴って、その人となりを解き明かそうとしたもののように思う。そして著者は、ノーベル賞には届かなかったものの、その陰で自分のたゆまぬ研究の日々に満足していた研究者たちに、暖かい眼差しを注いでいるように思う。

この本には、著者自身の経験も含めて、静かに、しかし研究の最前線で実験を繰り返す研究者たちの姿が描かれている。それを読んで、私も以前に知っていた研究者たちのことを思い出した。

大学の医学部には「臨床」と「基礎」がある。学生を教えるという点では同じだが、臨床の先生方は普段は付属病院で実際に患者を診ておられ、基礎の先生方は生理学、病理学、解剖学等々、基礎医学の研究をしておられる。私は医学図書館に勤めていたのだが、多く図書館を利用され、また文献を必要とされる度合いが大きかったのは「基礎」の先生方であった。「臨床」の先生が必要とされる論文の多くは「臨床報告」で、ページ数もさほど多くはない。しかし「基礎」の先生が必要とされるのは「総説論文」や、最新のデータが載った論文が多かったのだ。

「総説論文」というのは、普通の「原著論文」と違い、ある一つの研究テーマについて、それまでに書かれた論文を総括、網羅したものである。だから論文の最後には膨大な量の「原著論文」の書誌事項が載っている。自分がその分野で新たに論文を発表しようと思えば、少なくともそこに挙がっている「原著論文」には目を通す必要がある。既に同じようなものが発表されていれば、自分の研究は追試でしかなくなるからである。

そこで先生方はその論文(コピー)を集めようとされるのだが、地方の大学の研究者が気の毒だと思うのはまさにここである。図書館でもできる限り需要の多い雑誌を購入しているのだが、いかんせん予算が少ないし、そもそも全ての医学雑誌を購入することなど不可能だ。そこで自館にないものは他所の大学図書館からコピーを取り寄せることになる。医学関係の資料が最も充実しているのは大阪大学の医学図書館である。これは同館が医学分野のセンター館になっているからだ(同様に文学関係はどこそこ、教育学関係はどこどこ、と決まっているが、忘れた)。そこで、よく阪大にお願いをしたものだが……。

一度、調べたことがある。無作為に抽出した1編の総説論文に載っている原著論文(60編くらいだったと思う)のうち、わが図書館で読むことのできる論文がどれだけあるか。結果は30~40%ほどだったと記憶している。よって残りの60~70%の論文はそのコピーを取り寄せねばならない。対して、阪大の研究者ならどうか。90%以上の論文を阪大の図書館で読むことができたのである。この差は大きい。当時(今は知らないが)コピー1枚35円だった。1つの論文がだいたい3~4枚だから105~140円かかる。送料だってかかる。40編もの論文を取り寄せようとすればどれだけ掛かるか。たった1編の総説論文に対してだけで、それだけ掛かるのだ。実際にはその数倍もの出費は覚悟しなくてはならない。だいたい教授、助教授、講師、助手あたりまでは校費が使えるが、医局員、研究員は私費だ。自腹を切らねばならぬ。図書館員としては、申し訳なくもあり、彼らが気の毒でならなかった。

だから、恵まれた環境にいる研究者は、金の面から言っても、優れた業績を残して当然……とまでは言わないが、心情的にはそう思う。しかし大きな大学の研究者だけが業績を上げられるとすれば、ますます国はそちらばかりに研究費の予算をつけて、地方の弱小大学との格差は大きくなる一方だ。悪循環だ……。

不利な立場にいる研究者たちに、いつか陽が当たる日がくることを願ってやまない。この本に書かれているような、生き馬の目を抜くような真似をして棚からぼた餅式に僥倖にあずかった研究者たちがいたことを思うと、地道に丹念に実験を重ねてデータを積み上げていく名もない研究者たちの頑張りに、心から拍手を贈りたくなった。

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(備忘録090205)

『フラジャイル』読書中。難しいけどおもしろい。止まらなくなった。
記事はお休みします。

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立春の卵

立春なので、卵を立ててみた。5分ほどで立ったので写真を撮ろうとしたら、倒れた。あっちょんぶりけ……。

「立春の卵」が報道されたのは1947年2月6日の新聞紙上においてであったらしい。だがそれを更に遡ると、中国の古い書物に「立春の日には卵が立つ」と書かれてあったのが元ネタらしい。その古い書物、一説には『秘密の万華鏡』という本らしいが、なにやらトンデモ本の匂いがして興味をそそられる。是非読んでみたいと思うものである。

立春といえば、二十四節気(太陽の黄道上の位置で1年を24等分したもの)のひとつ。そんな、人間が作った便宜上の意味しかない日なのに、その日だけ卵が立つと信じられていた時代がなんとなく愛おしい(笑)。立春以外の日に試した人が絶無だったとは思えない。しかしたぶん、そのときは立たなかったのだ。実際にやってみると分かるが、かなりの集中力を要する。5分ほどで立つけれども、それが倒れるともう二度とやる気が起こらないくらいの集中力だ(笑)。立春の日に試すときには「今日は立つ日だ」と思うからやっていられるが、その他の日には「今日は立つはずがない」と思っているから続けていられなかったのではないかと思う。

何はともあれ、きょうは立春。雨水、啓蟄、春分と続いて、春になる。

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祝・復活!

「ブラック・ジャック オフィシャル・サイト」が復活していました!
いまのところ更新はされていませんが、またあの実写シルエットの先生に逢えて嬉しいです♪♪♪

【追記(5日0時過ぎ)】
あ……あれ? いま見たら、また無くなっています。しょぼん。
同じ不幸を二度味わった気分です。orz
「きれいねBJサイトって。あたし一生忘れないわ」

【さらに追記(5日14時過ぎ)】
さっきまた見られました。わけがわかりませんが、しつこくアクセスしてみたいと思います。

・覚え書き
更新情報……大きく腕組み仁王立ち マントはたはた
手塚治虫とブラック・ジャック……ロッキングチェアで読書
カルテ……カルテを見る
マンガ……捨て犬を抱き上げる
TVアニメシリーズ……いきなり素手で手術!
モバイル……電話に向かって怒鳴る
いろんなB・J……カバンを探ってドクロ(?)を見つけて放り投げる
お知らせ……木にもたれてセンチメンタル
おまけ……屋台でコップ酒
 (どこにいても、どこでもドアを開けて出ていってしまう。)

【しつこく追記】
↑にアップしていたトップページの画像は、取り下げます。
著作権を侵害しちゃいけませんから(ドキドキ)。

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a prayer

『オーデュボンの祈り』(伊坂幸太郎著)読了。

いま一番気になる作家さんのデビュー作だ。彼の作品は長編短編を含めて相互に関連しているそうなので、これから順番に読んでいこうと思う。そんなこと知らずに、『死神の精度』と『チルドレン』は既に読んでしまったけれど。

さて『オーデュボンの祈り』。「BOOK」データベースにはこうある。
----コンビニ強盗に失敗し逃走していた伊藤は、気付くと見知らぬ島にいた。江戸以来外界から遮断されている“荻島”には、妙な人間ばかりが住んでいた。嘘しか言わない画家、「島の法律として」殺人を許された男、人語を操り「未来が見える」カカシ。次の日カカシが殺される。無残にもバラバラにされ、頭を持ち去られて。未来を見通せるはずのカカシは、なぜ自分の死を阻止出来なかったのか?卓越したイメージ喚起力、洒脱な会話、気の利いた警句、抑えようのない才気がほとばしる!第五回新潮ミステリー倶楽部賞を受賞した伝説のデビュー作、待望の文庫化。----

うん。内容を簡潔に説明しようとするとこんなふうになってしまうと思うのだが、たぶんこの文章から想像されるであろう物語の雰囲気と実際の味わいは全然違う。ミステリはミステリなのだが、まるでおとぎ話のようであって、現実感がまるでない。まるでないが、明日わが身に降りかかってきてもおかしくないと、ごく自然に思える。何かとても奥深くて深刻な真理が語られているようでもあり、しかしそんなことは現実の重みの前には無意味なことと無視してもかまわないと思えるような、淡々とした乾いた明るさもある。

何ということもない雑多な出来事が最後にひとつに収斂する心地よさがミステリの醍醐味だが、このお話の場合は収斂したその結果が素敵で、私は泣いた。感動的だったからと言うのは容易いが、何かこう、楽しくて哀しくて、透明で綺麗なものが目の前いっぱいに広がった感じがした。ミステリとしてだけ読むのはもったいない。

ところで、書店でこの本を見たとき、「オーデュボン」という言葉が頭の隅に引っかかった。知っている、聞いたことがある、でも思い出せない。そのもどかしさがこの本を買うに至った直接の動機だった。読んでみて、ああ、と思い出した。John James Audubon(1785~1851)。アメリカの鳥類学者で細密な鳥の画集を遺した人だ。以前勤めていた図書館で、利用者N君からの強い希望があって、このオーデュボンの『アメリカの鳥類(Birds of America)』という本を購入したのだった。それはそれは見事な図鑑だった。写真なんかまだ無かった時代に、よくこれだけ観察したものだと思った。大型で重い本だったので、この本専用に閲覧台を用意した。N君と一緒に飽かずに眺めたことを思い出す。このN君というのがまた面白い子で、臨床医にならずに基礎医学、解剖学の道を選んだのだが、解剖学者の目から見てもこの図鑑は素晴らしい出来だったのだろう。(学生の頃から知っているので「N君」なんて呼んでしまうが、「N先生」と呼ばなくちゃいけないな…。)

そのオーデュボンも描いた「リョコウバト(Passenger Pigeon)」というのが、この『オーデュボンの祈り』の一つのキーワードになっている。20億羽以上の巨大な群れをつくる鳥で、世界で一番多い鳥とも言われていたが、人間の狩りや乱獲で1914年になんと絶滅した。そこから教訓を読み取ることも可能だが、この作品においては、時の流れ、過去・現在・未来、それを見通す力とそれにまつわる悲哀などを表しているように感じた。折りしもきょうのニュースでは「スズメ 国内生息数、半世紀前の1割に」と報じられている。そこで人間が何ができるのか、ただ観ているしかできないのか。できるのは……ただ祈ることだけか。カカシの「優午」の気持ちが少し分かるような気がする。

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マギーとおじさま

Photo 「ただですむと思うの おじさま」
「おじさまはよしてくれ! 家へこい これが場所だ」

全然似てないけど、「赤ちゃんのバラード」のマギーちゃん。原作でもけっこう眼と下睫毛に力が入っているので、私も頑張ってみた。本当は、もっと大人っぽくて色っぽい。orz 
背景をなんとかしたいが、ここで時間切れだ。

スケバンなのだが、コインロッカーに捨てられた赤ちゃんを助けようとする心優しい少女だ。だがそんな大事なことよりも、BJ先生を「おじさま」と呼んだことと先生の名刺をもらっていることのほうが大殊勲だ。よくやったマギーちゃん! それに、天下の無免許医を強請ろうたぁ、いい度胸だぜ! パチパチ。

いま、スケバンっているのかしら? 私は今も昔も実物を見たことがない。連載当時、私が知っているちょっと不良の女の子は、若干長めのスカートをはいてとても身綺麗にしていた。顔もスタイルも頭も良くて、ちょっと虚無的で、ちょうどマギーのようだった。桜塚やっくんのような引き摺るほどの丈のスカートとか黒くて六角形のマスクなんていうのは、もっと後の時代だ。スケバンファッションにもいろいろ歴史があるんだろうなぁ。

「トッポイ」なんていう言葉にも時代を感じる。普通は「ずる賢い」「抜け目がない」、転じて「気障で不良じみたこと」「生意気」という意味で使われるようだが、このストーリーでは「間抜け」という意味合いが強いし、私もその用法しか知らない。「抜け目がない」と「間抜け」では意味が正反対なのだけれども、抜け目なく人を出し抜いたつもりで実は間が抜けていることが多い、ということを揶揄した言い方ではないかと思う。

ところで、マギーが仲間たちと行ったビアホールで流れている曲は、その歌詞からカーペンターズの“Sing”ではないかと思う。「赤ちゃんのバラード」が発表されたのは1974年。同曲はその前年に大ヒットしている。先日観た『プレミアム10』でも、手塚治虫のレコードコレクションの中にカーペンターズのアルバムを見つけることができた。きっとお好きだったのだろう。

……先生は、「おにいさま」と呼ばれたかったのかな……(笑)?

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(備忘録090201)

読書中のため、記事はお休みします。m(_ _)m

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