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2009年5月

もう一度読みたい昭和のマンガ

きょうの朝日新聞「be on Saturday」に「もう一度読みたい昭和のマンガ」のランキングが載っていたので、ベスト50を転記してみる。

1 あしたのジョー(ちばてつや)
2 サザエさん(長谷川町子)
3 いじわるばあさん(長谷川町子)
4 巨人の星(梶原一騎=川崎のぼる)
5 鉄腕アトム(手塚治虫)
6 宇宙戦艦ヤマト(松本零士)
7 カムイ伝(白土三平)
8 赤胴鈴之助(福井英一=武内つなよし)
9 ブラック・ジャック(手塚治虫)
10 タッチ(あだち充)

11 ベルサイユのばら(池田理代子)
12 火の鳥(手塚治虫)
13 ゴルゴ13(さいとう・たかを)
14 美味しんぼ(雁屋哲=花咲アキラ)
15 エースをねらえ(山本鈴美香)
16 風の谷のナウシカ(宮崎駿)
17 おそ松くん(赤塚不二夫)
18 ドラえもん(藤子・F・不二雄)
19 ルパン三世(モンキー・パンチ)
20 銀河鉄道999(松本零士)

21 オバケのQ太郎(藤子不二雄)
22 ドカベン(水島新司)
23 うる星やつら(高橋留美子)
24 ガラスの仮面(美内すずえ)
25 あさきゆめみし(大和和紀)
26 はいからさんが通る(大和和紀)
27 伊賀の影丸(横山光輝)
28 サイボーグ009(石ノ森章太郎)
29 キャンディ・キャンディ(いがらしゆみこ)
30 鉄人28号(横山光輝)

31 アタックNo.1(浦野千賀子)
31 めぞん一刻(高橋留美子)
33 リボンの騎士(手塚治虫)
34 俺の空(本宮ひろ志)
35 のらくろ(田河水泡)
35 フジ三太郎(サトウサンペイ)
37 キャプテン(ちばあきお)
37 ゲゲゲの鬼太郎(水木しげる)
37 DRAGON BALL(鳥山明)
40 アドルフに告ぐ(手塚治虫)

41 愛と誠(梶原一騎=ながやす巧)
41 課長島耕作(弘兼憲史)
43 三丁目の夕日(西岸良平)
44 じゃりン子チエ(はるき悦巳)
45 天才バカボン(赤塚不二夫)
46 Dr.スランプ(鳥山明)
46 笑ゥせぇるすまん(藤子不二雄A)
48 こちら葛飾区亀有公園前派出所(秋本治)
48 北斗の拳(武論尊=原哲夫)
50 8マン(桑田次郎)

われらがBJ先生は堂々の9位にランクイン(拍手)! ちばてつやの「あしたのジョー」が1位なのは素直に頷けるところ。昭和ってそんな時代だったなぁと思う。夢と根性と疾走感。平成の世ならばこんなには持てはやされなかったのではないかと思う。しかし全体に少女マンガが少ない感じがするのは気のせいか。山岸凉子の「日出処の天子」は入ると思ったのだが。

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ただいまッ!!

本日退院して参りました。はぁ~、やっぱりおうちが一番ねぇ~~♪ なんか家の中がわやくちゃになっています(夫が奮闘努力した跡が見えます、ごめんね、ありがとう)が、きょうはのんびりして明日からゆっくりお片付けしようと思います。

いただいているコメントへのレスも明日にさせていただきます。遅くなってしまって申し訳ありません。m(_ _)m 

続きを読む "ただいまッ!!"

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渋い男たち

この年齢で『BJ』を読むと、その奥深い内容は別にして、「BJ先生って可愛いなあ~~♪」と思う(笑)。しかし連載当時は「カッコいいなあ~~♪」と思っていた。そのカッコよさというのは、ハンサムであるとかスタイルが良いとかのビジュアル面ではなくて(『BJ』にはBJ先生以上のイケメンだっていっぱい登場する)、大人の男の余裕というようなものだった。「チャンピオン」収載の他のマンガはたいてい同年代の少年が主人公だったから、比較すると、いくら先生が丸顔で睫毛バシバシの外見でも、そこはやっぱり渋くて分別のある大人だったのだ。

そういう大人の男というのはBJ先生の他にも登場するのであって、以前取り上げた馮二斉とか椎竹先生とか蟻谷さんなどを私は滅法カッコいいと思う。で、きょうは、彼ら以外に当時から今に至るも「これは渋くてカッコいい!」と思っているシーンをいくつか挙げてみようと思う。

ガガノフ少佐「やあ」
BJ「やあ」
ガガノフ少佐「ちょっとはおどろいたかね?」

「空からきた子ども」で、二人が初めて出会ったシーン。岬の家の真ん前にVTOLが着陸したという状況下でこの会話である。BJ先生はちっとも驚いた風もないし、ガガノフ少佐も祖国を捨て亡命してきたという切羽詰った状況を微塵も感じさせることなく、紳士的な態度を崩さない。この、感情を押し殺した二人のクールな対話は、堪らなく渋い。

BJ「……ひとり?」
ブリリアント3世「ああ……ひとりです」

「肩書き」で、ブリリアント3世が岬の家を訪ねてきたシーン。このときのBJ先生はさすがに驚いた顔をしている。彼にとってはVTOLより皇帝陛下のほうがインパクトは大きいらしい。いや、このときは「ひとり」であることがより重要な意味を持つのだろう。実際は側近の者がちょっと離れたところで辛抱強く待機しているのだが、ブリリアント3世はそれをBJにわからせまいとしているし、BJはBJでそれくらい察していたのかもしれないけれども、「ひとり」でやってこようとした彼の意を汲んで、身分など関係なく、あくまでも個人として接している。
その後の会話では、ブリリアント3世は常に丁寧な口調で話し、BJ先生の口調には時々「ですます」が混じっている。これは間違いなく敬意の表れだと思うが、それは身分に対しての敬意ではなく、万難を排してわざわざ自分の手術を見にやってきてくれたことへの感謝と、その勇気に対しての賞賛から出た自然な敬意だろう。
「礼」に対しては「礼」で報いるBJ先生。ブリリアント3世が日本を発つ飛行機をそっと見送りに行くラストが良い。先生の車は機上の人となった皇帝陛下からもきっと見えたに違いない。
この、身分の壁さえなければ良い友人になれるに違いない二人の友情の発露と故意に抑えた交流が、爽やかで渋い。

丑五郎「先生 わしゃもう一度きっとここへきますぜ。やり残しのところをちゃんと仕上げるんだ。それまでだれもいじっちゃなんねえぞっ。約束したよ 先生」
BJ「ああ……約束するよ。私も約束するぞ。今度会うまでにきっと世界一の腕になってみせる!」

「やり残しの家」から。頑固一徹、職人・丑五郎の心意気が良い。敗北を希望に繋げるBJの決意が良い。おそらくお互いにもう会えないとわかって言っていると思うと、胸にグッとくるものがある。この渋さはダンディズムと言うべきものだろう。

わはは。こういう話題で書くととんでもなく楽しくて長くなってしまいそうなので(「刻印」の間久部とか友引警部とか友引警部とか友引警部とか)、きょうはこのへんでやめておこう。ところで、最大のライバルであるドクター・キリコとの間にこういう渋いシーンがなかったかと思い出してみるのだが、……思い当たらない。最初の頃はとにかくBJ先生がテンパッてしまっているし、中盤以降はキリコに凄みが足りない。お互いが渋く判り合えるという関係ではないようだ。

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さて、本日より入院です。10日から2週間くらいで帰ってこられるのではないかと思っていますが、その間はコメントやメールのお返事ができませんので、悪しからずご了承くださいませ。m(_ _)m

それでは、皆様、ごきげんよう。(^-^)/~

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本と結ぶ縁

『多読術』(松岡正剛著)読了。

インタビュー形式なので読みやすい。裏表紙には「読書の楽しみを知れば、自然と本はたくさん読めます。著者の読書遍歴を振り返り、日頃の読書の方法を紹介。本書を読めば自分に適した読書スタイルがきっと見つかります。読書の達人による多読のコツを伝授。」とある。

本をたくさん読みたいからその読書法を知りたい、と思ってこの本を手に取る人が果たしているのかどうかはわからない。本好きの人間ならば誰だって多かれ少なかれ自分なりの読書法や読書ペースを持っているはず。だから私はこの本を、著者の膨大な読書量の秘密を知りたいと思って選んだわけではなく、彼の読書遍歴や選書方法などが知りたくて読んだ。

彼の読書術に関しては、「目次をしっかり読む」「本にどんどん書き込む」「マッピングで本を整理する」「キーブックを選ぶ」等々が紹介されていて面白かったが、実際に真似しようとは思わなかった。特に「本にどんどん書き込む」ことは私には絶対無理だ。著者が言うように、本というのは既にテキストが書かれたノートであると考えられればそういうことも出来るのだろうが、私はどうもそこまで吹っ切ることができない。私にとって本はそれだけで総合芸術の完成品であって、それに更に自分の手を加えて自分だけのものにするという発想は無い。だから私は書き込みはもとより“Dog-ear”(ページの角を折って栞代わりにすること)もできないし、間に挟まれている出版社の広告チラシや帯も捨てることができないでいる。まぁ、著者のように、学術的に「知」を体系づけて編集するという試みをするわけではないから、それはそれで良しとしよう。

個々の読書術については上記のように読み流したが、結果的にはそれでよかったと思う。著者がこの本で本当に言いたいのは、そういう技術的なことではなくて、読者と本を結ぶ「縁」というようなものだと感じた。著者が絵本以外で最初に読んだ本は、母親からプレゼントされた『ノンちゃん雲に乗る』だったという。その物語の内容と自分の母親の姿がリンクしたという思い出や、高校時代の親友が『カラマーゾフの兄弟』を読んでその意味に悩んでいるときに、自分はその本を読んでもいなかったからとにかく一生懸命読んだという話などが興味深い。

読書とは、ただ本を読むことではなくて、その本との偶然の出会いだとか、読んだときに吹いていた風の匂いだとか、聞こえてきた音楽だとか、そういうあらゆるものを楽しめる感覚を得ることなのだと思った。それは、意図的ではないにしろ、著者の言うところの「編集」作業をこちらの脳が勝手にやっているからこそ得られる感覚なのだろうと思う。フラジャイルやかそけきものを大切にする著者が至った読書の醍醐味には、大いに共感するところがあった。

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ホーランエンヤ

12年に一度、松江で催される「ホーランエンヤ」の渡御祭を見に行った。宮島の管絃祭、大阪天満の天神祭と並び、日本三大船神事の一つといわれる祭で、正しくは「松江城山稲荷神社式年神幸祭」という。城山稲荷の御神霊が約10㎞離れた東出雲町出雲郷(あだかえ)の阿太加夜神社(あだかやじんじゃ)へ、大橋川を船で渡られるのを、100隻もの船が賑やかに付き従う。最大の見所は、川沿いの5つの地区が繰り出す「櫂伝馬船(かいでんません)」で披露される櫂伝馬踊りだ。詳しくは公式ホームページで。

Photoきょうは生憎の曇天で肌寒く、昼頃には小雨もパラついたが、川沿いは大勢の人出で盛り上がった。私は兄と一緒にとある駐車場の2階から見たけれど、1時間以上前から陣取っていて正解だった。あと5分遅れていたら人垣の後ろから見ることになっただろう。

前回のホーランエンヤは平成9年で、暑いくらいの良い天気だった。まだ元気だった父と川岸に並んで座って見物したことを、昨日のことのように思い出す。その折に父が「次はもう見られんだろうな」と言っていたが、残念ながらそのとおりになってしまった。そう、松江市民にとってこの祭は、あと何回見られるだろうな、という意識と切り離しては考えられないもののように思う。図らずもきょうは兄が「わしはあと1回だろうな」と言っていた。

過去に誰々と見物したという記憶を蘇らせ、同時にわが身の残り時間を思う。今この瞬間に絢爛豪華な祭を楽しみつつも、一方では堪らない懐かしさと切なさを覚える、「ホーランエンヤ」とはそんな祭である。

Photo_4 ←これは前回のときの写真

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仏像や武将がブームだそうだ

「仏像ブーム」「武将ブーム」だそうだ。ブームを担っているのは若い女性。「仏像ブーム」は阿修羅像の東京国立博物館での公開もひとつの契機になったことだろう。「武将ブーム」については、大河ドラマにGacktが出たあたりから雲行きがおかしいとは思っていたが、きょうはこんなニュースを目にした。「伊達政宗の居城だった仙台城跡にある宮城県護国神社(仙台市青葉区)では最近、政宗のアニメ風キャラクターのイラストを描いて奉納された絵馬がずらりと並んでいる」という。

ゲームの影響とはいえ若い女性にモテるのだからあの世の政宗さんも悪い気はしないだろうし、本当の歴史ファンとは一線を画す存在であることも明白だし、どうせ一過性のものだろうし、まさか現実とバーチャルの区別がつかなくなっているわけでもないだろうし、目くじら立てるほどのことではないと思う。が、ここはやはり一言言いたい!(←おばはんの悪い癖だ)

「萌え」ってのは、あんまり見せ付けられると、眉をひそめるしかないものだとわかってほしい。

「萌え」がネット上やアキバに限定されていれば、一般の人はそれを避けることも可能だ。しかし誰でもが見聞きできる形態でそれが晒された場合、免疫のない人はまず当惑し、違和感を覚え、嫌悪感を持つこともあり得る。そこのところは誰に言われなくても慮るのが礼儀だと思う。「萌え」が免罪符になると思ったら大間違いだ。

それともうひとつ、おばはんの気に食わないことがある。……ノリが画一的なのだ。誰かがアニメ絵の絵馬を奉納すれば我も我も、と。これではただの流行ではないか。私には「萌え」というのはいまいちわからないものではあるのだが、もっと自分なりのやり方で「萌え」ることはできないものかと思ってしまう。「萌え」というのはそもそもとても個人的なことで、類型的になったらその醍醐味がなくなるものではないかと想像しているのだが、……違うのかしら。

興福寺の阿修羅像について言えば、この美少年の面影のある像が若い女性にたいした人気なのは何も今に始まったことではない。仏像というのはそもそも人を惹きつけてナンボのものだし、仏像に恋する人間もいる(私だ)。しかしイケメン阿修羅のファンクラブまであると聞けば、そりゃあただの「萌え」だろうと思う。仏像とは、1対1で向き合って心を空にしたり満たしたりするための存在で、皆で一緒にファンになったりするものではない。

あんまり杓子定規なことは言いたくないのだが、一部の人間の軽い行動で、「萌え」というものに苦々しい印象を持つ人がいることは忘れてはならないと思う。世間から軽んじられることなく末長く「萌え」たいのなら、節度は必要だろう。

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『BJ』連載

「週刊少年チャンピオン」を買う。『BJ2009』連載2話目。謎めいた外科医が出てくる以外は1話目との関連はほとんどない。ふぅん……。

手塚治虫という人は話の構成力に優れていたのだとつくづく思う。各エピソード20ページ足らずの間にドラマチックな盛り上がりと読後の余韻を持たせるだけの内容を盛り込んでいる。どなたか漫画家さんが言っていたが、「描きたいことを、10ページでも描ける人がいる、50ページでも描けない人がいる」という指摘にはなるほどと思う。手塚治虫ならたとえ4コマでも描ける力があったのだろう。

それにしても、毎週『BJ』が読めるというのは嬉しく有り難いことではある。そして、本家本元の連載を毎週読めた時代に生まれたことに改めて感謝せずにはいられない。

そこでふと気付いたのだが、私が『BJ』に関して二次創作および妄想すらできないことの原因の一つは、この「毎週『BJ』の新作を読むことができた」という経験に由来するのではないかと思う。「チャンピオン」を立ち読みして帰って、1週間反芻して考えているうちに、嬉しいことにもう次の新しいお話が出たのである。BJ先生もピノコもドクター・キリコも現在進行形で存在していたのだ。下手に妄想などして誰かと誰かをくっつけたり引っ剥がしたりしても、そんな設定は次の週のお話でひっくり返される可能性だってあったわけだ。だから、ただただ描かれている世界だけに酔っていた、ような気がする。

当時はそれが普通の読み方だったと思う。今の時代なら……、この2話目が出た時点で、BJとあの謎の外科医をくっつける試みが必ずなされると思う(笑)。

【追記:↑いえ、それが決して悪いことだと言っているのではありません。各人の自由です。ただ単に、今はそういうジャンルがしっかり確立されているという、そういう時代の変化が言いたいだけです。】

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飽きるほど絵を見た

島根県立美術館へ「フランス絵画の19世紀展」を見に行った。GWも過ぎた平日だったのに、それでも結構な人出である。音声ガイド付きでゆっくり鑑賞したかったが、今朝は朝一番の診察のために絶食状態だったため、長時間の鑑賞は避けた。それでも優に2時間はかかった。

開館10周年記念企画だけあって、フランス・アカデミスムの大作が80点も集められていて、見応えは充分だった。いかにも「正統派」というような素晴らしく綺麗な絵ばかりで、それがまぁ退屈といえば退屈だったのだが。新古典主義→ロマン主義→アカデミスム→レアリスム→印象派等々、アカデミスムが影響を受け、また影響を与えたその他の派の絵画も同時に展示されており、その画風の違いがよくわかるようになっていた。私はポール・ボードリーの「真珠と波」というヴィーナスの絵が気に入ったが、絵葉書等のグッズになっておらず残念。

Photo天気も良かったので、美術館の展望台に出て宍道湖と松江市街を望む。

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欠落と聖性

・手塚眞さんの言葉。「親父の漫画の主人公はみんなこわれ者。アトムは自己喪失、リボンの騎士は性同一性障害、ジャングル大帝は白子、ブラックジャックに至っては、ほとんどフリークス。みんな必ず障害と悩みを持ってる。そして、その障害や悩みを無くす為に戦ったり、誰かを無償のやさしさで助けたり、色んな努力をする」。

・石上三登志の『手塚治虫の奇妙な世界』によれば、手塚治虫は天馬博士と同じく成長しないアトムを憎み、あの手この手で何とかロボットに<成長>を持ち込もうと足掻いたのだそうです。

上記はネットから拾ってきた文章である。アトム、リボンの騎士のサファイア、レオ、その他にも、身体のほとんどの部分が作り物の百鬼丸、モンモウ病で容貌が犬のようになった小山内桐人、毒ガスによって心身を蝕まれた結城美知夫、透明になりそこねて半透明の身体になってしまったアラバスター等々、手塚治虫の作品に登場するフリークスは枚挙に暇がない。

こういう話題に触れるにはちょっと勇気がいる。実際に傷つく人がいるかもしれないという恐れと、自分が試され未熟であることを思い知らされることへの躊躇いがあるからだ。ずっと避けてきたテーマなのだが、いつまでもモヤモヤしているのも嫌なので、少し吐き出してみようと思う。【なお、きょうのエントリは折にふれてメモ書きしたものやネットからの引用を繋ぎ合わせたものなので、結論めいたものはないことを初めにお断りしておく。】

眞さんの指摘どおり、『BJ』においては主役級の登場人物にはたいていどこかに欠落や欠陥がある。これは某様方で見かけた「『BJ』には昭和の見世物小屋の匂いがする」という的を射た指摘に通じるものだ。いや、もちろん、欠落や欠陥のまったくない人間など世界中どこにもいないのだろうが、『BJ』はマンガゆえに、それはかなり誇張された外見的表現にもなって現れる。主役のBJ先生は幼い頃は歩けなかった上に事故で継ぎ接ぎだらけの身体になったし、ドクター・キリコは隻眼(この設定には何か意味があるような気がしてならないが、案外ただの思いつきかもしれない)だし、ピノコは人造人間で大きくならないし、如月めぐみは女性としての機能を失った。

養老孟司さんはそういう手塚治虫を「人間嫌い」と評していたが、これはどうなのだか私には判断ができない。またこれは養老さんではないが、手塚がそういうフリークスを一種猟奇的なものとして捉え、そういう世界を描きたくて描いているという見方も一部にはあるようだが、そういう捉え方にも大きな違和感を覚える。根拠はないが『アラバスター』などのあのドロドロした世界は決して手塚が描きたくて描いたものではないという印象を持つ。   

それよりは、これは手塚治虫の手法であって、内田樹が指摘したように「現象の図と地を入れ替える、さかさまのストーリーテリング」であるという考え方のほうがしっくりくる。

---『鉄腕アトム』で「人間性とは何か?」という問いに答えるために「人間ならざるもの」を主人公にしたように、「文明とは何か?」を考えるためにジャングルの生き物たちを主人公にしたように(『ジャングル大帝』)、「セックスとは何か?」に答えるために、性を失った人間を主人公にしたように(『人間ども集まれ!』)、「生きることの意味は?」という問いに答えるために、手塚は「死ぬことを禁じられた人間たち」を連作の主人公とするケース・スタディを試みた。それが『火の鳥』である。---『街場の現代思想』より

眞さんが言っているように、「その障害や悩みを無くす為に戦ったり、誰かを無償のやさしさで助けたり、色んな努力をする」、そういう雄々しくて麗しい生き方を描く意味合いも確かにあるだろうが、手塚治虫はその実、いつも読者を相手にもっと大きなことを問いかけているように思う。「本当に大切なものは何だと思う?」

……と、ここまで書くつもりはなかったのだが、はずみで書いてしまった(汗)。フリークスに話を戻す。

フリークスには一種の聖性があるのではないかと思う。それは松岡正剛が『フラジャイル』の中で「つねに『不浄』と『浄化』という二極をゆれうごくプロセスを経験した者」と書いているものに通じるように感じられる。彼は「欠陥や欠如や弱点をもっていることがかえって英雄として神聖視されてきた」ことについて、特に脚が不自由な例を挙げて検証しているのだが、日本人に一番わかりやすい例は案山子(カカシ)だ。日本神話では「クエビコ」として神の一人でもある。クエビコは歩行不能であるにもかかわらず天下のすべてのことを知悉している。

あるいは、そう、福助人形。一説に実在の身体障害者をモデルにしていると言われている(水頭症、侏儒症かもしれない。「福助」も「不具助」をもじったものとか)が、皆から愛されて福の神となった。

人には、どこかこういう傾向があるのではないかと思う。つまり、尋常一般の人々とは違う外見や特徴を持つ人たちに自分には無い聖性を感じる、という。

では、『BJ』の登場人物のフリークス加減に何を感じるか。聖性があるとすればそれは何か。

仏教における「四苦」から考えてみる。俗に「四苦八苦」と言う。「四苦」とは「生・老・病・死」をいう。これに「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」の四つを加えて「八苦」となる。

ちなみに、「生・老・病・死」の「生」とは「生きること」ではなくて「生まれること」である。生まれるときの苦しみなど誰も覚えていないのに、何故それが「苦」のひとつに数えられているのか。残りの「老・病・死」を見ればわかる。どれひとつとして自分の思い通りにできることは無い。つまり「生まれること」も自分の意のままにできないという点で大きな「苦」なのである。冷酷な親の元に生まれることもある。極貧の家に生まれることもある。たとえ生まれたくない状況だったとしても、生まれる本人にそれをどうこうすることはできないのである。

ここに、生まれたいという明確な意思を持って生まれた人間がいる。ピノコだ。
また、「苦」であるはずの「死」を「楽」に変える人間がいる。ドクター・キリコだ。

BJやその他の医師は「生・老・病・死」という自然の推移に従った「苦」に必死に抗っている。これが人間の背丈に合った最大限の努力であろう。BJの脚が不自由だったことも、先に述べた人間界の英雄の条件と妙に符合するものがある。しかしいくら天才とはいっても、BJは人間の範疇に納まっている。それに対して、ピノコとキリコの二人は「四苦」の秩序を乱しているとも言える。人間の範囲を逸脱し超越しているという点で最大の異形の者、フリークスだろうと思う。

……ここで時間切れです。

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イベント初体験

お目当ての本があって、「花鳥風月」という同人誌即売会に行ってきた。こういうイベントに行くのは生まれて初めてである。連れもいないから、そりゃもうドキドキもんである。お目当ての本の場所は事前に調べたから大丈夫……と自分に言い聞かせて、いざ突撃!

会場となった「くにびきメッセ」に着くと、入り口前の階段に腰掛けて本を読んでいる若者達の姿があった。中学生か高校生くらい。わらわらと出たり入ったりしている人たちも皆それくらいの年恰好。おばさんなんか一人もいない! どんな顔をして入ればよいのか困ってしまって、「そうか、はぐれてしまった子どもを捜している保護者のふりをすればいいんだ」と思いつき、以降ずっとキョロキョロと演技していた私は、我ながらどうなんだろうと思う。でも、年代の違う人たちの中に入っていくことは、それくらい恥ずかしいことだったんだ!

建物の中に入ると、広い廊下の片隅や自動販売機の物陰などそこかしこにしゃがみ込んで本を広げている若者達がいた。へぇ~、と、キョロキョロしながら廊下を進む。しかし「あそこだろう」と当たりをつけていたホールの扉は閉ざされている。ありゃ、間違えた。すごすごキョロキョロと引き返すと、何のことはない、入り口からすぐのホールが会場だった。

廊下から一目覗いてみて、気圧された。いや~、なんか独特の熱気というようなものがホールに充満して天井で渦巻いている。しかし集っている人数の割りには静かな雰囲気である。声高に話す人間などいない。喧騒のガヤガヤではなくて、ヒソヒソざわざわが寄り集まってウワ~ンという地鳴りのような音になっている。見る者、買う者、食べる者、そしてコスプレする者が闊歩している。その人たちが付けている化粧品の匂いだろうか、どことなく甘ったるい香りがする。そしてずらりと並んだテーブルには色とりどりのいろんな物が置かれている。へぇ~、こういう雰囲気なのか。

ホールの入り口から覗いて進行方向を確かめてから、突進。テーブルに沿って歩きながら素早く目標物を視認。あった! しかしこれはテーブルを回り込んで向こうから手に取ったほうが良いと判断し、人の流れに乗ってキョロキョロしながら歩く。コスプレのステージに近いところまで来て、それらの人々と目が合うが、ごめん、アンタが誰なのか私にはサッパリ分からんのだよ。慌ててまた子どもを捜すふりで視線をあらぬ方に飛ばす。テーブルを一周すると、私のお目当ての本のところで3~4人の女性(これは20代くらいだった)が立ち止まっている。もしかして同志? お近づきになりたいものだとチラリと思いはしたが、なにしろ多勢に無勢(?)。彼女達の脇から手を伸ばして1冊ゲットすると一目散に会計に向かってしまった私は小心者だ。orz

お宝を頂戴したからは長居は無用。そそくさと会場を後にして帰宅してみると、驚いたことに家を出てから15分しか経っていなかった。自転車で往復10分ほど、建物の中で迷って1分ロス、会場内には正味4分ばかりしかいなかったことになる。ずいぶん長い時間いたように思ったが。しかしずっと子どもを捜してキョロキョロしてはいたが、雰囲気に呑まれて、その実、何も見ていなかったように思う。唯一覚えているのは、人垣の間から見えたピカチュウの頭部だ。でも、なにしろ初めての経験だったのだから仕方ない。今度機会があったら、もうちょっと上手く会場の雰囲気を楽しめるのではないかと思う。

購入したご本はまだ読んでいない。手術して退院して、自分一人で密かにお祝いするときまで、楽しみに取っておくつもりだ。

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疾走ときどき失踪

『手塚先生、締め切り過ぎてます!』(福元一義著)読了。

「手塚ファン Magazine」に、平成14年(2002)から平成18年にかけて毎月連載された、福元一義さんのエッセイ「アシスタントの日記帳」を加筆・修正の上まとめたもの。帯には「手塚治虫伝説を目の当たりにして30有余年。元チーフアシスタントが明かす巨匠の疾走(ときどき失踪)創作人生!」とある。

楽しく気軽に読める本だ。手塚治虫がいかに忙しかったか、いかに描くのが速かったか、いかに編集者から逃げ回ったか、そしていかにマンガを愛していたかがよくわかる。北海道でちょっと目を離したら失踪してしまい、皆でやきもきしていたら、翌日の夕刊に徳島で阿波踊りを踊っている姿が……なんていうエピソードには思わず笑ってしまった。

いやそれにしても、手塚治虫という人は、生涯で最も睡眠時間の少ない人なんじゃないかと思うほど、いつでもどこでもマンガを描いていた人なのだという思いを強くした。おかげで未だに楽しめる。ありがたいことだと思う。亡くなられた頃の話には思わず鼻の奥がツンとなった。

『BJ』関係の話では……。「チャンピオン」での連載の話が持ち込まれた当時、ほんの数日遅れで講談社からも執筆の依頼があったとか(これは『三つ目がとおる』になる)。講談社からの依頼があと2~3日早かったなら『BJ』は「マガジン」に連載されていたかもしれない、とのこと。この頃から「チャンピオン」が「マガジン」「サンデー」に攻勢をかけて黄金時代を築いていくことになるので、『BJ』を取れなかったことは「マガジン」にとっては痛手だったかもしれないと思う。

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『ブラック・ジャック2009』

コンビニへ自動車税の払い込みに行ったついでに、買ってしまった「週刊少年チャンピオン」。お目当てはもちろん吉富昭仁による『ブラック・ジャック2009』。まさかのbjリーグとのコラボだ(笑)。事前に自分の組織を培養しておいて代替させるという手法が描かれていたが……クローンだよなコレ。問題はないのかとちと気になった。3号連続掲載されるようなので続きを読まずばなるまいて(笑)。絵柄は、原作のBJ先生よりさらに若い感じだ。

さてほぼ30年ぶりにチャンピオンなんて買ってしまったわけだが……。よ、読めない。orz  『BJ2009』だけは読んだものの、あとのマンガにまったく食指が動かない。というか、読めない。絵柄なのか構図なのか、とにかく目が拒否してしまう。昔よく父や母が私の読むマンガは読めないと言っていたが、今まさに自分がそうなっていることに気付いた。う~む。

で、『手塚先生、締め切り過ぎてます!』(福元一義著)を読書中。テキストならいくらでも読める(笑)。

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ギムレットには早すぎる

Long_goodbye_2 『ロング・グッドバイ』(R・チャンドラー著)読了。村上春樹の新訳本だ。本書は高校生以降に清水俊二訳の『長いお別れ』で何度か読んだことがあるが、先般 村上訳が軽装版で出たので買って読んだ。二人の訳はそれぞれに良いという評判のようで、比較した記事もある。私はといえば、清水訳を詳しく覚えているわけではないので、何とも言えない。「おお、これがかの有名なセリフか!」などと感激しながら読んだことだけは覚えているが。

ミステリという分野の作品ではあるが、テーマは「友情」と言ってもよいかもしれない。タフで無頼な一匹狼フィリップ・マーロウがふとしたことでテリー・レノックスという男に心惹かれる。バーへ繰り出し一緒にギムレットを飲む仲になるが、テリーは妻殺しの容疑を掛けられ自殺してしまう。マーロウはもうこの世にいないテリーへの想いに突き動かされて、危ない事件に自ら首を突っ込んでいく。

マーロウはテリーの暗い影に惹かれている。大富豪の娘婿という立場でも幸せになれず、それを投げ捨てて放埓な生活を送ってもなお満たされないテリーのプライドの高さに好感を持っている。都会の片隅で物質的には何不自由なく暮らしている人間が、もうどうしようもなくなってのたうちまわっている様子に、共感の手を差し伸べている。テリーは優しい男だ。そしてマーロウもまた。

フィリップ・マーロウものでは最高傑作の呼び声も高い本書だが、その最大の魅力は最後のページにあると思う。この1ページを味わいたいがために、この長編を延々と読んでいるような気がする。少なくとも私の場合はそうだ。やくざで乱れた上流階級の人々の暮らしの描写には何ら共感できるものはないし、ハードボイルドすぎて日本人にはいささかついていけない(でもアメリカ人にはユーモラスで気の利いたものであろうところの)セリフにも辟易することがあるけれども、やっと辿りついたラスト1ページに描かれた友情の結末とマーロウの心情にはグッと来るものがある。切なくてほろ苦い。マーロウという男に血が通った人間味と少年の面影を感じさせてくれる。喪失感を描かせたら上手いと思う村上春樹の訳も文句なしに良かった。

さて、本文はたった今読み終えたのだが、55ページにもわたる村上春樹の「訳者あとがき」をまだ読んでいない。これから読む。何が書かれているのか楽しみだ。

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(備忘録090506)

大型連休もきょうで終わり。世間様はあちこちお出掛けだったようだが、我が家は夫が連休とは無縁の生活のため、通常どおりの毎日だった。それでも昨日は二人で庭の棕櫚の木を3本伐ったり庭仕事をしたりした(←普段やらないので力説・笑)。

IE8を入れたらやたらと重くなったのでまたIE7に戻しながら、久々にチャンドラーを読んでいる。読み終わりたくないけれども、あと4分の1ほどしか残っていない。ゆっくり読まねばもったいないのだが、明日には読み終わってしまうかな。

明日は舅殿が入院、一週間後に手術の予定。私はそれが終わってからでないと…。

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手塚治虫関係の番組

NHK教育の『日曜フォーラム「“宝塚”の手塚治虫 その創作の原点」』を観た。村上知彦の司会で、パネリストは草野旦、中野晴行、萩尾望都、手塚るみ子の面々。来場者はかなりの割合で年配の方が多かったようだ。

宝塚歌劇と手塚のマンガの関係や、少女マンガに与えた影響などが語られていたが、萩尾さんの発言はかなり殺傷能力が高くて面白かった(笑)。宮崎H氏に話が及んだときの「えッ?!」という過剰反応にはどうなることかとハラハラしたが、るみ子さんが上手く取り持って事なきを得た(爆)。これといって盛り上がりのない(失礼)シンポジウムだったが、萩尾さんの発言のときには緊迫感があって楽しめた。彼女が少年の世界を描くのは、女だと生々しくなるのが少年だとワンクッション置けるからだと言っておられたのも納得がいって興味深かった。

『BJ』に関しては、男性俳優が演じたBJはゴニョゴニョ……だったが、宝塚の安寿ミラが演じたBJは非常にカッコよかったということで、手塚が描く男性キャラには女性的な要素があるという話が出た。アトムの睫毛の長さには触れられていたが、BJの睫毛には触れられず、はなはだ残念。あれは異常に長いでしょうに。

もう一つ、『日曜美術館 アートシーン』で「手塚治虫展」が紹介されていた。これについてはG様が詳しくレポしてくださった(感謝感謝です!(-人-))ので、映像で補完するという感じで観た。レポによると、こちらも子どもより大人が夢中で見ていたそうで、いまの大人たちに手塚が与えた影響の大きさが窺われるところだ。ネット上で探した記事ではココが詳しい。手塚キャラ大集合のタペストリが楽しい。BJ先生はよく目立つところにいらっしゃる。おお、キリコもすぐ近くに。

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木枯らし紋次郎

「木枯らし紋次郎。上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれたという……」

江口洋介の『木枯らし紋次郎』を観た。元祖・中村敦夫の紋次郎を知っている者にとっては、ぎりぎりセーフの出来だったのではないか。

雨の中で地を這いずり回るような殺陣も見ることができたし(殺陣自体が上手いとは言えなかったけれど)、エンディングでは当時と同じ印象的なストップモーションの手法も使われていた(ような気がする)。欲を言えば、紋次郎はじめ渡世人の方々と貧農の家族にはもっと痩せこけていてほしかったし、もっともっと泥臭い殺陣であってほしかったけれど。

中村敦夫の紋次郎は1972~1973に放映された。お子様が観るには相応しくないシーンもあったように記憶しているが、我が家は母が中村敦夫のファンだったものだから、毎週観ていた。中村紋次郎は江口紋次郎よりクールでドライで凄みがあった。そしてもっと切羽詰っていたように思う。飯を食うにしろ、切られた道中合羽を繕うにしろ、いまそれをやることが生き抜くことに直結しているようなリアルな重みが感じられた。きょうのドラマでは白米のおむすびを物思いに耽りながら齧るシーンがあったが、中村紋次郎ならば食えるときに食っとけとばかりにむしゃぶりつくのではないかと思う。

そういうようなところで、甘いというかヌルいというか、ウエットでセンチな感じは否めなかったが、最初に書いたように、ぎりぎりセーフ。どうしたって中村紋次郎と比べられるのを覚悟の上で、頑張っていたと思う。全体としても、ホームドラマのような時代劇が多い中で、なかなかカッコいい出来だった。また、音楽に上條恒彦の『だれかが風の中で』が使われていて懐かしかった。当時この歌のフルコーラスをどこかでエアチェックして(ドラマの最終回だったかな?)飽きるほど聴いていたことを思い出した。「いくつ峠を越えた」なんて歌詞なんぞ、いかにも『紋次郎』のためにあるような曲だ。

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