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欠落と聖性

・手塚眞さんの言葉。「親父の漫画の主人公はみんなこわれ者。アトムは自己喪失、リボンの騎士は性同一性障害、ジャングル大帝は白子、ブラックジャックに至っては、ほとんどフリークス。みんな必ず障害と悩みを持ってる。そして、その障害や悩みを無くす為に戦ったり、誰かを無償のやさしさで助けたり、色んな努力をする」。

・石上三登志の『手塚治虫の奇妙な世界』によれば、手塚治虫は天馬博士と同じく成長しないアトムを憎み、あの手この手で何とかロボットに<成長>を持ち込もうと足掻いたのだそうです。

上記はネットから拾ってきた文章である。アトム、リボンの騎士のサファイア、レオ、その他にも、身体のほとんどの部分が作り物の百鬼丸、モンモウ病で容貌が犬のようになった小山内桐人、毒ガスによって心身を蝕まれた結城美知夫、透明になりそこねて半透明の身体になってしまったアラバスター等々、手塚治虫の作品に登場するフリークスは枚挙に暇がない。

こういう話題に触れるにはちょっと勇気がいる。実際に傷つく人がいるかもしれないという恐れと、自分が試され未熟であることを思い知らされることへの躊躇いがあるからだ。ずっと避けてきたテーマなのだが、いつまでもモヤモヤしているのも嫌なので、少し吐き出してみようと思う。【なお、きょうのエントリは折にふれてメモ書きしたものやネットからの引用を繋ぎ合わせたものなので、結論めいたものはないことを初めにお断りしておく。】

眞さんの指摘どおり、『BJ』においては主役級の登場人物にはたいていどこかに欠落や欠陥がある。これは某様方で見かけた「『BJ』には昭和の見世物小屋の匂いがする」という的を射た指摘に通じるものだ。いや、もちろん、欠落や欠陥のまったくない人間など世界中どこにもいないのだろうが、『BJ』はマンガゆえに、それはかなり誇張された外見的表現にもなって現れる。主役のBJ先生は幼い頃は歩けなかった上に事故で継ぎ接ぎだらけの身体になったし、ドクター・キリコは隻眼(この設定には何か意味があるような気がしてならないが、案外ただの思いつきかもしれない)だし、ピノコは人造人間で大きくならないし、如月めぐみは女性としての機能を失った。

養老孟司さんはそういう手塚治虫を「人間嫌い」と評していたが、これはどうなのだか私には判断ができない。またこれは養老さんではないが、手塚がそういうフリークスを一種猟奇的なものとして捉え、そういう世界を描きたくて描いているという見方も一部にはあるようだが、そういう捉え方にも大きな違和感を覚える。根拠はないが『アラバスター』などのあのドロドロした世界は決して手塚が描きたくて描いたものではないという印象を持つ。   

それよりは、これは手塚治虫の手法であって、内田樹が指摘したように「現象の図と地を入れ替える、さかさまのストーリーテリング」であるという考え方のほうがしっくりくる。

---『鉄腕アトム』で「人間性とは何か?」という問いに答えるために「人間ならざるもの」を主人公にしたように、「文明とは何か?」を考えるためにジャングルの生き物たちを主人公にしたように(『ジャングル大帝』)、「セックスとは何か?」に答えるために、性を失った人間を主人公にしたように(『人間ども集まれ!』)、「生きることの意味は?」という問いに答えるために、手塚は「死ぬことを禁じられた人間たち」を連作の主人公とするケース・スタディを試みた。それが『火の鳥』である。---『街場の現代思想』より

眞さんが言っているように、「その障害や悩みを無くす為に戦ったり、誰かを無償のやさしさで助けたり、色んな努力をする」、そういう雄々しくて麗しい生き方を描く意味合いも確かにあるだろうが、手塚治虫はその実、いつも読者を相手にもっと大きなことを問いかけているように思う。「本当に大切なものは何だと思う?」

……と、ここまで書くつもりはなかったのだが、はずみで書いてしまった(汗)。フリークスに話を戻す。

フリークスには一種の聖性があるのではないかと思う。それは松岡正剛が『フラジャイル』の中で「つねに『不浄』と『浄化』という二極をゆれうごくプロセスを経験した者」と書いているものに通じるように感じられる。彼は「欠陥や欠如や弱点をもっていることがかえって英雄として神聖視されてきた」ことについて、特に脚が不自由な例を挙げて検証しているのだが、日本人に一番わかりやすい例は案山子(カカシ)だ。日本神話では「クエビコ」として神の一人でもある。クエビコは歩行不能であるにもかかわらず天下のすべてのことを知悉している。

あるいは、そう、福助人形。一説に実在の身体障害者をモデルにしていると言われている(水頭症、侏儒症かもしれない。「福助」も「不具助」をもじったものとか)が、皆から愛されて福の神となった。

人には、どこかこういう傾向があるのではないかと思う。つまり、尋常一般の人々とは違う外見や特徴を持つ人たちに自分には無い聖性を感じる、という。

では、『BJ』の登場人物のフリークス加減に何を感じるか。聖性があるとすればそれは何か。

仏教における「四苦」から考えてみる。俗に「四苦八苦」と言う。「四苦」とは「生・老・病・死」をいう。これに「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」の四つを加えて「八苦」となる。

ちなみに、「生・老・病・死」の「生」とは「生きること」ではなくて「生まれること」である。生まれるときの苦しみなど誰も覚えていないのに、何故それが「苦」のひとつに数えられているのか。残りの「老・病・死」を見ればわかる。どれひとつとして自分の思い通りにできることは無い。つまり「生まれること」も自分の意のままにできないという点で大きな「苦」なのである。冷酷な親の元に生まれることもある。極貧の家に生まれることもある。たとえ生まれたくない状況だったとしても、生まれる本人にそれをどうこうすることはできないのである。

ここに、生まれたいという明確な意思を持って生まれた人間がいる。ピノコだ。
また、「苦」であるはずの「死」を「楽」に変える人間がいる。ドクター・キリコだ。

BJやその他の医師は「生・老・病・死」という自然の推移に従った「苦」に必死に抗っている。これが人間の背丈に合った最大限の努力であろう。BJの脚が不自由だったことも、先に述べた人間界の英雄の条件と妙に符合するものがある。しかしいくら天才とはいっても、BJは人間の範疇に納まっている。それに対して、ピノコとキリコの二人は「四苦」の秩序を乱しているとも言える。人間の範囲を逸脱し超越しているという点で最大の異形の者、フリークスだろうと思う。

……ここで時間切れです。

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