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2009年6月

『MW 第0章』

『MW 第0章 悪魔のゲーム』を観た。『MW』の本筋とはまったく関係なく、得体の知れない黒幕として結城が出てくるだけ。結城は沖ノ真船島やMWに関する何らかの情報が欲しかったのだろうけれども、あまりにも回りくどい感じがした。それに、たぶん原作の結城美知夫ならコウスケなんていう同志(手下)など必要としない。秘密を漏らさないためにも彼は全部一人でやってのける。唯一彼に必要なのは賀来神父だけだ、精神的にも物理的にも。だから『MW』のプロローグとして観るには物足りなかったが、『MW』とは別なものとして、「人が究極の選択を迫られたらどういう行動を取るのか」というテーマのドラマとして観るぶんには興味深かった。

隆志という青年が突然不可解な状況に放り込まれる。目の前に赤い服を着た男と青い服を着た男が縛られており、結城から「どちらかが隆志の父親、どちらかが隆志の母親を殺した男」と告げられる。1時間以内に母親殺しの犯人を殺すことができなければ、別の場所に監禁されている隆志の彼女は爆殺されてしまう。

なんだかとてもお利口さんな結末になってしまったと思うのは、私がヒネクレているせいか。私なら……最後の瞬間まで2人一緒にいたいと思うかも。この結末以外にも、このドラマには善か悪かの選択を迫られるシーンが盛り沢山だった。空から1万円札が降ってきたら……、まぁ着服する。警察には届けない(コラ)。絶対に荷物の中身を見るなと言われたら……、これはまぁ見ないかもしれない。良心からではなくて、開けた途端爆発でもしたら嫌だから。1億円の(盗んだ)金を自由に使って良いと言われたら……、たぶん使わない。良心からではなくて、露見して賠償させられたら堪らないから。こんなふうにいろいろ考えさせられることは多かったが、……こんな見方をしてしまって良いドラマだったのかな(笑)。以上でドラマの感想は終わり。

善と悪とのせめぎ合いというのが『MW』の1つのテーマであるならば、スポットは結城よりも賀来神父の心中に当てられるべきだ。結城は悪いことしかしないモンスターだ。それを止めなくてはならないと思いつつ、同じ地獄を共に経験した唯一の人物として、また結城の恋人として、賀来にはそれができない。原作の同性愛の間柄という設定はこの辺りを実に上手くクリアしている。映画ではこの設定がない分、賀来が素直に善に傾いて、「悪vs善、結城vs賀来」という構図になっているようだ(少なくともノベライズ版ではそうだった)。こっちのほうが判りやすいことは判りやすい。

この作品を原作通りに映画化して面白い作品にするのは結構難しいことのように思う。賀来のモヤモヤはそう簡単には映像化できないようにも思う。さて、どんな映画に仕上がっているのか。観たいような観たくないような……。

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『BJ』あれこれメモ

月曜日は『BJ』語り。きょうは取りとめもなく思いついたことをメモ書き。

・軍艦島と要塞島
いささか旧聞だけれども、4月22日に長崎市沖の端島(通称・軍艦島)への再上陸が解禁された。かつては炭鉱の島として栄えたが、1974年の閉山に伴って無人島となっていた島である。現在は「世界遺産」への登録を目指しているとも聞く。
それで思い出したのだが、この島は『BJ』112話「望郷」(1976年)に出てくる猫生島(通称・要塞島)のモデルに間違いないと思う。島の形や海上から見た様子が酷似しており(Wikipediaに写真があったので確認した)、当時無人島だった史実にも合う。一方は炭鉱閉山で、もう一方は公害問題でと、島が見捨てられた理由は違うが、今回改めて「望郷」を読んで、故郷を捨てねばならなかった人々の気持ちに思いを馳せた。軍艦島にもきっとヤケッパチのような望郷の念を抱く人達がいるに違いない。

・テレビ出演
BJ先生は映画には出演したことがある……顔は出ていないけれど(「フィルムは二つあった」)。ではテレビに出たことはあるのだろうか。「黒潮号メモ」の冒頭、六久(ロック)の冒険の始まりがテレビ中継されているところにBJ先生が乱入しているので、もしかしたら映ったかもしれないが、確認はできない。確実に映っているのは「三者三様」。ガス爆発の怪我人が運ばれるのを見ている先生が画面に見える。

・手相
Photo少年チャンピオン・コミックスの第8巻の表紙で、BJ先生の左手の手相がわかる。大きな特徴は、感情線と頭脳線とが1本になっていること。これを「枡掛け(ますかけ)」と呼ぶらしい。そこで枡掛線を調べてみると……。「この相をもつ人は、たいてい孤独な一面をもつ人です。…(中略)…また世間一般の成功や出世などという問題に関しても、全然無関心であるか、反対に強い執着をもつか、そのいずれかであって、中間というものがありません。だからこの相の人は、大成功するか、社会から落伍するかのどちらかであって、この相に良い運命線か太陽線を伴う場合は、たいていは大成功するが、運命線も太陽線も伴わぬ場合は人生の敗残者に終るというのが、この相の通念です」とある。どことなく当たっているような気がする。いずれにせよイチかバチかの人生のようだ。BJ先生はくっきりした運命線もお持ちのようなので、たぶん大成功するほうなのではないかと思うのだが、どなたか手相に詳しい方はいらっしゃらないだろうか。

・筆跡
BJ先生の筆跡は、あのメキシコのひょうたん人形に見ることができる(「研修医たち」)し、「黒潮号メモ」のラストでフィリピン人夫婦に残した手紙(日本語で書いても彼らには読めないと思うが)でもはっきりわかる。数字なら「ピノコ還る」でお金の勘定をしているシーンに見える。あとは、「刻印」での間久部の指の骨に書いたサイン(これはもう見ることはできないか……)とか、「一ぴきだけの丘」で切った小切手とか、「ダーティー・ジャック」で書いたメモ書きとかに残されているはずだ。言うまでもないが、BJ先生の筆跡は手塚治虫の筆跡にそっくりである(笑)。印象としては、太い線でグリグリとはっきりくっきりした字を書きそうだ。

・暗号
Photo_2ただひとつ自由にできる呼吸を使ってなんとか意思を伝えようとしたのは「信号」の患者だが、「幸運な男」の扉絵に簡単な暗号もどきが1つある。
ピノコ「CAOBRCED KEOFNDHOINJOK OLPMENNOOP RQERNSSTHUUV?
BJ「SAOBDCAD!
赤字だけ拾って読むと、
ピノコ「CORE KONDONO OPENO RENSHU?(これ今度のオペの練習?)」
BJ「SODA!(そうだ!)」
となる。間にアルファベットを順番に入れていったものだが「G」が抜けているのがご愛嬌。それにしても、キュウリを刻んでオペの練習なんて……。

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ハングル

きょう、アクセス解析を見ていて「言語 ko(Korean)」となっているものを見つけた。どうやら韓国のネット検索ポータルサイト「ネイバー(NAVER)」経由で拙ブログに来られたようだ。逆に辿ってみると、こんな画面が出た。おお、ハングル! 見慣れた画面なのになんだかとっても新鮮だ(笑)。

せっかくだからと、ネットで簡単なハングル文字表のページを探し出し、それと照らし合わせてなんとか人名だけでも読めないものかと頑張ってみたのだが、いやはや難しい。ハングルは子音が19音、母音が21音もあるそうで、表に載っていないものが多すぎる。

しかし母音が21音なんて、驚きだ。表を見ると「o」だけでも4種類もある(まだあるかもしれない)。日本語の母音は5音。古代日本語でもやっと8音だ。ここ出雲地方で考えてみると、出雲弁には古代日本語の名残があって、ウムラウトのついた発音ができる人が多く、母音の数は多少増える(←しかしこれらの人々はウムラウトを取った母音の発音ができなかったりする・笑)。韓国の人は母音を21も聞き分けているのだろうか。すごいナ。

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(備忘録090627)

少しばかりB○○K ○FFに売りに行こうと思って、主に文庫本と新書版の中から選別中。基準は、今後もう一度読むかどうかということと、これからも入手できるかどうかという点だが、やっているうちにだんだん判断がつかなくなってきた(汗)。1000冊くらいになりそうだが、さていくらになるかな。

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ベンの人

"King of Pop" Michael Jackson has died.

きょうは一日中このニュースで持ちきりだった。享年50歳。ジョン・レノンにしてもエルヴィス・プレスリーにしても40代の若さで亡くなっているから、ビッグ・アーティストには短命の運命がつきまとうのかもしれないと思ったりした。

マイケル・ジャクソンという個人名を初めて聞いたのは、1972年にラジオから流れてきた「ベンのテーマ」を聴いたときだった。ジャクソン5のメンバーの一人だというのもそのとき知った。それはそれは綺麗な歌声だった。後に映画『ベン』を観たのも、もう一度あの歌を聴きたかったからに他ならない。

後に「スリラー」がヒットしたときも、だから私には「ああ、あの、ベンの人だ」という印象が強かった。どんなに顔が変わろうとも、やっぱり私には「ベンの人」だった。たぶんこれは未来永劫変わらないのだろう。

If they had a friend like Ben...

近年は健康にかなり問題があって鎮痛剤などに頼っていたとテレビで観たが、彼にはベンのような心を通じ合わせられる友達はいなかったのだろうか。ご冥福を祈りたい。

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『ダナエ』

『ダナエ』(藤原伊織著)読了。帯にいわく、「博打を愛し、酒を愛し、煙草を愛し、放蕩と逸脱を愛し、そして逝った作家」のこれが遺作であるらしい。前から気になっていた作家さんだったが、読むのは初めて。

表題作の『ダナエ』、『まぼろしの虹』『水母(くらげ)』の3編。いずれも何かを背負った男達が出てくる。それは過去の悔恨であったり、現在の不遇であったりするが、彼らはとても優しい。そして愛する者を守るためには限りなく強くなる。そんな彼らの心の機微がハードボイルドタッチの文章で描かれていて、それが不思議な叙情性を帯びて、とても綺麗で物悲しいものになっている。うん、こんな男っていいナ、と思わせられた1冊。

……ああ、それで、帯に「いい男感想文」募集のお知らせが付いているのか(笑)。

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さらば 絶対の春

東国原知事の一件は、近来稀に見る痛快な出来事だった。これで自民党がどう出るか見ものだが、きょうは別の話題。ちょいと生々しい内容なので、記事を隠します。テーマは「女性の身体の変化」についてです。興味のある方だけお読みください。

続きを読む "さらば 絶対の春"

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(備忘録090623)

梅雨の晴れ間の一日。夫が休みなので一緒に美術館へ行こうと思っていたのだが、第一候補も第二候補も火曜日休館。アッチョンブリケだ。結局、夫は釣りに行き、私は書店を巡っていた。『ダナエ』(藤原伊織著)と『アヒルと鴨のコインロッカー』(伊坂幸太郎著)を購入。他にやらなくてはいけないこともあるけれど、ただいま読書に没頭中。

最近、家の周りで2匹の子猫を連れた母猫をよく見かける。目が合ったので「ちょっと待ってて」と話しかけ、残飯のアジの頭と骨を持ってきて縁台の上に置いたら母猫だけ食べにきた。ガラス戸越しに覗いている私を気にしつつガツガツ食べる。そのうちに子猫が鳴き出したので慌てて子猫の元へ帰って身体を舐めてやっている。頑張ってるな、おかあちゃん! 2匹とも元気に育つといいな。数時間後に見たら、アジの骨は綺麗になくなっていた。

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手塚治虫の祈り

前回の『週刊手塚治虫』の内容をメモ書き。ゲストはみうらじゅん。その肩書きの多さに、「あるときはイラストレーター、あるときはミュージシャン、あるときは……」と、多羅尾伴内のような紹介をされていた(笑)。私にとっては、仏像ファンであることと、Tom Jones の“If I Only Knew”に『恋はメキメキ』という邦題を付けた人物という認識が大きい。

1980年、「ガロ」でマンガ家としてデビュー。子どもの頃からマンガは描いていた。手塚治虫等が書いた『マンガのかきかた』という本を愛読していた。そこで気付いたのは、自分に欠けているものがあるということ。表現したい気持ちだけが大きくて、テーマがない。後に等身大の自分を認めたらテーマができてきたが、当時は自分に何もないことがコンプレックスになっていた。

高校生のときに読んだ『きりひと賛歌』。当時『ブラザーサン・シスタームーン』という映画を観た後だったのでスムーズに入れた(←懐かしい映画! 主題曲もヒットした)。松本清張の小説などと同様に、社会に裏があることにも興味があったが、「どうするんだろうこの人は?」とドキドキワクワクしながら読んだ。桐人にたづが迫るシーン、「ただヤらしいもんとして喜んでいた」(笑)。主人公にとって試練の第一段階。(桐人がきっぱりと拒絶することは)高校生には「たまらん選択」だった。大人になって読み返してみて、桐人の悲しいまでの誠実さと、自分にはそれが欠けていることに気付いた。

モンモウ病によって次第に容貌が犬になっていく桐人(試練の第二段階)。精神的、思想的に変わるなんてのは口先だけのこと。顔かたちが変わり、生活全部が変わってしまうことは、とても頭で考えられることではない。追い込まれて自分を無くして初めて見えてくるもの、それは人への思いやりと誠実さ。追い込まれた人間がどうするか、どういう行動を取るか、そこに「人間の価値」が表れる。桐人の受難の旅は「自分探し」ではなくて「自分無くし」の旅。自分を無くして人を救う、これが手塚のテーマだと思う。

モーションまんが「からだが石に」。『きりひと賛歌』をよりキャラクター化したのが2年後の『BJ』。桐人が直球なら、BJは変化球。人にどう思われても良いというのは自分が無いということで、これがBJのクールさになっている。人のために生きる。自分の意思ではなく大きなものに動かされている。(きっかけは)日常に転がっているけれども、人間は追い込まれないとわからない。また、手塚治虫はよくタブーに挑戦している。そして結末は決してハッピーでないことが多い。未来は明るくない。「けれども!」。この「けれども!」というのが手塚治虫の祈りなのではなかろうか。仏教的(な見方)だと思う、とのこと。

モーションまんが「身代金」、「絵が死んでいる」。

映画プロデューサーの松橋真三(映画『MW』にも携わっている)が選んだ1冊は『アドルフに告ぐ』。正義が見えない、価値観がすぐにひっくり返る世界にどう生きるか。

読者からのお便りは30代女性。『プライム・ローズ』のタンバラ・ガイの言葉に感銘を受けた。手塚まんがに描かれる闇の部分も取り上げてほしい。

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今回はなかなか面白かったし、考えさせられることが多々あった。みうら氏は、同じ漫画家として手塚治虫を見ると自分が描いているものはとてもマンガとは呼べない、と言っていた。ただ表現したいという思いだけではダメだということなのだろう。私が感じる手塚マンガの特徴は、読者の共感を得るところまでで終わっていないということだ。たぶんそこまでなら大方の漫画家ができる。手塚のマンガは、そこから先が勝負なのだと思う。読者は、自分ならどう行動するかを散々考えさせられる。

おそらくみうら氏が仏道にも詳しいという理由からだろう、番組では「無私の社会貢献」に焦点が当たったような構成になっていたが、彼が本当に言いたかったことは、人間は追い込まれて初めて己が何者であるのかがわかる、ということではなかったかと思う。極限まで追い詰められたとき、人はどんな生き方をするのか。人間誰だって闇も抱えていれば悪意もある。「けれども!」良い方向へ向かってほしいというのが手塚マンガの一番大きなテーマなのだろう。だからこそ、闇も悪も大きくクローズアップして描かれる必要がある。いや、闇だ悪だと明確に判別できればまだ良い。それが混沌としているように思える世界に、自分はどう生きるのか? 

今回で『BJ』に関したプログラムは終わったけれども、ゲスト各人がそれぞれの立場から語った『BJ』論、手塚論は楽しかったし面白かった。BJの生き方はある意味で理想的だと思う。代償も限りなく大きいが、自分なりの価値観、自分で決めた倫理に従って生きている。世間的な正義などクソくらえだが、決して自分勝手ではなくどちらかといえば謙虚に生きている。小さい悪事は数限りなく働くが、BJの天秤は結果的に大きな善の方に傾く。そんなふうなことを手っ取り早く表現しようとすれば、番組に多く使われた「愛」だの「思いやり」だのというムズ痒い言葉になってしまったのだろうと思う。

誰もがBJのように生きられるわけではない。誰もが桐人やシスター・ヘレン・フリーズのように強くなれるわけではない。「けれども!」そこで諦めないでほしいというのが、手塚治虫の最大のメッセージであり祈りなのだろう。

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夏至

●兄と一緒に母に会いに行く。つい一週間前には職員さんがちょっと目を離した隙に脱走してしまい(笑)、あわや警察に捜索願いを出そうかという大騒ぎになったが、きょうはそんな兆候は微塵もなく、穏やかにニコニコしていた。

●夕方歩いた道に、くちなしの甘くて濃厚な香りが満ちていた。調べてみると、日本には古くから自生していた植物らしいのだが、不思議なことにこの花の芳香について歌った和歌というのが見当たらない。『国歌大観』をひっくり返して探しても、見つかるのはいずれもクチナシの果実から取った染料についての歌ばかりである。香りよりも色、花よりも果実を珍重された気の毒な花ではある。

山吹の花色衣ぬしやたれ とへどこたへずくちなしにして
   <素性法師・古今和歌集1012>
 (これは「口無し」にかけた言葉遊び)

みみなしの山のくちなしえてしかな 思ひの色のしたぞめにせむ
   <よみ人しらず・古今和歌集1026>
 (「耳無し」に「口無し」。本当に耳成山にはくちなしが生えていたのだろうか)

●きょうは夏至。「夏至」なんていう新しい用語は和歌に使われているはずもなく、代わりになる言葉といえば「短夜(みじかよ)」あたりだろうか。

ほととぎす鳴くや五月の短夜も ひとりし寝れば明かしかねつも
   <『三十六人撰』では柿本人麻呂作となっているが、『万葉集』では作者未詳歌>

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お金は力

先週の『週刊手塚治虫』の内容のメモ書き。

ゲストは経済アナリストの森永卓郎。「報復」の生原稿を見ながら。BJは反権力。また金が正義という新自由主義にも反抗している。しかし、弱者と同じ気持ちではあるが一緒になって闘うわけではない。本人はガンガン儲けて医療に役立てている。(←医療にだけ役立てているわけではないが、弱者と一緒に闘うのではないという指摘は的確だと思った)。ここでモーション漫画「ダーティジャック」。お金持ちの子を道具に使うBJ。「金持ちはざっくり言うと悪い奴」(笑)。「地下壕にて」の紹介。ルールを守っていれば何をやっても良い、ではなくて、捕まらなければ何をやっても良いというのが、新自由主義者の特徴。BJは取れる奴から取っている。

ここでBJの思いやりということに話が飛んで、モーション漫画「助っ人」。BJは100%正義ではない。悪いこともやるが、助けを求める人の元へ行かざるを得ない優しさを持っている。完全な正義の人や完全な極悪人はいない。だから悩む(悩むヒーロー像。アトムも専守防衛)。そこに手塚の人間性が表れている。

「手塚治虫展」の展示物を見ながら手塚眞さんの話。机には拘らない人だった。板さえあればどこででも描ける。顔に当たらないように軸が短く切ってあるペン。「来るべき世界」「新宝島」の念入りな下書き。絶筆「ネオ・ファウスト」のネーム。病室のトイレで練った「トイレのピエタ」の構想。

再び森永氏。話題は手塚作品の共通のテーマへ。一番価値のあるのは「愛と平和」であり、これは他人に対しての思いやりの心である。しかし自分の力だけではどうにもならないことがある。諦め、絶望感がBJのニヒルさではないか。全ての人がBJのような人間になれば良い世界になる。医者がすべてBJのようであり、道行く人が困っている人に即座に手を差し伸べるのであれば、介護保健制度だの何だのがなくても社会は回るんじゃないか。(←全ての人間がBJのようになれば、反抗すべき相手もまたなくなるので、これは空論。ただ後半の主張には個人的に大賛成)。BJは(金の力という絶対的なものに対しての)曖昧な優しさ、義理人情の世界に生きている。

モーション漫画「ちぢむ!!」。「神様とやら! あなたは残酷だぞ」(←このセリフに私は鳥肌が立った。大塚さんグッジョブ!)。読者は答を知りたいのに、手塚は結末を全面投げ出ししてしまっている(風景に投げ出す、俳句的手法)。しかしそこに共感が生まれる。手塚もBJも悩み続ける。ここまで心を揺さぶられる一コマはなかなか無い。

森永氏の話はここまで。国際弁護士の湯浅卓が「鉄腕アトム」を語るが、省略。読者からのお便りは、40代女性から。BJは善と悪のバランスが良い。

さて! 今回最大の見所は、手塚治虫の机の上にあった鉛筆書きの原稿だ! アナログ録画しかも3倍速という悪条件ではハッキリ見えないものの、これ……『BJ』だ。BJとピノコが「あれは人間か?」というような話をしている。ピノコが「こんぼうもって ねゆ」、次の海に上る朝日のコマで「おはよ」などと言っているのが読み取れる。発表された『BJ』全243話にこんな話は無い。とすると、これは……。未発表原稿だ! うわーーーー(大興奮)!! 『BJ』に関しては、手塚治虫は1週間に3つほどのストーリーを考えてそのうちの1つを採用していたという話を読んだことがある。ならば、これはボツになったストーリーの1つか、あるいは妄想を逞しくすれば未完に終わった『火の鳥』の現代編にBJが絡んでいるところかもしれない。コマ割りから見て、どうやら最終ページのような感じがするが、このネーム原稿を最初から最後まで見せて欲しいなーーーー!!! NHKさん、お願い! あるいは手塚プロさん、『BJ』幻のストーリーということで本にしてくれないかな。絶対買いますぜ。

会期も残り少なくなった「手塚治虫展」、これから行かれる方があったら、手塚先生の仕事机の上の原稿に是非注目してみてください!

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PCが返ってきました

本日やっとPCが返ってきました。修理内容を見ると、メインボードやTVチューナ、キーボードなどが交換してあります。保証期間内だったので無料でしたが、期間外なら10万円以上かかる修理だったようです。不幸中の幸いでした。皆様も、水気には充分お気をつけください。

PC、無いなら無いでどうにかなるものですね、ちょっと寂しかったけど。PCがあるときの5割増し読書がはかどって『私の履歴書 知の越境者』(白川静 中村元 梅棹忠夫 梅原猛/著)、『MW-ムウ-』(司城志朗著)、『1Q84』(村上春樹著)などを読んだり、日がな一日乳癌についての本を書き写したりしていました。なかなか有意義に過ごせたように思います。

『私の履歴書 知の越境者』は以前に伯母がコピーを送ってくれていたのを紛失したので新たに買ったもの。私の実家は中村元さんの生家とは遠い親戚に当たる(何故だか我が家の過去帳に中村家の人の名前があったりする)ので、なんとなく聞いたことのある人名などを探しながら読んだりしました。が、どうして中村家の人がうちの墓に葬られているのかなどはわかりませんでした。

『MW-ムウ-』は映画のノベライズ版で、原作とは多少趣きが異なっていました。ただ、賀来神父はこの小説のほうが魅力的かもしれません。結城には敵わないと知りつつも原作ほどには彼に翻弄されることもなく、キャラが立っていました。結末は……書かないほうが良いですね。

予約して何日も待ってやっと入手した『1Q84』、上下巻を1日で読みました。オ○ム真理教事件に材を取った小説と聞いていましたが、宗教臭さはありませんでした。今はどう感想を書いたらよいのかわからないのですが、もうちょっと私の中でこなれてきたらそのうち書くかもしれません。私にとっては『ノルウェイの森』ほどの衝撃はありませんでしたが、村上流のワンダーランド、実感が追いつかない世界に放り込まれる感覚には、いつもワクワクします。

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私信

こざるさん
ののこさん

そんなわけで、校正休ませてください。
こざるさんのBBSに書こうとしたんですが、エラーが出て書き込めず。ここを読んでくださってると良いけど・・・

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お茶をこぼしました

PCにお茶をこぼしてしまい、修理に出しました。しばらくネット絶ちです。ショボン。

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ただの照れ隠しだろうか

Photo「ときには真珠のように」のラストシーン。この話は先日の『週刊手塚治虫』でも紹介されたし、ちょうどゲスト出演者のバックがこのシーンを大きく引き伸ばしたものだった。シリーズ中でも5本の指に入る名作であり名シーンだろう。BJの完璧な手術も及ばず、本間先生は亡くなってしまう。ガックリとうなだれて病院の玄関先まで出てきて座り込んだBJの傍らに本間先生の幻が現れて、片手をBJの背中に添えながら最後の教えを垂れる。BJのすすり泣きが聞こえてきそうな、もうこれ以上はない!というほどの名シーン中の名シーンなのである!(握り拳)

ああそれなのに、そこに「中科・上科」はないだろうよ……orz このシーンでは見えないが、そのあと「下科・其他科」と続く。このギャグはどうしてもこのシーンで使わなくてはいけないものだったのですかと、天国の手塚先生に文句のひとつも言いたくなるのは私だけだろうか。

『BJ』中、駄洒落の類は数え切れないほどある。イル国とイラヌ国だの、槍津花市だの、横倍医院の可仁博士だの、思わず笑ってしまう罪のないものが多い。だが、これほどシリアスなシーンでこんなギャグが使われているのは珍しいように思う。

手塚治虫の「照れ隠し」だという説がある。話の流れに関係なくヒョウタンツギやブタナギなどが突然現れるのと同様、それまでのシリアスな流れをぶった切ってホッと一息つかせる役割を担うものである、と。しかしこれはラストシーンだ。ズンと重い結末を茶化す必要があるのかと、どうしても不思議に思われてならない。

以前読んだ推理小説に、「完璧」を嫌う画家というのが出てきたことがある。どこからどう見ても完璧な作品に、よくよく見るとおかしな点がある。目立たぬように指が6本描いてあったりする。それがどういう意味を持っていたかというと、つまりは「魔除け」だったのである。完璧なものは、あとは崩壊するしか道はない。しかし未完成なもの、完璧でないもの(欠落であろうと余剰であろうと)には、完成、完璧への道が開けている。日光東照宮陽明門の逆柱しかり、だ。

先日の『週刊手塚治虫』では、ゲストの高橋源一郎がピノコの不完全さ、人間の不完全さに言及していたが、私はその不完全さにこそ聖性があり希望もあるのだと考える。そしてそのことは、『BJ』というマンガそのものにも当てはまるのではないかと思う。各作品中どこかに明らかにおかしな点や辻褄の合わない点を故意に盛り込んであるのではないかしらん。完璧になることを故意に避けているのではないかしらん。そういう仕掛けが施されているのではないかしらん。あのTVを観て以来、そんなことを考えているのだが、探し出すのも一苦労なら実証するのも難しいことだなぁ……。

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不完全さとピュアな心

Mが昨日の『週刊手塚治虫』を録画してくれた。ありがたや~。

開催中の『手塚治虫展』の会場から番組は始まった。どうやら『BJ』のコーナーで収録されたようだ。ゲストは高橋源一郎。さてその内容をメモ書きしてみると……。

『BJ』の本当の主人公はピノコ。彼女が表現しようとしていることを、BJが毎回頑張って作り出している。彼女は不完全な存在(←ここで「ピノコはロボット」とまで言っているのは、ちょっと言い過ぎかと思う)だが、ピュアな心を持っている。欠けているものの中、ピュアな心の中にこそ、手塚治虫が表現したいものがあったのではないか。ここでモーション漫画「ピノコ愛してる」。(←私にとってこの作品はちょっと微妙な位置にある。誰かのために命を投げ出すピノコはピュアだと評されていたが、正直そんなふうに読んだことはなかった。BJとの間がギクシャクしてヤケのやんぱちな行動のように思っていた。BJの方にピノコを大事に思う気持ちの芽生えは感じられるのだが…)。手塚の作品では無条件で肯定されているものがある。それは、気高い動物と、子どものような存在。

生き物と生命は違う。生き物は死ぬけれども、生命は連続していく(ここで『火の鳥 鳳凰編』の紹介)。生き物は生命を持った不完全な存在である。ピノコは不完全。しかし人間だって不完全である。ここでモーション漫画「ときには真珠のように」。本間先生もBJも完全ではない。どんなに技術を尽くしても自然には負ける(ここで「湯治場のふたり」の紹介)。医者は生き死にとは関係ない。また「ときには真珠のように」に話が戻って、最後に告白をした本間先生のピュアさは救いのあるラストシーンとなっている(偉大な悲劇)。不完全な人間も最期は雄々しく死んでもらいたい、そんなメッセージがあったのでは、と。

手塚治虫の死生観ということで、手塚眞さんのお話が挿入された。いのちというテーマの芽生えは、昆虫の観察と戦争体験から。

モーション漫画「二度死んだ少年」。人を治すとはどういうことか、という問いかけ。また、BJは人間以外にイリオモテヤマネコやクマなどを治しているが、これは平等な命ということで、人間中心主義のヒューマニズムに対して「アンチ・ヒューマニズム」である。あらゆる命(過去や歴史を含めて)を切り捨てることなく考えられたら、今までとは違った見方ができるかも。

高橋さんのお話はここまで。プロレスラーの蝶野正洋登場。医者になることを目指して塾通いをしていた小学生のころ、行き帰りの電車の中で読む『BJ』に憧れた。ニヒルでヒール。BJの孤独感に共感を覚えた。好きなお話は「人面瘡」。善と悪との葛藤ということで、深く人間を語った作品である、と。

最後は読者からのお便り。図書館で見つけた『BJ』に夢中な女子高校生。もっとハマッているのはお母さん(笑)。いろいろ悩みもある年代だけれども相談相手がいない。そんなとき『BJ』は生きていること自体の大切さを教えてくれ、本当に大事なことは何かを問いかけてくれる。

……とまあ、こんな内容だった。先週の予告ではピノコ中心の話題になるかと思ったが、それほどでもなく、ピノコは不完全なものであるという前提から、完全を求めて努力することの尊さが語られていた(のではないかと思う)。不完全さ、欠落が持つ意味については、私も先日いささか考えたところだったのだが、それを克服するために努力するという解釈だけでは、少々底が浅いようにも感じた。手塚治虫は不完全さを当たり前のものとして、むしろ完全なもののほうが異常だと思っているような気がするし、不完全さを否定しているわけでもない。とにかく話があちこちに飛んだ感じで、ちょっと全体に散漫な印象があったのが残念。

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先ほどまで、Mさまのところでチャットをさせていただいていた。お馴染みの皆様方とお話しできてとても嬉しかった。ありがとうございました。m(_ _)m

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(備忘録090605)

退院以来はじめて病院へ行き、夫と二人で外科のドクターから病理検査の結果や今後の治療方針について説明など受ける。もうちょっと遅れていたらえらいことになっていたかもしれないなという感じで、今さらながら少々慄く。来週まで考えさせてもらって希望を言わねばならないが、ホルモン剤治療ということで良いのではないかと思う。

何十年と使った炊飯器が壊れたので、買いに行く。余計な機能がいろいろ付いているのが気に食わないが、そういうのしか売れてない。ただ炊けるだけ、ってのは作れないものだろうか。できるだけ装備の少ない5合炊きを購入。

2軒ほど書店を回るが、村上春樹の『1Q84』は2店とも品切れ。しまった、先日見かけたときに買っておけばよかったと思ったが、そのときには持ち合わせがなかった。文庫本2冊購入。

それだけ動いたらくたびれた。入院以来体力を落とさないようにしてきたつもりだが、やっぱり少々落ちているようだ。おまけに、無意識に傷を庇って動くせいなのか、背中だのわき腹だの変なところが凝って痛い。切ったところの痛みが取れたらモリモリ動いて鍛えるぞ!

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(備忘録090604)

親友Mに、明日の『週刊手塚治虫』をダビングしてもらうため、テープを届けに行く。手土産はアイスクリーム。頼んだぞッ!
7月4日の映画公開を前に、6月30日に『MW-ムウ-第0章~悪魔のゲーム~』というのが放映されるようだ。最近こんなふうに映画公開直前にTVで煽るのが流行るね。

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クイーンの遺作?

『ニッポン硬貨の謎 エラリー・クイーン最後の事件』(北村薫著)読了。

----「一九七七年、ミステリ作家でもある名探偵エラリー・クイーンが出版社の招きで来日し、公式日程をこなすかたわら東京に発生していた幼児連続殺害事件に興味を持つ。同じ頃、大学のミステリ研究会に所属する小町奈々子は、アルバイト先の書店で、五十円玉二十枚を「千円札に両替してくれ」と頼む男に遭遇していた。奈々子はファンの集い「エラリー・クイーン氏を囲む会」に出席し、『シャム双子の謎』論を披露するなど大活躍。クイーン氏の知遇を得て、都内観光のガイドをすることに。出かけた動物園で幼児誘拐の現場に行き合わせたことから、名探偵エラリーの慧眼が先の事件との関連を見出して…。敬愛してやまない本格ミステリの巨匠EQの遺稿を翻訳したという体裁で描かれる『ニッポン硬貨の謎』The Japanese Nickel Mysteryが、十余年の歳月を経て堂々完成。アメリカの作家にして名探偵が日本の難事件をみごと解決する、華麗なるパスティーシュの世界。エラリー・クイーン生誕百年記念出版。」----(「BOOK」データベースより)

この小説の成り立ちは非常にややこしい。エラリー・クイーンの未発表作品を北村薫が10年かけて翻訳したという体裁のパスティーシュ小説になっているからである。上記にあるように、物語は「幼児連続殺害事件」と「五十円玉二十枚を千円札に両替してくれと頼む男」の2つの謎を追って展開するが、実はもうひとつ大きな側面があって、それはクイーンの作品論に立ち入っているということである。『シャム双子の謎』に「読者への挑戦」がないのは何故かという問題に、小町奈々子が著者の代わりとなって持論を展開している。

私がクイーンの国名シリーズを読んだのははるか昔の中学生の頃のことで、内容などもはや忘却の彼方ではあるが、『シャム双子の謎』に「読者への挑戦」がなく、別の作品でクイーン自身がそれを指摘していたことは覚えている。エラリー・クイーンと言えば「読者への挑戦」…と思っていた私としても、それを書き忘れるとはずいぶん迂闊な話だと不思議に思ったことも覚えている。が、そこまでで思考は停止。まさかそのこと自体に(北村薫が言うような)壮大な思惑があったとは。クイーンファンである北村薫の、満を持したクイーン論と言ってよい作品である。何事も興味を覚えて探求していけばそこには必ず大きな実りがあるものなのだと思わせられる労作と言ってもよい。クイーンファンには必読の書である。また和製エラリー・クイーンの法月綸太郎が解説を書いているのも楽しい。

長身痩躯銀色の瞳を持つ本家本元名探偵エラリーの名推理を、また久々に読んでみたくなった。

ちなみに、『競作五十円玉二十枚の謎』 (創元推理文庫) は以前読んだのだが、あまりピンとくる謎解きはなかったような……(ごめんよごめんよ~)。

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点か線か

入院中、自分の「死」についてはほとんど考えることなく過ごしたが、ドクター・キリコについてはいささか思うところもあったので、忘れないうちにメモ書きしておく。

・点 あるいは西洋的な死

古代ギリシアの哲学者のエピクロスはこう言った。
《……それゆえに、死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとつて何ものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きているものにも、すでに死んだものにも、かかわりがない。なぜなら、生きているもののところには、死は現に存しないのであり、他方、死んだものはもはや存しないからである》

「死」をこのように西洋哲学的に考えるならば、この「われわれが存する」状態と「死が現に存する」状態の間のまさに刹那に存在するのがドクター・キリコということになる。「死神の化身」と呼ばれて『BJ』においては「死」の象徴ではあるが、彼は“be dead”となった状態にはもはや存在しない(それを描いたのは『地獄変』であり『ドグラ・マグラ』だ)。また同様に“be alive”の状態にもキリコは存在しない。キリコは「死」をもたらす者であり、生命の最期の一瞬にしか作用しない「死」の概念だ。

一気に腐ってキリジャという創作分野で考えるならば、「生」の象徴であるBJとはその最期において一度きりの刹那の邂逅しかできないのがキリコということになる。BJ(=生)が終われば、キリコ(=死)もその瞬間に同時にその役割を終えるからだ。そしてそのあとは、どちらも存在しない。そういう関係性においては、キリコは「点」の存在となる。

・線 あるいは東洋的な死
その一方で、生まれたときには「生100% 死0%」であったものが徐々に年齢とともに死の割合が増していって最期には「生0% 死100%」になるという死の考え方がある。死は最初から生の中にあるというもので、仏教などではこういう考え方をする。あるいは西洋の“Memento mori”も日頃から死を思うという意味で同様と考えてよいのかもしれないが、しかし“Memento mori”には現世享楽主義的な匂いも多分にするので、どちらかと言えばこれは東洋的な考え方のような気がする。この場合の「死」は「点」ではなくて「線」である。

最初はBJ(=生)優勢であったものが最後はキリコ(=死)優勢になる。BJは決してキリコに勝てないという先日のNHKで半ば公式的になったキリジャ的(?)認識はこっちだ。しかし反面、そもそもBJ(=生)が居なければキリコ(=死)は存在すらできないという事実も忘れてはならない。

・点か線か
キリコという存在が象徴する「死」とは、点か線か。どちらかと言えば、私はこれまで「線」のイメージをしてきた。身に染み付いた東洋的な考え方のせいなのだが、案外、キリコ自身は自分を「点」と考えているような気がする。病気や怪我に苦しんで死を待つばかりの“be alive”なら、一瞬のうちに“be dead”にしてやろう、と思っているのではないか。
BJが「自分は患者を治したいと思っているだけで、死なないようにしたいわけじゃない」と、死をも内包したバリバリの東洋人思考をしているのに対して、キリコが西洋人の設定(だよね?)であるのは、結構深い意味があるように思う。

BJとキリコ。「生」に関しては同じでも、「死」に関してだけは背中合わせになる二人の構図は、そういう東西の死生観の違いからも説明できそうな気がする。

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90000hit きょうは、トーレスさんのサイトがめでたく9万ヒットを迎えられた記念イラストを飾らせていただきます。
『チーム・ブラックの栄光』、なんとBJ先生とキリコ先生がチームを組んで治療に当たっておられます。治せるものならBJ先生がその命にかけても治してくださるでしょうし、治せないものならキリコ先生が安楽のうちに送ってくださるという夢のような状況です。しかし、左上には、何やら剣呑な表情を浮かべた白拍子センセと日本医師連盟会長が……。政治的手腕で病院を私物化せんとする「白い巨頭」チームにとっては、このチーム・ブラックはまさに目の上のタンコブでありましょう。しかもたいていの患者はチーム・ブラックに治療してもらいたくてやってくるので、経営の都合上追い出すわけにもいかず……。「白い巨頭」チームの歯軋りが聞こえてきそうです。きっと小さなことでネチネチと嫌味なことを言ったりしたりするのでしょう。(^m^)ぷぷぷ
トーレスさん、いつも楽しい美麗イラストをありがとうございます。いつもながら隅々までユーモアの溢れた(お二人のマグカップの柄とか)作品を前にニマニマさせていただいております。最後になりましたが、9万ヒットおめでとうございます。これからも貴サイトに益々の幸あらんことを!

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