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ただの照れ隠しだろうか

Photo「ときには真珠のように」のラストシーン。この話は先日の『週刊手塚治虫』でも紹介されたし、ちょうどゲスト出演者のバックがこのシーンを大きく引き伸ばしたものだった。シリーズ中でも5本の指に入る名作であり名シーンだろう。BJの完璧な手術も及ばず、本間先生は亡くなってしまう。ガックリとうなだれて病院の玄関先まで出てきて座り込んだBJの傍らに本間先生の幻が現れて、片手をBJの背中に添えながら最後の教えを垂れる。BJのすすり泣きが聞こえてきそうな、もうこれ以上はない!というほどの名シーン中の名シーンなのである!(握り拳)

ああそれなのに、そこに「中科・上科」はないだろうよ……orz このシーンでは見えないが、そのあと「下科・其他科」と続く。このギャグはどうしてもこのシーンで使わなくてはいけないものだったのですかと、天国の手塚先生に文句のひとつも言いたくなるのは私だけだろうか。

『BJ』中、駄洒落の類は数え切れないほどある。イル国とイラヌ国だの、槍津花市だの、横倍医院の可仁博士だの、思わず笑ってしまう罪のないものが多い。だが、これほどシリアスなシーンでこんなギャグが使われているのは珍しいように思う。

手塚治虫の「照れ隠し」だという説がある。話の流れに関係なくヒョウタンツギやブタナギなどが突然現れるのと同様、それまでのシリアスな流れをぶった切ってホッと一息つかせる役割を担うものである、と。しかしこれはラストシーンだ。ズンと重い結末を茶化す必要があるのかと、どうしても不思議に思われてならない。

以前読んだ推理小説に、「完璧」を嫌う画家というのが出てきたことがある。どこからどう見ても完璧な作品に、よくよく見るとおかしな点がある。目立たぬように指が6本描いてあったりする。それがどういう意味を持っていたかというと、つまりは「魔除け」だったのである。完璧なものは、あとは崩壊するしか道はない。しかし未完成なもの、完璧でないもの(欠落であろうと余剰であろうと)には、完成、完璧への道が開けている。日光東照宮陽明門の逆柱しかり、だ。

先日の『週刊手塚治虫』では、ゲストの高橋源一郎がピノコの不完全さ、人間の不完全さに言及していたが、私はその不完全さにこそ聖性があり希望もあるのだと考える。そしてそのことは、『BJ』というマンガそのものにも当てはまるのではないかと思う。各作品中どこかに明らかにおかしな点や辻褄の合わない点を故意に盛り込んであるのではないかしらん。完璧になることを故意に避けているのではないかしらん。そういう仕掛けが施されているのではないかしらん。あのTVを観て以来、そんなことを考えているのだが、探し出すのも一苦労なら実証するのも難しいことだなぁ……。

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