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2009年8月

脳死問題

BJは脳死についてどう考えているのか。

・「二度死んだ少年」では、自殺を図り脳死状態となった少年を、「脳実質に電気刺激を与え」ることで蘇らせている。
・「植物人間」では、脳死状態の母親とその息子トッペイの脳をコードで繋ぎ、母親の脳に電気刺激を与えるとトッペイの脳に母親の声が聞こえるという実験成果を得る。

この二つの例では、ともに脳は生きていた。つまり脳死の判定を下したこと自体が間違っていたわけで、それは即ち身体の不思議さと脳死判定の難しさの指摘であり、ひいては脳死判定の基準を設けることの是非そのものへの倫理的な問題提起ともなっている。

・「からだが石に……」では、脳死状態となった赤ん坊に、その兄の脳を移植する。
・『ミッドナイト』最終話では、脳死状態の少女に、ミッドナイトの脳を移植する。

Photoこの二つの例では、BJは脳死を死と認めている。いや、認めているという言い方には語弊がある。脳死を死ということに決めたのである。『ミッドナイト』では「おれは生まれてはじめて 恐ろしく冷酷な決定をくだすぞ」という決意のもとに「生命維持装置をはずしたまえ。この患者はもうとっくに死んでいる」と裁定を下している。相当の覚悟が要ったであろうことは想像に難くないが、しかしこれは「植物人間」で悪あがきとも思えるほどに脳死を認めなかったBJとも思えぬ変節ぶりとも受け取れよう。BJははたして脳死をどのように考えているのか。

基本的にBJは脳死を人の死とは思っていない、と私は受け取った。それ以前の問題として、脳が死んでいると証明することは人間には(いまの医学では)不可能だと考えているように思う。「植物人間」で、彼はこんな話を引いている。「スペインのいなかで死んで四日たった男が生きかえった例がある。この男は心臓どころか脳波も止まっていた……そこで家族が棺桶へいれてお通夜をしていたとき 突然ムクムクと起き上がって助かったんだ。その男にわたしも会ったがね 自分ははじめから意識もあって生きてることをまわりに知らせたかったが 身動きもできなくってすごくつらかったといっていたよ」。(注:「心臓どころか脳波も止まっていた」は「脳波どころか心臓も止まっていた」の間違いか?)

では、「からだが石に……」と『ミッドナイト』最終話でのBJの行動はどう捉えればよいのか。上に挙げた4話は本誌の掲載順に沿っているので、その間にBJの考え方に変化があったと考えられないこともない。しかしそれだと「おれは生まれてはじめて 恐ろしく冷酷な決定をくだすぞ」という覚悟にそぐわないように思う。BJ自身、自分の考えを「冷酷」だと言っているのだ。脳死を死と認めているならそんなことは言わないだろう。

BJは変節などしていない。彼は脳死の判定を人の死とは認めていない。ただ彼は「脳死と判定された人間」よりは「議論の余地なく間違いなく生きている人間」の方を優先するのだ。これは終始一貫している。「二度死んだ少年」では、生き返らせた少年がまさかすぐに死刑になるとは思っていないから、単に死の淵にいる少年を蘇らせるべく治療に当たっている。「植物人間」では、息子が母親の死を受け入れておらず、まだ生きていると思っている。BJは彼の願いを叶えるために母親が生きていることを証明する。「からだが石に……」では、誰もが死んでしまったと思っている赤ん坊よりその兄の難病を治すことを考える。『ミッドナイト』最終話では、死にかけているミッドナイトの命を救うために、脳死状態の恋人の身体を犠牲にする。いま生きている人間、生きていてほしいと誰かが思っている人間を優先して救うことにおいて、BJの行動は一貫しているのだ。そのためになら、BJは脳死を人の死であると自分の覚悟と責任のもとに「決める」ことがある。

脳死ははたして人の死なのか? 臓器提供の意思にも関連して、いまや誰もが無関心ではいられない問題となった。たいして議論も尽くさずに国会で決めてしまってよいものだとはとても思えない。ところで、ネットを漂流していて次のような記述にぶち当たった。「脳死判定後、臓器を取り出すときは「麻酔をかけて」臓器を取り出すそうです」。真実かどうかは知らない。しかし真実だとすれば、現場の医師もまた脳死の判定に疑問の余地があると思っていることの証拠にはならないだろうか。

Photo_2【なお、「植物人間」では、トッペイの母親を脳死状態にしてしまったのはBJのミスだと他の医師に言われている。海難事故で救うべき怪我人の順番を間違えたと指摘されているのだが、これをBJのミスとするのはいかにも可哀想な気がする。BJはおそらくトッペイ母子とは違うボートにいて、別の怪我人の手当てをしていたのだ。しかし、彼は非難されても一言も弁解していない。そう思われても仕方ないと思っていたのか、そんなことは問題じゃないと思っていたのか、そのあたりはよくわからない。しかしとにかく、BJの関心は本当に脳死なのかどうかだけに向いている。トッペイが「生きています!!」と言い張る限りにおいて、BJにはそれを証明することが使命であったわけである。どんな状態であったとしても母親に生きていてもらいたいと思う息子の心情を、BJほどよく理解できる医師は他にはいまい。】

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政権交代の日

いやもう壮観! 開票番組を観ていたが、瞬く間に日本が真っ青になっていった(民主党は青、自民党は赤)。

小選挙区では町村信孝、武部勤、与謝野馨、小池百合子、野田聖子、伊吹文明、山崎拓、久間章生らが軒並み負けた。小泉チルドレンの佐藤ゆかり、片山さつきも負けた。いずれも重複立候補で当選だろうが、それにしても小選挙区制は怖いなぁ。

わが島根県はやはり1区2区とも自民党。お隣の鳥取県も2人とも自民党。全国的に政権交代を望んだ今回の選挙でこの結果とは昨今珍しいやね(笑)。しかし民主圧勝という一党独裁状態も危ういといえば危ういのだから、パワーバランスを考える上ではこういう選択もアリかと思う。

しかし民主党の政権になったら、あの国営マンガ喫茶とか日本年金機構とか消費者庁とかの構想はどうなるのだろう。しばらくてんやわんやが続きそうだな。

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明日は選挙

いよいよ明日は衆院選。島根県の候補者は以下のとおり。

 ◇島根1区
石飛育久  31   共新
小室寿明  48   民新=[国]
池田健一郎 29   諸新
細田博之  65(6)自前=[公]
 ◇島根2区
亀井久興 69(5)国前=[民][社]
竹下亘  62(3)自前=[公]
相浦慎治 41   諸新

おそらく政権党が変わる歴史的な選挙になるだろうけれども、わが島根1区は自民党幹事長の細田さんが堅いと思われる。きょうも選挙カーを見たが、ご本人の顔は見えなかった。今回は一度も地元に帰らない選挙戦だったようで、つまりそれくらい自信があるということなのだろう。(←この文章は間違っていました。2日ほど帰られたそうです。お詫びして訂正します。090830)
島根2区は激戦か。国民新党幹事長の亀井さんと、竹下登元首相の弟でDAIGOの大叔父の竹下さんの因縁の対決である。前回2005年の総選挙では、竹下さんが勝って、亀井さんは中国ブロック比例での復活当選だった。保守王国島根だから今回も竹下さんか、とは思うが、民主党が政権を握れば「保守」ではなくなって野党になってしまうわけで……。大局を見て勝ち馬に乗るか、古くからの付き合いを大事にするか、判断を迫られている人は多いのではないかと思う。

新聞記事にあったのだが、細田さんの応援で、ある市議が「政権が変わろうとも、党幹事長の経験を生かして、島根のために十分働いてくれる候補者だ」と言ったという。地方の政治家がいかに地域に密着しているかを如実に表す言葉ではないかと思う。国政選挙において、島根のために働くとアピールするのは、有権者をバカにしている。と、私は思う。国会議員は国のあり方や方向性を決めるためにいる。島根のために働くのは県議会議員だ。地元に有利なことをしてくれると言えば有権者が食いつく、と思われているようなのがなんとも腹立たしい。利権絡みの思惑や因習的な考え方を捨てて、マニフェストで候補者を選ぶことができるかどうか、本当の民主主義が問われているような気がする。

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佐藤愛子さん

NHK『生活ほっとモーニング』に佐藤愛子さんが出ておられた。85歳におなりだというが、いやいやまだまだお若くて美しい。

女流はほとんど読まない私だが、この人のエッセイは大笑いできるから大好きだった。愛子さんは私の母の年齢に近いし、愛子さんの娘の響子さん(というお名前だったと思う)が私と同年齢ということもあって、愛子さん母子と私たち母子を重ね合わせて読んでいたようにも思う。響子さんの影響でロッド・スチュアートやクィーンを聴いたりなさるというのを読んで、うちの母にもELPを聴かせようとして失敗に終わったこともある。また、愛子さんのなんとも人を食ったようなユーモラスな性格と、すぐにカンカンに怒るところも、私の好みにピッタリだった。

そう、この人は「怒りの愛子」の異名を取るくらいによく怒る人なのだ。しかしそれが真っ当な怒りであるために、読んでいる方は「行け行け!もっと怒れ愛子!」とエールを送りつつ溜飲を下げているのである。誠に小気味よい。何かのエッセイの中で、何かについて誰かにしつこく理由を訊かれて「理由なんかない!」と怒っている愛子さんに私は憧れた。なんと男前な(笑)! 怒るべきときにしかるべく怒ることのできる人は立派だ。 

きょうの番組では、新作『院長の恋』の中からいくつかのシーンが紹介されたり、父・佐藤紅緑、兄・サトウハチローなど個性派揃いの佐藤家の思い出や、親しかった遠藤周作と川上宗薫のことなどが語られていたが、その中で印象深い言葉がひとつ。「悪意には立ち向かいようがあるが、底抜けの善意に対しては立ち向かいようがない」。けだし名言である。きっとそういう経験をなさったことがおありなのだろう。豪快でサバサバした印象のある愛子さんが、底抜けの善意というぬらりひょんを前にして怒ることもできずほとほと困り果てておられるのが目に浮かんでまた笑う。

愛子さんは「小説は構築力がいるので、この作品集で最後と思っている」と言っておられた。「もう何もやり残したことはない」とも。そうおっしゃらずに、面白おかしく読めるのに読後に哀切感が残る愛子さんならではの作品をまだまだ書いていただきたいと思う。

佐藤さんが色紙に書かれた言葉は「人生は美しいことだけ 憶えていればいい」だった。波乱万丈な人生を彷彿とさせる。

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読書感想文

本日、「銀河鉄道の夜感想文 三枚も書かなくちゃいけない」という、なんだか同情のお返事を出したくなるような検索フレーズで拙ブログに来られた方があった。小学生かな? 中学生かな? この記事を読まれたようだが、まったく『銀河鉄道の夜』と関係ないので、たいへん申し訳ない。

夏休みの宿題も追い込みの時期だろうが、読書感想文が最後に残っているのは気が重いことだろう。ましてや図書まで指定されているとは不自由な。本当に感動したり何かを深く考えさせてくれる作品なら、別にマンガでも何でも自由に選べば良いと思うけどね。

『銀河鉄道の夜』か……。私にとってはどこから手を付けたらよいのかわからない大作だけれど、反面どこからでも手が付けられると言えないこともない。一番印象深く覚えているのは「蠍の火」の話だが、これだけを抜き取って宗教論に持っていくことも可能だろうし、物語全体の趣旨から言ってもそれほど大きくはズレないと思う。あるいは、最初の方で、カムパネルラがジョバンニをいじめる方に回ったシーン(が確かあったと思う)だけを取り上げて、カムパネルラの心理に迫るのもおもしろそうだ。

いずれにせよ、大人でもたった3枚で『銀河鉄道の夜』の感想を思う存分書けるわけもないのだから、一番印象的だったシーンを選ぶだけでも、読書感想文としてはOKだろうと私は思うヨ。

↑上でリンクした記事にも書いたけれども、読書感想文というのは実に良し悪しの存在で、義務だと思うと極めて面白くない。これで読書が嫌いになるという意見もあるやに聞いているが、それは真実かどうか私にはわからない。読書感想文が嫌だというのは、読書が嫌だからなのではなくて、むしろ自分の感想や考えをうまく(というのは必要にして充分にという意味だが)書けないからではないかと思う。読書感想文というのは、よっぽど読解力や想像力が不足している場合を除き、読書力ではなくて作文力や表現力が問われるものであるかもしれない。つまり、「読む」より「書く」なのだ。

「書く」作業というのは、「読む」よりは遥かに頭を使う。難しい。ましてや自分の好き勝手なことを書く日記などと違って、読んだ本の内容に沿ってそれなりに書かなくてはならない。能動的な勉強方法としては、かなり高度な方法であると思う。だから、学校の先生が子ども達に是非やらせたい宿題であろうこともまた頷ける。まぁ1年に1回のことだし、自分の思いを伝える文章を書く訓練はしておいたほうが良い。「三枚も書かなくちゃいけない」さん、頑張ってください!

【ちなみに、上の文章で1100文字。あと100文字ほどグダグダ書けば3枚になる。なんだかな……。もうちょっと要点をビシッと短く書く練習をしなくてはならないと思う今日この頃。そんなこんなで、これで3枚です。】

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(備忘録090826)

8月もあと5日を残すのみ。今年の夏は短かったなぁ。昨夜なぞ寒くて夜中に毛布を引っ張り出したりした。調べてみたら最低気温が18度と例年より4度以上も低く、9月中旬並みの気温だったようだ。

夏の終わりは何がなしに寂しい。寂しいといえば、今年の夏は『ルパン三世』の新作をやらないのだろうか。春にコナンと共演していたが、あれで今年の分は終わりだったとすれば残念だ。夏の風物詩になっていたのに。あとは、恒例の『24時間テレビ』で夏も終わりというところか。……あ、選挙があったナ。衆議院を解散してから日にちが経ちすぎて、すっかり弛んでしまった感じがする。

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり   蛇笏

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「ひと口ちょうだい」

『踊る!さんま御殿!!』を観ていたら、「一緒に食事をすると必ず『ひと口ちょうだい』と言う友人が嫌い」という話題があった。「私も大嫌い」と言ったら、珍しく夫と意見が一致した(笑)。男同士ではそんなこと絶対に無いそうだ。でも、番組ではほとんどの出演者(女性ばかりだったが)が「自分もやる。楽しいじゃない?」と言っていた。へぇ、そんなことが楽しいんだ?!

こと食べ物に関する問題だから、他人のものまで欲しがるのは卑しい、と言えば、ひと口も分け与えられないほど自分の食べ物に執着するほうが卑しい、と言われそうだし、この嫌さの理由はどう説明したらよいのだろうな。別に自分の分に執着しているわけでもないのだが……。

夫が「ひと口くれ」と言うなら全然かまわない。家族でもOKだ。親友Mなら……やっぱりOKかな。あとの人類はすべてダメだ、気分的には。却って犬猫その他になら喜んで分けられると思うのは何故だろう(笑)。

テリトリーの問題かもしれないと思う。おそらく私のテリトリーは「ひと口ちょうだい」と言える人のそれより狭くて、境界線をはっきりさせておきたいものなのだ。自分の領域にあるものは自分の物であり、自分の領域の外にあるものは決して自分の自由にはできないものだという意識があるような気がする。だから、私の方から「ひと口ちょうだい」と言ったことは一度もないし、これからもないだろう。

惜しいとか惜しくないの問題ではない。自分の領域に入ってきても許せる相手(夫とか犬猫とか……同列?笑)になら、何のわだかまりもなくひと口あげられる。しかし、そうでない相手にそれが当然のような顔をしてこちらに断る余地も与えずにズケズケ入ってこられたとき、その無神経さに嫌悪感を覚えるのだ、きっと。だって、「ひと口ちょうだい」だよ。有無を言わさず「ちょうだい」だよ。「恐れ入りますが、あなたの食べていらっしゃるものがとても美味しそうに見えて仕方ありませんので、どうかひと口だけ分けていただくわけには参りませんでしょうか。私はもう別の品を注文してしまったものですから」と頼むのが本筋ってもんだろう。

しかし実際問題としては、「ヤだ」とニベもなく断ってその場を寒からしめるのも大人気ないと思うから、ニッコリ笑ってひと口あげて、お返しに欲しくもない相手のメニューからひと口いただかなければならないのが現実の辛いところだ。そういう仲良しごっこを演じなくてはならないというのもまた相当のストレスであるのだが、当たり前のように「ひと口ちょうだい」と言える人には絶対にわかってもらえないことだろうなぁ。

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美江って呼んで!!

『BJ』シリーズ中、最も登場人物の少ないお話は「霧」であろう。ラストのコマに「オーイ」と呼ぶ救助隊の人間が遠くに12人ばかり見える他は、全編これBJと美江の会話だけで成り立っている異色作だ。

緊張病に罹った美江という少女を探して谷川岳を行くBJ先生。彼女は一ノ倉沢で遭難して(自殺を図ったのだろう)大怪我を負っていた。応急処置をして早く麓へ運ぼうとするも、深い霧に阻まれる。大きな岩の陰に避難して霧が晴れるのを待つこと10日。霧が晴れてやっと救援隊がやってきたとき、美江は静かに息を引き取るのだった。作品は、この10日間の2人の会話と美江の心情の変化を丹念に描いている。

緊張病とは統合失調症のひとつ。統合失調症は2002年までは精神分裂病と呼ばれており、BJ先生も作中「(緊張病は)精神分裂病の一種だ」と言っている。美江は生まれつきこの病気に罹っており、12歳のときにはいきなり暴れて近所の子の髪の毛をむしりとったりした。憧れて入った高校も病気のために1ヶ月で退学、その後は悪い仲間と銀行強盗などやり、本来なら少年院に行くべきところを病気のために猶予された。病院に入院するが、脱走。そして誰にも知られずに死にたいと、谷川岳にやってきたのである。

何故BJは美江を追っているのか? 美江の家は金持ちのようで、両親はBJに治療を依頼したのだ。精神科の疾患をどうして外科医に?と思うが、BJもBJで3千万円ふっかけた模様。しかし両親は払えるはずの3千万円を出すことを断った(←BJからこのことを聞いたときの美江の表情が哀しい……)。「ことわられたとたんに おまえさんを助けたくなったのさ」とBJ。父親に見捨てられたBJなればこそ、美江を放っておくことなどできなかったのだろう。

霧の深さと美江の心に巣食う哀しい闇の濃さは比例している。最初はツッパっていた美江が、暗闇を恐れ、一人ぼっちを恐れ、死を恐れるようになる。力づけ励ましてくれるBJに傍にいてほしいと願い、生きたいと願うようになる。そして霧が晴れた10日目、健康になった自分がBJと結婚する夢を見ながら、美江は微笑んで死んでいく。

この、美江の死を看取ったときのBJの表情が私は好きだ。悲しいには違いないだろうが、心が通じ合った、報われた、という思いが滲み出た、とても暖かい眼差しをしている。そしてもう返事はないことを知りつつ、鼓舞するように「救いがきたぞ!! 美江! 救いだ!!」と呼びかけるのである。

この「救い」は決して「死」を意味してはいないと思う。これがBJでなくドクター・キリコであったなら、そう深読みしそうだが。ドクター・キリコといえば、彼が出てくる「小うるさい自殺者」とこの「霧」では同じようなテーマが扱われている。どちらの場合も、死にたいと思っている若者が「死」を目の当たりにすることによって生きることに目覚める姿が描かれている。あっちは喬という少年が重篤患者の千代子を助けようとし、こっちは美江という少女が自分を大事にしてくれる人(BJ)の存在に生きる希望を取り戻すように、どちらも仄かな恋心が原動力となっていることも共通点だ。……ふと思ったのだが、美江を探し出したのがキリコだったら、彼は美江を安楽死させるだろうか、それとも……?

ところで、BJが患者をファーストネームで呼ぶことは滅多にない。「しずむ女」のヨーコはその代表的な例外だが、美江もその数少ない例外の中のひとつである。BJは患者を「あなた」「きみ」「おまえ」と、主に長幼の序と患者の質で呼び分けているようだが、一番多いのはやはり「おまえさん」だろう。美江に対しても最初は「おまえさん」と言っている。美江が名前で呼んでくれと言ったのでそのときだけ「美江」と呼ぶが、またすぐに「おまえさん」と言ってしまい、「やっ こいつは口ぐせでな」と頭を掻いている。それが、美江が人事不省に陥ってからは、ごく自然に「美江」と呼んでいるようだ。親身になれる相手に対して、BJはファーストネームを呼ぶのだ。美江がBJに心を開いていったように、BJもまた美江を近い存在として感じていた証拠ではないかと思う。同じ緊張状態を共有した者同志が抱く親近感を、心理学では「吊り橋理論」という言葉で表現するが、それだけで説明できるものではない、ヨーコに対するのと同じような、人間の哀しさそのものに対するシンパシーがあったのだろうと思う。

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花鳥風月

きょうは、くにびきメッセで開催された山陰同人誌即売会「花鳥風月86」へ行った。春に一度経験済みなので「へへへ、おばちゃんもう慣れてるもんね」と余裕綽々。会場となったホールへも迷わず辿り着き、入り口の受付でパンフレットを購入し、ざっと会場内を見渡し、私の行くべき方向はたぶんあっちだろうと思うけれどもまぁここは一応確かめてみようと、「委託はどのへんですか」と余裕の笑みで尋ねると、「委託は2時で終了しました」とのこと。

……はい?

固まってしまった私を見て、受付のお嬢さん(可愛い人だった)が近くのスタッフ2人(これも可愛い人だった)に確認してくれたけれども、やはり「2時まででした。すみませ~ん」とペコリ。いえ、謝っていただくことでは……。

私が家を出たのが既に2時15分頃だったもんね~。そりゃあタイムマシンでもない限り無理だわアッハッハ。はぁ……orz 会場内に足を踏み入れることもなく、「どうも……」とお嬢さん方への挨拶もそこそこに踵を返して家に帰った私なのであった。

ということで残念ながらご本が手に入れられませんでしたので、後日通販の申し込みをさせていただきます、Ch-Iさま。m(_ _;)m 本当にドジですみません。

Photo ←行った証拠に、本日のくにびきメッセ(笑)。

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(備忘録090823 本日のお買い物)

●“Reworks”【CD3枚組】Emerson, Lake & Palmer の曲を Mike Bennett が remix したもの。“Brain salad perjury”のサブタイトルが付いている(笑)。元ネタはもちろん“Brain salad surgery”だ。輸入盤のため日本語の解説がないのが辛いところだが、Wikipedia によると
“In 2003, UK independent label Invisible Hands Music released a 3CD box set under the title Reworks: Brain Salad Perjury. This was a new work created by Keith Emerson in collaboration with British dance maverick Mike Bennett, using sampling technology and with an eye on club and ambient music styles. Emerson and Bennett sampled musical elements from the entire ELP oeuvre, creating entirely new music in an exotic, electronica style, opening with a dramatic reinterpretation of Fanfare For The Common Man. ...”とある。
オープニングだけでなく「庶民のファンファーレ」のリメイクは何種類も入っている。単調といえば単調だが、21世紀のテクノポップというのはこういう感じなのだろう。決して悪くない。

●『京伝怪異帖』(高橋克彦著)

●『永井荷風』(ちくま日本文学019)。『断腸亭日乗』が無性に読みたくなって探したのだが在庫がなく、これを買った。

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(備忘録090823)

きょうはテレビで『ハチ公物語』(1987)を観た。仲代達矢主演、新藤兼人脚本、神山征二郎監督作品である。もう何というかセオリー通りお約束の展開なのだが、泣かされる。映画で泣き、間に挿入されるリチャード・ギア主演『HACHI 約束の犬』のCMでまた泣く。動物モノには弱いなぁ。

実際のハチは、渋谷駅前の焼き鳥屋から貰えるエサが目当てだったという「非忠犬説」もあるようだが、忠犬だと思っていたほうが皆幸せじゃん、ねえ。

……ということで、きょうは簡単だがここまで。アバターの服や部屋をどうにかしたいと思って、ただいま一生懸命ゲームでコインを増やしているところ。

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セミはまだ見ぬパートナーの夢を見るか?

わが家の玄関横の壁で、セミが半分脱皮した状態のまま死んでいるのを見つけた。写真を載せようかとも思ったが、痛々しいのでやめる。

ここまで来ながら……。やっと羽化して自由に飛びまわれるようになる寸前で、いったい彼の身に何が起こったのだろう。

調べてみたら、脱皮・羽化は命懸けの行為であるらしい。途中で何かトラブルがあって上手く脱皮できないと、それは即ち死を意味するのだそうだ。ふつうセミの脱皮は夜に行われるが、何かの事情で陽に当たったりすると死んでしまうとか、気孔の内側の皮膚がうまく脱げないと呼吸困難になって死んでしまうとか、脱皮のときは無防備なので天敵のスズメバチやアリに襲われることがあるとか、脱皮の途中で地面に落ちてしまうと死ぬだとか、また脱皮はできても翅(はね)が妙な具合に固まってしまうと死ぬだとか、ネット上にもたくさんの事例が紹介されていた。

だから、脱皮途中で死ぬことはそんなに珍しいことではないらしいのだが、なにしろ初めて見たし、彼の無念さを思うと可哀想でならない。明日は壁から降ろして、懐かしい土の中でゆっくり眠らせてやろうと思う。出会えなかったパートナーの夢を見てくれると良いな。

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臓器提供

健康保険証が新しくなった。色以外に変わったことといえば、裏面に臓器提供意思表示欄が設けられたことだ。

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1 私は、脳死の判定に従い、脳死後、移植の為に○で囲んだ臓器を提供します。
  (×をつけた臓器は提供しません。)
   心臓・肺・肝臓・腎臓・膵臓・小腸・眼球・その他(  )

2 私は、心臓が停止した死後、移植の為に○で囲んだ臓器を提供します。
  (×をつけた臓器は提供しません。)
   腎臓・膵臓・眼球・その他(  )

3 私は、臓器を提供しません。

《自筆署名》   《署名年月日》
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記入は任意であって、義務ではない。さてどうしようかね~。

1の最初に「心臓」が挙がっている。初っ端から難しい決断を迫られる項目だ。ここが○なら後は全部○だし、ここが×なら後も×の確率が高いだろう。

脳死の状態で更に心臓を取ってしまったら、これはもう完全な「死」だ。「心臓」に○をつけることは、「脳死=死」と認めることになる。ふむ。あくまでも対象は自分の身体であるから、自分が脳死になったらもう死んじゃっても良いかなぁという気はしないでもない。人様の脳死を「死」と断定する勇気は私には無いけれど……。

私が死ぬとき、家族はどういう状況なのだろう。たとえ私が脳死になったとしても家族が私にその状態で生きていてほしいと望むならば、私は臓器(特に心臓)を提供することをよしとしない。反対に、家族が私の脳死を死と受け止め、且つ、臓器を取り出すことを許すならば、使えるものはどんどん使っちゃってくださいよ~、と思う。2においても同様だ。だからこれは結局、そのときに家族がどう思うであろうかということに思いを馳せないでは記入できないことである、私にとっては。

どこかで病気に苦しんでいる人を救うことより自分の家族の思いを優先させることは、いかにも狭量で、狭量であるがゆえに自己中心的であるとは思う。自分や家族が誰かからの臓器提供を受けなければ生きられないという逆の立場になれば、神にも祈る思いで待つに違いないのだから、これは身勝手な話だ。だがしかし、これはやっぱり家族と話し合いをしないことには書けないと思う。そして話し合いをして何らかの結論に達したとしても、「いま」思っていることが「将来」もずっとそうなのかどうかは誰にも保証できない。死に行く者の心理、看護する家族の思いは、平生日常とは幾分かは必ず異なるはずだから。

う~む、考えれば考えるほど、どうにも記入できなくなるのであった。……保留かな。

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野球とバスケ

地元のスポーツの話題2つ。

夏の甲子園。島根代表の立正大淞南(春夏通じて初出場)がベスト8に入ったそうだ。なんでも新型インフルエンザで4選手がベンチ入りできず、いつもの布陣を変えて試合に臨んだとか。慣れない守備が乱れて最初はリードされたものの、9回の集中打で逆転勝利となった。良かったね。おめでとう。次も頑張れ!
このチームは、一昨年、脳梗塞でこの世を去られた田中謙二さんの最後の教え子のいるチームとして注目されている。田中さんは、あの松坂投手や上地クンがいた頃の横浜高校でコーチをしていた人である。甲子園に出られて本当に良かったと、まるっきり縁もゆかりもない私ではあるが、そう思う。

もう一つ。島根にプロのバスケットチームができることになった。2010-2011シーズンよりbjリーグに新規参入だそうだ。bjリーグといえば、かのBJ先生がプッシュしておられる、あのbjリーグである!! 地元で試合があるときには、きっとBJグッズも販売してくれるよね!(^-^)わくわく

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気にする? 気にしない?

友人からメールが来た。彼女はLZ(仮名)という学生用のワンルームマンションを経営している。最近そこの入居者Mさんが友達から「LZには霊がいる」と言われ、怖くて部屋に帰れなくなり、退居しようとしているとのこと。LZができてから20年くらい経つと思うが、いままでそんなことを言ってきた入居者は一人もいない。建てるときにちゃんとお祓いもしているし、心配ないからと説得しているらしいが、いやはやなんとも……。

怖いと思っている人間を「怖くないから」と説得することは難しいと思うし、何より、管理人の言葉より友達の言葉を信用しているのならどうしようもない。ただ、そんなことを他所で言いふらしたりしないようにくれぐれも釘を刺しておきなよ、と返信しておいたが、さてどうなることやら。

Mさん本人は見ていないのだし霊障があったわけでもないのだから、くだらないといえばくだらない問題だが、当事者にとっては切実なのだろう。私だったらどうするかな? うん、たぶんそのまま居続ける。今までなんともなかったのだから、これからもなんともないだろうと考える。

しかし人騒がせなのはそのMさんの友達だ。そこに住む者や不動産を扱う者にとって、その類の噂がどれだけ重大な意味を持つかなど、まったく考えていない。見えるなら見えるで黙っていればよいではないか。またそれ以上の力がもしあるならば、霊を成仏させてやるとか何もしないように諭すとかすればよいではないか。私が「見える」人間ならそうするがなぁ。生きている人間を怖がらせるだけの「見える」力など、はた迷惑なだけだ。

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神技

BJ先生の神技が描かれたお話2つについて。

一ヶ月ほど前だったか、テレビで両腕の移植手術のニュースを見た。2008年、自家移植ではなくて他人の腕をつける手術にドイツで成功したという。1年経って、まだ指先の動きは不完全だが、自分で食事ができる、自転車に乗れる、かゆいところがかける等、医師もびっくりするほどの回復ぶりだそうだ。他人の腕をつける手術は2000年にフランスで行われたのが最初だったが、それは片腕だったので、両腕全体の完全移植はこれが「世界で初めて」と報じられていた。

われらがBJ先生はというと、「ふたつの愛」(1974年)で同じ手術に既に成功している。このときは何故だか病院の前に街宣車がきて「いよいよ世紀の手術が始まります。別人の両腕を移植する手術です。このきわめて困難で 世界に前例のない大手術に 日本じゅうの期待が集まっています!」とアナウンスしている。闇の天才外科医BJの手術がこれだけ大っぴらに周知喧伝されたのは空前絶後なのではあるまいか。ここまでやったのなら手術成功後もマスコミが大騒ぎして取り上げてくれてもよさそうなものだが、残念ながらそれはなかった(世界初の偉業なのに)。そして神技を発揮しておきながら、さほど大したことをしたような顔もせず寿司を注文するBJ先生なのであった。

しかしBJ先生の神技といってまず最初に思い浮かぶのは「病院ジャック」である。テロリストに病院を占拠され、更には電源を切られて真っ暗闇になった中で、BJは完璧な手術を行うのだ。私はこのお話がことのほか好きなのだが、その理由は、先生の神技もさることながら、あくまで一人の医者として存在するBJをカッコいいと思うからである。他の医師たちはなんとかテロリストを懐柔しようとしたり形成を逆転しようとしたりするのだが、BJは一顧だにしない。どんな状況下でも目の前の患者を手術することだけを考えている。プロ意識なんてものではなくて、もう細胞1個1個のレベルでこの男は外科医なのだ医者なのだと思わせられる。

そして名言が飛び出す。「マッサージ師は目が見えなくてもツボは知っている。医者がマッサージ師に笑われたいか?」と手術を断行。そして患者を助けるものの、その停電の間に5人の重症患者が死んだことを知ってテロリストに一言。「たいしたやつだな……簡単に5人も死なせるなんて。こっちは……ひとり助けるだけで せいいっぱいなんだ……」。できることとできないこと。自分一人の力ではどうしようもないことがある。その諦観を前提に、一人の天才外科医が精一杯の力でたった一人の命を助けようとする。そのあり方生き方に、多くのことを学んだ一作だ。

ところで余談だが……。「病院ジャック」の「ジャック」という言葉。これには「乗っ取る」だの「占拠する」だのいう意味はない。一説によれば、むかし駅馬車強盗が御者に“Hi, Jack!”と呼びかけて馬車を止めさせたことに由来するらしい。“Jack”というのはありふれた名前として選ばれているだけだ(日本なら「ひろし」あたりか?)。乗っ取られたのが飛行機でも車でも列車でも船でも、英語ではすべて「ハイジャック」と言うらしい。だから「病院ジャック」というのは和製英語で、英語なら“Hospital hijack”が正しいだろう。文庫版の英語タイトルが“Hospital Jack”になっているのはきっとBJ先生の名前とかけてあるのだと思う。

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(備忘録090816)

お盆とは言っても、夫は仕事があるし、別にどこかへ行く計画があるわけでもないし、お墓参りをする以外はいつもと同じ日々を過ごした。きょうはお墓に替え花を供えて、これでお盆関連の行事終了である。

手術してからまだ3ヶ月ではあるし今年の夏はちょっと身体を休ませようと思っていたが、計画どおりゆったりと穏やかな夏休みを過ごせたように思う。例年に比べるとずいぶん涼しい日が続き、ひんやりする竹の寝茣蓙に寝転がって時々鳴る風鈴の音を聞きながらする読書は最高だった。テレビをほとんど観なかったので、地元から出場した高校が甲子園で一勝したことを上地クンのブログを読んで初めて知ったりした。

いま、ジョージ・オーウェルの『1984年』を読んでいる。ビッグ・ブラザーによって徹底的に管理・統治される国家での生活を描く近未来小説。日常の一挙手一投足を機械で監視され、過去の記録も記憶も改竄され、何一つ確かな拠り所さえない状況はまさにディストピアである。いま主人公ウィンストンが捕まって拷問されているところだ。もっと大変なことになっていくんだよな……。

本日のお買い物は、『村上春樹『1Q84』をどう読むか』(河出書房新社編集部編)。帯には「大傑作? 問題作? 35人の論客が今、問いかける」とあり、35人の有識者がこの作品を様々な角度から紐解いているらしいが、個人的には内田樹が何を語っているのかにいちばん興味がある。書店にはこの本のほかに2種類ほど『1Q84』の解説本が並んでいた。こういう本が出るということは、やっぱり、この作品をどう読んだらよいのかわからない人が多いということなのだろう。いや、どのように読んでもよいのだという考え方もある。しかしどうせ読むなら、できるだけ著者が描こうとしたものの正体に近づきたいし、まずそう試みることが作品と著者に対する礼儀だと、常々私はそう思っている。この本が、その道しるべになってくれればよいのだが。

……庭で鈴虫が鳴いている。

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鎮魂

とあるサイトマスターさんも書かれていたのだが、毎年決まってこの時期になるとテレビ放映される戦争ものの映画やドラマを、私はどうも観ることができない。決して忘れてはいけない過去だし、もっとよく知るべき時代であることもわかっているつもりだ。でも、どうしても観られないでいる。死なねばならなかった人たちの運命が悲しい。

今朝の朝日新聞「天声人語」に、詩人の石原吉郎の「死においてただ員数であるとき、それは絶望そのものだ」という言葉が紹介されていた。ただ「○○人戦死」というのは事実とは程遠い。「○○人」にはそれぞれの名前があり、それぞれの人生や思想や家族があったことを重く受け止めなくてはいけないと思う。亡くなったのは一人ひとりの個人なのだ。

戦争は何故いけないか。多くの人が死ぬからだと、それが一番大きな理由だと私は思う。後にどれだけの悲しみが残されるか……。

64回目の終戦記念日。英霊の御霊の安からんことを。

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初秋の空

きょうは気持ちよくカラリと晴れた。こんな晴れっぷりは今年初めてじゃないかと思いつつ空を見上げると、そこにはもう秋の雲が浮かんでいた。

兄と二人で伯母を訪ね、父の三回忌の日にちが決まったことなど話す。伯母は父より10歳年上で94歳になるはずだが、すこぶる元気。「一日に20本吸うこともあるわよ」と言う現役の喫煙者。一族の中で一番達筆で、俳句を詠んで、言うことがサバサバしていて、一人でタクシーに乗って外食に出かける達者な女性。ずっと東京で一人暮らしをしていて数年前にこちらに帰ってきた。生涯独身(私が結婚したときは「裏切ったわね」と言われた・笑)。驚くほど記憶力が良く、話術も巧み。そして一族の中で一番よく道で転ぶ人だ(笑)。

伯母の元を辞去し、続いてグループホームへ母を訪ね、連れ出して一緒にお墓参りに行く。去年は、お盆だから墓参りがしたいと母の方から言ったのだが、今年は気付かなかったようだ。きょうの話題は「家の鍵は掛けただろうか?」ということと「あら、お父ちゃんはどこ?」の2点。「掛けたよ」「○○病院に入院中」(←この嘘は今も有効だ)と、延々とこの二つの話題を繰り返しながら墓参を済まし、30分ばかり市中をドライブしてからグループホームに戻った。痴呆が進んでも、家を守ることと姿の見えない家族のことを思う気持ちだけは変わらないものらしい。

伯母と母と、まさに対照的ともいうような老後の姿を見たわけだが、まぁどっちも幸せなのだろうなと思う。自分が大切に思うものを心の中で大事に大事に守っていくことができれば、人間そんなに不幸にはならないような気がする。

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Confusion will be my epitaph

「自分のブログ 死んだらどうなる?」という記事を読んだ。残ることで訪問者が絶えない“墓碑”のような存在のブログとして、7月28日に乳がんのため死去した川村カオリさんのブログが紹介してある。「カオリにファンの方が、気持ちを伝えられる場として残して」あるそうだ。確かにこういう有名人ならブログを残しておく意味もあるだろうが、さて私のブログは……と考えると、言わずもがな、残す意味も必要もない。ところが、ブログのサービス業者は、誰かが削除を依頼しなければ削除しないらしい。

私がブログをやっていることを夫は知っているが、見せたことはない(一度だけケータイの画面で見せたことはあるが、それ以上見せろとも言わなかったので興味がないのだろう)。家族にも友人にも知らせていない。となると、私が死んでも誰も削除依頼をしないので、残ってしまうわけだ(うわー)。

また、生きた証しを残そうとして関係者が存続させているブログもあるという。生きた証しかぁ……。自分がこの世からいなくなって、このブログの文章だけが自分が生きた証しになるのだとしたら……もうちょっとちゃんとしたことを書かねば(笑)!

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W災害

きょうは暑かった! ここ松江で34.1度と今年最高を記録した。こんな日は洗濯やお風呂場の掃除等、水に触れる仕事をするに限る。夕方、お盆の用意で花を買ったりお墓に参ったりしたが、暗くなる頃になっても熱気が去らなかった。しかしこんな暑い時期に台風や地震の後片付けをされている皆様方のご苦労を思えば、暑いなどと不平を言っていては罰が当たる。

「地震 雷 火事 親父」という言い回しがあるが、この「親父」というのは「山嵐(やまじ)」というのがいつのまにか訛ったものらしい。「山嵐」というのは台風のこと。四大恐ろしいものが「地震 雷 火事 台風」だというのは誰にも頷けるところだ。

このたびの台風と地震で被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。

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『時をかける少女』

テレビでアニメ映画『時をかける少女』を観た。何度目だろう。それほど「観たい!」と思っているわけではないのに、始まると最後まで観てしまう、不思議な魅力のある作品だ。

「タイムリープ」というSF的な側面は私にとってはほとんどどうでもよくて、真琴の淡い恋心の芽生えに胸をキュンとさせたくて観ているようなものだ。かといって、真琴というキャラクターに感情移入できるわけでもなくて、第一大して魅力的だとも思わない(笑)。千昭と功介というカッコいい2人の男子がどうして真琴をチヤホヤするのかもよくわからない。傍で見ていたらたぶんむかっ腹が立つんじゃないかとさえ思う(笑)。

でも、な~んかイイんだよな、この映画。

壮大なテーマがあるわけでもない。時を飛び越すことができるというSFの要素はあるのだが、その科学的側面が重視されているわけでもない。単なる高校生の恋と青春物語というのが一番ピッタリくるのだろうが、現実味に乏しいので、そのストーリーでさえ重要な要素ではないような気もしてくる。……ああ、そうだ。環境ビデオを観ているのに近いかもしれない。

真夏の青空と太陽。ものすごく暑そうなのにまったく暑さを感じさせずに走り回る主人公たち。彼らの肌は一滴の汗もかかずにサラリとしていることだろう。

夢物語なのだ、これは。誰もが通り過ぎた青春の一瞬を、誰もが経験したであろう恋の目覚めを、一切の不快感を取り除いて純粋にしてみたらこうなるのだ、きっと。おそらくこれは、主人公と同世代の人たちが観るより、ある程度年齢のいっている人たちが観たほうがキュンとなる映画だと思う。

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「ダメ。ゼッタイ。」

このところ芸能界で相次いだ麻薬濫用のニュース。BJ先生ならずとも「ケッ 芸能界は狂ってやがる」と言いたくもなる。

Wikipedia によれば、麻薬の定義は5つある。簡単にいうと……
1.アヘン剤のこと。アヘン剤とは、モルヒネ、ヘロイン、コデインなど、ケシの実から抽出されるアルカロイドを合成した薬剤のこと。
2.脳内に作用し、酩酊・多幸感・幻覚などをもたらす薬物のうち、依存性や毒性が強く健康を害する恐れがあるため、あるいは社会に悪影響を及ぼすため、国家等によって指定され、単純所持が禁じられているもの。
3.日本において麻薬及び向精神薬取締法において麻薬に指定されているもの。
4.脳内の神経伝達物質に作用し、酩酊・多幸感・幻覚などをもたらす薬物のうち依存性や毒性が強く健康を害する恐れがあるものとして麻薬及び向精神薬取締法とは別の法規で規制されているもの。
5.薬物のうち、依存性や毒性、法規制の有無などを問わず、脳内の神経伝達物質に作用し、酩酊・多幸感・幻覚などをもたらすものを広義の麻薬に含めることがある。

酒井●子がやった覚せい剤(スピード、S、シャブなどともいう)は上記のうち2.4.5.に相当し、押●学がやったMDMA(エクスタシーともいう)は2.3.5に相当する。ちなみにタバコとアルコールはともに4.5.に相当する(草彅クン……)。また「覚せい剤取締法」によれば、覚せい剤の使用は10年以下の懲役(第41条の3)、覚せい剤の所持、譲渡、譲受は10年以下の懲役(第41条の2)となっていて、使用はもちろんのこと持っているだけで罰金刑では済まず懲役刑は免れない(執行猶予が付くかどうかは別)。

さて、『BJ』において麻薬が出てくるのは「小さな悪魔」「あつい夜」「虚像」の3作ではないかと思う(鎮痛剤としての使用は他にもあったかもしれないが除く)。

「小さな悪魔」でBJは患者の息子に睡眠薬を飲まされる。手術中に猛烈な眠気に襲われてそうと気付き、慌てて覚醒剤を自己注射しようとするが戸棚までたどり着けず、床に倒れて寝てしまう様子が描かれている。折りよく帰宅したピノコがカラシを一瓶BJに食べさせて目を覚まさせ、なんとか事なきを得るのだが、先生が寝てしまった間も無情に時を刻む時計と、開腹したままの患者から血液が大量に流れ出る描写にはハラハラさせられた。覚醒剤は治療においては中枢神経刺激薬として昏睡から覚醒させるために使用されるものであるから、↑のBJ先生の試みは正しい使用法である。手術室の戸棚にしまってあるということは、もしかしたら麻酔との兼ね合いで使ったりすることがあるのかもしれないと想像する。ふつう覚醒剤はナルコレプシーや注意欠陥・多動性障害(ADHD)等の神経疾患や障害にしか処方されないはずである。

「あつい夜」ではゴ・ウィン医師にやはり睡眠薬を飲まされるが、このときはなんとか自分で注射を打っている(先生、左手でも注射できるんだね)。中身はたぶん覚醒剤だろう。「小さな悪魔」で学習していつも持ち歩くようになったのかも。

「虚像」の志摩先生は、BJの小学校時代の恩師。ところが20年ぶりに会った彼はモルヒネの常習者になっていた。離脱(禁断)症状に苦しむ志摩をBJは救う……。しかしこの苦しみよう痛がりようは、モルヒネじゃなくてヘロインなんじゃなかろうか。それにモルヒネなら長期に少しずつ量を減らしていくことで安全に中止できるはずなのだが。いや、でもBJ先生がモルヒネと言っているのだからモルヒネなのだろう。BJは志摩を地下室に閉じ込め、なんとか薬と縁を切らせようとする。志摩が飛び降り自殺を図ったので最終的には病院へ担ぎ込むことになってしまうが、はじめはBJが一人で面倒を見ようと思っていたに違いない。

本来ならば、「麻薬及び向精神薬取締法」第58条の2「医師は、診察の結果受診者が麻薬中毒者であると診断したときは、すみやかに、その者の氏名、住所、年齢、性別その他厚生労働省令で定める事項をその者の居住地(居住地がないか、又は居住地が明らかでない者については、現在地とする。以下この章において同じ。)の都道府県知事に届け出なければならない。」に従わなくてはならないのであるが、BJがそんなことをするはずはない。自分を可愛がってくれた恩師の変わり果てた姿を公にしたくない、自分が治すのだという一心だったのだろう。結局、志摩先生がヤク中であったことを知るのはBJただ一人。快復した志摩を迎えて賑々しく開かれた同窓会にも姿を見せることなく(志摩先生と会うことを避けたのに違いない)、遠くから恩師の健康を祈るBJ……って、どこまでカッコいいんだこの男は! o(>_<)o くぅ~

……脱線しそうなので話を戻す(笑)。薬物に関する法律は主なところで「麻薬及び向精神薬取締法」「大麻取締法」「覚せい剤取締法」「あへん法」の4つがある。BJ先生はというと、「小さな悪魔」で「覚せい剤取締法」第14条(所持の禁止)に、「あつい夜」で同法第19条(使用の禁止)に違反しており(←なにしろ医師免許を持っていないから)、起訴されれば執行猶予がつくかつかないかは別にして懲役刑である。うん、BJ先生は覚せい剤をやったことがあるのだ! またBJを医師だとすると、「虚像」で「麻薬及び向精神薬取締法」第58条の2に違反する(罰則はないようだが)。まあこれくらいの罪はBJ先生にとってはどうってことないのだろうけれども(笑)。

ちなみに、「覚せい剤取締法」(昭和26年6月30日公布)では「醒」の字が当用漢字表外の字だったため「覚せい剤」と記載されている。更に「せい」に傍点を付けるのが正式である。だから法規的に論ずるときには「覚醒剤」は誤りで「覚せい剤」(傍点あり)が正しいのだろうが、それ以外の場合には「覚醒剤」でよいのではないかと思い、この文章内では書き分けたつもりだ。かな交じり表記は読み辛くてしょうがない。BJ先生も「か……覚醒剤を注…注…注………」と、漢字で発音してくれていることだし(笑)。

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(備忘録090809)

お……起きたら既に日付が変わるころだった。いや~、眠い……。
本日の記事はお休み~。 zzzzz

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蝉の声

梅雨明けとは名ばかり。相変わらず曇天のスッキリしない毎日が続いているが、それでもここ一週間ばかりでやっと蝉の声が本格的になってきた。ところで先日ネットの海を漂流していて、「蝉は美人の生まれ変わり」という一文を見つけた。初耳である! なんでも中国の故事らしいということなので、調べてみた。

まず、李商隠の詩に「鳥応悲蜀帝、蝉是怨斉王」(鳥は蜀帝を悲しみ、蝉は斉王を怨む)というフレーズがある。何故蝉は斉王を怨むのか。晋の崔豹の『問答釈意』の中に以下のように記されているという。

--牛享問うて曰く「蝉の名、斉女なるは何ぞや?」
 答えて曰く「斉王后怒して死す。屍変りて蝉と為り、庭樹に登り、彗涙して鳴く。王悔恨す。故に世名して曰く斉女なり」--

(わかば訳:牛享が「蝉を斉女というのは何故ですか」と問うた。答えていうには「斉の后が怒りのあまり死んでしまった。死後、后は蝉に生まれ変わり、庭の木に登って涙をはらいながら鳴いたので斉王は後悔した。だから蝉のことを斉女と名づけたのだ」……「彗涙」の「彗」の意味がよくわからないが……)

どうやら后は嫉妬のあまり死んでしまい、蝉となって恨み言を鳴いているらしいのだが、これでは「蝉は斉后の生まれ変わり」なのであって、さて、肝心の「美人」という言葉が出てこない。王のお后ともなれば美人であったろうとは思うが、斉后が特別に別嬪だったという話は見つからない。

そこで思うのだが、この「美人」というのは「美女」という意味ではなくて、虞美人というのと同じく後宮での官位なのではなかろうか。たまたま「美人」(二十七世婦の中のひとつ)という役職についていた女性が后になったから、こう言われるのではないかと思うのだが。「蝉は美人の生まれ変わり」と、「美人」を使った初出例を是非知りたいものである。

同じ蝉の声を聞いても、美女が鳴いていると思うのと、嫉妬に狂ったお后が恨み言を言っていると思うのとでは大きな違いだ。日本人は蝉の声を風情のあるものとして聞くことが多いが、中国ではただ喧しいだけのものなのかもしれない。

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ヒロインから犯罪者へ

あれれ? たしか昨日まではロクデナシの夫を持った悲劇の妻だったはず。悲観して自殺でもするんじゃないかと皆が心配していたのに、きょうは一転して覚せい剤常習者で全国指名手配だ(いや、今のところは覚せい剤所持容疑だけど)。不謹慎を承知で言えば「やるな、のりピー」という感じ。(関係者さま、ごめんなさい。) 

ワイドショーなど見ていると、姿を隠していることについて、昨日までは「思い出のある土地で死に場所を探しているのではないか」だったのが、「1週間もすれば尿検査でクスリが検出されなくなるから」に変わった。子どもを知人に預けたことも、「子どもに罪はない。道連れにしたくなかったのだろう」だったのが、「身軽になって逃げやすいように」に変わった。のりピーがずっと姿を隠している事態そのものには何の変化もないのに、逮捕状が出ただけで見方がこれだけ違う。もちろんこれらは今の時点においてもなおすべて憶測である。

なかなか面白い。つまり、物事には必ず裏表の見方があって、イイ人(と思われている人)については好意的に表の面を見て、悪い奴(と思われている奴)については悪意を持って裏の面を見てしまうということなのだろう。ワイドショーは意図的にそういう作りになっている。客観的な真実を伝えるのではなくて、視聴者はこう見たがっているという方向で事実の断片をつなぎ合わせて、勝手な憶測を垂れ流す。ニュース番組というよりはドラマというほうが近いかも。視聴者は何事によらずドラマチックな展開が好きなのだから。

まあしかし……夫婦そろってバカなことをやったもんだよ。

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訃報に驚く

大原麗子さんが亡くなった。62歳。ギラン・バレー症候群で近年は芸能活動を休止しておられたそうで、そういえば最近は見かけていないことに気付いた。一人暮らしだったそうで、死後2週間以上経っての発見だったそうだ。難病の根絶を願うとともに、彼女のご冥福を祈りたい。

大原麗子さんと言うと、中学時代の同級生の男子を思い出す。「綺麗だ。大好きだ」とうわ言のように繰り返していたN君、今夜はショックだろうな……。

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カオス

本日のお買い物

●『知的創造のヒント』(外山滋比古著)。私が学生時代に読んだ本だが、最近またよく売れているらしい。ちくま学芸文庫に収められたので買ってきた。

●『知識人99人の死に方』(荒俣宏監修)。一番最初に取り上げられているのが手塚治虫。

●『頻出ネット語手帳』(ネット語研究委員会著)。いまこれを読んでいる。

この本の帯に書いてあった例文のひとつがこれ。

「情弱リア充がkonozamaでメシウマww」
    ↓(日本語に翻訳すると…)
「情報弱者の青春を謳歌している若者がAmazonで買い物を失敗した。他人の不幸で今日もご飯がおいしいです(笑)」

もうワケが分からないが、用例を見ているだけで結構おもしろい。「リア充」などは割りとよく目にするし、なんとなくこういう意味だろうと思っていたのが当たっていたけれど、こういうネット語というのはちゃんと意味を調べてからでないと使えない。思い込みで使うと思わぬ恥をかきそうだ。まぁ、使おうとは思わないけれど。

思わず笑った用例をひとつ。
「消しゴム攻め以外ありえない」
「腐女子自重しろ」
     (「腐女子」の項より)
……「消しゴム攻め」って何?wwwww

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裁判員の安全は?

昨日から開かれている初の裁判員公判(@東京地裁)。きょうも57席の傍聴券を求めて1460人もの人が列を作ったそうだ。

昨日はテレビでの報道を見たりしたが、気になったことを1つ。裁判員の顔は、さすがにテレビ新聞等では明らかにされていなかったが、法廷内にいる傍聴人には当然見える。その傍聴人の中に原告や被告の関係者がいたら、彼らがある裁判員の発言等(あるいはそこから読み取れるもの)に対して何らかの感情を抱くこともあるのではないか。そして判決が彼らの意に沿わぬものだったりしたら、その裁判員を根拠もなく「逆恨み」することだってあり得るのではないか。裁判が終った後の裁判員の安全は考えられているのだろうかと思う。

15世紀の中国では、裁判官が判決を言い渡す前に目を見られて考えを読まれないように、煤をつけた眼鏡をかけていたという。この伝で、裁判員の特定ができないようにする工夫が必要なのではないかと私は思う。裁判員からは見えるが、原告被告、検察側弁護側、そして傍聴席からは見えないマジックミラーのようなものを裁判員の前に立てるとか。

なにしろ、裁判員は一般の市民なのだ。一件の裁判が終わればまた従来の安全な生活が保障されなくてはいけない。どうも現行のやり方ではそれが不安に思われたので書き留めておく。

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浴衣

BJ先生が着ている服といえば黒ずくめの三つ揃いとコート、はたまた術衣か白衣。たまにパジャマかランニング。セーター着てればめっけもの。入浴時には腰タオル。超レアお宝画像が新郎の燕尾服姿……と、これくらいしかバリエーションがないが、浴衣(着物)はけっこうお召しになっている。

「ふたりのピノコ」では旅館の浴衣。
「奇胎」では「ホテル平」の浴衣。
「クマ」では大怪我を負った冬造さんの褞袍(どてら)を勝手に拝借しているようだ。シャツもそうかな? じゃあパンt……。
「湯治場の二人」では奥底温泉の旅館の浴衣。ツートーンのかなり大胆なデザインに「忍」の文字が印象的。
「勘当息子」では民宿の浴衣の上に丹前。
「メス」(「土砂降り」)では清水きよみ先生のお兄さんの寝巻きを貸してもらっている。寝ぼけまなこでお尻ボリボリ(笑)。
「キモダメシ」では「湯治場の二人」と同じ旅館の浴衣。
「もらい水」では「扇屋旅館」の浴衣。
アニメでは「六等星」で『どろろ』の百鬼丸と同じ碇柄の浴衣を着ていたし、OVAでは「しずむ女」で旅館・満月館の浴衣を着ていた。

基本的に、BJ先生が浴衣を着るのは旅館や誰かの家に泊まるときである。例外と思われるのが「夜明けのできごと」の扉絵で、ピノコと2人浴衣姿で仲良く手をつないでお祭りか花火大会にお出掛けの様子が描かれている。これはたぶん自前の浴衣だろう。ヒョウタンツギとスパイダーの団扇もなかなか趣味が良い(そうか?)。また、BJ先生は浴衣を着るときもアンダーシャツをきっちり着込んでおられるようだが、胸元などはかなり大きく開けてラフな着こなしである。よくぞ男に生まれけり。BJ先生が浴衣を着ていたら仕事シャットアウトの完全オフモードと見てよい(こんなときに「診てくれ」と言われるとぶーたれる・笑)。逆に言えば、スーツとコート着用時は臨戦モードで、術衣と白衣は戦闘服ということだ。

ちなみに『BJ』に出てくる病院はどこでもたいていそうだが、BJ先生のところでも入院患者には浴衣を着せるようだ(「消えさった音」「奇妙な関係」)。時代を感じさせてくれる。「悲鳴」の朝戸レイ、「おとずれた思い出」のピノコの姉はネグリジェ、「過ぎさりし一瞬」の今村健平はパジャマを着ているが、これは持ち込みか、時代の変化か?

Photo……ということで、浴衣姿のBJ先生を1枚。こちら中国地方ではまだ梅雨が明けておらず、観測史上最も遅い梅雨明けとなることが決定したが、このままでは暑中見舞いを出すタイミングを逸するので、フライングだがきょう出すことにした。
よろしければ、ご自由にお持ち帰りくださいませ。m(_ _)m
BJ先生、湿気のせいで古い傷痕が疼くので奥底温泉で湯治中。浴衣に「忍」の文字を入れる勇気を私に(笑)!

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遠花火

松江水郷祭の花火を見てきた。こんなに涼しい花火見物は初めてだ。途中でわずかに霧雨が降ったりもした。昨年は38万人の人出だったそうだが、今年はたぶん昨年を下回ったのではないかな。私達夫婦は例年どおり大橋川の岸に腰掛けて見たが、周りには誰もいなかった。こんなことも初めてだ。冷夏の花火はなんだか寂しい。

夫が同僚(女性)に花火を見に行くかと尋ねたら、独りでは見に行く気にもならないという返事だったとか。旦那さんとはずっと前に別れて、もう子どもさんも家を出て独立しているから、彼女は独り暮らし。住んでいる部屋からは遠花火が見えるそうだ。

そう。花火なんてものは、まだ昼間の熱気が残っている真夏の夜に、親しい誰かとワイワイキャーキャー言いながら見るから楽しいのだろう。夫と二人で見られることの幸せを思う。

遠花火寂寥水のごとくなり (風生)

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CMのCM

先日来TVで何度か目にしたのが、今度SoftBankのえらく大掛かりなCMにSMAPが出るよ、というCMだ。言ってみれば、CMのCMである。メンバーの会話の中に申し訳程度に「SoftBank」とか「ケータイ」とかの言葉は出てきたが、決してケータイのCMというわけではなかった。

CMのCMなんて今までにあったかしら? 今度こういうCMができますよ、と、ワイドショーなどで取り上げられるのとはワケが違う。自社のCMをCMする目的で作られたCMというのは、記憶にないような気がするが。

画期的だとは思うが、まさにSMAP様様(さまさま)という感を強くする。ほかのタレントが起用されても、こんな企画はやらなかったのではなかろうか。SMAPだからこその企画だろう。それだけ話題性があり、宣伝効果も見込まれるということなのだろう。

そして8月1日18時59分、かのCMは流されたのであろうが、私は見なかった。自社製品でなく、タレントの力に頼ろうとする姿勢は、なんだかあざとい。

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