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美江って呼んで!!

『BJ』シリーズ中、最も登場人物の少ないお話は「霧」であろう。ラストのコマに「オーイ」と呼ぶ救助隊の人間が遠くに12人ばかり見える他は、全編これBJと美江の会話だけで成り立っている異色作だ。

緊張病に罹った美江という少女を探して谷川岳を行くBJ先生。彼女は一ノ倉沢で遭難して(自殺を図ったのだろう)大怪我を負っていた。応急処置をして早く麓へ運ぼうとするも、深い霧に阻まれる。大きな岩の陰に避難して霧が晴れるのを待つこと10日。霧が晴れてやっと救援隊がやってきたとき、美江は静かに息を引き取るのだった。作品は、この10日間の2人の会話と美江の心情の変化を丹念に描いている。

緊張病とは統合失調症のひとつ。統合失調症は2002年までは精神分裂病と呼ばれており、BJ先生も作中「(緊張病は)精神分裂病の一種だ」と言っている。美江は生まれつきこの病気に罹っており、12歳のときにはいきなり暴れて近所の子の髪の毛をむしりとったりした。憧れて入った高校も病気のために1ヶ月で退学、その後は悪い仲間と銀行強盗などやり、本来なら少年院に行くべきところを病気のために猶予された。病院に入院するが、脱走。そして誰にも知られずに死にたいと、谷川岳にやってきたのである。

何故BJは美江を追っているのか? 美江の家は金持ちのようで、両親はBJに治療を依頼したのだ。精神科の疾患をどうして外科医に?と思うが、BJもBJで3千万円ふっかけた模様。しかし両親は払えるはずの3千万円を出すことを断った(←BJからこのことを聞いたときの美江の表情が哀しい……)。「ことわられたとたんに おまえさんを助けたくなったのさ」とBJ。父親に見捨てられたBJなればこそ、美江を放っておくことなどできなかったのだろう。

霧の深さと美江の心に巣食う哀しい闇の濃さは比例している。最初はツッパっていた美江が、暗闇を恐れ、一人ぼっちを恐れ、死を恐れるようになる。力づけ励ましてくれるBJに傍にいてほしいと願い、生きたいと願うようになる。そして霧が晴れた10日目、健康になった自分がBJと結婚する夢を見ながら、美江は微笑んで死んでいく。

この、美江の死を看取ったときのBJの表情が私は好きだ。悲しいには違いないだろうが、心が通じ合った、報われた、という思いが滲み出た、とても暖かい眼差しをしている。そしてもう返事はないことを知りつつ、鼓舞するように「救いがきたぞ!! 美江! 救いだ!!」と呼びかけるのである。

この「救い」は決して「死」を意味してはいないと思う。これがBJでなくドクター・キリコであったなら、そう深読みしそうだが。ドクター・キリコといえば、彼が出てくる「小うるさい自殺者」とこの「霧」では同じようなテーマが扱われている。どちらの場合も、死にたいと思っている若者が「死」を目の当たりにすることによって生きることに目覚める姿が描かれている。あっちは喬という少年が重篤患者の千代子を助けようとし、こっちは美江という少女が自分を大事にしてくれる人(BJ)の存在に生きる希望を取り戻すように、どちらも仄かな恋心が原動力となっていることも共通点だ。……ふと思ったのだが、美江を探し出したのがキリコだったら、彼は美江を安楽死させるだろうか、それとも……?

ところで、BJが患者をファーストネームで呼ぶことは滅多にない。「しずむ女」のヨーコはその代表的な例外だが、美江もその数少ない例外の中のひとつである。BJは患者を「あなた」「きみ」「おまえ」と、主に長幼の序と患者の質で呼び分けているようだが、一番多いのはやはり「おまえさん」だろう。美江に対しても最初は「おまえさん」と言っている。美江が名前で呼んでくれと言ったのでそのときだけ「美江」と呼ぶが、またすぐに「おまえさん」と言ってしまい、「やっ こいつは口ぐせでな」と頭を掻いている。それが、美江が人事不省に陥ってからは、ごく自然に「美江」と呼んでいるようだ。親身になれる相手に対して、BJはファーストネームを呼ぶのだ。美江がBJに心を開いていったように、BJもまた美江を近い存在として感じていた証拠ではないかと思う。同じ緊張状態を共有した者同志が抱く親近感を、心理学では「吊り橋理論」という言葉で表現するが、それだけで説明できるものではない、ヨーコに対するのと同じような、人間の哀しさそのものに対するシンパシーがあったのだろうと思う。

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