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脳死問題

BJは脳死についてどう考えているのか。

・「二度死んだ少年」では、自殺を図り脳死状態となった少年を、「脳実質に電気刺激を与え」ることで蘇らせている。
・「植物人間」では、脳死状態の母親とその息子トッペイの脳をコードで繋ぎ、母親の脳に電気刺激を与えるとトッペイの脳に母親の声が聞こえるという実験成果を得る。

この二つの例では、ともに脳は生きていた。つまり脳死の判定を下したこと自体が間違っていたわけで、それは即ち身体の不思議さと脳死判定の難しさの指摘であり、ひいては脳死判定の基準を設けることの是非そのものへの倫理的な問題提起ともなっている。

・「からだが石に……」では、脳死状態となった赤ん坊に、その兄の脳を移植する。
・『ミッドナイト』最終話では、脳死状態の少女に、ミッドナイトの脳を移植する。

Photoこの二つの例では、BJは脳死を死と認めている。いや、認めているという言い方には語弊がある。脳死を死ということに決めたのである。『ミッドナイト』では「おれは生まれてはじめて 恐ろしく冷酷な決定をくだすぞ」という決意のもとに「生命維持装置をはずしたまえ。この患者はもうとっくに死んでいる」と裁定を下している。相当の覚悟が要ったであろうことは想像に難くないが、しかしこれは「植物人間」で悪あがきとも思えるほどに脳死を認めなかったBJとも思えぬ変節ぶりとも受け取れよう。BJははたして脳死をどのように考えているのか。

基本的にBJは脳死を人の死とは思っていない、と私は受け取った。それ以前の問題として、脳が死んでいると証明することは人間には(いまの医学では)不可能だと考えているように思う。「植物人間」で、彼はこんな話を引いている。「スペインのいなかで死んで四日たった男が生きかえった例がある。この男は心臓どころか脳波も止まっていた……そこで家族が棺桶へいれてお通夜をしていたとき 突然ムクムクと起き上がって助かったんだ。その男にわたしも会ったがね 自分ははじめから意識もあって生きてることをまわりに知らせたかったが 身動きもできなくってすごくつらかったといっていたよ」。(注:「心臓どころか脳波も止まっていた」は「脳波どころか心臓も止まっていた」の間違いか?)

では、「からだが石に……」と『ミッドナイト』最終話でのBJの行動はどう捉えればよいのか。上に挙げた4話は本誌の掲載順に沿っているので、その間にBJの考え方に変化があったと考えられないこともない。しかしそれだと「おれは生まれてはじめて 恐ろしく冷酷な決定をくだすぞ」という覚悟にそぐわないように思う。BJ自身、自分の考えを「冷酷」だと言っているのだ。脳死を死と認めているならそんなことは言わないだろう。

BJは変節などしていない。彼は脳死の判定を人の死とは認めていない。ただ彼は「脳死と判定された人間」よりは「議論の余地なく間違いなく生きている人間」の方を優先するのだ。これは終始一貫している。「二度死んだ少年」では、生き返らせた少年がまさかすぐに死刑になるとは思っていないから、単に死の淵にいる少年を蘇らせるべく治療に当たっている。「植物人間」では、息子が母親の死を受け入れておらず、まだ生きていると思っている。BJは彼の願いを叶えるために母親が生きていることを証明する。「からだが石に……」では、誰もが死んでしまったと思っている赤ん坊よりその兄の難病を治すことを考える。『ミッドナイト』最終話では、死にかけているミッドナイトの命を救うために、脳死状態の恋人の身体を犠牲にする。いま生きている人間、生きていてほしいと誰かが思っている人間を優先して救うことにおいて、BJの行動は一貫しているのだ。そのためになら、BJは脳死を人の死であると自分の覚悟と責任のもとに「決める」ことがある。

脳死ははたして人の死なのか? 臓器提供の意思にも関連して、いまや誰もが無関心ではいられない問題となった。たいして議論も尽くさずに国会で決めてしまってよいものだとはとても思えない。ところで、ネットを漂流していて次のような記述にぶち当たった。「脳死判定後、臓器を取り出すときは「麻酔をかけて」臓器を取り出すそうです」。真実かどうかは知らない。しかし真実だとすれば、現場の医師もまた脳死の判定に疑問の余地があると思っていることの証拠にはならないだろうか。

Photo_2【なお、「植物人間」では、トッペイの母親を脳死状態にしてしまったのはBJのミスだと他の医師に言われている。海難事故で救うべき怪我人の順番を間違えたと指摘されているのだが、これをBJのミスとするのはいかにも可哀想な気がする。BJはおそらくトッペイ母子とは違うボートにいて、別の怪我人の手当てをしていたのだ。しかし、彼は非難されても一言も弁解していない。そう思われても仕方ないと思っていたのか、そんなことは問題じゃないと思っていたのか、そのあたりはよくわからない。しかしとにかく、BJの関心は本当に脳死なのかどうかだけに向いている。トッペイが「生きています!!」と言い張る限りにおいて、BJにはそれを証明することが使命であったわけである。どんな状態であったとしても母親に生きていてもらいたいと思う息子の心情を、BJほどよく理解できる医師は他にはいまい。】

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コメント

脳死の定義は今どうなっているのか。
「植物状態」というのが「=脳死」となっているなら、それは脳死ではなく「体死」とでも言うべきだろうと思う。

植物状態であっても、中の人には意識があるかもしれない。
そもそも、「意識=電気信号(脳波)」なのかすら、現代科学では証明できていないのだから、脳波がなくて「死んだ」とするのは微妙なところだと思う。

たとえば、臨死体験をした人は、外から見て脳波が有ろうと無かろうと、夢のような体験をしている事が多い。
夢を見るということは、意識はあるということだと思う。

けれど、脳波が止まれば心臓も代謝も止まり、日がたてば腐敗が進むはず。
にも関わらず、意識があるかもしれないと言うのなら、意識と肉体は「そもそも別個のものなのではないか」

というのがわたしの考えです。

投稿: もりびと | 2009年9月 1日 (火) 02時07分

もりびとさん
「脳死」と「植物状態」というのはイコールではありません。その違いについてはいろいろ難しい定義があるのでしょうが、私の認識では、「脳死とは脳の全部の機能が停止している状態」で、「植物状態とは一番原始的な中枢である脳幹だけが生きている状態」です。だから、脳死では脳波も平坦で自発呼吸もできませんが(心臓は動きます)、植物状態では自発呼吸もできますし、瞳孔反射ほかの反射機能も生きています。
記事で取り上げた「植物人間」は、タイトルだけ見ると「植物状態」を思わせますが、症例は明らかに「脳死」です。だからこのタイトルはマズイと思います。

>植物状態であっても、中の人には意識があるかもしれない。
BJ先生はまさにそれを証明しようとしたのですね。

>意識と肉体は「そもそも別個のものなのではないか」
では、意識は外部にあるのかということになってしまいますが……。やっぱり意識と肉体を繋ぐものは「脳」なんじゃないでしょうかね。ただその脳というのが、使われていない(と思われる)部分がいっぱいあるのだそうで、そこの部分に重大な秘密が隠されているのかも。脳というのは本当にまだよくわかっていないそうですから、ただ単に脳波計が動くか動かないかで意識があるかないかを判断するのは、いかにも危険な気がしますね。医学の発達を待ちたいところです。

投稿: わかば | 2009年9月 1日 (火) 23時45分

やっぱり脳死=植物状態じゃないんですね。

体と意識のお話ですが、子供は3歳前後まで、胎内の記憶をもっているらしいです。
産まれる瞬間、つまりは自分が胎外に出る瞬間を覚えていたり、中にはそれより以前、母体の外から見た記憶を持っている子もいるという話です。

それ以降は成長するに従って忘れるようですが。

証拠が曖昧な話ですが、それが本当なら、意識は肉体がなくても有り得るのかなと思います。

もし脳が、その意識と肉体を繋ぐものなら、意図的に離す方法もあるのかもしれませんね。

幽体離脱とか、ボゼとか、輪廻転生とか、信じている……というか、あった方が面白いよねって受け入れてるので、わたしの中では「肉体と意識は別個」という方がすんなりいくんです。

投稿: もりびと | 2009年9月 2日 (水) 01時32分

もりびとさん
なかなか興味深いお話ですね。私もそのテの話は嫌いじゃありませんが(笑)。
ダライ・ラマなども輪廻転生を繰り返していると言われているわけで、意識がその乗り物である肉体を次々に取り替えているという考えが前提としてあるのでしょうね。
もしもそれが私の身に起こっていれば一も二もなく信じるのですが、私には前世の記憶はまったくありません。よっぽど健忘症なナニかだったんでしょうか(笑)。

投稿: わかば | 2009年9月 3日 (木) 00時43分

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