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2009年12月

雪の大晦日

思わぬことのあった2009年でしたが、穏やかな大晦日を過ごしています。障子も張れました。
今年も皆様にはたいへんお世話になり、ありがとうございました。
来年も、皆様方にとって明るい年になりますように。
良い年をお迎えください!

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泣いても笑っても

今年もあと1日となりました。明日は大掃除の正念場。障子の張り替えもしなくちゃいけません。できるかなぁ。
ところで、天体望遠鏡を買いました。新年早々の月を見たいのですが、天気予報では雪マーク。こういうとき、日本海側は悔しいです。

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携帯よりメリークリスマス

パソコンが返ってくるまで2週間くらいかかるようなので、ネット絶ちの年末年始が決定しました。しょぼん。バックライトを交換するだけなんだけどナ。
ところで、きょうはイヴですね。自分の一番大事なものをお金に替えてまで愛する人にプレゼントを贈ろうとしたO・ヘンリの恋人たちに思いをはせつつ、夫には『ゴジラの逆襲』のDVDを贈ります。

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携帯より

パソコンのモニターが突然真っ暗になってしまいました。明日、修理に持って行きます。直るまでメールなどのお返事ができません。ごめんなさい。

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(備忘録091222 冬至)

『緊急警告!!2012年人類破滅!?ノストラダムス最後の大予言SP』を観ているうちに、うたた寝をしてしまっていた。O塚さんの声は心地よいわぁ(笑)。予言の胡散臭さはこの際置いておくにしても、こういう本当だか嘘だかわからない番組は好きだ。感想を書いてみたいが、今夜はもう思考力ゼロ。おやすみなさい。(最近、ろくな記事を書いていない。ちょっと忙しくなってきたので、年末いっぱいこの調子かも。汗)

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黒医者にはNYがよく似合う

2bd_in_ny……ような気がして、先週の京都から今週はNYに行ってもらいました。
バックはロックフェラーのツリー。

2bd_in_ny2 ←こっち、よろしければお持ち帰りください。
今年1年の感謝をこめて。m(_ _)m

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(備忘録091220)

版画を彫り始めた。肩凝った~。

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もうちょっとで世界地図

今朝はヤバかった。この歳になってもうちょっとでおねしょするところだった。いきなり尾篭な話でスミマセン(汗)。

普通寝ているときに尿意を催したとき、一生懸命トイレを探すのだけれどもドアがなかったり人目があったりとても汚れていたりしてどうしても用を足すことができない、という夢を見ることが多い。うわー、こんなところでできないよ、どうしようどうしよう、と焦っているうちに目が覚めて事なきを得る。

ところが、今朝の夢は違っていた。たくさんの人が集まっていて私もその中にいるのだが、それが皆急いでトイレに行きたい人ばかり。前方に一段高くステージがあって、そこに掲げられている横断幕には「さあ!勇気を出してあなたもそこでしよう!」と書いてある。トイレでなくその場で放尿しようという集会のようだ(何だそれは)。周りからはコソコソヒソヒソと「だってそんなことできないわ~」という呟きが聞こえる。うん。私もそう思う。

そのうちに、ステージに山村○葉さんが上がってこられた。身振り手振りとともになにやらアジ演説をしておられるようだが、よく聞こえない。バックの横断幕が一瞬に「山村○葉 私は箪笥の上からやります!」と変わり、観衆「おー」というざわめきと拍手。ボルテージ最高潮。「俺もやるぞー!」「私も勇気出すわ!」という声がそこかしこから。

やがて、「きゃあ、やっちゃった!」とか「勇気出してよかったな!」と男泣きにむせぶ奴まで現れて、わ、わ、私も勇気出さなくちゃ、でもパンツどうするの、そのままやるの、とオロオロしているところで目が覚めた。すぐさまトイレにダッシュ。……よかった、あのとき勇気出さなくて! もうちょっとで勇気出すところだったヨ。でもそういう雰囲気にさせる夢ってのはズルイよなぁ(笑)。

調べてみたら、大人のおねしょというのは案外あるものらしく、その多くはストレスと関係があるとされていた。「身体機能に特に問題のない大人の夜尿は、相当なストレスに対する“もうがまん(コントロール)できない”というこころの反応でもあると考えてみることが可能です。」などと書かれている。また、泥酔状態の場合にも起こるそうだ。だからそれほど恥ずかしいことではないのだろうが、世界地図が描かれた布団を干す自分を想像することこそ一番大きなストレスかもしれない(笑)。

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(備忘録091218)

読書中につき、記事はお休みします。m(_ _)m
年賀状の図案もそろそろ決めないとなぁ。……てか、はがき買わないと。

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ホットフラッシュ

雪がちらつく寒い一日。ところがこんな気候になっても扇風機がしまえない。服用しているホルモン剤の副作用のひとつに「ホットフラッシュ」というのがあって、まぁいわゆる「のぼせ」というやつなのだが、一日に数回身体の芯から燃えるように熱くなって大汗をかくので、「あつ!あつ!」と大騒ぎしながら扇風機をブンブン回すのである。寝ているときにも起こる。しかし、そうでないときは、人並みに寒い。かくして、現在わが家の居間には炬燵とストーブと扇風機が同居しているのである。

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『マイケル・ジャクソン 愛と哀しみの真実』

『マイケル・ジャクソン 愛と哀しみの真実』を観た。私は特別彼のファンだったわけではないし、いったいどういう人だったのだろう?というくらいの興味で観たら、なかなかに見応えのある番組で、考えさせられることも多かった。

彼の児童虐待疑惑がどのように捏造されていったかを再現ドラマで見せる構成だったが、マイケルを演じた人がとてもマイケルに似ている綺麗な人でまずビックリ。サスペンスドラマを見ているような感覚で、どんどん事件の深みに嵌っていくマイケルをだんだん可哀想に思い始め、彼が無罪判決を勝ち取ったときには本当にホッとした。

きょうの番組で描かれたことが真実かどうか、それは私には判断できない。当時マイケルがマスコミからあれだけバッシングされたときに(それで彼はだんだんと薬物に依存するようになっていったのだが)、多くの人々がその報道を鵜呑みにしてしまったように、きょうの番組を観てその内容を丸ごと信じることはまたその轍を踏むことになるかもしれないという危惧はある。ただ、印象としては、彼は「白」だ。

人の悪意とか限りない欲望の恐ろしさとかをまざまざと見た思いがする。また、警察もマイケルを陥れようとする一派の片棒を担いだ感がある。虐待されたという少年への質問などはどう見ても誘導尋問だ。未成年者への虐待は決して見逃してはならないことではあるが、そしてそれは詐欺や恐喝を見逃すより重大なことかもしれないけれども、真実を捻じ曲げようとする作為には怒りを覚えた。

裁判の様子なども興味深かった。検察と弁護士との証拠の出し合いと潰し合い。腕の良くない弁護士なら負けていたかもしれないと思うと、裁判というもののあり方をも考えてしまう。法廷とは真実を明らかにするところなのか、それとも原告・被告、検察・弁護人の双方の立場で勝ち負けを争うところなのか。いつ自分が裁判員に選ばれるかもしれない今日、それは決して他人事とは思われなかった。

裁判には多くのビデオ録画が証拠として採用されたようだ。芸能人を巡る事件なのだからそれも頷けるところではあるが、いかにも現代的な証拠品だという印象を持った。ちょっと前にも、子どもが気球に乗って飛ばされてしまったとでっち上げたバカ家族がいたが、ビデオの中である役割を演じることで、マスコミに取り上げられて有名人になることをステータスだと思うバカさ加減にはほとほと呆れ果てる。マイケルに虐待されたと言った少年とその家族も、目的はそんなところだったんじゃないかな。

華やかで甘いケーキに群がって恩恵に与ろうとする害虫たち。人々に夢と希望を与え続けようとした一人のアーティストは、そんな狡猾な悪人たちの前に無防備に、そしてあまりにもピュアに、ただ立ち尽くしていたように見えた。

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meteor

毎年この時期になると、寒いのに窓を開けてふたご座流星群を眺めているのだが、これは!と思うようなものにはとんとお目にかかったことがない。拙ブログにお越しくださるSYさんは昨夜素晴らしい流星をご覧になったようで、羨ましい限りである。それはもう流星と言うより火球と言ったほうがよい代物かもしれない。

ここ島根県では、1992年12月10日夜に美保関町に落下した隕石(美保関隕石、6380グラム)が有名だ。民家を直撃し、2階の屋根から床下まで貫通した。当日の天候は雷雨だったため、その家の人は雷が落ちたかと思ったのだそうだが、晴れていたら巨大な火球の目撃談なども出たかもしれない。

さて、今夜もちょっと夜空を見上げてみるとしよう。『ウェザーニュース ふたご座流星群』のページはコチラ。あなたのお住まいの地域でも見えるかも。

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ふたりの黒い医者

何かネタはないかな~と思案していて、思い出したのが『BJ2D』。2005年12月17日に劇場公開されたけれども、あれからもう4年も経ったとは感慨無量である。そのときの映画館のチラシも座席券の半券もいまだに取ってある(笑)。その後、一回もTVでオンエアされていないというのも、考えてみれば悔しいことではあるよなぁ。宮崎アニメはあれだけ繰り返しやってるのに。

真っ黒な落書き1枚。慌てて描いてどこかしこおかしいので、隠します。こんな胡乱げな奴らがこんな人通りの多いところで、殺すの殺さないのと普通に会話しているというギャップが好きなシーン。いつかちゃんと描いてみたいな。

続きを読む "ふたりの黒い医者"

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スカート男子

「草食(系)男子」や「弁当男子」等々、「○○男子」という言い方が流行った今年。先日は「スカート男子」という言い方があるのを初めて知った。東京のおしゃれな街で見かけられるようになったファッションだというが、決して女装という意味合いではなく、スカートのラインが綺麗だからはいているにすぎないのだとか。残念なことに、私はまだ見たことがない。

スカートを着用していた男性というと、私は『暮らしの手帖』の編集長だった花森安治を思い出す。彼の場合も女装というわけではなくて、独自のファッションセンスと、既成概念を打破することが目的だったとされている。

考えてみれば、日本の袴だってスカートみたいなものだ。よく応援団の団長がはいているような「行灯袴(あんどんはかま)」には股(まち)がないから、まったくスカートと同じ形状だ。ちなみに『ルパン三世』の五右ヱ門が着用しているのはおそらくズボン状の「馬乗袴(うまのりはかま)」だが、男性の正式な袴は「襠有袴(まちありはかま)」という裾が30㎝くらいズボン状になっているものなのだそうだ。袴姿の男性を奇異だとか女っぽいとは思わず、逆にキリリとした男らしい印象を受けるのだから、スカート男子だって着こなしによっては女々しくならずに似合うのかもしれない。

それにしても最近は、ジーンズの上にスカートを着用したりすることが当たり前になったりして、ズボンだのスカートだのの役割(?)が変わってきているのかもしれないと思う。ただ綺麗な布を素敵に身に纏いたいという、先入観に縛られない素朴なおしゃれ感覚の表れなのかもしれない。ただ私の感覚から言えば、あれもこれもと凝りすぎてちょっとごちゃごちゃし過ぎているのではないかと思うのだけど……。

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『サムライ・ハイスクール』

今クールのお楽しみだった『サムライ・ハイスクール』の最終回を観ました。三浦春馬クンが演じるイマドキの高校生・小太郎と400年前に真田幸村の家臣だったサムライ・小太郎の二役が、なかなか見事でした。

前回から幸村ゆかりの名刀村正を巡るお話になっていましたが、サムライが取り戻すでもなく、なんだかちょっとスッキリしなかったと思うのは、私の理解力不足のせいでしょうか。高校生小太郎が通っていた「東雲歴史文庫」(だったかな?)の司書のお姉さんの正体は、え? 人形? しかも、顔が怖い(笑)。幸村や小太郎とどういう関係だったんでしょうね???

まあ何はともあれ、ヘタレな高校生に御先祖様が乗り移ったとたんにまことにカッコよくて強いサムライに変身して、悪を一刀両断してしまう痛快さが楽しいドラマでした。考えてみれば、変身物とタイムトラベル物と青春物の三つの要素があったんですよね。贅沢に楽しませてもらいました。原作はマンガかな? そんな感じがするんですが。映画にしても面白そうな気がします。

そうそう! あの司書のお姉さんが「ぎ」の付く言葉を列挙していて、「ギヤマンの鐘……だいじょ~ぶ」と言ったのには吹き出しました(笑)。元ネタのわかる人がどれくらいいるかしら? 『仮面の忍者赤影』第二部「卍党編」で、赤影さんたちは莫大なエネルギーの製法を秘めた3つのギヤマンの鐘(サタン、ゼウス、マリア)を探すのです。鼻の下に親指を当てて手のひらをクルッと回すポーズの「だいじょ~ぶ」は、ご存知青影さんの決め台詞。こんな台詞を言わせるなんて、脚本家さんに拍手です!

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「最近の若者はなってない」

「最近の若者はなってない」というのははるか紀元前から言い古された言葉だ、というのは誰もが知っている事実だと思うのだが、ではその出典は何かというと、これがはっきりしていないらしい。

ロゼッタストーンに書いてあるだとか、アッシリアの粘土板に書いてあったとか、プラトンがそう言ったのだとか、諸説あるようだが、どれも明確には書かれておらず、伝聞の類のようだ。だから本当に大昔からそう言われていたのかどうかは明確ではない。でも、確たる証拠はなくとも、絶対に言われていただろうと皆が納得しているところが面白い(笑)。

大人はそう言わなくちゃいけない立場なのだ。過去の自分も至らない人間ではあったけれども、それには目を瞑って、そういうことを言うのが大人なのだと思う。妙に物分かりよく若者にすり寄っていくのは、本物の大人じゃない。紀元前の昔から順繰りに申し送りされてきた言葉を言って、大人は若者に対してその役目を果たしているんじゃないかと思う。いい歳をした大人になれば誰もそんなこと言ってくれないし、逆に、言わなくてはならない立場になる。若いうちにさんざん言ってもらえるほうが幸せだ。

いや、ちょっと前に録画した番組の中で、90歳代のおばあさんが現代の若い女性に対して苦言を呈しておられたのが、とても毅然としていて説得力があったもので。こういう大人になりたいなぁと思った次第。

「最近の若者はなってない」。これは『アシモフの雑学コレクション』(Isaac Asimov 著)という本の中でも言及されているらしいので、今度見つけたら読んでみよう。

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(備忘録091210)

年賀状の図案を考え中につき、記事はお休みします。m(_ _)m

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生きる意味より死なない工夫だ

『老師と少年』(南直哉著)読了。

--ぼくはいつか死ぬ。たったひとりで。なのに、大人は平気で生きろと言う。理由なき世界に生み落された少年は、「ただ死んでいく」のではなく、自ら「生きていく」ことを選びたいと願った。そして、月に照らされた森を抜け、老師の庵へとたどりついた--九夜にわたる問答を通して語られる、命の苦しさ、尊さ。気鋭の禅僧の精錬された文章とその行間が、魂へ深く深く突き刺さる現代人必読の物語。--(新潮文庫カバーより)

1時間もあれば2回は読めそうな分量で、しかもいたって平易な文章の本だが、私には一生理解できないかもしれない。少年は老師の話を聞いて一夜一夜理解の度を深めているようなのが、悔しくも羨ましい。

私の劣った理解力では、この本の感想をどう書いても「誰がそんなことを言ったか」と老師に怒られそうで、何も書けそうにない。ただなんとなく、書いてあったような気がすることといえば、第四夜で「聖者」に象徴された「宗教」と、第五夜で「隠者」に象徴された「虚無主義」を両方とも否定しているということだ。老師は言う。「聖者も隠者も欲望の影にすきない」。

第六夜で、老師が昔出会った<道の人>は「答えを出すことを、断念せよ」と言う。答えが問いを誤まらせるからだと。……もうこのあたりになると、禅問答のようで、脳がひっくり返りそうになる(笑)。しかし「答え」と「問い」というものの関係が少しわかったような気にもなる。「問うべきことを問うのだ」という言葉は、少なくとも私にとって衝撃的であった。

う~ん。今はもうこれ以上は何も書くことができない。これから何回読み返してみても、「分かる」ということは永久にないように思える。でも、この本には何かがある。分かりたいものだなぁ……。

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Emerson, Lake & Palmer

「2010年夏、ロンドンでクラシック・ロック、プログレ、メタル専門の新しいフェスティヴァル<High Voltage Festival>が開催されるが、そこでエマーソン・レイク&パーマー(ELP)がワンオフでリユニオンすることが明らかになった。」というニュースを目にした。記事のタイトルが「エマーソン・レイク&パーマー、最後かもしれない1回きりのリユニオン」となっている。そうだよね。最後になる可能性は高いよね。

私の高校時代は、ELPの音楽とともにあった。8時から9時までの1時間、きっちり彼らのアルバムを聴いてから、さて勉強……となる毎日だった。あまりにも数学の点数が悪かったときは、この記事にジャケットの写真が載っている『恐怖の頭脳改革(Brain Salad Surgery)』を聴きながら泣いた(笑)。別に悲しい曲が入っているわけではない。腹に響くような重低音に華麗なキーボードがかぶさる壮大で重厚でちょっとダサい曲に巻き込まれながら、ああ自分は何をやってるんだろう、と青春の挫折を味わったりしていたのだ。テストの点が悪いだけであれだけ落ち込めるのも青春の特権だとは今にして思えることなのだが、まあ何にしてもELPは私の青春時代の輝かしい思い出なのである。

最年長のキース・エマーソンが65歳。最年少のカール・パーマーも来年は60歳になるはず。ソロで活動することはあっても、3人揃うことはこれが最後かもしれない。行きたいけれども、どんだけプレミアがつくことやら。DVDが発売されたら買うけれども。はぁ……。また一つ私の青春が終わったなぁ。

Elp←1978年に買ったELPの本とスコア。結構練習した。そんな暇があったら勉強しろよって話です(笑)。

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その男、メスを握れば“神”となる。

Bj出崎OVA版『BJ』のDVDを入手したちょっと後に、実は『BJ 劇場版』(1996)も買ってしまった。ストーリーはコミカライズ本を読んで知っていたし手塚治虫の原作にはない話でもあったから、それほど欲しくてならなかったというわけではないのだが、この再版を逃したら入手できなくなるかもしれないと思って、奇貨居くべしとばかりに買った。

始まって間もなく、夫が「この顔は『あしたのジョー』だ」と指摘。うん、確かにね(笑)。両方を手掛けた出崎・杉野コンビだから、BJとジョーがドッキングするのも無理はないのだけれども、アニメなどまったく見ない夫でもわかるくらい、やっぱり似ているんだよね(笑)。似ているといえば、主題歌の一部分のメロディが松田聖子の『SWEET MEMORIES』とそっくりである。

おおまかなあらすじは次のとおり。
--世界中で超人類ブームが起こっていた。従来の人間では考えられない集中力でパワーを発揮する彼らは、オリンピックや芸術の分野で次々に驚異的な活躍を見せる。ところが、実は彼らはある共通の病気に冒されていた。超人類と呼ばれる人達の入院管理をしているブレーン製薬のジョー・キャロル・ブレーンから、彼らの体に巣喰う病原菌の原因究明と手術を依頼されたブラック・ジャックは、その病原菌が脳下垂体の中に入り込んで、大量のエンドルフィンを分泌させていることを発見する。しかし、そもそも病原菌を彼らに移植して人体実験を行っていたのがジョーの仕業であることを、戦う医師団“M・S・J"のメンバーによって知らされたブラック・ジャックは、その非人道的なジョーのやり方に腹を立て、研究を降りようとした。ところが、ジョーはピノコを人質に取った上に、ブラック・ジャックの体内にその病原菌を植えつけてしまった。研究を続行しなければ、ピノコと自らの命も危険に晒されてしまうことになる。ブラック・ジャックはジョーがその菌を発見したという砂漠に赴いて、それがフルジウムという花の花粉であることを突き止める。しかし、ジョーは行き過ぎた研究を非難されて、ブレーン製薬の会長の刺客によって射殺された。ブラック・ジャックも体に入り込んだ病原菌に次第に蝕まれていく。だが、彼は長い間砂漠に住んでいる砂漠の民によって、命を救われた。彼らは、その花粉の抗体の存在を知っていたのである。抗体を手に入れたブラック・ジャックは、瀕死の状態の超人類達を救うと、ピノコとふたりで再び闇の医療の世界へと戻っていった。--(Wikipedia より)

どことなくTVアニメ『BJ21』に似ていると思うのは私だけではあるまい。大量のエンドルフィンを分泌させて人を超人にする試みは、人を不老不死にしようとするノワール・プロジェクトと同じ匂いがする。それらが新たな病気を生み出してしまうところも同じ。最後に見つかる特効薬のフルジウムに相当するのは「本間血清」だ。そして何よりも、BJを後がないところまで追い詰めて事件の核心に迫っていかざるを得ない状況を設定するという手法がそっくりだ。『BJ21』では岬の家を爆破されて帰るところもなく、21年前の爆破事故の真相を探らなくてはならなくなり、最後にはBJ自身がフェニックス病に感染するが、この劇場版ではピノコが人質に取られ、BJ自身も超人類にされてしまい、何としても治療法を見つけ出さなくてはならなくなる。

決して進んで人前に出ようとしないBJを活躍させようとすると、どうもこういうストーリーになってしまうようである(笑)。描こうとしたテーマも、医学がどこまで人間(を含む自然)や生命の問題に関与してよいのかという、同じものだったと思う。手塚治虫が原作で繰り返し描いたのもそういうテーマだから、その点では原作をスポイルするものではない。しかし、原作では、BJはそういう医学(医療)のあり方について悩むのである。その姿がBJには欠かせない大きな魅力なのだが、この2編のように追い詰められた挙句に他人がやった研究の失敗の尻拭いをせざるを得ない状況のBJには、その悩みがない。悩んでいる余裕がない。だから何かこう……、物足りないと思うのだろうな。BJにどのように悩ませて、どのような結末を持ってくるかということは、やはりオリジナル作者の手塚治虫にしか考えられないことなのかもしれない。

作画は文句なしに素晴らしい。ピノコがOVA版よりも可愛くなっているのも嬉しい。ストーリーも充分に面白いのだが……。なにぶんにも話がデカすぎる。BJ先生にはもっと我々に身近なところで、我々と等身大で、命の問題に悩んでのたうちまわっていてもらいたいと思うのは、私のわがままかなぁ。

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深夜の携帯メール

ちょっと前に、「ココログニュース」に「深夜の携帯メールが迷惑な訳」という記事があった。(注:この「ココログニュース」というのは、実にどうでもよい事柄ではあるが賛成反対両方の意見がありそうな事柄が取り上げられることが多く、付けられるコメントも「自分はこうしている」というたかだか数行のものに終わることが多いという、ブログのネタに困ったときに覗くためにあるようなページである。この記事も「迷惑な訳」という見出しの割りには、迷惑な訳がまったく書いてなかったりして、記事の体裁も整っていない、まぁ見なくても生活には困らないニュースページである。)

さて、この記事には現在のところ40件以上のコメントが寄せられているのだが、「メールはいつ送ってもよい。どうしても深夜に受け取りたくないのなら、電源を切っておけばよい」というのが主流の意見である。「相手を思い遣って遠慮するというのは問題ない。その考えを相手にも押し付けるのは大問題。」(←原文まま)というのまであった。

……それはどう考えてもおかしい。

売り言葉に買い言葉で返すなら、「『相手を思い遣って遠慮するというのは問題ない。その考えを相手にも押し付けるのは大問題。』というあなたの考えを押し付けられるのは大迷惑。」……となる。自分は自由にメールを送るから、受け取りたくなければ電源を切っとけ、というのにも「いったいあんたは何様だ」と言いたい。

そも深夜にメールを送る必要性のある用件ってのは何だ? 中には「緊急じゃないのはメール。……確実に連絡を取りたい時は電話」という、尻尾を出した感のあるコメントもある。また、「10分以内に返信って、携帯依存の中高生じゃあるまいし…」と、すぐに返信があることを期待しているわけではないという趣旨のコメントもある。要するに緊急性のある用件ではないようである。

つまりは、自分が送りたいから送るというだけのことであるらしい。熟睡しているときにそんなどうでもよい用件のメールを受け取るほうの身にもなってもらいたいものだ。

……ということが通じない相手だというのが、この問題の一番大きな問題点であろう。自分の欲望と相手の都合(状況、思惑、感情などなど)のどちらが大切かと問われたときに、自分の欲望だと答える人たちであるわけだ、この相手というのは。先方の迷惑を考えろという正論は通じない。

こういう人たちには、たとえ自分がへとへとに疲れてやっと眠ったときにケータイの電源を切り忘れていて(たぶんそういう人たちは電源を切るという習慣もないだろうが)メールの着信音で起こされても怒る権利はない。ここで怒るようなら彼らの論理は破綻する。ということは、彼らは自らの安眠を妨害されたときに迷惑に思ったり怒ったり抗議したりする権利あるいは自由というものを自ら放棄しているわけだ。そこまでして手に入れるべき自由だろうか、深夜に緊急でもないメールを送るということは?

おそらく、この記事に「メールはいつ送っても自由だ」とコメントをするような人たちはまだ社会に出て働いていない若い年代が多いのではないかと思う。しかし、昼間起きて働いている大多数の者にとって夜は寝る時間だということくらいは察してもよいんじゃないかな。「夜中でもメールし合おうね」という約束ができている仲良しさん同志ならどんどんやればよい。しかし、それを世間一般において当たり前だと思うことだけは、間違っているからやめてもらいたい。この件に限らず、他人の自由や権利を脅かして得られる自由なんてまがい物だ。と私は思う。

深夜のメールを迷惑だと思う者が存在することに、彼らはうすうす気付いてはいるのだろう。しかし自分は深夜でもメールしたい。欲望というより、これは「甘え」ではないかと思う。自分をいつどんなときでも受け入れてくれる人を求めているのかもしれない。たとえすぐに返事のない一方通行の送信でもよいからそういう相手がいてほしいとか、そんな手段でしか相手との繋がりや自分の存在を実感できないとかいうことだとしたら、逆に、なんとささやかで安っぽくて淋しい欲望かと、彼らを哀れに思ったりする。

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自分で考えることの大切さ

『若き友人たちへ 筑紫哲也ラスト・メッセージ』(筑紫哲也著)読了。

--愛国主義は悪党の最後の隠れ家である。本書の中で筑紫さんが語る言葉の一つである。誰もが反対しづらい美辞麗句、思わず振り向いてしまう大きな声には注意が必要だ、という意味である。二〇〇三年から二〇〇八年にかけて、筑紫さんは早稲田大学と立命館大学で主に大学院生に向けた講座をもっていた。その中で再三伝えようとしたのは、情報や情緒に流されることなく自分の頭で考えることの素晴らしさであった。この一連の講義録をもとに、本書は構成された。「若き友人」を「日本人」と置き換えてもいい。筑紫哲也さんからの最後のメッセージである。 --(「BOOK」データベースより)

試しに Amazon のレビューを覗いてみたら、星5つが3票、星1つが2票。案の定、評価が真っ二つであった(笑)。筑紫さんを認めない人には右翼系の人が多いと思うけれども、最初から反感ありきでは議論を深めることなど絶対にできないだろう。それは一部の韓国の人たちが日本人と仲良くしようなんてことを絶対に思わないのと同じだ。しかしそういう態度こそがいけないのであって、もっと「論」を深めましょうということが、この本で筑紫さんが主張したかったことだろうと思う。情報を鵜呑みにせず、自分の頭で柔軟に考え、それを「知」に変えて蓄えることの大切さがテーマだ。帯には「考えましょう。もっと幸せになっていいのです。」とある。

内容は、憲法、日本人論、沖縄問題、メディア、ジャーナリズム論、国家、教育等々多岐にわたり、読んでいてはっと気付かされることも多い。どうやら筑紫さんは日本が衰退に向かっているのではないかと考えておられたようで、若者に向けての言葉にはところどころ危機感が漂っている。

たとえば、当時流行していた「KY」という言葉について、「……何より気に入らないのは、この言葉の脅迫的なことです。空気を読め、さもないとお前は時代遅れだぞ、仲間外れだぞ、とおどしている。そうでなくとも「命令型」でよかった日本語を「懇願型」の婉曲話法に変えていくほど心優しい若者たちが、この同調努力にどう耐えられるのだろうか--と私はまたお節介な心配をしています。」と記している(「命令型」「懇願型」というのは、「~してください」でよいところを「~してもらってよいですか」と言い換えることを指す)。

そういう、有形無形の様々な制約を課された若者達に、こういう方向から考えたらどうだろうか、こんな人もいるぞ、と、柔軟な思考を促すための指南書として、この本は書かれたようだ。きっと筑紫さんの目には、現代の若者達が不自由そうに映っていたのではないかと想像する。しかし同時に、言葉を知らない若者達への危惧も書かれている。自在に言葉を操るジャーナリストから見れば、これは大変に由々しき事態と映ったことだろう。言葉を知らなければ自分で考えることができない。先生でも研究者でもないジャーナリストの口から言葉の大切さが語られると、それは世の中の嘘やまやかしを暴き、自分の人権を守るための武器に思えてくるから不思議だ。

筑紫さんにはまだまだ語ってほしいことがたくさんあった。リーマンショック以降の金融経済不安やオバマ政権、そして日本での政権交代等を筑紫さんがどう見るのかを、もはや知ることができないのが残念でならない。

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やさぐれぱんだ

きょう行った本屋でなぜか大量に平積みされていたので、思わず買ってしまった小学館文庫の『やさぐれぱんだ1』(山賊著)。たしか前からあったよなぁ、と奥付を確かめると初版は2007年。またブームが来ているのかしら?

--この笑い、シロか?クロか?人気サイト「山賊UNDERGROUND」から生まれた二一世紀型不条理コント漫画で、実写化も実現した注目の話題作。「笹なんて食ってられない」という類を見ないぱんだがボケたり、つっこんだり…。ひねくれていて、ぶっきらぼう、そしてやる気のない脱力系ぱんだと少年の掛け合いに思わず失笑。一度読んだら「癒される」「悩んでいたことがどうでもよく思えてくる」と、今までにない新しいタイプの笑いにハマる人が続出。本書のために書き下ろしたネタも収録。--(「BOOK」データベースより)

『聖☆おにいさん』(中村光著)のほのぼのとした笑いをもう一段シュールにした感じの、4コマギャグまんがである。「やさぐれ」と謳われているものの、そんなにやさぐれているわけでも毒があるわけでもない。何なんだろうな、この笑いは。少なくとも大笑いができるギャグではない。セリフを極力省いて、間(ま)の面白さを前面に押し出し、まったりと展開される掛け合い漫才、とでも言おうか。そして、少ない分、セリフは充分に吟味されている印象だ。全体としてはとてもハイセンスである。

ちなみに、少々酔っ払った夫に読ましてみたら、まったく面白さを感じなかったようだ。ネット上の書評など読むと、やたら「癒し」という言葉で評されていて、「へぇ~、癒しねぇ」と思った。面白くないとは言わないが、思わず失笑することで癒やされるものって何だろうと、そっちのほうが気になったりする(笑)。

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(備忘録091203)

読書中につき、記事はお休みします。m(_ _)m

テンプレを変更。前の猫さんのテンプレが好評だったので、「プロフィール」の項目のところだけは以前のままにしてあります。

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クリスマス仕様

師走になり、何とはなしに気忙しくなってきました。家の近くのケンタッキーでは10月末から既にカーネルおじさんがサンタの格好になっていたので、いくらなんでも早過ぎるだろうに、と思っていたのがつい2~3日前のことのように思えます。時間が経つのは早いなぁ。

やらなくてはならないことはたくさんあるのですが、きょうはとりあえずアバターのお部屋をクリスマス仕様にするのに忙しかったです(たぶん緊急度の一番低い仕事であらふ)。明日からいろいろなことを頑張ります。

Viewimage091202いま、こんなんなってます。たまたま訪問してくださる方があったので、サンタさんの置物ももらえました。ラッキー♪ たまにはタウンにも出掛けてみるものです。

このアバターは「ニコッとタウン」の提供で、仮想のタウンに出掛けて買い物をしたり、アバター同士で会話したり、サークルに入ったり、ゲームしたりできます。ブログのサービスもあって、それを書けばコインが稼げるのですが、コメントを下されば先様を訪ねたりもせねばならず、そういうことが面倒くさくて疲れるタチなので、そっちのブログはやっていません。どうも若い人が多いようですし、このブログだけで充分です。こういうの、のめり込んでやったらそれなりに楽しいだろうとは思うのですが、どうも気力が湧きません。基本的に、ひきこもり体質なんだろうと思います(笑)。ああ、そろそろここのテンプレートも替えないと……。

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(備忘録091201)

『ジーキル博士とハイド氏』(スティーブンスン著 村上博基訳)を読書中。このたび光文社文庫から新訳で出たもの。

面白い。子どもの頃に読んだのだが、細かいところは忘れていた。こんなに深い話だったとは。帯に書かれている「なぜ、悪には快楽が添えられているのか?」「人間は、最終的にハイド氏を選ぶことを運命づけられているのかもしれない……」などの惹句に考えさせられる。『BJ』の「人面瘡」や、ダニエル・キイスの『五番目のサリー』『24人のビリー・ミリガン』なども思い起こされ、人間の心理の不思議さに戦慄する。

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