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2011年7月

集団と個

Photo『働かないアリに意義がある』(長谷川英祐著)読了。

--7割は休んでいて、1割は一生働かない。巣から追い出されるハチ、敵前逃亡する兵隊アリなど「ダメな虫」がもたらす意外な効果!--(帯より)

カバーに「社会性昆虫の最新知見に学ぶ、集団と個の快適な関係」とあるように、アリやハチなどの社会性昆虫の生態と戦略が解き明かしてあり、そのどこか人間社会にも通じる有様に何やら身につまされる思いのする一冊である(笑)。

「7割は休んでいて」の7割というのは、つまり遊軍である。100%が常に働いている状態だと、何か突発的な出来事があったときにそちらに割く余力がなく、コロニー全体がやられてしまう危険がある。そういう事態を避けてコロニーの末長い存続を図るならば、7割は休んでいる必要があるのだという。

働く3割になるか休んでいる7割になるかは、個体の閾値による。人間の例でわかりやすく言うならば、部屋が散らかってきたときには、いちばん綺麗好きな人から掃除を始めるということだ。それはその人が「掃除しなくちゃ」と思う閾値が低いからで、反対に閾値が高い人は「まだ掃除しなくていい」と思って休んでいるわけだ。そして何らかの理由でいちばん綺麗好きな人がいなくなってしまうと、二番目に綺麗好きな人が掃除を始める……。これと同じようなことが虫の世界にも起こっているのだそうだ。その仕事に向いている個体が働く仕組みになっていると言える。「反応閾値モデル」と言うらしいが、虫にも個性のようなものがあるのがおもしろい。

しかしアレだ。もしも私がせっせと掃除をする3割の方に入っていたとするならば、掃除しない7割の連中に「不公平だ」と腹を立てそうに思うのだが、虫たちはそんなことは思わないのかな。「彼らはいざというときに働くのだから、いまは休ませてあげよう」なんて思っているのかな。虫って偉いな(笑)。

上に挙げたのは一例だが、進化論とも絡めて虫たちの様々な戦略がとてもわかりやすく書かれている。集団と個がうまくやっていくようにプログラミングされた自然界のシステムには驚かされる。

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修行の意味

Photo『迷える者の禅修行 ドイツ人住職が見た日本仏教』(ネルケ無方著)読了。7月5日付の記事で触れたネルケ無方さんの著書である。いやいや、面白かった。

--「お坊さんになって悟りたい!」―。悩めるドイツ人青年の危機を救ったのは、祖国で出会った坐禅だった。出家の覚悟を決めて来日するも、そこで見たものは、この国の仏教のトホホな姿。算盤を弾くばかりの住職、軍隊のような禅堂、仏教に無関心な世間…。失望と流転の末、ようやく辿り着いた理想の修行は、小さな山寺での自給自足・坐禅三昧の生活だった。日本人が忘れた「一瞬を生きる意味」を問う、修行奮闘記。--(カバーより)

幼少期に母親を亡くした筆者は随分と内省的な青年だったようだ。クリスチャン・スクールに通うも「私とは何か? 生きる意味とは何か――」の答が見つからない。たまたまそこで座禅と出会い、傾倒。日本に来て修行を積み、一時はホームレスになったりもしたが、現在は兵庫県にある安泰寺の住職さんである。

筆者が修行の中で悟った諸々のことももちろん書かれているが、より重きを置かれているのは、何故修行をするのか、つまり「修行の意味」ではないかと感じた。頭でっかちに「私とは何か? 生きる意味とは何か――」と考えていた筆者が、どうして修行によって救われたのか。それはすべてを捨てようとするものであったからに違いない。

たとえば昔のオウム真理教の修行と比べてどこが違うのかというと(もちろん私はオウムの信者ではないので実際のところはわからないけれども)、オウムの修行が何かを手に入れるためであるのに対して、筆者が行った修行はすべてを捨てるためのものであったと感じるのだ。オウム信者が求めたものが何か外部から与えられるパワーであったように思われるのに対し、筆者は「いま、ここ」にいる自分というものだけをすべての拠り所にしようとしたように感じられる。

どっちの修行が正しいのかなどということは私にはわからない。ただ、富士山麓にあったサティアンのゴミだらけの汚らしい様子を思い浮かべてみれば、筆者の座る姿の美しさだけを取ってみても、やるべき修行はこっちではないかと思わせられるのである。

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Gさんのお誕生日

Garden110721Gさんのお誕生日を祝して、赤い花でハートを象った庭で記念撮影。

左から、土用丑の日の鰻丼を頭に乗せた私、黒天使コーデのGさん、艶やかなドレス姿のKさんです。
Gさん、おめでとうございます♪ よろしければ写真、お持ち帰りください。^^

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おめでとう なでしこJAPAN

なでしこJAPANの快挙のおかげで、昨日からこっち気分のいいこといいこと♪
きょうの新聞は永久保存版だ。
何回映像を見返してもそのたびに胸にこみ上げてくるものがあるというのは、いったい何なんだろうな。
頑張っている姿、諦めない姿勢。そしてそれをさも当たり前のことのような顔をして淡々と粛々とやっていて、あまつさえそんな緊張の一戦を楽しんでいる雰囲気までかもし出しているというのが、なんとも「男前」でカッコいい。

コチラの「Videos」で決勝戦のハイライトシーンが見られる。実況放送などが入っておらず、スタジアムの観客のざわめきがそのシーンの興奮を伝えてくれる。延長後半の澤さんのゴールのときの歓声の大きさと言ったら! アメリカ選手には悪いが、何か不思議な力が働いてすべての流れが日本に来ているような感じさえした。

喜びと感動と元気を与えてくれた なでしこJAPAN、ありがとう。
「自分たちが優勝できないなら、日本に勝ってほしい」と言ってくれたアメリカイレブン、ありがとう。
なでしこを応援してくれたドイツの人々、ありがとう。
日本の優勝を喜んでくれた世界中の人たち、ありがとう。

この感謝の気持ちを忘れずに、さあ、私も、頑張ろう!

Garden110718青いアサガオで「V」

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浦島太郎

きょうは七夕。雨こそ降っていないが空は雲に覆われていて、天の川どころか星のひとつも見ることはできない。はたして恋する二人は会えただろうか。

PhotoPhoto_2Photo_3ところで、いまニコタでは「竜宮城イベント」が行われている。浦島太郎のように亀に乗って竜宮城へ行くのだが、その道中が涼しげで気に入っている。竜宮城の前にいる乙姫さまも、ちょっとニコタでは見かけないような味のある顔立ちでなかなかよろしい。というわけで、きょうは浦島太郎について。七夕なのにね(笑)。

浦島太郎 (文部省唱歌)

一、
  昔昔、浦島は
  助けた龜に連れられて、龍宮城へ來て見れば、
  繪にもかけない美しさ。
二、
  乙姫様の御馳走に、鯛や比目魚の舞踊、
  ただ珍しくおもしろく、
  月日のたつも夢の中。
三、
  遊にあきて氣がついて、
  お暇乞もそこそこに、歸る途中の樂しみは、
  土産に貰つた玉手箱。
四、
  歸つて見れば、こは如何に、
  元居た家も村も無く、路に行きあふ人人は、
  顔も知らない者ばかり。
五、
  心細さに蓋とれば、
  あけて悔しき玉手箱、
  中からぱつと白煙、たちまち太郎はお爺さん。

『丹後国風土記』によれば、浦島太郎(本名を筒川島子、または水の江の浦島子。「人となり、姿容秀美しく、風流なること類なかりき」とある)は、童たちに苛められていた亀を助けたわけではない。釣りに出て五色の亀を釣り上げて舟に置いておいたところ、それがいつのまにやら美しい仙女になっていたという。

その亀比売(かめひめ)という名の仙女に惚れられて、そのまま蓬莱山に連れていかれ、彼女の両親兄弟姉妹にも歓待され、愛の日々を過ごすこと3年。ある日、望郷の念にとらわれる。亀比売が引き止めるのを振り切り、玉匣(たまくしげ)を土産にもらって元の村に帰ってみると、なんとそこでは300年の時が経っていたのだった。

室町時代に成立した『御伽草子』では、村を歩き回っていて自分と両親の墓を発見して絶望したとも言われているが、とにかく10日ばかりそこらをうろついた挙句、彼は開けてはいけないと言われていた玉匣を開けてしまう。もくもくと白い煙が立ち昇り、彼は白髪の老人に……(『万葉集』では、老人になった後すぐに死んでしまい、『御伽草子』では、鶴となって飛び去り、『丹後国風土記』では、玉匣を開けたことを悔いて歌など詠んでいる)。

しかしそれにしても、どうして亀比売は開けてはならない玉匣なんぞを太郎に渡したりしたのか。彼女は箱を渡すときにこう言っている。

「君、終に賎妾を遺れずして、眷み尋ねむとならば、堅く匣を握りて、慎、な開き見たまひそ」
----あなた、これからずっと私を忘れず、もしまたここに戻りたいと思うなら、しっかり箱を握って、決して開いて見たりなさらないでください----

つまり、未開封の玉匣は蓬莱山へのパスポートなのである。元の世界に戻って途方に暮れる太郎を、亀比売はどこからか見ていたのではなかろうか。そして再び亀比売のところに戻りたいと思ったならば、彼女は喜んで迎えに来たに違いない。しかし、太郎は約束を忘れて玉匣を開けてしまった。二人の契りの深さを信じたいと願っていた亀比売の思いは叶わなかったのである。突然老人になってしまった太郎も気の毒だが、恋する相手を永遠に失った亀比売もまた哀れだと思う。まったく男ってやつぁ……。

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あれこれ雑感(110705)

1・アナログ画面に出るカウントダウンの数字は、いくらなんでも大きすぎやしないか……。あと19日!(画像が悪いのはアンテナが壊れているため。早く替えなくちゃ・汗。いや、普段はデジタルを見ているのだが、気象条件によっては見えなくなることがある。そういうときでもアナログならこの程度は映るのだ。)

・先日テレビでドイツ人の禅僧・ネルケ無方さんが紹介されていたのを観た。檀家のない安泰寺という寺の住職さんで、自給自足をしながら修行しておられるそうだ。自発的な「大人の修行」をすること、松の木(おのれ)の影(悩みや迷い)が濃ければ濃いほどそれを照らしている光(教えや悟り)は明るいのだということなどを話されたが、何よりもまずその背筋の伸びた座り姿の美しさに感心した。求道の厳しさや尊さはまず身体に現れるのだね。

・経産省は東京電力管内の家庭約1900万世帯を対象に、15%削減に成功した世帯にLED電球の交換券などの「景品」を進呈する制度を始めたらしい。ふ~ん。わが家ではこの数年エアコンを使っていない。誰も言ってくれないので自分で言うが、そういう高邁な節電意識とエコロジーの思想をずっと以前から持って且つ実行している者には、そういうサービスはないわけね。国民の血税の使い方として、非っ常~に不公平だと思うんですけどッ! ……うちにもLED電球ちょうだいよ~、ねえ~。

・それにつけても思うこと。批判を恐れずに言えば、エアコンがなければ住めない家なんて欠陥住宅だということ。「エアコンは、あれば便利だが、使わなくても住める」というのが当たり前の家屋の姿と考える。ついでに言えば、エレベーターを使わなくては出入りできない家もまた欠陥住宅だ。はじめにエアコンとエレベーターありき、即ち、はじめに電力ありきの家造りの危うさに思いをいたす、いまは良い機会だと思う。

・さらに思うこと。「これが無いと生きていけない」というモノ(人工物)が増えるということは、人間の生物体としての退化に繋がるんじゃなかろうか。ケータイやネットがないと精神的に不安になるなんて、滑稽を通り越して不気味だ。「あれば便利なもの」との境界線を意識的にはっきりさせておかないと、将来ロクなことにならないんじゃないかと憂う。

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