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2012年7月

BJスクラッチ

Bj先週だったか、BJのスクラッチくじを買ったら1100円当たったので、記念に画像を載せておきます。買ったのは1000円分なので、元は取れましたぜ♪ BJ賞5000円を目指してもう一回買ってみるかな~。^^

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『サマーウォーズ』

録画しておいた『サマーウォーズ』を観た。ストーリーが文句なしに面白かった♪ 絵も美しい。電脳社会OZと、長野の田舎の前時代的な旧家のたたずまいの対比の妙には息を呑む。デジタル世界とアナログ世界の違いを見事に表し切っていたと思う。そして広い青空とそこかしこに咲くアサガオの花。夏の風情から言えばヒマワリのほうが似合いそうだが、アサガオの花言葉には「愛情の絆」「結束」というのがある。この作品のテーマを考えれば、ここはアサガオでなくてはならなかったのだろう。

他人のアカウントを奪って次第に大きくなっていき、世界を混乱に陥れる謎の人工知能・ラブマシーン。そして、そうはさせじと結束する健二ならびに陣内家の人々。OZの中でのアバター同士の戦いなのだが、アバターの向こうには戦いを固唾を呑んで見守る何億という生身の人間がいる。陣内家側が負けそうになったとき、ポツンと現れるドイツの少年のアバターには感動する。「ボクのアカウントを使って」(だったかな? うろ覚え…)。見るからに弱そうで小さな小さなアバターだが、この勇気ある行動に全世界の人間が共鳴して後に続く。そして一気に形勢は逆転するのである。

この映画のキャッチコピーは「つながりこそが、ボクらの武器。」である。この“つながり”とは表面上はネット上でのつながりだが、その真意は、アナログで旧時代的な生身の人間同士の心のつながりのことであろう。顔も性別も年齢も知らぬ者たちが、同じ目的のために結束し、それぞれの立場で己が為すべき最善を尽くす。その巨大なエネルギーのうねりが邪悪な意思を打ち砕くのだ。う~ん、なんというカタルシス♪

陣内家のおばあちゃんの活躍も特筆しておかねばなるまい。政財官に幅広い人脈を持ち、「あなたならできる」の一言で動かしてしまう。妾腹の子(わびすけ)をも愛情深く育て上げ、家を仕切り、許せぬことあらば迷わず薙刀を振るう、矍鑠とした刀自さんである。そして死して後も、その遺言で皆を落ち着かせ、諦めようとする気持ちを戒める。このおばあちゃんがいなかったら、世界は救われなかった。この映画、ラブマシーン vs おばあちゃん と捉えるのが正解かもしれない。

「わびすけが帰ってきたらご飯を食べさせてやりなさい」と言うおばあちゃん。世界が大混乱しているときに饅頭の算段をするおかあさん。こういう、動じない、地に足のついた暮らし方が、何より大事と思わせられた作品だった。

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下流志向

読書感想をしばらくアップしていない。毎日必ず何らかの本は読んでいるのだが、何しろ最近のマイブームが記紀と風土記なのでその関連本が多く、感想を書くという作業がそぐわないことおびただしい。興味のある事項をネットで調べたりノートを取ったりしながら、神々の世界に心を遊ばせているだけで至福である。そんな毎日なのだが、記紀・風土記関連以外で面白かった本を紹介してみる。

『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』(内田樹著)
---なぜ日本の子どもたちは勉強を、若者は仕事をしなくなったのか。だれもが目を背けたいこの事実を、真っ向から受け止めて、鮮やかに解き明かす怪書。「自己決定論」はどこが間違いなのか?「格差」の正体とは何か?目からウロコの教育論、ついに文庫化。「勉強って何に役立つの?」とはもう言わせない。---(カバー裏表紙より)

身近に子どもがいないので実際のところはよくわからないが、さもありなんと思わせられる内容である。幼いころに労働より前に体験する消費行動が、世の中何でも等価交換であるという認識を子どもに植え付ける。自分はこれだけの対価(金銭なり労働力なり時間なり精神状態なり)を支払うけれども、それだけの価値がその物にはあるの?と子どもたちは問う。その最たるものが「勉強って何に役立つの?」である。将来役に立つという理論は通用しない。いまの自分にとって役に立つものでなければ、授業中じっと先生の話を聞くという苦行と等価交換にはならない、と子どもたちは考えるらしい。

勉強しない子どもも働かない若者たちも、決して怠けているわけではない。自分が適当だと思う経済的なバランスを欠く事柄が圧倒的に多い現実の社会から、彼らは渾身の努力をして逃れようとしている、と筆者は分析している。この就職難の時代にせっかく入った会社を数ヶ月で辞めてしまうのも、将来自分が受けることができるであろう利益(昇進やボーナス)の不確実性を思えば、いまの圧倒的に自分が不利だと思われる労働条件を我慢する必要などないという結論に達するのだろう。

しかし、こういう若者が再就職をした場合、2度目の職場が最初の職場より良い条件であることはまずない。そうして彼らは何度でも入社退社を繰り返し、よって彼らの生活水準が上がることはないというのが普通であろう。彼らにしてみればそれは自己責任の結果なのだからそれでいいとしか思いようがない。かくして働かない若者やニートが増え、しかしそんな時代の中でも努力を怠らない階層との格差は広がる一方で、日本の国力は衰退の一途を辿る……と、そこまで書いてあったかどうかは覚えていないが、本書で述べられている一連の流れはそういうことである。

なんとも暗澹たる気持ちになる。人間が上昇ではなく下降を目指す事態は有史以来初めての現象であろう。それで社会がうまく回ればよいが、うまくいくはずがなかろうということは容易に想像がつく。ならばどうすればよいか。

ひとつ印象的なところがあった。以下に引用する。
---「雪かき仕事」をする人は朝早く起き出して、近所のみんなが知らないうちに、雪をすくって道ばたに寄せておくだけです。起き出した人々がその道を歩いているときには雪かきをした人はもう姿を消している。だから、誰がそれをしたか、みんなは知らないし、当然感謝される機会もない。でも、この人が雪かきをしておかなかったら、雪は凍り付いて、そこを歩く人の中には転んで足首をくじいた人がいたかもしれない。そういう仕事をきちんとやる人が社会の要所要所にいないと、世の中は回ってゆかない。---
---若い人がよく言う「クリエイティヴで、やりがいのある仕事」というのは、要するに、やっている当人に大きな達成感と満足感を与える仕事ということです。でも、「雪かき仕事」は、当人にどんな利益をもたらすかではなくて、周りの人たちのどんな不利益を抑止するかを基準になされるものです。だから、自己利益を基準に採る人には、その重要性が理解できない。---

自分を中心にしてあらゆるものと等価交換をしようという人間は、こんな「雪かき仕事」なんかしようとも思わないに違いない。しかしその仕事の重要性に気付け、と筆者は言う。「雪かき仕事」は仏教で言うところの「利他行」だ。学ばない子どもたち、働かない若者たちはあまりにも自己中心的であり、もっと利他的な思考をしたほうがよいと筆者は言っている。……と、私は受け取った。

幼い頃にお父さんお母さんのお手伝いをして「ありがとう」と頭をなでてもらうことがいかに大事であるかを思う。お駄賃をもらわない限り、経済モデルで言えばそれは等価交換でもなんでもない。しかしそういう無償の労働経験が子どもには必要なのだろう。その嬉しさは何ものにも代え難い。子どもたちの下流志向を止める方策は、案外そんな簡単なことにあるのかもしれないと感じた。

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いじめ事件に思う

大津の中2いじめ自殺事件がますますオオゴトになり、とうとう警察が介入する事態となった。9ヶ月前に起こったことが何を切っ掛けにこれほどマスコミで再び取り上げられることになったのか、その辺のことを実は私はよく知らない。気がついたらオオゴトになっていた。

滋賀県内で中学教師をしている知人がいることもあって、まずは当該中学と担任の名前を検索した。すぐに出てきた。とりあえず私の知人ではなかったことに安堵し、またこれだけ簡単に情報が得られることに驚きもした。学校や教育委員会が必死になって隠そうとしていたことも、この情報化社会では無駄な試みだったようだ。すぐにどこからか情報が漏れるという環境は諸刃の剣であって、使い方を誤まるととんでもないことになると思うけれども、とりあえずその問題は置いておく。

いまは、事件そのものの加害者よりも、学校ならびに教育関係者が槍玉に挙がっている。つまり、いじめを見て見ぬ振りをし、訴えがあっても握りつぶし、事件後のアンケートでも一番大事なところだけを「見落とした」などと主張していることが非難されている。それで自分達には責任はないよと言いたいらしいのだが、こういう責任感の欠片もない恥知らずなことを言って憚らぬ輩はいずれ司法の場で裁かれるがよろしかろうと私は思う。

昨日になって、自殺の原因としていじめがあったようだと方向修正がなされたが、まだその他に大きな原因があるかのような口ぶりである。記者団には「ならば彼が自殺した一番大きな理由は何だと考えているのですか?」と問い詰めて欲しかった。

人がひとり死んでいるということに対して、悼みと哀れみと悲しみと後悔の感情はないものか。昨夜学校が開いた保護者会においても、学校側の人間誰ひとりとして亡くなった生徒に黙祷を捧げようとは考えつきもしなかったらしい。保護者から指摘されて初めて気付く様がなんとも恥ずかしく無様でナサケナイ。

……と、あまりに腹立たしいので文句の垂れ流しになってしまったが、教育関係者には率直かつ謙虚に事態を受け止めて、今後は真摯な対応をしていただきたいと切に願うばかりだ。だが、一番大きな問題は他にある。何故いじめがなくならないかということだ。

テレビのワイドショーなどでは、いじめはそこに在るものとして、そこから出発している。私はそこが解せない。だって、私が子どもの頃、こんないじめは無かったのだよ。小さな諍いなどはあっても、小中学生がそれを苦にして自殺したいと考えそれを実行に移すほどのいじめなんか、見たことも聞いたこともなかったのだよ。これは私の物覚えが悪いからではない。昔からの友だちに聞いても同じことを言うし、7歳年上の夫もまたそう言う。昔はこんないじめは無かったのだ(ここ大事)。

昔と今では、どこが違うのだろう。何がどう変わって、ここまでいじめをエスカレートさせる子どもが出てきたのだろう。以前に、自分より弱い者を意図的に作り出すことによって相対的に自分が優位に立とうとしているのではないかと考えたことがあった。生徒を無理に横並び一列の型に押し込んで順位をつけないといったような、学校の姿勢に問題があるのではないかと考えたのだ。当たっていないとは今でも思っていないが、学校だけに問題があるわけでもなさそうである。

誤解を恐れずに極論すれば、核家族化とゲーム並びにケータイが悪い。と私は思う。夫婦共働きで、学校から帰っても家には誰もいない。ならばと友だちと遊ぶことにしても、たいていはゲーム遊びで、取り立てて会話もなかろう。塾に行くことも多いと思われるが、そこにいるのは友達というよりライバルだ。たとえ学校で何か思うことがあったとしても、それを誰かに話す機会や時間は果たしてあるのか。

昔なら、両親が留守でもおじいちゃんおばあちゃんが居た。無条件で自分を可愛がってくれる存在だから、少々学校で嫌なことがあったりしても、甘えて話をしているうちに何となく気が晴れた。ちまちまといろんな物を手作りしたりしているおばあちゃんや、たいして何を言うでもないがどっしりと落ち着いたおじいちゃんが神棚を拝む姿を見るだけで安心できた。私がおじいちゃんおばあちゃんから学んだことはとても多い。

友だちと遊ぶときは、並んでゲームの画面を見るだけなんてことはあろうはずもなく、屋外を駆けずり回るにしても部屋で一緒にマンガを読むにしても、とにかくキャアキャアといろんなことを話していた。年頃になって淡い初恋なんぞあった日には、親には恥ずかしくて言えないことでもあらいざらい喋り合った。

家では父親は一番偉い人だった。仕事の帰りが遅くて夕飯を一緒に食べられないとき、母はいつも父の座る場所にまず陰膳をよそい、それから我々のごはんをよそった。父親に対する尊敬の念はそういう母親の行動から自然に身に備わったと思う。叱られるべきときには父親からきちんと叱られたし(笑)、あまりに言うことを聞かないので納屋に閉じ込められたときには、大泣きしていたら母がこっそり戸を開けてくれたこともあった。

何をやっても誉めてくれる甘々なおじいちゃんおばあちゃんと、何でも話せる友と、それなりに厳しい両親が、昔は居たのだ。翻っていまは、人はどういうふうに生きていけばよいのか、何か問題を解決するためにはどういう方法があるのか、それを実際に何気なく教え見せてくれる生身の人間、人生経験の先達が、子どもの周囲にいないのではないのかと思う。

いまの子供達は、昔よりも明らかにイライラしている。ように見える。自分の存在をもっと認めて欲しいのに、それが叶わなくてストレスを溜めているように見える。楽になる考え方ややり方もあるだろうに、それを示してくれる大人がいない。話を聞いてくれる相手がいれば、それだけで随分違うだろうに、と思う。

私には子どもがいないし、教育について見識があるわけでもない。いじめなど実際に見たこともない人間が書くことであるから、まるで的外れな内容になっているかもしれない。しかし、昔はなかったいじめが今はあるということは、子どもを取り巻く環境が変わったからとしか考えられないので、したためてみた。いじめられたら(あるいは、誰かがいじめられているのを知ったら)こうしなさい、ではなくて、根本的にいじめをなくす方向で皆が考えなくてはならないと思う。

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He is her knight!

『ヤンブラ』(『ヤング ブラック・ジャック』の略。作者自身がそう呼んでいるので、これからはこう書くことにする)の最新話を読んだ。ときは1970年、黒男くんは研修医になっている。

めぐみさん出たーーーーーー♪

後姿と遠目だけで、目鼻立ちは描かれずのっぺらぼうだが、とにかく、出た!(嬉)

原作「めぐり会い」で描かれた、めぐみさんの後を尾けていく黒男くんのシーン。そのまた後ろをエリちゃんがついて行く。めぐみさんのことばかり気にしているのか、自分が尾行されていることに気付かない黒男くん、隙だらけだぞ(笑)。

で、出ました暴漢! 黒男さん怒りの形相もものすごく、めぐみさんを襲う奴らをコテンパンに!

「たまたま近くにいたからいいものの…これにこりてむりな残業はやめろよ!」

原作と一言一句ちがわない台詞を吐いてクールに去っていく黒男。原作では後姿の黒男がどんな表情をしているのかわからないが、ここではエリちゃんが黒男の表情を目撃する。

Knight笑ってるよ!(笑)
めぐみさんが無事でよかったと思っているのか、「これでオレの好感度UP♪」と思っているのか(笑)
それにこの騎士はいったい何なの~~~?(でかした!)

黒男にほのかな恋心を抱いていたエリちゃん失恋の巻とあいなったが、このエリちゃんの可愛らしさと、黒男のムダなカッコよさ(笑)、それと妙に黒男になれなれしい立入(ランプ氏)と、いわゆる萌えどころ満載の号になっている。幸せそうな黒男くんを見られるだけでもお買い得かも(笑)♪

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YBJと原発再稼動

連載中の『ヤング ブラック・ジャック』では、学生運動に協力しようとしない黒男に対してリーダー格の男(全共闘ではなくて民青っぽい)がこう言っている。「理性を持ってして計画的に世界を運営する共産主義へとたどり着かなければ、いずれ人類は滅びるよ!!」。黒男が疑問を呈する。「…なら、“理性を持たず”“計画性もない”俺のよーな人間はどうなるんだ?」「安心したまえ。我々がそれこそ計画性を持って指導する」「…結局、誰かの意見を通すには他人の意見をねじ伏せる必要があるってことだろう? そんなもの俺にとっちゃただの独裁政治だ」。

以前に、黒男さんはノンポリと書いたことがあったが、ノンポリというより徹底した個人主義のようだ。群れることと権威による強制をことのほか嫌っている。だから黒男さんにとっては共産主義や民主主義といったどんな政治イデオロギーも、国民を強制的に戦争に駆り出すという犠牲を強いる限りにおいて否定すべきものになるのだろう。前シリーズで、彼がベトナムから学んだことはたぶんそれだ。国家の主義主張なんて関係ない。大事なのは個人の命だ。

さて先日、大飯原発再稼動に反対する人たちが東京と大飯で大規模な抗議行動を行った。テレビ報道によれば、かの学生運動以来はじめてともいえるくらいの規模だったらしい。「ジャスミン革命」を模して、時節柄「アジサイ革命」とも呼ばれるかもしれないとのこと。さて、革命になるのかどうか……? 大飯の現場に行った人の手記を読んだ。関電も政治家も誰も来ないところで警官隊に向かって「原発反対!」と叫ぶ無意味さへの疑念、自己満足に過ぎないかもしれないという思い、機動隊こわい!などと心情が綴ってあって興味深い。

黒男さんならどうするだろうな? まず間違いなくデモには参加しない。小競り合いがあって誰かが怪我をした現場に行き合わせたらどうするか? 報酬がもらえるなら、どっちの陣営の人間でも助けるだろう。では、原発そのものに対する黒男さんの立場はどっちだろう? 賛成か反対か。

おそらく「反対」だろうと思う。震災前ならいざ知らず、土地が汚染されあれだけ多くの人々が故郷に住めなくなり、且つ将来どんな健康的被害が出るともわからない状況を招いた後に、危険を承知で(これは原発推進派の言うところの「安全性を確認した上で」と同義である)再起動を決定する政府の横暴とも言える権威権力を黒男さんが肯定するとは思えない。また、手塚治虫の分身としてのBJを考えてみても、人間の都合で地球を壊す(少なくともその可能性はある)ことを認めるはずはなかろうと思う。

人口の爆発的増加によって食料不足に陥る危機を神が警告しているのだと言った「ちぢむ!!」の戸隠先生。生態系を壊した人間がそのしっぺ返しを受けた「ディンゴ」。そろそろ人間は謙虚に学ばなくてはいけない。

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と、ここまで書いて放置したまま1週間。これ以上筆も進まないので、このままアップします(汗)。

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