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幸運な男

先週、血縁なしでも「父子」関係が認められるという最高裁判決があった。現在DNA鑑定で父子関係が明らかな父親と同居していても、その子供が生まれたときに民法上の父親であった男性との父子関係は取り消されないというものだ。実情に合わないとか、何のためのDNA鑑定なのかとか、いろいろ意見はあるだろうが、私の感覚で言えばこの判決で良いと思う。科学の発達によって真実が明らかになったからといって、そのたびに法の判断が変わっていくのはどうかと思うからである。

法とは弱い者のためにあるべきと私は思う。婚姻関係にある男女の間に子供が生まれたとき、その子供を育てる義務はその男女にある。子供が生物学的にその男女の間の子供でないことがわかったとき、その男が子供を養育することを拒否したら子供はどうなる? そんなことにならないために、民法は妻が結婚中に妊娠した子は夫の子と定めているのだと思う。

今回のケースは、自分の子でないから父子関係を取り消せというのではなく、血のつながりはなくても自分も父親であることを認めてほしいというのが元夫側の主張だったわけで、恵まれたケースだったと思う。「あなたには二人もお父さんがいて良いわねぇ」というふうに育てていければ何よりと願う。と言うか……、私はどちらかと言えば、今回訴訟を起こした母親側を好もしく思うことができない。どんな事情があったかは知らないがそもそもの問題を起こしたのは自分ではないか。それならそれで、いまは元夫とも別れて子供の本当の父親と再婚もしているのだから、ことさらに事を荒立てる必要もなかろうにと思う。私なら、すべてのことに口を噤むがなぁ……。

さて、ここからが本論の『BJ』語り。こういう親子関係の問題を耳にしたとき必ず思い出すのが♯97「幸運な男」である。ちなみにこの「幸運な男」を『BJ』シリーズの最高傑作と推す人もいるくらいの名作だが、BJ先生の出番はあまりない(笑)。うろ覚えだが、永井均著『マンガは哲学する』にもたしか取り上げられていたように思う(←いま本が見つからなくて確認できない)。あらすじは次のとおり。

イランでの爆発事故で日本人技師・天堂一郎は命を落とす。その財布とパスポートを手に入れた貧しいイラン人の男はBJの手術によって整形し、一郎になりすまして日本に帰国する。裕福な生活が送れるかと思いきや、天堂家は一郎がいない間に破産しており、出迎えた一郎の母親と二人で貧しい生活を送ることを余儀なくされる。思わぬ齟齬にはじめは荒れていた男だったが、やがて優しい母親との生活に幸せを見出すようになっていく。ある日、母親が病に倒れ……。

う~む、この先ネタバレしてよいものかどうか迷うのだが、ネタバレしないと何も書けないので、書く(笑)。未読の方はご注意ください。

母親が重篤な状態になり、男はBJに助けてくれと電話をかける。治療を断ったBJは言う。
「あんた、うまくいってたか?」
「え?」
「つまり…おふくろさんといっしょのくらし、満足したかね?」
「もちろんだ!!」
「じゃあ幸運を祈る」

そして、いまはの際に母親が衝撃の告白をする。私はあなたの母親ではない。財産目当てに入り込んだ悪い女だ。顔はBJに整形してもらった。あなたと一緒に暮らすうちに、ほんとうの息子のように思えてきて……こんな幸せな経験はなかった、と。そして男が本当のことを話す前に亡くなってしまうのである。

このお話のエッセンスは上記の会話に集約されている。うまくいってたか? 満足したか? 幸せだったか?とBJは問う。もちろんだ!!と男は答える。ここには、血縁だの法律上だのという近視眼的要素をすべて蹴っ飛ばした親子の愛情がある。この人の息子でありたいと願い、この子の母親でありたいと思った赤の他人同士の親子が、真実の幸せに辿り着いたのだ。

ここでまた最初に触れた親子関係裁判の話に戻るが、法律上あるいは生物学上の親子関係の立証とその決定というのは、そんなに重要なことなのかと改めて思う。少なくとも「幸運な男」では、そんなもの一顧だにされていない。それでも親子ともに幸せになれたのだ。親子がお互いにお互いを想う気持ちだけが大切なのだと教えてくれる一話。血縁という家族形態を最重要視して訴訟を起こした母親側に是非読んでもらいたい作品である。

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コメント

この一件では私も母親側に違和感を覚えました。家庭を壊したのは自分なのに、そのことに対する反省とか、罪の意識みたいなものが一切感じられないように思えたからです。

逆に元夫に対しては、これから先が辛いのではないか、という意識が働いています。裁判に負けた側が、子供に対してどんな教育(?)をするのかという点に、不安を感じざるをえません。マインドコントロールみたいなことが可能な立場にいるわけですしねぇ。(>_<)

表題の「幸運な男」ですが、題目だけでは内容が浮かびませんでした。自分でも意外でしたけど、あらすじの最初の一行だけでどんな話だったかをすぐに思い出したんです。やっぱり、どこかに強く印象が残っていたのでしょうね~。(^^)

ラストシーンで飛行機を見送るBJの言葉。

「私の出番が少ないからさ」

なにやら、こうなることを半ば予期していたような、そしてそのことを自嘲気味の笑いではぐらかしているような、そんな背景を感じさせてくれました。

何故でしょうねぇ。BJというマンガは、限られたページ数とコマ割りの中で与えられた情報以上の感情や思いを、読者が自然と考えさせられてしまうチカラが込められているのではないだろうか、と思わずにはいられません。(^^)

こうしたキッカケがあるたびにBJを思い出し、また読み返しては、自分の意識の中に手塚治虫というマンガ家の爪痕を増やしていく。・・・ついついそんな気がしてしまうのは、私だけなのでしょうか? (^^;)

投稿: モトキ | 2014年7月29日 (火) 00時24分

モトキさん
コメントありがとうございます^^

件の裁判、判例上ではとても意義のあるものになったと思いますが、当事者双方のこれからの生活のことを思うと、いろいろと心配ではありますね。大人はまあどうにかなるとしても、何の罪もない子どもさんが安穏な生活を送れますようにと祈るばかりです。

「幸運な男」はふつうの人気投票でそれほど上位にくる作品ではありませんが、見事な構成とラストのBJのセリフ、また読者の心に何物かを残すという点で、忘れられない一作ですね。

ラストのBJのセリフについては今回の記事では触れることができませんでしたが、ワタクシ子どもの頃はこんなギャグっぽいセリフは余計だ要らんと思っていました。でも大人になってから読んでみると、このセリフ良いんですよね。モトキさんは自嘲気味の笑いと書かれていますが、その裏には一つの幸せなドラマを見届けた満足と安堵があるように思います。

このドラマの全体像を把握していたのはBJのみ。ニセ一郎もニセ母親も実はBJの掌で転がされていたわけで、お釈迦さまの掌から出ることのできなかった孫悟空を思わせるところがあります。ただお釈迦さまと違ってBJはドラマの結末までを予測することはできず、母子の前に姿を現すことはしないけれども、この母子のことは常に気にかけ、どうか幸せにと祈っていたのだろうと思います。最後の最後になってまるで黒幕が姿現すように出てきて、まあまあ幸せな結末を喜ぶとともに、ああいうセリフで自分がやったことを茶化しているように感じます。BJが全知全能の神や仏ではなくて一人の人間だということを表すためにあのラストのコマとセリフは絶対必要だったのだなと、いまではそう思えます。

『BJ』という作品は、読み返すたびに新たな発見や自分の年齢に応じた感慨がありますね。これを手塚治虫が仕掛けた罠だとすれば、そんな罠に引っかかって心に傷痕が増えていくのは、大歓迎です^^b

投稿: わかば | 2014年7月30日 (水) 08時10分

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