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日本の出方は?

おいおいアベちゃん、ずいぶん気前よく外国にお金をあげるもんだねぇとつい先日も呆れていたら、きょうは別の立場を取る外国から同額の無心があった。くれないと日本人の人質2人を殺すぞという脅し付きだ。考える猶予は72時間。さて日本政府はどうするのか?

話は遡るが、フランスでのイスラム過激派のテロ事件。“Je suis Charlie”の合言葉のもとに反イスラムの嵐が巻き起こった。歴史的に言論の自由、表現の自由を勝ち取って重んじてきたフランスならではの運動だというが、イスラム教の預言者ムハンマドを茶化すというやり方には個人的に賛同できず“Je ne suis pas Charlie”の立場を私は取る。表現の自由はあらゆるものに優先されるべきものではない。信教の自由をはじめ、人々が心の安寧を得られるものを大切にしたいと思う自由と権利の前には、表現の自由は沈黙すべきと考える。

更に深刻なのは、イスラム過激派と一般のイスラム教徒の区別がつかず、一般のイスラム教徒までが目の敵にされているという事態だ。私は決してイスラムに詳しくないのだが、イスラム国やアルカイーダ、ボコ・ハラム、ヒズボラなどのイスラム過激派の思想は一般のイスラム教徒が信仰するイスラム教の教義とはまったく違うものであるらしい(←マララさんもそんなふうに言っていた)。フランスでの事態が純然たる「テロ反対!」から、イスラム教対キリスト教のいがみ合いにならねばよいがと思う。

本日勃発した事態はそういう宗教間ではなくて、イスラム教の中の過激派の一派(イスラム国)の主張に日本が巻き込まれた形だ。中東外遊の折りの演説で孔子ばりに中庸の徳を説き、ISILのテロ許すまじと中東への援助を誓った安倍首相への反発である。テロに屈してはならないという意志自体は正しいと思う。しかし、対テロに資金を出すという以外に、テロをなくすための方策を打ち出すことはできなかったか。イスラム国とそれに対立する多くの国々との平和の橋渡しをするという「外交」的援助はできなかったか。イスラム教でもなくキリスト教でもなく仏教国の日本になら、それをできる可能性はあったし、今もあると思うのだが。テロに屈せず、十字軍にもならない方法はないものか……。

安倍首相を非難する趣旨ではない。いまや日本もイスラム過激派のテロの標的になったという事実を重く受け止めて、成り行きを見守っている。

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コメント

72時間が過ぎても、結局日本政府は人質の安否すらつかめていませんね。つかみ所のない相手とは言え、あまりに無策な様子に呆れています。(-_-;)

宗教に関しては、私の意見はたった一つです。わかばさんが危惧されている問題とはなんの関わりもありませんが、ヒマ人の戯言としてお読みいただければ幸いです。長文失礼。<(_ _)>

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私は宗教が嫌いだ。

この一言で世界の3分の2を敵に回すことになっても、私は宗教が嫌いだ。嫌いになった理由はとても一言では語り尽くせないが、強いて言うなら、私の世界では私が中心であり、私がすべてだからである。私が、私で、私なのだ。そこに神様を入れる隙間などはない。(^^ゞ

だが残念なことに、嫌いだからといって宗教のすべてを否定することは出来ない。なぜなら、神は存在していてもおかしくはないと思っているから。……UFOを信じるかどうかと言う質問に対するのと同じ答えだったりするのだが、それはまぁおいといて。

神様の一件だけでなく、それぞれの宗教に良いと思うところはある。

例えば、色々なモノが入っている散らし寿司を思い浮かべてほしい。酢飯が苦手なため、散らし寿司そのものは嫌いだとしよう。だが、その上にのっているイクラは大好物だ。錦糸卵も棄てがたいが、タコは堅いからあまり好きではない。酢レンコンなどが混ざっているのも一興だし、やはりエビは外せない。……等々、個別に見ていけば好物や苦手なモノなど、色々と混ざっている。散らし寿司が嫌いだからといって、それらすべてをまとめて否定できるものではないだろう。

仏教はその世界観が好きだ。「輪廻」や「彼岸」などとという言葉の響きには、なにやら魂の奥底に眠る太古の記憶を呼び起こされるような、不思議な共鳴を感じざるを得ない。

天皇家崇拝だと言われると抵抗を覚えるが、伊勢神宮で感じる霊気は、体中に鳥肌を立たせるほどに心を揺り動かす。信じようが信じまいが、その霊験は確かに存在するに違いないと思わせる。

教会で聞く賛美歌やパイプオルガンの音色は、教義や信仰を超えた厳粛さを醸し出す。それは、長きにわたってキリスト教が築き上げた様式美の極致である。

イスラムについては、一部の原理主義者が唱える「聖戦(ジハード)」という言葉のせいで、あらぬ誤解を受けていると言えよう。本来のイスラム教は、貧者や旅人に優しい教義を持つ宗教なのだ。「サダカ」と呼ばれる喜捨の精神は、現代の日本に見習わせたいくらいである。

砂漠のオアシスで食事をとると、到底食べきれないほどの量が出される。その食事は残されることが前提で作られているのだ。手を付けなかった料理は、近所の貧しい人々が分け合うのである。持てる者が持たざる者に施す。イスラム社会ではそうした光景が当たり前に見られる。その助け合い精神こそが、「サダカ」なのだ。

一方で、石油を元手にした大富豪が贅沢の極みを尽くし、同じイスラムを信じる者同士が派閥を作って勢力争いに精を出す。それに巻き込まれて親や子を失った下層市民は、働き手をなくして食いっぱぐれ、神の名を騙るテロリストに洗脳されて他人を殺し、自分も死ぬ。すべてが神の意志であり、人はそれを受け入れるしかない。……矛盾だらけだ。

イスラムだけではない。同じ一神教のキリスト教もまた、同じような間違いを繰り返しおこなってきた歴史を持つ。詳しくは述べないが、十字軍をちょっと紐解くだけで十分その証明になるだろう。

そして一番の悪徳が、こーゆーことを言う人間を、「神を冒涜した」などと理由をこじつけて迫害することだ。勘違いも甚だしい。唯一絶対なる存在を自分の欲得のための道具として使う事程、神をバカにした行為はない。そういう奴らに天罰を下さないところを見ると、奴らの信じる神など元々存在しないのではないかと疑いたくなる。

だから、私は宗教が大嫌いなのだ。

投稿: モトキ | 2015年1月25日 (日) 01時01分

モトキさん
おもしろく拝読しました^^
日本人人質事件はきょう未明に大きな動きがあり、残念ながら人質お一人の命が損なわれた可能性が大という事態になってしまいました。イスラム教という宗教自体が悪なのではなく、狂信的な信者が神の言葉を自分たちに都合よく解釈したがために引き起こされた悲劇であると思います。

さて、宗教を語るのは浅学非才な私にはとても難しいことです。きょうはひとつコーランでも読んでみるかと本屋を探しましたが見つからず……。仏教、キリスト教、神道はあるのに(神道は私の意識の中では宗教ではないのですがね……)、ユダヤ教やイスラム教の本を探すのは一苦労です。それくらい日本人にとってはイスラムは遠い存在なのでしょう。

神との契約を基本とする一神教そのものが馴染みのないもので、私にも実感が湧きません。その点では「私の世界では私が中心であり、私がすべてだからである。私が、私で、私なのだ。」というモトキさんのご意見には頷くところがあります。私にはなかなかそこまでは言い切れませんけれども(笑)。

キリスト教美術の美しさや、イスラムの習慣「サダカ」(←初めて知りました)などは信者の心がそうさせたもの、いわゆる信仰の形であり、宗教の本質すなわち仏教、キリスト教、イスラム教等の本来の哲学とは別に考える必要があるように思います。イスラム過激派の所業は間違った「信仰」の形なのであって、イスラム教という「宗教」自体が間違っているわけではない。彼らの信仰は却ってイスラム教を冒涜するものであるという認識はおそらく間違いのないところだと思います。

私自身は、信仰心はほとんどありませんが(仏像は好きですが)、仏教哲学には惹かれるものがあります。ちょっと精神的に辛いなと思った30代のころ、般若心経を読んで救われた思いをした経験があるからです。辛さ苦しさに対して即効性はないものの、これを知っているのと知らないでいるのとではたぶん自分の行く道は大きく違ってくるだろうなと思わせられるものでした。今は1㎜の違いでも死ぬまでには何100kmも離れるだろうというような。それを知ったことは間違いなく私の幸せでしたし、きっと仏教以外の宗教にもそういうようなことはあるのだろうと思います。

ですから、宗教の存在を全否定することはもちろん、好き嫌いで判断することも私にはできないので、もういい加減このダラダラとした文章は終わろうと思いますが(汗)、最後に一言。

「神(仏)」はいますよ(ニッコリ)。モトキさんの中に。不肖わかばの中に。ついでに「鬼」もいるので、人間は辛いんですけどね~^^b

投稿: わかば | 2015年1月25日 (日) 22時33分

確かに。(^^ゞ

宗教そのものと信仰の在り様は、別モノとして考えなければいけませんね。この文章を書いた時には、その視点が抜け落ちていました。お恥ずかしい限りです。(^^;)

もちろん、一部の犯罪者が宗教の名を騙ってテロ行為を繰り返したところで、その宗教自体を敵に回す気などは毛頭ありません。イスラム教徒の大半は犯罪者に対して怒りを持っているでしょうし、欧米の言う、「宗教にもの申す自由」を不快に思っていたとしても、それは対話で相互理解を深めていけば解決できるだろう、と楽観しています。(^^)

ただ、神が存在するとしても、自分との間に誰か別の人間が介在しなければ対話ができない、というのであれば、たとえどのような教義であったとしても、信じるには値しません。間に人間を挟めば、そこには他人の意志が入り込みますからねー。そんなもん信じちゃうから、犯罪者にコロッとダマされちゃうんです。(-_-;)

・・・もしかすると私は、基本的に人間不信なのかもしれませんが。(^^;)

残る人質が無事に解放されることを祈りたいですね。・・・てか、無神論者が誰に何を祈るって言うんだろう? (^▽^;)

投稿: モトキ | 2015年1月27日 (火) 00時59分

モトキさん
重ねてのコメントありがとうございます。

お返事しようといろいろ考えていたら、すっかりドツボにはまり思考停止に陥りました^^; お返事遅くなりましてすみません^^;

>そんなもん信じちゃうから、犯罪者にコロッとダマされちゃうんです。(-_-;)
思わず笑ってしまいました^^ 犯罪者にコロッとダマされるだけなら可愛げもありますが、コロッとダマされて自らが犯罪者になってしまったのが今のイスラム過激派だとすると、笑ってもいられない状況ですねぇ(-_-;)

モトキさんのコメントを拝読して、人が何かを(自由に)判断するとき、その判断の基準となっているものは何だろうかと考えました。経験、学習、親のしつけ、損得勘定、諸々あるかと思いますが、それらは実は何らかの形で他人からの影響を受けたものなのではないかと思います。「私は赤よりも青が好きだ」とただ自分の好みをいうときも、もしかしたら幼いときに「○○ちゃんは青が似合うわね~」と言われたことが無意識に働いているのかもしれない。これは自分が考えたことだ、自分は誰とも違うオンリーワンだと思っていても、実はそれ自体が誰かの意見だったかもしれない。そんなことを考えていると、人間なんてたいして皆違わないのではないかと思ったりします。イスラム過激派の彼らには、生まれたときからムハンマドが託された神の言葉しか与えられず、そこに更に誰かの過激な解釈が加えられたのかもしれませんね。

宗教は(……といっても、キリスト教やイスラム教はよく知らないので、仏教に関してのみですが)、普遍的な真理を説くものだと考えます。こう生きれば「善」でいられると説くのは道徳や倫理学ですが、善も悪もないのだというのが仏教です(極論かな……^^;)。仏教の教えは、人々をそういう悟りに至らしめるための道しるべなのだと思います。仏教には「自燈明、法燈明」という教えがありますが、正しい判断ができる「自分」をまず作れ、ということなのでしょう。とてもとても私などの理解の及ぶところではありませんが、もしもこの世の人間がすべてその境地にまで達すれば、無駄な戦を仕掛けたり、無用な殺生をすることもなくなるだろうに、と思います。

残る人質が無事に解放されることを、私もただただ念じたいと思います。

投稿: わかば | 2015年1月29日 (木) 00時36分

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