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2015年6月

┐(´ー`)┌

あ、あた、当たった! 大当たり~~!!(ドンドンドンパフパフ♪)
え、何がって?



年金の個人情報流出ですがな!!! ○| ̄|_



昨日日本年金機構から「大切なお知らせ」と題する封書で、私の個人情報が流出したことが確認されたという、大当たりのお知らせが来ましたのサ。┐(´ー`)┌

「流出が確認されました情報は、最大でお客様の『基礎年金番号』『お名前』『生年月日』『住所』であることが、現在判明しております」とあるので、それ以外の情報は大丈夫らしいですが、いまの私にとってそれ以外の重要な個人情報って何があるのよ(笑)?

幸いなことに私はまだ年金受給者ではなく、振込先の金融機関も未定。後日新しい基礎年金番号が郵送されてくるそうなので、年金に関して実質的な被害は受けなくて済みそうですけれども、流出した情報がいろんなところにバーッと広まって、良からぬ輩から詐欺目的の電話がかかってくるかもしれないという楽しみ……もとい、心配は、今後もずっと残るわけです。まったく迷惑な話です。

ところで、流出した情報は 101万4653人分。日本の人口は 1億2708万人ですから、確率は約 0.008。日本国民1000人に8人です(計算合ってるといいな)。今回大当たりしたのだから余勢をかってジャンボ宝くじでも買おうかなと思いましたが、ジャンボで1等を当てる確率は1000万分の1だそうな。そりゃあ当たるはずないわな~と、妙なところで宝くじの当たらなさについて悟った今回の出来事なのでした。買うぞ(笑)! 

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コメント御礼

ひとつ前の記事にコメント下さった皆様、ありがとうございます。削除したくなるような脊髄反射的な攻撃コメントが寄せられていないことにも、ありがたいことだと感謝しています。記事文末に書いたように、レスは控えさせていただくことをお許しください。いただいたコメント、反芻して勉強させていただいております。今後ともどうぞよろしくお付き合いくださいませ。

件の本について、テレビで取り上げられたワイドショーは2~3観ました。司会者、コメンテーターいずれも出版自体について憤慨している様子のものばかりで、私的にあまり参考になるものではありませんでした。

ずっと気にはなっているものの、いまのところまだ本は読んでいませんし、私の気持ちも前の記事に書いたものから変化はしていません。この事態をどう受け止めるのが「正しい」のか、あるいは「正しい」方法なんてないのか、そもそも今さらこの事件が蒸し返されて人の口の端にのぼることこそがご遺族のお気持ちにそぐわないものなのかもしれないと思ったりして、なんだかモヤモヤしているような状況です。

ところで、アンドロメダの雲さんがくださったコメントで「なぜ人を殺したらいけないのか」という問題について一つの答えを出しておられたので、きょうはその点について私の考えを少し書いてみたいと思います。

出典を探し出すことができなかったので文言はうろ覚えですが、ブッダの言葉に「人は自分の命以上に大切なものはない。それを他人にも当てはめてみれば、人を殺してはいけないのは当然のことである」というものがあります。

これはある王様とお妃の会話のところで出てくる言葉です。この王様とお妃はラブラブな関係です。そこで王様がお妃に「あなたには、あなたの命以上に大切なものがある?」と訊ねます。きっと「それは、王様、あなたですわ」という言葉が返ってくると期待していたのでしょう。ところがお妃は「私には、私の命以上に大切なものはありません」と答えたのです。そして今度は逆に「王様、あなたにはあなたの命以上に大切なものがおありですか?」と訊ねられて、王様も「うん、私も、私の命以上に大切なものはないよ」と答えるのです。

王様からその話を聞いたブッダが言ったのが先の言葉です。「人は自分の命以上に大切なものはない。それを他人にも当てはめてみれば、人を殺してはいけないのは当然のことである」。これはアンドロメダの雲さんのお答と同じ趣旨だと思います。

「なぜ人を殺したらいけないのか」、こういう質問を発する人間は、アンドロメダの雲さんのお言葉を借りれば「いつ自分が殺されてもいいと認める」という段階にまで至っていない可能性があると思います。つまり他人の身になって考えることができていないか、自分だけは特別な存在だと思っているかだと思います。

また、この問題については(以前触れたことがあるように思うのですが)、内田樹が『下流志向』の中でこう答えています。

---答えることのできない問いには答えなくてよいのです。(中略)これは「絶句する」というのが正しい対応だったと僕は思います。(中略)「人を殺してどうしていけないのか?」と問う中学生は「自分が殺される側におかれる可能性」を勘定に入れていません。---

ブッダの場合は相手が物の道理を分かった王様なので最後まで丁寧に説き明かしていますが、「人を殺しちゃいけないよ。でも戦争なんてものが起こった日にゃ相手を殺さなくちゃいけなくなるしな……」なんてことをつべこべ考える大人が、おろおろして絶句するのを喜んでいるようなお子ちゃまが相手なら、別に答えてやる必要もないというふうにも読み取れます。

そして、そういうお子ちゃまならまだ良いのですが……。先ほど、こういう質問を発する人間は、他人の身になって考えることができないか、自分だけは特別な存在だと思っているかだと記しましたが、実はもう一つ一番厄介なパターンがあるように思います。つまり「人は自分の命以上に大切なものはない」と思っていない人間です。自分の命を大切だと思っていない人間です。「死刑にしてほしくて罪を犯した」というような犯罪者も実際にいましたね。

アンドロメダの雲さんのお言葉を借りれば、彼らは「自分が殺されてもいいと認め」ている人間たちということになるのかもしれません。そうすると彼らは人を殺してもよいということになってしまう……。いえ、アンドロメダの雲さんの真意がそんなところにはないというは重々理解しています。つまるところ、この問題の答えは言葉にしてしまうとどこかに瑕疵や陥穽が生じてしまう、そういった類の問題なのではないかということです。内田樹が言うように、この問題について答える必要はないというのが唯一の正解ではないかと私は思っています。

ここで『絶歌』の話に戻りますが(重ねて言いますが未読です)、私はこの元少年Aは、もしかすると、この3番目のパターン=自分の命の大切さに気付いていない人間だったのではないかという気がしています。これが彼の思考力の程度の問題なのか、あるいは何らかの病気なのかもわかりませんが、もし病気なのだとしたら、彼が更生していくうえでそれなりの救済は必要なのではないかと思っています。

うまくまとまりませんが、きょうはこのへんで。皆様のコメントのおかげで、様々に思考を巡らせることができます。重ねて感謝申し上げます。

手塚治虫ならこういうテーマをどう描くでしょうねえ? 生を描き、悪と狂気を描き、示唆に富む作品にしながら、でもきっと最後は読者にこれから先は自分で考えろと言うんだろうなあ……。

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問題作

こんなことを書くと人格を疑われるのかもしれないが、『絶歌』は読んでみたいと思った。しかし昨日行った書店には置いてなかったし(売り切れだったのか最初から入荷していないのかは知らない)、積極的に取り寄せを依頼するのも躊躇われて、本がなかったことに心のどこかでほっとして、そのまま帰った。事件の遺族を想う気持ちを試されているような心持にさせられる、罪作りな本だ。

ネット上には「元少年A」に対する批判が渦を巻いている。反省していないとか、自分に酔っている、ポエムだとか、いかに彼の反省が足りないかという視点での批判がある。しかしそれ以上に大勢を占めるのは、「元少年A」と出版社に対してのこの本を出版すること自体への批判である。まともに働くのが嫌で印税のために書いたのだろうとか、所詮は金儲けのためだとか、遺族の気持ちを考えていないというものである。後者は実際に本を買って読んではいない人が多いようだ。印税で儲けさせたくないというのだから当然だろう。

もしもこれが、この本で得た印税は一切受け取らない、本名で書く、遺族の承諾を得たものである、ということであったなら、ここまでの批判はなかっただろうと思う。私も大手を振って取り寄せを依頼しただろう。最初にも書いたが、私を一番躊躇わせたのは「この本を買うことは遺族の気持ちに寄り添うことにならない」という私なりの「正義」ゆえだった。理不尽な目に遭った人に寄り添う心を持つ、それは人としてなくてはならないものだ。

しかし一方で、ネット上に溢れる「元少年A」に対する情け容赦のない攻撃的な文句にも違和感を覚える。本のレビューをするべきところにまで、読んでもいない人間が「少年Aを絶対に許さない」と書く。己の正義感をぶちまけたいのはわかるが、少年Aの精神構造や心理を理解しようとすらしてはいけないというのは危うい思想なのではないだろうか。また、一度罪を犯した者は現行の法のもとでそれなりの処分や処置を受けた後にも、未来永劫社会的に赦されることはないのかという問題もある。

舌鋒鋭く糾弾する人たちには、それこそ自己陶酔的な正義感の発露とともに、「加害者を憎むべし」という機械的な強迫観念にも似た義務感すらあるように思う。英国皇室で王女が生まれたのと同じころに、日本で生まれたサルに同じ名前をつけようとしたらえらく憤慨して抗議した人たちがいたが、あれと同じような、誰かに成り代わってのヘンテコな義務感である。

極論になるが、私は遺族の方々の気持ちにできるだけ寄り添いたいとは願っているけれども、遺族の方々に成り代わることはできない。ただ社会の一員として、自分なりにこの事件への決着をつけたいという思いが正直あるだけなのである。

同じような犯罪を生まないために、犯人の人間性をひもといてどこがどうなってこうなったのかを「理解」することは必要なのではないか。犯人に「同調」せよと言っているのではない、「理解」である。

この本にはたしてそういうことが書いてあるのかどうかも今のところわからない。自己陶酔したポエムであるという評もある。しかしそれならばそれで、そういう人間だったのだという「理解」もできよう。とにかく読まないことには少年Aがわからないままだ。

事件の当事者でもなく、教育者でもなく、精神分析ができるわけでもない。そんな私がこの本を読んでも社会的には何の役にも立たないだろう。しかしこの事件はあまりにも衝撃的だったし、この事件以降にもこの種の若年層の犯罪は後を絶たない。社会のどこかにその病根があるとするなら、社会の一員である私個人も無関心でいることは許されないだろう。そういう観点からも、この本は読んでみたいと思った次第である。

今度書店へ行ったときに、もしもこの本があったら……。それでもやっぱり1時間くらいは買うか買わないか迷いそうな気がする。立ち読みで済ませることができればそれがいちばん良いのだが……。

最後になってしまいましたが、この事件の被害者及び遺族の方々にはここに改めて哀悼の意を表したいと思います。

(なお、この記事の内容に関して真摯なコメントをいただけた場合についてですが、人それぞれに考え方はいろいろあると思いますので、基本的にお返事は控えさせていただきます。また記事内容を読んでいないと思われる罵詈雑言の類や攻撃的なコメントは削除しますので予めご承知おきください。真面目に正直に書いた記事ですので荒らされることは望みません)

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