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2016年4月

地震、原発問題その他 160426

チェルノブイリ原子力発電所事故が起こったのが、1986年4月26日。ちょうど30年前のことだ。ソ連政府の発表による死者数は33人だが、その後の被曝の影響と思われる白血病や小児甲状腺がんによる死者は数百万人ともいわれる。

事故発生当時、雨に含まれる放射性物質があるから日本でも雨に濡れないようにしようとか、ヨーロッパ産の小麦粉は危ないからスパゲティはイタリア産でないものを買いましょうとか、嘘かマコトかわからぬながらも危機感は大いに煽られた記憶がある。

2週間ほど前に起こった熊本地震。ここ松江においても本震のときにはケータイの緊急地震警報が鳴り、夜中に家から飛び出した。震度3ほどだったらしいが、遠い熊本が震源なのにここまで揺れるかと怖かった。

現在に至るも余震は続いているという。亡くなられた方々のご冥福を祈るとともに、避難所や車の中に寝泊まりしておられる被災者の方々のご心労を想う。

原因は活断層がズレたことといわれる。一つだけでなく近くの活断層にまで影響が及び、熊本から大分までの広い範囲が震源となった。その活断層のラインの南西には鹿児島の川内原発(稼働中)があり、北東には愛媛の伊方原発(7月再稼働予定)がある。

なんで、原発を止めないかね、という話だ。止めるだけでなく、どうしてさっさと廃炉作業に移らないのかね、という話である。

5年前の東日本大震災のときに自分が書いた記事を読み返してみた。地震の翌日に「地震は天災だが放射能汚染は人災だ」と書いていた。この考えはいまも変わらない。そしてさらに思うのは、人災であっても誰も責任を取らない悪質さだ。実際問題、責任なんか取れるわけがないのだ。ならば、責任の取れないことはやってはいけないという方向に何故向かわないのか。各地の電力会社の経営陣の、人としての資質を疑う。

『生とは、死とは』(瀬戸内寂聴、堀江貴文対談)を読んだ。二人の死生観などが書かれているが、特別編として「原子力発電をめぐって」という対談がある。瀬戸内さんは断固原発反対派。対する堀江氏は「既にあるんだし、止めるとかって超非現実的」と宣う。彼のキーワードは「コスト」であり、会話がかみ合わないことおびただしい。私は彼のことを機を見るに敏な人だと思うし、そういう点でアタマも要領も良い人なのだろうとは思うのだが、不幸な目に遭っている人や弱者に対しての思いやりってものが足りない人だという印象を持った。自分は安全圏にいて他人事は他人事だとバッサリ切れる人。各電力会社のお偉いさんにも、こういう手合いが多いのかもしれないナ。

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『Dr.キリコ 白い死神』

「別冊ヤングチャンピオン」5月号の『Dr.キリコ 白い死神』を読んだ。以下、簡単に感想などを。

キリコ先生が依頼人と会う場所はオシャレなカラオケボックス(笑)。ということで時代設定は現代。しかしキリコのビジュアルは40年前の『BJ』のときと同じ、あるいは少し若返っているようにも見える。死神は歳を取らないとみえる(笑)。

詳しいネタバレは避けるが、患者は末期がんで1年間昏睡状態の老婦人。キリコに「殺人」を依頼するのは家で彼女の面倒を見ている嫁。既に夫は他界しており、息子の宙少年と3人家族である。これ以上の延命は経済的に苦しい。法的には延命治療を止めても罪には問われない状況だが、おばあちゃんと仲の良い宙少年の気持ちを考えればそれはしたくない。そこでキリコに、と。結論から言えばキリコは安楽死を実行するのだが、本当の依頼者は実は……というお話である。

で、私の感想だが、「な~んか違う……」。キリコの安楽死に対するポリシーは40年前と変わらずに貫かれているし、医療関係者の間では妙に有名人というのもそのとおりだし、カラオケボックスを知っていたり無駄にカッコつけたりするのもよろしい(笑)。だが、何か違和感がある。はて、何だろう?としばらく考えて結論が出た。

キリコは安楽死の施術を、その瞬間を、絶対に他人に見せたりはしないのだ!と。その瞬間は死にゆく人間とキリコの二人だけが共有する静謐な瞬間であるはずだと、私は信じて疑わない。死だけがその患者に残された唯一の救いだと信じる医者と、すべてを彼の手に委ねて安らかに死に赴く患者の魂の触れ合いの瞬間であるはずなのだ。それでこそ「死神」、それでこそドクター・キリコなのである。そこに各人の思惑やら事情やら、ましてや物理的に余人が存在などしていてはいけない。……と私は考える。

初めてキリコ主演のスピンオフ漫画が描かれるということを耳にしたとき、誰が見ても自然死と思うほどの施術をするプロの活躍(?)をどうやって描くのだろうと疑問に思った。誰か他人の目がなくてはお話にならないのではないかと漠然と思ったりはしていたのだが、今回はまさにそれを眼前につきつけられた格好になり、私はやはりそこに違和感を持ってしまった。導入の一話として仕方なかったのかもしれないけれども、今後はもうひとひねり欲しいところだ。

「俺は死神ではあっても 殺し屋じゃない」と、作中でキリコは言っているが、その「死神」であることの重みを今一つ感じられなかったのが残念だった。

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