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『100分 de 手塚治虫』

11月12日に放送された『100分 de 手塚治虫』のまとめを書いておく。『BJ』については、司会の磯野さんが「大人になって初めて『BJ』を読んだのが手塚作品の初めてで、アウトローで人の命を救ってかっこいいって本当に恋心を抱きましたね」と触れていた程度。

『100分 de 名著』でマンガが取り上げられるのは初めてのこと。手塚の漫画家デビュー70周年記念ということで、100分ぶっ続けの拡大版だった。ゲストは4人。女装家ブルボンヌが『リボンの騎士』と『MW(ムウ)』、映画監督の園子温が『鉄腕アトム』、精神科医の斎藤環が『奇子』、僧侶の釈徹宗が『火の鳥 鳳凰編』をそれぞれ取り上げた。

どのような視点で語られたのかは、これらの作品の傾向からだいたい察しがつくというものだ(笑)。ブルボンヌさんが、昨今のトランスジェンダーの傾向を手塚は既にこの頃から描いていたと語り、園監督は手塚の描線の色っぽさを語り、斎藤先生が手塚作品のエロさに不意打ちされて面食らった経験を語る。もう「手塚はエロだ」の大合唱であった(笑)。

では手塚治虫は何にエロティシズムを感じていたのか? 手塚自身がそれを語る貴重な映像も流された。それによると、「僕は生物、特に生身で動いてる生物にすごいエロティシズムを感じるんです。例えば猫とか犬とかが歩いてる時に、それは動物だからっていうんじゃなくて、生命力のエロティシズムですね。いわゆる性的なものじゃないんです。(中略)世の中の生き物の動きというものはだいたい円が基調の動きなんですよね。(中略)その滑らかさとそれからその流麗さみたいなもの。(中略)そういったようなものが動いた時のエロティシズム、これを追求したいんです」ということであった。

手塚が中学生の頃に見た夢の話も紹介されて、そこでは「(手塚は)やっぱ変態だな」ということで衆議一決(笑)。

前半は散々エロ話(?)に終始したが、後半は手塚の作家としての偉大さに焦点が当たる。斎藤先生は手塚の作品の特徴は「ポリフォニー」だと指摘する。トルストイの作品には多くの人物が登場するが、みんな作家の独り言を人物に振り分けてるだけ。しかしドストエフスキーはそうではなく、それぞれの登場人物が紡ぎ出す旋律が同時進行してある種のハーモニーを作り出している。手塚の『奇子』はそういう作品であり、「この漫画界でポリフォニックな作品を作り得た最初でひょっとしたら最後の人かもしれない」と言う。「教養人というのはいろんな文学とか映画とかを非常にたくさんインプットし、膨大なものを吸収して、それを自己流に消化して出力できるという回路を兼ね備えた人」とし、「手塚は最後の教養人だった」と語る。

最後は釈さんが語る『火の鳥』。『火の鳥』に描かれる世界観や生命観について「部分は全体と同じ、全体は部分と同じという入れ子構造が『華厳経』のようだ」という指摘がおもしろかった。また「『火の鳥』で描かれてる宗教性なり生命観というのはそれほど突飛なものでもない。ところがマンガにするととてつもない力を発揮する。やっぱりマンガならではの部分はあるんじゃないかと思う」と語る。『火の鳥 鳳凰編』で、我王が回心するシーンが取り上げられ、絵で笑わせてセリフでは何か気付きが起こったと分からせることなどマンガでしかできないのではないか。頭で一旦消化して腑に落ちるというんじゃなくて、もう直接くるものであるから、そういう宗教体験のようなものをわからせるにはこれほど適した手法はないのではないか、という指摘には説得力があった。

まとめ的な事柄として、「手塚が表現してきたことがまるで火の鳥のように後世の人々に繰り返し影響を与えて受け継がれているのは象徴的なことだ」という司会の伊集院さんの発言が心に残った。

私的感想としては、手塚というのは人間の非常に原始的な感性に訴える力を持った作家だったことを再認識できたことが大きかった。エロにしろ、回心という宗教的経験にしろ、それは頭で知性的に理解できるものではない。生き物なら何でも持っている本能に直接響いてくるものだ。極言すれば、それを感じられるということが生きているということなのだろうなと思う。そういう手塚の特性を、やれ今のオタク文化の走りであるとか、この線がエロいだのと分割して理由を後付けすることに意味があるんだろうか?と、少々違和感を覚えたことも付記しておく。

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「ブラック・ジャック」カテゴリの記事

コメント

・・・つまり、手塚治虫を現代的な解釈の中に当てはめることしか出来ない出演者たちは、教養人ではないということですねー。インプットしたものをちゃんと消化出来ていないんですから。(^^ゞ
 

投稿: モトキ | 2016年11月23日 (水) 00時15分

モトキさん
コメントありがとうございます♪

あ~、いやいや(汗)。これは私の書き方が悪かったようです。ブルボンヌさんも園監督も、手塚は己の血となり肉となっているという感じでしたよ。決してゲストたちの解釈が浅いというという意味ではありませんので、なにとぞお許しください^^;

手塚は、たとえば男か女かの別、人間かそうでないかの別、生物か無生物かの別、そういう区別にいったい何の意味があるのかと、そういうことをずっと描いてきたはずなのに、こういう番組になると、これはいまの「ケモナー」と同じだとか、「ジェンダー・フルイディティ」の考え方だとか、再び細分化しないと解説できないという矛盾に陥ってしまうような気がします。「言葉」の限界ですかね~。^^;

投稿: わかば | 2016年11月23日 (水) 22時39分

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