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2019年6月

フツーの社会の異常性

5月28日に発生した痛ましい川崎殺傷事件から半月ばかり経った。犯人が自殺してしまったので凶行の動機ははっきりしないはずなのだが、事件後メディアはさかんにひきこもりとの関連を指摘していた。そして、6月1日に起こった元農水事務次官が息子を殺害した事件もその文脈で云々された。ひきこもりは犯罪予備軍であるといった考えは飛躍しすぎだし、危険だ。個別に考えるべき事件を一般化して考えてはいけない。なんともやり切れぬモヤモヤした思いを抱いていたのだが、いまはもう世間の関心はその後に頻発した高齢ドライバーの事故や、老後は年金のほかに2千万円必要!などという話題に移り変わっている。毎日毎日、話のネタには事欠かない……。

世間の関心は目まぐるしく変わるが、ひきこもりの問題について当事者の皆さんの状況はそう簡単に変わるものではなかろう。いまは50-80問題と言われているが、次は60-90問題となってしまうかもしれない。ひきこもりのそもそもの原因は人それぞれでごく個人的な問題だったろうと思う。だから十把一絡げにして一様の方法で解決できることではないとも思う。公的な支援も有効な場合とそうでない場合があろうと思うし、それが理想的な形で永続できるとは限らない。

現象として見たとき、ひきこもりというのはいわゆるフツーの社会に馴染めずそこに出ていくことができない現象を云うのだろう。フツーの社会にはまず家族という小さな社会、そして家族より大きな学校や職場や地域という社会がある(もう一つ加えるとすれば、いまはネットというヴァーチャルな社会もある)。

問題点として見たときには、上記のいずれの場合においても生きていくには金がかかるということがある。フツーの社会においては、人は何らかの経済活動をしなくては食べていくことができない。ひきこもっている子を持つ親がいちばんに心配するのはそこのところだと思う。自分たちは先に死ぬ。残されたこの子はどうなるのだろう……。ひきこもっている本人とその家族の将来に対する不安はいかばかりかと思う。

ひきこもりの人の多くは、たぶん他の大多数の人間より繊細で内省的なのではないかと思う。人と交わらないから(いや、ネット社会では交わっているのかもしれないが)、彼らの思いや思想は世の中に伝わらない。でも、彼らの頭の中にはフツーの社会の人には及びもつかない深遠で高邁な思想があるのかもしれない。偉人伝など読むと、たいていの偉人は子供の頃は劣等生だったり、周りの人から理解を得られない性格だったりする。いまひきこもっている人たちの中に、すごい偉人がいないとも限らない。

現代社会は不寛容だと言われる。自分たちと違うものを受け入れようとしない。自分も人に対して不寛容だが、他人も自分に対して不寛容だ。無理して周りに合わせようとしてストレスがたまる。すぐに炎上するSNS。自分はオンリーワンだ、認めろと願うくせに、自分は他人を認めない。自分の立ち位置を確保するために自分より弱い者を決めていじめる。働けど働けど生活は楽にならず、貧富の差はますます拡大していくばかり。将来に夢も希望も持てない。

ひきこもりの人の多くは、そんな現代社会に疲れ果てた人たちなのではないか。ひきこもらせてしまったのは私たちなのではないか。ひきこもりは私たちの問題でもある。こんな異常なフツーの社会では私自身がいつひきこもりになるかもしれないという可能性も含めて、これは他人事ではない。

ここでふと小栗判官の話の一場面を思い出した。浄瑠璃や歌舞伎の題材なのだが……。豪傑だった小栗は策略によって殺されるが、閻魔大王の計らいで生き返る。生き返ったはいいが腹ばかり膨れた餓鬼の姿で、歩くこともできなければ目も見えず耳も聞こえず口もきけない。熊野の湯に入れば元の姿に戻ることができるということで、餓鬼阿弥と名付けられて台車に乗せられる。「この者を一引きすれば千僧供養、二引きすれば万僧供養」と胸に札をぶらさげられて。東海道を行く人々が少しずつ小栗を引き(途中で彼の妻も夫と知らずに車を引く)、とうとう熊野の湯まで行き着いて元の姿に戻るという場面だ。

道々出会う見知らぬ人々のほんの少しの善意と信心の積み重ねが、小栗を藤沢から熊野まで送り届けるのだ。自力では何もできない餓鬼をひきこもりの人たちになぞらえるのは失礼なことと思うが、ここで私が言いたいのは、こんな八方ふさがりの状況を救えるのは人の善意だけだということだ。家族だけではない、公的援助の人たち、ネットで知り合った人たち、ほんの少しの縁のゆきずりの人でも、小さな力の結集がひとつの方向へ向かえば大きな力になるのではないか。ひきこもりの人たちをいまの社会に出そうと思えば、そういう方法しかないのではないかと思う。

しかし、彼らにとっての幸せはいまのフツーの社会に出ることなのかどうなのかがわからない。上に書いたように、いまの社会は不寛容だ。人は自分以外のものに対してそんなに寛大ではない。

なぜいまの日本にはこんなフツーの社会しかないのだろうかと思う。突き詰めればこの社会には「自分本位」と「経済本位」という尺度しかないように思われる。こんな社会は、ひきこもりの人だけでなくすべての人にとっても住みよいものではないし、はっきり言って異常だ。もっと他の尺度があってもいいじゃないかと思う。

他の尺度の社会……それはたぶん、もっと精神的なことで幸せを得られる社会だ。金がなくても身体が動かなくても、ゆきずりの人の善意で暮らしていける社会。中世日本の小栗判官がそうであったように。人に善意で接することで満足を得られる社会。小栗の車を引いた人々がそうであったように。

おそらくそこには宗教的思想も必要なのだろうと思う。善行を積めば幸せになれるという思想がいまの日本にはない。そんな目に見えないものは信用できないというのが当たり前になってしまっている。ボランティア活動さえ売名や経済活動に結びついてしまうところに、いまの日本のフツーの社会の程度の低さが現れているように思う。

自分と違う人たちを突き放すのではなく、許容できる人間になりたい。どう考えても間違った危険な考えを持つ人たちに「それはここが間違っている」と勇気をもって言える人間になりたい。どうしようもなくて泣いている人に寄り添える人間になりたい。あと少しで立ち上がれる人を応援できる人間でありたい。……そんなふうに思う人が増えれば、きっと社会の尺度はいまとは違ってくるし、ひきこもった人たちも外に出られるようになるのではないかな。

一切の生きとし生けるものは、 幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。---『スッタニパータ』お釈迦さまの言葉より

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