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解体工事とベトナムの男の子

この6月は私にとって忘れられないひと月になった。

近所に空き家が2軒あり両方とも綺麗さっぱり解体されたのだが、そのうちの1軒というのが私の生家であった。母方の祖父の土地に建っていたもので、私は10才頃までその家で育った。その後の詳しい経過は省くけれども、40年ほど前に祖父祖母が他界してからはその家は東京に住んでいる伯父の所有となった。しかし伯父は結局東京から戻ることなく他界。40年間放置された家は一部の屋根も落ち壁も破れ、野良猫の住み家となり果てていた。

日々その崩れていく有様を見ているのも胸が塞がる思いがしていたのだが、いざ伯父の息子がとうとう処分することを決心して解体という運びになると、それはそれで悲しいものがあった。柱には私が貼ったアトムのシールの跡が見えるし、明り取りの丸い窓の傍には見覚えのある花挿しも見える。幼い日に家族4人で過ごした日々を懐かしむよすがが無くなってしまうかと思うと、自分の存在の一番大切な部分をもぎ取られるような思いがしたのである。

解体は6月1日からということだったので、その前日には祖父祖母の眠るお墓と父が眠るお墓に参って「そういうことになりました」という報告をした。そしてちょうどひと月で、家も庭の木々もすべて消え失せ更地になった。

解体作業の間いったい私はどんな精神状態になるのだろうかと思っていたのだが、毎日隣の市からやってくる解体業のお兄ちゃんたちの真面目で丁寧な仕事ぶりを眺めていると、大変なお仕事だなぁという思いが先に立ち、ああこの家は最後にとても良い人たちにめぐり会ったのだと感じてなんだか嬉しくなった。この家はちゃんと成仏させてもらえたのだと思えた。ありがとう。私もひとつふっ切れた気がする。

ところで、毎日やってくるお兄ちゃんたちの中にひとり、言葉の通じにくい子がいた。挨拶などはふつうにできるし見た目も日本人とまったく変わらなかったのだが、ベトナムから来たのだという。年の頃は二十歳そこそこといった感じ。その子が実にキビキビと働く。まだ重機は扱わせてもらえないようで、廃材をダンプに積んだり竹ぼうきで掃除したりしている。どうやら技能実習生としてやってきたようである。

その子を含めお兄ちゃんたちが実によく働くので、工事3日目くらいから3時のお茶を出すことにした。ベトナムの子だと聞いてからはタピオカやフルーツを使ったお菓子なども作って出した。3時半になるとベトナムの子が「ありがとございました」とお盆を返しに来る。「美味しかった?」と聞くと、嬉しそうな笑顔で「とても、おいしかったです」と答える。英語は話せないと言うので毎日の会話はそれくらいだったが、こちらとしては息子か孫がいたらこんな気持ちだろうなと、気持ちがほっこりする。明日は何を出そうかなと考えるのが楽しい。生まれた家が無くなる悲しさは彼らのおかげでずいぶんと和らげられたのだった。

重機はまだ残っているが、きょうで工事がほぼ終わった。3時にアイスティーとロールケーキを出し、3時半にベトナムの子がピンポンを鳴らした。「ありがとございました」「どういたしまして」といういつもの会話の後、彼が何か言葉を探している。そして真面目な顔で「1ヶ月、毎日、おいしいたべもの、ありがとございました。わたし、しごと、きょうでおわり。わたし、おもいだします」と私を指さす。思ってもいなかった言葉に涙腺が崩壊しそうになった。「私も忘れませんよ。元気でね。これからもお仕事頑張って」と言うのがやっとだった。「はい」と深々と頭を下げる彼に、ちょっと待ってと、用意しておいた駄菓子の詰め合わせを渡した。「みんなで食べてね」と言うと彼は顔をくしゃくしゃにしたのだった。

5時に彼らは帰っていき、そのときにはバイバイするチャンスがなかった。私は工事の施主でもなければその土地の持ち主でもないのだから、彼らが私に挨拶する義理などないのは当然である。思えば、その子の名前も聞かなかったし一緒に写真を撮ることもなかった。でも彼のことは私の心に深く刻まれて忘れることはないと思う。綺麗さっぱりなくなった家と同じで、もう二度と会うことはないだろうが、絶対に忘れない自信がある。そして、彼も時々は私のことを思い出してくれるかもしれないと思うと、胸が弾むのである。

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