カテゴリー「出雲の神話・風土記・神社」の記事

出雲国風土記と神話

八雲立つ風土記の丘で開かれた「出雲国風土記と神話 講師:荻原千鶴」を聴講してきた。聴講者は150~160人くらいだったかな。会場ぎっしりだった。

記紀や風土記に描かれる神がどのように人間と関わるかを通して、「出雲国風土記」の特異性を探り、そこに窺える編纂者の意図にまで踏み込んだ内容だった。パイプ椅子に2時間じっと座って資料を読んだりメモを取ったりするのはなかなか大変だったが、とても面白い内容だった。これまで自分がいかに漫然と「出雲国風土記」を読んでいたかを思い知らされたのがかえって痛快だった。あの説話にはそういう意味が……!という感じ(笑)。

以下、興味をひかれた部分を書き留めておく。

・三輪山型神話
神が美しい人間の乙女を妻にしようとする神話は数多くあるが、ヘビやワニ(サメ)がその正体ということが多い。三輪山の大物主は蛇神。またそのヘビは雷、水、刀剣の力と結びついて、水と農耕にかかわる神話となっている。たいてい恋は成就するが「出雲国風土記」の“鬼の舌震い伝説”ではうまくいかないのが珍しい。「したふ」には「慕う」の他に「紅葉する」という意もあり。

・交通妨害説話
荒ぶる神が道行く人間の半数ほども殺してしまう。人や朝廷や天皇がその神を祀ることによって収まる。なぜ神は荒ぶるのかといえば、そもそも「道」は神様のものだから。他国の風土記逸文にはそういう荒ぶる神が出てくるが(出雲の神も他国では荒ぶっているが)、出雲国の中には荒ぶる神は出てこない。「出雲国風土記」においてその役割を担っているのは「鬼」である。神々は神々だけでパンテオンを作っており、記紀や他国の風土記に見られるような人間とのかかわりがない。

・神の御子の異常な言語活動
ホムチワケやアジスキタカヒコネのように、大人になってもしゃべれない神がいる。言葉の持つ不思議さや、神がしゃべることに対する畏れがある。また、それらしゃべれない神がしゃべれるようになる場所がみな「水」に関わる場所である。水が湧き出る、言葉が出る。それは赤子が初めて言葉を発する時に似て、新たな命や世界の始まりである(ここで映画『奇跡の人』のヘレン・ケラーとサリバン先生のワンカットも紹介された。“Water”のシーン)。「出雲国風土記」は神々との仲立ちをする神職・国造が編纂しているが、祝詞を上げるなど言葉を操るプロの世界観や哲学が反映されているのではないかとの指摘がとても興味深かった。

最後に聴講者からの質問。「出雲神話の中の“くにびき神話”で、朝鮮半島などから土地を引っ張ってくるが、当時、領土意識というものはなかったのでしょうか?」。答としては、「領土意識はなかったか、あっても希薄なものではなかったか。国作り神話は神学から発した創作ではないか」とのことであった。

まぁ、いまでも竹島を巡り半島の国とは諍いが絶えないが、神話というおおらかな世界観からすれば、国境線なんてものはあってなきがごとくのものだったのかもしれない。最近「魏志倭人伝」を読み進めているのだが、日本だけのことを考えていてもらちが明かない気がしている。半島や中国本土まで広く視野に入れて、東アジア全体を考えなくてはいけないように思う。出雲神話を作り出した当時の人々の世界観を持ちたいナと、そんなことまで考えることのできた講座だった。

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また出雲大社へ行った

6月7日、出雲大社に参拝した。先月にも行ったばかりだし、今回の目的は出雲大社の隣にある古代出雲歴史博物館の特別展『出雲大社展』を見ることだったので、大社さんへはちょっとご挨拶だけして……などと思っていたのだが、行きに乗った電車(一畑電鉄大社線)の車内アナウンスを聞いて俄然「これは行かねば!」となった。曰く、「いまなら八足門の中に入れます」。

八足門というのはココの境内図を見ていただくとわかるとおり、ご本殿へはあと楼門ひとつという至近距離である。何か特別な行事があるとき以外、一般人は八足門から中へは入れず、私もこれまで入ったことがなかった。これは大チャンスなのである(6月末まで)。

雲ひとつない初夏の青空の下、八足門の内側から間近に見るご本殿はそれはそれは神々しく美しかった! 葺き替えられたばかりの桧皮葺の屋根は眩いばかりに輝き、黒の「ちゃん塗り」が施された千木や鬼板、緑に塗られた破風の銅板とのコントラストの妙といったらない! 重厚かつ超cool! 神社にこんな形容はおかしいかもしれないが、男前で超カッコいいのである! 撮影禁止だったのでお見せできないのが残念だ。

八足門の中にはオオクニヌシを祀るご本殿の他に、東側に正妻のスセリヒメを祀る御向社(みむかいのやしろ)と、キサガイヒメとウムギヒメを祀る天前社(あまさきのやしろ)が並び、西側にはお后のタギリヒメを祀る筑紫社(つくしのやしろ)が建っている。いずれも清楚で凛としたたたずまいだった。縁の深い女神たちに囲まれて、オオクニヌシもご満悦であろう。スサノオの娘である正妻のスセリヒメは焼餅焼きであったらしいから、そのスセリヒメの社とやはりオオクニヌシの后であるタギリヒメの社を右と左に分けたのは、何か慮るところがあったのだろうかなどと下衆の勘繰りをしたりする(笑)。

大満足で出雲大社を後にして、古代出雲歴史博物館の『出雲大社展』を見に行く。平日だったので来館者はそんなに多くなく、ゆっくりと心行くまで展示物を見て回った。特に見たかったものの一つが、真名井遺跡(出雲大社の東、命主神社境内)から出土した銅戈と新潟糸魚川産ヒスイの勾玉。青銅の武器形祭器と勾玉が一緒に出土したのは他に例がないらしい。出雲大社がいつできたのかについては諸説ある(大社関係者によれば「神代の昔からある」ということになる)が、こういう出土品からみても出雲大社の付近が弥生時代から重要な祭祀の場所であったことは間違いないようである。

そしてもう一つ、どうしても見たかったのが出雲国造家に伝わる「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」である。先日地区の公民館で受講した歴史講座で講師を勤められた古代出雲歴史博物館の学芸員・森田氏が「あの本居宣長も現物は見たことがなかった品です。この機を逃すともう見られませんよ」とおっしゃっていたブツ! テレビなどではたまに紹介されているが、この際自分の目でも見ておきたかったのである。

左端中央に「国御沙汰」という4文字が見える。これは出雲大社の造営遷宮が中央の命令によってなされた国家事業であることを示す。これもなかなか興味深い事実だと思う。なぜ中央(天皇家)が出雲大社を作らなければならなかったのか。『古事記』にあるように、オオクニヌシの要求を受け入れた結果なんだろうか。それも作りっぱなしというのではなくて、その約束から何十年何百年を経ても倒壊したら何度でも作り直すというのは、なんとも律儀な誠意のように思われる。天皇家にとって出雲大社とは何なのだろう?と、あらためて不思議に思う。

ところでこの図は昔の出雲大社本殿が48mあったという説の根拠ともなるものだが、江戸時代、本居宣長は『玉勝間』(1812年刊)の中でこの図の写しを掲載している。ただ宣長もこの巨大神殿が実在したかどうかには疑念を持っていたらしい。これが実際に巨大な柱が発掘されたことによってまんざら嘘ではないことが証明された件については、以前の記事にも書いたとおりである。

つくづく思う。奈良平安の昔には、出雲大社が48mの高さがあったことを誰もが当り前に知っていたのだろう。絵にも描かれ、文献にも残っている。しかしいつの間にか出雲大社は24mになり、人々はそれを当り前だと思い、以前の記録は嘘っぱちだとされた。記憶の伝承がある日途切れてしまったのだろう。たかだか数百年前の事実がもうわからない。翻っていまの時代、あらゆることが記録され発信されているように見える。数百年後の人々は少なくともいまの出雲大社の高さを知ることは簡単にできるだろう。しかし何故営々と社を存続させなくてはならないのか、日本人の記憶や精神や祈りははたしてそのまま伝わっていくのだろうか。何か重大なことがすっぽりと抜け落ちて、いまの時代なら当り前なことが新たな謎になっていくのかもしれない、などと思ったりした。

出雲大社と博物館で3時間ほど過ごし、お腹が空いたので出雲蕎麦を食べた。近くの神社へ参拝しようかとも思ったが、なにしろ暑くてくたびれたので失礼して松江へ帰った。久しぶりに電車にも乗れたし、なかなかに有意義な一人旅だった♪

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出雲大社参拝

Photo5月13日、出雲大社に参拝してきた。出雲大社では5年前から、60年ぶりとなる「平成の大遷宮」が行われており、去る10日には一連の行事のクライマックスである「本殿遷座祭」が行われたばかり。駐車場には日本各地のナンバーをつけた車が停まり、夕方だというのに結構な人出であった。

Photo_3遷宮とは「神社の本殿の造営または修理の際に、神体を従前とは異なる本殿に移すこと」である(Wikipediaより)。今年秋に式年遷宮を迎える伊勢神宮では本殿から摂社末社から橋から全部を新しく造営するらしいが、国宝に指定されている出雲大社本殿では建て替えはできず、今回は主に傷みの激しい屋根の葺き替えを中心に修理が行われた。その工事が始まったのが5年前。そのときに本殿から仮殿に移されていたオオクニヌシのご神体を修理の終わった本殿に帰すのが「本殿遷座祭」である。

私が聞いたところによると、遷宮には2つの意味があるという。ひとつは神様の力がアップするという神サイドの意味。もうひとつは神社建築の伝承という人間サイドの意味である。伊勢神宮の式年遷宮はほぼ20年周期に決まっているが、出雲大社は60~70年に一回。宮大工さん達の技術の伝承が行われるにはギリギリの周期ではないかと思う。

Photo_2その昔、出雲大社の本殿は48メートル(一説には96メートル)の高さを誇り、日本一の高層建築であったとされる。このことはずっと信じられていなかったのだが、平成12年に直径1m以上の大木を3本まとめて1本の柱にしたものが境内から発掘され、48メートル説が決して夢物語ではないことが証明された。しかしこれだけの高さがあると安全性に問題があるのは当然で、じっさい平安~鎌倉時代には何度も倒壊している。そのたびに本殿造営を繰り返してきた熱意はすごいものだと思う。現在の本殿は1744年(延享元年)に建てられたもので高さ24メートルである。

今回の遷宮にいったいどれくらいの経費がかかったのか知らないが、過去の遷宮でもやはり莫大な費用がかかったことだろう。歌舞伎の祖として有名な出雲阿国(いずものおくに)は出雲大社の巫女であり出雲大社勧進のために諸国を巡回したが、これも遷宮の資金集めの一つの方法だったのだろう。

さて今回の大遷宮、「本殿遷座祭」の様子をテレビで見たが、出雲国造(いずもこくそう)である千家尊祐氏を先頭に白いタスキを掛けた数十人の神官が粛々と進む様はなかなか厳粛であった。この出雲国造家というのは代々出雲大社の宮司となる家柄で、元を辿ればアマテラスの第二子・アメノホヒに行き着く。アメノホヒは、そもそもアマテラスの命でオオクニヌシに国譲りを迫りに来た神だが、オオクニヌシに心服して家来になってしまったという経歴の持ち主。以来1000数百年にわたって、その子孫がオオクニヌシを祀る出雲大社を守っているというのも興味深い。

Photo_4本殿の中でオオクニヌシのご神体が正面(南)を向かずに西を向いていること、本殿にいるのはひとりオオクニヌシだけでなく高天原系の「御客座五神」が祀られていること(この五神が参拝客に向き合うようになっている)、天井に描かれている極彩色の「八雲」の絵に雲が7つしかないこと(松江の神魂神社の天井の雲は逆に一つ多い9つなので、一つは出雲大社から神魂神社に飛んで行ったとも言われている)など、出雲大社にまつわる謎はまだまだ多い。イズモからヤマトへの政権の移譲の謎とからんで、古代に思いを馳せるのも面白い。

4月には伊勢神宮にもお参りできて、忘れられない年になりそうだ。出雲大社と伊勢神宮が同じ年に遷宮するのは、日本の歴史の中でも数回しかないことだとか。皆さんも、一生の記念にいかがですか?^^

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国引き神話

昨日は、休みだった夫と海へドライブ。磯で嬉々として竿を振っている背中を見ながら、私は車中で読書。青い空と海、沖を行く大きな船が豆粒ほどに見える。平和でのんびりした光景だが、この方向には竹島があり、更にその向こうには朝鮮半島があるかと思うと、急に現実に引き戻される思いがして興醒めだ……。

その昔、出雲の神さま、八束水臣津野命(やつかみづおみづぬのみこと)は他所から土地を引っ張ってきて今の島根半島を作った。

----八束水臣津野命、詔りたまひしく、「八雲立つ出雲の国は、狭布の稚国なるかも。初国小く作らせり。故、作り縫はな」と詔りたまひて、「栲衾志羅紀の三崎を、国の餘ありやと見れば、国の餘あり」と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須須支、穂振り別けて、三身の綱打ち掛けて、霜黒葛闇耶闇耶に、河船の毛曾呂毛曾呂に、「国来、国来」と引き縫へる国は、去豆の折絶よりして、八穂米支豆支の御崎なり。かくて堅め立てし加志は、石見国と出雲国との堺なる、名は佐比売山、是なり。亦、持ち引ける綱は、薗の長濱、是なり。----

(八束水臣津野命がおっしゃったことには、「出雲の国は幅の狭い布のような幼い国であることよ。始めに国を小さく作ってしまったのだ。では、作って縫い合わせることにしよう」とおっしゃって、「新羅の三崎を、国の余りはないかと見ると、国の余りがある」とおっしゃって、童女の胸のような鋤を手に取り、大きな魚のエラを衝くように地面に突き刺し、屠り分けるように土地を切り離し、三本縒りの太い綱をひっかけて、霜つづらを繰るように手繰り寄せ手繰り寄せ、河船を引くように「もそろもそろ」と「国よ来い、国よ来い」と引いてきて縫い付けた国は、去豆の断崖から杵築の御崎までである。こうして引いてきた国を固定するために立てた杭は、石見の国と出雲の国との堺にある、名を佐比売山(現・三瓶山)という、まさにこれだ。また、持って引いた綱は、薗の長浜、まさにこれである。)

なんとも壮大な国引き神話。出雲神話の真髄、『出雲国風土記』の白眉と言ってもよい名文である。八束水臣津野命は都合4回、いろんなところ(隠岐島や能登半島)から土地を引っ張ってきているが、上に引用した部分はその1回目、なんと新羅から、現在はちょうど出雲大社が建っているあたりの土地をざっくり持ってきたという話である。

国が余っている、という発想がなんとも大らかだが、このときついでに朝鮮半島を全部引っ張ってきてくれていたら、今ごろ竹島問題なんて起こっていなかっただろうにね。

記紀や風土記を読み、出雲の神社を調べていると、朝鮮半島との関わりがいろいろ見えてくる。高天原を追放されたスサノオが、一旦は新羅の国に降り立ったけれども「この国にはいたくない」と言って出雲にやってきただとか(『紀』一書)、出雲地方にだけ存在する韓国伊太氐(からくにいたて)神社が、新羅との関係悪化に伴い日本を守るために置かれたのではないかという説だとか、とても興味深い。一衣帯水の隣国との間には、太古の昔からいろいろあったんだろうなぁと思う。

↓下は、国引き神話が2~3分でわかる動画。

http://www.youtube.com/watch?v=k2T2YASX4WE
http://www.youtube.com/watch?v=J32vHYGGQh8

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ヤマタノオロチを探して

きょうはヤマタノオロチの足跡を探してドライブした。スサノオのヤマタノオロチ退治のエピソードは『古事記』には記されているものの、現場であるはずの『出雲国風土記』には一切記述がない。しかし斐伊川沿いの地域にはそれなりにヤマタノオロチ関連の言い伝えが残る場所があるというので、巡ってみた。

Photoまずは、雲南市木次町里方にある「八本杉」。スサノオはヤマタノオロチの8つの頭を切り落としてこの地に埋め、それぞれの上に杉を植えたとされる。その後、杉は斐伊川の氾濫によって何度も流失したが、そのたびに補植されて現在に至るという。現在の杉は明治6年(1873年)に植えられたものだそうだ。住宅街の中にそこだけ高々と杉が聳えており、「八本杉」と刻まれた巨岩が一種異様な雰囲気を醸し出している場所だった。

Photo_2続いて、雲南市木次町西日登にある「長者の福竹」。ヤマタノオロチに狙われているクシナダヒメとその両親(アシナヅチ、テナヅチ)が、オロチから逃げる途中に立ち寄って休憩した場所という。使っていた竹の杖を地面に突き立てたところ、杖から根が生えたのでこの名がある。現在は周辺に竹は見当たらず、「難を転ずる」ということで南天の木が植えられて祀られていた。

Photo_3Photo_4次は、雲南市木次町湯村の「天が淵(あまがふち)」。斐伊川の中流域でヤマタノオロチが潜んでいたところとされる。雨の後だからか、かなり深そうで水流も急だった。古来氾濫を繰り返していた斐伊川こそがヤマタノオロチの正体という説もある。

Photo_5最後は、雲南市加茂町神原の「八口神社(やぐちじんじゃ)」。スサノオはここから矢を射てヤマタノオロチを仕留めたといい、『出雲国風土記』には「矢口社」と記載されている。御祭神はもちろんスサノオノミコト。また境内から見える草枕山は、強い酒を飲んだヤマタノオロチが枕にして寝た山と伝えられている。

きょうはこれだけしか回れなかったが、ヤマタノオロチの伝承が残る地はまだたくさんあるので、機会を見つけて行ってみたいと思う。

その他、きょう巡った神社は、玉造湯神社と海潮神社。

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千三百年前のガイドブック

神社めぐりが楽しい。携帯するのは千三百年前のガイドブック、即ち『出雲国風土記』だ。当時とは場所が違ったり合祀されている神社も多いので、地図や研究書とにらめっこの下準備は必要だが、たいてい見つかる。千三百年前にもあったものが今もちゃんとあるというのは、すごいことではないか?

私には、信仰心というのはほとんど無い。神様の超人的な力は「困ったとき」くらいしか当てにしない。ただ神代の昔から人々が社を建て手を合わせて来た場所には、何とも言いようのない「気」がある。思わず身震いするような畏怖を感じる場所もある。そういう感覚こそが私にとっては神そのものなのであり、それは何かをお願いする相手などではなくて、どうかそこに鎮まって何もしないでいてくださいと祈らずにはいられないようなモノだ。信仰心は無いが、そういう神に会いたくて、神社めぐりをする。

先月はけっこう多くの神社を巡った。このブログに逐一載せようかと思っていたが、それよりもまずは自分できちんとノートにまとめようと思い立ち、ここんところ暇さえあればそれをやっている。まずは『出雲国風土記』に載っている399の神社を全て書き出し、その住所を調べ地図で確認する作業をした。次に『出雲国風土記』に登場する55柱(数え方はいろいろある)の神様の名前を書き出した。いまはそれぞれの神社の御祭神を調べている最中だが、それだけでノートが1冊終わった。

また、これらのことを書き出しているだけで、いろんな疑問が出てくる。どうしてこんな大きな神社が載っていないのだろう? この神とあの神は同じ神様か? この神様は男か女か? どうしてこの神様はそんなに怒ったんだろう? 等々。そのたびにあっちを調べこっちを調べ、ネットで検索していろいろ見ているうちにそもそも何を調べているのかを忘れたり、と大変に忙しい(笑)。

忙しいが、それがめっぽう楽しいのである。神須佐能袁命、素盞嗚尊(いずれもスサノオノミコト)などが漢字で書けるようになったり、アダカヤヌシタキキヒメノミコトなんてのが舌をかまずに言えるようになったのも嬉しい。古い色鉛筆を引っ張り出してきて神社リストを色分けしたりするのも楽しくてしょうがない。学生時代に戻った気分だ。パソコンでやればもっと綺麗なのができるだろうが、こういう楽しみは半減するに違いない。

今年は『古事記』編纂千三百年に当たり、それは日本全国どこへ行っても千三百年なのだけれど(笑)、『古事記』の約3分の1は出雲が舞台であるということで、殊にこの出雲地方においては記念イベントがたくさん予定されているようだ。同時期に編纂された『出雲国風土記』についても触れられることが多いと思われるので、今年はそういうイベントにも参加してみようと思っている。

おまけ:神社めぐりの途次に見上げたものいろいろ

Photo出雲大社にある日本最大の日の丸。掲揚塔の高さは47m、日の丸は畳75畳分。

Photo_3坂浦というところにある鞆前神社から見た断崖・牛の首。ものすごい威圧感。

Photo_4出雲市平田の風力発電のタワー。シュカッ、シュカッと音を発して回っている。

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月読神社と推恵神社

夫が日御碕へ釣りに行くと言う(またか…)。ついては、月読神社へも連れて行ってやると言うので、喜び勇んでついて行く。

日御碕神社の近くで海を見ながらお弁当を食べた後、先日見つけた道路脇の標識「月読神社 400M」から山道を歩く。最初は道幅も広く石段状になっているが、「月読神社 300M」あたりから道が険しくなり石段もなくなる。イノシシと思しき獣の足跡がそこらじゅうについている。鉢合わせしないことをただただ祈りながら登る。

Photo_4「月読神社 180M」のところにちょっと開けた場所があり、お社がひとつ。何の説明もない。手を合わせながら、ハテこれはどなたが祀ってあるのだろうかと気になったが、とりあえず先を急ぐ。そのお社の正面に鳥居があり、それを潜ってからは本格的に山道である。人ひとりがやっと通れるほどの道幅で、夏場ならきっと草木が生い茂って難路になることだろう。ときどき木々の切れ間から街並みや海や島が見える。方位磁石を持ってこなかったことを悔やんだが、たぶん宇龍港と権現島ではないかと思う。程よく息も切れたところで月読神社に到着。

Photo_5とても小さな神社だ。ここもやはり何の説明も無くて打ち捨てられたような風情だが、真新しい石灯篭が2基奉納してあり、信仰の場となっているのが窺える。県道からずっと「月読神社 ○○M」の標識を立ててくださったのも同じ篤志家の方だろう。あの標識がなかったら私はこの神社を見つけることはできなかったのだから、灯篭に対しても有り難く手を合わせた。また、この社殿の後ろには、礎石と思しき遺構があった。もしかしたら、昔の月読神社の跡なのかもしれないと思う。調べるには『大社町誌』あたりを読むしかないかな。

往復1時間ほどで車に戻る。日御碕灯台まで移動し、夫は岩場で釣りを開始。私は観光案内所を覗いてみる。持参した地図を見ても、いま行った月読神社の正確な位置がわからなかったので、女性の職員さんに尋ねてみた。残念ながら月読神社のことはご存じなかったが、『大社まちかど百花』という大社町のことなら何でも載っていそうな本を見せてくださった。ありがとう♪ 以下、その本にあった記述である。

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月読社
御碕バス停留所の道路をはさんだ天一山の南の県道をはさんだ高台にある社で、主祭神は、天照大神の弟神である「月読命(つきよみのみこと)」である。
「この地に祀ってほしい」という奇夢により、この地に祀られたといわれている。
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また、「月読神社 180M」のところにあったお社も、載っていた写真からその名がわかった。「推恵神社」というらしい。あれ? 推恵神社って……。

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推恵(すいけい)神社
旧道上の弥山さん中腹の丘(みせんが丘)にある。検校は隠岐に流され、夫人は自ら命を絶つという不幸な出来事があった86代宮司の小野尊俊検校とその夫人が祀られている。
推恵とは、恵みを推し及ぼすの意味であり、検校が亡くなった隠岐と松江の楽山にも二人を祀る神社がある。
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ああ、やっぱりそうだ。松江の楽山にある推恵神社には詣でたことがある。何故だか背筋がぞっとしたので覚えている神社なのだが……。以下は、帰宅してからネットで調べた事柄である。

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怨霊鎮めの推恵神社
 日御碕の小野検校尊俊は、加持祈とうに優れた能力を持っていた。時の松江藩主・松平綱隆(二代目)が日御碕に参拝したときも、沖を通る船を秘法で止めて見せたりした。しかし、それより綱隆を感嘆させたのは、歓迎の宴に現れた小野夫人の美ぼうであった。側室になるようにと、いろいろ工作したが、もちろん夫人は聞かず、ついに綱隆は藩主の権力で検校を罪に陥れ、隠岐に流罪とした。優れた加持祈とうも妖術を使って人々を惑わし、天下の平穏を乱そうとするものだとされた。検校は島流し五年後に隠岐海士町で憤死、美ぼうの夫人も自害した。
 以来、松江藩では不吉な出来事が続いた。人々は、検校のたたりだと恐れ、検校の子から半世紀ほど後の六代目の宗衍のころ、検校を祀る神社を建立した。楽山にある推恵神社がそれで、検校の霊を慰めるため、境内での芝居興業も城下でここだけは許されていた。(松江市のホームページより)
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なんだか『水戸黄門』に出てきそうなお話だが、なるほどそういうことがあったのか。松江の推恵神社と共に、二人の地元・日御碕にも推恵神社が建立されたのだろう。わかっていればもっと真剣に拝んだのに、と悔やまれる。あの世でどうかお幸せにと祈らずにはいられない。

Photo_6きょうは二つの興味深い神社に参拝できて、なかなか充実した一日だった。ちなみに、場所はこのあたりではないかと思う。↓

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月読神社を発見

昨日のこと。先日、日御碕で40㎝の真鯛が釣れたのに気を良くした夫が再度行くと言うのでついて行く。時々雪がちらつくがほとんど積雪はない。先日とは岬ひとつ隔てた宇龍という所で試みるも(私は車の中で読書)、強風で竿が振れなかったとかで、15分ほどでギブアップ。

Photoさらに風裏を求めて大社日御碕線を車で南下していたとき、ちらりと視界に入った道端の小さな標識。あれ? ……ストップストップ、バックバック! 先を急いでブーブー言う夫をなだめすかして数十メートルバックすると……。そこには「月読神社」の文字が!

おお~♪ ツクヨミ~♪ 

『古事記』によれば、黄泉の国から戻ったイザナギが禊ぎをしたときに生まれた「三貴神」のひとりである(イザナギの左目からアマテラス、右目からツクヨミ、鼻からスサノオが生まれている)。イザナギから夜の世界を治めよと命令されているが、その後とんと出番のない神様だ。『日本書紀』ではある失敗をしてアマテラスから嫌われたりもしている、なんとなく可哀想な神様という印象がある。

また先日の日御碕神社の記事にも書いたように、アマテラスは昼の世界のみならず夜の世界も治めると自ら宣言したりしており、ツクヨミはますます肩身の狭い思いをしたのではないかと思う。日御碕神社にも、アマテラスとスサノオの姉弟は祀られているのに、真ん中のツクヨミだけはいない。気の毒だなと思っていた矢先、日御碕神社から目と鼻の先に、一人別個に祀られていたとは!

是非とも参拝したかったが、山道を400m行かねばならないようなので、今回は諦めた。車の中で早速『出雲国風土記』を調べてみたが、月読神社というのは記載されていない。いつ頃どういう経緯でできた神社なのか、いつか必ず行ってみようと思う。

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日御碕神社

先日のつづき。

Photo_3日御碕灯台から海岸沿いに遊歩道(?)があり、400~500m南下すると日御碕神社に至る。途中、ウミネコの繁殖地として知られる経島(ふみしま)など眺めながらテクテク歩く。

Photo朱と緑と白のコントラストが目にも鮮やかな社殿が日御碕神社である。こんなに派手な神社はこの辺りでは例がない。権現造りであることといい、出雲地方にある他の神社とは何かしら一線を画す存在であるように思われる。「日沈宮(ひしずみのみや)」にアマテラス、石段を登ったところにある「神の宮(かむのみや)」にスサノオが祀られている。

Photo_2神の宮には「日本総本宮 神の宮 御祭神 神素盞嗚尊」という立て札があり、ここがスサノオを祀る神社の総本宮であることがわかる。それを「日本」総本宮と称するのは気宇壮大というべきか。因みにコトシロヌシを祀る美保神社に行くと「ゑびす様の総本宮」という看板があったりする。「○○総本宮」という場合、○○には神様の名前が入りそうに思うのだが「日本総本宮」とは……?

まあそれはさておき、社務所でいただいた「日御碕神社御由緒略記」を読むと、二つの宮の由緒は以下のとおりである。時代が前後していて分かりづらい記述だったので、時系列にまとめて西暦も付記してみた。

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●日沈宮

・神代~、日沈宮は清江の浜の経島にあった。
 スサノオの御子神・天葺根命(アメノフキネノミコト)が清江の浜にお出かけになられた時、島の百枝の松に瑞光が輝き、「吾はこれ日ノ神なり。此処に鎮りて天下の人民を恵まん。汝速やかに吾を祀れ」との天照大御神の御神託を聞き、ただちに島上に大御神をお祀りした。

・安寧天皇13年(紀元前536)
 勅命による祭祀あり。

・開化天皇2年(紀元前157)
 勅命により島上に神殿が造営された。←「出雲国風土記」に見える百枝槐社。

・天平七年乙亥の勅(735)
 「日の出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り、出雲国日御碕清江の浜に日沈宮を建て日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん」という日の大神の御霊験が仰がれた。

・村上天皇の天暦2年(948)、現社地に遷座。

●神の宮

神代以来現社地背後の「隠ヶ丘(かくれがおか)」に鎮座せられていたが、安寧天皇13年(紀元前536)勅命により現社地に遷座。←「出雲国風土記」に見える美佐伎社。

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第3代安寧天皇だの第9代開化天皇だのと、いわゆる欠史八代の間の記述はとても信用できないだろうが、それでもどうやら非常に古い歴史を持つ神社だということはわかる。また『古事記』においては、アマテラスが昼を、ツクヨミが夜を司るとされていたのに、ここではアマテラスが昼も夜も司るということで、アマテラスの権威が拡大しているように読めるのが興味深い。

ところで、社殿を見ていて気付いたのだが、日沈宮が男千木、神の宮が女千木になっている。これは逆ではないのか。社務所におられた禰宜さんに理由を問うてみると「多くの人がお尋ねになりますが、はっきりしたことはわかりません」とのことだった。しかしこのとき耳よりな情報を得た。「神の宮のご神座は西を向いています」と。なんと! それは、出雲大社と同じではないか! スサノオもオオクニヌシも、社殿の向きとは関係なく西向きに鎮座ましましているとは! 出雲の神社にしては派手な外観の権現造りであることとも相俟って、そこには何か深い理由があるように思われる……のだが、私ごときにわかるはずはない。orz

また、ネットを渉猟していて、夏至の日には伊勢神宮の鳥居の間から太陽が登り、出雲大社の鳥居に太陽が沈んでいくということや、その出雲大社から見た夏至の日の日没線上に日御碕神社と経島があるということなどを知った。単なる偶然なのか、意図的にそういう配置をしたのか。これまたなんとワクワクするような謎ではないか!

折から今年は「古事記」編纂から1300年ということで、「神々の国しまね」が盛んにアピールされている。私も出来る限りいろんな神社や伝説の残る地を訪れて、多くの謎に触れてみたいと思っている。

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稲田神社

先週のことだが、奥出雲町の稲田神社を訪ねた。イナタヒメ(稲田姫)を祀る小さな祠があったところに、篤志家小林徳一郎氏の尽力で昭和7年に社殿が建てられたのだそうだ。本殿・拝殿のある大きな神社だが、神社の歴史としてはそう古いものではない。

イナタヒメ(クシナダヒメとも言う)と言えば、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治して妻にしたお姫さま。須佐神社、八重垣神社、須我神社など、ご夫婦で祀られている神社は多いが、イナタヒメ単独で祀られている神社に詣でるのは初めてだ。どうやらこの地がイナタヒメ生誕の場所と伝えられているようで、周辺には「産湯の池」や、へその緒を竹で切ったと伝えられる「笹の宮」があるらしい。

スサノオが降り立ったとされる鳥髪山(船通山)とも近く、なるほどこのあたりはイナタヒメの故郷なのだなぁと感慨深い。しかしそれにしても、『古事記』ではあれだけ大きく扱われたヒロインなのに、『出雲国風土記』においては飯石郡熊谷郷の条に同一神と見られる久志伊奈太美等与麻奴良比売命(クシイナダミトヨマヌラヒメ)が一度登場するだけで、扱いは小さい。ヤマタノオロチ伝説など一切描かれていないのがやはり謎だ。『古事記』はヤマト政権の創作だと言うが、地理的には決して間違っていないので、綿密な現地調査の元に描かれた神話のように思われる。

ちなみに、この神社を訪れた目的は、境内にある「ゆかり庵」でお蕎麦をいただくということであった(参拝はもとよりだが・笑)。「ゆかり庵」は社務所を改造したお店で、二間ぶち抜きの広い畳のお部屋と縁側があり、暖房は数個のストーブという、どこか懐かしい風情が漂っている空間だった。15食限定のセットや横田小そばの割子そばは既に売り切れていたので、私は暖かい山菜そば、夫は普通の割子そばをいただいた。これが非常に美味♪ 香り高くコシの強い麺も張ってあるお出汁も私好み。私がこれまで食べてきた蕎麦の中で5本の指に入る。これもイナタヒメのお引き合わせか。ありがたや~(笑)。

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