先ごろ聴いた『Knock Out VOICE』でこんな話が紹介されていた。ある小学校で、PTAから「子供達に、給食の前の『いただきます』を言わせないでくれ」という申し出があったという。何故かというと、「給食費は親が払っているのだから『いただきます』なんて言う必要はない」とのこと。学校側が、これは食べ物から命をもらっていることへの感謝の気持ちの表れなのだからと説明すると、「そんな宗教的なことは子どもに教えないでくれ」と言ったという。まことに世も末である。
こういう実情を知ると、「道徳」を小中高校で正式教科に、という動きもむべなるかなと思えてくる。採用された教科書に「ごはんをいただく前には『いただきます』と言いましょう。」と明文化されていれば、少なくともこんなPTAのくだらぬ減らず口を撃破する根拠にはなる(笑)。
しかし、「道徳」を正式教科にするということは、何らかのテストをして先生が評価をするということで、そんなことができるはずはなかろうと思うのである。漢字の書き取りや数学のドリルとは違う。答えはいくつも考えられるはずだ。誰が「これこそが唯一無二の正解だ」と自信を持って答えられるというのだ? また、深く考えていても、それを上手く言葉にできなかったり行動に移せない子どももいることだろう。それをどうやって推し測って評価することができるというのだ? 世界中の誰一人としてそんなことはできまい。
ところで、私自身、学校でどんな道徳教育を受けたか、まったく記憶にない。当時は、躾は親の責任であることくらい改めて言うも恥ずかしいくらい当たり前のことだったから、躾以外の何かを教わったのかもしれない。教科書はなかったと思うが(あったかな?)、副読本のようなものがあって、それを読んだかもしれない。つまりそれくらい道徳なんて曖昧模糊とした扱いしかされておらず、しかもそれで充分な時代だった。
「道徳」というのは、生きる上で必要になる 自分の身の処し方の規範なのだろうと思う。それは程度の差こそあれ、誰もが持っているはずのものだ。持っているはずなのだが、大人だって判らないことが多い。というか、判断できなくて迷うことだらけだ。たとえば、多くの人が「人を殺してはいけない」という規範を持っていることだろう。でも重罪を犯した犯人には「死刑にされて当たり前だよね」という判断を下すのは何故だ? その根拠を述べよと言われたら、たいていの大人は困るだろう。人を殺してはいけないはずなのに、何故いつまでたっても戦争という殺し合いがなくならないのか、子どもに明確に答えられる大人がいるだろうか? 宗教ならこれに答えることが可能だと思うが、宗教色を排除しなくてはならない日本の「道徳」ではそれもできまい。
道徳というのは誰かが誰かに教えられるものではなく、生きて様々なことを経験したり本を読んだりしていくうちに漠然と出来上がってくるものなのだろう。それは人それぞれに微妙に違うであろうし、誰かから○×で評価されるべきものでもないと思う。もっともそれがあまりに反社会的な言動に結びつけば、世間から糾弾されるだろうけれども。そして、人の道徳観というのに最も大きな影響を与えるのは、多くの場合「親」だ。経験的にそう思う。だから、まずは躾という道徳のもっとも根本的な部分において、学校よりもむしろ家庭で頑張ってもらいたいと思う。子どもが喋れるようになったら「いただきます」くらいは言わせてほしいと思うのである。
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