カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

「お上の事には間違いはございますまいから」

最近どうもテレビも新聞も見るのがイヤになっているので詳しくは知らないのだが、着々と「テロ等準備罪」が成立に近づいているようだ。先日、友人とこの話題になったとき、私が「お上の事には間違いはございますまいから」と言ったら、「『不意打ちに会ったような驚愕の色』を見せるお上が一人でもいると思う?」と返してきたので、二人で大笑いをした後に嘆息した。めちゃくちゃアカデミックな会話ではあったナ(笑)。

森鴎外の『最後の一句』の中に見えるやりとりである。われわれの時代、中学の国語の教科書に載っていた(いまも載っているのかな?)。死罪と決まった父親の命を救うために自分たち兄弟が身代わりになるとお上に申し出た長女“いち”が放った強烈な一言が「お上の事には間違いはございますまいから」である。結局この“いち”の言葉が父親の死刑執行を日延べにし、更には期せずして宮中行事による恩赦が行われて父親は死罪を免れることになる。

要は、佐々という奉行の胸に“いち”の最後の一句が突き刺さったということなのであるが、父親の罪も間違いのないところではあるので、それがこういうことで揺らいでよいのかと、当時中学生だった私にはよくわからない話でもあった。それが大人になって段々とわかってきたのは、人を裁くことの難しさとそれに伴う「おそれ」とである。完全無欠な人間などいない、法律がすべてでもない、当事者によって結果が異なることもある、何が正しいのかなんて誰にもわからない、そういう諸々のことがわかってくるに従って、無垢な子供の献身的行為ほど衝撃的なこともそうそうないこともまたわかってきた。普通の大人なら、こんな言葉をつきつけられたらどうしていいかわからない。心胆を寒からしめられて思考停止になってしまう。

この話の救いは、奉行がそういう普通の大人だったことだ。自分の行いに絶対の自信もなく、いちおう型どおりの仕事をして自分を納得させている普通の大人。物事の根本をえぐるような“いち”の言葉にたじろいで愕然とするだけの感受性と良心とを持ち合わせていた普通の大人だったことだ。だから奉行は刑を執行することができずに「日延べ」という落としどころを選んだ。単に問題の先送りではあるが、彼の良心からすればそれ以外の手は打てなかったのだろう。

いまの「お上」に、そんな政治家が果たしているだろうか。法案ひとつを決めるときに、その責任の重さの恐ろしさに思考停止になるほど悩む政治家がいるだろうか。……否! 人間離れした無責任さでワイワイとお神輿を担いでいるようなノリの連中ばっかりだ。しかしそういう連中を選んだのは我々国民なのであるから、これはもう嘆息するしか手がない……。

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(備忘録170514)

地元のプロバスケットチーム「スサノオマジック」がB1に昇格することが決まった♪ 観戦に行きたかったなぁ。

2017 きょうは母の日。別段何もしなかった親不孝者である(汗)。
近年、母の日用に出回るアジサイ「万華鏡」を今年も買って玄関に飾った。去年は青を買ったので今年はピンクを♪ 栽培はなかなか難しい品種らしいので(去年は冬に枯らしてしまった)、今年はこの花をできるだけ長くもたせることを目指そうと思う。

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パンドラの箱

きのうは北朝鮮が何かやらかすかもしれない「Xデー」と呼ばれる日だった。結局、ミサイル発射も核実験もなかったようだが、この先いつXデーが来てもおかしくはない。心配なこと、この上ない。

とは言うものの、心のどこかでそれを観てみたいと思っている自分がいるのも事実だ。もちろん自分は安全圏にいて、それを他人事として観ているのが条件なのだが(ズルいね)。

前世紀に話題になった『ノストラダムスの大予言』。1999年の7月に世界のどこかで何も起こらなかったときには正直がっかりした。私の心の片隅にある破壊願望が満たされなかったからだと思う。

大戦中に東京が焼け野原になるのを経験した坂口安吾は、滅びの運命の美を描いた。大阪で空襲を受けた経験のある手塚治虫は、破壊は大スペクタクルだと言った。こんな天才たちを引き合いに出すのはおこがましいが、そういう感覚はわかる気がする。

もちろん安吾や手塚は自身がそれを経験したのであり、私の単なる想像上の悪魔的な破壊願望とはまったく違うものだろう。渦中に置かれた彼らの恐怖と憤りと悲しみは想像に余りある。しかし彼らはそれを経験したからこそ、後の創作活動の基盤となる哲学を持つことができたのだとも思う。とことんまで堕落したところからおのれの力だけで這いずり上がれと安吾は叫び、再生と命の輝きを手塚は描いた。とことん破壊されたどん底からしか、見えない希望があるのかもしれない。

この世から戦争行為がなくならないのは、人間の本能が行き過ぎた繁栄を危ぶみ、それを破壊しなくては希望は見つけられないことを知っているせいなのかもしれない。

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忖度だの慮りだの……┐(´ー`)┌

私は昔、国家公務員だった。辞めた理由はいわゆる家庭の事情。両親にとって娘は私一人しかいないが、私の仕事でのポジションの代わりはいくらでもいるのだ。後任者のためのマニュアル作りには結構苦労したが、私の仕事内容は後任者にそのまま引き継がれたことと思う。

定員も決まっている、最低限の仕事内容も決まっている、してはいけない行為も決まっている公務員の仕事に「忖度」だの「おもんぱかり」だのは、元来存在を許されないものだ。相手が誰であろうと(総理大臣であろうと都知事であろうと、あるいは背後にそういう権力者の匂いがする誰かであろうと、そのへんを歩いているどっかのおっさんであろうと)、その人が受けられるサービスや利益や権限は公平に提供されなくてはならない。また同時に、その事案に当たる担当者が誰であろうと、同じ仕事をし、その結果は同じにならなくてはいけない。手続きに不備がないか念入りに調べて検討する。故に、手続きには時間がかかるのが一般的だ。いわゆる「お役所仕事」というやつだね。

それが、神風が吹いたような異常とも思えるようなスピードで事態が展開していったとすれば、そこには何らかの力が働いたと考えるのが妥当だろう。お偉いさんが「ここの国有地は安くてもいいからあの人物に売れ(彼のバックには総理夫人がいる)」と命じたのなら、それはもうそれで決まり。お偉いさんがその決定の責任はとってくれるわけだから、物事はその方向へ一直線に進む。というか、進まないと叱られる(笑)。

今回の森友学園の件、私は財務省が「忖度」したのだと思う。総理夫人付き職員がちょっと照会しただけでテンパっちゃった誰かがいたんじゃないかな(笑)。もし本当にそれだけのことだったとすれば、それを「関与」と言ってよいかどうかは意見が分かれるところだと思う。でも実際、政治家(もしくは公人)の仕事なんて誰かの陳情を受けて担当各省庁に口利き即ち「関与」することが主たるものなんじゃないかと推測する。たとえ関与するつもりがなくても、ちょっと照会するだけでも、それだけの影響力があるということは昭恵夫人もわかっていなくてはいけなかったと思う。

昭恵夫人は公人ではなく私人だと総理は言っていたが、ただの主婦に講演の依頼なんかする奴はいない(笑)。「総理夫人」の肩書をありがたがって自分の権威付けに利用しようとする有象無象がいっぱいいるってことだね。くだらない……。

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仏経山リベンジ

日曜日に仏経山(出雲国に4つある神名火山のうちの一つで、伎比佐加美高日子命が座す山)に登ってきた。昨年に続いて2度目のトライである。昨年は本来見るべき磐座を見損ねて下山してしまったので、リベンジなのである。今年は無事に磐座を拝むことができ、展望広場からの眺めも堪能した。

鏡のように穏やかな宍道湖、昨年末に登った嵩山から連なる北山山地がくっきり見える。山陰本線を走る列車がおもちゃのように走っているのが可愛い。何だかわからないが鳥の声が時折聞こえる他はまったく何の下界の音も届かない。神はこういう高みから人間の生活を、悠久の時の流れを見ているのだなぁと思ったりする。

お弁当も食べ終え、さて下山というとき、もうこの山に登ることもないかもしれないと思い、もう一度景色を見渡す。夫が「また来ればいいじゃないか」と言ったが、ここ10年ばかりは私はどこへ行っても「これが最後かもしれない」と思って景色を見てきたような気がする。若い頃には湧かなかった感覚ではあるが、特に哀しいという感覚でもない。ああしておけばよかった、こうしておけばよかったという悔いを残さないという意味合いでもない。ただ漠然と、いまこうしている自分という事実を、味わい尽くしたいという感じがあるだけだ。「一期一会」ってのはこういう感覚なのかもしれないと思う。

歳をとるというのは、若い頃には簡単にできたことができなくなることでもあるが、若い頃には得られなかった感覚を新たに見出すことでもあるようだ。そう思えば、歳を重ねるのも案外悪くない。本日、めでたく57歳になったおばさんの雑感である。^m^

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(備忘録170224)

・きょうは、月末の金曜日に早期退社を促す「プレミアムフライデー」とかいう日だったのだそうだ。ここ日本だよね? なんで日本語じゃないかな~? チープなネーミングにアイ・キャント・ストップ・ラフィングだよ。┐(´ー`)┌

喜ぶ人もあれば大迷惑な業種もあろう。まあ、私には全く関係ない話ではある。経済効果がどれほどあるのかにも興味はない。ただ、こういう取って付けたようなキャンペーンは、不公平感と格差を助長する結末しか生まないような気がする。恩恵を受けない人はどうしても「損」をしているような気がするのではあるまいか。

・村上春樹の新作『騎士団長殺し』を買いに行く。店頭に百冊くらい平積みになっていた。あと、又吉直樹の『火花』(文庫版)と鈴木大拙の『仏教の大意』(文庫版)を購入。まだ『サピエンス全史』も読み終えていないので、読む本いっぱいで嬉しい~♪\(^o^)/

・金正男を殺害した方法はVXと判明。致死量は10ミリグラムだとか。核搭載ミサイルも怖いけど、VXを降らされるのも怖い。あの坊っちゃんは、どうしたものかね……。

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スマホと生きていく人類

トランプ大統領就任から1ヶ月、金正男暗殺から1週間、清水富美加(せっかく『家政夫のミタゾノ』でファンになったのに……)の出家から……何日だ? とかくブログの話題には事欠かない昨今なのだが、確定申告の準備で忙しかったりしてなかなか書けなかった。申告の準備が一応終わったので、きょうは書く。が、全然別の話題だ(笑)。

最近スマホのCMで「私たちはスマホと生きていく多分初めての人類だ」というのがあるが、あれを見るたびになんだかモヤモヤするのである。「スマホがないと生きていけない」の間違いだろうと思ったりする。「だから危機感を覚えよう」と続くなら、あっぱれと思う。だが「そう!スーパースチューデント!」と続くのである。おいおい、何を誇らしげにしてるんだヨ? スーパーなスチューデントなら、スマホ使わずに1週間生きてみなよ!

コピーとしてはよく出来ていると思う。いつの時代だって何かしらの新発明や流行があった。それをことさらにクローズアップして、さあ、新しい時代の幕開けだ!と宣言するのは気持ちの良いことだろう。昭和30年代半ばに生まれた私の世代なら、さしずめ「私たちはテレビと生きていく多分初めての人類だ」った。観すぎると目が悪くなるので最低でも画面の対角線の6倍は離れて観るようにと推奨されていたものだから、狭い四畳半の部屋の隅っこから観たりした(笑)。その後、「パソコンと生きていく」「ケータイと生きていく」人類があって、ここに「スマホと生きていく」人類が登場する。

先日、M氏から面白い記事を教えていただいた。タイトルに曰く「『手書きレポートを写メって提出』にネット民驚愕」というものだ。一見して意味がわからなかったのだが、記事を読んでなるほど驚愕した。パソコンを使えない大学生がいるらしいのだ。だからレポートは手書きした。⇒それを写メって提出した。ということらしい。┐(´ー`)┌

この行動のどこがおかしいか。高校までにパソコンは習得できているはずだから、それが使えないとはよほど出来の悪い大学生だった、ということには目を瞑るとしよう(記事中の教授はパソコンを使えないのがイカンというご意見だが)。抱腹絶倒級におかしいのは、なぜ手書きレポートを直接持参するとか郵送するとかしなかったのかということだ。そこでどうしてスマホが出てくるのかが私にはさっぱり理解できない。

よしんば、「レポート提出はファイルで!」と指定されていたと仮定しても、やっぱりおかしい。それなら最初からスマホでレポートを書けばよかったんじゃないの? 私はスマホを持っていないからわからないけれども、テキストファイルを送ることくらいできるんでしょう? それをわざわざ手書きして画像ファイルで送るって、どういう思考回路なんだろう? 「スマホと生きていく」人類にとってはいいアイデアなのかもしれないが、思考方法としてはものすごく変だ。

件のCMを見て私がモヤモヤするのは、なんでもできるスマホの軍門に降った人類を思い浮かべるからだと思う。使わなくて済むところまでついそれに頼ってしまうのは、依存症としても末期だ。いまは、パソコンとスマホの優劣が取沙汰されている段階だが、手軽な分だけいずれはスマホに軍配が上がる時代が来るかもしれない。しかしそこで問題になるのは、スマホが人類の知恵や思考や直感を放棄してまで使うべきものかということではなかろうか。先の例の仮定の話で言えば、何故ファイル形式で提出するように指定されたのかという相手の思惑を、そのときの人類がはたして察することができるかどうかということだ。

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さよならオバマ大統領

あと4時間ばかりでオバマ大統領が退任する。ヒロシマにも来てくれて核をなくしていく勇気を持とうと言ってくれたし、いわゆるオバマ・ケアも弱者の視点に立つものだったし、私の知っている歴代アメリカ大統領の中ではいちばん好きな人物だった。

10日に行われた涙ながらの最後のスピーチは感動ものだった。民主主義とアメリカの信念を示し、かつ次の大統領への皮肉も込めてあった。以下は演説の最後の部分。とにかくカッコよかった!私がアメリカ国民だったなら“Yes We Can.”のところで泣いたと思う(実際、大歓声だったが)。

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I am asking you to believe.  Not in my ability to bring about change – but in yours.

I am asking you to hold fast to that faith written into our founding documents; that idea whispered by slaves and abolitionists; that spirit sung by immigrants and homesteaders and those who marched for justice; that creed reaffirmed by those who planted flags from foreign battlefields to the surface of the moon; a creed at the core of every American whose story is not yet written:

Yes We Can. 

Yes We Did.

Yes We Can.

Thank you.  God bless you.  And may God continue to bless the United States of America.
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経済一辺倒、アメリカ万歳な次の大統領が、どんなに品のない就任演説をするのか、見ものだ……。

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平成もあと2年?

ネットニュースより

--- 天皇陛下が在位30年を節目として譲位を希望されていることを受け、政府は、平成31(2019)年1月1日(元日)に皇太子さまの天皇即位に伴う儀式を行い、同日から新元号とする方向で検討に入った。国民生活への影響を最小限とするには元日の譲位が望ましいと判断した。譲位に伴う関連法案は、有識者会議の報告と衆参両院の論議を踏まえ、5月上旬にも国会に提出する見通し。譲位は「一代限り」として皇室典範改正は最小限にとどめる方向で検討を進める。

 複数の政府関係者が明らかにした。譲位の日時に関しては「○年以内に政令で定める」として法案に明記せず、皇室会議を経て閣議決定する方針。

 具体的には、平成31年元日、国事行為である「剣璽(けんじ)等承継の儀」(三種の神器等引き継ぎ)と「即位後朝見の儀」(三権の長らの初拝謁)を宮中で行い、官房長官が速やかに新元号を発表する方向で検討している。

 皇位継承に伴う重要儀礼である大嘗祭(だいじょうさい)は、準備に半年以上を要するため、平成31年11月にずれ込む見通し。皇位継承を内外に示す国事行為「即位礼正殿の儀」は大嘗祭の前に行われるという。(以下略)---

私のような下々の者でも天皇制と関係があるとすれば、そのいちばん大きな要素は元号だろうと思う。1960年(昭和35年)というキリのいい年に生まれた私にとって、昭和の時代は西暦と元号と自分の年齢の互換は容易だった。それが1989年が平成元年となってから、算数の苦手な私にはさっぱり計算ができなくなり、以来28年間よくわからないまま過ごしてきた(笑)。

平成31年から新しい元号になるとすると……。
西暦2018年━平成30年━58歳(誕生日以降)
西暦2019年━〇〇元年━59歳
西暦2020年━〇〇2年━60歳
西暦2021年━〇〇3年━61歳
うん。やっぱりビミョー(爆)。2021年から元号が替わってくれれば私的には最高なんだけどな~。

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行列することははたして美徳か

穏やかな日和に恵まれた三が日。元旦には美保神社、3日には出雲大社へ詣でた。で、気になったことをひとつ書き留めておく。

美保神社へ詣でたときのことだ。天気が良かったからけっこうな人出である。イカ焼きやたこ焼きの露店に客が列を作っているのを横目に見ながら、鳥居を潜って参道をしばらく歩く。と、見えてきたのはまたまた長蛇の列。幅2~3人の列がどうやら本殿前まで続いている模様。本殿までには石段を上らなくてはならないのだが、その左側は綺麗に空けて右側に皆さんおとなしく並んでいらっしゃる。

ここは並ぶ必要なんかないじゃないか! と、声を大にして言いたい。

で、私と連れ合いはスタスタと石段の左側を上って列をなす150人ばかりを追い抜き(追い越しではない)、本殿の賽銭箱にお賽銭を投げ入れさっさと参拝を済ませた。横を見ると、最前列の2人がお賽銭を投げてパンパンするのをすぐ後ろの2人がじっと待っている。

お賽銭箱の幅は少なくとも人間5~6人分はゆうにある。だからこそ、我々は賽銭箱の中央でこそないものの中央からちょっとずれたところからお賽銭を入れられたのである。

何故、行列する必要のないところで行列するのだろうなあ? お賽銭箱の中央から参拝しなければならないワケでもあるのだろうか?

いや、ただ単に前の人が並んでいるふうに見えたからそうしたというだけのことだろうと思う。私だって、立錐の余地なしの大混雑のときに行列の必要性を感じればもちろん並ぶ。あるいは、座席数の限られたお店の行列だとか、トイレの行列だとか、災害時に通路を空けておく必要があるときの行列だとか。それは最低限のマナーだと思うからだ。

しかし、これはそんなケースとは違う。2列が4列になろうが6列になろうがまだ余裕があるのだ。そんなときに行列する意味がどこにある? 皆でどっと本殿前に押し寄せて、われ先にお賽銭を投げ、本殿に向かってパンパンすれば、ことはものの1分で済む。それが大人しく行列すると10数分もかかるのだ。急いでいる人間にとってこんな場合の行列は迷惑行為以外のなにものでもない。

結局、これだけの人が並んでいるときに自分がそれに外れた行為をする「勇気」のある人が少ないのだと思う。誰もが、もうちょっと列の幅が広くなれば早く参拝できると思っているのだが、自分がその幅を広くする一歩を踏み出せないでいる。なのに、きっと、いざそれをする人間を目の当たりにすれば、ルール違反だとか言って怒るに違いないのだ(笑)。

3日に出雲大社へ詣でたときには「八足門」内に入って参拝できたが、列なんてできていなかった。因みに、前回参拝したときには、係員の人がともすれば行列しそうになる人々に向かって「列を作る必要はありません」と賽銭箱の脇で連呼しておられた。うん、出雲大社で2列の行列なんて作った日にゃ、参拝は一日がかりだ。

行列するという行為は、ふつう、ルールでもなければマナーでもない。その場その場に居合わせた一人ひとりが考えて、行列するのがよいと判断した人が多い場合に自然に発生するものであればよい。そして時の流れとともに自然に消滅するものだ。他人の迷惑になることはしないほうが良いが、そうでなければちゃんと自分で判断して行動しよう。状況に流されるだけの子羊の行列なんてまっぴらだと、新年早々思ったことである。

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