カテゴリー「映画・テレビ」の記事

『マイケル・ジャクソン 愛と哀しみの真実』

『マイケル・ジャクソン 愛と哀しみの真実』を観た。私は特別彼のファンだったわけではないし、いったいどういう人だったのだろう?というくらいの興味で観たら、なかなかに見応えのある番組で、考えさせられることも多かった。

彼の児童虐待疑惑がどのように捏造されていったかを再現ドラマで見せる構成だったが、マイケルを演じた人がとてもマイケルに似ている綺麗な人でまずビックリ。サスペンスドラマを見ているような感覚で、どんどん事件の深みに嵌っていくマイケルをだんだん可哀想に思い始め、彼が無罪判決を勝ち取ったときには本当にホッとした。

きょうの番組で描かれたことが真実かどうか、それは私には判断できない。当時マイケルがマスコミからあれだけバッシングされたときに(それで彼はだんだんと薬物に依存するようになっていったのだが)、多くの人々がその報道を鵜呑みにしてしまったように、きょうの番組を観てその内容を丸ごと信じることはまたその轍を踏むことになるかもしれないという危惧はある。ただ、印象としては、彼は「白」だ。

人の悪意とか限りない欲望の恐ろしさとかをまざまざと見た思いがする。また、警察もマイケルを陥れようとする一派の片棒を担いだ感がある。虐待されたという少年への質問などはどう見ても誘導尋問だ。未成年者への虐待は決して見逃してはならないことではあるが、そしてそれは詐欺や恐喝を見逃すより重大なことかもしれないけれども、真実を捻じ曲げようとする作為には怒りを覚えた。

裁判の様子なども興味深かった。検察と弁護士との証拠の出し合いと潰し合い。腕の良くない弁護士なら負けていたかもしれないと思うと、裁判というもののあり方をも考えてしまう。法廷とは真実を明らかにするところなのか、それとも原告・被告、検察・弁護人の双方の立場で勝ち負けを争うところなのか。いつ自分が裁判員に選ばれるかもしれない今日、それは決して他人事とは思われなかった。

裁判には多くのビデオ録画が証拠として採用されたようだ。芸能人を巡る事件なのだからそれも頷けるところではあるが、いかにも現代的な証拠品だという印象を持った。ちょっと前にも、子どもが気球に乗って飛ばされてしまったとでっち上げたバカ家族がいたが、ビデオの中である役割を演じることで、マスコミに取り上げられて有名人になることをステータスだと思うバカさ加減にはほとほと呆れ果てる。マイケルに虐待されたと言った少年とその家族も、目的はそんなところだったんじゃないかな。

華やかで甘いケーキに群がって恩恵に与ろうとする害虫たち。人々に夢と希望を与え続けようとした一人のアーティストは、そんな狡猾な悪人たちの前に無防備に、そしてあまりにもピュアに、ただ立ち尽くしていたように見えた。

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『サムライ・ハイスクール』

今クールのお楽しみだった『サムライ・ハイスクール』の最終回を観ました。三浦春馬クンが演じるイマドキの高校生・小太郎と400年前に真田幸村の家臣だったサムライ・小太郎の二役が、なかなか見事でした。

前回から幸村ゆかりの名刀村正を巡るお話になっていましたが、サムライが取り戻すでもなく、なんだかちょっとスッキリしなかったと思うのは、私の理解力不足のせいでしょうか。高校生小太郎が通っていた「東雲歴史文庫」(だったかな?)の司書のお姉さんの正体は、え? 人形? しかも、顔が怖い(笑)。幸村や小太郎とどういう関係だったんでしょうね???

まあ何はともあれ、ヘタレな高校生に御先祖様が乗り移ったとたんにまことにカッコよくて強いサムライに変身して、悪を一刀両断してしまう痛快さが楽しいドラマでした。考えてみれば、変身物とタイムトラベル物と青春物の三つの要素があったんですよね。贅沢に楽しませてもらいました。原作はマンガかな? そんな感じがするんですが。映画にしても面白そうな気がします。

そうそう! あの司書のお姉さんが「ぎ」の付く言葉を列挙していて、「ギヤマンの鐘……だいじょ~ぶ」と言ったのには吹き出しました(笑)。元ネタのわかる人がどれくらいいるかしら? 『仮面の忍者赤影』第二部「卍党編」で、赤影さんたちは莫大なエネルギーの製法を秘めた3つのギヤマンの鐘(サタン、ゼウス、マリア)を探すのです。鼻の下に親指を当てて手のひらをクルッと回すポーズの「だいじょ~ぶ」は、ご存知青影さんの決め台詞。こんな台詞を言わせるなんて、脚本家さんに拍手です!

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『坂の上の雲』を観た

鳴り物入りで喧伝される事柄には出来る限り乗っかりたくない性格ではあるのだが、観てしまった。『坂の上の雲』。

武士階級が起こした初めての革命--明治維新。列強に追いつけ追い越せをモットーに富国強兵に取り組んだアジアの小国日本が、やがて強大なロシア国家との戦争に突き進んでいく様が描かれる小説だが、第1回目の今夜は、主役の3人である秋山好古、秋山真之の兄弟と正岡子規の若き日が描かれていた。

印象的だったのは、主役やその家族たち士族の精神性の高さだった。どんなに貧窮し襤褸をまとっていても、凛とした立ち居振る舞いと姿勢のよさには卑しさのかけらもなかった。また劇中、当時の人々の写真が幾枚も映し出されたが、そのどれもが今の日本人とは顔つきが違っているように思えた。無骨だが粗野ではなく、地に足がついたどっしりとした顔つき。若い人たちでも、いまの時代のちゃらちゃらした我々なんかよりはるかに「大人」に見えた。時代がそうさせるのか……。だとしたら、明治以降、あるいは戦後の経済発展に伴う豊かさの実現は、日本人の精神性を堕落させるもの以外の何物でもなかったのかもしれない。

今夜の放送で、明治期の日本は「少年の国」とされていた。坂の上の、そのまた先に浮かぶ雲に向かって、ひたすら上を向いて歩んでいく少年期の日本。100数十年経って、老いの下り坂を転がり始めた今の日本。あの時代の日本人の毅然として確固たる精神性を取り戻すことができたら、今の日本も少しは希望が持てるものになるのかもしれない。

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鰈カレーと青山草太さん

昨夜久しぶりに『秘密のケンミンSHOW』を観ていたら、島根県にあるカレーとして「カレイカレー」というのが紹介されていた。レトルトカレーに干し鰈をトッピングして食べるのだそうだ。「げッ」と思ったが、ゲストさんたちの試食では好感触だったようだ。浜田市で国内の干し鰈の49%を生産しているというのも初めて知った。鰈の一夜干しはわが家でも確かによく食卓に上るのだけれども、他県ではそんなに食べられないのかな? ふんわり炙ってレモンやゆずを絞ると最高に美味しい。カレーとマッチするかどうか、今度探して食べてみよう。

島根県代表ゲストは俳優の青山草太さん。非常に申し訳ないことに私は昨夜までまったく存じ上げなかったのだが、『ウルトラマンマックス』で主役を演じられた方らしいので(でも私は『ウルトラマンマックス』を知らない……)、若いお母さま方には人気がおありなのかもしれない。ああ、連続テレビ小説『だんだん』にも石橋診療所の応援医師として出ておられたのだな。そう言われれば、見覚えがあるような気もする。

物静かで控えめな印象の人で、島根のことをU字工事に「上から目線」で言われたときの反応がよかった(笑)。言い返すでもなく、笑いを取るでもなく、カクンと脱力したような素直な反応(笑)。うん、別に何を言われようがかまわんですけんね。

「島根は鳥取の左です!」という有名なコピーがあるが(え?知りません? 鳥取がわからないと両県共倒れになるところがなかなか秀逸だと思うんですが)、こちらの人間には栃木、群馬、茨城のあたりがどうもぼんやりしてよくわからないのである。だからお互い様だ。昨夜の番組では青山さんとU字工事が隣り合わせに座っておられたが、きっとお互いに「どっかあのへん」ということで話をしておられたのではなかろうか(笑)。

ちなみに「島根は鳥取の左です!」Tシャツはこんなの。「蛙男商会」さんのページから買えるはず。

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No Books, No Life

Photo本日の録画消化は『爆笑問題のニッポンの教養 No Books, No Life  国立国会図書館』。今の館長さんは情報工学の長尾真さん。図書館員時代に『電子図書館』等を読んでお名前だけは知っていた。こんな優しそうな学者風の風貌の方だったのだな。

いま国立国会図書館は蔵書をデジタルデータ化し、いつでもどこからでも必要な情報にアクセスできる電子図書館を作ろうとしている。どこの図書館でも悩みの種なのは、紙媒体の情報は場所を取るということである。どんなにキャパの大きな建物でもいつかは満杯になる。それを電子化してしまおうという試みは、その頃の図書館が抱えていた悩みから生じたように思う。それがまた利用しやすいものであるなら一石二鳥である、と。

私がいた図書館ではまずカード目録を廃止して機械検索できるようにしたが、とても本の中身まで電子化する余裕はなかった。国立国会図書館はそれをやろうとしている。例えば、著者名も書名もわからない、ただひとつ覚えているフレーズがあるのだがあれは何という本だっただろうか?と思ったとき、そのフレーズを入力すればたちどころに判るというのは、確かに魅力的だろうと思う。太田光も、そうやって八木重吉の一篇の詩に辿り着いていた。これは嬉しいだろうな。

しかし同時にそこが問題の要点でもある。「一生かかって辿り着くところに、ものの数秒で行き着いてしまうと、その本を見つけるための様々なプロセスがごっそりなくなってしまう。それはどうなんだろうか」と太田が言う。長尾先生は「その余った時間は他のことができる」としながらも「やっぱり本というのは物(ブツ)なんです。電子的な本というのは物じゃないから、そこには大きな違いがありますね」と認めておられた。ブラウジングの楽しみというのはやっぱり捨て難いものがあると、私も思う。

はたしてケータイなりパソコンの画面なりであの大部なマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を読む気がするだろうか。……ぶっちゃけて言えばそういう問題である。画集や写真集をケータイの画面で見ておもしろいだろうか、とも思う。電子化できる情報か否かを判別する必要があるのだろうと思う。自然科学系の雑誌文献などはいち早く電子化されてもよいが、文学や芸術分野の冊子は残すべきものではないかと私は思う。

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本物の力

新しいリモコンが届いたのでやっと録画を観ることができた、10日に放送された『芸術が踊る都ウィーン華麗なる謎解き大紀行』。このウィーンという街、世界住環境ランキングでナンバー1に選ばれたそうで、そこに住む人々や文化・芸術にその魅力を探るという番組だった。先日生で聴いたばかりのキュッヒル氏(なんと奥様は日本人!)のお宅訪問や、大好きなクリムトの絵も見られて、なかなか楽しめた。

なんだか、ウィーンの住人は皆楽しそうなのだ。自分の好きなものを見、好きなものを聴き、無理な背伸びなんかせずにゆったりと暮らしているように見えた。羨ましいなぁ。

夫と、「あれだけ本物に触れる機会が多ければいいよね」と話す。ウィーン国立歌劇場は立ち見ならわずか400~700円。中に入れなくとも、外には巨大スクリーンがあるので誰でも無料で楽しめる。また1日ごとに演目が変わる歌劇場で働く人々の忙しいタイムスケジュールとか、専属ソリストの練習相手を努める専門の人がいるとかいうことを知ると、そういう表に出ない名もない多くの人々のおかげで、ウィーンは文化・芸術の大輪の花を咲かせることができているのだなぁと思った。そしてそれらの人々がまた皆楽しそうで、誇りに満ちた顔をしているのがなんとも眩しい。

心の豊かさというのは、こういうものなのだろう。そして、住みやすい街というのは、そういう人々が住んでいる街のことを言うのだろう。どんなに箱物や街並みを整備しても、そこに住んでいる人たちの心が貧しければ、その街はいつか荒んだものになっていってしまうのだろう。

お金とか経済じゃないんだ、きっと。便利さや手軽さや合理性じゃないんだ。人が手間暇かけてより良いものを作り出そうとする心の動きが大事なんだ、きっと。そんな心しか本物を作り出すことなんてできないんだ。そして生み出された本物の作品には、思わず引き込まれる大きな力がある。無条件で人を感動させるのだ。ウィーンという街にはそんな感動がいっぱい詰まっているように感じた。

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わたしの手塚治虫

先日放送された『特集わたしの手塚治虫 ~こころに残る名シーン・名セリフ』の録画テープをMから受け取った。なにしろ3時間の長丁場、ざっと観ただけだが、好きな作品ベスト10を決めようという試みで、1位『ブラック・ジャック』、2位『火の鳥』、3位『鉄腕アトム』だった。以下、順位はうろ覚えだが『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『アドルフに告ぐ』『ブッダ』『どろろ』『三つ目がとおる』『W3』がランクインしていた。

石坂浩二ほかのスタジオゲストたちもそれぞれ自分の選ぶベスト10を紹介していたが、その中では『奇子』の人気が高かったようだ。東ちづるさんが「この作品は男性に人気があるのよね」とコメントされていたが、同感。かなり淫靡なエロチシズム漂う作品で、男性好みだろうなと思う。同じ女性として見た場合、こんな女性が現実にいたらかなわんよという思いが先に立つ。黒手塚(裏手塚とも)の最高傑作だが、手塚治虫が本当に描きたかったのはこういうドロドロした世界だったんじゃないのかという指摘もあった。

「本当に」描きたかったものなのかどうか、その判断は私ごときにはできない。あんなにたくさんの作品を描いた中にはそういう作品だってあるだろうと思うだけだ。どんな人間だって二面性や裏の顔は持っているわけだから、そこに焦点を当てた作品がないはずもなかろうと思う。黒手塚とか白手塚とか、研究者ならそういう分類も表記上必要になる場合があるのかもしれないけれども、一般の読者が「これはそういう作品だ」とレッテルを貼る必要はないんじゃないかと。ましてそれが手塚先生が本当に描きたかったものかどうかなど、余人に判るはずはないと思う(ご本人がそう言っておられるのなら別だが)。以前にもちょっと触れたことがあるけれども、彼の膨大な作品群を、これは黒手塚だとか白手塚だとか、○○萌えとか○○属性などと分類していったい何になるのかと思う。些細な要素を取り出して勝手に名前を付けているだけのことで、そういう流行にはついていかれないところがある。自分で見方を狭めているようで、却って本質を見誤るんじゃないかと思う。例を挙げればピノコだが、……いやこれは書かないほうがよいか。いたずらに敵を増やすだけだ(笑)。

話を戻して……。『リボンの騎士』が好きな女子は男子とも遊ぶような女子だが、年頃になると男子にモテなくなり(その年頃にモテるのは幼いころ男子と遊ばなかった「ウッフン系」の女子)、婚期も遅れがちという指摘がおもしろかった(笑)。それは私のことか(真顔)?

ゲストそれぞれがいろんな読み方や受け取り方をしているのが面白かった。その作品を読んだ当時の自分の気持ちや、そのときにはわからなかったことがその後にじわじわとわかってくる(毒が効いてくる、と表現されていた)などという体験談に頷いた。そうなのだ。大人になって読み返したときに新たな発見があるというのが手塚作品の醍醐味なのだ。いったいどれだけ深い意味が隠されているのか。いつ自分はそれに気付くことができるのか。気付く日が果たして来るのか。そんな読み方ができる作品は、少なくともマンガにおいては、手塚作品以外に知らない。きょうのゲストたちも、手塚の研究者たちも、手塚治虫の高みに到達して全てを理解し得た人間はまだ一人もいないに違いない。いやもう、本当にすごいなと思うのみだ。

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It was beauty killed the beast.

スーパーでCDやDVDをワゴンセールしていた。ふと目に止まったのが、1933年制作の『キング・コング』。500円だったので買ってきた。もちろん白黒映画。

先日観た2005年版と比べると、特撮技術のお粗末さとコングの顔が妙ちきりんなのに笑えるが、まったく同じ場面も多く、2005年版がいかにこの1933年版をリスペクトして作られているかが判る。話もコンパクトにまとまっていて飽きさせない。

決定的な違いがひとつ。1933年版のヒロイン(フェイ・レイ)は最後までコングを恐れ嫌っている。完全なるコングの片想い。これなら、ラストの“It was beauty killed the beast. (美女が野獣を殺した)”の意味も通じると納得した。2005年版では相思相愛ラブラブムードだったのだから、ここだけ同じセリフを言われてもピンと来なかった理由がようやくわかった。

2005年版のヒロイン(ナオミ・ワッツ)は「人間の中にある獣が自然の美を殺した」と言ったらしいが、こちらの方がけだし名言であろう。

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『世界ふしぎ発見!』

『世界ふしぎ発見!』の「新生アトム誕生!最新ロボット2009」を観た。

最初にアトムの能力について触れられていたが、10万馬力のもの凄さに驚く。ジャンボジェット機のエンジン2つ分に相当する力なのだそうだ。そんな力を出されたら、そりゃあ悪も斃せるだろうが周りじゅうに影響も及ぶことだろう(笑)。また、アトムのスピード(マッハ3だったかな?5だったかな?)で飛ぶと、空気との摩擦でアトムの頭は1200度に熱せられるのだとか。

専門家の話ではアトムを作ることは不可能ではないということだったが、番組のホームページによれば、「実際今の技術でアトムを作ると、牛久大仏くらいになる(台座を入れると120m)」そうだ。お台場のガンダムが18mだったことを思うと、途方もない大きさだ。アトムは2003年生まれの設定だが、その年を過ぎた今の技術をもってしても、あの大きさ(135㎝)のアトムを作ることはできないらしい。もっと未来に時代設定しておけばよかったですね、手塚先生。

ロボットをめぐる一番大きな課題は、自分で考える能力を持たせることだ。これについてもいろんな研究がなされているようで、近い将来、アトムのように自分で考え判断し感情もあるロボットが出来るかもしれない。そういう時代になって初めて、人間とロボットとの関係、人間であることの意味、悪意を持たないロボットであるところのアトムの意味などが、現実の問題として語られることになるのだろう。やっぱり手塚治虫は1世紀くらい時代の先を行っていたのではないかと思う。

番組では、本日日本公開された『ATOM』も少し紹介されていた。なかなか綺麗な絵だとは思ったが、原作そのままの風貌ではダメだったのかとそれがちょっと残念。先日TV放映された『ジャングル大帝』もそうだったが、どうしてわざわざ風貌を変える必要があるのか不思議に思う。

あと、手塚先生のペンネームの由来となったオサムシの問題とか、宝塚の記念館も紹介されていて嬉しかった。われらがBJ先生も、しっかりアトムの隣に立っておられましたよん♪

さて、明日はいよいよ「虫魂3」が開催される。参加者の皆さん、どうぞ楽しんできてください。

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『キング・コング』

テレビで『キング・コング』(2005年版)を観て、コングの澄んだ瞳に涙した。

それにしても、最後のデナムの「美女が野獣を殺したんだ」というセリフは、どう解釈してよいのか判らない。この期に及んでまだこんなことを言うかこの男は。元はと言えば、コングを見世物にしようとニューヨークへ運んできたデナムがすべて悪いのに。このセリフ、文字通りに取ればこれほど見当違いなことはないし、恋に殉じたのだという意味に取れば、こんなキザなセリフはコングの純粋さに対して不似合いで失礼に思われる。しかしまぁ、デナムがこの他人事のような一言で更に自分のダメさ加減の株を上げていることを思えば、一攫千金を夢見る卑小な男を徹底的に貶める意味においては成功しているのかもしれないけれども。私にはどうも“beauty”の訳が違うような気がしてならないのだが……。

『キング・コング』は1976年版を観たことがある。ヒロインのジェシカ・ラングに水浴びをさせ、自分の息をドライヤー代わりに浴びせていたシーンが印象深い。あのときコングが登ったのは世界貿易センタービルだった(ポスターは確かにそうなっていた)と思う。しかし、キング・コングと言えばやっぱり登るのはエンパイアステートビルがお似合いだ。あのとんがり具合が古き良き時代と「もう後がない」という緊迫感を感じさせてくれる。今夜もコングがエンパイアステートビルによじ登ったときには、おおこれこれ!と胸が躍った。ということは、1933年版も観たことがあるのかしら私?

見世物にしようと未知の生物を都会のど真ん中に連れてくるというモチーフは、日本映画でも『モスラ』などに踏襲されている。野生 vs 文明の構図。野生が解き放たれたときの文明の脆弱なことといったらない。銃や飛行機など文明の利器がなければ、人間なんて地上で最も弱い部類の生き物であるに違いない。弱いからこそ頭脳を使うというのは仕方ないとしても、野生を文明とは切り離したものと考え、更には野生を一切排除しようとするところが人間の傲慢さなのだと、そんなことを思った映画だった。なかなか見応えのある映画でしたよ。

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