カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

生きる意味より死なない工夫だ

『老師と少年』(南直哉著)読了。

--ぼくはいつか死ぬ。たったひとりで。なのに、大人は平気で生きろと言う。理由なき世界に生み落された少年は、「ただ死んでいく」のではなく、自ら「生きていく」ことを選びたいと願った。そして、月に照らされた森を抜け、老師の庵へとたどりついた--九夜にわたる問答を通して語られる、命の苦しさ、尊さ。気鋭の禅僧の精錬された文章とその行間が、魂へ深く深く突き刺さる現代人必読の物語。--(新潮文庫カバーより)

1時間もあれば2回は読めそうな分量で、しかもいたって平易な文章の本だが、私には一生理解できないかもしれない。少年は老師の話を聞いて一夜一夜理解の度を深めているようなのが、悔しくも羨ましい。

私の劣った理解力では、この本の感想をどう書いても「誰がそんなことを言ったか」と老師に怒られそうで、何も書けそうにない。ただなんとなく、書いてあったような気がすることといえば、第四夜で「聖者」に象徴された「宗教」と、第五夜で「隠者」に象徴された「虚無主義」を両方とも否定しているということだ。老師は言う。「聖者も隠者も欲望の影にすきない」。

第六夜で、老師が昔出会った<道の人>は「答えを出すことを、断念せよ」と言う。答えが問いを誤まらせるからだと。……もうこのあたりになると、禅問答のようで、脳がひっくり返りそうになる(笑)。しかし「答え」と「問い」というものの関係が少しわかったような気にもなる。「問うべきことを問うのだ」という言葉は、少なくとも私にとって衝撃的であった。

う~ん。今はもうこれ以上は何も書くことができない。これから何回読み返してみても、「分かる」ということは永久にないように思える。でも、この本には何かがある。分かりたいものだなぁ……。

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自分で考えることの大切さ

『若き友人たちへ 筑紫哲也ラスト・メッセージ』(筑紫哲也著)読了。

--愛国主義は悪党の最後の隠れ家である。本書の中で筑紫さんが語る言葉の一つである。誰もが反対しづらい美辞麗句、思わず振り向いてしまう大きな声には注意が必要だ、という意味である。二〇〇三年から二〇〇八年にかけて、筑紫さんは早稲田大学と立命館大学で主に大学院生に向けた講座をもっていた。その中で再三伝えようとしたのは、情報や情緒に流されることなく自分の頭で考えることの素晴らしさであった。この一連の講義録をもとに、本書は構成された。「若き友人」を「日本人」と置き換えてもいい。筑紫哲也さんからの最後のメッセージである。 --(「BOOK」データベースより)

試しに Amazon のレビューを覗いてみたら、星5つが3票、星1つが2票。案の定、評価が真っ二つであった(笑)。筑紫さんを認めない人には右翼系の人が多いと思うけれども、最初から反感ありきでは議論を深めることなど絶対にできないだろう。それは一部の韓国の人たちが日本人と仲良くしようなんてことを絶対に思わないのと同じだ。しかしそういう態度こそがいけないのであって、もっと「論」を深めましょうということが、この本で筑紫さんが主張したかったことだろうと思う。情報を鵜呑みにせず、自分の頭で柔軟に考え、それを「知」に変えて蓄えることの大切さがテーマだ。帯には「考えましょう。もっと幸せになっていいのです。」とある。

内容は、憲法、日本人論、沖縄問題、メディア、ジャーナリズム論、国家、教育等々多岐にわたり、読んでいてはっと気付かされることも多い。どうやら筑紫さんは日本が衰退に向かっているのではないかと考えておられたようで、若者に向けての言葉にはところどころ危機感が漂っている。

たとえば、当時流行していた「KY」という言葉について、「……何より気に入らないのは、この言葉の脅迫的なことです。空気を読め、さもないとお前は時代遅れだぞ、仲間外れだぞ、とおどしている。そうでなくとも「命令型」でよかった日本語を「懇願型」の婉曲話法に変えていくほど心優しい若者たちが、この同調努力にどう耐えられるのだろうか--と私はまたお節介な心配をしています。」と記している(「命令型」「懇願型」というのは、「~してください」でよいところを「~してもらってよいですか」と言い換えることを指す)。

そういう、有形無形の様々な制約を課された若者達に、こういう方向から考えたらどうだろうか、こんな人もいるぞ、と、柔軟な思考を促すための指南書として、この本は書かれたようだ。きっと筑紫さんの目には、現代の若者達が不自由そうに映っていたのではないかと想像する。しかし同時に、言葉を知らない若者達への危惧も書かれている。自在に言葉を操るジャーナリストから見れば、これは大変に由々しき事態と映ったことだろう。言葉を知らなければ自分で考えることができない。先生でも研究者でもないジャーナリストの口から言葉の大切さが語られると、それは世の中の嘘やまやかしを暴き、自分の人権を守るための武器に思えてくるから不思議だ。

筑紫さんにはまだまだ語ってほしいことがたくさんあった。リーマンショック以降の金融経済不安やオバマ政権、そして日本での政権交代等を筑紫さんがどう見るのかを、もはや知ることができないのが残念でならない。

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やさぐれぱんだ

きょう行った本屋でなぜか大量に平積みされていたので、思わず買ってしまった小学館文庫の『やさぐれぱんだ1』(山賊著)。たしか前からあったよなぁ、と奥付を確かめると初版は2007年。またブームが来ているのかしら?

--この笑い、シロか?クロか?人気サイト「山賊UNDERGROUND」から生まれた二一世紀型不条理コント漫画で、実写化も実現した注目の話題作。「笹なんて食ってられない」という類を見ないぱんだがボケたり、つっこんだり…。ひねくれていて、ぶっきらぼう、そしてやる気のない脱力系ぱんだと少年の掛け合いに思わず失笑。一度読んだら「癒される」「悩んでいたことがどうでもよく思えてくる」と、今までにない新しいタイプの笑いにハマる人が続出。本書のために書き下ろしたネタも収録。--(「BOOK」データベースより)

『聖☆おにいさん』(中村光著)のほのぼのとした笑いをもう一段シュールにした感じの、4コマギャグまんがである。「やさぐれ」と謳われているものの、そんなにやさぐれているわけでも毒があるわけでもない。何なんだろうな、この笑いは。少なくとも大笑いができるギャグではない。セリフを極力省いて、間(ま)の面白さを前面に押し出し、まったりと展開される掛け合い漫才、とでも言おうか。そして、少ない分、セリフは充分に吟味されている印象だ。全体としてはとてもハイセンスである。

ちなみに、少々酔っ払った夫に読ましてみたら、まったく面白さを感じなかったようだ。ネット上の書評など読むと、やたら「癒し」という言葉で評されていて、「へぇ~、癒しねぇ」と思った。面白くないとは言わないが、思わず失笑することで癒やされるものって何だろうと、そっちのほうが気になったりする(笑)。

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(備忘録091201)

『ジーキル博士とハイド氏』(スティーブンスン著 村上博基訳)を読書中。このたび光文社文庫から新訳で出たもの。

面白い。子どもの頃に読んだのだが、細かいところは忘れていた。こんなに深い話だったとは。帯に書かれている「なぜ、悪には快楽が添えられているのか?」「人間は、最終的にハイド氏を選ぶことを運命づけられているのかもしれない……」などの惹句に考えさせられる。『BJ』の「人面瘡」や、ダニエル・キイスの『五番目のサリー』『24人のビリー・ミリガン』なども思い起こされ、人間の心理の不思議さに戦慄する。

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もしも真実が見えたら……

Photo『ジキルとハイドと裁判員 1,2』(森田崇・画 北原雅紀・脚本)読了。

余談だが、ネットを始めて間もない頃、とあるルパンの研究サイト(三世ではなくて本家本元初代のアルセーヌ・ルパンの方)の掲示板で、熱い書き込みをされるTAKさんという方と知り合った(と書くとおこがましいけれども……)。その方が当時新進気鋭の漫画家、森田崇さんだった。2001年に出版された彼の初の単行本『Clock Clock』にはルパンも登場するということで、こんなおばさんが少年漫画を買うのはいささか恥ずかしかったのだけれども、いそいそウキウキと買って読んだものだ。モノクルにシルクハット、マントを翻して自信満々のルパンの活躍にワクワクし、ルブランの原作を読んでいればお馴染みの彼の部下達の登場も嬉しかった。テーマであるタイムトラベル・アドベンチャーよりも、ルパンにばかり目が行ってしまう困った読者だったことをたいへん申し訳なく思っているのだが、今でも続編を心待ちにしている。ルパンとアインシュタインの激突(?)なんてそうそう読めるもんじゃない。

さて、その森田さんが現在「ビッグコミック・スペリオール」で連載中なのが『ジキルとハイドと裁判員』である。裁判員制度が始まり、裁判を扱った実録的な漫画も多いようだが、これは一味違う。

主人公の辺見直留(じきる)は真摯に案件と向き合う判事補。素直で明るくまだ年若い裁判官である。ところがある日、彼の首元に謎の生物・ハイドが取り付いてしまう。ハイドは直留の寿命を少し縮めるのと引き換えに真実を教えてくれるようになる。直留には被告人の真実、すなわち事件の真相が判るようになったのである。

彼のジレンマはここから始まる。被告人の演技にコロッと騙される裁判員たち。このままでは冤罪になったり、有罪であるべき者が無罪になってしまう。真実を明らかにし、正しい判決を下すために、判事としてはあるまじき手段を取ってまで裁判員をなんとか誘導して正義を貫こうとする直留。しかし彼の尊敬する先輩である薬師寺判事は彼のやり方に違和感と反感を覚え、心ならずも敵対関係になってしまう……。

正義とは何か? 金丸裁判長は、自分自身が正義だと言う。真実とは何か? 薬師寺は、真実は作り上げるものだと言う。裁判とは何か? 直留は人を裁くことに快感を覚えていた自分に慄く。

様々な視点から、人が人を裁くことの難しさを深く考えさせられるストーリーである。日頃まったく裁判などというものに縁がない一般人には軽々に答が出せないことばかりだ。裁判員に向かって直留は言う。「自分の下す裁きが、本当に正しいのかどうか、裁判官はいつもこの恐怖にさらされているんです! この恐怖を感じずに、人は人を裁いちゃ… いけない!」。それだけの覚悟を持って裁判員になる人がいったい何人いるだろう。知らないうちに選ばれて当日呼び出されたから仕方なくやっている人がほとんどなのではなかろうか。問題意識も何もなく裁判に携わって、はたして良いものか。何がどうなってそんなことが始まってしまったのか結局よく判らない裁判員制度だが、その制度のあり方そのものにも一石を投じる、内容の濃い作品である。ご一読をお薦めする。(直留クンがめっぽう可愛いし♪)

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きょうはこんなところです。

Photo週刊朝日MOOK『筑紫哲也 永遠の好奇心』を読書中。昨年11月7日に亡くなられてちょうど1年だ。表題紙に自筆原稿が載っている。昨年夏に書かれたその文章に、筑紫さんが追い求めて実践してきたものが如実に表されているように思う。短いので転記しておく。

--「論」も愉し
 近ごろ「論」が浅くなっていると思いませんか。
 その良し悪し、是非、正しいか違っているかを問う前に。
 そうやってひとつの「論」の専制が起きる時、失なわれるのは自由の気風。
 そうならないために、もっと「論」を愉しみませんか。
                                二○○八年夏    筑紫哲也      --

様々な分野の多くの有名人が筑紫さんの思い出を語っているが、その中でやっぱり胸を打つのは夫人と息子さんの文章だった。その他、「多事争論・傑作選」も面白いし、「朝日ジャーナル」に連載されていた「若者たちの神々」が2回分(ビートたけしと糸井重里の回)再録されていて懐かしかった。

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おまえだって ヘソないじゃないか!!

『リボンの騎士』に続いて『W3』読了。いや~面白かった! 幼少のみぎりTVで観ていたはずなのだが(いま調べたら1965~1966年だった)、でっかいタイヤの乗り物(ビッグ・ローリーというらしい)で移動していたこととボッコちゃんが可愛かったことしか覚えていない。ふ~ん、こんな話だったとは知らなんだ。

Wikipediaによるあらすじ↓
「銀河パトロール要員の宇宙人3人が銀河連盟から派遣されて地球にやってきた。彼らの任務は1年の調査の後、そのまま地球を残すか、反陽子爆弾で消滅させるかを決定することであった。ボッコ、プッコ、ノッコ(マガジン版では隊長、ガーコ、ノンコ)の3人は地球の動物の姿を借り調査をすることにし、それぞれウサギ、カモ、ウマとなる。星真一少年はひょんなことから、彼らと知り合い行動を共にすることになる。一方、真一の兄、光一は世界平和を目指す秘密機関フェニックスの一員として破壊活動に従事していた。(以下ネタバレ部分は割愛)」

このあらすじを読むと、深刻な地球存亡の危機を描いたSFのようだが、そして実際にそうなのだが、非常に楽しく読める。そもそも銀河パトロールの3人がウサギとカモとウマの格好をしているものだから、反陽子爆弾がなくなったなどと深刻な話をしていても、どこか長閑で牧歌的な雰囲気に満ちている。真一の住む田舎町で『007』ばりのアクションが展開されるのもおかしい(笑)。そんな雰囲気の中で、真一の学校での生活から、光一のフェニックスでの活動から、反陽子爆弾による地球の危機まで、たくさんのドラマが重層的にテンポよく描かれていて、実に楽しい。

しかしあれだ(なんだ)。手塚治虫という人は宇宙規模のSFを描くときには地球人一般をとことん悪者にする。『荒野の七ひき』なんかもそうだ。身勝手で自分のエゴのために戦いを繰り返す愚かさを、同じ地球人としては厳しく糾弾できなくても、他の星に住む者の口を借りれば指摘することができるからだろう。銀河パトロールの3人(W3)も最初は地球人の野蛮さに呆れる。しかし、真一の一生懸命さに、救いを見出すのだ。

最後のタイムパラドックスは見事だ! 誰だ?誰なんだ?とミステリを読む感覚で最後のページをめくると「ヘソのない腹のくせに ぜいたくなやつだ」という何気ないセリフ。これは痛快だ! ここへ持ってきたかと思わず膝を打つ。この作品、「傑作」に認定だ。

あ、最後に。ランプ氏もカッコよくてさぁ。(^艸^) うふうふ。

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日本は世界を救えるかもしれない

『宗教を知る 人間を知る』(河合隼雄、加賀乙彦、山折哲雄、合庭惇共著)読了。

--人間である以上、宗教と無関係では生きられない。今こそ正面から宗教を! 宗教を知ることで、自分が、世界が新しく見えてくる。河合隼雄、加賀乙彦、山折哲雄、合庭惇が語る。--(「MARC」データベースより)

序章  「宗教は無関係」という人たちへ
第一章 人にとって宗教はなぜ必要か
第二章 宗教と出会い、そして得たもの
第三章 日本人の中に生きる仏教
第四章 宗教がわからないと現代とつきあえない
第五章 宗教を考える手がかり

無宗教を標榜する日本人は多い。しかしそれは果たして本当だろうか。食事の前に「いただきます」と言い、物を無駄にすることに「もったいない」と言う日本人は、実は立派に宗教を持っている。しかしそれを宗教としては教えないし習わない。日常的な生活の中で、親から子へ無言のうちに伝わっている。このような宗教観は世界でも稀有なものである。……と、本書で印象に残った部分を要約するとこのようになる。

「宗教」というと、キリスト教、イスラム教、仏教の三大宗教を表すことが多い。日本人の多くは仏教徒であるはずなのだが、日曜ごとに説教を聞くわけでもないし、お盆と葬式・法事以外には仏教行事に縁がない現状では、自らを仏教徒と呼ぶことに抵抗を覚える人も多いことだろう。しかし本書で言う「宗教」とはそういうものではない。いくつか例を挙げてみると……

「古池や蛙飛びこむ水の音」。鈴木大拙は、「松尾芭蕉はこの一句に自己と宇宙の一体感覚を表現している」と解釈したが、そういう感覚こそが宗教心である。

この世に永遠不滅なるものは一つとしてないけれども、それにもかかわらず、自然は毎年よみがえり、春夏秋冬が巡ってくるという「天然の無常感覚」。これもまた日本人に自然に備わった宗教的感覚である。等々。

そのように考えると、宗教というのは日本人に決して無縁なものではない。線香を立てて数珠を持ってワケのわからないお経を唱えることだけが宗教だと思うのは、まったく頓珍漢な思い違いであるわけだ。

日本には神道や仏教その他の宗教観が渾然一体となった文化がある。それがあまりにも当たり前になりすぎていて、逆に宗教がないように見えてしまうのだ。

しかしそれは却って良いことなのかもしれない。各宗教に縛られていては絶対に見えないものが日本人には見える可能性がある。本書には、次のようなことも書かれている。「異教徒も殺してはいけない」と説いた宗教は、ない。それを言ったのは、世界中探しても、日本の平和憲法しかない、と。従来の宗教(一神教)に凝り固まった国々では、だからこの平和憲法はとても理解できないものであろうことも事実だ。「聖戦」の名の下に戦争はいつまでも続いている。しかし、この日本人の宗教観がもしも世界中に広まれば、世界の紛争は少しずつでも収まってくるかもしれないのだ。

そのためにはまず、宗教に無関心な日本人が自らに対し意識的になることが必要なのだが、その契機となるものすらない日本の現状を憂う。

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Diet or Die?

『脂肪と言う名の服を着て 完全版』(安野モヨコ著)読了。

--OL・花沢のこは、太っているという劣等感から気が弱く、職場でもいじめられていた。嫌なことがあるたび過食に走り、食べることで現実から目をそむける毎日。そんな時、長年付き合ってきた彼氏を奪われたのこは、弱い自分と決別し、幸せになるためにやせることを決心するが……。怖いほどリアルな、衝撃のダイエットコミック。--(裏表紙より)

これは……痛い。全編にわたってヒリヒリするような痛みを感じるマンガだ。誰もがどこかで自分の劣等感や自尊心をやりくりして生きている。のこの気持ちも、のこを苛めるマユミの気持ちも、のこを裏切ってマユミと付き合う彼氏の気持ちも、のこを取り巻くその他の人々の気持ちも、みんなわかるからこそ、読んでいるこっちが痛い。

のこが「太っている」という事実で均衡が保たれていた世界が、彼女がダイエットをすることによってだんだんと壊れていく様がリアルだ。いちばん端的なのが彼氏で、最初にマユミに浮気したのは決して彼の本心からではなかったのだが、のこが痩せていくにつれて「太っていて自信がなくて自分の言うことをきく女」とでなければ付き合えない自分に気付き、今度は本当にのこから去っていく。マユミや、のこの会社の人たちの言動も、だんだんと精神の均衡を欠いたものになっていくのが怖い。

芥川龍之介の『鼻』と同じテーマと考えてもよいかもしれない。劣等感を持つ原因が容姿であるという点も同じで、これは一目見てわかる要因だけに本人にとっては一番大きな劣等感になり得る。ならば、のこにしろ、『鼻』の禅智内供にしろ、どうすればよかったのか。ありのままでは劣等感を感じる、かと言って努力して人並みになってもうまくいかないのであれば……。

インストラクターの女性の言葉。「身体じゃないもの。心がデブなんだもの」がその答なのだろう。

マンガはハッピーエンドで終わっていない。のこは思う。「昔のあたしにもどろう。何にも気付かない幸せな頃に。今よりはきっといいはずだ。そう…確かそんな気がする。いつだって今よりはまだマシなはずだから」。彼女はまだ逃げている。「何にも気付かない幸せな頃」に逃げ込もうとしている。しかし今さら戻れるものではあるまい。今のありのままの自分を受け入れられずに、もっと幸せな自分がどこかにいるはずだと思う「デブ」な心を相変わらず持っている。だから彼女は今後もきっとデブと痩せを繰り返すに違いない。

程度の差はあれ、誰もが身に覚えのあるテーマが赤裸々に描かれていて、読み応えがあった。「もっともっと」と他に幸せを追うのではなく、余計なものを削ぎ落として埋もれている幸せを掘りおこすことの大切さを思う。

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当事者が見た死刑

『元刑務官が明かす死刑のすべて』(坂本敏夫著)読了。

--起案書に30以上もの印鑑が押され、最後に法務大臣が執行命令をくだす日本の“死刑制度”。「人殺し!」の声の中で、死刑執行の任務を命じられた刑務官が、共に過ごした人間の命を奪う悲しさ、惨めさは筆舌に尽くしがたい。死刑囚の素顔、知られざる日常生活、執行の瞬間など、元刑務官だからこそ明かすことのできる衝撃の一冊。--(「BOOK」データベースより)

何か凶悪事件があって犯人に死刑判決が下れば、誰もが「当然だろう」と思う。そして何年か後に刑が執行されたというニュースを聞くまで、われわれ事件に直接関係ない一般市民はその死刑囚のことを思い出すことはまずない。ニュースを聞いて「そう言えばそんな事件もあったなぁ」と思い出せれば良い方で、まったく忘れていることもある。そんな、われわれがすっかり忘れている間じゅう、毎日死刑囚と顔を付き合わせ、いよいよというときには実際の処刑に携わるのが、刑務官である。

第1章 2001年 死刑執行はかくなされた
第2章 これが現在の処刑だ
第3章 拘置所の日常と死刑囚の生活
第4章 初めて明かされる死刑囚監房の真実
第5章 殺人犯、その裁きの現場
第6章 死刑を執行するということ

死刑制度に賛成だ反対だの議論はもはやここにはない。生き続けることを許されずただ死刑を執行されるためだけに生きている死刑囚たちと、「死刑台に上るときは、心から被害者と遺族に謝罪をし、赦されて天国に行って欲しい」と願う刑務官たちの現実の姿が描かれている。それはあまりにも人間的な姿だ。死刑囚がたとえ更生したとしても、命令が下れば刑務官は「職務としての殺人」を行わなくてはならない。それが、もう年内には処刑はないだろうと思っていたクリスマスであっても関係ない。その苦悩はいかばかりか。

社会から抹消してしまいたいほどの極悪非道な輩がいても、それをするには実際に手を下す人が必要だということを、われわれは忘れている。そしてその人たちは、われわれと何ら変わることのない普通の感覚を持った人たちなのだ。決して、人の命を奪うことを何とも思わない人間などではない。

死刑囚にもいろいろあって、心底後悔して自分の死をもって贖うしかないと思う者もいれば、死刑執行までに死刑囚を死なせないように細心の気を配る刑務官の立場の弱さを利用して、刑務官を顎で指図して脅迫するような者もいるらしい。また精神異常を装って罪一等を減じられるケースもあるという。

裁判官や弁護士が知らない生々しい世界がここにはある。法律論で論じる死刑制度がいかに綺麗ごとであることか。実際に人を死なせる、殺すというのは如何なることなのか。それが感覚として判る本だ。

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