カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

きょうはこんなところです。

Photo週刊朝日MOOK『筑紫哲也 永遠の好奇心』を読書中。昨年11月7日に亡くなられてちょうど1年だ。表題紙に自筆原稿が載っている。昨年夏に書かれたその文章に、筑紫さんが追い求めて実践してきたものが如実に表されているように思う。短いので転記しておく。

--「論」も愉し
 近ごろ「論」が浅くなっていると思いませんか。
 その良し悪し、是非、正しいか違っているかを問う前に。
 そうやってひとつの「論」の専制が起きる時、失なわれるのは自由の気風。
 そうならないために、もっと「論」を愉しみませんか。
                                二○○八年夏    筑紫哲也      --

様々な分野の多くの有名人が筑紫さんの思い出を語っているが、その中でやっぱり胸を打つのは夫人と息子さんの文章だった。その他、「多事争論・傑作選」も面白いし、「朝日ジャーナル」に連載されていた「若者たちの神々」が2回分(ビートたけしと糸井重里の回)再録されていて懐かしかった。

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おまえだって ヘソないじゃないか!!

『リボンの騎士』に続いて『W3』読了。いや~面白かった! 幼少のみぎりTVで観ていたはずなのだが(いま調べたら1965~1966年だった)、でっかいタイヤの乗り物(ビッグ・ローリーというらしい)で移動していたこととボッコちゃんが可愛かったことしか覚えていない。ふ~ん、こんな話だったとは知らなんだ。

Wikipediaによるあらすじ↓
「銀河パトロール要員の宇宙人3人が銀河連盟から派遣されて地球にやってきた。彼らの任務は1年の調査の後、そのまま地球を残すか、反陽子爆弾で消滅させるかを決定することであった。ボッコ、プッコ、ノッコ(マガジン版では隊長、ガーコ、ノンコ)の3人は地球の動物の姿を借り調査をすることにし、それぞれウサギ、カモ、ウマとなる。星真一少年はひょんなことから、彼らと知り合い行動を共にすることになる。一方、真一の兄、光一は世界平和を目指す秘密機関フェニックスの一員として破壊活動に従事していた。(以下ネタバレ部分は割愛)」

このあらすじを読むと、深刻な地球存亡の危機を描いたSFのようだが、そして実際にそうなのだが、非常に楽しく読める。そもそも銀河パトロールの3人がウサギとカモとウマの格好をしているものだから、反陽子爆弾がなくなったなどと深刻な話をしていても、どこか長閑で牧歌的な雰囲気に満ちている。真一の住む田舎町で『007』ばりのアクションが展開されるのもおかしい(笑)。そんな雰囲気の中で、真一の学校での生活から、光一のフェニックスでの活動から、反陽子爆弾による地球の危機まで、たくさんのドラマが重層的にテンポよく描かれていて、実に楽しい。

しかしあれだ(なんだ)。手塚治虫という人は宇宙規模のSFを描くときには地球人一般をとことん悪者にする。『荒野の七ひき』なんかもそうだ。身勝手で自分のエゴのために戦いを繰り返す愚かさを、同じ地球人としては厳しく糾弾できなくても、他の星に住む者の口を借りれば指摘することができるからだろう。銀河パトロールの3人(W3)も最初は地球人の野蛮さに呆れる。しかし、真一の一生懸命さに、救いを見出すのだ。

最後のタイムパラドックスは見事だ! 誰だ?誰なんだ?とミステリを読む感覚で最後のページをめくると「ヘソのない腹のくせに ぜいたくなやつだ」という何気ないセリフ。これは痛快だ! ここへ持ってきたかと思わず膝を打つ。この作品、「傑作」に認定だ。

あ、最後に。ランプ氏もカッコよくてさぁ。(^艸^) うふうふ。

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日本は世界を救えるかもしれない

『宗教を知る 人間を知る』(河合隼雄、加賀乙彦、山折哲雄、合庭惇共著)読了。

--人間である以上、宗教と無関係では生きられない。今こそ正面から宗教を! 宗教を知ることで、自分が、世界が新しく見えてくる。河合隼雄、加賀乙彦、山折哲雄、合庭惇が語る。--(「MARC」データベースより)

序章  「宗教は無関係」という人たちへ
第一章 人にとって宗教はなぜ必要か
第二章 宗教と出会い、そして得たもの
第三章 日本人の中に生きる仏教
第四章 宗教がわからないと現代とつきあえない
第五章 宗教を考える手がかり

無宗教を標榜する日本人は多い。しかしそれは果たして本当だろうか。食事の前に「いただきます」と言い、物を無駄にすることに「もったいない」と言う日本人は、実は立派に宗教を持っている。しかしそれを宗教としては教えないし習わない。日常的な生活の中で、親から子へ無言のうちに伝わっている。このような宗教観は世界でも稀有なものである。……と、本書で印象に残った部分を要約するとこのようになる。

「宗教」というと、キリスト教、イスラム教、仏教の三大宗教を表すことが多い。日本人の多くは仏教徒であるはずなのだが、日曜ごとに説教を聞くわけでもないし、お盆と葬式・法事以外には仏教行事に縁がない現状では、自らを仏教徒と呼ぶことに抵抗を覚える人も多いことだろう。しかし本書で言う「宗教」とはそういうものではない。いくつか例を挙げてみると……

「古池や蛙飛びこむ水の音」。鈴木大拙は、「松尾芭蕉はこの一句に自己と宇宙の一体感覚を表現している」と解釈したが、そういう感覚こそが宗教心である。

この世に永遠不滅なるものは一つとしてないけれども、それにもかかわらず、自然は毎年よみがえり、春夏秋冬が巡ってくるという「天然の無常感覚」。これもまた日本人に自然に備わった宗教的感覚である。等々。

そのように考えると、宗教というのは日本人に決して無縁なものではない。線香を立てて数珠を持ってワケのわからないお経を唱えることだけが宗教だと思うのは、まったく頓珍漢な思い違いであるわけだ。

日本には神道や仏教その他の宗教観が渾然一体となった文化がある。それがあまりにも当たり前になりすぎていて、逆に宗教がないように見えてしまうのだ。

しかしそれは却って良いことなのかもしれない。各宗教に縛られていては絶対に見えないものが日本人には見える可能性がある。本書には、次のようなことも書かれている。「異教徒も殺してはいけない」と説いた宗教は、ない。それを言ったのは、世界中探しても、日本の平和憲法しかない、と。従来の宗教(一神教)に凝り固まった国々では、だからこの平和憲法はとても理解できないものであろうことも事実だ。「聖戦」の名の下に戦争はいつまでも続いている。しかし、この日本人の宗教観がもしも世界中に広まれば、世界の紛争は少しずつでも収まってくるかもしれないのだ。

そのためにはまず、宗教に無関心な日本人が自らに対し意識的になることが必要なのだが、その契機となるものすらない日本の現状を憂う。

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Diet or Die?

『脂肪と言う名の服を着て 完全版』(安野モヨコ著)読了。

--OL・花沢のこは、太っているという劣等感から気が弱く、職場でもいじめられていた。嫌なことがあるたび過食に走り、食べることで現実から目をそむける毎日。そんな時、長年付き合ってきた彼氏を奪われたのこは、弱い自分と決別し、幸せになるためにやせることを決心するが……。怖いほどリアルな、衝撃のダイエットコミック。--(裏表紙より)

これは……痛い。全編にわたってヒリヒリするような痛みを感じるマンガだ。誰もがどこかで自分の劣等感や自尊心をやりくりして生きている。のこの気持ちも、のこを苛めるマユミの気持ちも、のこを裏切ってマユミと付き合う彼氏の気持ちも、のこを取り巻くその他の人々の気持ちも、みんなわかるからこそ、読んでいるこっちが痛い。

のこが「太っている」という事実で均衡が保たれていた世界が、彼女がダイエットをすることによってだんだんと壊れていく様がリアルだ。いちばん端的なのが彼氏で、最初にマユミに浮気したのは決して彼の本心からではなかったのだが、のこが痩せていくにつれて「太っていて自信がなくて自分の言うことをきく女」とでなければ付き合えない自分に気付き、今度は本当にのこから去っていく。マユミや、のこの会社の人たちの言動も、だんだんと精神の均衡を欠いたものになっていくのが怖い。

芥川龍之介の『鼻』と同じテーマと考えてもよいかもしれない。劣等感を持つ原因が容姿であるという点も同じで、これは一目見てわかる要因だけに本人にとっては一番大きな劣等感になり得る。ならば、のこにしろ、『鼻』の禅智内供にしろ、どうすればよかったのか。ありのままでは劣等感を感じる、かと言って努力して人並みになってもうまくいかないのであれば……。

インストラクターの女性の言葉。「身体じゃないもの。心がデブなんだもの」がその答なのだろう。

マンガはハッピーエンドで終わっていない。のこは思う。「昔のあたしにもどろう。何にも気付かない幸せな頃に。今よりはきっといいはずだ。そう…確かそんな気がする。いつだって今よりはまだマシなはずだから」。彼女はまだ逃げている。「何にも気付かない幸せな頃」に逃げ込もうとしている。しかし今さら戻れるものではあるまい。今のありのままの自分を受け入れられずに、もっと幸せな自分がどこかにいるはずだと思う「デブ」な心を相変わらず持っている。だから彼女は今後もきっとデブと痩せを繰り返すに違いない。

程度の差はあれ、誰もが身に覚えのあるテーマが赤裸々に描かれていて、読み応えがあった。「もっともっと」と他に幸せを追うのではなく、余計なものを削ぎ落として埋もれている幸せを掘りおこすことの大切さを思う。

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当事者が見た死刑

『元刑務官が明かす死刑のすべて』(坂本敏夫著)読了。

--起案書に30以上もの印鑑が押され、最後に法務大臣が執行命令をくだす日本の“死刑制度”。「人殺し!」の声の中で、死刑執行の任務を命じられた刑務官が、共に過ごした人間の命を奪う悲しさ、惨めさは筆舌に尽くしがたい。死刑囚の素顔、知られざる日常生活、執行の瞬間など、元刑務官だからこそ明かすことのできる衝撃の一冊。--(「BOOK」データベースより)

何か凶悪事件があって犯人に死刑判決が下れば、誰もが「当然だろう」と思う。そして何年か後に刑が執行されたというニュースを聞くまで、われわれ事件に直接関係ない一般市民はその死刑囚のことを思い出すことはまずない。ニュースを聞いて「そう言えばそんな事件もあったなぁ」と思い出せれば良い方で、まったく忘れていることもある。そんな、われわれがすっかり忘れている間じゅう、毎日死刑囚と顔を付き合わせ、いよいよというときには実際の処刑に携わるのが、刑務官である。

第1章 2001年 死刑執行はかくなされた
第2章 これが現在の処刑だ
第3章 拘置所の日常と死刑囚の生活
第4章 初めて明かされる死刑囚監房の真実
第5章 殺人犯、その裁きの現場
第6章 死刑を執行するということ

死刑制度に賛成だ反対だの議論はもはやここにはない。生き続けることを許されずただ死刑を執行されるためだけに生きている死刑囚たちと、「死刑台に上るときは、心から被害者と遺族に謝罪をし、赦されて天国に行って欲しい」と願う刑務官たちの現実の姿が描かれている。それはあまりにも人間的な姿だ。死刑囚がたとえ更生したとしても、命令が下れば刑務官は「職務としての殺人」を行わなくてはならない。それが、もう年内には処刑はないだろうと思っていたクリスマスであっても関係ない。その苦悩はいかばかりか。

社会から抹消してしまいたいほどの極悪非道な輩がいても、それをするには実際に手を下す人が必要だということを、われわれは忘れている。そしてその人たちは、われわれと何ら変わることのない普通の感覚を持った人たちなのだ。決して、人の命を奪うことを何とも思わない人間などではない。

死刑囚にもいろいろあって、心底後悔して自分の死をもって贖うしかないと思う者もいれば、死刑執行までに死刑囚を死なせないように細心の気を配る刑務官の立場の弱さを利用して、刑務官を顎で指図して脅迫するような者もいるらしい。また精神異常を装って罪一等を減じられるケースもあるという。

裁判官や弁護士が知らない生々しい世界がここにはある。法律論で論じる死刑制度がいかに綺麗ごとであることか。実際に人を死なせる、殺すというのは如何なることなのか。それが感覚として判る本だ。

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さようなら90番

高校時代、クラスの女子の間で『あぶさん』が大ブームになったことがある。誰が最初に火をつけたのか覚えていないが、いつの間にか皆が夢中になっていた。退屈な授業中にはノートにあぶさんを描いたりして遊んでいたものだ。青池保子、池田理代子、萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子、木原敏江、山岸凉子らが描く少女マンガを愛読しながらも、当時の女子高校生は「ビッグコミック」にまでも手を伸ばしていたのだった。私も当時買った単行本をいまでも持っている。

野球にはたいして興味はなかったが、いまから思えば、少女マンガでは絶対に描かれることのない現実的でハードな大人の男の世界が描かれているのが珍しかったのだろうと思う。サチ子さんというあぶさんを愛する人がありながら美しい未亡人とわりない仲になるのはどうなんだと憤慨する友もいれば、それこそが純愛だと断言する友や、いや男なんてそんなもんだよとしたり顔で言う友もいた。まだ見ぬ大人の世界を、私達は『あぶさん』を通じて覗き見ていたのだと思う。ちなみにこの問題については、この年齢になった今でもよくわからない(笑)。

そのあぶさんが、「ビッグコミック・オリジナル」(2009.10.20)号でついに現役最後の試合を迎えた。対オリックス戦。9回表を終わって2-2の同点、二死走者なしの場面で、いよいよ景浦安武が代打で登場である。スタンドの横断幕や大声援、これが最後かと感無量の関係者たち、全球ストレート勝負で敬意を表するオリックスのバッテリー……。もうこのあたりは、涙なしでは読めなかった。

いい男だなぁ、あぶさん。ヤサグレ男からスーパースターへと変身してからは読むことも少なくなったけれど(笑)、私が読んでいない間も37年間の長きにわたって、南海、ダイエー、ソフトバンクとホークス一筋に野球人生を歩んできた。丈夫な体に産んでくれたお母さんに感謝して、「やっと終わったよ。」と告げる瞳に光る涙が尊い。お疲れ様、景浦安武。あなたのことは忘れないよ。

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雪乃さんからバトンを頂戴しております。明日、回答させていただきます。m(_ _)m

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読んでいて気持ちが良い

『毎月新聞』(佐藤雅彦著)読了。文句なしに面白い。超お勧め! 日常生活に起こる様々な現象を鋭く切り取って分析考察したエッセイである。

--『毎日新聞』で4年にわたり連載した月1コラム、その名も「毎月新聞」。その月々に感じたことを、独特のまなざしと分析で記す佐藤雅彦的世の中考察。人気の3コマまんが「ケロパキ」未発表作品つき。(「MARC」データベースより)--

目の付け所が違うとか、発想が面白いとか、単にそういう次元ならば、これに類したエッセイ集はたくさんあるに違いない。しかしこの人の考察が面白くて気持ち良いのは、その帰着するところがとても真っ当で常識的で安心できるところであるからだと感じる。誰もが「そんなことは当たり前だ」と、実はよくわかっていないくせにそういうフリをして、それに関して説明することを敬遠しているような出来事について、明快な筋道を示してくれているように思う。

その気持ち良さは、例えば、日常の動作のひとつひとつがきちんとできる人の挙措を見るときの気持ち良さのようなものだ。居住まいの正しさとか、無駄と無理のない動きとか。この佐藤雅彦という人はきっとそういうことのできる人なんじゃないかと思う。

そしてそんな彼だからこそ気付く、日常のふとしたひとこまの面白さとそれが意味するもの。「じゃないですか禁止令」とか「おじゃんにできない」など、「うんうん、そうだよね」と同意できる項目はたくさんあるが、中でも印象的だったのは「真夏の葬儀」と「取り返しがつかない」だった。前者は悲しみの一番深いところを見事に抉ってあるし、後者は喪失感と焦燥感をまざまざと感じさせてくれた。どちらも非常にかそけき感覚である。しっかりと生きていないと見過ごしてしまうような感覚に、佐藤雅彦は暖かな眼差しを向けている。

文章の上手さもさることながら、そういうかそけき感覚に光が当てられてストンと納得のいく考察がなされていて、これは下手な小説を読むより数段面白い一冊だった。

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『京伝怪異帖』

『京伝怪異帖』(高橋克彦著)読了。帯に書かれた「山東京伝+平賀源内 無敵の師弟コンビが、江戸の怪異を解き明かす!」という惹句に惹かれて読んだ一冊。面白かった。

寡聞にして平賀源内と山東京伝が師弟関係だったとは初耳だったのだが、……なるほどこういう仕掛けか。史実の平賀源内は享保13年(1728年)に生まれ安永8年12月18日(1780年1月24日)に獄死する。この物語は、まさにその夜から始まる。吉原で源内獄死のニュースを聞いたのが19歳の伝蔵こと後の山東京伝。その死に不審なものを覚えて、それまで会ったこともない源内の通夜に出掛けていく。

田沼意次の権勢と没落、松平定信の寛政の改革による文化人の受難といった時代を背景に、戯作者の山東京伝、奇才平賀源内、浮世絵師の窪俊満(安兵衛)、芝居者の蘭陽の四人が奇怪な事件(源内秘蔵の天狗髑髏にまつわる奇談、生きては帰れぬ地獄宿、恋女房に取り憑いた悪霊など)を解き明かしていく。この蘭陽という男だけは作者オリジナルの人物で、若衆髷の美青年。女言葉を使い陰間茶屋でそっちの商売もしているが、本職は用心棒で、見かけによらず腕が立つというなかなか魅力的な人物である。

源内がチームのブレインという趣きで、命を狙われながらも頭脳的な駆け引きや裏の裏まで読んだ策略を弄する。京伝は京伝でどんなことにも「粋」な面白さを忘れないし、蔦屋重三郎や鶴屋南北らをも巻き込んで、怪奇事件の背後に見え隠れする権力者に戦いを挑む構図になっているのも面白い。ミステリとホラーとマジックが横溢した痛快時代小説である。

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IQ300の男

先日から800冊ほど本を売り払い、本棚から溢れかえって床に山積みになっていたのがちょいとすっきりしたので、きょうは少し整理して並べ直していたのだが、どうやらまだ入らない。これ以上、本棚は増やしたくないから、やっぱりあと200~300冊はどうにかしないと。う~む。

Photo本の整理をしているとどうしてもパラパラと中身を読んでしまい、はかがいかないこと夥しい。きょうは『新ルパン三世』をパラパラどころかじっくり読んでしまった(汗)。夜になってネットを開いたら、BJサイトマスターのr嬢がちょうど素敵なルパンファミリーのイラストをアップしておられたので、その偶然に狂喜した。

その中にNo.141「123…7」のルパンの絵(原作よりもカッコいい)があったのだが、この話は私も好きだ。ルパンとコンピュータとの知恵比べで、お互いに問題を出し合い、先に解いたほうが勝ちというただそれだけの話。ルパンは地中に首まで埋められ手枷をはめられている。コンピュータが決めた7桁の数字を間違わずに言えたとき、手枷は外れてダイヤを得ることができる。ルパンはその数字の配列を探し出さなくてはならない。それに対してルパンがコンピュータに出した問題は……。

「10÷3=」である。

さすがルパン三世!「ウッ」と詰まったコンピュータが「3.3333……」と延々と答え続けている間に、ルパンは「1234567、3456789……」などとじっくり数を並べるのであった。すごいなァ、よくこんな問題を考え付くなァ、と感心して忘れることのできないエピソードのひとつとなっているのであるが……。

「0000000」から「9999999」まで7桁の数字は1000万通りある。おそらく「0000000」から順番に言っていくことになるのだろうが、ひとつ言うのに2秒かかるとして、全部言い終わるまでには約58日かかるのである(笑)。最初のほうにあるといいね、ルパン君。

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子どもから覗く大人

『猛スピードで母は』(長嶋有著)読了。

--「私、結婚するかもしれないから」「すごいね」。小六の慎は結婚をほのめかす母を冷静に見つめ、恋人らしき男とも適度にうまくやっていく。現実に立ち向う母を子供の皮膚感覚で描いた芥川賞受賞作と、大胆でかっこいい父の愛人・洋子さんとの共同生活を爽やかに綴った文学界新人賞受賞作「サイドカーに犬」を収録。--(「BOOK」データベースより)

う~ん。こういう作品の感想を書くのは難しいな。2編とも、日常にありそうだけれど実はどこにも無い世界を綴ったもの……という印象を受けた。なんだかとても不思議な感覚だ。『猛スピードで母は』は、濃い霧を通して物事を見ている感じ。『サイドカーに犬』は、陰影のない世界の出来事のような感じだ。夢ではないし、かなりドラマティックなことも起こるのだが、現実感に乏しい。これがこの作家の文体なのだろうか。初めて読んだのでよくわからないが。

しかし多分そういう雰囲気を醸し出すことで、この2編の作品は成功している。小学生から見た大人の事情などというものは、霧を通して透かし見たような、きっとどこか現実とは違う風合いのものなのだろう。自分が実際に見聞したり経験した事実の断片を繋ぎ合わせて、子どもは子どもなりの世界を作り上げる。『サイドカーに犬』で、母親が出て行ったきり帰ってこない現実を別にどうということもなく受け止めていた主人公は、その不安定で孤独な状態なりにうまく自分の世界を築き上げているように思った。『猛スピードで母は』の慎少年もしかり。そして慎少年はそんな世界を抜け出して成長していくのだ。

本当は2編とも、そこに描かれている女性のあり方をカッコいいと思わなくてはいけないのかもしれない。著者はそれも描きたかったに違いない。確かにカッコよく現実に立ち向かって生きており、男性の登場人物の影が薄くなるほどなのだが、「母」というポジションに立つ人間として見た場合に、これはどうなんだろうと思わないでもなかった。母と息子がまるで友達同士のような関係に思われること、「母」より「女」を強く感じることなどなど。別に、小説に道徳観念を求めるわけではないのだが、慎少年はこれからもいろいろと大変だろうなぁと思ったりした。それともこんな母親像がいまでは普通なのか……。

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忍者

『忍者武芸帳影丸伝1』(白土三平著)読了。出版社からの内容紹介によれば、「発表50周年記念出版。「カムイ伝」と並ぶ、巨匠・白土三平の代表作!格差社会や貧困問題が問われる現代への社会変革を予告する壮大な史劇。貸本マンガの大金字塔をカラー384ページを含め原本から初復刻します!!」という、このたび小学館クリエイティブより復刻されたものである。全17巻のまだ1巻目であるから、主な登場人物が次々と現れてきているところ。さてどのようなお話になるのか楽しみである。……というか、主人公の影丸や重太郎などにはワタクシ見覚えがあるので、もしかしたら幼い頃に読んでいるかもしれない。

この『忍者武芸帳影丸伝』は1959~1962年に描かれた貸本漫画なのだが、この頃から忍者マンガがブームになったようだ。同じく白土三平の『サスケ』(1961~1966)、『ワタリ』(1965~1966)、『カムイ伝』(1964~)や、横山光輝の『伊賀の影丸』(1961~1966)、『仮面の忍者赤影』(1967~1968)や、藤子不二雄Aの『忍者ハットリくん』(1964~1968)など、目白押しだ。また、映画の『忍びの者』や、テレビの『隠密剣士』や『忍者部隊月光』(これはその後の『科学忍者隊ガッチャマン』にも影響を与えた作品)などもその頃である。

戦国の世の封建制の中で自由を奪われた者たちの悲哀を描いたものから楽しい忍術合戦まで、忍者をテーマとした作品にもいろいろあるが、忍者にはなにやら人を惹きつけてやまぬ魅力があるようだ。厳しい修行の果てに常人離れした身体能力を会得し、決して表舞台には姿を現さず闇に蠢き、身分は低い。そうであるがゆえにストイックでニヒル。そういう共通認識ができあがったのは、この白土三平の力に負うところが大きいかもしれない。またそれを逆手に取ってギャグにしたのが『忍者ハットリくん』であり、『伊賀のカバ丸』(亜月裕著)であったように思う。

松山ケンイチ主演の『カムイ外伝』も今月封切られ、その公開を機に9年ぶりに新作も発表される(ビッグコミック10月10日号(9月25日金曜日発売)から3号連続)。『銭ゲバ』といい、『カムイ外伝』といい、貧しく虐げられる人々を描いた作品がリメイクされるというのは、いまの世の中がそれほど閉塞感に満ちたものであることの証明かもしれない。

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カオス

本日のお買い物

●『知的創造のヒント』(外山滋比古著)。私が学生時代に読んだ本だが、最近またよく売れているらしい。ちくま学芸文庫に収められたので買ってきた。

●『知識人99人の死に方』(荒俣宏監修)。一番最初に取り上げられているのが手塚治虫。

●『頻出ネット語手帳』(ネット語研究委員会著)。いまこれを読んでいる。

この本の帯に書いてあった例文のひとつがこれ。

「情弱リア充がkonozamaでメシウマww」
    ↓(日本語に翻訳すると…)
「情報弱者の青春を謳歌している若者がAmazonで買い物を失敗した。他人の不幸で今日もご飯がおいしいです(笑)」

もうワケが分からないが、用例を見ているだけで結構おもしろい。「リア充」などは割りとよく目にするし、なんとなくこういう意味だろうと思っていたのが当たっていたけれど、こういうネット語というのはちゃんと意味を調べてからでないと使えない。思い込みで使うと思わぬ恥をかきそうだ。まぁ、使おうとは思わないけれど。

思わず笑った用例をひとつ。
「消しゴム攻め以外ありえない」
「腐女子自重しろ」
     (「腐女子」の項より)
……「消しゴム攻め」って何?wwwww

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読書をどう記録するか

「読書メーター」に、「2009年上半期に読んだ本ランキング」が集計されていた。

【書籍/小説】
第1位 夜は短し歩けよ乙女(森見登美彦著)
第2位 告白(湊かなえ著)
第3位 秋期限定栗きんとん事件<上>(米澤穂信著)
第4位 同上<下>
第5位 重力ピエロ(伊坂幸太郎著)
第6位 1Q84<BOOK 1>(村上春樹著)
第7位 同上<BOOK 2>
第8位 ジェネラル・ルージュの凱旋<上>(海堂尊著)
第9位 同上<下>
第10位 容疑者Xの献身(東野圭吾著)

【コミック】
第1位 聖☆おにいさん3(中村光著)
第2位 鋼の錬金術師22(荒川弘著)
第3位 バクマン。1(大場つぐみ著)
第4位 聖☆おにいさん1(中村光著)
第5位 バクマン。2(大場つぐみ著)
第6位 聖☆おにいさん2(中村光著)
第7位 バクマン。3(大場つぐみ著)
第8位 flat2(青桐ナツ著)
第9位 夏目友人帳7(緑川ゆき著)
第10位 おおきく振りかぶってVol.1(ひぐちアサ著)

小説では第5~9位の作品は読んだ。コミックでは『聖☆おにいさん1~3』のみだ。

この「読書メーター」というのは「最近読んだ本のページ数や冊数をグラフにしてあなたの読書量を記録・管理するwebサービス」で、最近とみに話題になっている。「あなたの読書量が目に見えてわかるのでちょっとした達成感を味わえます。」というのが最大の売りだろう。他の人がどんな感想を抱いたのかも簡単に知ることができる。また、読んだ本の記録だから、ベストセラーのランキングとも微妙に違ってくるのが面白い。

常々読んだ本の記録はしておこうと思っているので、こういうサービスを利用するのもひとつの手だと思う。しかし総合ランキングなどを見ると、利用しているのはどうも若い層が中心のようで、どうも傾向が偏っているような気がしないでもない。まあ、ネットで読書管理をしようという発想自体がそもそもネット利用者だけを対象としているわけだから、必然的に若い人が多くなって偏るのも無理からぬことではあるのだが。「ブクログ」の方が良いかなぁ……。

それにグラフ化されるとなると、量を読むことが目的になりそうな気もして、それは嫌だ。私の年間最多記録は365冊(単行本のみ、コミックは含まない)だが、その年は仕事と読書以外何も思い出がない(笑)。その年は1日1冊という目標を立てたからそうしたのだが、もうそんなアホらしい読み方はしたくないし、のんびりマイペースで読んでときどき感想をブログにアップするくらいがちょうど良いのかな。

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いまが始まり

『流星ワゴン』(重松清著)読了。

「死んじゃってもいいかなあ、もう…。38歳・秋。その夜、僕は、5年前に交通事故死した父子の乗る不思議なワゴンに拾われた。そして― 自分と同い歳の父親に出逢った。時空を超えてワゴンがめぐる、人生の岐路になった場所への旅。やり直しは、叶えられるのか―?「本の雑誌」年間ベスト1に輝いた傑作。」(「BOOK」データベースより)

「僕」が、ワインカラーのオデッセイを運転する橋本さんに連れていかれるのは、それが現実世界では岐路であるとも気付かなかった時点である。リストラ、妻の不貞、息子の暴力、もう長くない父というサイテーでサイアクな今の状況を、過去のこの時点で自分がどう行動すれば未然に防ぐことができたのか。「僕」は一生懸命やり直そうとするのだが、どうもはかばかしくない。

しかし自分と同じ38歳の時点の父と出会ったことによって、「僕」はいろんなことに気付く。父と息子という関係だからこそ、言いたくても言えなかった言葉がある。分かっていたつもりでまったく分かっていなかったことがある。それは「僕」と息子・広樹の関係においても言えることで……。

これは親子の、いや、父と息子の物語であると言ってよい。オデッセイに乗っている橋本さんと健太くんの。「僕」と広樹の。そして、父と「僕」の。

過去は変えられなかった。しかし最後に「僕」は決然とオデッセイを降りてサイテーでサイアクな今に帰っていく。これから新しく続きを始めるために。オデッセイでの旅によって「僕」自身が変わったのだから……。

いまこの瞬間が始まりなのだと、勇気を与えてくれる暖かい作品である。

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騙されることの快感

『弁護側の証人』(小泉喜美子著)読了。1963年に文藝春秋新社から単行本として発刊されたものが、このたび集英社文庫で復刊された。

ヌードダンサーのミミイ・ローイこと漣子は八島財閥の御曹司・杉彦と恋に落ち、玉の輿に乗った。しかし幸福な新婚生活は長くは続かなかった。義父である当主・龍之助が何者かに殺害されたのだ。真犯人は誰なのか? 弁護側が召喚した証人をめぐって、生死を賭けた法廷での闘いが始まる。「弁護側の証人」とは果たして何者なのか? 日本ミステリー史に燦然と輝く、伝説の名作がいま甦る。(「BOOK」データベースより)

「わたしたちは、面会室の金網ごしに接吻した」という一文で始まるミステリ。おそらくここで既に私は騙されていたのだろう。11章まで読んで、やられた、と呻った。読者を騙すミステリを「叙述ミステリ」と呼ぶが、この作品はその分野での傑作との評価が専らのようだ。さもありなん。注意深く読んだつもりだったが、周到な文章に見事に騙された。

なにしろミステリだから、ネタバレしないように感想を書くのは難しい。解説の道尾秀介氏が上手く表現していたが、著者が描いたのは「はじめから、彩色の施されていない単純な線のみだった」のであって、そこに勝手に彩色した読者が、自分の彩色に踊らされて勝手に騙されるという本である。いっそ清々しいほど上手に騙されたい方にお勧めの一作。

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タブー

今夜は暑いのでうたた寝していない(笑)。ところが、何かを書こうとしても暑くて何も思い浮かばない。むぅ、困った。むぅ、むぅ……あ、『MW』についての感想を書こう(安易)。

先日久しぶりに『MW』を読み返してみて、改めて、こりゃあ奥の深い話だなぁと思うことしきりである。これだけ壮大にして陰湿な復讐劇をやってみて、結城にはいったい何が残ったというのか。混沌として雑然として不透明な世界は何ひとつ変わっていない。最初に読んだ頃は、結城と賀来の同性愛にばかり目が奪われていたが(だって、ねぇ……)、いま読むと、やっぱりこれは戦後日本の政治への痛烈な告発の物語だという思いを強くする。いまだって、どれだけ国民に知らされずに闇に葬られた事実があることだろう。誤解を承知で言えば「由らしむべし、知らしむべからず」だ。MWを白日のもとに晒そうとする結城の行動は、ある意味、賞賛されてもよいとさえ思う。狂ってるけど。

で、映画を観に行こうかと思ったが、やっぱり二の足を踏む。同性愛設定がないのは、どう考えてもおかしい。それは『MW』じゃない。聖職者にして同性愛者にして犯罪者(結城の犯罪に実際に加担している)という賀来の三位一体の存在が大事なのだ。国家の犯罪という途轍もなく大きなものと、一神父の葛藤というごく個人的なものとが同時に語られているからこそ面白いのだ。結城は美しく破滅的に犯罪を重ねていればよいが、彼の心理はとても私が理解し共感できるところではない。彼に振り回される賀来にこそ私は感情移入できる。そしてときどき2人が見せる恋人ならではの共依存性に人間の弱さを垣間見たりするのだ。

映画で同性愛描写が排除されたのは、出資者(日本テレビ)が「ホモの部分を出すんだったら金は出せないよ」と言ったからだそうだ(「週刊シネママガジン」による)。何故ダメなのか理由が知りたいものだ。もの凄い偏見だと思うし、原作に対する冒涜だと思うのだが。タブーを描かずして何が『MW』か。

『MW』は全編これタブーの物語である。「Yahoo! 辞書」で「タブー」を引いてみると「1 聖と俗、清浄と不浄、異常と正常とを区別し、両者の接近・接触を禁止し、これを犯すと超自然的制裁が加えられるとする観念・風習。云々」とある。要するに何か区別された概念の境界線を越えることがタブーと言われるものなのである。『MW』の意味を具現化したような両性具有的な結城。赦しを与える側にして犯罪に加担する賀来。そして2人の禁断の関係。この設定をなくしたらやっぱりダメなのである。タブーを犯す覚悟のない製作者が作ってはいけない作品だったと思う。いや、製作者はやる気満々だったらしいが、出資者を説得できなかったとは残念だ。

誤解を招くような書き方をしたが、別にホモはタブーではない。出資者の頭の中でそれがタブーだったということだ(←ここを強調しておく)。『MW』は善と悪だけの話ではない。世の中にある触れてはならないもの(タブー)と、それを犯すことの意味を問いかけたものだったと思う。

さて最後に、今回読み直して改めて気付いたのは、賀来が神父であることの意味だ。これはすごいアイデアだったと思う。もちろん結城を救済しようとする役回りとして聖職者というのはうってつけだが、結城の告白(懺悔)に対して守秘義務を負うことになり、それが賀来を自縄自縛に陥らせてしまうという、その意味合いが非常に大きいように思う。賀来はその守秘義務ゆえに結城の犯罪を目黒検事に話せない(話していたら物語はすぐ終わっている・笑)。だからさすがの結城も、賀来が神父を辞めると言い出したときには慌てているのだ。

実際に、聖職者の守秘義務とはどれほどのものなのか、私は知らない。中には、信者が盗みを働いたのを知って警察に知らせてしまった例もあるらしいけれども、そりゃあないよナと思う(笑)。聖職者は神に代わって赦しを与える立場なのだから。しかし実際に裁判で証人になったりしたら、守秘義務はどうなるのだろう……?

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何故、手塚治虫はアトムが嫌いだったのか

先週の朝日新聞「be on Saturday」に、懐かしのマンガに続く第2弾「もう一度見たい昭和のアニメ」ランキングが載っていたので転記しておく。()内は得票数。

1 鉄腕アトム(968)
2 巨人の星(542)
3 まんが日本昔ばなし(532)
4 ジャングル大帝(507)
5 鉄人28号(465)
6 宇宙戦艦ヤマト(421)
7 エイトマン(379)
8 あしたのジョー(363)
9 オバケのQ太郎(351)
10 ルパン三世(337)
以下、アルプスの少女ハイジ、ムーミン、サイボーグ009、魔法使いサリー、となりのトトロ、おそ松くん、妖怪人間ベム、狼少年ケン、ゲゲゲの鬼太郎、銀河鉄道999 と続く。

やはりアトムがぶっちぎりの1位だ。「いまでも主題歌が聞こえてくると、未来への希望がわく」「アトムは永遠のアイドル」などという読者の感想が並ぶ。私も毎週観ていたが、内容はほとんど覚えていない。エイトマンのほうが好きだったし。でもアトムが歩くたびにピョコンピョコンと足音がするのをおもしろがっていた覚えはある。この記事を書いた1959年生まれの記者さんはおそらく私と同学年だが、彼も書いているように、私もマーブルチョコのアトムシールを集めたクチだ。

Sightところで、夫が友達からこんな雑誌をもらってきた(夫、手柄ぢゃ!)。ロッキング・オン社発行の「SIGHT」vol.15 SPRING 2003 である。特集のタイトルは「何故、手塚治虫はアトムが嫌いだったのか 誤解された天才の闇に迫る」。編集の渋谷陽一が神とも仰ぐ手塚治虫の特集を企画したのは、おりしも2003年4月7日にアトムの誕生日を迎えるからだったという。

渋谷陽一は巻頭言でこう語っている。
「未来、希望、ヒューマニズムといった言葉の洪水のなかに、本当の手塚治虫はいなかった。一種の手塚批判ともいえた宮崎駿の発言----社会的には物議をかもしたが、僕が納得できた数少ない追悼の言葉だった。あの宮崎発言には、手塚への確かな愛があり、リアルな表現者としての手塚が存在していた。すでにいろいろなところで語られ始めている手塚論、あるいはアトム論は、僕が危惧したとおり、本来の手塚、本来のアトムとは距離のあるものばかりだ。そこで本誌は、あえて「何故、手塚治虫はアトムが嫌いだったのか」という挑戦的なタイトルで大特集を組んだ。
手塚は生前頻繁に、自分にとってアトムは代表作でない、好きな作品ではない、本来のメッセージが世間に伝わっていない、そしてアトムというキャラは好きではない、とまで発言している。…安易な手塚→アトム→ヒューマニズムというフラットな連想パターンもより一般化してしまった。いうまでもなく手塚は希望も語ったが、同じくらい、あるいはそれ以上に絶望も語った作家である。」

素朴な疑問が湧く。最初に挙げたランキングでの読者の声と、アトムが嫌いだったという手塚の言葉との、この乖離の大きさはいったい何だ? 手塚が当時アトムを嫌いだ嫌いだと思ってあのアニメを作っていたとすれば、多くの視聴者を欺きおおせた偉大なペテン師だったということになる。

たぶんそうではないのだと思う。「アトムが嫌いだ」というのは、アトムに込められたプラスの面ばかりに注目されることに嫌気が差して、また漫画家としての自分にそういうレッテルが貼られることを避けるために言った言葉だと私は思う。自分はもっと別のものだって描けるんだゾ、というアピールではなかったか。

「手塚は希望も語ったが、同じくらい、あるいはそれ以上に絶望も語った作家である」。確かにそうだ。『火の鳥』(何編だったか忘れた)で、やっと深い縦穴から出たと思ったら、そこには更に高い壁が聳え立っていたあのラストには、おさな心にも絶望を感じたものだ。『ザ・クレーター』で、死ねない身体になった宇宙飛行士が月面から地球の終焉を見続ける話にも、胴震いがするほどの恐怖と絶望を覚えた。しかし、だからといって、手塚がそこで本当に描きたかったのが絶望であったとはどうも思えないのである、私には。これは作品から受ける印象がそうだから、としか言いようがないのだが。また、NHKのように、愛だ思いやりだヒューマニズムだなどとは簡単に評したくないのだが、でも彼の作品全体から受ける印象は、絶望や悲惨さよりは愛と希望とロマンなのである。

だから私は手塚が「アトムが嫌いだ」と言っても、額面どおりには受け取れないのだ。彼は人一倍自分に対する評価を気にする人だったそうだから、それは評論家だのマスコミだのに対するバリアであって、彼らを操作するための計算だったと考える。この特集を企画した渋谷氏のように、手塚治虫は品行方正なマンガばかりを描いていたわけではなくて、それは後から付加されたマスコミによるフィルターを通した見方に過ぎない、というような論調が出てくるのは、まさに手塚の思うツボではなかったかと思う。

彼が人間の心理や社会のマイナス部分に目を向けた漫画家だったことを否定するつもりは毛頭ない。でもそれは更にその先を描く(あるいは読者に思い描かせる)ための手段であって、決して目的ではなかったと私は考える。というか、そう感じる。私の感覚が絶対だ、などと言うつもりはない。渋谷氏のような捉え方のほうが真実なのかもしれない。そっちの考え方のほうがより深いと言う人もいるだろう。

結局、これは読者各人の感覚のレセプターの違いなのかもしれない。手塚治虫が投げかける善や悪や生や死や愛や裏切りや嬉しさや悲しさや喜びや苦しみや……、そんな様々な形をしたメッセージの中から、読者は自分のレセプターに合ったものを選択して受け取っていく。『MW』の結城に込められたメッセージを大きく受け入れる人もいれば、善玉ロボット・アトムに込められたメッセージがぴったりの人もいるのだろう。そして私のレセプターは、『BJ』という作品の描かれ方やメッセージに反応するのである。

……と、無理矢理『BJ』に話を持っていったところで、最後に、この特集の中で『BJ』について触れられている部分をいくつか挙げておく。

「考えてみると、手塚治虫ってキャラクター・グッズが売れないんですよ。(中略)実際は鉄腕アトムくらいでね、あとは何もないんですよ。やっぱりブラック・ジャック人形は持たないし、ブラック・ジャックTシャツは着ないと思うんですね」(竹内オサム)……私、ブラック・ジャックTシャツ、着てるんですが(汗)。

「本当に『ブラック・ジャック』なんか異常だもんね。一話完結であれだけの物語を作るという」(江口寿史との対談の中の渋谷氏の発言)

「『ブラック・ジャック』というのは職人というか、医者の“教養”って感じがすごくするんですよね。なんというか、生命の大切さの背景には、膨大な死があるのだ、というような、一種の諦観というか死生観というか」(斎藤環)

「手塚さんは知識よりも教養をとったという感じですかねえ。さらに言えば、物語性のほうをとったわけで。それが『ブラック・ジャック』を非常に優れた作品にしてると思いますね」(斎藤環)

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小説の中の性犯罪に思う

『1Q84』か『アヒルと鴨のコインロッカー』か、どちらかの感想を書こうと思っていたのだが、ちょいと気分が乗らないので、やめる。『1Q84』はまだ全体像が自分の中で消化しきれていないし、何より幼女相手の近親相姦で子宮破壊という事実に気が滅入る。『アヒルと鴨のコインロッカー』はドライにして暖かい作品なのだが、猫殺しとバスの中の痴漢に怒りが沸騰して冷静になれない。

痴漢とかレイプとかロリータとか、私はその類がとことん嫌いだ(←こんな単語をバンバン使うと迷惑トラックバックが増えるのはわかっているが、伏字にするのもそいつらに負けたようで悔しいのでそのまま使う)。どんなにイイ男でもそういう趣味があるとわかれば、「男」の、いや、「人間」の範疇から外すだろう。抵抗できない者、力の弱い者、成熟した心身をまだ持たない者に、力尽くで己の肉欲を押し付ける鬼畜を「人間」と呼ぶ必要はない。

先日、結婚を間近に控えた女性がレイプされ、犯人を告発した後に自殺したという新聞記事を読んだ。なんと気高い人だろうと思うと同時に、悲しく暗澹たる気持ちになった。何故、被害者の彼女のほうが死ななくてはならないのかと思う。いや、死なざるを得なかった気持ちもわからないではないから、悲しいのだ。はたして犯人の男にそんな彼女の気持ちがわかるだろうか。

痴漢に遭ったことは数回ある。睨み付けてやったり、顔面をカバンの角で強打してやったり、ヒールで足の甲を思い切り踏んづけてやったりしたが、あの悔しさと憤りは今でも鮮明に思い出すことができる。幸いなことにレイプされたことはないけれども、危なかったという経験はある。幼い頃に会った、お腹の辺りを押さえていたあの男が、決して腹痛なんかでなかったことは今になれば明白だ。あのとき私があの男に近寄って行っていたら、と思うと、今でも震えがくるほどに怖い。そうなっていたら、おそらく今の私とは違う私が出来上がっていたに違いないと思う。あれは、私の運命の、人生の分岐点でもあったのだ。

性犯罪というのは、被害者にとっては人生を変えるくらい重く過酷なものだ。村上春樹は、その点をちょっと軽く考えているような気がしないでもない。あんな綺麗な夢物語になるかどうか……。その点、伊坂幸太郎は、痴漢を撃退する麗子さんを魅力的に描いているし、『重力ピエロ』でもレイプの爪痕を重大に描いたが、やはり視点は母親本人ではなくて息子や父親だった。

やっぱりこれは男性には永遠にわからない心情なのかもしれない。自分の妻や娘や恋人がやられたら嫌だと思うことは自分もしない、という男性は多いと思うが、そういう女性の尊厳なんていうのはまだ綺麗ごとだ。女性が生きていかれるかどうか、その根源にかかわるくらいのものだと知ってほしい。

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マンガでしか描けない哲学の問題

『マンガは哲学する』(永井均著)を読書中。以前に講談社から出て話題になった本だが、このたび岩波現代文庫に収められた。藤子・F・不二雄、吉田戦車、萩尾望都などなどの多くのマンガを引いて哲学的考察が試みられている。パラパラと立ち読みしていて「ともあれ、どうしても王様が裸に見えてしまうので『王様は裸だ!』と叫んでしまったあの子どもは、まわりの進歩的な大人たちにくらべて、あまりに保守的であっただけだ、という可能性があることは忘れてはならないだろう」という一文に思わず引き込まれたので買ってしまった。

読みやすい哲学書なのだが、しかし、自分が本当に判っているのかどうかは甚だ心もとない。自分が自分であることに疑問を呈するのがどうやら哲学の基本的姿勢であるらしいことを考えれば、「判った」と思う自分は本当に自分なのかと思うことは正しいことではあるはずなのだが、そこに拘泥すると一歩も先に読み進められないという状況が起こってしまい、なんとも難儀している(笑)。そういえば、この人の本では以前に『転校生とブラック・ジャック』を読んで、やはり脳が腸捻転を起こしそうになったことがあった(起こらないよそんなことは)。ネット上で書評や感想を読むと、皆さんよく理解していらっしゃるようで、非常に羨ましく且つ悔しい。どうして私の頭はこの人の本を読むと捩れてしまうんだろう……。

ちょいとインターミッション。一緒に買った『中国の五大小説 上・下』(井波律子著)を読む。上巻が『三国志演義』と『西遊記』で、帯には「颯爽たる男達の『武』 乱れ飛ぶ『幻』」とある。下巻が『水滸伝』『金瓶梅』『紅楼夢』で、帯には「みなぎる『侠』 狂い咲く『淫』 夢に舞う『情』」とある。それぞれの話のあらすじと魅力が「ですます調」で解説してある。こういうのを読むとまた原作が読みたくなって困るのだが…。この五大小説のうち、『紅楼夢』だけはダイジェスト版でしか読んだことがない。これを機会に完本を読んでみようかな。

ちなみに、
「三大奇書」といえば、『西遊記』『三国志演義』『水滸伝』
「四大奇書」といえば、『西遊記』『三国志演義』『水滸伝』『金瓶梅』
「四大名著」といえば、『西遊記』『三国志演義』『水滸伝』『紅楼夢』
「三大怪奇小説」といえば、『西遊記』『三国志演義』『水滸伝』(安能務氏によれば『水滸伝』の代わりに『封神演義』が入る)

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『ダナエ』

『ダナエ』(藤原伊織著)読了。帯にいわく、「博打を愛し、酒を愛し、煙草を愛し、放蕩と逸脱を愛し、そして逝った作家」のこれが遺作であるらしい。前から気になっていた作家さんだったが、読むのは初めて。

表題作の『ダナエ』、『まぼろしの虹』『水母(くらげ)』の3編。いずれも何かを背負った男達が出てくる。それは過去の悔恨であったり、現在の不遇であったりするが、彼らはとても優しい。そして愛する者を守るためには限りなく強くなる。そんな彼らの心の機微がハードボイルドタッチの文章で描かれていて、それが不思議な叙情性を帯びて、とても綺麗で物悲しいものになっている。うん、こんな男っていいナ、と思わせられた1冊。

……ああ、それで、帯に「いい男感想文」募集のお知らせが付いているのか(笑)。

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PCが返ってきました

本日やっとPCが返ってきました。修理内容を見ると、メインボードやTVチューナ、キーボードなどが交換してあります。保証期間内だったので無料でしたが、期間外なら10万円以上かかる修理だったようです。不幸中の幸いでした。皆様も、水気には充分お気をつけください。

PC、無いなら無いでどうにかなるものですね、ちょっと寂しかったけど。PCがあるときの5割増し読書がはかどって『私の履歴書 知の越境者』(白川静 中村元 梅棹忠夫 梅原猛/著)、『MW-ムウ-』(司城志朗著)、『1Q84』(村上春樹著)などを読んだり、日がな一日乳癌についての本を書き写したりしていました。なかなか有意義に過ごせたように思います。

『私の履歴書 知の越境者』は以前に伯母がコピーを送ってくれていたのを紛失したので新たに買ったもの。私の実家は中村元さんの生家とは遠い親戚に当たる(何故だか我が家の過去帳に中村家の人の名前があったりする)ので、なんとなく聞いたことのある人名などを探しながら読んだりしました。が、どうして中村家の人がうちの墓に葬られているのかなどはわかりませんでした。

『MW-ムウ-』は映画のノベライズ版で、原作とは多少趣きが異なっていました。ただ、賀来神父はこの小説のほうが魅力的かもしれません。結城には敵わないと知りつつも原作ほどには彼に翻弄されることもなく、キャラが立っていました。結末は……書かないほうが良いですね。

予約して何日も待ってやっと入手した『1Q84』、上下巻を1日で読みました。オ○ム真理教事件に材を取った小説と聞いていましたが、宗教臭さはありませんでした。今はどう感想を書いたらよいのかわからないのですが、もうちょっと私の中でこなれてきたらそのうち書くかもしれません。私にとっては『ノルウェイの森』ほどの衝撃はありませんでしたが、村上流のワンダーランド、実感が追いつかない世界に放り込まれる感覚には、いつもワクワクします。

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クイーンの遺作?

『ニッポン硬貨の謎 エラリー・クイーン最後の事件』(北村薫著)読了。

----「一九七七年、ミステリ作家でもある名探偵エラリー・クイーンが出版社の招きで来日し、公式日程をこなすかたわら東京に発生していた幼児連続殺害事件に興味を持つ。同じ頃、大学のミステリ研究会に所属する小町奈々子は、アルバイト先の書店で、五十円玉二十枚を「千円札に両替してくれ」と頼む男に遭遇していた。奈々子はファンの集い「エラリー・クイーン氏を囲む会」に出席し、『シャム双子の謎』論を披露するなど大活躍。クイーン氏の知遇を得て、都内観光のガイドをすることに。出かけた動物園で幼児誘拐の現場に行き合わせたことから、名探偵エラリーの慧眼が先の事件との関連を見出して…。敬愛してやまない本格ミステリの巨匠EQの遺稿を翻訳したという体裁で描かれる『ニッポン硬貨の謎』The Japanese Nickel Mysteryが、十余年の歳月を経て堂々完成。アメリカの作家にして名探偵が日本の難事件をみごと解決する、華麗なるパスティーシュの世界。エラリー・クイーン生誕百年記念出版。」----(「BOOK」データベースより)

この小説の成り立ちは非常にややこしい。エラリー・クイーンの未発表作品を北村薫が10年かけて翻訳したという体裁のパスティーシュ小説になっているからである。上記にあるように、物語は「幼児連続殺害事件」と「五十円玉二十枚を千円札に両替してくれと頼む男」の2つの謎を追って展開するが、実はもうひとつ大きな側面があって、それはクイーンの作品論に立ち入っているということである。『シャム双子の謎』に「読者への挑戦」がないのは何故かという問題に、小町奈々子が著者の代わりとなって持論を展開している。

私がクイーンの国名シリーズを読んだのははるか昔の中学生の頃のことで、内容などもはや忘却の彼方ではあるが、『シャム双子の謎』に「読者への挑戦」がなく、別の作品でクイーン自身がそれを指摘していたことは覚えている。エラリー・クイーンと言えば「読者への挑戦」…と思っていた私としても、それを書き忘れるとはずいぶん迂闊な話だと不思議に思ったことも覚えている。が、そこまでで思考は停止。まさかそのこと自体に(北村薫が言うような)壮大な思惑があったとは。クイーンファンである北村薫の、満を持したクイーン論と言ってよい作品である。何事も興味を覚えて探求していけばそこには必ず大きな実りがあるものなのだと思わせられる労作と言ってもよい。クイーンファンには必読の書である。また和製エラリー・クイーンの法月綸太郎が解説を書いているのも楽しい。

長身痩躯銀色の瞳を持つ本家本元名探偵エラリーの名推理を、また久々に読んでみたくなった。

ちなみに、『競作五十円玉二十枚の謎』 (創元推理文庫) は以前読んだのだが、あまりピンとくる謎解きはなかったような……(ごめんよごめんよ~)。

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本と結ぶ縁

『多読術』(松岡正剛著)読了。

インタビュー形式なので読みやすい。裏表紙には「読書の楽しみを知れば、自然と本はたくさん読めます。著者の読書遍歴を振り返り、日頃の読書の方法を紹介。本書を読めば自分に適した読書スタイルがきっと見つかります。読書の達人による多読のコツを伝授。」とある。

本をたくさん読みたいからその読書法を知りたい、と思ってこの本を手に取る人が果たしているのかどうかはわからない。本好きの人間ならば誰だって多かれ少なかれ自分なりの読書法や読書ペースを持っているはず。だから私はこの本を、著者の膨大な読書量の秘密を知りたいと思って選んだわけではなく、彼の読書遍歴や選書方法などが知りたくて読んだ。

彼の読書術に関しては、「目次をしっかり読む」「本にどんどん書き込む」「マッピングで本を整理する」「キーブックを選ぶ」等々が紹介されていて面白かったが、実際に真似しようとは思わなかった。特に「本にどんどん書き込む」ことは私には絶対無理だ。著者が言うように、本というのは既にテキストが書かれたノートであると考えられればそういうことも出来るのだろうが、私はどうもそこまで吹っ切ることができない。私にとって本はそれだけで総合芸術の完成品であって、それに更に自分の手を加えて自分だけのものにするという発想は無い。だから私は書き込みはもとより“Dog-ear”(ページの角を折って栞代わりにすること)もできないし、間に挟まれている出版社の広告チラシや帯も捨てることができないでいる。まぁ、著者のように、学術的に「知」を体系づけて編集するという試みをするわけではないから、それはそれで良しとしよう。

個々の読書術については上記のように読み流したが、結果的にはそれでよかったと思う。著者がこの本で本当に言いたいのは、そういう技術的なことではなくて、読者と本を結ぶ「縁」というようなものだと感じた。著者が絵本以外で最初に読んだ本は、母親からプレゼントされた『ノンちゃん雲に乗る』だったという。その物語の内容と自分の母親の姿がリンクしたという思い出や、高校時代の親友が『カラマーゾフの兄弟』を読んでその意味に悩んでいるときに、自分はその本を読んでもいなかったからとにかく一生懸命読んだという話などが興味深い。

読書とは、ただ本を読むことではなくて、その本との偶然の出会いだとか、読んだときに吹いていた風の匂いだとか、聞こえてきた音楽だとか、そういうあらゆるものを楽しめる感覚を得ることなのだと思った。それは、意図的ではないにしろ、著者の言うところの「編集」作業をこちらの脳が勝手にやっているからこそ得られる感覚なのだろうと思う。フラジャイルやかそけきものを大切にする著者が至った読書の醍醐味には、大いに共感するところがあった。

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疾走ときどき失踪

『手塚先生、締め切り過ぎてます!』(福元一義著)読了。

「手塚ファン Magazine」に、平成14年(2002)から平成18年にかけて毎月連載された、福元一義さんのエッセイ「アシスタントの日記帳」を加筆・修正の上まとめたもの。帯には「手塚治虫伝説を目の当たりにして30有余年。元チーフアシスタントが明かす巨匠の疾走(ときどき失踪)創作人生!」とある。

楽しく気軽に読める本だ。手塚治虫がいかに忙しかったか、いかに描くのが速かったか、いかに編集者から逃げ回ったか、そしていかにマンガを愛していたかがよくわかる。北海道でちょっと目を離したら失踪してしまい、皆でやきもきしていたら、翌日の夕刊に徳島で阿波踊りを踊っている姿が……なんていうエピソードには思わず笑ってしまった。

いやそれにしても、手塚治虫という人は、生涯で最も睡眠時間の少ない人なんじゃないかと思うほど、いつでもどこでもマンガを描いていた人なのだという思いを強くした。おかげで未だに楽しめる。ありがたいことだと思う。亡くなられた頃の話には思わず鼻の奥がツンとなった。

『BJ』関係の話では……。「チャンピオン」での連載の話が持ち込まれた当時、ほんの数日遅れで講談社からも執筆の依頼があったとか(これは『三つ目がとおる』になる)。講談社からの依頼があと2~3日早かったなら『BJ』は「マガジン」に連載されていたかもしれない、とのこと。この頃から「チャンピオン」が「マガジン」「サンデー」に攻勢をかけて黄金時代を築いていくことになるので、『BJ』を取れなかったことは「マガジン」にとっては痛手だったかもしれないと思う。

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ギムレットには早すぎる

Long_goodbye_2 『ロング・グッドバイ』(R・チャンドラー著)読了。村上春樹の新訳本だ。本書は高校生以降に清水俊二訳の『長いお別れ』で何度か読んだことがあるが、先般 村上訳が軽装版で出たので買って読んだ。二人の訳はそれぞれに良いという評判のようで、比較した記事もある。私はといえば、清水訳を詳しく覚えているわけではないので、何とも言えない。「おお、これがかの有名なセリフか!」などと感激しながら読んだことだけは覚えているが。

ミステリという分野の作品ではあるが、テーマは「友情」と言ってもよいかもしれない。タフで無頼な一匹狼フィリップ・マーロウがふとしたことでテリー・レノックスという男に心惹かれる。バーへ繰り出し一緒にギムレットを飲む仲になるが、テリーは妻殺しの容疑を掛けられ自殺してしまう。マーロウはもうこの世にいないテリーへの想いに突き動かされて、危ない事件に自ら首を突っ込んでいく。

マーロウはテリーの暗い影に惹かれている。大富豪の娘婿という立場でも幸せになれず、それを投げ捨てて放埓な生活を送ってもなお満たされないテリーのプライドの高さに好感を持っている。都会の片隅で物質的には何不自由なく暮らしている人間が、もうどうしようもなくなってのたうちまわっている様子に、共感の手を差し伸べている。テリーは優しい男だ。そしてマーロウもまた。

フィリップ・マーロウものでは最高傑作の呼び声も高い本書だが、その最大の魅力は最後のページにあると思う。この1ページを味わいたいがために、この長編を延々と読んでいるような気がする。少なくとも私の場合はそうだ。やくざで乱れた上流階級の人々の暮らしの描写には何ら共感できるものはないし、ハードボイルドすぎて日本人にはいささかついていけない(でもアメリカ人にはユーモラスで気の利いたものであろうところの)セリフにも辟易することがあるけれども、やっと辿りついたラスト1ページに描かれた友情の結末とマーロウの心情にはグッと来るものがある。切なくてほろ苦い。マーロウという男に血が通った人間味と少年の面影を感じさせてくれる。喪失感を描かせたら上手いと思う村上春樹の訳も文句なしに良かった。

さて、本文はたった今読み終えたのだが、55ページにもわたる村上春樹の「訳者あとがき」をまだ読んでいない。これから読む。何が書かれているのか楽しみだ。

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『鴨川ホルモー』

『鴨川ホルモー』(万城目学著)読了。

さてどうレビューしたらよいものやら……。一言で言えば……、くっだらねーー!!のだが、私自身はこういう突飛なものが決して嫌いじゃないから始末が悪い(笑)。 

なんだろうな、この力技は。まず「ホルモー」という「ホルモン」と「ホモ」に似たどことなく品の無い下卑た語感が好きじゃないと思いつつ胡散臭さを胸いっぱいにして読んでいくと、呆気に取られるような怒涛の勢いで、京都を舞台に陰陽道ファンタジー(?)が展開する。

京都大学1回生の「安倍」がわけもわからず入った「京大青竜会」は「ホルモー」という行事を行うためにあるサークルだった。数々の儀式を経てオニ(式神)を操る術を覚え、他大学と対戦しながら力を蓄え、見えない糸に導かれるように集結する仲間たち。恋に喧嘩に鴨川ホルモー。最後の安倍 vs 芦屋の決戦は、安倍晴明と蘆屋道満の呪術比べを思い出さなくてはいけないのだろうが、そんなこと思い出しても思い出さなくても、もう勢いとノリだけで楽しめる。ものすごい力技だ。

ちなみに一番笑ったのは吉田神社で京大青竜会の面々が舞いを奉納するシーン。私はこれを皆が神妙な顔で座っている外科外来の待合室で読んでしまったものだから、笑いを抑えるのに苦労して涙が出た。何故この歌でなくてはならなかったのか。この作品、映画化されてただ今上映中らしいが、このシーンだけは見てみたいと思う。この吉田神社へは、京大に出張したときに一度参拝したことがある。あそこでこんな舞いをしてしまったのかと思うと感慨深い。

本にはおおまかな京都の地図が付いているが、京都の地理に詳しければなお一層楽しめる。陰陽道に多少なりとも興味があって、大学時代に郷愁を感じる人にはお勧めの一作。

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『重力ピエロ』

『重力ピエロ』(伊坂幸太郎著)読了。

文庫の帯に「この本は、僕にとってすごく大事な作品で、たぶんずっとそうです。--  伊坂幸太郎」という一文が書かれている。読了後の静かな感動は、私にとっても忘れられない作品になりそうだ。

父親が異なる「泉水」と「春」の兄弟。春は母親がレイプされてできた子だ。この物語で起こる出来事のすべての発端は唯一この一点にある。壁に描かれたグラフィティアートと放火事件の相関関係、謎の英文とDNAの塩基配列、それらが謎解きの要素となってミステリを読んでいるような感覚になるが、この物語のテーマは「家族愛」である。兄弟と父、そして今は亡き母、各人がそれぞれの立場でそれぞれの思いを抱きながら、家族の絆の強さを確かめようとしているように思われる。重い内容だが、揺るぎない信念と家族の一員としてのアイデンティティですべてを乗り越えたラストシーンには、底抜けに切なくて眩い青空が訪れる。

「ふわりふわりと飛ぶピエロに、重力なんて関係ないんだから」

これまで読んだ4~5冊の伊坂作品の中で、最も印象深い一冊だった。

余禄だが、遺伝子およびDNAについても詳しくなれる。染色体の両端には「テロメア」と呼ばれる「TTAGGG」の繰り返しがあるなんて初めて知った。テロメアは分裂のたびに減っていき、あるところまで短くなるとそれ以上分裂ができなくなる。つまり細胞の寿命を決定付けているわけだが、癌細胞だけは逆にテロメアを次々と延長していくのだそうだ。だから、癌細胞は永久的に分裂を繰り返すことができるらしい。なんとも憎たらしくて不思議な細胞である。

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お花見しながら読書

え~と、まだ家にいます(ちょっとお知らせするのが早すぎたようです・笑)。来週まで検査があって、それで問題なければ再来週に手術の予定です。10日ほど入院して、5月初めには退院できるかな、と思っています。
毎日PCはかまっているのですが、すっかり怠け癖がついてしまってブログ更新してません。いかんなぁ。

Photo きょうはB○○K ○FFで買ってきた JUMP REMIX シリーズ『俺の空』(本宮ひろ志著)を読んでいた。「豊かなる旅立ち編」は当時読んでいたが、「刑事編」は初めて。へぇ~、安田一平は刑事になっていたのか。本当の刑事なのだが、そこは大財閥の御曹司のこと、別に私設警察なんてもんを作って好き勝手やってる(笑)。この、無駄に大掛かりな設定と、いまの時代だったら完全に空回りしそうな「熱さ」が本宮ひろ志の真骨頂だ。久々に読んでスカッとした。『男一匹ガキ大将』も読みたくなった。好きだったんだよ戸川万吉。

あと、1999年5月に出た『KAWADE 夢ムック 文藝別冊〔総特集〕手塚治虫』を見つけたので買ってきた。今からちょうど10年前、没後11年目の特集号だ。まだパラパラとしか眺めていないが、手塚治虫の身近にいた人たちが手塚治虫の人となりや作品を真面目に語っている。真面目…というと語弊があるが、つまりその、いわゆるオタク向けの本ではないという印象を持った。おそらくこの本を隅から隅まで読んでも「萌え~」なんて言葉は出てこないだろう。いや、10年前にそんな言葉があったかどうかも知らないけれども。これから精読します。

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『フラジャイル』その他

最近読んだ本の中でおもしろかったものについて覚え書き。

●ちょっと前に『フラジャイル』(松岡正剛著)を読了。古今東西の膨大な数の著作を縦横に引用参照しながら、「なぜ、弱さは強さよりも深いのか。なぜ、われわれは脆くはかないものにこそ惹かれるのか―薄弱・断片・あやうさ・曖昧・境界・異端など、従来かえりみられてこなかったfragileな感覚に様々な側面から光をあて、「弱さ」のもつ新しい意味を探」った大著である。(「」内は「BOOK」データベースより引用)

「フラジャイル」というと、私は以前の職場の倉庫に積んであった段ボール箱に“FRAGILE”と書かれていたのを思い出す。また、その段ボールを見るたびにロックグループ・イエスのアルバム『こわれもの』を思い出していた自分を思い出す。だから私にとっての「フラジャイル」はイコール「こわれもの」であったのだが、今回この本を読んで、そういう壊れやすいものだけを指すのではなくて、ぼんやりしたはかないもの全体を現す抽象的な概念であることを知った。

この本の感想を書くことは難しくてとてもできそうにないが、人々が何故だかそういうはかなくて捉えどころのないあやうい感覚を抱くものの正体について、非常に示唆に富んだ一冊であることは言える。内容を深く理解できたとは言い難いものの、共感できることは多々あった。境界線上、欠落と聖性、などという言葉を思い浮かべながら読むと、『BJ』を読む上でのヒントも多かったので、このことはいずれまた書くこともあるかと思う。

●『夢枕獏の奇想家列伝』(夢枕獏著)読了。著者お気に入りの歴史上の人物、玄奘三蔵、空海、安倍晴明、阿倍仲麻呂、河口慧海、シナン、平賀源内の7人を「奇想の人」として取り上げ、その生涯とどんなところが偉大なのかを語った内容だ。決して堅苦しくなっていないのは、著者が彼らを単なる歴史的偉人として見ることなく、一人の等身大の人間として見ようとしているからだと思う。たとえば、著者にとって玄奘三蔵とは決して一緒に酒を飲みたいとは思わない相手である、というように。空海についても、冷たい人間だという印象が書かれているし、中でも意外だったのは、平賀源内は気の毒な人物であるという見方である。発明家、アイデアマンとして有名な彼を、何一つ満足にやり遂げられなかった人物として著者は見ている。

なるほどなぁと思う。歴史的、表面的なことだけを見ているとわからない、生身の人物像に迫ろうとする著者の意欲を感じると同時に、こういう見方をすれば歴史もおもしろくなると感じた。また、そういう見方をすると、歴史に残らなかった人々に想いを馳せることも可能になるだろうなと思う。たとえば、4隻のうち難破しなかった2隻の遣唐使船に乗っていたのが空海と最澄だ。この二人はそれぞれ後世に名を残すことに成功しているが、では難破した残りの2隻に彼らのような偉人が乗っていなかったとは誰にも言い切れないことに気付く。もしかしたら彼ら以上に後世の歴史を変えるような人物が乗っていたかもしれない。実際に歴史を動かすことのできなかった彼らを容赦なく切り捨てたものが、われわれの習った「歴史」だったように思う。

歴史を見るのではなくて、人間を見ることの面白さを、この本は教えてくれる。文献や資料だけを確かなものとして見る歴史家ではなく、これは小説家ならではの見方だろう。そして、彼らをひとりの人間として見たとき、そのあまりにも人間臭い意地のはり具合だとか計算高さなどを通して、改めてその魅力と偉大さに気付くのである。

●『ラッシュライフ』(伊坂幸太郎著)読了。5つの別々の物語が最後に一つに収斂していく構成。すべてが同時進行ではないところにやや不満が残ったが、とてもよく練られている印象だった。それぞれが現実味のない話なのに、読んでいくうちにいつの間にか「こういうこともあるかもしれないなぁ」と思わせられている。著者の術中にはまることこそが楽しい一作。それと、黒澤という泥棒がなかなかカッコいい。

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『ジェネラル・ルージュの凱旋』

『ナイチンゲールの沈黙』『ジェネラル・ルージュの凱旋』(海堂尊著)読了。『チーム・バチスタの栄光』と同様に、不定愁訴外来の田口医師と厚生労働省の役人・白鳥が事件を解決していく。

『ナイチンゲールの沈黙』は、オカルトめいた雰囲気が漂う。期待していたものとちょいと毛色が違っていたし、あまり読後感もよろしくないが、レティノ・ブラストーマを病んだ少年・牧村瑞人と白血病の少女・杉山由紀の幼い恋模様が切なかった。『BJ』の「小うるさい自殺者」の喬と千代子を思い出した。また夕陽を目に焼き付けておこうとする瑞人の描写もあり、こちらは「目撃者」を彷彿とさせるものがあった。

そして『ジェネラル・ルージュの凱旋』! これは『ナイチンゲールの沈黙』と同じ時系列で進んでいくストーリー。だから両方の話に同じ人物が多数登場してくるが、『ナイチンゲール』とはまったく別の出来事が扱われている。一言で言って、こいつはカッコいいですゼ! 『ナイチンゲール』で思わず「う~ん……」と首を捻ってしまったが、『ジェネラル』で一気に発散できた。

「ジェネラル・ルージュ(血まみれ将軍)」の異名を持つ救命救急センター部長・速水の収賄汚職が問われるのだが、外野の有象無象どもが蠢くのを他人事のように睥睨する速水の覚悟と生き様と啖呵のキレの良さに、いやぁ参った! ラスト、大事故で大勢の患者が運び込まれるのを、唇にルージュをひいて(注:決してオカマではない)神のように捌いていく姿は圧巻だ。

「取材のヘリは飛ぶのに、ドクター・ヘリはどうして桜宮の空を飛ばないんだ」

救命救急の現場の修羅場、事務方やお役所の無理解。いつも辞表を携えて戦場を指揮するジェネラルの、孤独な胸のうちを理解しているのは果たして誰。

『バチスタ』よりも面白かった。絶対お勧めの本だが、『バチスタ』『ナイチンゲール』を先に読んでおいたほうが良い。さあ、次は、これらの作品に登場する人物の若き日が描かれた『ブラックペアン1988』を読もうかな。

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研究者たち

『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一著)を、もう少しで読み終わる。読了していないから感想やレビューを書くことは控えるが、DNAが二重らせん構造をしていることが判るまでの研究者たちの動向や駆け引き(?)等についての記述が、なかなか興味深かった。タイトルから受ける印象や帯に書かれた「生命とは何か?」という惹句とは、内容はちょっと違う。様々な分子生物学の研究者たちの悪戦苦闘振りや毀誉褒貶を綴って、その人となりを解き明かそうとしたもののように思う。そして著者は、ノーベル賞には届かなかったものの、その陰で自分のたゆまぬ研究の日々に満足していた研究者たちに、暖かい眼差しを注いでいるように思う。

この本には、著者自身の経験も含めて、静かに、しかし研究の最前線で実験を繰り返す研究者たちの姿が描かれている。それを読んで、私も以前に知っていた研究者たちのことを思い出した。

大学の医学部には「臨床」と「基礎」がある。学生を教えるという点では同じだが、臨床の先生方は普段は付属病院で実際に患者を診ておられ、基礎の先生方は生理学、病理学、解剖学等々、基礎医学の研究をしておられる。私は医学図書館に勤めていたのだが、多く図書館を利用され、また文献を必要とされる度合いが大きかったのは「基礎」の先生方であった。「臨床」の先生が必要とされる論文の多くは「臨床報告」で、ページ数もさほど多くはない。しかし「基礎」の先生が必要とされるのは「総説論文」や、最新のデータが載った論文が多かったのだ。

「総説論文」というのは、普通の「原著論文」と違い、ある一つの研究テーマについて、それまでに書かれた論文を総括、網羅したものである。だから論文の最後には膨大な量の「原著論文」の書誌事項が載っている。自分がその分野で新たに論文を発表しようと思えば、少なくともそこに挙がっている「原著論文」には目を通す必要がある。既に同じようなものが発表されていれば、自分の研究は追試でしかなくなるからである。

そこで先生方はその論文(コピー)を集めようとされるのだが、地方の大学の研究者が気の毒だと思うのはまさにここである。図書館でもできる限り需要の多い雑誌を購入しているのだが、いかんせん予算が少ないし、そもそも全ての医学雑誌を購入することなど不可能だ。そこで自館にないものは他所の大学図書館からコピーを取り寄せることになる。医学関係の資料が最も充実しているのは大阪大学の医学図書館である。これは同館が医学分野のセンター館になっているからだ(同様に文学関係はどこそこ、教育学関係はどこどこ、と決まっているが、忘れた)。そこで、よく阪大にお願いをしたものだが……。

一度、調べたことがある。無作為に抽出した1編の総説論文に載っている原著論文(60編くらいだったと思う)のうち、わが図書館で読むことのできる論文がどれだけあるか。結果は30~40%ほどだったと記憶している。よって残りの60~70%の論文はそのコピーを取り寄せねばならない。対して、阪大の研究者ならどうか。90%以上の論文を阪大の図書館で読むことができたのである。この差は大きい。当時(今は知らないが)コピー1枚35円だった。1つの論文がだいたい3~4枚だから105~140円かかる。送料だってかかる。40編もの論文を取り寄せようとすればどれだけ掛かるか。たった1編の総説論文に対してだけで、それだけ掛かるのだ。実際にはその数倍もの出費は覚悟しなくてはならない。だいたい教授、助教授、講師、助手あたりまでは校費が使えるが、医局員、研究員は私費だ。自腹を切らねばならぬ。図書館員としては、申し訳なくもあり、彼らが気の毒でならなかった。

だから、恵まれた環境にいる研究者は、金の面から言っても、優れた業績を残して当然……とまでは言わないが、心情的にはそう思う。しかし大きな大学の研究者だけが業績を上げられるとすれば、ますます国はそちらばかりに研究費の予算をつけて、地方の弱小大学との格差は大きくなる一方だ。悪循環だ……。

不利な立場にいる研究者たちに、いつか陽が当たる日がくることを願ってやまない。この本に書かれているような、生き馬の目を抜くような真似をして棚からぼた餅式に僥倖にあずかった研究者たちがいたことを思うと、地道に丹念に実験を重ねてデータを積み上げていく名もない研究者たちの頑張りに、心から拍手を贈りたくなった。

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a prayer

『オーデュボンの祈り』(伊坂幸太郎著)読了。

いま一番気になる作家さんのデビュー作だ。彼の作品は長編短編を含めて相互に関連しているそうなので、これから順番に読んでいこうと思う。そんなこと知らずに、『死神の精度』と『チルドレン』は既に読んでしまったけれど。

さて『オーデュボンの祈り』。「BOOK」データベースにはこうある。
----コンビニ強盗に失敗し逃走していた伊藤は、気付くと見知らぬ島にいた。江戸以来外界から遮断されている“荻島”には、妙な人間ばかりが住んでいた。嘘しか言わない画家、「島の法律として」殺人を許された男、人語を操り「未来が見える」カカシ。次の日カカシが殺される。無残にもバラバラにされ、頭を持ち去られて。未来を見通せるはずのカカシは、なぜ自分の死を阻止出来なかったのか?卓越したイメージ喚起力、洒脱な会話、気の利いた警句、抑えようのない才気がほとばしる!第五回新潮ミステリー倶楽部賞を受賞した伝説のデビュー作、待望の文庫化。----

うん。内容を簡潔に説明しようとするとこんなふうになってしまうと思うのだが、たぶんこの文章から想像されるであろう物語の雰囲気と実際の味わいは全然違う。ミステリはミステリなのだが、まるでおとぎ話のようであって、現実感がまるでない。まるでないが、明日わが身に降りかかってきてもおかしくないと、ごく自然に思える。何かとても奥深くて深刻な真理が語られているようでもあり、しかしそんなことは現実の重みの前には無意味なことと無視してもかまわないと思えるような、淡々とした乾いた明るさもある。

何ということもない雑多な出来事が最後にひとつに収斂する心地よさがミステリの醍醐味だが、このお話の場合は収斂したその結果が素敵で、私は泣いた。感動的だったからと言うのは容易いが、何かこう、楽しくて哀しくて、透明で綺麗なものが目の前いっぱいに広がった感じがした。ミステリとしてだけ読むのはもったいない。

ところで、書店でこの本を見たとき、「オーデュボン」という言葉が頭の隅に引っかかった。知っている、聞いたことがある、でも思い出せない。そのもどかしさがこの本を買うに至った直接の動機だった。読んでみて、ああ、と思い出した。John James Audubon(1785~1851)。アメリカの鳥類学者で細密な鳥の画集を遺した人だ。以前勤めていた図書館で、利用者N君からの強い希望があって、このオーデュボンの『アメリカの鳥類(Birds of America)』という本を購入したのだった。それはそれは見事な図鑑だった。写真なんかまだ無かった時代に、よくこれだけ観察したものだと思った。大型で重い本だったので、この本専用に閲覧台を用意した。N君と一緒に飽かずに眺めたことを思い出す。このN君というのがまた面白い子で、臨床医にならずに基礎医学、解剖学の道を選んだのだが、解剖学者の目から見てもこの図鑑は素晴らしい出来だったのだろう。(学生の頃から知っているので「N君」なんて呼んでしまうが、「N先生」と呼ばなくちゃいけないな…。)

そのオーデュボンも描いた「リョコウバト(Passenger Pigeon)」というのが、この『オーデュボンの祈り』の一つのキーワードになっている。20億羽以上の巨大な群れをつくる鳥で、世界で一番多い鳥とも言われていたが、人間の狩りや乱獲で1914年になんと絶滅した。そこから教訓を読み取ることも可能だが、この作品においては、時の流れ、過去・現在・未来、それを見通す力とそれにまつわる悲哀などを表しているように感じた。折りしもきょうのニュースでは「スズメ 国内生息数、半世紀前の1割に」と報じられている。そこで人間が何ができるのか、ただ観ているしかできないのか。できるのは……ただ祈ることだけか。カカシの「優午」の気持ちが少し分かるような気がする。

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手塚治虫と音楽

『手塚治虫クラシック音楽館』(手塚治虫 小林準治 著)読書中。帯に「クラシック音楽と漫画の幸福な関係」とあるように、手塚の漫画を音楽をキーワードに読み解こうとする試みである。漫画も2編(『ふたりの演奏家』と『雨のコンダクター』)収載されている。このうち『ふたりの演奏家』は初めて読んだが、佳い作品だと思った。わずか5ページの中に戦争の悲惨さと音楽の素晴らしさを盛り込み、しかも全体としては童話のような趣きを持っている。

クラシック音楽には疎い私だが、手塚作品と結びつけて書かれていると、聴いてみようかなという気にもなる。クラシックにも手塚漫画にも詳しくなれそうな一冊だ。

Photo ところで、1月30日のNHK『プレミアム10』は「手塚治虫 漫画 音楽 そして人生」で、やはり手塚と音楽の関係を探るらしい。昨日の『土曜スタジオパーク』で紹介されていたので画面を写してみた。進行役は宝塚でBJ役を務めた真矢みきさん。

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『稀覯人(コレクター)の不思議』

『稀覯人(コレクター)の不思議』(二階堂黎人著)読了。時間がかかったのは、なにしろ登場人物の数が多いのと手塚治虫の古書に関する薀蓄を頭に入れるのが大変だったため。

内容(「BOOK」データベースより)
手塚治虫愛好会の会長が自宅の離れで殺され、貴重な手塚マンガの古書が盗まれた。しかも、その部屋は完璧なる密室に仕立てられていた。犯人は、やはり手塚マニアなのか?また、どんな方法で密室を創り出したのか?愛好会の一員である大学生・水乃サトルは、持ち前の頭脳と博識で、真犯人を追いつめてゆく、鮮やかな論理とトリック!スリリングな傑作長編。

何故密室で自殺を装わせる必要があったのか、犯人はどの本をどうするのが目的だったのか等の謎解きも充実しているが、一番の新機軸は犯行の動機であろう。なるほど、これがコレクターというものか、と思わせられた一編。作中、小道具として著者が創作した手塚治虫作の『白雪姫』や『学童社版ジャングル大帝3』なんていう本も実在しそうに思われた。もしもそんなものが出てきたら、それこそ殺人を犯しても手に入れたいと思うコレクターは数多いのかもしれない。

しかし、この本に登場する手塚本のコレクターたちは、手塚ファンというよりは、手塚本に特化した古書ファンといったほうがよいような気がする。マンガの内容ではなくて、そういうマンガが過去に出版されたという事実のほうに興味がある人たちのように思われる。手塚治虫という人は満足できるまで自分の作品に何度も手を加えた人だから、同じ作品でも出版社や刊行形態や版によって違いがある。それを全部手に入れないと気がすまないという人が、いわゆる稀覯本のコレクターということになるのだろう。私にはそういう欲望はあまりない。『BJ』についてだけはその内容の変遷や相違点を知りたいと思うけれども、単行本について「初版」でないと気がすまないというようなことはない。読めればよろしい。

この作品は手塚治虫最晩年の1980年代半ばが舞台となっている。『ミッドナイト』が掲載されている少年チャンピオン……などという描写が出てくるとなんだか嬉しくもあり、ほろ苦い懐かしさに胸が締め付けられる思いもする。その当時の私はマンガとはすっかり縁が切れていた。こんな愛好会が身近にあったなら、と思わないでもない。今も手塚治虫のファンクラブは存在しているが、いろいろ専門的で高度な話をしておられるのだろうなと思う。そこの会員さんたちがもしも拙ブログの『BJ』記事などをご覧になったら……いかん、冷や汗が出てきた。

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ミステリ三昧

『和時計の館の殺人』(芦辺拓著)読了。

地方の旧家、時計台のある館、遺産を巡る諍い、頭部を包帯で隠した男、密室の惨劇、突如鳴り始める時計、地下の洞窟に隠されていたものは……。横溝正史を思わせる道具立てだが、あのオドロオドロしさは無い。探偵役を務める森江春策弁護士の人柄と関西弁が、全体の印象を柔らかなものにしている。最後に水に落ちたためにやむを得ず和服姿で謎解きをするのは、紛れもなく金田一耕助へのオマージュであろう。

以下、多少のネタバレあり。

連続殺人と思わせておいて……という点は先が読めたし、時計係の女性の素性も思ったとおりで、犯人当てという観点では平均的な出来だと思う。しかし関係者の「時間」に関する証言の扱い方が上等のミステリになっている。誰一人、時間に関しては嘘を吐いていない。それなのに生じる矛盾と、深まる謎。和時計に関する雑学も増えて、なかなかに興味深いミステリだった。

続いて、『稀覯人(コレクター)の不思議』(二階堂黎人著)読書中(それにしても、「稀覯」くらい漢字変換してくれよ)。帯に「すべての手塚ファンと本格推理ファンに----。」とあるように、殺されるのは手塚治虫愛好会会長で、始まって2ページ目に、ブラックジャックで殴られる。少チャンコミックスを読んでいれば判る「ブラックジャック」という表現が嬉しいではないか。著者が手塚治虫ファンクラブの2代目会長を務めたほどの手塚マニアなので、手塚関連の薀蓄も楽しい。

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『銭ゲバ』

テレビから突然ローリング・ストーンズの“Paint It Black”が流れてきたので何事かと思ったら、新ドラマ『銭ゲバ』のCMだった。松山ケンイチが主演らしい。原作よりはるかに男前じゃん! ということで『銭ゲバ』(ジョージ秋山著)読了。

1970年「少年サンデー」で連載開始されたマンガで、私は当時はほとんど読んでいない。『銭ゲバ』と「マガジン」掲載の『アシュラ』だけは避けて通っていたフシがある。絵もストーリーも気持ち悪いというのが正直な感想だった。いやそれにしても、今から考えるとよくこんなマンガを少年誌に載せたものだと驚く。Wikipediaの解説を借りれば「極度の貧困から、殺人を繰り返しながら金銭と名誉を掴む1人の青年・蒲郡風太郎の波瀾万丈ストーリー」ということになる。

蒲郡風太郎の母は貧困のため病死し、父は外に女を作って出て行ってしまう。金の力だけを信じて生きていく主人公……というようなところは、どことなくブラック・ジャックにも通じるところがある。その頃の少女マンガではヒロインが必ず継母に苛められていたが、少年マンガにおいては家庭崩壊と金儲けが流行だったのかもしれない(笑)。恩も情けも親切も、風太郎は信用しない。刑事にマークされながらも次々と殺人を犯し、人を欺き、札びらで人の顔を張りながら、とある会社の運転手から、社長の娘婿になり、ついには社長になり、最後は県知事にまで登りつめる。富と名声と権力とを手に入れたとき、彼は……(以下ネタバレになるので割愛)。

彼が本当に求めてやまぬものは何だったのか。それまで憎たらしさしか覚えなかった彼に、最後は同情と憐憫の情を覚えた。このマンガの最後の言葉はすごい。「そうだ てめえたちゃみんな銭ゲバと同じだ もっとくさってるかもしれねえな それを証拠にゃ いけしゃあしゃあと生きてられるじゃねえか」。この言葉に真っ向から反論できる人間がはたして何人いるだろうか。

ドラマではどんな脚色がなされるかわからないが、いま一番観たいと思う新ドラマである。しかしまぁこのご時世に『銭ゲバ』とは。いや、こんな時代だからこそ、このチョイスなのかもしれない。

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今年読んだ本 2008

今年は何冊本を読めたかな? 再読を含めて100冊くらいなものかもしれない。その中で印象深かったものを挙げてみると……。

『シッダールタ』(ヘルマン・ヘッセ著)がダントツなのだが、ブログには感想を書いていない。思いをうまく表現できそうもないけれども、とにかく何か大変なものを読んだ、という印象だった。これから先も幾度となく読み返しそうな予感がする一冊。

『日本浄土』(藤原新也著)、『死神の精度』(伊坂幸太郎著)、『街場の現代思想』(内田樹著)などがそれに続く。フォトエッセイ、小説、評論と、ジャンルが相変わらずバラバラだ(汗)。伊坂幸太郎と内田樹は他にも何冊か読んだが、いずれもハズレがなく面白かった。

あと、手塚治虫生誕80周年ということで、手塚関係の本をたくさん読んだ年だった。来年は没後20年ということになるのかな? また関連本がたくさん出るのではないかと楽しみである。

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底なしの虚無

『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍原作 萩尾望都著)読了。連載当時に飛び飛びに読んではいたのだが、全巻通して読んだのは今回が初めて。そうか、こういう結末だったのか。

宇宙の始まりからして既に崩壊は始まっているという考えは、このマンガのおかげで当時の読者にはある程度植えつけられていたように思う。それくらいインパクトのある作品だった記憶がある。手塚治虫の『火の鳥』が生命賛歌の趣があるのに対して、こちらは何故滅んでいく過程に自分が存在する必要があったのかという、どちらかといえばマイナス思考的な印象もある。それに疑問を持った阿修羅王、シッタータ、プラトン、イスカリオテのユダが、「神」へと挑んでいくわけだが……、非常に難解である。少なくとも私にとっては、超難解だった。

何か不可思議な力によってこの世が存在しているのではないかと、人は思う。それを宇宙と呼んだり神と呼んだりするのだが、その神を生み出したのは他ならぬ人間であるからこそ、人は神を疑う。56億7千万年後に現れるという弥勒は、この世をどう変えるというのか。神の救済など本当にあるのか。人はユートピアに暮らしてはたして幸せなのか。また逆に、神に疑いを抱く自分はいかなる理由でそう思うのか。自分もまた何かに操られているだけではないのか。実に様々な「?」が浮かんでくる。

以下、ネタバレになるが……。最終話で、転輪王と話した阿修羅王は、仲間を失い独りになっても、それでも前へと歩き始める。彼(女)は戦いの道を選んだということだろう。この宇宙には彼(女)以外の生き物はいないのかもしれない。彼(女)は何と戦っていくのか。もう全ては崩壊してしまったのだから、宇宙だの神だのは関係ない。彼(女)がこれから戦っていくもの、それはおそらく彼(女)自身にある底なしの虚無なのではないかと思った。

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『第六の大罪 伊集院大介の飽食』

気がついたら、ここのところ本の感想を書いていないので、久しぶりに一つ。『第六の大罪 伊集院大介の飽食』(栗本薫著)読了。

伊集院シリーズを読んだのは『タナトス・ゲーム』以来かもしれない。『天狼星』あたりまでは喜んで読んでいたのだが、『タナトス・ゲーム』で「やおい」という今でもやっぱりよくわからないが当時はもっとわからなかった腐女子の世界が描かれてからちょっと敬遠していた。『天狼星』も乱歩ばりの幻想お耽美の世界で、名探偵伊集院大介と宿敵シリウスのキスシーンなどもあったりはしたのだが、まだお話の中の世界という感じで受け入れられた。『タナトス・ゲーム』は実際にいるそういう趣味の女の子たちの世界そのままで、しかも私にはまったく馴染みがない世界のことだったから、ピンと来なかったのだろうと思う。

さて『第六の大罪』、飄々とした大介の持ち味は昔と変わっておらず、懐かしくも面白く読めた。「グルメ恐怖症」「食べたい貴方」「芥子沢平吉の情熱」の短編3つと「地上最凶の御馳走」という中編1つで構成されているが、共通するテーマは「グルメ」である。本のタイトルも、キリスト教が定める7つの大罪(傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲)の6番目ということに由来していると思われる。食通、ゲテモノ喰い、味を追求する料理人等を巡る事件は、どことなく可笑しく滑稽で、しかし食欲という動物の本能に根差すものであるがゆえに身近な恐怖でもあった。

関係ないと思うけれども、私は「グルメ」と聞くと食屍鬼を表わす「グール」を思い出してしまう。この本の中にも1編そういう趣きのお話があったので、書き添えておく。苦手な人は読まれないのが無難かも。『天狼星』が大丈夫な人ならOKだ。

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『これでいいのだ 赤塚不二夫自叙伝』

『これでいいのだ 赤塚不二夫自叙伝』(赤塚不二夫著)読了。

旧満州での少年時代から終戦後までの描写がズッシリ重い。日本の敗戦の日を境に、それまで中国人を見下していた日本人が中国人から一家皆殺しの目に遭ったり、中国大陸を逃げ惑うことになるスリルは、これまでなんとなく歴史上の事実として知ってはいたつもりだったが、それを身をもって体験した人物の筆で綴られると、改めて戦慄を覚える。汽車に乗ろうとすると酷い人混みで、なんとか家族が離れ離れにならないように必死だったこととか、やっと乗れた汽車から用を足しに降りた途端に汽車が発車してしまい、どんなに走って追いかけても再び乗ることができず、広大な中国大陸に取り残された女性たちがいたこととか。幼い彼の目に映った現実はどれほど残酷なものであったか。

不二夫少年の場合、父はシベリアに抑留され、母と4人の子供達が命からがら日本まで帰り着く。しかし母の実家に落ち着いたその日に、乳飲み子だった妹は死んでしまう。引き揚げ船の中で粉ミルクさえ取り上げられなかったら生き延びられたかもしれないのに……。

しかし、不二夫少年がそんな修羅の時代をなんとか明るく元気に過ごしてこられたのは、ひとえに彼の両親の毅然とした、しかしとても暖かい人柄と愛情のおかげだったようだ。この本は彼の「自叙伝」とはなっているが、書かれたときには既に亡くなっていた両親への感謝の気持ちを綴った内容に他ならない。漫画家として成功した自分のことはサラリと書き流して、その成功の影に両親の愛情があったことは詳しく書かれている。そしてその両親が亡くなった後のことはほとんど書かれていない。

親子の絆の大切さ、そして両親への感謝。当たり前のことだが最近見失われつつあるこれらのことに、改めて気付かせてくれる良い本だった。

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太陽の匂い

『上地雄輔物語』(上地雄輔著)読了。

--笑えて泣けて元気になる、上地さんとこの「ゆうチャン」物語。ブログも大人気の俳優・上地雄輔の初のフォト&エッセイ。--

だいたい毎日この人のブログはチェックしているのだが、その雰囲気をそのまま本に持ち込んだ感じの一冊。ブログの記事そのまんまという文章も、もしかしたらあるかもしれない。

文章自体が上手いかどうかはわからない。しかし飾らない短いセンテンスの積み重ねで、彼の思いが直接こちらの心に響く感じが心地よい。彼は「キャッチボール」と呼んでいるが、彼の紡ぐ言葉によって向こうとこちらの間に何か交流ができているような感覚が確かにある。確実に言葉が届いている。上手いかどうかはやっぱりわからないが、良い文章であることは間違いないと思う。

本当に飾りっ気のない素直な文章……いや、たぶん人柄がそうなのだろう。イケメンなのだが、不思議とこの人からは「男」を感じない。まったく感じない。たとえ目の前にいたとしても全然ときめかないと思う(ごめん)。なんか……少年のまんまという感じがする。膝小僧に大きなカサブタが無いことのほうが不思議に思えてくるような人だ。誰もがいつの間にか失くしてしまったモノを、ずっと大切に持ち続けている稀有な人ではないかと思う。都会の人間のはずなのに、太陽の匂いのする人。そんな感じ。

「おバカキャラ」というイメージはここにはない。そんなマスコミの戦略に踊らされずに、この身に鎧のようにこびりついている余分なものをこそげ落として一番柔らかい部分で読むと、「うんうん」と共感できることが多い。あまりにもミーハーだと思われそうで今まで躊躇していたのだが、読んでよかったと思った一冊。

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『陰陽師 瀧夜叉姫』

『陰陽師 瀧夜叉姫 上・下』(夢枕獏著)読了。シリーズ中、最も長編だが、テンポよく一気に読める。

いつも御伽噺を読むような感覚で読んでいるこのシリーズだが、今回は歴史上の一大事件に題材をとってある。ネタばれになるけれども、ここまでは書いてもよかろう、……平将門の乱の後日譚である。

いつもより源博雅の影が薄いような気がしたが、その代わりに活躍(?)するのが蘆屋道満。傍観者を気取りながらも要所要所に現れて緊迫感を高めてくれる。喰えない爺さんだ。ラストにはなかなかのアクションも見せてくれた。

呪、術、怨念、法力……、晴明をはじめとして何人ものエスパー達が入り乱れて戦う結末はドラマチックで、且つ一抹の哀しみを漂わせる。将門と俵藤太の一騎打ちは見ものであった。

「将門!」
藤太が叫ぶ。
将門が振り返る。
「おもしろかったなあ、藤太----」

このあたり、じわりと来るものがあった。

さてさて、平将門といえば祟りをなす怨霊であるという言い伝えが根強いが、私は1976年の大河ドラマ『風と雲と虹と』で加藤剛演じる将門を観ているので、怨霊というイメージと結びつかない。なにしろ加藤将門は「友よ風のように駆けたくないか」と爽やかに主題歌まで歌っていたのだ(試聴はこちらの16曲目。思わず笑うよ。でも全曲聴くと良い歌です)。盟友・藤原純友には先日亡くなった緒形拳、俵藤太に露口茂、興世王に米倉斉加年、貴子姫に吉永小百合等々、錚々たる出演者だった。でも一番印象に残っているのは草刈正雄。「風」とか名乗っていつもカッコつけて出ていたが、観ているこっちが気恥ずかしくなってね……(笑)。

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手妻とサーカスと変装と

『怪人二十面相・伝』(北村想著)読了。年末に公開される映画『K-20』の原作小説である。裏表紙の解説にはこうある。「怪人二十面相の正体は誰か。原作者の江戸川乱歩さえ触れることのなかった永遠の謎を劇作家でもある著者が大胆な想像力と緻密な構成で描く」。

私にはどこの訛りかわからないが、訛りのある言葉で喋るとか、どうやら大学を出ているらしいとか、ルパンのような怪盗になりたいとは思うものの、自分にはとりたてて何も欲しいものがないために何を盗めばよいのかわからないとか、実に人間臭い二十面相が描かれている。対する明智名探偵が計算高くて嫌な男に描かれているのも面白い。

二人の間で丁々発止の攻防、心理戦が行われる。そして意気揚々と空高く逃げていく二十面相をアクシデントが見舞う。二十面相の運命や如何に? それから第二次世界大戦を挟んで十年後、二十面相と明智の跡を継ぐ二人の若者が邂逅する……。というところで『PART II』に続くらしい。早く読みたいのだけれど、映画封切り直前まで待たされるのかなぁ? 少年探偵団を読んで大きくなった世代には堪らないパスティーシュ。決して子供向けではなく、しっかりとした娯楽作品である。

本の話題をもうひとつ。

先日から、1989年に出版された1冊の文庫本を探していた。たかだか20年ほど前の、それも日本エッセイスト・クラブ賞まで受賞した作品だから、書店に当然あるものと思っていた。書店にある機械で検索したら系列の書店には在庫がない。ならば注文しようとしたら、店員さんに「20年も前の本ですので、絶版になっています」と言われた。20年「も」……。う~ん、本の命は短いね。

ダメなら図書館へ行こうと思っていたが、きょう B○○K ○FF で見つけた。ほくほくして買って帰った。『北洋船団女ドクター航海記』(田村京子著)という本である。北洋船団初の女ドクター。1000人の男の中のたった1人の女性。女性の船医というのがどういうものなのか、楽しみに読もうと思う。読もうと思ったきっかけは、まぁ、如月先生である(笑)。

(備忘録080921)
きょうは「松江城薪能」を観に行きたかったのだが、いつぞや前売り券を買おうとしたら既に完売だった。当日券も若干はあったようだが、母を訪ねたりしたので諦めた。来年もあると良いなぁ。

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猫からもらう幸せ

『グーグーだって猫である 1,2』(大島弓子著)読了。大島弓子といえば、私にとっては「LaLa」に連載されていた『綿の国星』がすべてである。「週刊マーガレット」も友達の下宿で時々読んでいたので彼女の作品は他にもたくさん読んでいるはずなのだが『ミモザ館でつかまえて』以外ほとんど覚えていない。また『綿の国星』も当時はそれほどのめり込んで読んでいたわけではない。しかし後になってからジワジワと「あれは良かったなぁ」と思い出される作品なのである。

『グーグーだって猫である』は彼女が飼っている猫との交流を描いた短編エッセイマンガである。このたび映画化されたようだ。グーグーやビーやクロといった猫は猫の姿で描かれているが、既に死んでしまったサバというメス猫だけは『綿の国星』のように擬人化された姿で描かれている。どうやらサバは『綿の国星』の主人公チビ猫であるらしい。1巻の最初でこのサバとの別れが描かれていて、いやもう読み始めた途端から滂沱の涙であった。

『綿の国星』のように猫視点のファンタジーではなく、あくまでも現実のペットとの生活が淡々と綴られている。彼女自身を襲った癌との闘いも、この猫たちのおかげで随分と癒されていたのではないかと感じられた。

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(備忘録080828)

『チルドレン』(伊坂幸太郎著)読了。短編集だが、ひとつの長編としても読める。破天荒で一見KYな変人・陣内が起こす小さな奇跡の数々。とりあえず上っ面の体裁だけを整えようとするような姑息さが、この男には無い。そこが痛快なのだが、個人的にはあんまりお近づきになりたくない人種かも(笑)。振り回されて絶対とんでもない目に遭いそうな気がする。読んでいる間はニヤニヤ笑いが止まらない。読後感は爽快。

続いて『転校生とブラック・ジャック』を読んでいるのだが、脳味噌が攣(つ)る。普段全然使っていない部分を使っている感覚だ。しかも理解できているのかどうかは自信がない。この本で扱われているのは、普通には起こらない現象を仮定して「この世界がどうできていざるをえないか、どうできていることはできないか」を問う思考実験だという点だけはわかった……ような気がする。なんか、頭の体操みたいだ。

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ブッダとイエス

あちこちで推奨されていた『聖☆おにいさん』(中村光著)の1,2巻を購入、読了。東京立川のアパートでルームシェアして暮らしているブッダとイエスの日常を描いたマンガ。「モーニング2」で連載中。

大笑いすることはなかったが、小さなネタが時々ウケた。Tシャツとジーンズという格好で普通の人と同じように生活しようとする二人なのだが、ふと気を緩めると奇跡を起こしてしまいアタフタするのに笑える。聖人ならではの苦労というものがあるものらしい。

仏教ネタはだいたい判ったと思うのだが、天界でウケている「肋骨ダンス」というのが判らない。“bone dance”で「盆踊り」のシャレだろうか。キリスト教のほうのネタはどれくらい判ったか心もとない。イエスがヨハネから洗礼を受けたときはどういう事情だったのだろう? このマンガに描かれている灌頂礼が正しいのか? ちょっと調べてみなくちゃな……。仏教キリスト教の知識がもっと多ければ、より深く楽しめるマンガのように思われる。

しかしこんなマンガ、日本でないと受け入れられないんだろうな。二人の教祖様がいたって仲良くのほほんとしている姿には癒されるものがある。これがイエスとマホメットだったら、こんなふうにはならないかもしれない。

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(備忘録080809)

『水木サンの猫』(水木しげる著)読了。
 水木作品のうち猫又とか猫の妖怪が出てくる話を集めたもの。全体的に猫に好意的に描かれている。それにしても、水木しげる描くところの女性がみな美人なのに驚く。男はたいてい人間離れした顔なのにね(笑)。

『シッダールタ』(ヘルマン・ヘッセ著 高橋健二訳)読了。
 一言で言えば、凄いものを読んだという実感。いつかちゃんとした感想を書いてみたいものだが……。

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『もっと、狐の書評』

『もっと、狐の書評』(山村修著)読了。著者は“狐”のペンネームで1981年2月から2003年7月まで1188本の書評を日刊ゲンダイに発表した。2006年逝去。

当地では日刊ゲンダイなど馴染みがなく、従って私は著者の生前にその文章に触れることはなかったのだが、書店で本書がふと目に留まり立ち読みしてみるとなんとも心地よい文章が綴られている。迷わず買った。著者が大学図書館の司書だったという経歴にも何やら近しいものを感じてしまった。

本書には少女マンガから新約聖書まで150冊分ほどの書評が収められている。1冊につきだいたい見開き2ページ弱だから、800~1000文字くらいの分量だろう。たったそれだけで「この本が読みたい!」と思わせる力を持っている文章だというのがすごい。

そもそも書評というのは、その本の成り立ちから著者の意図するところまでをおおよそ紹介した上で、評者の見解までを書くものだと思うが、紙媒体だと文字数が限られることもあって、単純に褒めるか問題点を指摘するに止まっているものが多い。ところが、あまりに評判の良いものは読みたくない、最初から問題点が判っているものなどわざわざ読みたくないという私のような天邪鬼な読者もいるのである。その点“狐”の書評にはそのような臭みがない。「どれどれ?」と読んでいくうちに、いつの間にかその本が読みたくてたまらなくなっている。

9章に「書評者に「名前」なんか要るでしょうか」という一文が載っている。“狐”が著した『水曜日は狐の書評』について東京新聞に載った書評(評者は“狸”)への反駁である(ややこしい・笑)。“狸”氏は「……狐氏は点が甘く、ほとんど誉めてばかりです。(中略)匿名なら、(中略)厳しさも欲しい」と。ここで“狐”氏は自らの書評観を明かしている。評者が本を自身の教養を軸として裁いてしまうことの愚を語り、書評者は採点者ではなく、本を採点対象とは考えないと語る。そして、以下、ちょっと長いが、感銘を受けた部分を引用する。

「書評者は伝達者だと思う。肝心なのは、本を閉ざして自己主張することではなく、本を開いて、そこに書かれていることを伝えることのはずです。
 伝える、じつに単純なことです。しかし書かれていることをどうとらえ、どう伝えるか、それが思いのほかにむずかしい。もしも伝えるべきことがうまく、十全に、いきいきと読者のもとに届いたならば、それが書評者にとっての幸せというものでしょう。
 そしてそのとき書評文からは評者の名前などきれいに消えて、どこを探してもみあたらないはずなのです。それで、それだけで、いいのです。」

これ、読まれるために生まれてきた本たちを、死蔵するのではなくなんとか読まれるようにしてやりたいと願う図書館司書の思いと通じるものがあるのである。読者の手元に渡ってその本が開かれるなら、仲介・紹介をした司書にだって名前なんか要らない。“狐”氏の書評は、自身の教養をひけらかすという臭みがない上に、読者というよりはむしろ本に向かって注がれる眼差しが暖かい。それが、嬉しい。

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『ノルウェイの森』

竹島の帰属問題……については、もう何も言うまい。福田さんは反応がない。ただの○のようだ。

今朝の朝日新聞で読んだのだが、村上春樹の『ノルウェイの森』が映画化されるらしい。へえ、村上春樹がよく承知したな、というのが正直な感想なのだが……。

この小説は1987年の発売当時に一度だけ読んだけれど、一言で言えば衝撃的だった。筋だけ追っていけば陳腐極まりない(失礼)恋愛小説だ。でも、何と言うか、その、底知れぬ喪失感、透明な哀しさに、ただ泣けた。人が死ぬのが悲しいのじゃなくて、生きていくことの哀しさ、だったと思う。思う、としか書けないのは、実はその後二度と手に取っていないからである。もうあの衝撃は一遍でたくさんだと思うからである。それくらい私にとっては忘れ得ぬ作品だ。

しかし読後感は決して苦くない。苦くはないが、何も考えられなくなる。まぁ、読んだ年齢にも関係するのかもしれない。20代後半の、実生活でも何やかやとあった頃だったから、余計リアルに感じたのかもしれない。いま読んだら、と思わないでもない。でもまだ読めないな、きっと。

ごっちゃごちゃの本棚の中でも、この本の在り処だけは判っている。あの金色の帯に巻かれた赤一色と緑一色の上下巻。心臓と子宮に打ち込まれる赤と緑の楔……。そんな印象の本だ。

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いかがわしさという魅力

『箆棒な人々 戦後サブカルチャー偉人伝』(竹熊健太郎著)読了。「戦後大衆文化に放たれた、激烈なるエネルギー――ケタ外れの偉人たちを追う伝説のインタビュー集。裏の昭和が熱く妖しくよみがえる」。取り上げられているベラボーな男達は4人。

康芳夫 現世はすべて神の遊戯
石原豪人 画怪人かく語りき
川内康範 憎むな!殺すな!赦しましょう!
糸井貫二 ダダの細道

いわゆる王道を行くハイカルチャーではなくサブカルチャー……それもかなりキワモノに近い分野で活躍した「怪人」たちの生き様を、インタビューや往復書簡等で炙り出している。いやもう、なんか、スゴイ……。

寡聞にして康芳夫という人物は知らなかったのだが、ヒトかチンパンジーかと騒がれたオリバー君を呼んだのも、「人喰いトラ対空手」「猪木対アミン大統領」「猪木対アリ」などを画策したのも、『家畜人ヤプー』を初めて単行本化したのも、ネッシーやノアの方舟探索を企画したのも、全部、この人らしい。肩書きは「興行師」。「要するに僕は煽動を楽しんでいる」と彼は語っているが、なるほど、大衆を楽しませて自分は陰から楽しむフィクサーなのだ。

石原豪人は旧ブログでも取り上げたことがあるが、エログロな美男美女を描かせたら右に出る者はいないほどの挿絵画家。怪奇もの、冒険もの他、頼まれれば何でも描くが、何を描いても色っぽくなる人。「石原豪人」で画像検索すると作品がたくさん出てくるので確認していただきたいが、我々の世代なら少年マンガ誌で必ず一度は彼の絵を見たことがあるはずだ。話も巧みだが、たいていエロ話になってどこまで本当なのだか煙に巻かれる(笑)。島根県出身なので贔屓目で見てしまうが、暗い世相の時代にも楽しんで楽しんで生きてきた、そんな余裕を感じる人物である。ちなみに、彼の死後に出版された『謎とき・坊っちゃん』は漱石の『坊っちゃん』を新解釈した怪著である。登場人物が全部ホモで複雑な相関関係を呈しており、マドンナの影の薄さのわけが腑に落ちる(そうか?)。なお、人目のあるところでは絶対に本のカバーを取らないように。

川内康範は『おふくろさん』での森進一との確執が記憶に新しいが、彼の母親は本当に菩薩のような慈愛の人だったようだ。戦中戦後の厳しい時代に、自身は破天荒な生活をしていても一貫して母から受けた教えを実践している。そこから生まれたのが『月光仮面』であり『レインボーマン』である。「どこかで相手を赦さなければいけない。それには菩薩の心を持たないとできない」。月光仮面は月光菩薩に由来しているそうだ。インタビューに熱く答える彼の言葉からは、一途な人、というイメージを持った。

糸井貫二。「ダダイズムの貫二」を縮めて通称「ダダカン」と呼ぶ。仙台のあたりに全裸で生活し、「殺すな」と書いたプラカードを首からぶら下げて街を歩き、ほとんど誰にも理解されない前衛的芸術を実践している。ところがこれが案に相違して紳士的な人物である。きちんとした丁寧な言葉遣いで控えめに話す。ちゃんと彼なりの芸術哲学があって裸に固執しているのだろうと思うが、決してそれを理解してくれと強要はしない。もの凄い変人だが、隣に住んでいても何の問題もなさそうな人、という印象である。聖性か醜悪か、私には彼の芸術は理解できないけれども、人間としては興味あるなぁ。

一般的に見ればいかがわしさの権化というような人達だが(失礼)、皆が毅然とそれをやっているところが良い。戦中戦後の動乱期を乗り越え、自分の才覚一本で生きてきた力強さが小気味良い。こんな男達、今はあんまりいないかもしれない。

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「察する」ということ

『人は見た目が9割』(竹内一郎著)読了。ベストセラーは読みたくないという天邪鬼な私がずっと避けて通っていた本なのだが、病院の売店で他に選ぶ本がなかったので買ってしまった。「本はタイトルが9割」などと揶揄されて、タイトルに釣られて買った人が期待していた内容と違うというので酷評することの多い本だが、うん、確かに「新潮新書」はタイトルの付け方が上手いな、と(笑)。

別に容姿の美醜について書かれた本ではなく、ノンバーバル・コミュニケーション(言語によらない伝達)について書かれた本である。アメリカの心理学者アルバート・マレービアンが、人が他人から受け取る情報の割合について次のような実験結果を発表している。
 ・顔の表情 55%
 ・声の質(高低)、大きさ、テンポ 38%
 ・話す言葉の内容 7%
つまり、どんなに素晴らしいことを喋っていても、その内容が伝わるのは最大で全体の7%に過ぎず、それよりは話し手の表情や声の印象が伝わる割合のほうが93%と遥かに大きいということだ。「見た目が9割」という根拠である。

上記の実験結果はいわゆる「メラビアンの法則」として知られているところだが、この法則の本当の意味合いは、「視覚」「聴覚」「言語」の3つで矛盾した場合、人はどれを優先して受け止めるかといったものである。矛盾したときにだけ適用されるべき法則の誤用(?)に、別に目くじらを立てるつもりもないが、やっぱり、タイトルの付け方が上手いな、と(笑)。

内容にそれほど目新しいものもないが、「さいふうめい」の名前で漫画の原作や劇作にも係わっている著者が、どうしたらより効果的に意思や想いを伝達できるかを考えまとめたものだから、それなりに面白いことは面白かった。

でも結局……。こういう本を読むたびに思うのだが、本を読んで、本に絵入りで説明されているとおりの表情や仕草をしたとして、それで100%上手くいくというわけでもないだろうと思うのだ。相手は一様ではない。必要不可欠なのは現実での予測不可能な人と人との接触だ。接触の経験だ。こっちからただ伝えようとするだけでは駄目で、相手の受け答えによってこっちの出方を工夫する柔軟性がどうしても必要だ。それには場数を踏んで(たくさんの人と会って)経験値を上げるしかない。

携帯(やメール)での伝達が多い若い人達は「残心」とか「間」が分からないと著者は指摘しているが、さもありなんと思う。携帯は時も所も構わないし、メールは知らないうちに来ている。いつ話し始めて、どういう状況で終わるのかなんてことには頓着なしに、ズケズケと入り込んでくる。面と向かって全身全霊で伝えようとする機会そのものが少ないから、相手の表情を読むことも場の雰囲気を掴むことも、今の若い人達は苦手なんじゃないのかな。その結果、伝わらないと感じる。誰も自分のことを判ってくれないと感じる。そんな大層なことじゃないと思うんだけどね。……話がズレた。

この本に書かれていることを読むまでもなく、「メラビアンの法則」なんか知らなくても、日本には昔から「目は口ほどに物を言い」という諺がある。誰でも経験的に知っていることだ。ただそれを察する感受性自体が弱くなってきているのかもしれない。ことさら「KY」なんて言葉ができたり、こういった類の本が売れたりする現象こそ、つまりはそういうことを誰かに指摘してもらわないとわからない人間が増えてきた結果なのではないかと思った。

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気高いインディアン

『手塚治虫医療短編集』読了。「原人イシの物語」がしみじみと心に沁みた。

「イシ」で検索すると、Wikipedia に写真があった。「ヤナ族インディアンのうち、ヤヒ族の最後の人物」で「最後の生粋のネイティブ・アメリカンであった」とされている。1911年8月29日に飢え死に寸前のところを保護され、人類学者のクローバー博士とウォータマンによって研究された。その実話がもとになったマンガである。

マンガではウォータマンに扮するのはロックだ。このウォータマンはイシを下等な人間として、ことあるごとに見下すような態度を取る(これは史実ではなく手塚のフィクションだろう)。しかしイシは動じず、堂々とした態度を崩さない。

――彼が車や高層ビルを見てキモをつぶしたかい? いや ケロリとしていったよ。
「私のふるさとのガケのほうがもっと高い」とね。――

ウォータマンはイシを生まれ故郷の山地へ連れていく。そこで感動的な出来事があり、ウォータマンはイシの誇り高さと優しさに打たれ、彼のことを好きになり擁護するようになる。

原始と文明、気高さと野卑。人間の質とか格とかいうのは文明の程度なんかとは全然関係ないのだと思い知らされる話だ。結核に罹って死の床にあるイシに対して、ウォータマン(ロック)が泣きながら「死んじゃだめだ!!」というシーンが良い。白人に絶滅させられたインディアンの最後の一人が、白人に惜しまれながら死んでいったのは、せめてもの救いだったと思う。

実際のイシの最期の言葉は、「あなたは居なさい、ぼくは行く」だったそうだ。

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潔い言葉

『職人』(永六輔著)読了。これはもう何度読んだかわからない。なんかこう……シャキッとしたい気分のときに引っ張り出して読む。著者が出会ったいろんな職人さんが言った、何気ないけれども一本芯の通った言葉が集められている。

「人間、<出世したか><しないか>ではありません。
 <いやしいか><いやしくないか>ですね」

「もらった金と稼いだ金は、はっきり分けとかないといけないよ。
 何だかわからない金は、もらっちゃいけねェんだ」

こんなことをスパッと言い切れる人ってスゴイと思う。今の政治家や官僚なんて誰もこんなこと言えない、きっと。

買い物についておもしろいことが書いてある。著者が河井寛次郎と一緒に京都清水を歩いていたときのこと。古道具屋の店先に、いいなと思う蕎麦猪口があった。河井先生が「いくらなら買う?」。著者は「一万円でも買う」。著者が一人で店に入って聞いてみると「五百円です」とのこと。喜んで買って出たら、河井先生に叱られた。「自分で一万円で買うって言った以上、一万円で買わなきゃいけない。買い物ってそういうもんなんだ」。つまり、いいなと思ったら、それはそのモノに負けたということ。負けた以上は勝った相手に礼を尽くさなくてはいけない。一万円だと言ったのなら一万円で買うのが礼儀だ、ということだ。

私には骨董の趣味はないが、普段の買い物でもこの話はときどき思い出す。街中の道路端に野菜の無人スタンド(百円均一)があって、そこに私の価値基準では200円分ものブロッコリーを発見したとき、など。迷わず200円を錆びた缶に入れる。普通に考えれば損なのだが、何故かサッパリとした満足感がある。思い通りの買い物ができた、ということなのだろうな。何でも値切れば勝ちというものではないし、いつでも安物ばかりを買っていてよいものでもない。モノを見る力や感性をちゃんと養って、自分なりの価値基準を持つことは大事だ。買い物に限らず、生き方ってのはそういうことだよな、と思う。

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諸悪莫作 (しょあくまくさ)

『仏教が好き!』(河合隼雄、中沢新一共著)読了。二人の対談集である。タイトルのとっつきやすさに惹かれて買ったら、まぁ難しいのなんの!! 途中で2、3回投げ出しそうになったが、なんだか心惹かれるものがあって、判らないところはそのままにとにかく読了。とても感想を書けるほどではないので、「仏教は宗教ではなく「知恵」(「智慧」と記したいところだ)を説いた非宗教である」とだけ覚え書きをしておこう。

読み終えてたまたまテレビをつけたら、NHK教育で「こころの時代~宗教・人生~『道元のことば~正法眼蔵随聞記にきく~ 我執を離れる(3)』」なんてのをやっていた。NHK教育は時として非常に面白い番組をやっていて飽きない。その中に出てきた言葉。

むかし白居易が道林禅師(鳥巣禅師)に「仏法の大意とは何か」と問うた。答えは「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」――すなわち「諸々の悪事を成すことなく、率先して多くの善行をなせば、自ずからその心は浄らかになる。これが諸仏の教えである」と。白居易が「そんなことは三歳の子どもでも知っている」と言うと、「実行することは八十歳の翁でも難しい」と。

神仏が説く教えなんて、教えてもらわなくてもたいていの人間はちゃんとわかっているのだ。ただそれを実行するのが難しいだけ。仏教は、それを実行するために自分なりに智慧を持ちなさい、と言っているのだと思う。

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図書館という迷宮

『ふしぎな図書館』(村上春樹著 佐々木マキイラスト)読了。既に文庫化もされているが、大好きな作家さんの、それも図書館をテーマにしたものだったから、思い切ってハードカバーを買った。

このストーリーに意味を求めてはいけないんだろうな。はっきり言って、何が書かれているのかわからない。たぶんそれを考えるのが読者の役目であって、100人の読者がいれば100通りの解釈があるのだろう。そういう意味で、なんだかすごい本だ(笑)。

元図書館司書の目で読むと、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『バベルの図書館』をまず思い出した。同じ六角形をしたたくさんの閲覧室、すべて同じ体裁でページ数も字数も決められた膨大な図書。ここには宇宙の全てが詰まっている。過去も未来も、そして謎も……。

さらに思い出すのはウンベルト・エーコの『薔薇の名前』だ。知識が増えれば増えるほど謎が深まるという、身体が捩れそうな想いをする作品らしいが(注:非常に悔しいことに、私はこの本をまったくと言って良いほど理解できなかった。字面だけは最後まで追ったのだが。いつかリベンジしてやりたいと思う最有力候補作品である。ショーン・コネリーの映画は観た。何故か「イエスが持っていた財布はイエスの私有財産と言えるかどうか」という議題だけがやたらと印象に残っている)、これも図書館(=知)を題材にしたミステリだ。

ボルヘス、エーコ、村上春樹……、それぞれが知の迷宮に迷い込む楽しさを語ってくれている感じだ。果たしてそういう読み方が正しいのかどうか、わからないのだけれど。

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『オタクはすでに死んでいる』

『オタクはすでに死んでいる』(岡田斗司夫著)読了。不肖わかばはオタクなのかどうなのか、これを読めば判るかなと思いながら読んだのだが、話がコアすぎるのか、門外漢の私には結局よく判らなかった(笑)。……ので、もう一度読むつもり(爆)。

おおまかな趣旨としては、岡田氏をはじめとするオタクと、いまどきのオタクとはちょっと違う、と。それは「第1世代-貴族主義的オタク」(←岡田氏はここに入る)、「第2世代-エリート主義的オタク」「第3世代-自分主義的オタク」という世代の違いである、と。

面白いなと思ったのは、本当の(と言うと語弊があるかもしれないが、少なくとも岡田氏の周りの)オタクたちは「萌え~」などとは決して言わないということだった。「萌え」はオタクの必須条件ではないということらしい。

ところが、「萌え」たのだから自分もオタクなんだと思う輩が大挙してオタクを自称し始めたもんだから、それまでの何となく世間とは隔てられていたオタクという共同幻想体はその存在意義をなくしてしまって、今や終焉を迎えているのだと、まあ乱暴に要約するとこんなところだろうか。

全体として、昔のオタクは頭が良かったのに今は……というような懐古的論調が目立つのは、岡田氏があまりにも裾野が広がりすぎて且つバベルの塔のようにオタク同士の話が通じず理解し合おうともしない今のオタク世界を、喜ぶべきものとしては思っていないからなのだろう(氏の著作を読むのは初めてなのでよくわからないけれども)。「一億総コドモ社会」とか「日本はロリコンの国」とか、否定的な記述が目立つ。でも多分、オタクを世間に認知させようとした氏の活発な働きかけなどもあって(なにしろ岡田氏はオタキングだったのだ)、この現状もあるのではないのかな? 美少女ロリコン路線がはびこってしまったのは氏の計算違いであったかもしれないけれども。

まあ何はともあれ、もう一度読まないことにはわかったようでわからないことが多すぎる。しかし「大人とコドモ」「世相の反映」などというキーワードを頭に置いて読むと、社会時評としても面白い。

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『怪盗グリフィン、絶体絶命』

『怪盗グリフィン、絶体絶命』(法月綸太郎著)読了。講談社ミステリーランドの中の1冊で、ジュヴナイルではあるが大人も充分楽しめる。新本格派ミステリ界で活躍している作家さんだから、「子供向け? 怪盗? 大丈夫か?」と心配しながら読み始めたが、杞憂に終わった。面白い。むかし怪盗ルパンの活躍に胸躍らしたように、いやもう一気に読んでしまった。

文体が翻訳物ふうなのにまず惹き込まれる。登場人物の会話もどこかバタ臭い。エラリー・クイーンがジュヴナイルを書いていてそれを法月さんが翻訳したのだと言われても、私なら一片の疑いも持たなかっただろう。舞台は現代アメリカ(およびカリブ海のボコノン島)で、グリフィンはニューヨーカーだから、古典的でロマンチックな怪盗ルパンというよりは、もうちょっと現代的でスピーディーな怪盗セイントに近い感じかな。それにプラス、ビジネスライクというようなドライな味付けもされているような気がする。

構成は大きく二つに分かれる。メトロポリタン美術館にあるゴッホの自画像の真贋を巡る一件と、ボコノン島の権力者が持つ人形を争奪する一件だ。ゴッホの件は一応伏線ということになるのだろうが、どっちが本物か、という謎が全編を通して横溢し、やがて最後に二つの事件が合わさって見事に一件落着となる。

終盤での人形を巡る心理戦は手に汗を握る。大統領と将軍が持つ人形は入れ替わっているのか、それとも……? 人形にかけられた呪いは本当に効くのか、それともただのまやかしか……? 派手な立ち回りは少ないが、権力者の思惑と土着の信仰がうまく融合されて非常にスリリングで先が読めない展開となっている。どんでん返しに次ぐどんでん返し。このあたりは法月さんの面目躍如という趣きで非常に面白かった。

「あるべきものを、あるべき場所に」という信条と、「怪盗グリフィンに不可能はない」という絶対の自信を持つ怪盗グリフィン。続いての活躍を読みたいところだが、なにしろ遅筆で知られた作家さんだからなぁ……。

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『うちのパパが言うことには』

『うちのパパが言うことには』(重松清著)読了。角川文庫版の表紙に使われているのは幼い頃の著者が父親と共に写っているモノクロ写真である。2人が取っているのは当時大流行した『おそ松くん』からイヤミ氏の「シェー」のポーズだ。裏表紙にはこうある。「高度成長期に産湯を使った。テレビのヒーローに正義と勇気を教わった。アポロと万博が見せてくれた明るい未来を信じていても、水爆とノストラダムスの大予言はやっぱり怖かった。そんな1970年代型少年は、やがて夫になり、父親になって、不惑を超えた。たとえヒーローにはなれずじまいでも、生きていくのはあんがい悪くない――。著者自らの歩みをたどりつつ、「いま」と「あの頃」を見つめて綴った、珠玉のエッセイ集。 」

著者は1963年3月生まれというから、私より3つ年下に当たる。著者には記憶がないという『鉄腕アトム』を私は覚えている、という程度の時間差はあるが、ほぼ同じ時間を生きてきた人間として、この本に書かれていることは皆懐かしい。そしてもっとも共感できたのは次の部分だった。

「ノストラダムスの大予言が唱えた地球滅亡の一九九九年七月まで、あと何年。
 二十一世紀まで、あと何年。
 (中略)
 『宇宙戦艦ヤマト』の各回の終わりに掲げられる「地球滅亡まであと○○日」のフレーズが好きで好きでたまらなかった。
 (中略)
 カウントダウンのタネがなくなってから、初めて気づいた。ハッピーエンドかどうかはともかくとしても、「終わり」が見えている状態というのは、あんがい楽だったんじゃないか。
 二十一世紀になって、子どもの頃に思い描いていたのよりずっとガキっぽい四十歳になろうとしているいま、目の前に茫洋と広がる「終わりまでの日々」の果てしなさに、ぼくはいささか困惑しているのだ。」
               --これでいいのだ より--

私が40歳を迎えたときに感じていたのがまさにコレだった。私の場合はそれがちょうどミレニアムとも重なっていたものだから、これが最後のクッキリとした境目! という意識がとても強かった。いったい自分はこれまでに何をやってきたのか(何もできていない)というような、はっきりとした正体はわからないけれどももはや取り返しだけはつかないというような焦りを感じていた。あとはもう自分が終わるまでのカウントダウンしか残されていないではないかと思った。重松氏の「いささか困惑」というのよりは、人間の出来が悪い分だけ「切実な困惑」だったと思う。以降、実際に、何となくどこかでブレーキがかかったようなメリハリのない生活で馬齢だけを重ねている感じだ。

重松氏は「かつてジャイアンだった奴」を登場させ、「元ガキ大将が最後の最後で一発逆転してオレたちの世界をもう一度つくりあげる」小説を書いてみたいそうだ。子ども時代の私はジャイアンではなくてのび太だったけれど、明るい未来を信じていたあの頃を思い出せるなら、その小説、是非とも読んでみたいと思う。まだ間に合う、と思いたい。「何に」間に合うのかは自分でもわからないけれども。このエッセイの最後の文章はこうだ。

「<何がほしいんだ>――その答えは、いまもまだ、わからない。」

昭和30年代後半に生まれた方には、おすすめの1冊。

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逃げ方去り方などを考える

『「世逃げ」のすすめ』(ひろさちや著)読了。以前読んだベストセラー『「狂い」のすすめ』の第2弾で、世間の物差しとは違う物差しを持つことによって、精神的に世間から逃げましょうという「夜逃げ」ならぬ「世逃げ」の勧めだ。書かれていることは、著者がこれまでにも様々な著作で主張してきたことが多く、あまり目新しさはなかった。しかし、入院中の義父の傍で細切れに読むのにちょうど適していて、あれやこれやと思いを巡らしながらいつの間にか読み終えていた。

ところで、この本に書かれていたのは「出家」ではなく在家のままで「出世間(しゅつ・せけん)」する方法であるが、読んでいてインドの「四住期」という思想を思い出した。「学生期(がくしょうき)」「家住期(かじゅうき)」「林棲期(りんせいき。林住期、林間期とも)」「遊行期(ゆぎょうき)」の4つで、それぞれが約20年である。20歳までは勉学に勤しみ、40歳までは家族とともに暮らし、60歳までは林の中で己を見つめて暮らし(宗教的祭祀だけは行なうらしい)、それ以降は無一物になって放浪の旅に出るというもの。もともとはバラモンの教えであったが、奇しくもブッダの人生もそれぞれの年数こそ違え同じような経過を辿っている。思索することを重んじれば自然にこのようになるということか。ともかく、人生の後半では「出家」同然の生き方をするのが理想的だと、古代インド人は考えてきたらしい。

なんと贅沢な生き方だろうかと思う。学問をして自分を高め、仕事をして子を儲けて家族と愛のある暮らしをし、己を見つめる長い時間を得て、最後は何もかも捨てて自然に還る。林棲期、遊行期には稼ぎがないわけだが、インドには相互扶助というのかそういう人達への施しを当然とする思想があるとも聞いたことがある。家も仕事も捨てられず、精神的に「出世間」をしなければやっていかれない現代日本がなんとも貧相なものに思えてしまう。

私自身の歳に照らし合わせてみれば、林棲期の半ばということになる。林の中にはいないけれども、ちょうど40歳以降は親の介護等を通じて自分の来しかた行く末などをぼんやり考えてきたように思う。しかし世間から逃げることはできていない。60歳過ぎたら、うまいことこの世界とオサラバできるようなおばあさんになっていかれたら良いな、などと思う。

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『虫眼とアニ眼』

『虫眼とアニ眼』(養老孟司 宮崎駿共著)読了。

う~ん、少々馴れ合い気味の対談集だ(笑)。養老先生はいつものとおりだし、宮崎さんについてはあまり興味がないので、アニメ作りに賭ける想いを力説されてもいまいちピンと来ない。『もののけ姫』も『千と千尋の神隠し』もよくわからなかったしなぁ(ごめんなさい)。

ただこの本を読んで、どうして私が宮崎さんの描くものがわからないのか、その理由がわかった。この本は全体として、脳だけが発達した人間が作り出した現代社会と自然が失われていくことの関わりについて書かれているのだが、宮崎さんがアニメで描こうとしているのが自然との共生ということならば、田舎暮らしの私としては「そんなの当然じゃん」という感想しか出てこないからなのである。都会の子なら『もののけ姫』を観て自然の驚異や恐ろしさを初めて知るのかもしれないが、石や草にまで神が宿ると言われるような風土で生まれ育った者にとっては、自然を敬うのは最初からごく当たり前のことなのだ。だから『もののけ姫』というのは、都会人(あるいは、昔はそうではなかったが今は都会人になった人)が都会人のために作った作品という印象がある。田舎者の目から観てそこに何かそれ以上の意味を探ろうとするのは、野暮で無駄なことなんだろう、きっと。

(↑書きながら、私の感想は「脳と身体」「都市と田舎」という対立項を説く養老先生の説を追認する結果になっていることに気付いた。うん、たぶんそういうことだ。←自分にだけわかる文章スミマセン。)

ところで、本の中で1ヶ所だけ手塚治虫に言及されている部分があったので抜粋しておく。このところ決してそれが目的で本を選んでいるわけではないのに、突然手塚治虫の名前が出てきてびっくりすることが続いている。誰もがあまねくその作品を読んでいて、共通認識を形成するのに都合のよい例なのだろう。

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養老:そういえばさっき人間嫌いって話がでたでしょう。ぼく、手塚さんのほうがよっぽど人間嫌いだと思う。彼、ものすごくはっきりしているでしょう。主人公の選び方とか。人間はとにかく変な人しか出てきませんよ。あとロボットでしょう。『どろろ』はからだの部分がなんにもないし、『ブラック・ジャック』はツギハギだらけだし、とにかく普通の人は出てこない。あのぐらい人間嫌いの作家はいないと思うけれど。

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手塚治虫が「人間嫌い」だったのかどうかについては私には判断がつかない。そうではないような気がするけれども、反論するほどの根拠を持たない。しかし、ロボットや異形の者が多数出てくることについては、一昨日触れた内田樹の「現象の図と地を入れ替えて考える」という指摘で説明がつくように思う。BJがツギハギなのは、人を見た目で判断したり偏見を持ったりすることへの問題提起であり反逆である。

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『街場の現代思想』

『街場の現代思想』(内田樹著)読了。おもしろかった。この著者の著作は何冊か読んだが、ハズレがない。

印象に残った文章を3箇所ばかり、以下に抜粋してみる。

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「教養」というのは、「生(なま)」の知識や情報のことではない。そうではなくて、知識や情報を整序したり、統御したり、操作したりする「仕方」のことである。
 絵画的な比喩を使って言えば、「教養」とは、「古今東西すべての知識」を網羅した巨大な図書館があった場合(ヘーゲル=ボルヘス的な幻影だ)、自分の持っている知識や情報が、その巨大な図書館の、どの棟の、どの階の、どの書棚に、どんな分類項目名をつけられて、どんな本と並んで置いてあるのかを想像することのできる能力のことである。
   --第1章 文化資本主義の時代 「越すに越されぬ、バカの壁」より--

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 想像力というのは、「現実には見たことも聞いたこともないもの」を思い描く力である。そのためには、自分がいま見ているものは「見せられているもの」ではないのか、自分が想像できるものは「想像可能なものとして制度的に与えられているもの」ではないのかという疑念を抱き、そのフレームの「外部」に向けて必死にあがき出ようとする志向がなくてはすまされない。想像力を発揮するというのは、「奔放な空想を享受すること」ではなく、「自分が『奔放な空想』だと思っているものの貧しさと限界を気づかうこと」である。
   --第3章 街場の常識 第15回 想像力と倫理について より--

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 手塚治虫が天才であることに異論のある人はいない。だが、彼が「どのように」天才であるかについてはさまざまな解釈があって必ずしも意見は一致しない。私は手塚の天才性はなによりもその「さかさまのストーリーテリング」にあると考えている。手塚は重大な問題については、ほとんどつねに「現象の図と地を入れ替えて考える」人だったからである。
(中略)
 ---『鉄腕アトム』で「人間性とは何か?」という問いに答えるために「人間ならざるもの」を主人公にしたように、「文明とは何か?」を考えるためにジャングルの生き物たちを主人公にしたように(『ジャングル大帝』)、「セックスとは何か?」に答えるために、性を失った人間を主人公にしたように(『人間ども集れ!』)、「生きることの意味は?」という問いに答えるために、手塚は「死ぬことを禁じられた人間たち」を連作の主人公とするケース・スタディを試みた。それが『火の鳥』である。
   --「あとがき」、あるいは「生きることの愉しさ」について より--

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この本全体についての感想を書くのはなかなか難しいのだが、この人の本を読むたびに感じるのは、それが何についてであれ「気付く」ことの大切さと愉しさだ。気付かないままでも人生そこそこ生きてはいかれるけれども、気付いた後の自分は気付かないでいたときの自分とは全然違うものになっている。内田樹はそこんところの面白さを伝えてくれているような気がする。

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新しい時代小説

昨日買ってきた『密命』を読み始めた。時代小説というより剣豪小説というのだろうか。昼行灯のようにぼーっとしている男が実は……という、変身ヒーローのような楽しさもあって、面白い。

佐伯泰英を読んだのは初めてだ(と思う)。書店には彼のいろんな作品が平積みされていて、人気作家さんなのだろうとは思っていたが今まで手が出ないでいた。たぶん、私の中で時代小説と言えば司馬遼太郎、池波正太郎、藤沢周平、そして柴田錬三郎と隆慶一郎という BEST 5 がキッチリ決まっているからなのだろう。読んでしまったらハマるかもしれないという怖さのようなものを感じていたのかもしれない。

まだ第一章を読んだだけなので何とも言えない状況ではあるが、のめり込むほど深みに嵌ることはなさそうな感じだ。面白そうなストーリーなのでたぶんこのシリーズは全巻読むのではないかと思う(笑)。でも他の作品まではどうかな、というところ。

ところで佐伯泰英について「ポスト藤沢周平」という謳い文句を目にしたが、それは全然違うと思った。同じ市井モノでも文体とか行間から滲み出る情感の質が違う。他の作家と比べても、司馬遼太郎のような歴史小説の趣きがあるわけではないし、池波正太郎のように特徴的な文体でもない。柴錬ほどニヒルでもないし、破天荒さは隆慶一郎に通じるかとも思ったが文体が何しろ違う。読みやすいエンタテインメントに徹した新しい大衆時代小説、という感じだ。   

私は一言一句をなおざりにしないカッチリした文章と、そこから醸し出されるどこかストイックな世界観に酔うのが好きなので、私の波長とはちょっとズレているということなのだろう。特に、女性の台詞があまりにもくだけた現代風なのに違和感がある。そのままドラマの台詞になりそうで……、ああ、だからTVドラマ化には向いているのだろうな。現代語の台詞による時代小説、という分野があるとすれば、それだ。逆に言えば、ちょんまげをつけた現代劇という趣き。たぶん若い人達にはウケると思う。

さて、第二章を読もうかね。

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(備忘録080430)

本日のお買い物。
『人生がラクになる心の「立ち直り」術』(斎藤茂太著)
『密命 1見参!寒月霞斬り』(佐伯泰英著)
『密命 2弦月三十二人斬り』(同上)
 (↑TVドラマ化されたらしい。こちらでは観られないのが悔しくて、原作を買ってしまった。とりあえず2冊。こういうの、読み出すとハマるんだよなぁ。)

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(備忘録080415)

ベストセラーだった当時は読まなかった『バカの壁』(養老孟司著)を今ごろ読んでいる。あんまりベストセラーとか「○○賞受賞作品」とかいう本には食指が動かないという天邪鬼な性格なもので。しかし養老氏は嫌いではないし、もうほとぼりも冷めた頃なのでこの間 B○○K ○FF で買ってきた。内容は養老氏の他の著作と被るところもあるが、面白い。後半ちょっと焦点がぼやけてきた印象があるが、さてどうなるか。あと少しなので、読み終えてしまいたい。

同時進行で読んでいるのは『新・夢十夜』(芦原すなお著)と『笑うカイチュウ』(藤田紘一郎著)(←これは再読)。

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粋でイナセな盗っ人たち

『天切り松闇がたり 第4巻 昭和侠盗伝』(浅田次郎著)読了。一度読んだら癖になるこのシリーズ。大江戸以来の夜盗の華「天切り」の芸を受け継ぐ松蔵の闇がたりも、とうとう時代が昭和に入った。満州だ支那だと国を挙げての泥棒稼業が横行するきな臭いご時世を、目細の安一家が駆け抜ける。

簡単にこの一家の面々を紹介すると、まずは「目細の安」こと安吉親分。仕立て屋銀次の実質的な後継者で、財布の中身だけを抜き取る中抜きの名人だ。彼の手下には、説教強盗の「寅弥」、天切り強盗の「黄不動の栄治」、百面相の詐欺師「書生常」、美人掏摸の「おこん」という錚々たるメンバーがいる。そして九つの歳からこの一家に身を置いて栄治兄ィから天切りの芸を受け継いだ我らが「天切り松」。

松は平成の時代まで生き残り、今では留置場や警察にふらりと現れて、六尺四方にしか届かぬという盗ッ人の声音“闇がたり”で一家の活躍を語ってみせる。彼が話し始めると、留置人だけでなく看守から署長まで人々が黒山のように集ってきて聞き入るのだ。

このシリーズの魅力は、なんといっても、一家の面々の粋でイナセな生き様にある。メンバーそれぞれに得意分野があり性格も違うのだが、その美学は共通している。盗みはすれども非道はしない。決して弱い者からは盗まない。盗られても困らないようなところからだけ頂戴する。おてんとうさまに顔向けのできないような仕事はしない。松の語りを聴いていると、月光に濡れ濡れと光る甍の上に全身黒装束に頬被りでスックと立つ、大江戸以来の盗っ人のイメージがわき上がる。まるで一幕の芝居を観ているようだ。

「粋でイナセ」とはどういうことか。この本の解説を書いていて、小劇場でこの物語を朗読しているすまけいさんがこう書いている。「『やせ我慢』こそが、かつて日本人の気質の美しさや上品さを支えていたと思う」。そうなのだ。彼らは一様にストイックなのだ。自分の欲望のままに行動するのではなく、自分である一線を定めてそれを越えないように決めているフシがある。そしてその一線を決めるのに一切の妥協がない。おそらくそれが「粋でイナセ」に繋がっているのではないかと私は思う。

良いものは良い。悪いことは悪い。今の世の中ではそんな当たり前のことさえもがあやふやだ。誰もが「悪いことは悪いんだけど、そうなってしまった社会にも問題はあるし……」なんて、一見物分りのよさそうな、しかし屁のつっぱりにもならないような考え方をしている。そんな呆けた頭に、彼らのストイックな、「粋でイナセ」な生き様がなんとも眩しい。

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『「痴呆老人」は何を見ているか』

母はいったいどんな世界にいるのだろうと思う。思考能力が若干衰えてはいるものの、日常会話は支障なくできるし、判断能力もまあまあまともだ。電話で用件だけ話している分には、母が痴呆症であることは相手にわからないかもしれない。しかし、受話器を置いた途端に、母は電話で話をしていたことを忘れている。痴呆症とはそういうものだ。

新しい記憶ができず、今までに蓄積された記憶も少しずつ失われていく。大昔のことは覚えているが、近い過去の記憶が無い。入力自体が行なわれていないのか、出力ができないだけなのか? それともそこには本人による記憶の選別が行なわれているのか? そんなことを考えながら、本書を読んだ。

『「痴呆老人」は何を見ているか』(大井玄著)読了。読了……とは書いたものの、内容が理解できたという自信は無い。読んでいて意味が理解できず、数行あるいはその章全体を読み返すという作業を繰り返しながらどうにか最後まで辿り着いたが、引用も多く、関係分野も多岐にわたり、各章間のフィードバックも多いため、頭の中が整理しきれていない。それでも「なるほど」と思う新しい知見が多々あったので、忘れないうちにメモしておこうと思う。内容は次のとおり。

第1章 わたしと認知症
第2章 「痴呆」と文化差
第3章 コミュニケーションという方法論
第4章 環境と認識をめぐって
第5章 「私」とは何か
第6章 「私」の人格
第7章 現代の社会と生存戦略
最終章 日本人の「私」

著者は臨床医としての立場から終末期医療全般に取り組んでいる人である。本書も最初は著者が実際に見聞した認知症に関する話題から始まり、症例の紹介も興味深いのだが、それはやがて認識論、比較文化論に及び、最後は現代日本社会が抱える問題にまでメスを入れる内容となっている。全体として、哲学書を読んでいる印象だ。

認知症の病理学的解明などというものではなく、従って認知症を治そうというような取り組みが書かれた医学書ではない。この本に指摘されているのは、彼らの症例から見えてくるものが決して彼ら特有のものではなく、全ての人間にも理解できる、また全ての人間がそうなる可能性のある機序によるものだということだ。このときもっとも重要なキーワードとなるのは「私」と「つながり」だと著者は説く。

認知機能の低下=外界とのつながりが失われていくこと。
その不安が異常行動を取らせることもある。

医学的には立派な認知症患者であるはずの老人が、ある環境下ではごく普通の生活を送っている例が紹介されている。
「……敬老意識が強く保存され、実際に老人があたたかく看護され尊敬されている土地では、老人に精神的葛藤がなく、たとえ器質的な変化が脳におこっても、この人たちにうつ状態や、幻覚妄想状態は惹起されることなく、単純な痴呆だけにとどまると考えられるのである」

これはまさに目からウロコが落ちる指摘だと思った。アルツハイマーという病気が認知されてから急にアルツハイマー患者が増えたという事実とも相俟って、つまり、医学的には病気に分類されてしまう老人でも、環境さえ整っていれば普通の生活が送れるということだ。一時代前の日本、核家族化する前の日本なら、「おばあちゃん、最近ちょっと呆けてきたわね」と言いつつ自宅介護で済んでいた問題だったのだろうと思う。現代の社会環境が認知症患者を作り出しているのだ。

また第7章では「ひきこもり」について触れられている。これにも社会環境や教育・育児の側面から明快な分析がなされている。認知症、ひきこもり、それらにどう対処していくのか、これは現代日本人に課せられた大きな問題であると再認識した。

私も母とどう向き合っていくか、考えていかなくてはならないと思った。道は、あるはずだ。

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『ホームレス中学生』

『ホームレス中学生』(田村裕著)読了。

父親の「解散!」の一声で一家離散の憂き目に遭った田村少年。その困窮生活を知恵と工夫で乗り切る『十五少年漂流記』のような物語……かと思っていたら、案に相違して、テーマは「亡き母への尽きせぬ想い」だった。飾らない言葉で、素直に真面目に綴られている。

小学生のときに母を亡くした田村少年が、その現実を受け入れられず、ずっとお母さんは帰ってくると信じていたこと。親切にしてくれた近所のおばさんが亡くなった高校生のときに、初めて「死」というものを理解し、お母さんとはもう会えないとわかって泣いたこと。そして自分が生きる意味を見失ったこと。そして恩師との出会い……。このあたりの心情の流れは、まるでテレビドラマのようにドラマチックである。こんな人生があるんだなぁ。

ちょうど今夜、『金スマ SP』でこの小説の再現ドラマが放送されていた。小説では所々に挿入されている思わず笑ってしまうエピソードがすっかり省略されていた。「泣いてもらいます」という制作上の意図が見え隠れしているようで、逆に安っぽく感じた。小説のほうが骨太で淡々としているだけリアルで泣ける。

映画化もされるらしく、300万部を狙っているとかいないとか。田村少年の周りにいた人達の優しさと暖かさが皆に伝わればよいなぁと思う1冊。

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音楽が好きな死神

『死神の精度』(伊坂幸太郎著)読了。久々に上等のエンタテインメントに巡り合ったという感じ。文句なしに面白かった。「死神の精度」「死神と藤田」「吹雪に死神」「恋愛で死神」「旅路を死神」「死神対老女」の6編。

「千葉」は正真正銘の死神である。と言っても、大きな首狩り鎌を持って実際に人の命を奪う死神ではない。死神社会における情報部というところに身を置いて、どこか別の部署が「この人間に死を与える」と判断したときに、その人間に7日間接触してその死が「可」か「見送り」かを調査する仕事をしている。彼が「可」と連絡すれば、8日目にその人間は死ぬ。

どうやら死神は死ぬことがないようで、千葉はもう何千年もこの仕事をしているようだ。しかしその割りには、何故この人間が死ぬ運命に選ばれたのかなどという仕組みは知らないらしい。それは他の部署の管轄であり、彼はただ淡々と自分の仕事をこなしているだけである。中にはろくすっぽ調査もしないで「可」の連絡をする同僚もいるが、彼は真面目に仕事をしている。まるで人間社会と同じで、笑ってしまう。

音楽が好きで、仕事をしているときはいつも雨で、クールなのだがどこかズレている死神が、調査対象と過ごす最後の7日間。千葉は対象と接触するとき、その人と親しくなるのに一番ふさわしい外見、年齢に変身する。だから死神というのは本来はどうやら人間とは違った風貌をしているものらしい。

まさか自分がもうすぐ死ぬなんて思ってもいない人達が千葉に見せる様々な人間模様。恋愛小説風あり、ミステリ仕立てあり、任侠映画風あり、ロード・ノベル風あり、多彩なシチュエーションが楽しめるが、人はその一生の終わりに死神と親しくなっているという設定自体が、最高に楽しいメルヘンだ。クールだけれど、ドライではない。たいてい千葉は「可」の判定を下すけれども、読んでいて気持ちがほっこりと暖かくなるのが不思議だ。

一話完結だが、最後の「死神対老女」に仕掛けがある。6編まとめて長編とも読めるので、これから読まれる方には、順番どおり読むことをお勧めする。

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『犯罪ホロスコープ1』

本日のお買い物
『死神の精度』伊坂幸太郎著
『六点鐘は二度鳴る』井沢元彦著

時間が無くて内容も見ずに平積みされているところから2冊引っ掴んでレジへ向かったのだが、いま見たら、織田信長が探偵役となる短編集『六点鐘は二度鳴る』は、以前読んだ『修道士の首』と内容が大幅に重複していた。アッチョンブリケ……。

『犯罪ホロスコープ1 六人の女王の問題』(法月綸太郎著)読了。黄道十二星座にちなんだ本格ミステリだが、後期クイーン問題に悩める法月綸太郎はそこにはおらず、パズル感覚で犯人当てを楽しめる短編集に仕上がっている。内容は以下のとおり。

〔牡羊座〕ギリシャ羊の秘密
〔牡牛座〕六人の女王の問題
〔双子座〕ゼウスの息子たち
〔蟹 座〕ヒュドラ第十の首
〔獅子座〕鏡の中のライオン
〔乙女座〕冥府に囚われた娘

サブタイトルが皆8文字というどうでもよい(笑)コダワリを初めとして、どれも緻密に計算され尽くしたミステリだ。それぞれ最初に該当の星座にまつわる神話が紹介され、本編ではその神話を彷彿とさせる殺人事件が起こる。見立て殺人ではないので、見ようによっては「ここまでやるか」というくらいコジツケめいた印象もあるが、短編のこととて登場する人数も少なく、この中に犯人がいるという当てものとしては、これくらい徹底してこだわってもらったほうが面白い。

内容も、アナグラム、『オイラーの三十六士官問題』、歌舞伎、都市伝説、携帯メール等、幅広く触れられていて雑学も増える。最後の「〔乙女座〕冥府に囚われた娘」は記録的に暑かった昨年の夏に相応しい題材で、時事的にもタイムリーだと思う。個人的には「〔双子座〕ゼウスの息子たち」が面白かった。文字通り双子が鍵となる展開で、絶対犯人を当ててやろうと意気込んでいたのだが、見事にしてやられた。頭が硬くなっていることをつくづく思い知らされる。

残りの6星座も早いとこ出版してほしいものだが、なにしろ遅筆で知られる法月氏のこと、いつになるやら。ちなみに法月氏、私の高校の後輩に当たる。和製エラリー・クイーンということもあって、クイーンファンの私には親近感を覚える作家だ。デビュー作以来、全作品読んでいる……かもしれない。あるツテでサインを頂けるはずだったのだが、あの話はどうなったのでしょうツテさん?

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(備忘録080312)

『ホーム○ス中学生』が200万部を突破したそうだ。かく言う私も買った1人ではあるが、初めの数ページを読んだところで中断している。私にとって調子よく波に乗ってスラスラ読める文章と乗れない文章があるとすると、これは後者の方。決して下手ではないのだが、上手く乗れない。ちょっと時間を置いてから読んでみようと思う。

あと気になっている本は伊坂幸太郎の『死神の精度』。次に買うのはこの本の予定。

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『音の細道』

『音の細道』(群ようこ著)読了。実に久しぶりに読んだ群ようこのエッセイ。幼い頃から現在に至るまでの、音にまつわる思い出のあれこれが綴られている。

群ようこを読んだのは何年ぶりだろう。以前、椎名誠にハマったことがあって、本の雑誌社つながりということで、木村晋介、沢野ひとし、目黒考二、そしてこの群ようこの作品群を読み漁っていた時期がある。その頃読んだ印象とそんなに変わりはなく懐かしく読めたのだが、才気煥発な自由さというものが若干影をひそめた観があるように思った。譲れないものがだんだんと増えていっているような感じ、と言えばよいのか。大人になるってのはそういうことなのかもしれないと、内容に関係ない感想を抱いたりした。でも、気楽に読めて面白いことは面白い。音楽が好きな人にはお勧めできる作品である。

一番最後に「涙の出る歌」という一文があって、「涙そうそう」を聴いていて涙がだだだーっと流れ落ちたと書いてあった。それまで何度聴いても何ともなかったのが、あるとき突然だだだーっとなった経験は私にもある。たぶん誰でも1回や2回はあるのではないかな。その歌が聞こえてきただけで条件反射で泣ける歌というのとは違う。別に悲しいわけでもないのに、だだだーっと……。私の場合、淡谷のり子の「別れのブルース」を聴いたときにそうなった。歌声なのか曲なのか歌詞なのか、何が私をそうさせるのかわからないが、とにかく本当にだだだーっと涙が出た。感動、というのともまた違うような気がする。心の奥のとても深いところで何かを感じたのだろうなぁ、きっと。

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マガジンとサンデー

7時のニュースで見たのだが、「『週刊少年サンデー』(小学館)と『週刊少年マガジン』(講談社)が共同でマンガ誌を発行することが明らかになった」そうだ。まずは『コナン』と『金田一』の過去の名作を掲載するとのこと。マンガ雑誌は10数年前と比べて売り上げ部数が半減しているらしいが、さて売り上げ増の起爆剤となるかどうか。

兄と話していたのだが、男性は少年時代からの愛読雑誌を大人になってもずっと変えないことが多いのだそうだ。その点、女性は年齢に応じた雑誌に次々に移っていく傾向が強いという。私の場合は「りぼん」から「少年チャンピオン」へ行ったところでマンガとは縁が切れたので、よくわからない。『ブラック・ジャック』が掲載されていた頃の「チャンピオン」は絶頂期だったかもしれない。その後「ジャンプ」の時代があったような気がするが、私は「ジャンプ」も「マガジン」も「サンデー」もほとんど読んだことはない。

しかし最近の子ども達は以前よりマンガ雑誌を買わなくなったということなのだろう。ゲームやアニメDVDなんかのほうに興味が移ったのかしらん? なんでもかんでも IT 化されていくのは、なんだか寂しいね。

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宗教と道徳

『梅原猛の授業 宗教』と『梅原猛の授業 道徳』を読んだ。2001~2002年に著者が真言宗設立の中学校で行なった授業の内容を収めたものである。著者が最終的に述べようとしたのは「道徳」についてであるが、「宗教なくして道徳はない」というドストエフスキーの言葉を元に、まずは「宗教」が語られる。このへんのことについては、ココにサワリの部分が書いてあるので参照していただきたい。

この2冊の感想をまとめて書こうと思ったのだが、著者の考えに共感できるところもあればできないところもあり、しかしそれが具体的にどういう点なのかと問われればはっきりとは判らないという、何とももどかしい思いをここ数日している。書評等はネット上でも山ほど見出されるので、ここでは本そのものの感想ではなく、読みながら頭をよぎった様々な思いや疑問等々を書き出してみることにする。

そもそも「道徳」とは何ぞや? と考え出すと、これがまず良く判らない。試しに「道徳」という言葉を英訳してみる。「行動の正しさ」“morality”、「行いの規準」“morals”と出る。どうやら「行動」がキーワードらしい。ちなみに「道徳的」は“moral”、「徳のある」は“virtuous”である。私が「道徳」という言葉に抱いている印象もそういうものだった。いわゆる「礼節ある行動」とか「行儀作法」とかの、対人関係において必要になるものが「道徳」なんじゃないのかと。しかしこれは考えてみれば、孔子の説いた儒教に基くもののように思う。江戸時代の武家社会に採用された行動規範のイメージが、戦前までの「修身」を経てそのまま現代まで受け継がれているような気がする。しかしこの本によれば、儒教もまた宗教なのである。

宗教色を一切排除された教育を受けてきた我々は、宗教と言えば妄信的な信仰として忌避すべきものというイメージを植えつけられているが、そもそも宗教の根幹をなす部分は宗教哲学に分類される哲学の一形態だ。他の宗教については知らないが、少なくとも仏教はそうだ。ブッダは、人生如何に生きるべきかを生涯考え、実行し、説き続けた実践的哲学者である。彼のことを有り難がって拝んだ町の人に、私を拝んだって何にもならないよと言った(と伝えられる)くらい、何かに縋るのではなく自分で考え実行することが大事だと説いた、哲学者なのである。

してみると、後世において似姿(仏像等)が製作されてそれを拝むとか、様々な奇蹟が伝説となって伝えられる等々、超人的存在として崇められるようなことが無ければ、ブッダもソクラテスとかカント達と同じように生身の一哲学者として教科書に載っただろうと思う。ちょっと話が逸れるが、そうして見てきた場合、今の日本の仏教はブッダの説いた仏教哲学とは全然違うものだ。念仏やお題目を唱えれば極楽浄土へ行かれるなどとは、ブッダは一切言っていない。そもそも、あの世について語っていない。それなのに、仏教哲学を離れて、信仰心のみが大きくクローズアップされたのが現代の日本仏教だ。その中で、自ら考え自らを灯明とせよとする実践部分でブッダの教えを受け継いでいるのが、禅宗系の宗派だと言えるのではないかと思う。

「宗教なくして道徳はない」という言葉を考えてみる。前述したように、宗教は元来哲学であるということになると、「哲学なくして道徳はない」と言えるのではないかということになる。しかし多分それは成り立たない。道徳が哲学の範疇ならば、それを覆す新しい哲学が出現すれば道徳もまた変わる可能性がある。道徳とはそう簡単に変わってよいはずのものではなかろう。とすれば、そこには、神なり仏なりの超人的存在が必要なのだと思う。言葉は悪いが、もう有無をも言わせず「つべこべ言うな。こうなのだ」と言える存在が。そしてそれは宗教にしか存在しない。

例えば「人はなぜ殺してはいけないのか」を、宗教抜きに説明できるだろうか? 宗教ならば「神または仏がそう言っているから」の一言で説明できる。これにあれこれと疑問を差し挟む余地はない。宗教とはそういうものだ。しかし宗教抜きでは……説明するのは難しかろう。今の日本の教育ではとにかく宗教色を排除する。ラジオで聞いた話だが、学校で食事の前に「いただきます」を言わせないようにしてくれと親がクレームをつけたという。何故なら、そんなことは宗教がかっている、と。図らずも、この親の姿に、宗教がないことが道徳の欠如に繋がる端的な例を見ることができるが、今の学校はそれに対抗する手段すら無い。ちょうど今日のニュースで、道徳教育に力を入れる旨の教育改革が紹介されていたが、宗教を用いずに道徳教育ができるのか、私は甚だ疑問に思う。

…………少しは、本の内容も書いておかなくてはナ(笑)。著者が言う道徳の重点項目は次のようなものだ。

【してはいけないこと】
・殺してはいけない
・嘘をついてはいけない
・盗みをしてはいけない

【人生をよりよく生きるためにすべきこと】
・努力と創造
・愛と信
・感謝と哀れみ

いわゆる「戒律」である禁止事項は明確に示してあり、やったほうがよいことは広く幅を持たせた書き方がしてある。著者が考える道徳が、最初に書いた「行動の正しさ」“morality”というだけではなく、人生をどうよりよく生きるかを考え実行するものだと判る内容である。

最後に一言。世界史上、大概の戦争には宗教が係わっている。「宗教がなければ文明もない」というドストエフスキーの説から言えば、ひとつの文明が別の文明を滅ぼすことも宗教戦争と言えなくはない。たいていの宗教は「殺すなかれ」と説いているのに、戦争が起こるのは何故だ? 人間が宗教の運用方法を間違えているのだというのが私の持論だが、いつまでたっても宗教を巡る戦争が無くならない、人間は正しく宗教を運用できないという現実は、つくづく哀しいことだと思う。

以上、途中の文章をごっそり削除したりして、論旨がまとまらないままだが、一応読了したメモとしてアップしておく。折に触れ、読み返したい本である。

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『岩波いろはカルタ辞典』

書店に寄ったら「岩波書店 蔵出しコレクション」と銘打ったコーナーが設けてあり、いろいろ欲しいものがあったのだが、とりあえず1冊『岩波いろはカルタ辞典』(時田昌瑞著)3000円+tax を買ってきた。う~む、思わぬ出費。

約400点に及ぶカルタ句に解説とカラー図版が付いている。それぞれの時代を思わせる絵柄を見ているだけでも楽しいが、初めて聞く句もあり、当然そういうのは意味もわからない。

例えば「い」の項には、以下の句が並んでいる。

居食(ゐぐひ)をすれば山でも空し <混交>
砂子(いさご)も遂に巌(いわお)となる <新案>
石臼箸で刺す <たとえ>
石の上にも三年 <たとえ/上方/混交/戦後/現代>
石原で薬罐(やかん)引く <たとえ>
医者の不養生 <新案>
急がば回れ <新案/混交/現代>
一を聞いて十を知る <新案/混交>
一心岩をも通す <混交>
一寸先は闇 <上方/新案>
一石二鳥 <現代>
犬も歩けば棒に当たる <江戸/新案/戦後/現代>
井の中の蛙大海を知らず <混交/新案/戦後/現代>
芋の煮えたもご存知ない <江戸>
いやいや三杯 <上方>
祝いは千年万年 <新案>
鰯の頭も信心から <たとえ/上方>
言わぬは言うに勝る <新案>

Photo 「石原で薬罐(やかん)引く」なんて聞いたこともなかったが、騒々しい声や悪声のたとえだそうだ。「石ころがごろごろしている川原で金属製の空の薬罐を引きずれば、ガラガラと喧しい音を立てることから言われる」らしい。「江戸中期から末期には比較的用いられていた」とあって、カルタにはちょんまげの男が石ころだらけのところをわざわざ薬罐に紐をつけてひっぱり回している様子が描かれている。人々が喧々囂々やっている様を描けばよさそうに思うのだが、何故か本当に石原で薬罐を引いている男が描かれているのが妙に可笑しい。こんなことをする奴ぁ居ない。

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『生首に聞いてみろ』

『生首に聞いてみろ』(法月綸太郎著)読了。「2004年週刊文春ミステリーベスト10」第2位、「2005年このミステリーがすごい!」第1位に選ばれた作品である。

久々に読んだ新本格派のミステリー。いや、法月綸太郎の長編を読んだのも10数年ぶりだ。何しろ寡作な作家だから、次はいつ出るのかと待ちくたびれてしまう。

タイトルがおどろおどろしいのだが(これはたぶん都筑道夫の『なめくじに聞いてみろ』に引っ掛けたのだろう)、このタイトルと、表紙に書かれた“The Gorgon's Look”という言葉は、実に上手く内容を表現している。頭部が切り取られた石膏像と、送り届けられた本物の生首。造形と視線に関する芸術論まで絡めて、物語は進行する。誰もが何かを隠している。誰もが誤解と憶測を繰り返し、巧まずして謎が生まれる。決定的なチャンスを2度も逃がした名探偵・法月綸太郎の汚名挽回なるか。……というような内容なのだが、ネタバレしないで感想を書くのはなかなか難しいナ。

私がファンであるという事実を差っ引いても、なかなか良い出来ではないかと思う。あちこちに散りばめられた大小様々な謎が、最後に全てあるべきところにパチリと収まるのは気持ちよい。実際には起こり得ない事件だと思うが(何故なら、大抵の人間はこの作品に出てくる人物達ほどには頭が働かない)、パズル感覚で読むなら、これは最上級の謎解きである。最終盤で一気に解明、というのではなくて、綸太郎の試行錯誤、思考の過程を追う形で、徐々に謎が明かされていく。

全体として、かなりドライで淡々とした作りである。もはや記憶もかなり薄れたが、過去の作品『頼子のために』などはもっと登場人物の内面描写に重点が置かれていたような気がする。法月綸太郎と言えば和製エラリー・クイーンなのだが、本家クイーンを読むときに感じる怜悧な緻密さに、本作はより近づいているように思った。

携帯電話やインターネットなども謎に組み込まれている。この作品がやがて古典となっていったら、未来の読者はどんなふうに読むのかなぁと、ふと思ったりもした。

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最近、世事に疎くなっている。『魍魎の匣』が映画化されて公開中だということを、きょう初めて知った。もっとも、知ったところで、県内に上映館がないので観られないのだが(前作の実相寺昭雄監督による『姑獲鳥の夏』も観ていない)。しかし宮藤官九郎演ずる久保峻公というのは興味があるなあ。美馬坂幸四郎に柄本明というのもぴったりかも。

シリーズ中もっとも人気が高いと言われる『魍魎の匣』。読むのにもっとも想像力を必要とされるのもこの作品だと思う。魍魎とは「境界」であり「人を惑わすモノ」であり「形はあっても中身はない。何をするのでもない。惑うのは人」というようなモノ。「匣」を巡って輻輳する事件。結末はとてもドラマチックだったように記憶しているが、だいぶん忘れてしまった。榎木津がまだ比較的まともだし、木場のロマンチックな一面にも心和む。暇があったら再読したいと思う一冊だが、ちょっとやそっとの暇では読めないところが難だ。

Photo 『源氏物語』の前に燦然と並んでいるわが家の「京極堂シリーズ」。……あら?『邪魅の雫』がないぞ、どこ行った? ちなみに私が一番好きなのは『鉄鼠の檻』。これはどうかと思うほど……厚い(笑)。でも、私の憑き物も落としてもらったような気がして、非常に気分が良かった作品。

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今年読んだ本

遥か東の都の祭典に思いを馳せながら、きょうは大掃除に邁進……できなかった。きのう、腰をグキッとやっちまって。ああもう、今年はこのまま年越しだ。_| ̄|○ 

近くにちょっと買い物に出たら、横殴りの吹雪。積もってはいなかったのだけれど、腰をかばいつつヨタヨタギクシャクと歩く気分はすっかり八甲田山だった。

さて、今年ももう終わり。今年読んだ本を振り返ってみると……。

冊数だけは近年になく多かったと思う。特に夏頃には再読も含めて手当たり次第に読んでいたから、200冊くらいは読んだのじゃないかな? でもそれが全然頭に入っていない。没頭していたつもりだったが、結局文字だけを追っていたのだと思う。やっぱり心に余裕がないと読書なんかできない。この間に読んだ本たちには、ホント申し訳ないことをした。ごめんよ。

今年の My Best 1 は、内田樹の『疲れすぎて眠れぬ夜のために』--最も信用できる哲学者に学ぶ、仕事・自分・幸福論--。この人の文章は明快で、好きだ。言いたくてもどう言えばよいか分からなかった事柄を、スパッと言い切ってくれる。そうだ、そうなんだよ、と、ストンと納得できるのが気持ちよい。

次点は、養老孟司・玄侑宗久の『脳と魂』。養老先生の博学振りに舌を巻く1冊。べらんめぇ調の喋りも小気味良い。安楽死とか脳死の問題も取り上げられていて、なかなか興味深かった。

その次に、久保寺健彦の『ブラック・ジャック・キッド』を挙げておこう。上2冊とはまったく趣きを異にする小説だが、著者のBJ好きが私には何より嬉しい作品だったから。

あとは、ファンドーリンが活躍するボリス・アクーニンの『リヴァイアサン号殺人事件』が印象に残っている。このシリーズは是非とも全作日本語版を出してほしい。

さて、来年はどんな本に出会えるか、楽しみだ。

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おれは、ブラック・ジャックになりたかった。

一昨日宣言したので、きょうは『ブラック・ジャック・キッド』(久保寺健彦著)の感想を書いてみる。

なにしろ、本文に入る前から笑った小説はこれが初めてだ。「手塚治虫とB・Jに」と献辞の書かれたページをめくると、最初の章のタイトルが「患者はどこだ!」ときた(爆)。BJファンならこの面白さがわかるだろう。記念すべき『ブラック・ジャック』第1話のサブタイトル「医者はどこだ!」のもじりである。

もちろん『BJ』を知らなくても楽しめるだろうが、『BJ』を知っている者には一粒で二度おいしい物語。だから真面目な感想はよそ様におまかせして、以下は一BJファンの目から見た感想ということでひとつよろしく。

内容をごく簡単に書くと、BJに憧れ、身なりや髪型からメス投げ、走り方に至るまでBJその人になりたいと望んだ小学生・織田和也の成長物語だ。前半(小学校3~4年生)の幸せな時代から一転して、後半(5~6年生)では父親の仕事の失敗、母親の失踪、転校、いじめなど、和也を巡る環境にはかなり辛いものがある。それでも和也はBJを「よりどころ」としてそれらのことを乗り越えていく。雄々しく立ち向かって突破していく、というのではなくて、自分の中でそれらの収まりどころを見つけていく、という感じだ。和也の心情を思うとハードな内容なのだが、不思議と暗さを感じない。むしろ、誰もが通り抜けてきたはずなのに今はそういうことがあったことさえ忘れてしまっている 少年期のキラキラした日々に、甘酸っぱい懐かしさを覚えるほうが大きい。

この小説のどこがファンタジーかというと、不思議な少女がひとり出てくるのである。孤独感を募らせる和也が川原へ行くと必ずどこからともなく現れる美少女。名前を訊ねても「好きな名前で呼べ」と言うばかり。ここで和也がどんな名前を思いついたかというと……皆さんもうお判りだろう。「めぐみ」である(笑)。逆に名前を問われて和也が名乗ったのは……「黒男」。「めぐみすと」の私にとっては「めぐみ」「クロオ」と呼び合って遊ぶ二人がタマラナイ(嬉)。どういうわけか川の側から離れられないと言うめぐみ。和也は川で溺れ死んだ少女の幽霊かと思ったりするのだが……。川と言えば海。今も船医として世界のどこかの海上にいるはずのBJの想い人に通じるものがあって、読んでいてニンマリしてしまう。BJも和也も共に岸辺で「めぐみ」を待っている。

この少女が何者なのかは結局よく判らない。尋常でない力を持っていて人間ではなさそうなのだが、あるいは和也の妄想が生み出したモノとも受け取れるのではないかと思う。めぐみは「命は絶対、消えることができないんだ」と言ったり、BJになりたいと言う和也に「(BJが)もうそこにいるのなら、(和也がBJに)なれるわけないじゃないか」と言ったり、つまりは不滅なる命の「総体」と「個」の関係などを語ったりしている。私はこのあたりで『火の鳥』を思い出したりもした。何故そんな少女が突然和也の前に現れたのか。和也が(もしかしたら自分はブラック・ジャックにはなれないんじゃないか)と気付くために必要な存在、もうそろそろブラック・ジャックの真似から卒業しなくてはいけないんじゃないかという和也自身の潜在意識が生み出したモノだったのかもしれないとも思う。

めぐみは最終章「さらば、B・J」でもう一度だけ登場する。この章では、和也の現実の初恋の相手(泉さん)の弟を探すというクリスマス・イブの小さな冒険が描かれる。ネタバレになるので詳しいことは書かないが、和也の前にまずBJとピノコが、続いて(和也の)めぐみが現れる。
 
----ブラック・ジャックがゆっくり顔を上げた。憧れてやまなかった冷たい三白眼が、その時、確かにおれを見た。
「ここは、お前さんの来るところじゃない」
 初めて聞くのに、なぜか懐かしい。視線をそらさず、ブラック・ジャックが言った。
「人生はこれからだ」
 すぐに分かった。第113話、『奇妙な関係』。おれだけのために、その言葉を口にしてくれたんだと思った。----

----クロオ、まだだよ。パチッと泡が弾けるように、頭の中に覚えのある声が響き、突然グングン引き上げられた。----

このあたりは是非とも本書を読んでいただきたいと思う。和也にとってはきっと生涯忘れられないイブの夜の出来事である。

夢の中にいたような少年時代は終わりを告げて、ラスト4ページには現在の和也の姿が描かれる。マンガの原作者となった彼は既に結婚して4歳ほどになる娘がいる。ダンボール箱にしまわれていた『ブラック・ジャック』(少年チャンピオンコミックス全25巻)を久しぶりに手に取ると、娘も夢中になって読み始める。私には、この和也と娘の姿が、BJとピノコの姿とダブって見えてしょうがなかった。
----愛しい命をずっと見守りたい。----
ホロリとするエピローグである。

さて、おおよその感想はざっと以上のようになるが、他に印象に残ったことなど書いてみると……。

和也の母親は失踪する前に、和也を連れて以前住んでいた街を辿って歩く。このとき二人は『ブラック・ジャック』の話をするのだが、彼女のお気に入りは「台風一過」のラストシーンだと言う。跡形もなくなったBJ邸でピノコがBJにお茶を差し出す、おままごとのようなシーンだ。彼女が家庭生活にどんな夢を持っていたのか、何を求めていたのかが如実に窺える気がする。

また、和也が密かに「ブラック・クイーン」と名付けた石野という女の子がいる。顔も綺麗だが勉強も運動も男子が太刀打ちできない女子だ。そして、小学4年生にして和也とセックスの真似事までやってしまう。この頃の女子は確かに男子より大人だからなぁ。しかし本家BJでもそこまではやってない……はずなのだが。どこの世界でも「ブラック・クイーン」と名のつく女性は魔性らしい(笑)。

ブラック・クイーンの他にも、和也の友だちには原作の登場人物を彷彿とさせる者がいる。孤独な和也に声をかけてきた宮内は間違いなくゲラと思われるし、才女の泉さんはナッちゃん(早死にするところも似ている)かもしれない。ドクター・キリコの名前も1回だけ出てくる。誰が、とはバラさないが(笑)。

一番笑ったのは……。志望する有名私立中学校への合格の可能性が5%と出た場面。母親は心配するが、当の和也はやる気満々。頭の中にあったのは「浦島太郎」のエピソード。あのオペの成功率は3~4%だった……(爆)。

あと、ひとつ気になったのは「第○○話」と書いてある『BJ』のエピソードが、私の持っている『BLACK JACK ザ・コンプリート・ダイジェスト』の数え方と大幅にずれていること。何故なのだろう? ちょっと不思議。

最後に……。本作を読んだ読後感は芦原すなおの『青春デンデケデケデケ』に似ていた。あれよりもっと幼い小学校での日々が綴られているけれども。「めぐみ」の存在がファンタジックであるだけで、とても優れた青春小説、少年の成長物語である。「日本ファンタジーノベル大賞優秀賞」は嬉しいけれど、そういう目でだけ見られるのは惜しい。『青春デンデケデケデケ』が「文藝賞」を取っていることを思うと、ああいう賞を狙ってもよかったのではないかと思う(新潮社さんゴメン)。『青春デンデケデケデケ』は後に直木賞を取り、映画化もされた。この作品もそうならないかな。映像化には向いていると思う。キートンのような少年が、コートを地面に引きずらないように「シャーシャー」言いながら疾走するシーンは是非見てみたい。

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Eve2 本家BJは、イブの前日にBQに手紙とプレゼントを渡そうとして、渡す前に失恋する。
手紙を破り捨てて去って行くBJ(きゅん)。

プレゼントは……捨てないんですね先生。使い回すんですか?

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『ブラック・ジャック・キッド』

『ブラック・ジャック・キッド』(久保寺健彦著)読了。

「雪降る聖夜、奇蹟が起きる! 黒いレインコートを羽織り、髪にシャギーを入れ、ポケットにはメスを忍ばせる。
----おれは、ブラック・ジャックになりたかった。」

「第19回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞作
ドラマ原作大賞選考委員特別賞、パピルス新人賞を同時受賞、三冠制覇の俊才が放つ青春小説!」

大笑いできてホロリとする佳作。BJファンには超お勧めの作品。詳しい感想は来週月曜日に。ちょうどクリスマスイブだし。

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『日日平安』

や、忙しいのだが、きょうは『日日平安』(山本周五郎著)読了。本当に忙しいのだが……。

6編の短編が収められている。表題作の『日日平安』(1954年発表)は映画『椿三十郎』の原作。椿三十郎と言えば三船敏郎の「もうすぐ四十郎ですが」の台詞と、ラストの仲代達矢との斬り合いで血飛沫が噴き出すシーンが忘れ難い。このたび織田裕二の三十郎でリメイクされたらしい。

原作は初めて読んだのだが、どこまで読んでも「椿三十郎」なる人物が出てこない。途中から、菅田平野という男がそれだと気付くのだが、最初は空腹のあまり道端で切腹の真似事をして金を乞う 尾羽打ち枯らした浪人者として登場してくる。偉丈夫・三船とはあまりにも印象が異なっていた。

菅田はなんとか手柄を立てて仕官しようと知恵を絞るが、とある事件を首尾よく収めてまさに仕官の道が開けようとしたとき、ふとそんな自分を恥ずかしく思って逃げ出してしまう。
「(略)おれの良心としてそこにいられる道理がない、これは侍の良心の問題だ」
なんとも清々しい。今の世の中どこを探してもありっこないような鮮烈な矜持。しかし、実際問題、身なりは泥だらけ、腹はくうくう。
そこへ、藩の内紛のことを知っているのだから出て行ってもらっては困る、と追っ手が追いつき……、
「どうも有難う」と笑っておじぎをする菅田がまた良い。

こういう救われる結末に癒されるのが、山本周五郎を読む醍醐味だろう。

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『議論のルールブック』

昨日は、どうして管理画面に入れないのかと思ったらココログフリーのメンテナンスがあったようで……。ワタクシすっかり忘れておりました(汗)。

さて、昨日のお買い物。
『ぜんぶ手塚治虫!』(手塚治虫著)
『下山事件 最後の証言』(柴田哲孝著)
『議論のルールブック』(岩田宗之著)
文庫2冊と新書1冊で2,769円というのは痛いが、いま買わなくてもどうせ買うのだからと買ってきた。食事を1日3食マヨネーズごはんにする分でも欲しい本は買う!

『ぜんぶ手塚治虫!』は帯に「生誕80周年記念」と銘打たれている。80周年は来年だが、出版界では既にちょっと前から動きがあるようだ。内容は『ネオ・ファウスト』の未発表シナリオほか、手塚本人のエッセイや対談、著名人による論考がずらりと並ぶ(ちなみに『BJ』の解説は呉智英さん)。3編だけ漫画も載っていて、『BJ』からは「土砂降り」が選ばれていた。楽しみにじっくり読もうと思う。

『下山事件』は以前から興味があったので。日本冒険小説協会大賞と日本推理作家協会賞をW受賞した作品だそうだ。

きょうは『議論のルールブック』を読了。帯に「ネットはなぜ炎上するのか?」とあるように、顔をつき合わせての議論ではなくネット上の掲示板等の議論に限定して、議論する上での心構えが書かれている。「議論の破壊者たち」で、どういうときに議論であったはずのものが低級な罵りあいになってしまうのかの実状を書き、「そもそも議論とは何か」で、発展的な議論とはどういうものかを語り、「発言者の心得」で、発言の自由と責任、謝罪に触れている。

平易な文章で判りやすい。議論の架空の例が挙げてあるのだが、これが某巨大掲示板等で見られるような、実にありそうな応酬で笑える。「バナナはおやつに含まれるか」というのもあった(バナナについてはちょうど数日前に私が記事にしたばかりだったのでそのタイミングにビックリしたが、もちろん内容は全然違う)。

印象に残った記述としては、「議論とは話を聞くことである」、「(ネットでは人との)距離をとることを考える必要が出てきた」等々である。人と人との距離については、村上春樹が「コミットメントとデタッチメント」と言う主題で対談していたのを読んだことがあるが、私もとても興味のあるところである。携帯やネットで不特定多数の人と広く浅く関わる時代になって久しいけれど、現実の世界と一番大きく違うところは、人と人との距離の取り方だと感じる。匿名で自分の身の安全を図りながらも熱い議論が闘わされるネットの世界。現実よりも一層強い想像力(なにしろ相手のことをよく知っているわけではないのだから)と自己抑制力と、そして何よりも大らかな心を持つことが求められるようだ。

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『火の鳥2772』

位牌を買いに行ったり施設を見に行ったりと相変わらずバタバタしながら、『火の鳥2772』(手塚治虫原作、御厨さと美作画)読了。

1980年に劇場公開されたアニメ映画『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』のコミカライズ本。待望の復刻版である。私は当時映画を観なかったが、何故だかあらすじもオルガも知っている。「月刊マンガ少年」を立ち読みしたんだろうか(覚えがない)?

071012 労働キャンプの所長役で出ているブラック・ジャックが、映画とは全然違った絵柄でめちゃくちゃ渋い。はっきり言って別人だが、生き様(死に様か)がカッコいい。この人はいつも良い役をもらっているな、という印象。火の鳥はとっても怖いし、ロックは悪役。う~~む(汗)。機会があればDVDも観てみよう。

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ん? 写楽が『月光花』を歌う? キリコが『キューティーハニー』を歌うですと?! 頑張ってるなぁ『百歌声爛』。BJ先生も何か歌ってくれないかな。

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腐女子

『腐女子化する世界 東池袋のオタク女子たち』(杉浦由美子著)読了。いやまったく……、普段なら絶対目に入らない類の本だが、何故か今年の夏は「腐女子」がキーワードなので(私の頭の中では)、思わず買ってしまった(笑)。内容は次のようなもの。

【「腐女子」とは、男同士の恋愛物語にはまる女オタク。彼女らが物語に求めるのは「自分探し」ではなく「自分忘れ」だと著者は指摘する。背景には、男社会の視線に基づく競争を降りる女性の増加や、格差の定着で「キャリアか家庭か」という選択肢が無効になったことがあるとする。】(asahi.com より引用)

で、感想はどうだったかというと、これは杉浦氏の考える「腐女子」観であるにすぎないという印象を受けた。多くの引用を用いて「これはそうではない、こうなんだ」と畳み掛けてくるが、その根拠はいまひとつ曖昧だ。こういう方面に詳しい編集者とか実際の腐女子に取材もしているが、絶対数が少ないし、それも主に30代だ(BLの読者が一番多いのは10~20代ではないのかな)。論旨展開に都合のよいサンプルだけを取り上げるのはこういう本の常道だからそれもあまり説得力はない。前半はそれなりに実態がわかって面白かったが、後半は女性のライフスタイルとか男女格差や職種格差という流行の話題にむりやり帰結させたような印象があって、正直 読むのに骨が折れた。また、私は腐女子の心理的な面を知りたかったのだが、この本はどちらかというと腐女子を取り巻くビジネスの社会的背景を俯瞰するというような性格が強かった。……ちょっと選択を誤ってしまったぜ。

それでも、いくつかは「なるほど」と思うところもあった。曰く、「男女のセックスを描くレディコミを読むと、そこに自分を投影してしまうために、現実から逃れられない」。曰く、「……あるのは、自己否定ではなく、「たまには自分から離れたい」という願望だ」。

この本で言う「腐女子」とは広義の「女オタク」ではなくて、男女以外のカップルを妄想する女性限定である。彼女達は男のオタクのように外見で判断ができないらしい。ごく普通のOLだったり、彼氏や夫もいたりする。だから、決してモテないとか負け犬だからという事情で腐女子になったわけではない。この本の帯には「女たちは、「自分探し」に飽き、「自分忘れ」に走り出した!」とあるが、杉浦氏の言わんとするところも、要するに、腐女子たちは現実から逃れたところに楽しみを発見している、ということである。男のオタクはキャラクターとの擬似恋愛を楽しむが、腐女子は一切自分が介在しない世界を楽しむものであるらしい。

だから、BLというのは、ファンタジーなのである。所詮は他人事なのである。ここまではわかった。だが「ボーイズラブをテーマにした小説や漫画は、読者である女性が「感情移入できない」ものが主流である」という指摘には首を傾げてしまう。感情移入できないものに夢中になれるもんだろうか? 少なくとも私には、そんなものが面白いとは思えないのだが。そして、感情移入できない土壌でカップリング論争など起こるわけがないと思うのだが。しかしこの本にはそう断定してあって、それ以上のことを何も語ってはくれない。

で、しかたがないので、ネットでこんなサイトこんなサイトを読んで、ぐったり疲れて今に至る(笑)。

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戦争という狂気

『手塚治虫「戦争漫画」傑作選 II 』(祥伝社新書)読了。掲載作品は次のとおり。

1「カノン」
2「ジョーを訪ねた男」
3「ブラック・ジャック あつい夜」
4「ブラック・ジャック 魔王大尉」
5「ミッドナイト 足柄山の金太郎」*
6「0次元の丘」*
7「ザ・クレーター 溶けた男」
8「I.L. 南から来た男」*
9「イエロー・ダスト」*
10「1985への出発(たびだち)」*

* をつけた5編が未読だった。便宜上番号をふったが、(1、5、7、10)が太平洋戦争を扱ったもので、残りはベトナム戦争である。

ここには声高な戦争批判は無い。ただ、戦争によって人生を狂わされた人々の有り様が淡々と、しかし救いようもなく残酷に、描かれているだけだ。「イエロー・ダスト」に登場する暴漢が言う。「戦争ってのはおかしなもんだ…外から見てると…」「人殺し 破壊 強奪 火つけ 暴行 ま いうなりゃ無法地帯よ 信じられねえような地獄さ」「それが いったん中にはいってまきこまれると べつになんとも思わなくなる」

たぶんこれが戦争の実態なのだろうと想像する。それまで平穏に暮らしてきた一般市民でも、いったん戦争に巻き込まれればそういう精神状態になるに違いない。その狂気こそが戦争の本質なのだろう。自分が殺されたり後に残されたりするのも地獄だが、実際に戦地で戦うこともまた地獄だ。そして、それだけのことをして得られるものと言えば、戦勝国の権力者の自己満足だけだ。これほど愚かなこともあるまい……。

ならば、大事なことは、戦争を始めないこと、既に在る戦争に加担しないことだと思った。戦争は始まってしまったらオシマイだ。幸せな未来などあろうはずがない。戦争を始めないために自分達が今何をすべきかを考えなくてはいけないと思った。そしてそれは、日本だけでなく「世界中の国々」がそうなるために、考えるべきだと思った。それも、不断に、だ。戦争をしていない時代はいついかなるときも「戦前」だ。これを「開戦」→「戦中」としてはいけない。そうさせないことが、その時代を生きている全ての人間の責務だと、そんなことを考えさせられた1冊だった。

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『モテたい脳、モテない脳』

『モテたい脳、モテない脳』(澤口俊之、阿川佐和子共著)、読了。認知脳科学、霊長類学の専門家、澤口氏と阿川女史の対談集である。

「脳はいかにして進歩したか」から始まって、男と女の脳の違いとその戦略まで、進化と脳にまつわる様々な話が面白い。もはや若くない女性がこの社会で生き延びる方法や如何に? という視点で質問する阿川さんに対して、「女性終焉40歳説」などを平気でぶち上げて阿川さんの逆鱗に触れている澤口先生が可笑しい。他に印象に残った発言としては、「記憶の選別は眠っているときに行われる」とか「いい男はいい匂いがする」とか「愛は4年で冷める」等々。

こういう本は、つい自分はどうなのだろうと我が身を振り返りながら読んでしまうのだが、興味深かったのは「幸福感」に関するお話。「とても幸福」と感じる人が既婚者では未婚者の2倍もいる、という調査結果があるという。これについて澤口先生は「結婚して幸せを感じないような人たちの遺伝子は残ってこなかったと考えます」と解説しておられる。結婚しても幸せを感じなければ子供を作ろうという気にもならないだろうし、たとえ作っても上手く育てることはできない。だからそういう人達の遺伝子は残りにくいわけだ。真実かどうかわからないが、説得力はある。

これに先立つ話題で、「快感がなければ誰もセックスしない」ということも書かれている。自分の遺伝子を残したいからセックスするのだというのはこの手の本にさんざん書かれていることなのだが、子孫(遺伝子)を残そうなんて意識は誰も持っていない、そこに快感があるからセックスするのだと澤口先生は言う。逆にセックスしても快感が得られない人はセックスしない→子供ができない→だからそういう遺伝的傾向は淘汰されるわけだ。これもまた説得力があると思う。

こういうちょっと斜から見た視点が面白いと思ったが、どうせなら、もうちょっと切り込んでくれてもよかった。男性側からすれば、快感があるという至近要因が自分の遺伝子を残すという究極要因にも直結するのだろうが、女性側から言えばどうかという点とか。男と女ではずいぶん違いがあるような気がしてならない。以下の文章は一切自分のことを棚に上げて書くが、セックスするのが大好きという女性を私は1人も知らない。「嫌なんだけど、まぁ2回はしたんですよ」と言った2児の母とか、「早く終わらないかとそればっかり」と言ったM(親友、子供なし)とか、「イカみたいにカプセルになってればいいのに」と言ったS(元同僚、子供1人)とか、そんなのばっかりだ(笑)。子供は欲しいがセックスはどうも……という女性は結構多いのではないかと思う。誰か女性の脳科学者が、そのへんのことを解き明かしてくれないかな。

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暑いので……

読んだら少しは涼しくなるかと思って岡本綺堂の『中国怪奇小説集』を買ってきたが、怖くない。_| ̄|○
しかし、日本の「羽衣伝説」や「南総里見八犬伝」の元となったと思われるお話などがあって興味深いことは興味深い。

今までに読んだ本の中で一番怖かったと思うのは『八つ墓村』(あれ?『犬神家の一族』だったかな?ごっちゃになってる)。頭に懐中電灯くくりつけて日本刀振り回す、アレ。比較的最近のものでは『リング』。怖がりなくせに読んでしまって後悔する。

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『人間失格』

太宰の『人間失格』の表紙カバーを変えたら、売れ行きが良いらしい。その小畑健さんのイラストがこちら。小説の最初に出てくる3葉の写真のうちの2枚目のイメージだろうか。う~ん、私の脳内ではもっと退廃的な感じのする美青年なのだが、こちらはちょっと剣呑な感じがする。

『人間失格』はまず中学生のときに読んだ。自意識過剰気味の主人公の心情に大いに共感できるところもあったが、後半部分は理解できなかった。高校生のときに2度目のトライ。「こんな男、ダメだ」が正直な感想だった。その後、何度か手に取ったが、ようやく何となくその虚無感を受け入れられたと思えたのは30代になってからだった。若い人に人気のある作品だが、そして主人公も20代なのだが、太宰の感受性の鋭さを凡人が経験で判ろうとすれば、ある程度齢を取ってからでないと難しいのじゃないかな。自分の経験上、そう思う。

夫は高校生のときに読んだと言う。読んでいたら、酔って帰ってきた親父さんが物も言わずに本を手で払いのけたそうだ。「そんなもん読むんじゃない!」という意味だったのか、自分が帰ってきたのに一心不乱に本を読んでいたのが気にいらなかったのか、今に至るも真相は藪の中なのだそうだ(笑)。

読書は好きな舅さんなので、たぶん「この本は読むんじゃない!」という意味だったのではないかと想像する。多感な高校生の男子(女子にとってはそうでもないが)には、多分に蠱惑的に思われるものを含んでいることを、舅殿は知っていたのではないかと思う。

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『憑神』

『憑神』(浅田次郎著)読了。

時は幕末。文武両道に優れているのに不遇と貧乏に喘ぐ御徒士(おかち)・別所彦四郎が「なにとぞよろしう」と手を合わせてしまった祠に祀られていた神様は……。【以下ネタバレあり】

古典落語のような趣きがあって面白おかしく読めるが、最後はほろりとして、爽やかな読後感が心に残る一冊。出世を願う彦四郎が霊験あらたかな「三囲稲荷」と間違えて拝んでしまったのは「三巡稲荷」。そこからやってきた神様は、順番に、裕福な商人のような格好をした貧乏神、横綱のように恰幅のよい疫病神、そして幼い女の子の姿をした死神だった。

この神様たちが妙に人間臭いのが可笑しい。上位の神様からの命令に従わなくてはならないらしく、彦四郎に貧乏と病気と死をもたらさなくてはならないのだが、次第に彦四郎の高潔な人柄にほだされていく。そこで「宿替え」の秘法をもって災厄を彦四郎以外の人物に振り替えるのだが、さすがに「死」だけはおいそれと人におっつけるわけにはいかない。

そうこうしているうちに徳川幕府は瓦解、江戸城は官軍にあけ渡され、将軍慶喜は水戸へ落ちる。彦四郎を支えているものは、250年の昔家康の影武者として死んだ己の祖先から受け継いだ血と、武士道であった。彦四郎の才気と人柄を見込んで新政府で取り立てようという申し出も、死神からの「宿替え」の申し出も断り、自分は何を成し遂げて死ぬべきかを考え、死に場所を求める。

このあたりの彦四郎は実に清冽で揺るぎない。物語の最初は風采の上がらぬ貧乏御家人だと思っていたのが、だんだんカッコよくなっていく。
「拙者は、三河安祥以来の徳川家家人、御歴代将軍家の御公辺をお護りする徒士役にござりまする」
そして誰も望む者とておらぬのに将軍家の影武者として死地に赴く。このとき腑抜けと思われていた彦四郎の兄・左兵衛がお供すると言い出したのにも泣けたが、それを「ならぬ」と止める彦四郎にも泣けた。
「限りある命が虚しいのではない。限りあるゆえに輝かしいのだ。武士道はそれに尽きる。生きよ」

人は矜持を持たずして、本当に生きているとは言えないのかもしれない。

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『アキレス将軍暗殺事件』

『アキレス将軍暗殺事件』(ボリス・アクーニン著)読了。

先ごろ読んだ『リヴァイアサン号殺人事件』が豪華なミステリなら、こちらは超一級の冒険活劇である。変則的な3部構成になっていて、全体の5割の分量を占める第1部がファンドーリンから見た事件の概要、続く第2部は殺し屋アキマスの視点から描かれていてこれが全体の4割ばかり、そして残り1割ほどがクライマックスの第3部でファンドーリンとアキマスの直接対決である。

発端は、アキレスとあだ名されるロシアの英雄ソーボレフ将軍の突然死。評判の歌姫ワンダとの情交の最中の出来事だったため、将軍の側近たちはその不名誉を隠そうと躍起になる。事故か事件か。しかしそこには更に巨大な陰謀が隠されていた。日本から帰国したばかりの八等官ファンドーリンはドルゴルーコイ総督の庇護の下、秘密捜査官として真相を暴こうとするのだが、様々な政治的思惑が複雑に絡み合い、情報は筒抜け、打つ手はすべて後手に回る。誰が味方やら敵やらわからぬうちに、事件に関係すると思われる人物は次々と死んでいく。二転三転する捜査。ファンドーリン自身にも危険が迫る。そしてそこに見え隠れする「白い目をした殺し屋」の影……。

この殺し屋がアキマスという男なのだが、このハードボイルドな第2部がおもしろい。彼がどんな生い立ちでどうして殺し屋になったのか、そしてプロとしての手腕が淡々と語られる。第1部で謎とされていた事件の真相や本当の黒幕もここでほぼ明らかになる。非情で凄腕の殺し屋なのだが、その憂いを帯びた人物像には読んでいくうちにだんだんと惹かれていく。「悪人」を描きたいのだという著者・アクーニンの面目躍如というところ。

そしてファンドーリンとアキマスの死闘(まだ読んだことがないが、この2人には以前から因縁があるらしい)。ファンドーリン絶体絶命のピンチ!……あとはネタバレになるので書かない。本当は一番書きたいところなのだが。思わず一瞬の隙を見せるアキマスの心情が切なかったということだけ書いておこう。

ファンドーリンよりアキマスの魅力にやられた1冊だった。これは2人の因縁が語られるシリーズ第1作『アザゼル』も読まねばなるまい。過去に作品社から邦訳が出ているらしいが、この岩波のシリーズからは出ないのかな?

それから、ファンドーリンが日本から連れて帰ってきた小姓マサがなかなか面白い存在として描かれている。もと横浜のヤクザらしいが、命を助けてくれたファンドーリンに絶対の忠誠を誓い、そこそこヘマもするが主人とは友情に近いもので固く結ばれている。また、ファンドーリンが行う珍妙な日本式身体鍛錬法も面白いのだが、ロシアでこのシリーズが広く受け入れられているらしいことを考えると、日本及び日本人に対するイメージがちょっと心配ではある。著者のアクーニンは日本文学研究者で三島由紀夫などの翻訳も手がけている日本通だから、本人はお遊びのつもりかもしれないが、一般ロシア人はこれを現実と受け取ってしまうかもしれない。ロシアのみなさん、普通の日本人は氷を浮かべた水風呂になんか入りませんし、壁を天井まで駆け上がったりはしませんからね(笑)!

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『リヴァイアサン号殺人事件』

『リヴァイアサン号殺人事件』(ボリス・アクーニン著)読了。いや~、面白かった! 帯に書かれた惹句は次のとおり。

「貴族の館での大量殺人。謎の財宝。
 そして、豪華客船に怪しげな人々と名探偵が揃った。
 さて、犯人は誰か---
 とくれば、もう欠けているものは何もない。
 優雅なグランド・ミステリーが現代ロシアで甦ったことを悦ぼう。
 スリルもどんでん返しも、精巧な銀細工のような贅沢さである。
                    ---高村 薫」

ネタバレになるから詳しくは書けないが、まさにこの評がぴったりの良質なミステリ。次から次へと事件が起こるので、冒険小説として読んでも、か~な~り~楽しめる。どんでん返しにはびっくりした。

この「怪しげな人々」というのが、それぞれ皆魅力的でどこか滑稽なのがこの作品のポイントだ。船という閉ざされた空間の中に真犯人がいるということで、お互いが疑心暗鬼になったり、各人がこっそり探偵の真似事のようなことをやったりしている。芥川の『藪の中』のように、作品が1人の視点でなく乗客それぞれの語りで進んでいくという手法も、臨場感があって効果的だ。読むほどに誰もが犯人のように思えてくる。フランス人、イギリス人、スイス人、ロシア人、日本人と、国籍もまちまちな人々のやりとりが、小さな国際紛争の様相を呈するのも時代性を感じさせる。人物がしっかりと描かれている小説はやはり面白い。最後のページではちょっとホロリとした。

かなり高度な(と私は思う)謎解きと、歴史への造詣の深さと、国民性への理解と、そして文章に横溢するユーモア感覚(ひょこひょこと思わず吹き出すような文章が出てくる・笑)が絶妙にマッチしていて飽きさせない。これは著者のみならず翻訳者の沼野恭子氏の力に負うところも大きいのだろう。感謝したい。

主役のエラスト・P・ファンドーリンについては、この作品だけではまだはっきりした素性がわからない。ロシアの外交官で、リヴァイアサン号で日本に赴任するところである。25歳くらいか?と書かれているが、詳細は不明だ。女性2人からモーションをかけられても動じない美青年。腹いせに、性倒錯者か?と疑われているが、そうでもなさそう。純情なのか朴念仁なのかわからない。

現在ロシアで刊行されているシリーズ11巻のうち、この『リヴァイアサン号殺人事件』は3作目に当たる。同時に4作目の『アキレス将軍暗殺事件』も日本語訳が刊行されたが、これはこの2冊が日本に関係しているから先に紹介したほうがよいという著者自身の提案によるものだそうだ。残りの作品も是非続けて刊行していただきたい。

さ、次は『アキレス将軍暗殺事件』を読もうっと♪♪

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ファンドーリン

『リヴァイアサン号殺人事件』(ボリス・アクーニン著)を読書中。

2ヶ月ばかり前の新聞の書評を読んでビビッと来たのがこの本。注文して取り寄せた。まだ3分の1ほどしか読んでいないが、久しぶりにワクワクする推理小説にぶち当たった感じがする。
時は1878年。パリで残忍な大量殺人事件が起こる。ゴーシュ警部は犯人が豪華客船「リヴァイアサン号」に乗り込むと予想して同船に乗り込む……。しかし実際の探偵役はロシアの若き外交官ファンドーリンのようだ。
サブタイトルにある『ファンドーリンの捜査ファイル』は現在ロシアで11巻まで刊行されているらしい。

印象はルパンとホームズを足した感じ。大海原を進む船の中に犯人がいるという設定は、アルセーヌ・ルパン初お目見えの『ルパンの逮捕』を彷彿とさせる。時代も似たようなものだ。
それにこのファンドーリンという主人公がご他聞に漏れず素敵だ。女性がぽーっとなるような美青年で紳士。ちょっと吃音があるが知性的な喋りをする。おまけに! 彼は黒髪なのだが一部が白いのだ! これはなにやら過去に悲しい出来事があった結果、心因性の原因でそうなったようだ(……と、解説に書いてあった)。まるっきりBJと同じではないか! ちなみに著者のアクーニンは大の日本びいきで、ペンネームの「アクーニン」も日本語の「悪人」から取ったもの。それくらい日本が好きなら『BJ』だって読んでいるかもしれないではないか。

既に私の頭の中では「アルセーヌ・ルパン + BJ = ファンドーリン」という公式ができあがりつつある(笑)。さ、続きを読もう。

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『日本紳士録』

交詢社の『日本紳士録』が、今月刊行の第80版をもって休刊となるらしい。確かに個人情報保護法ができた今となっては、刊行は難しいと思う。不十分なデータを載せたところで意味がないのだから。

1889年に第1版が刊行された日本版『Who's Who』である。この本に載ることがステイタスだった時代もあったことだろう(特定の公の役職に就けば自動的に掲載されて、本を買わされるということもあったようだが)。

この本、たいていの図書館には備えてある。存命中の人物の情報を得るためには欠かせない二次資料だった。今は、この本がなくなってもインターネットがあるのでそんなに困らないかもしれない。住所まで調べるのは難しいかもしれないけれど。

こういう話を聞くと、名簿の売買が商売になるのも頷ける。先日もあるカタログ販売を利用したら、途端にいろんなところから電話が掛かるようになった。どう考えても、データが流れたとしか思えない。立て板に水でまくしたてられるセールストークの一瞬の隙を突いて「どうしてわが家の電話番号がわかったんですか?」と聞いてみたら、ややこしい相手だと思われたのかブツッと切れた。それはそれで腹が立つものである。

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愛の逃避行

ボリス・アクーニンの本を探しに書店へ行ったのだが見つからず、代わりに『あらしのよるに II 』(きむらゆういち著 あべ弘士絵)を見つけたので即買い。シリーズの第4、5話に当たる「きりのなかで」と「どしゃぶりのひに」の2編が収められている。

前作『あらしのよるに』を読んだ感想を「エロティックだ」と書いたが、前作がメイとガブの心理描写に重きが置かれていたのに対し、今作ではどちらかというと話の展開が楽しめるようになっていて、前作ほど私を勘違い(?)させるようなことはなかった。でもやっぱり、この2匹は友人ではなくて恋人だという思いは拭いきれない。

「きりのなかで」では、仲間のオオカミにメイが襲われそうになるのを必死に守るガブが健気だ。言動から、ガブは男性という印象が強いが、メイはやっぱり男女どちらなのかわからない。ただツンデレ系であることだけは確かだ(笑)。

「どしゃぶりのひに」では、メイとガブの秘密の関係がそれぞれの仲間にバレて糾弾される。「ガブからオオカミの動向を聞き出せ」と言われたメイと、「メイからヤギの動向を聞き出せ」と言われたガブは、再び谷川で会うことになる。当日、周囲の森の中からはそれぞれの仲間や他の動物たちが様子を見つめている。2匹は、仲間から命令されたことをなかなか聞き出せない。そのうち雨が降り始め、稲妻が光った拍子にメイが足を滑らせ川に落ちそうになる。咄嗟に、自分の身の危険も顧みずメイを支えるガブ。お互いの友情の温かさに気付いた2匹は「実は……」と。その先の言葉はないが、お互いが置かれている状況はよくわかっている2匹。

クライマックスはここから。「ここまできたら、行くところまで行ってみますか」とメイ。「おいら、その覚悟なら、もうできてやすよ」とガブ。「絶対に、生きて、また会おうっす」と、いち、にの、さん、で勢いを増す谷川に飛び込むのである。土砂降りのカーテンが、森中の動物たちの目から2匹の姿を消した……。

おいおい、ここで終わられたら続きを買わざるを得ないじゃねーかよー!(笑)

それぞれの仲間よりも、お互いを選んだメイとガブ。相手を欺き裏切ることよりも、逆巻く谷川に飛び込むことを選んだ2匹。これは心中(しんじゅう)をも辞さない道行(みちゆき)であると言っても間違いではなかろう。ああそうか。だから文庫の帯に「きむらゆういちはこれで、近松になった!」と書いてあるのだな。……やっぱりこれは友情美談ではなくて愛の逃避行のお話だと、私は断言する。

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意識

先日読んだ『まともな人』(養老猛司著)にこんなことが書いてあった。

「われわれは人生の三分の一を眠って過ごす。(中略)寝ている間、意識はない。その意識がすべてになるのが、近代社会、都市社会、脳化社会、つまりわれわれの社会である。意識は意味を追求するが、追及している意識のほうは、自分の限界を心得ない。(中略)寝ている間に脳は起きているときと同じ量のエネルギーを消費する。つまり意識があるというのは、そのていどのことだともいえる。寝ているのと、さしてちがわないのである。つまり寝ている間とは、脳がただ「休んでいる」時間ではない。そこではなにか、重要なことが行われているに違いないのである。」

おもしろいと思う。起きている間、人はたいていの時間、何かを考えているはずだ。真剣に、あるいは漫然と。頭の良い人とか受験生などは、おそらく私の何十倍もの量のことを考えていると思う。それなのに、寝ている間のエネルギーの消費量と変わらないということは、そこでは、頭の良し悪しという個人差などほとんど問題外、無視してもよいくらいの微々たる数値ということになるのだろう。そのほんの少しのことで、様々な考え方や感性を持つ千差万別の人間ができあがっている。それがとてもおもしろいと思う。

意識がないところで、脳は何をしているのだろう。どんな人間の脳もそれを知らない。自分の頭の中にそんなミステリアスな物体がつまっていると思うと、なんだかゾクゾクする。と同時に、その脳の死(脳死)を、ほんの軒先を借りているような状態の「意識」ごときが決定できるはずがない、と思ったりした。

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コミットメントとデタッチメント

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』をじっくり再読中。それぞれの話題にいちいち深く思うところもあって、なかなか進まない。感想を書こうと思うのだが、とても全体をまとめた感想など書けそうにない。そこで、おもしろいと思った部分を取り上げてみようと思う。

構成は、「第一夜「物語」で人間は何を癒すのか」「第二夜 無意識を掘る ”からだ”と”こころ”」となっているが、これだけでは何のことやらわかるまい。話題は実に多岐にわたる。

最初の部分で、村上春樹は「コミットメント(関わり)」と「デタッチメント(関わりのなさ)」という自分が関心のある問題を提起している。これが日本人の「個性」の話に発展していく部分があるのだが、一言で言えば、欧米に比して日本人のコミットはベタベタしたものになりやすく、「日本人は、個人ということを体感としてわかることはすごいむずかしいことじゃないでしょうかね(by 河合隼雄)」ということになる。ボランティア活動を取ってみても「週に三回来られる人と一回しか来られない人がいて、三回来られる人がいばるというのが出てくるのですよね。(by 村上春樹)」という指摘には笑った。日本人は、それがたとえ最初は個性に基く自由意思によりできたグループであっても、体系化してしまう傾向があるらしい。そしてそうなってしまえば、それはもう個性とか個人の問題ではなくなってしまう。

ただ、それは決して悪い面ばかりがあるわけではないらしい。たとえば阪神淡路大震災のとき、被災者は団結した。結束して物事に当たり解決していった部分が確かにある。個人の問題として背負い込むことをせず、全体の問題として受け止めて対処したのである。その結果、ノースリッジ地震の場合と比べても、PTSD(心的外傷後ストレス障害)になった被災者は相当少なかったそうだ。全体で分担することで一人当たりのストレスが軽減されたのだろう。

ところで、この対談集が発刊されたのは平成8年、今から11年も前のことである。十年一昔と言うが、このコミットメントとデタッチメントの問題というのは、今でもやはり新しい問題だと思う。人が悩んだり、挙句の果てに病んだりする一番の原因は、何といっても人間関係だろう。この本には指摘されていないが、メールやネットが隆盛を極める現状からは、コミットでありデタッチである状態を好む傾向が如実に窺えるような気がする。面と向かって話すのは気疲れして嫌だけれど、ひとりぼっちになるのもまた嫌だからメールやネットで誰かと繋がっていたい。そんな思いが見え隠れしているように思う。こういう状態が人間性や社会にどんな影響を及ぼすのかは、きっと数年後にわかることだろう。

……とりとめのない文章になってしまった(汗)。きょうはここまで。

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読書中

昨日買ってきた『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』を読んでいる。おもしろい。

取り上げられているそれぞれの話題についてはいろいろ思うこともあって、それはまたちゃんと読み終えてから書こうと思うが、とりあえず、村上春樹がこんなに素直に心情を吐露していること自体が興味深い。あまり自分のことをしゃべらない人だという印象があったので、意外だった。見ようによっては、村上春樹という患者が臨床心理学の大家・河合隼雄の分析を受けているという構図に見えなくもない。それくらい、裸の自分をさらけ出しているように見える。これが河合隼雄の心理療法の手腕によるものだとしたら、やっぱりすごい。

すらすらと読めるのだが、内容はとてつもなく深くて、おまけに脚注もついている。きちんと読んでできるだけ理解したいと思う本なので、一応読み終えたらもう一度読むつもり。

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絵師・池上遼一

普段行かない本屋さんへ行ったら、『絵師池上遼一全仕事(DVD付き)』なんてものを見つけてしまい、ゴソゴソと財布を取り出して中身と相談の上、購入。4,800円也。

早速鑑賞したDVDは『池上遼一 ザ・仕事場DVD キャラクターの生まれる瞬間』というタイトルで、「メインキャラクターの顔を描く」「サブキャラクターの顔を描く」「バランスの良いプロポーションを描く」「全タイトル単行本カバー収録」という内容。コマ割りの線だけが引かれた真っ白な用紙に2Bの鉛筆で下書きをするところから、アシスタントさんによる陰影付け、最後にまた御本人による主線のペン入れまで、一部始終を見ることができる。いやもう感嘆する。顔のアップを描くときなど、目、鼻の位置に大雑把に横線を引くだけで上から下へサラサラと描き始め、顔の輪郭線(特に顎の線)などは最後なのだ。彼の頭の中では、最初に横線を引いた段階からすべてのものがもうしっかりと見えていて、あとはそれを忠実になぞっているだけという感じだ。おもしろい。見ていて飽きない。

漫画家というよりは、この人はやっぱり「絵師」というほうが似つかわしいと思う。ひとコマひとコマが一枚の絵として完成している。サラサラと描いているように見えても、何回描いても思うものが描けないとか、これでよいと思っても裏から透かして見てデッサンの狂いがあることに気付いたりとかいうこともあるそうだ。いや、見ているとそんな悪戦苦闘の後など見えない、リアリズムの極致のような絵なのだが。

どこに出しても恥ずかしくない日本人のいい男を描きたいという欲求で描き続けている、と彼は言う。その表情や肉体は、数多くの映画や小説を観たり読んだりすることで培われたイメージと解剖学的な知識によって描き出されるらしい。結果、彼の描くキャラは、顔は日本人だがプロポーションは外人並み、ということが多い。実際にはこんな日本人はいないと思うが、読者の夢を描くということで……というようなことを彼は訥々と語っていた。ちなみに、池上遼一御本人の風貌はもじゃもじゃ頭のどこにでもいそうな、でもちょっと神経質で不機嫌で無愛想なおじさんだ。ここ一年ほど笑ったことありません、というような気難しげな印象だが、それがまたいかにも職人気質を現しているようで嬉しかったりした(笑)。

私が彼のファンになったのは『クライング・フリーマン』がきっかけだったから、もう20年以上前のことだろうか。彼が描く主人公の「目」が好きだった。私が当時の職場で昼休みに読んでいたら、他の職員も回し読みを始めて、池上ファンの女性が3人増えた。男性職員は何かほかのものが目当てで読んでいたかもしれない。なにしろ意味もなく誰も彼もが裸になるマンガだったから(笑)。ただ、あの筋肉隆々ぶりは女性陣には不評だった。男性がこうなりたいというイメージと、女性が男性にはこうあってほしいと思うイメージにはどうやらギャップがあるようだ。

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『「狂い」のすすめ』

『「狂い」のすすめ』(ひろさちや著)読了。

「人生に意味なんてありません。『生き甲斐』なんてペテンです。」という、帯の惹句に惹かれて買った。1時間もあれば読める気楽なエッセイ集だが、いろんな示唆に富んでいておもしろい。

「かくあらねばならない」と窮屈な思いをして生きている人たちにとっては、福音となるか、あるいはまったく受け入れられないかのどちらかかもしれない。「世間」とは強者のものだという前提で、その強者が言うところの「生き甲斐がなくては生きている意味がない」とか「人の役に立ちなさい」とかの「常識」は間違っていると喝破する。人は、そのまんまでよいのだと。キーワードは「狂い」と「遊び」。

最近、親の介護をしていてつくづく思うことがある。家族だけでは面倒を看きれないので、ケアマネージャーさんに計画を立てていただいてヘルパーさん達に手伝っていただいているのだが、その方針として規則正しい生活をするというのがあるようだ。朝起きて身支度をして、昼間はできるだけ動いて、夜は決まった時間に寝る。若い者には当然のことが老人にはできない場合が多い。三度三度食事をすることさえ、空腹感がなかったり億劫だったりすると不規則になりがちだ。それを正そうとするのは決して間違ったことではないように思える。しかし実際の老人を見ていると、もっとのんびり朝寝をしたいときに無理矢理起こして食欲もないのにごはんを食べさせたり、じっと座っていたいときにあれこれしましょうと動かしたりするのも、どんなものかと思うことがある。それは、こちらの都合と理想を押し付けているだけではないかと迷い悩むことがある。

そういうなんとなくモヤモヤした気分を感じていたのだが、この本を読んでその正体がわかった。「世間」として両親に介入しようとするときにそういう違和感を覚えるのだ。癌になって寝たきりになった父と痴呆になった母の、ありのままの姿を受け入れようとしているところへ、でも「かくあるべし」という「世間」としてしか介入できない自分に忸怩たる思いがあったのだ。正体がわかったからといって現実が変わるわけではないが、それがわかったことは私の精神衛生上、大きなプラスになると思う。

人生なんて、決めたようには動かない。理想を持つ、生き甲斐を持つ、より良く生きる、そういう目標を持つことは勝手だし世間はそう推奨するのであるが、それを究極至上の「人生の意味」と捉えると、人生が途端に重くて辛いものになる。本書は、そういう世間や常識を斜めに見下すことの大切さを説いている。好んで波風を立てる必要はないから表面上はそれに合わせておいてもよいけれど、内心ではそんなものバカにして生きなさいよと勧めてくれる。世間や常識に惑わされるなと。それが「狂い」。

人にはそれぞれの生き方がある。それは仏から与えられた役割でもある。癌になって寝たきりになる役割、痴呆になる役割、それに振り回されて右往左往する娘の役割。その役割をありのままに生きて楽しみましょうよ、というのが「遊び」。

自分の気持ちの納まり所を見つけた気分だ。

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あれこれ

きょうは雨模様の一日。昨日のうちに初詣でを済ましておいてよかったと思う。夫の実家へ行き、姑さんとずっとお喋りして過ごした。

そこで出た話題。ほんの数年前まではかなりの確率でつけられていた車の注連縄を、今年はほとんど見なくなった。あっと言う間にブームが終わってしまったようだ。そもそも注連縄というのは、特定の場所に悪いモノが入ってこないように結界を張るという意味合いだろうと思う。車の場合、そこに結界を張っても、車自体が動くのだからどうしようもないような気がする。お守り代わりというくらいの気持ちで皆がつけていたのだろうが、お守りと注連縄ではちょっと役割や働き方が違うように思う。なんとなく、だが…。こういうことは京極夏彦描くところの中禅寺秋彦なら10ページくらい薀蓄を傾けそうだ。

というわけで、本日やっと『邪魅の雫』(京極夏彦著)を読了。う~ん、前作よりは面白かったが、今ひとつの出来というところ。最後の謎解きというか憑き物落としの場面が、あまりにも冗長だった。真犯人を前にして、関係者たちが事件とまったく関係のない話(予備知識ではあるのだが)を延々と語るなんてあり得ない。あまりに不自然なシチュエーションで、興が殺がれた。それまでは結構面白かったのに。榎木津も今回は割りとまともに日本語を喋っていてシリアスタッチで良かったのに(まぁ、彼が「見えた」時点で真犯人もわかってしまったのだが)。しかし、全編を通して所どころハッとするような卓見が見られたように思う。「世間」と「社会」の違いとか、うまく周囲と関われない人々(多かれ少なかれ誰も皆そうだろう)の心の中とか、日ごろわれわれが漠然と感じている諸々の思いを京極堂がきちんと説明してくれるのは気分が良い。明確に言葉に表すこと、まさにそれが京極堂の憑き物落としの手法であるから、私自身の憑き物はだいぶん落としてもらえたと思う。それだけでも、読んで良かったかな。

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『雨鶏』

軽い感じの短編集を1冊、いつもバッグの中に忍ばせておいて、バスに揺られている間や点滴の合間などに読む。きょうは『雨鶏』(芦原すなお著)。本当は読みかけの京極本を読みたいのだが、のめり込みすぎてもいけないので(それに重いし)、軽く読めてほんわかした気分になれる本をチョイスした。以前に一度読んだものだが、どうもその時に感想を書いていないようなので、きょう改めて書いてみる。

帯に「『青春デンデケデケデケ』の世界ふたたび!」とある。『青春…』は高校生が主人公だったが、『雨鶏』は大学生・山越只明が主人公である。歳がいっているせいか、『青春…』のような明るいけれど切ない雰囲気はあまり無い。大学の講義には自主休講を決め込み、親からの仕送りはすぐに使い果たし、何をするでもなく友人達と喋り、あり余る時間をノンシャランに生きている。

標題の「雨鶏」は、切ない恋(片思いとも言える)をしていた友人が恋に破れ、雨の中を、彼が通っている畜産大学で〆た鶏をビニール袋に入れて持ってきたというお話である。そのまんま、雨と鶏である(笑)。なんちゅう無粋なタイトルかと思うが、これがもう、これ以外のタイトルは持って来ようがないというほどピッタリな、とにかく切なくなるお話なのである。これには、私自身の失恋の思い出も関係している。それを話すと長くなるが、ちょっとだけ話すと、まぁ、彼と別れることになって、それでも思い切れずに、彼のアパートまで行ったことがあって。最初から会うつもりもなくて、部屋に灯りがついているのを見て帰ろうと思っていたのだけれど、途中から雨が降ってきて、でも引き返すこともできなくて、街灯もない舗装もしてないぬかるんだ道をとぼとぼ歩いて行ったら、部屋には灯りがついてなくて、何をどうしようもなくてしばらく外から眺めていたのだけれど、雨はだんだん強くなるし傘は無いしで、もうこの世が終わればいいと思いながら引き返したのだが、明るいところまで出て自分の足元を見たら、ふくらはぎのあたりまでドロドロになっていた。いまどき田舎の子どもでもこんなドロだらけになることはあるまいと思って、思わず笑った。そういう経験があるので、この「雨鶏」における彼の行動および心理には、あまりに哀しく同感できるのである。なんでこういうときって、傍から見ると間抜けなことになっちゃうんだろうね(笑)?

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『勝海舟捕物帖』

坂口安吾生誕100年ということで、学陽書房の人物文庫から『勝海舟捕物帖』が出ていた。すかさず買ってしまうあたりが安吾ファンだと我ながら思う。しかもこれ、持ってるのに!! 原題は『明治開化安吾捕物帖』。角川文庫から出たものを高校生の頃に買って今でも持っている(テレビドラマ『新十郎捕物帖・快刀乱麻』の原作で、勝海舟役の池部良の写真が載った帯がついている)。久々に読んだがやっぱりおもしろい。

解説の縄田一男は、尾崎秀樹の論考を紹介している。曰く「坂口安吾は維新後の世相と、戦後の世情を対比させるだけでなく、そこに薩長藩閥政府の専攻と、アメリカの戦後占領という政治的(同時に精神的)類似性を見抜き、一人の勝海舟が存在しない戦後社会のあり方に批判の眼を向けている。勝海舟の眼に坂口安吾の眼が重なるのはこの瞬間だ」。昭和25年から連載されたこの捕物帖は、「敗戦後の有為転変のさまや、価値観の変化を、維新後の文明開化の世に重ね合わせ」てあるというわけだ。安吾史観と言われるほどの、いっぷう変わった歴史観を持つ安吾の思想がこの中には盛り込まれている……らしいのだが、悲しいかな、私にはそれがわからない。戦争を体験した世代にはわかるのだろう。歴史に詳しい方にもわかるのだろう。

061028_225901_1 テレビの『新十郎捕物帖・快刀乱麻』も反逆のドラマだった。原作では紳士探偵だった結城新十郎は、着流しの反政府反権力主義者として描かれる。いつも仲間とゴロッチャラしていたが、最終回には西郷札に絡む陰謀に怒りが爆発、背中の龍の刺青まで見せたのではなかったか(まるで任侠モノのようだった)。でも推理ドラマとしても超一品だったと記憶している。坂口安吾の原作、反骨精神溢れる推理モノ、とくれば、おもしろくないわけがない。最終回しかフィルムが残っていないらしいが、ビデオになったら1万円出しても買うぞ! と、前にも書いた記憶があるナ(笑)。

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『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』

『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』(北尾トロ著)やっと読了。だいぶん前に読み始めていたのに読了までに時間がかかったのは、途中で気分が悪くなって中断していたから。そこのところについて書いてみる。

著者が裏モノ系のライターさんなので、真面目な内容でないだろうことは買う前から察しがついていた。それでも最初のうちは、裁判の傍聴マニアなんてものがいるんだということや、裁判に出てくる非常識で罪の意識のない被告などに驚きながら面白く読んでいた。しかしあるとき、自分がもし被告の立場だったら、と考えたら、急に嫌気がさした。

事件に何の関係もない人々が、週刊誌のゴシップ記事を読むのと同じレベルの興味で、自分の一挙手一投足を背後から見ているのだとしたら。ただただ2時間サスペンスのようなドラマチックな展開になることを期待して見ているのだとしたら。勝手に犯人像を作り上げながら聴いているのだとしたら…。正義感とか義憤とかいうのとは別次元の感覚……単なる「他人の不幸は蜜の味」という愉しみで裁判を見つめる人々がいる。そう思ったら、突然に人間の下衆な部分を見せ付けられたような気がして、読む気が失せた。

私のこれからの人生に、できることなら裁判沙汰になるような出来事は起こってほしくない。しかし起こらないとは絶対に言い切れない。そのときに私は被害者になっているのか加害者になっているのか、それも判らない。この本の中に、ずっと真っ当な道を歩んでいた人が度重なる不幸に見舞われて犯罪に手を染めてしまった例が出てくる。彼と同じ目に遭ったとき、自分がそうならないと言い切れる自信が、私には無い。後悔に後悔を重ねて、打ちひしがれて、法廷に出て行ったときに、傍聴席にまるで芝居見物のような気分の人々が陣取っているのだとしたら、悔しくてたまらないだろうと思う。見世物じゃない、と叫びたいだろうと思うのだ。

だから……、自分は絶対に裁判の被告になどならないという自信がある人なら、この本は楽しめると思う。

きょうは『邪魅の雫』(京極夏彦著)を買ってきた。前作の『陰摩羅鬼の瑕』が今一つだったので、今作は期待している。一気に読みたいが、いつになるかなぁ。

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『銃とチョコレート』

きょうは取り立てて話題がないので、ずっと書けないでいた『銃とチョコレート』(乙一著)の感想なんぞを。

その昔、ルパン、ホームズ、少年探偵団に心躍らせた年代には、なんとも懐かしい趣きの一冊である。装丁も大きさもポプラ社のシリーズのよう。小学校の図書室にはこんなシリーズがズラリと並んでいたことを思い出す。活字が大きくてひらがなが多くて漢字には読み仮名がふってある。挿絵が入っているのがまた嬉しい(あまり好きな絵柄ではなかったが…)。

怪盗ゴディバがルパン、名探偵ロイズがホームズ、リンツが小林少年のような役割……と思って読んでいると、中盤あたりからアレレ?という展開になっていく。単純な勧善懲悪の体裁をとっていないのだ。誰が良い人で誰が悪い奴かが混沌としてきて、どんでん返しに次ぐどんでん返しの末に、なるほどそうだったのか、となる結末。大人が読んでも納得できるくらい、謎解きも明快である。

いや、そもそもこれは子供向けの本なのか……? これは講談社が出している「ミステリーランド」というシリーズの中の1冊なのだが、謳い文句には「かつて子どもだったあなたと少年少女のための」と書かれている。既刊の作品の著者を見ると、島田荘司、殊能将之、有栖川有栖、森博嗣、法月綸太郎、綾辻行人、等々、おもに新本格派と呼ばれる当代の推理作家がズラリと名前を連ねている(京極夏彦も今後の予定に入っているので楽しみにしている)。どちらかといえば、友情あり冒険ありのジュブナイルというよりも、謎解きに主眼が置かれているように思えるラインナップだ。

この作品で主人公リンツは、信じていた人に裏切られたり、酷い奴だと思っていた友人が実はそうではなかったりと、人間のいろいろな面を見ることになる。二転三転する登場人物の豹変ぶりに、品行方正な児童文学から外れた面白さがあり、それはやはり大人向けといった印象がある。だから個人的には、この作品は、まだ価値観の定まっていない低年齢層にはあまり読ませたくないという感想を持った。大人が読むぶんには確かに面白い。しかし、人間幼いうちは、良いものと悪いものというのははっきり区別して認識していたほうがよいのではないかと、最近私は思うようになったのだ。

例えば昔の子ども番組では、正義のヒーローはどんな困難にぶつかっても己の信念を曲げることなく正義を貫いた。悪い奴はとことん悪くてツメの垢ほども良いことはしなかった。最近はどうもそうではないらしい。悪い奴にも良いところはあるし、良い人間にも悪心が芽生えることもある、そういうことを描きたいらしい。しかしそれも、自分の中に善悪の価値観があって初めて理解できることなのだ。だから子供達には、まずは善悪の基準をしっかり持ってもらいたいと思うのである。

というわけで、この作品は大人向けの1冊である。リンツの母親の愛らしさが良くて、読後感も良い。

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『酔生夢死か、起死回生か。』

『酔生夢死か、起死回生か。』(阿川弘之、北杜夫共著)読了。二言目には「鬱なんです。もう死んでしまいたい」と訴えるマンボウ先生と「美味いものが食いたい」という阿川元海軍大尉の、噛み合わない対談集(笑)。ちなみに阿川さん(大正9年生まれ)のほうがマンボウ先生より7歳年上。

「瞬間湯沸かし器」と言われる阿川さんと、坊っちゃんで躁鬱病のマンボウ先生。まったく正反対の性格のようなのだが、二人は若い頃からの知己の仲で、家族ぐるみで一緒に旅行した話とか、斎藤茂吉の思い出話とか、文壇の仲間の話(次々に死んでしまったねぇ、というような・笑)とか、グルメの話とかに花が咲……いているのかいないのか。何しろ片方は、鬱で、食事をするのも辛くて、対談するたびにこれが最後の対談です、と言っているような人なのだから。でも何故かその噛み合わなさが傍目には非常に可笑しい。ご老人(失礼)二人の思い出話と言ってしまえばそれまでなのだが、功成り名遂げた人たちが醸し出すゆったりとした空気が心地よい。これが「老成」ということなのだろうなぁ。これくらいの年齢になっても、若い頃と変わらずに話ができる友達がいるというのが何より羨ましいと思った一冊。

カバー裏にも引用されているが、この対談集を象徴するような会話を挙げておこう。
「阿川さん、その背広、いいですね」
「そうですか。何のいやがらせです、今度は?」
全編を通してこんな雰囲気。笑

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『脳のシワ』(養老猛司著)読了。脳にまつわる話題を集めたエッセイ集。つくづく思う、この人は頭が良い。この人の文章は実に判りやすい。もちろん内容については難しくて理解できないところもあるが、文章自体は平易で判らないということはない。そして、難しい話を消化しきった言葉に噛み砕いて易しく語れる人こそ、本当に頭の良い人だと私は思う。(ちなみに、そういう視点から私が頭が良いと思っている人は竹中平蔵さんであるが、それはきょうの話題とは全然関係ない。)

全体としてとても面白い本で、感想を書き出すととめどがなくなるような気がするので、興味をひかれた一点にだけ触れることにする。

中に「土にかえる」という話があって、以前からの私の疑問を解いてくれていた。ちょっと前に、地表をコンクリートで固めることでいったいどれだけの命が失われているのだろうか、ということを書いたことがあるが、まさにその答が書かれていたのだ。

「1平方メートルの地面の下に、何個体の生物がいるか、ご存じだろうか。約1億だという。東京の地面の下の生物を、人間がどれだけ殺したか、だれか計算してくれないかと思う。」

今の日本の人口は1億3000万人弱だろう。ほんの1平方メートル強の地表を覆うだけで、日本の全人口に匹敵するほどの数の命を我々は奪っていたのだ。この事実を知ってどう思うかは各人それぞれだと思う。しかし私にとってはこれは記憶に残る数字だったことをメモしておく。

突然に話は変わるが、私は幼いころ土を食べたことがある。飢饉があって食べるものに困ったというわけではなく、おままごとをしているときに何かのはずみで口に入ってしまったのだ。そして今でも鮮明に覚えているが、それが美味しかったのである。白くてさらさらした土だった。それからしばらくして祖父の家に遊びに行ったとき、私はそこの庭の土を食べてみたが、今度は非常に不味かった。後々思い返してみると、その土は日当たりの悪い場所の湿ったような黒い土だった。幼い私は、土にも美味しいのと不味いのがあるというのを学習し、それ以来食べるのをやめたのだが、あれはどういう違いだったのだろう。土の中には、鉱物やら細菌やらバクテリアやら…あと何かわからないが、とにかくいろんなものが含まれているのだろうと思う。最初に食べた美味しい土には、もしかしたら、そのとき私の身体が欲していた何かの成分が含まれていたのかもしれない。亜鉛とかカルシウムとか…。だから美味しいと感じたのかもしれない。そして次に食べた不味い土には、私の身体に有毒な何かが含まれていたのかも。

常々思っているのだが、この地球上で生まれた生命体は、この地球上でまかなえるものだけで生命を維持できるようにできているのではないかと思う。また、何かの毒が存在すれば、それを中和する薬もまた同時に存在するのではないかと思う。自然に滅びる種があれば新しい種もまた生まれているはずだ。(現に、新しい病原体は次々とできている。)何もかも収支はトントンになるようにできているような気がする。土の中の鉱物やら細菌やらバクテリアやらも、地球全体の収支のバランスを取るために、なくてはならないものなのではなかったのだろうか。どうもそんな気がしてならないのだが…。

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日本語で話してもらえませんか。

安倍新総理の所信表明演説を聞いたのだが、可もなく不可もなくという印象。何故なら、具体的な内容がないから。まぁ総理就任に当たっての所信表明なのだから、ひとつひとつの項目についての詳しい説明など最初から期待してはいないが、「小泉劇場」的なドラマもなく、淡々としていた。

特徴的だったのは、カタカナが多かったこと。そう思ったのは私だけではなかったようで、Yahoo! のニュースにも取り上げられていた。そもそも組閣のときにも思ったのだが「イノベーション担当相」て何だ? 「技術革新担当相」で何故いけない? 新聞での表記なども「イノベーション(技術革新)担当相」なんて具合になっている。字数のムダだ。だいたい日本語に訳せない言葉というわけでもないのに、日本の大臣の担当役職がカタカナっておかしくないか? 

次々出てくるカタカナ言葉。「アジア・ゲートウェイ構想」「人生のリスクに対するセーフティーネット」「新健康フロンティア戦略」……。「アジアの架け橋構想」「人生の危機に対する安全対策網」「新健康開拓戦略」と言って何故いけない? と、ここまで書いて理由が判った。日本語の漢字表記にするとあまりに仰々しいのだ。とても重大で大変な計画という印象がある。それを外来語カタカナにするだけで、日本人には判ったような判らないような曖昧模糊としたものに変容するのだ。それを狙ったのだとすれば、安倍新総理、なかなか卓越した言語感覚を持っている(笑)。

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書店に注文していた『手塚治虫 原画の秘密(手塚プロダクション編)』を買ってきた。原稿を描き上げるまでの悪戦苦闘の痕跡が示されている。また雑誌に掲載された後も、単行本収録時に手を加えたりと、最後の最後まで納得するまで描き直しが行われていることがわかる。プロだ。BJの目は最初はもっと大きかったことなどもわかっておもしろいし、14~15歳の頃に描いたという『昆虫標本画』だけでも一見の価値はある。

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美しい日本語

折口信夫の『死者の書』を、ゆっくりゆっくり読んでいる。解説の川村二郎はこの作品を「明治以降の日本近代小説の、最高の成果である」と評している。まだ全部読んでいないので、私が同じような感想を持つかどうかは未だ判らない。しかし、その文章の美しさは比類が無いと感じる。だから読むのに時間がかかる。いや、むしろ時間をかけて読みたいと思う。

折口信夫といえば、釈迢空の名で歌人としても名高い。だからこそ、流れるような文体と叙情的な描写には、研ぎ澄まされた言語感覚が発揮されている。一字一句ゆるがせにしない、もうここにはその言葉以外持って来ようがないと思われる、完璧な文章が綴られる。

帷帳(トバリ)がふはと、風を含んだ様に皺だむ。
ついと、凍る様な冷気━━。
郎女は目を瞑った。だが━━瞬間睫の間から映った細い白い指、まるで骨のやうな━━帷帳(トバリ)を掴んだ片手の白く光る指。

藤原南家の郎女を、古墳の闇から復活した大津皇子が訪う場面である。もう、ゾクゾクするしかない。同性愛者で女性嫌いの折口信夫が描く郎女が、気高く美しく完璧な女性であるのが不思議。

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『火の鳥』

不思議なもので、お盆が終わると涼風が立ち始める。気温は相変わらず34~35度をキープしているが、稲穂の波を渡る風には秋の気配がする。

朝のうちに替え花を持って墓参りを済ませる。お盆中休みのなかった夫が今