カテゴリー「宗教」の記事

コーラン焼却?

コーランの焼却集会の一件はその後どうなったのだろう。延期だ中止だ再考だと二転三転していたが……。

いかんでしょ、そんなことしたら。

理由は2つ。9.11を引き起こしたテロリストとイスラム教という宗教を短絡的に結びつけるのは間違っているということと、聖典を焼くという行為自体がテロ行為だということだ。とても聖職者の発想とは思えないのだが……。

発起人であるジョーンズ牧師は、もしもイスラム教徒によって聖書が焼かれたらどんな思いがするか、考えないのだろうか。報復の連鎖になるのでは? ゲーツ国防長官が「焼却は国際テロ組織アルカイダを利するだけ」と言っていたのはまさにそのことだったろう。

アフガニスタンではコーラン焼却に大規模抗議デモが起こり、NATO基地からの発砲でデモ隊の男性1人が死亡する事態にまで発展した。これが新たな火種とならなければよいがと憂う。

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チベットを思う

きょうも暇を見つけてチベット関連の情報を探したりして過ごした。北京オリンピック閉幕以降、とんと情報量が減ったように思う。マスコミも一時はあれだけ大騒ぎをしたのだから、自民党の総裁選なんて出来レースの予想なんか程々にして、継続的に報道すればよいのにと思う。それとも、未だに中国の報道規制が厳しいのか。弾圧された僧たちは今どうなっているのか。世界に発信されていないだけで悲惨なことになっているのではないかと気にかかる。

先日の9・11のときも思ったが、世界の紛争の原因はたいてい宗教だ。アメリカとアルカイダの戦いはキリスト教とイスラム原理主義との戦いだが、それがそのまま政治的なイデオロギーの違いとなっている。チベット問題の場合は共産主義の中国が基本的に宗教を認めないことから当然起こる問題だ。それとチベットの豊富な資源も欲しいのだろうが。しかしもしもチベットが仏教国でなくキリスト教国であったなら、中国も簡単にチベットに侵攻したりはしなかっただろうと思う。世界中のキリスト教国、すなわちほとんどの先進国が黙っていないからだ。とすれば、争いを好まない温厚な小さなアジアの仏教国だからこそ狙われたということになる。私は中国という国も決して嫌いではないのだが、この点だけはいただけない。

いつも、国家ってのはいったい何だろうという問題に突き当たるのだけれども、少なくとも宗教が違う民族が一つの国家を成すことは基本的に非常に難しいことだろうと思う。相互に理解がなくては成り立たない。インドでは、豚を食べないイスラム教徒と牛を食べないヒンズー教徒ではレストランの厨房さえ別々なのだそうだが、それくらい己の宗教を堅持しながら上手くやっている国もある。しかし宗教自体を認めない共産主義というのではどうしようもない。いや、形ばかりは認めるということになっているようだが。

宗教というのは個人の尊厳に関わるものだと思う。チベットでは仏の坐す天を汚さないために極力煙を出さないという。人が死んでもよほど高貴な人と伝染病で死んだ者を除いては火葬せず鳥葬にする。それくらい宗教思想(信仰)は徹底している。高度成長のためには大気汚染も厭わない現在の中国とは絶対に相容れないものであり、中国風の生活はチベット人にはとうてい認められないものなのではないかと思う。

今度のことでチベットの人達の“Free Tibet”の叫びは全世界に届いたと思う。あとは、それを聞いたわれわれがどう思い、どう行動していくか、だ。

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諸悪莫作 (しょあくまくさ)

『仏教が好き!』(河合隼雄、中沢新一共著)読了。二人の対談集である。タイトルのとっつきやすさに惹かれて買ったら、まぁ難しいのなんの!! 途中で2、3回投げ出しそうになったが、なんだか心惹かれるものがあって、判らないところはそのままにとにかく読了。とても感想を書けるほどではないので、「仏教は宗教ではなく「知恵」(「智慧」と記したいところだ)を説いた非宗教である」とだけ覚え書きをしておこう。

読み終えてたまたまテレビをつけたら、NHK教育で「こころの時代~宗教・人生~『道元のことば~正法眼蔵随聞記にきく~ 我執を離れる(3)』」なんてのをやっていた。NHK教育は時として非常に面白い番組をやっていて飽きない。その中に出てきた言葉。

むかし白居易が道林禅師(鳥巣禅師)に「仏法の大意とは何か」と問うた。答えは「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」――すなわち「諸々の悪事を成すことなく、率先して多くの善行をなせば、自ずからその心は浄らかになる。これが諸仏の教えである」と。白居易が「そんなことは三歳の子どもでも知っている」と言うと、「実行することは八十歳の翁でも難しい」と。

神仏が説く教えなんて、教えてもらわなくてもたいていの人間はちゃんとわかっているのだ。ただそれを実行するのが難しいだけ。仏教は、それを実行するために自分なりに智慧を持ちなさい、と言っているのだと思う。

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Free Tibet

チベット仏教と聞いて、私がまず最初に思い浮かべるのは「五体投地礼」である。頭、口元、胸の順に合掌してから全身を地面に投げ出す。これを数百㎞も延々と繰り返しながらポタラ宮までやってくるチベットの信者たち。1日に2千回の五体投地礼をして5㎞しか進めないと聞く。傍から見ればまるで尺取虫のような歩みだが、彼らにとってはその一歩一歩が仏に近づく功徳なのだろう。

そんな彼らの横を青海チベット鉄道の列車が通り過ぎていくという、私にとってはかなりショッキングな映像を、以前NHKの番組で観たことがある。2006年に全線開通したこの鉄道は「北京西~西安~ラサ」を48時間で結ぶ。チベットの観光産業は飛躍的に発展するだろうが、同時に中国からの物資も大量に入ってくるだろう。事実、番組で見た限りでは、ビジネスチャンスを掴もうとする多くの中国商人が乗っていた。また、そこに観光列車でなく軍用列車を走らせれば、軍事物資や人員を大量に送ることができるのだ。

現在、中国は憲法で信仰の自由を認めている。文化大革命の反省であるともいう。しかしその「自由」とは、「信者たちは定められた集会所で、当局が認定した宗教人員により、指定された範囲内の宗教活動をさせる」という「三定政策」によって規制されたものだ。事実、ラサ市内の指定場所以外で五体投地礼をして即逮捕された人もあるという。そんな不自由なことを「自由」とは言わない。

長年そういう状況の中で生活してきた現代中国の人達は、そもそも宗教というものがどういうものなのか判っていないのかもしれないと思ったりする。ダライ・ラマを観世音菩薩の化身と捉えることなどは彼らの想像を超えたもので、反政府勢力の筆頭としか見ることができないのかもしれない。それにはやはり中国が辿ってきた歴史と、そして多分に現中国政府の作為が感じられるのだが。幸せの形を共産主義に求めた国なのだから、そこに宗教は必要ないのかもしれない。しかし元々その地に根付いた宗教や信仰を無理矢理変えさせることはあまりに乱暴だし、国際世論の賛同も得られないだろう。

きょう、長野での聖火リレーにおいて善光寺がスタート地点となることを辞退した。「われわれはチベット人と同じ仏教徒との気持ちが強かった」と話す住職を心強く思う。

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宗教と道徳

『梅原猛の授業 宗教』と『梅原猛の授業 道徳』を読んだ。2001~2002年に著者が真言宗設立の中学校で行なった授業の内容を収めたものである。著者が最終的に述べようとしたのは「道徳」についてであるが、「宗教なくして道徳はない」というドストエフスキーの言葉を元に、まずは「宗教」が語られる。このへんのことについては、ココにサワリの部分が書いてあるので参照していただきたい。

この2冊の感想をまとめて書こうと思ったのだが、著者の考えに共感できるところもあればできないところもあり、しかしそれが具体的にどういう点なのかと問われればはっきりとは判らないという、何とももどかしい思いをここ数日している。書評等はネット上でも山ほど見出されるので、ここでは本そのものの感想ではなく、読みながら頭をよぎった様々な思いや疑問等々を書き出してみることにする。

そもそも「道徳」とは何ぞや? と考え出すと、これがまず良く判らない。試しに「道徳」という言葉を英訳してみる。「行動の正しさ」“morality”、「行いの規準」“morals”と出る。どうやら「行動」がキーワードらしい。ちなみに「道徳的」は“moral”、「徳のある」は“virtuous”である。私が「道徳」という言葉に抱いている印象もそういうものだった。いわゆる「礼節ある行動」とか「行儀作法」とかの、対人関係において必要になるものが「道徳」なんじゃないのかと。しかしこれは考えてみれば、孔子の説いた儒教に基くもののように思う。江戸時代の武家社会に採用された行動規範のイメージが、戦前までの「修身」を経てそのまま現代まで受け継がれているような気がする。しかしこの本によれば、儒教もまた宗教なのである。

宗教色を一切排除された教育を受けてきた我々は、宗教と言えば妄信的な信仰として忌避すべきものというイメージを植えつけられているが、そもそも宗教の根幹をなす部分は宗教哲学に分類される哲学の一形態だ。他の宗教については知らないが、少なくとも仏教はそうだ。ブッダは、人生如何に生きるべきかを生涯考え、実行し、説き続けた実践的哲学者である。彼のことを有り難がって拝んだ町の人に、私を拝んだって何にもならないよと言った(と伝えられる)くらい、何かに縋るのではなく自分で考え実行することが大事だと説いた、哲学者なのである。

してみると、後世において似姿(仏像等)が製作されてそれを拝むとか、様々な奇蹟が伝説となって伝えられる等々、超人的存在として崇められるようなことが無ければ、ブッダもソクラテスとかカント達と同じように生身の一哲学者として教科書に載っただろうと思う。ちょっと話が逸れるが、そうして見てきた場合、今の日本の仏教はブッダの説いた仏教哲学とは全然違うものだ。念仏やお題目を唱えれば極楽浄土へ行かれるなどとは、ブッダは一切言っていない。そもそも、あの世について語っていない。それなのに、仏教哲学を離れて、信仰心のみが大きくクローズアップされたのが現代の日本仏教だ。その中で、自ら考え自らを灯明とせよとする実践部分でブッダの教えを受け継いでいるのが、禅宗系の宗派だと言えるのではないかと思う。

「宗教なくして道徳はない」という言葉を考えてみる。前述したように、宗教は元来哲学であるということになると、「哲学なくして道徳はない」と言えるのではないかということになる。しかし多分それは成り立たない。道徳が哲学の範疇ならば、それを覆す新しい哲学が出現すれば道徳もまた変わる可能性がある。道徳とはそう簡単に変わってよいはずのものではなかろう。とすれば、そこには、神なり仏なりの超人的存在が必要なのだと思う。言葉は悪いが、もう有無をも言わせず「つべこべ言うな。こうなのだ」と言える存在が。そしてそれは宗教にしか存在しない。

例えば「人はなぜ殺してはいけないのか」を、宗教抜きに説明できるだろうか? 宗教ならば「神または仏がそう言っているから」の一言で説明できる。これにあれこれと疑問を差し挟む余地はない。宗教とはそういうものだ。しかし宗教抜きでは……説明するのは難しかろう。今の日本の教育ではとにかく宗教色を排除する。ラジオで聞いた話だが、学校で食事の前に「いただきます」を言わせないようにしてくれと親がクレームをつけたという。何故なら、そんなことは宗教がかっている、と。図らずも、この親の姿に、宗教がないことが道徳の欠如に繋がる端的な例を見ることができるが、今の学校はそれに対抗する手段すら無い。ちょうど今日のニュースで、道徳教育に力を入れる旨の教育改革が紹介されていたが、宗教を用いずに道徳教育ができるのか、私は甚だ疑問に思う。

…………少しは、本の内容も書いておかなくてはナ(笑)。著者が言う道徳の重点項目は次のようなものだ。

【してはいけないこと】
・殺してはいけない
・嘘をついてはいけない
・盗みをしてはいけない

【人生をよりよく生きるためにすべきこと】
・努力と創造
・愛と信
・感謝と哀れみ

いわゆる「戒律」である禁止事項は明確に示してあり、やったほうがよいことは広く幅を持たせた書き方がしてある。著者が考える道徳が、最初に書いた「行動の正しさ」“morality”というだけではなく、人生をどうよりよく生きるかを考え実行するものだと判る内容である。

最後に一言。世界史上、大概の戦争には宗教が係わっている。「宗教がなければ文明もない」というドストエフスキーの説から言えば、ひとつの文明が別の文明を滅ぼすことも宗教戦争と言えなくはない。たいていの宗教は「殺すなかれ」と説いているのに、戦争が起こるのは何故だ? 人間が宗教の運用方法を間違えているのだというのが私の持論だが、いつまでたっても宗教を巡る戦争が無くならない、人間は正しく宗教を運用できないという現実は、つくづく哀しいことだと思う。

以上、途中の文章をごっそり削除したりして、論旨がまとまらないままだが、一応読了したメモとしてアップしておく。折に触れ、読み返したい本である。

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Bさんの言葉

夕方外出から帰ってきたら、家の前に男の人が2人待っていた。先日も一度訪ねてこられたのだが、末日聖徒イエス・キリスト教会(通称・モルモン教会)の宣教師さんである。1人は日本人、もう1人は外人さん。どうやら夫と話がしたかったようだが、不在の旨を告げるとそのまま帰られた。夫にはモルモンの知人がいるので、その人からの紹介か何かがあったのかもしれない。

私の友人にも大学時代にモルモン教に入信した女性が2人いる。その頃出会った外人宣教師さんが素敵だったというのが正直な理由だったらしいAさんはすぐに信仰心も薄れたようだが、もう1人のBさんはその後日本国内を活動して巡り、同じモルモン教の男性と結婚した。

大学卒業間際のことだったと思う。卒論の口頭試問も終わりやれやれといった気分で、その2人も含めて友人数人と喫茶店でダベっていた。そのときどういう話の流れでそうなったのかは忘れたが、Bさんが「人は、禁じられていなければ、人を殺すよ」と言ったのが未だに忘れられない。そのとき自分がどう思ったのか、何か言ったかどうかは忘れたが、彼女の言葉に違和感を覚えたからこそ未だに忘れないのだと思う。彼女はその時既にモルモン教徒になっていたから、神イエス・キリストが殺人はいけないと戒めている限り自分は人を殺すことはないと言いたかったのかもしれず、私を含めてちゃらんぽらんな友人達に、もうちょっと真剣に生きろと言いたかったのかもしれない。そこのところは確かめていないのでわからないし、今でも彼女がそう思っているかどうかもわからない。が、彼女の言った言葉だけは折に触れ、また唐突に頭を過ぎることがある。

違和感の正体はだいたいわかっている。「誰」が禁じているのか、という主語が、たぶん彼女と私で見解が異なっているだけだ。彼女の場合は「神」であり、私の場合は「私」だ。私が私に殺人を禁じている限り、私は殺人を犯すことはない。しかし何かの理由でその「私」というセーフティガードが外れそうになったとき、自分より高みにある「神」が抑止力になるのかもしれないとも思う。そういう点で、無宗教を自認する人の多い日本人は、アブナイのかもしれないと思ったりする。

(注:モルモンの宣教師さんが来られたということからBさんを思い出し、さらに彼女の言葉を思い出したので上記のような文章を書きました。モルモンの教えとは一切関係ありませんし、私自身はあらゆる信仰に対してどんな偏見も持っていないことをお断りしておきます。)

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お地蔵さまが見てござる

近頃の「いじめ」問題の報道を見ていて思う。学校がいじめの存在を認めるかどうかというレベルでワイワイやっているだけで、その先がまったく見えない。まあ、私がほとんどテレビを見ていないから耳にしないというだけなのかもしれないのだが。

どうしてこういう時に宗教家が黙っているのかと思う。先日文化勲章を受けた瀬戸内寂聴さんだけはテレビでコメントしているのを見たが、そのほかの人たちは何をしているのだろう。「いじめ」は心の問題だ。心の問題なら宗教の出番だろうに。今の学校では心のあり方までは教えてくれないようだ。私は、幼少の頃は少々強引にでも型にはめてよいと考えているのだが、個性を尊重する時代においてはそれは違うらしい。しかしそのやり方で認められた子供達がのびのびとやっているかというと、そうでもないようで、弱い者を作り上げて「いじめ」を繰り返す。心が育っていないのだ。心の伴わない個性もないもんだ。

心を形成するには、何か絶対的なものの存在が必要だと思う。キリスト教圏においては、それは神イエス・キリストだろう。子供達には学校以外に教会という心を育む場所がある。日本にはそれがない。昔はあったのだ。家にはお年寄りがいたし、神棚がありお仏壇があった。朝日に向かって拍手を打つお爺ちゃん。ご飯を炊くと一番に神棚とお仏壇に供えるお婆ちゃん。家にいながらにして、自分よりはるかに大きな何物かに触れ、自分の行動を軌道修正できる機会があったのだ。今はそれがない。お盆に、自分をここにあらしめてくれたご先祖を偲ぶ気持ちを持っている人などはたして何人いるだろう。旅行に行く日と思っている人のほうがはるかに多いことだろう。

自分がここにあること。他人がここにあること。その意味を語ってくれる宗教家が今こそ必要だ。あるお寺の門に「お地蔵さまが見てござる」という言葉が掲げてあったのを見て、歩き歩きそう思った。

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あれこれ

ローマ法王ベネディクト16世の発言がイスラム教徒の間に物議を醸したそうだが、私にはそもそもイスラム教とキリスト教の根本的な違いがよくわからない(汗)。同じユダヤ教から出た兄弟のような宗教で、イエス・キリストを預言者と見るか救世主と見るかの違いがあるということくらいしか判らない。(ちなみにイエス自身は最後までユダヤ教徒であった。)どうしてそんなにいがみ合うのか、そのあたりの歴史的事情もよくわからない。しかし、それぞれの敬虔な信者であればあるほど、自分の信ずるものを絶対だと思い、他人が他のものを信ずることを認められない許せないというのなら、それは悲しいことだと思う。

ひるがえって、テロを考えてみる。彼らにはその世界しかない。それ以外の平和な世界があることを知らないかもしれない。幼いときから学校にも通えず、武器を持って「聖戦」の名の下に戦うことしか教えられていないのかもしれない。その「聖戦」が純粋な信仰心ではなく、今や政治的なイデオロギーに変換されていることにも気付く余地がないのかもしれない。そして、そのテロを許さないために「正義の戦い」と称して戦争を起こすこともまた、テロと同じく余裕がない。一方的な見方しかできない者同士がいくら争っても、それは延々と続くだけで何も解決などできない。

教育は大事だ。子供達に、広い見地に立って多方面から物事を見ることを教えることは大切なことだと思う。その上で、お互いの異なる主義や信念を尊重できるようになればよいと願う。宗教とは平和をもたらすもので、決して戦いを生むのが目的のものではないと信じるから。

昨日、元オウム真理教の教祖の死刑が確定したが、今現在も信者でいる多くの人々ももっと広い目で他の宗教思想にも触れてみてほしいと思う。

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新興宗教

新しく宗教が興ったとき、人はどういう心境でその教団に入るのだろう。それに出会ったという偶然が、その人にとっては出会うべくして出会ったという必然に思えるのだろうか。

日本人はそのほとんどが仏教徒ということになっていて、その他神道やキリスト教等の信者が数%いる(と思う)。仏教徒が多い理由は、江戸時代に仏教寺院が戸籍ともいうべき「宗門人別帳」を作成してキリスト教徒でないことを証明したという歴史的事実があるからだ。日本人全てがどこかの寺の檀家になっていたわけだ。明治以降には仏教に代わって国家神道が強制され、氏子制度ができる(ちなみに天皇家が神道になったのもこの時期で、それまでは天台宗であった)。そして現代は個人の信教の自由が憲法で保証されているわけで、初詣には神社に参り、お彼岸やお盆にはお寺に参り、クリスマスには教会へ行き、そして毎日「お布施するぞ」と修行するのも、教祖様が決めた相手とその日初めて会って結婚することも自由である。

信教は個人の自由なのだから、その人がそれで幸せになれるのならば、それでよい。ただ不思議なのは、それだけ長い間仏教だの神道だのに触れてきたはずの日本人が、どうしてそれらを捨てて新興宗教に走るのかということだ。最近問題になった「摂理」などは他のサークルを騙って勧誘していたというから論外だが、旧オ○ムとか統一○会などは自らの意思で入った人も多かっただろう。入信するときに既存の宗教と比べたりはしないのだろうか。比較した上で、これは素晴らしいということになったのだろうか。

人が何かの宗教を信じようとするとき、人は何を期待するのだろう? おそらく、昨日までの自分とは違う、素晴らしい自分になれると期待するのではないかと思う。あるいは、何か新しい力が自分に備わると期待するのではなかろうか。しかし、冷静に考えてみれば、そんなことはあるはずがない。

私の好きな禅の話に「サトリ」という妖獣の話がある。ある日、木こりが山で木を伐っていた。そこに「サトリ」がやってくる。木こりは何とかして「サトリ」を捕まえようとするのだが、「サトリ」は人の心が読めるので、「今、オレを捕まえようと思っただろう」とか「今、斧で斬りかかろうとしただろう」などと言い当ててしまう。どうしようもなくなった木こりは、もう「サトリ」のことなど忘れて一心に木を伐った。そのうちに斧が緩んで、振り上げた拍子に先っぽが飛んで行き「サトリ」に命中した、というあらすじである。これは、無心になることで初めて悟りを開くことができるという意味だろう。だから、何かの宗教を信じるときも、現世で与えられる何らかの利益を期待して、というのではダメなのだと思う。本物の信心ではない。またもしもそういうことを標榜している新興宗教があるならば、それだけでその宗教は偽物だと私は判断する。答は常に自分の中にある。無心になって自分でそれを見つけるしかない。ある宗教に入信することがきっかけとなってそれを見つけられるならそれはそれでよいのかもしれないが、教団に入ったから教団が答を教えてくれるわけでは決してない。

それにしても、こういう新興宗教絡みの問題が次から次へと起こるというのは、やはり日本人に宗教観が欠如しているからなのだろうとつくづく思う。

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